夢七雑録

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33.一関から石巻へ

2008-09-23 10:44:52 | 巡見使の旅
(135)享保2年8月13日(1717年9月17日)、晴。
 一関では、伊達武蔵の古舘、薬師堂、八幡宮ありと記す。一関からは奥州街道をたどり、大高丸(大武丸)を埋めたという鬼死骸に出る。ここに小岩伊賀の古舘二か所ありと記す。そのさき、有壁摂津守古館のある有壁を通り、末野を経て金成に出て泊まる。この日の行程は四里余。金成には金成内膳の古館ありとし、また、山王権現、愛宕権現ありと記す。

(136)同年8月14日、晴。
 金成からは脇道となり、小迫で観音堂を参詣。宝物を拝観し、田村丸の大高丸退治の伝承を聞く。その先、岩崎を通り平形に出て、古跡の江浦草(つくも)橋、藤原泰衡の石塔、つくも清水を見る。また、一迫八幡に貞任追討宿願の八幡宮ありと聞く。この先、沢辺の八幡宮、梨崎の義経腰掛石、姉歯の姉歯松を見る。亀割坂を越え、鷹羽清水を見、熊川と薯瀬川(芋埣川?)を大橋で渡り、鬼首の方向に八ケ森山を眺め、宮野を経て留場で一迫川を大橋で渡り、奥州街道の宿場、築館で休憩する。このあと、奥州街道と別れ、伊豆権現のある八樟を通り、梅嶋を経て若柳に出て泊まる。八里余の行程であった。

 この日、見聞きした城址・古舘は、大原木の鈴木三河守城跡、沢辺の水戸寺五左衛門古館、梨崎の二階堂治部少輔古館、姉歯の姉歯右馬之丞と姉歯平治の平山城跡、二迫富の富左馬之丞古館、下宮野の宮野太兵衛古館、宮野の茶臼舘、築館の大場宮内古館である。
(注)二階堂治部少輔は、この時の巡見使の一人、高城孫四郎の先祖という。

(137)同年8月15日、晴。
 若柳を出立。愛宕大権現ありと記す。そのさき、北方を経て佐沼で休憩。佐沼川を大橋で渡り、加賀野(石森)、黒沼、新井田、寺池、登米と辿る。北上川を提供された船で渡り、日根牛、黄牛を経て柳津で泊まる。九里弱の行程であった。この日、見聞きした古舘は、寺池の古舘、日根牛の古舘、黄牛の阿部壱岐守古館、柳津の千葉太郎左衛門の古舘である。また、石森の笠原内記の陣屋、佐沼の津田民部の陣屋、登米の伊達安芸守居城も記す。

(138)同年8月16日、嵐。
 嵐のため、柳津に逗留。

(139)同年8月17日、晴。
 この日は、諏訪明神、虚空蔵堂のある柳津から、樫崎、成田、太田、相野谷、飯(飯野川?)、小船越を通り、北上川を提供された船で渡り、辻堂で休憩している。ところで、現在の北上川は、柳津付近で旧北上川を分け、本流は南に流れて飯野川に至り、ここから追波川を北上川本流として追波湾に注いでいる。しかし、江戸時代は柳津から飯野川に至る水路は無かった。当時の北上川の流路は、旧北上川の川筋をたどり、迫川と江合川を合流して東流し、追波湾に注ぐ追波川を鹿又で分け、南流して石巻湾に注いでいた。現在、柳津から飯野川に出る道は北上川沿いの道であるが、当時は柳津から山越えをしていたのである。休憩のあと、一行は大森、北境、南境を経て、北上川を提供された船で渡り、石巻に出る。途中の南境では北条時政の石塔を見ており、また湊に田村丸建立の観音堂ありと記す。この日の行程は六里半、石巻に泊まる。

 この日、見聞きした古城・古舘は、樫崎の取組舘と金わき館、太田の安倍貞任の古舘、相野谷の葛西流西重俊の古舘、葛西久三郎の屋敷、小船越の中村七郎古館、大森の男沢筑後の古舘、大爪の古舘である。

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32.気仙沼から一関へ

2008-09-19 21:37:06 | 巡見使の旅
 江戸幕府が奥州方面に派遣した巡見使の旅を、連載形式で投稿しておりますが、その旅も宮城県に入りました。その後、また岩手県に戻りますが、一関を経て再び宮城県に入り、石巻、仙台を経て、福島県へと向かいます。

(131)享保2年8月9日(1717年9月13日)、半晴。
 気仙沼では、うなり穴を見物。太田山、青野木山などを眺めつつ、赤岩から松崎に出る。海中に大島村ありとし、亀山の権現社について記す。岩月、最知、長磯、岩尻、大谷を経て津谷[本吉町]で休憩。御在所山と薬師堂、御岳山と蔵王権現などを記す。ここから、海沿いの道を離れ、山田、馬籠を経て狼河原[東和町米川]で泊まる。行程は十里である。

 この日は多くの古舘、城址を見聞きしている。気仙沼では熊谷図書の細浦舘と熊谷長門の新城館、松崎では熊谷左近将監の八幡舘と相見兵庫屋敷、岩月では熊谷式部の八幡舘、最知では阿部太郎左衛門の猿喰館と中舘、岩尻では米倉玄蕃の森舘、津谷では米倉八左衛門の館、山田では山田対馬の八幡舘と芳賀薩摩の要谷舘、馬籠では千葉宮内左衛門の館、狼河原では米谷修理の鳩岡舘である。

(132)同年8月10日、晴。
 狼河原を出立。郡境の七曲峠を越え、藤澤で休憩。奥村隼人の居城ありとし、また岩淵近江守城跡と記す。藤澤からは千厩に出て泊まる。途中に古舘ありと記す。また、千厩に昆野右馬頭の古館、黄海に千葉近江の古舘ありと記す。この日の行程は五里余である。

(133)同年8月11日、雨天、暮れより雷雨。
 千厩から濁沼に出る。柴下総守古館ありと記す。綱木坂を越えると寺沢。小峠を越えると仏坂。そして枯木坂を越えた松川で休憩。長坂から、なら坂を越えると相川。小屋舘という古舘ありと記す。とうかく峠を越えると小嶋。小嶋三右衛門の平山城跡ありと記す。そのさき長部に出て、北上川を船で渡る。柳御所跡、無量光院跡、衣関跡、弁慶堂などを見物して、中尊寺に泊まる。この日の行程は五里半であった。

(134)同年8月12日、晴。
 中尊寺を参詣。光堂をはじめ境内の堂宇を見て回り、数々の宝物を拝観する。そのあと平泉に出て毛越寺を訪ね、達谷に出て休憩。ここで達谷窟を見る。達谷の内に阿久根日向守の古館、平泉の内に秀衡伯父の城跡ありと記す。達谷から小野寺修理の館跡のある中里、山の目を経て、田村下総守の城下、一関に出て泊まる。この日の行程は五里半。田村下総守が、旅宿へ御見舞のため訪れている。

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31.盛岡から気仙沼へ

2008-09-14 08:24:21 | 巡見使の旅
(124)享保2年8月2日(1717年9月6日)、昼まで大雨、晩方晴。
 盛岡の町出口で、十七艘の舟を並べた舟橋で北上川を渡る。舟橋は延宝8年(1680)に完成したものの翌年流失。その後、一旦は土橋に架け替えられたが、享保2年以前に、その土橋も流失して舟橋に架け替えられたのであろう。盛岡を出た一行は郡山に向かう。ここでは、十一面観音を本尊とする観音堂を参詣している。別当は高水寺。寺は称徳天皇の勅願寺で、八幡太郎義家が安部宗任貞任を攻めた時の陣場であった。また、近くに古館があり、城主は志和殿(斯波氏)、南部信濃守などと記している。郡山で休憩後、北上川を藩提供の舟で渡り、佐比内を経て大迫に出て泊まる。行程は七里半である。

(125)同年8月3日、半晴。
 もともとの巡見使経路は、大迫から遠野に向かっていたが、遠野が巡視対象地から外れたため、大迫から花巻に向かうようになった。享保の巡見使も、これを踏襲して花巻に向かっている。稗貫川を渡った先で、愛宕神社を参詣し、諏訪前(外川目)で、岩鼻の不動明王宮、懸け造りの観音堂を見る。三つ境(水境)から、なめり峠(滑峠)を越えて、土沢で休憩。小山田の不動堂を参詣後、江刺舎人古館のある矢沢に出て、北上川を舟で渡る。花巻に北松斎の古館あり、今は藩主休所と記す。行程七里余、花巻で泊まる。

(126)同年8月4日、晴。
 花巻から奥州街道を通り、といさ川(豊沢川?)を渡って、二子を経て黒沢尻に出る。左に国見山の観音、右に駒ケ嶺を見る。和川(和賀川)を舟で渡り、男山を見つつ鬼柳に出て休憩。南部藩番所を通り、古館のある相去で仙台藩番所を過ぎる。古館のある金ガ崎で馬継(馬と人足の交代)となり、胆沢から水沢に出て泊まる。行程は八里である。

(127)同年8月5日、晴。
 下河原から、仙台藩提供の舟で北上川を渡り、高寺に出る。左手には尻掛森、明神山が見えている。岩屋戸(岩谷堂)では毘沙門天の宮を参詣。鈴木三郎重家の笈があったという。また、岩屋戸には伊達左兵衛の屋敷があったと記す。このあと、持田(餅田)を通り左手に万正寺山を見ながら横瀬に出て休憩。ここから左に銚子森、永倉山、右に前田山、国島山を見ながら、伊手に向かう。ここに古館二ヶ所ありと記す。この日の行程は四里半余、伊手で泊まる。なお、巡見使経路からは外れていたが、巡見使は正法寺と黒石寺についても話を聞き、覚書に書き留めている。

(128)同年8月6日、半晴。
 伊手を出立。藤田左兵衛の古館ありと記す。種山の麓、七曲の難所を上り、江刺気仙郡境を越える。前方に愛染ガ岳、五葉山が見えてくる。子飼沢、大又川を通り、大又(大股)で泊まる。五里弱の行程であった。

(129)同年8月7日、晴。
 大又を出立。明神のある石助山峠を越え、瀬田米に出る。途中に古館あり、また瀬田米にも浅沼氏の古館二ヶ所ありと記す。田畑を過ぎ横田で休憩。横田に砂鉄山があり、堀主は茂兵衛と勘兵衛と記し、又木沢と竹駒にも砂鉄山があり、堀主は須兵衛と記す。また、横田に紺野(昆野)大学の三日市館、 矢剥(矢作)に矢剥玄蕃の山鳥かい館、竹駒に佐々木安慶の本宿館ありと記す。この日の行程は七里弱、今泉〔陸前高田〕に泊まる。

【参考】江戸時代の公用道中の場合、先触の者が先々の宿場に先行して各種手配を行ったが、巡見使の場合も同様で、先触の者が宿場に先行し巡見使を迎えるにあたっての注意事項を伝えていたようである。延享3年に巡見使が横田で昼食休憩した時の記録によると、巡見使使用人からの御定目として、「料理がましきことは不要。酒は宿に入れるな」などが示されたという。また、4ヶ月前に巡見使の使用人が来て、治安の維持と過分の接待無用と伝え、昼食は茶漬けに焼味噌、奈良漬、ごま塩のほかは不要と申し渡したという(「陸前高田市史・沿革編上」)。ただ、受け入れ側ではこれを額面通りに受け取るべきか迷ったのではなかろうか。ちなみに宝暦11年の巡見使を横田に迎える際に用意した食材は酢、醤油、酒、肴のほか、き瓜、夕顔、なんばん、から取、ささげ、夏な、いそのきう、な須、卵、鮎、とう婦であったという。なお、食事代金は無料ではなく、相場で支払われていた。

(130)同年8月8日。
 今泉を出立。鷹待ちの山を見る。今野助九郎古館のある長部を通り、郡境にあたる松の坂を越える。濱田村に千葉安房守の古舘・米ケ崎館ありと聞く。また、千葉藤左衛門が籠城した八幡舘が東南にありと記す。ここからは右手に青野沢、不動山、左手に小河原の愛宕権現の森、みさけ島も見える。綱木坂を越え鹿下(鹿折)に出る。ここに、鹿下石見の白鳥館、千葉蔵人の松ノ舘、鹿下信濃の忍館ありと記す。鹿折からは海辺となるが、ここに塩竃ありと記す。この日の宿泊は気仙沼。四里四丁の行程であった。
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30.花輪から盛岡へ

2008-09-06 21:36:08 | 巡見使の旅
 江戸幕府が奥州方面に派遣した巡見使の旅を、連載形式で投稿しておりますが、このさき岩手県に入ります。このあと、巡見使一行は、盛岡、花巻、水沢を通り、今泉[陸前高田]から、宮城県の気仙沼に向います。

(120)享保2年7月27日(1717年9月2日)、晴。
 花輪を出立。小豆沢の大日堂を参詣する。たふり(だんぶり)長者の持仏を本尊とする寺であり、神木の杉があったと記している。その先、一の渡橋を渡り、さらに天狗橋で米代川を渡る。川が深いため杭を立てられず、新光院地内から伐採した十三間の杉を渡し、横板の欄干を設けた橋という。この日の休憩地は湯瀬。冷湯で湯坪は二ヶ所、湯守は孫作、脇に湯滝ありと記す。その先、姉旗(兄畑)で立市橋を渡り、永坂(長坂)を通り、織壁橋を渡って、田山で泊まる。行程は六里である。

【参考】巡見使一行にとって、山間部での食事は口に合わなかったらしい。天明の巡見使に随行した古川古松軒によれば、御馳走として出された料理も、各々蓋を取らない日が続いていたという。また、焼味噌に茶漬けを好んでいたものの、それも自由にならなかったという。今なら郷土料理として喜ばれるものであっても、当時は食べ慣れないものとして敬遠されたのかも知れない。では、巡見使の口に合うものを他から持ち込んだらどうなるか。宝暦の巡見使一行が会津の山間部に泊まった時、会津若松から早馬で運んだ塩漬けの鯛を出したところ、巡見使が箸をつけないという事があった。実は、巡見使の心得の中に、その土地に無いものを他から運んで供してはならない、という一項があったのである。

(121)同年7月28日、曇。暁方雨降。
 田山からコヒト(越戸)坂、梨木坂を越え、曲田から荒屋に出る。その先、中佐井で休憩。土沢、馬場を経て、アツヒ川(安比川)を滝橋で渡り浄法寺に出る。村の西に浄法寺修理の古館ありと記す。宿泊地の記載は無いが、浄法寺とすれば五里半の行程である。

(122)同年7月29日、曇。
 この日は小山(御山)に出て、聖武天皇勅願寺の天台寺を参詣する。桂の下から湧く清水から桂清水村の名が付いたと記す。ここから一行は、かなくそ(金葛?)を経て、をとも(小友)川を渡り、あり坂、大多の台を経て小繋に出ている。なお、小繋近くに巡見使道と呼ばれる道が今も残っているようである。小繋で休憩し地蔵堂を参詣。ここからは奥州街道を行き、御堂の観音堂を参詣したあと、沼宮内で泊まる。行程は八里半である。
(注)御山の天台寺は瀬戸内寂聴が住職を務めていたことでも知られている。

(123)同年8月1日、雨天。
 沼宮内を出立。途中、柳のような枝垂れ松を見る。槙堀(巻堀)で金まら大明神に立ち寄る。その先、芋田から岩鷲山(岩手山)が見えてくる。渋民で休憩したあと、千本松のある松永坂を越える。植田(上田)では、くりや川の古館の森を遠望している。この日の行程は九里余、南部大膳大亮の城下、盛岡に泊まる。

【参考】天明の巡見使は9月10日に沼宮内から盛岡に向っているが、それより2カ月も前の7月1日、紀行家・民族学者の菅江真澄はこの辺りを通りかかり、巡見使を迎えるために駆り出された荒夫達が額に印を付けられて、石堀、草刈、木こり、枝うちをし、路造りをしている有様を見ている(菅江真澄全集1「いわてのやま」)。幕府は道・橋は通行できれば良いとしたが、藩では道筋の整備を巡見使を迎える際の役務と捉えていたのである。

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29.三戸から花輪へ

2008-09-02 19:50:11 | 巡見使の旅
 江戸幕府が奥州方面に派遣した巡見使の旅を、連載形式で投稿しておりますが、ここからは、秋田県の鹿角地方へと向かいます。なお、江戸時代の鹿角は盛岡藩領でした。

(117)享保2年7月24日(1717年8月30日)。
 三戸を出立。この日は奥州街道から分かれ、鹿角への道をたどる。一行は田子川を渡り、とい川(豊川?)、とない(斗内)を経て田子で休憩。ここに信濃守俊直の古館ありと記す。この日の行程は六里弱。関に泊まる。

【参考】天明の巡見使の一人が灸をすえるため線香を頼んだところ、だいぶ待たされた揚句に僧侶が来たという笑い話が「東遊雑記」に掲載されている。この辺では、死者がでた時にのみ線香を使うという慣習の違いがあったわけだが、江戸時代の長旅では、途中で死亡者が出る可能性がある事も示唆している。事実、天保9年(1838)の巡見使の一人、中根伝七郎は三戸で病に倒れ、盛岡に直行する途中で死去し、盛岡に埋葬されている。

(118)同年7月25日。
 関からハヌキ峠、平ノ坂の難所を上る。途中、大深沢、小深沢を見る。また、下ハゲ峠山について大和大峯に続く山と聞く。来満山に入ると両側の木が枝を伸ばして頭上を覆い昼なお暗い道となる。宝暦の巡見随行者の日記には、湿地で蛇が多く生息しているため、巡見の二三日前に駆除していたと書かれている。この日の休憩地は山中坂を下ったところの山中。仮小屋の休所があったという。休憩後、尻くひ坂、麻つなき坂、大登坂、石名坂と難所を過ぎ、大芝(大柴)峠、小芝(小柴)峠を越える。覚書には是より銅山みゆると書かれているので、途中、駕籠を止めて尾去沢方面を眺めたのであろう。この先、茶屋場を設けた大明神を過ぎれば、大湯への下りとなる。この日の行程は五里。大湯に泊まる。出湯は四箇所あり、湯主は助兵衛と左伝治と記す。また、古館跡見ゆると記す。

【参考】天保九年の巡見に際して、道路普請などに徴発された総延人数は一万千五百六十六人に達したという。また、大湯の宿割人数からすると、巡見使一行のほかに、盛岡藩の役人と下役66人、医師と付添15人、持送方(長持、箪笥、荷物)18人、徒目付と同心20人、湯道具7、手水盥2、野雪隠1、衣服師2・衣服手伝洗物兼帯7、長持1、駕籠6挺に六尺39人、 先払同心12人、宿前番人18人、巡見使が雇った鑓持・挟箱持・合羽籠持46人、料理・給仕12人、作事奉行と棟梁8人。これに地元の先立古人を加えると400人近くが通行したことになる(安村二郎「(続)幕府巡見使」広報かづの)。

(119)同年7月26日、晴。
 大湯を出立。下濱田の右方に、今は櫻場壱助蔵屋敷になっている毛馬内の城ありと記す。その先、古川では錦木塚を見る。ここで、錦木を売る男と細布を織る姫の物語を聞く。また、巡見使各々に細布一反が献上されたため、代金として一分宛支払っている。古川を出て、八つの古館が存在する、かぶにた(冠田?)を通り、新田(神田?)に出て、米白川(米代川)を船で渡り、紀国坂を越えて松山で休憩する。松山からは山道となり、あま木沢(尼切沢)に出る。是より右方に秋田領南部領境山みゆる、と記されているので、駕籠を止めて遠望したのであろう。このあと、十文字長根を経て尾去沢に下り、金山銅山の見分を行う。この日の行程は六里半、花輪に泊まる。

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