夢七雑録

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谷端川(千川上水長崎村分水)跡を歩くー2ー

2018-05-27 13:00:20 | 千川上水

椎名町駅を北に出て右へ、山手通りの下を潜って左へ、次の角を右に行くと谷端川の宮下橋跡に出る。谷端川は暗渠化され、その上は緑道になっている。右手は線路で行き止まりになるので左側に行くと谷端川緑道散歩マップがあり、これに従って谷端川南緑道を歩く。

小字の地名を付けた並木橋を過ぎる。次の橋は近くの神社の名を付けた羽黒橋だが、立教の裏手の道が道幅拡張されて西池袋通りとなり、辺りの風景はすっかり変わってしまった。ただ、緑道だけは以前の姿を残している。

西池袋通りを渡り、八幡橋を過ぎて先に行くと立教通りに出る。この道は池袋村絵図にも描かれた江戸時代からの道である。この橋は下田橋と呼ばれていたようだが、後に霜田橋と改称されている。明治の地図を見ると、霜田橋から中上橋の間に橋は記されていないので、この先の中上橋までの橋は、大正時代以降に架けられた橋と思われる。

立教通りを渡って緑道に入ると、すぐ右手に谷端川第二親水公園がある。谷端川緑道には2か所に親水公園が設けられていて、休憩ポイントになっている。

地名に由来する呼称の丸山橋を過ぎると藤棚がある。その先で、散歩マップに西口バス通りと記された通りに出る。ここに架かる橋の名は長崎橋で、通りを右へ行けば祥雲寺坂、左に行けば要町通りに続く。なお、大正14年の地図には、この通りも橋も記されていない。

通りを渡って緑道に入ると右側に谷端川親水公園がある。この辺り、谷端川の水を引き込んで野菜の洗い場にしていたという。

先に進むと日之出橋があり、さらに北荒井橋と東橋が続く。大正時代の終わりに、谷端川の上流をショートカットする分水路が谷端川本流に合流する直線的な水路として整備された際に、これらの橋も架けられたと思われる。谷端川は右に曲がり山手通りからは離れていく。

東橋の次は地名に由来する高松橋に出る。その次は村の境に位置する境橋で、ここからは谷端川が板橋区と豊島区の区境となる。西側の板橋区側にはひかりが丘、みどりが丘というアトリエ村があったという。次の橋は上の橋で、高松小付近を水源とし、わきみず通りと呼ぶ細い道を下り、庚申塔の祠の横を通ってきた流れが、この橋の近くで谷端川に合流していた。

上の橋の次は中上橋になる。近くの西光院の橋供養碑には中丸村の上下両橋を延享2年に石橋として造立したとあるが、両橋とは中上橋と中丸橋と考えられている。中上橋を渡って左に行く道は中丸村から長崎村に通じる江戸時代からの道で、現在の道で言うと、えびす通りから要町通りを渡って地蔵堂に出る道に相当している。

次の御嶽橋は、池袋から御嶽神社の横を通ってくる道の橋である。この道と橋は明治の地図には無いので、大正時代以降に造られた道と橋と思われる。現在、この道は道幅拡張されて“みたけ通り”になっている。

御嶽橋から緑道を先に進むと、中丸村の小字の名を付けた南橋に出る。さらに進むと池袋村の小字の名による境井田橋があり、その先、飛地に由来する名称の他領橋を過ぎると、高速道路が間近になって、程なく川越街道に出る。ここに架かっていたのが熊野橋で、交差点の角にある神社が名の由来になっている。

歩道橋で川越街道を渡って右へ行く。前田橋の上流にある前田上橋から再び緑道を歩く。池袋の小字に名が由来する前田橋を経て、北浦橋の上流にある北浦上橋、その先の浦上橋を過ぎる。その次の橋が、江戸時代からあった中丸橋である。

嘉永7年の図(御府内場末往還其外沿革図書)を見ると、霜田橋の下流で谷端川本流から東に分かれる分水路があり、また、中上橋の下流で谷端川本流から西に分かれる分水路もあって、三本の水路が平行して流れていた。このうち東側の水路は中丸橋の手前で谷端川本流に合流し、西側の水路は熊野神社の下を流れて中丸橋の直ぐ下流で谷端川に合流していたが、中上橋から中丸橋の間に、谷端川本流に架かる橋は記されていない。大正時代、土地の整理が進み、新しい道が造られ、谷端川本流に新たな橋が架けられるが、その一方で分水路は役割を終えて姿を消していった。

<西前橋>

中丸橋の次は地名に由来する金井窪橋で昭和8年に竣工している。この橋の下流で谷端川の支流が合流している。幸町付近を源流とし大山金井町付近の湧水を合わせて東に流れる支流で、さいわい通りの北側に水路跡と見られる道が残っている。金井窪橋の次は西前橋となる。西前橋を通る道は江戸時代に脇街道のように使われていた道で、伊能忠敬も江戸府内図にこの道を書き込んでいる。橋を左に(北に)行くと、旧川越街道を四つ又で横切って、中山道の板橋宿に出る。また、橋を右に(南に)行くと富士塚のある氷川神社の横を通り、その先で右に池袋を経て鬼子母神付近に出る雑司が谷道と、左に現・池袋六ツ又に出て現・春日通りに出る小石川道が分かれていた。

緑道を先に進むと豊橋がある。この付近で大山町付近を源流とする支流が谷端川に合流していた。谷端川は豊橋から右に折れて東に流れていくが、江戸時代には西前橋で谷端川から分かれる分水路があり、谷端川本流と平行して東に流れていた。

谷端川南緑道は豊橋で終りとなり、ここから先の谷端川跡は谷端川北緑道として整備されている。東上線沿いの緑道を進むと自転車置き場があり、ここを抜けて左に踏切を渡れば下板橋駅に出る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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谷端川(千川上水長崎村分水)跡を歩く-1-

2018-05-24 19:10:33 | 千川上水

千川上水は、元禄9年(1696)に玉川上水から分水して巣鴨の元舛まで素掘で引いた水路で、元舛から先は樋で給水していた。宝永4年 (1707)以降は農業用水としての利用が許され、各地で分水が行われるようになり、上水(飲用水)としての利用が休止された後も農業用水として利用されていた。長崎村分水(四ケ村分水)は千川上水の分水のなかでは最も距離が長く、谷端川に千川上水から助水すると共に新たな水路も設けて、長崎村、池袋村、中丸村、金井窪村に農業用水を供給していた。谷端川は千川駅近くの粟島神社の池を水源として南に流れ、椎名町駅の南側を回り込んで北に流れ、下板橋駅の北側を回り込んで南東に流れ、小石川と名を変えて神田川に流れ込んでいた川だが、現在は全区間が暗渠になっている。なお、千川上水を千川用水と称し、長崎村分水のような分水を千川分水と称することもあった。

(注)千川上水については、当ブログでも“千川上水花めぐり”として記事を投稿している。

長崎村分水の分水地点は千川駅近くの要町3の交差点の位置にあったというが、今は交差点の西側に千川の跡が親水公園として残っているだけである。一方、谷端川の水源はこの交差点から500mほど南東にある粟島神社の弁天池で、明治42年の地図には、分水地点から田圃の中を粟島神社に向かって流れる水路と、その途中で水路を横切る一本の道が記されている。長崎村分水の一番目の橋は、この道の橋ということになるが、その橋は千川駅前郵便局の近くにあったと思われる。

新編武蔵風土記稿の長崎村の項に村民持ちの弁天社とあるのが現在の粟島神社に相当する。嘉永7年の地図には丸い弁天池が描かれ、池から流れ出る谷端川に合流する長崎村分水が描かれているが、付近には道が記されていないので、当時は野道しかなかったと思われる。明治42年の地図では粟島神社を横切る道が記されており、この道によって池が南側と北側に分かれていたようである。南側の池は形が変わったにせよ今も残っているが、神社裏手の駐車場の辺りにあったという北側の池はすでに消滅している。谷端川は長崎村分水と合流したあと南東に流れ、その先で東側と西側に分かれて流れていたが、大正時代になって耕地整理が進められると水路の整理も行われ、大正15年の地図では谷端川も一本の直線的な水路にまとめられて南に流れるように変えられている。

粟島神社から西部区民事務所の横を通って、谷端川の跡をたどってみる。先に進むと、道は右に折れるようになる。ここを左に行く道は江戸時代からの道に相当し、東側の大山道(長崎神社の横を通って北上し大山に向かう道)に出ていた。先に進んで次の角を左に行くと要小の南側に出るが、この道は谷端川から分水して東に流れる分水路の跡に相当している。この分水路は谷端川の上流部をショートカットするように造られているが、上流部と中流部以下に供給する水の量のバランスをとるのが目的だったのかも知れない。嘉永7年の地図によると大山道を横切って東に流れ、中丸村の手前で谷端川の本流に合流する水路が書かれているが、途中の大山道を横切るに当たって水路を掘り下げ、橋を架けて大山道を通していたと思われる。明治の地図には、分水路は途中までしか記されていないが、末端は幾つかの細流となって田圃を潤し谷端川本流に流れ込んでいたと思われる。この分水路は、大正時代の終わりに直線的な水路となり、日之出橋付近で谷端川の本流に合流するようになったが、今は姿を消してしまっている。この分水路跡をたどると、大山道を横切ってから坂を下り、要町通りを渡って、その先の斜め前方への道に続いている。

分水路跡の道を見送って、先に進むと千早フラワー公園に出る。ここで、園内に展示されている大江戸線の試験車両として使われたリニアモーターカーを見てから先に進む。千早フラワー公園の南側の四つ角を東西に走る道は江戸時代からの道に相当し、谷端川には橋がかかっていた。ここを先に進むと巣鴨信金のある四つ角に出るが、東と西に分かれて流れていた谷端川はこの付近で合流していた。

谷端川には幾つかの支流があるが、その一つ長崎公園に発する支流の跡をたどってみる。千早フラワー公園の南側の四つ角を右に行く。道はやや上がって観音堂を過ぎると、学習院大学職員宿舎跡に造られた長崎公園に出る。公園の角には湧水による洗い場があり小川が東に流れていたという。その水路跡をたどってみる。道を挟んで東側の児童遊園の北側の道を東に、道を横断してさらに先に進むと、右手に西向不動の祠がある。この場所にあった不動湯という公衆浴場は廃業してしまったが、その横を流れていた水路の跡は今も確認できる。ここを右に行き次の角を左に曲がって行くと、小公園に長崎アトリエ村の説明版が置かれている。先に進むと巣鴨信金のある四つ角に出るが、また谷端川跡に戻ってきたことになる。ここを右に進むが、少し先で長崎公園からの流れが谷端川に合流していた。

谷端川跡の道を南に進み次の信号を渡る。ここを東西に走る道は、多少道筋が変わってはいるが江戸時代からの道で、谷端川に橋が架かっていた。この道を右に少し行ったところに第六天の祠があり池もあったが、今は駐車場となり何も残っていない。信号を渡りサンロードの商店街を南に向かう。大正14年の地図を見ると、踏切の少し手前で谷端川を渡る道、現在のサミット通りに相当する道が新たに作られている。また、西から合流してくる水路も記されているが、この水路は後に無くなり、線路の側溝がその代わりとなる。この辺り、谷端川の暗渠化以前には、大雨のあと膝ぐらいまで冠水することもあった。踏切を渡り左斜め方向の道に入り左に行く。桜並木はこの道が谷端川の水路跡に相当する事を示している。川は山手通りの下を潜り、南からの小流を入れて東流し、その先で北に向きを変えて西武池袋線の線路を越えるが、道はここで行き止まりとなる。大正14年の地図には、長崎神社から南に目白通りに出る江戸時代からの道が記されているが、線路の南側で谷端川に架かる橋は、この道の橋だけであった。なお、この道は山手通りによって分断されたため今は存在しない。大正15年の地図を見ると、多くの道が設けられるようになり、谷端川を渡る橋も数多く架けられるようになった。

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