(113)享保2年7月20日(1717年8月26日)。
田名部から青平(田屋)を経て下北半島を横断して小田ノ沢で休憩する。白糠を過ぎると岩道が十丁ほど続く難所となる。特に、ほっとあけという所は、海際の穴から上がる潮を避けて往来する大難所であったという。宿泊地の泊までは七里半の行程だが、前半は広大な原野をひたすら進み、後半は何も無き浜辺道をひたすら進むだけであった。「東遊雑記」は、この日のことを、“何のゆえに御巡見使は古よりもこの所の御通りはあることにやと、みなみなつぶやきしことにて”と書いている。
(114)同年7月21日。
泊の海辺に諏訪明神の古社があったとし、また、とく崎に大波が打ち寄せていたという。泊から三里半、尾駮で休憩したあと、春鯡を取るという尾駮沼を歩いて渡る。その先、鯡を取るという高ほこ(鷹架)沼も歩いて渡る。この日の宿泊は平沼。ここに、鱒、平目、鮭を取る沼ありと記す。行程は五里半であった。
(115)同年7月22日、半晴。
平沼を出立。蔵内(倉内)の沼(小川原湖)は船で渡る。根井で休憩。鷹を獲る場所四箇所ありと記す。沼の東側、木崎野という南北七里東西二里半の原を通り、三沢に出る。木崎野は馬の放牧地であり、三沢郷の野馬別当として助三郎の名を記している。その先、老羅瀬川(奥入瀬川)を藩提供の船で渡り、市川で泊まる。行程は九里ほどである。
(116)同年7月23日、晴。
二十丁ほどの原を抜け、小田の毘沙門を参詣する。小田より先の梅内に南部信濃守利直の古館ありと記す。そのあと、間部地川(馬淵川)を百六間の橋で渡り、八戸で馬継(馬と人足の交代)。ここに南部宮内の陣屋があり、神明宮もあった。また、根城に八戸弥六の古館など十箇所ほどの古館ありと記す。ここから八幡に出て、社領千三百石の八幡宮を参詣し、数々の宝物を拝観する。八幡宮は八戸弥六の古館跡地で、釣鐘に永禄二年、八戸弥六の銘があったという。この日は釼吉で休憩し、名久井岳を望みつつ、寅戸(虎渡)を経て三戸に出て泊まる。三戸入口に南部氏の古館ありと記す。行程は七里である。
【参考】巡見使は案内役の名主などに随時質問を行ったが、藩の方では不都合な事が知られないよう、事前に想定問答集を作成して案内者に渡していた。この問答集に書かれていない事を聞かれたらどうなるか。「東遊雑記」には次のような話が載っている。馬好きの巡見使が馬について案内者に質問したが、何を聞いても知らないと言う。そこで、馬を指してあれは何かと聞いたところ、知らないと言う。側の者が大声で案内者を叱ったところ、懐中より覚書を取り出した。実は覚書に書かれていない事は知らないと答えよと役人から言われていたのだが、馬については書かれていなかったので、知らないと答えたと言うのである。藩は馬についての質問は無いと考えていたのか、それとも馬に関する質問には知らぬ存ぜぬで通そうとしたのだろうか。ちなみに、三戸に近い名久井岳の麓は住谷野という名馬の産地として知られた牧場で、巡見使もそれを承知の上で質問した筈である。
田名部から青平(田屋)を経て下北半島を横断して小田ノ沢で休憩する。白糠を過ぎると岩道が十丁ほど続く難所となる。特に、ほっとあけという所は、海際の穴から上がる潮を避けて往来する大難所であったという。宿泊地の泊までは七里半の行程だが、前半は広大な原野をひたすら進み、後半は何も無き浜辺道をひたすら進むだけであった。「東遊雑記」は、この日のことを、“何のゆえに御巡見使は古よりもこの所の御通りはあることにやと、みなみなつぶやきしことにて”と書いている。
(114)同年7月21日。
泊の海辺に諏訪明神の古社があったとし、また、とく崎に大波が打ち寄せていたという。泊から三里半、尾駮で休憩したあと、春鯡を取るという尾駮沼を歩いて渡る。その先、鯡を取るという高ほこ(鷹架)沼も歩いて渡る。この日の宿泊は平沼。ここに、鱒、平目、鮭を取る沼ありと記す。行程は五里半であった。
(115)同年7月22日、半晴。
平沼を出立。蔵内(倉内)の沼(小川原湖)は船で渡る。根井で休憩。鷹を獲る場所四箇所ありと記す。沼の東側、木崎野という南北七里東西二里半の原を通り、三沢に出る。木崎野は馬の放牧地であり、三沢郷の野馬別当として助三郎の名を記している。その先、老羅瀬川(奥入瀬川)を藩提供の船で渡り、市川で泊まる。行程は九里ほどである。
(116)同年7月23日、晴。
二十丁ほどの原を抜け、小田の毘沙門を参詣する。小田より先の梅内に南部信濃守利直の古館ありと記す。そのあと、間部地川(馬淵川)を百六間の橋で渡り、八戸で馬継(馬と人足の交代)。ここに南部宮内の陣屋があり、神明宮もあった。また、根城に八戸弥六の古館など十箇所ほどの古館ありと記す。ここから八幡に出て、社領千三百石の八幡宮を参詣し、数々の宝物を拝観する。八幡宮は八戸弥六の古館跡地で、釣鐘に永禄二年、八戸弥六の銘があったという。この日は釼吉で休憩し、名久井岳を望みつつ、寅戸(虎渡)を経て三戸に出て泊まる。三戸入口に南部氏の古館ありと記す。行程は七里である。
【参考】巡見使は案内役の名主などに随時質問を行ったが、藩の方では不都合な事が知られないよう、事前に想定問答集を作成して案内者に渡していた。この問答集に書かれていない事を聞かれたらどうなるか。「東遊雑記」には次のような話が載っている。馬好きの巡見使が馬について案内者に質問したが、何を聞いても知らないと言う。そこで、馬を指してあれは何かと聞いたところ、知らないと言う。側の者が大声で案内者を叱ったところ、懐中より覚書を取り出した。実は覚書に書かれていない事は知らないと答えよと役人から言われていたのだが、馬については書かれていなかったので、知らないと答えたと言うのである。藩は馬についての質問は無いと考えていたのか、それとも馬に関する質問には知らぬ存ぜぬで通そうとしたのだろうか。ちなみに、三戸に近い名久井岳の麓は住谷野という名馬の産地として知られた牧場で、巡見使もそれを承知の上で質問した筈である。