夢七雑録

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28.田名部から三戸へ

2008-08-31 08:22:01 | 巡見使の旅
(113)享保2年7月20日(1717年8月26日)。
 田名部から青平(田屋)を経て下北半島を横断して小田ノ沢で休憩する。白糠を過ぎると岩道が十丁ほど続く難所となる。特に、ほっとあけという所は、海際の穴から上がる潮を避けて往来する大難所であったという。宿泊地の泊までは七里半の行程だが、前半は広大な原野をひたすら進み、後半は何も無き浜辺道をひたすら進むだけであった。「東遊雑記」は、この日のことを、“何のゆえに御巡見使は古よりもこの所の御通りはあることにやと、みなみなつぶやきしことにて”と書いている。

(114)同年7月21日。
 泊の海辺に諏訪明神の古社があったとし、また、とく崎に大波が打ち寄せていたという。泊から三里半、尾駮で休憩したあと、春鯡を取るという尾駮沼を歩いて渡る。その先、鯡を取るという高ほこ(鷹架)沼も歩いて渡る。この日の宿泊は平沼。ここに、鱒、平目、鮭を取る沼ありと記す。行程は五里半であった。

(115)同年7月22日、半晴。
 平沼を出立。蔵内(倉内)の沼(小川原湖)は船で渡る。根井で休憩。鷹を獲る場所四箇所ありと記す。沼の東側、木崎野という南北七里東西二里半の原を通り、三沢に出る。木崎野は馬の放牧地であり、三沢郷の野馬別当として助三郎の名を記している。その先、老羅瀬川(奥入瀬川)を藩提供の船で渡り、市川で泊まる。行程は九里ほどである。

(116)同年7月23日、晴。
 二十丁ほどの原を抜け、小田の毘沙門を参詣する。小田より先の梅内に南部信濃守利直の古館ありと記す。そのあと、間部地川(馬淵川)を百六間の橋で渡り、八戸で馬継(馬と人足の交代)。ここに南部宮内の陣屋があり、神明宮もあった。また、根城に八戸弥六の古館など十箇所ほどの古館ありと記す。ここから八幡に出て、社領千三百石の八幡宮を参詣し、数々の宝物を拝観する。八幡宮は八戸弥六の古館跡地で、釣鐘に永禄二年、八戸弥六の銘があったという。この日は釼吉で休憩し、名久井岳を望みつつ、寅戸(虎渡)を経て三戸に出て泊まる。三戸入口に南部氏の古館ありと記す。行程は七里である。

【参考】巡見使は案内役の名主などに随時質問を行ったが、藩の方では不都合な事が知られないよう、事前に想定問答集を作成して案内者に渡していた。この問答集に書かれていない事を聞かれたらどうなるか。「東遊雑記」には次のような話が載っている。馬好きの巡見使が馬について案内者に質問したが、何を聞いても知らないと言う。そこで、馬を指してあれは何かと聞いたところ、知らないと言う。側の者が大声で案内者を叱ったところ、懐中より覚書を取り出した。実は覚書に書かれていない事は知らないと答えよと役人から言われていたのだが、馬については書かれていなかったので、知らないと答えたと言うのである。藩は馬についての質問は無いと考えていたのか、それとも馬に関する質問には知らぬ存ぜぬで通そうとしたのだろうか。ちなみに、三戸に近い名久井岳の麓は住谷野という名馬の産地として知られた牧場で、巡見使もそれを承知の上で質問した筈である。

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27.青森から田名部へ

2008-08-27 19:58:36 | 巡見使の旅
 江戸幕府が東北各地と北海道松前に派遣した巡見使の旅を、連載形式で投稿しておりますが、その旅も青森県に入り、野辺地、田名部を経て三戸に向います。

(109)享保2年7月16日(1717年8月22日)、晴。
 青森では善知鳥神社を参詣する。この神社に関連して、時の将軍吉宗が、善知鳥という鳥に興味を示したことから、享保5年に善知鳥を捕まえ献上したという(「青森県史」)。青森から野辺地までは奥州街道を通行する。野内の番所、龍の鼻、浦島太郎伝説の浦島森、ざる石(笊石浦)を通り、出湯のある浅虫で休憩。湯の島、裸島、鴎島、茂浦ケ島、二子島や焼山(恐山)を見ながら進み、土屋の番所を通って小湊に泊まる。行程は六里半ほど。

(110)同年7月17日。
 沼楯(沼館)に明神社ありと記す。狩場沢で休憩したあと。津軽采女の留番所、南部大膳亮留番所を通り、馬門を経て、野辺地に出て泊まる。行程は四里余であった。

(111)同年7月18日、晴。
 巡見使の覚書は、野辺地村の内、千引明神についてふれ、いしふみ(石文)にあった石の精が、つぼ(坪)の女の所へ通ったという伝承を紹介している。日記役の記録では横浜村に泊まった翌日の日付で、“一里半程大山村、地引大明神あり”としており、食い違いがあるが、「東遊雑記」に、“千引明神の社あり、尾山村というも・・”という記述があり、かつ“古よりの御巡見所なり”と記してるので、享保の巡見使も野辺地の南にある、尾山の千曳神社に立ち寄ったのであろう。なお、「東遊雑記」では、坪村の石を千人で引いたという伝承について述べ、日本中央と記した坪の石文はこの地に埋っていると主張している。この石文は昭和24年に発見されているが、その真偽については論議があるようである。さて、巡見使一行は野辺地で奥州街道から分かれ、海沿いの道を有戸まで行き休憩。ここに五色の浜石ありと記す。この日の宿泊地は、大阪や肥前から船が着くという横浜である。尾山に立ち寄ったとすれば、行程は九里半ほどになる。

(112)同年7月19日、晴。
 横浜を出て、檜木の八幡宮を参詣する。源義家が安倍貞任追討の後、この地を訪れて石に八幡の梵字を書いたという由緒があり、この浜は源氏の浦とも称されていたという。境川を渡り、中野沢で休憩。安渡の釜伏山(釜臥山)の峠に正一位大明神があり、麓に出湯ありと聞いている。この日は町田名部に泊まる。行程は六里半余であった。

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26.松前から青森へ

2008-08-23 11:25:38 | 巡見使の旅
(105)享保2年7月12日(1717年8月18日)。
松前での巡視も終わり、あとは青森への渡海を待つだけとなるが、順風が吹かず、船を出せないため、この日は松前に逗留。巡見使へのお慰めとして、藩主の松前志摩守から出された品々を見て過ごす。

(106)同年7月13日。
 風待ちのため、この日も松前に逗留する。松前町内の寺社を見て回り一日を過ごす。

(107)同年7月14日。
 順風すなわち西風が吹く。渡海のため、津軽藩から提供された馬丸に、料理茶湯などを積み込む。一行は夜中に船に乗り込み、出航を待つ。

 ところで、享保の時は、風待ちの逗留が比較的短かくて済んだが、天明の巡見の時は松前での逗留が十二日間に及び、その間、一行の中に幕府の威光を傘に着て横暴の限りを尽くした者があったらしい(「福島町史」)。「此度の巡見、不埒の事多し」という話は幕府上層部の耳にも入ったようで、この時の巡見使が職を失うという事態になったという。

(108)同年7月15日。
 朝、松前を出航。順風を受け海上二十五里、二十四艘の船に出迎えられて、無事、青森に到着。供船が着いたのは八つ(午前二時)過ぎであった。湊から二丁離れた宿に泊まる。

 なお、宝暦の時は早朝松前を出航し亥の刻(午後10時)に青森着船となったが、天明の時は夜四つ(午後10時)に三馬屋に到着し、青森までは陸路を通っている。

【松前での巡見使の調査内容】

 今回、参考文献として用いた巡見使の覚書は、陸奥出羽松前の名所を記載した道中記であり、これとは別に、各藩の監察結果をまとめ幕府に提出した報告書があった筈である。その一端を示すものとして、松前蝦夷に関する報告内容を記したとされる、「松前蝦夷記」という資料がある。その内容だが、まず、松前藩主の居所福山館の概要と侍屋敷、足軽について記し、次に松前城下の町と寺社の数、東西在郷の村数、軒数、人数、宗門改めと切支丹について記している。次に、松前は米の収穫が無いので、それに代わるものとして鯡、数の子、昆布、薪、材木、雑穀について役料を納めさせていることを記している。松前は蝦夷地との交易で成り立っているが、各地から松前に交易のため到来する船の概況について記し、その際の役料について記している。また、幕府への献上品、特に鷹に関することについて記し、また、金の採掘に関すること、馬に関すること、土産品と産地に関すること、蝦夷人と通詞に関すること、など多岐に亘る調査報告になっている。一方、松前での案内人の質疑応答をまとめた「松前巡見使応答控」には、松前の町、社寺、在郷村数、番所、商所、鮭採取場、切支丹、金山、畑作、鷹、材木について記載されているが、「松前蝦夷記」の内容は、その範囲を越えているので、他からも情報を得ていたと思われる。

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25.松前東在郷の巡視

2008-08-19 22:09:12 | 巡見使の旅
(96)享保2年7月3日(1717年8月9日)。
 松前を出立、及部を通り大沢に出る。大沢川では鮭を取ると聴く。炭焼沢から難所の吉岡峠(をんなひ峠とも云う)を越え、松前伊豆守領分の吉岡で休憩する。その先、宮歌に松前八左衛門が蝦夷攻めの際に造営した八幡社を見る。そのあと、白符を通って福島に出て泊まる。行程は五里弱であった。ところで、古川古松軒は東在郷の巡視の途中、羆に襲われた人を追善するための卒塔婆を多く見かけたと書いている。東在郷においても、警固の者が一行に先行して熊を警戒しながら、巡視を続けたのである。

(97)同年7月4日、晴。
 福島を出立。福島川の先に蝦夷古館ありと記す。この先、四十八瀬川とも称された福島川沿いに進むが、この日渡った瀬の数は六十三あったという。さらに難所の茶屋峠を越え、市の渡しで休憩。沢際に小屋掛けの休所が設けられていた。ここからは知内川沿いの道となり、谷間に重なり合った山容の七つケ岳を見る。また、知内川に流入する、ちりちり川、はぎちゃり川を見る。この日の行程は六里半、知内に泊まる。

(98)同年7月5日、晴。
 知内を出立。知内川、もない川、中の川、いねない川を舟橋(舟を並べて板を掛けた橋)で渡る。木子内(木古内)で、をもう川と、さめ川を渡り、しゃかり(札刈)に出る。ここには蝦夷の家が三軒ありと記す。かうれい川、たしとろ川を渡り、泉沢、かまや、三石を経て、おおとうへつ川、とうへつ川を渡り、茂辺地に出て泊まる。行程は六里半である。

(99)同年7月6日、晴。
 茂辺地を出立。茂辺地川を渡る。左手に下国周防守の大館とその家来の小館ありと記す。また、やけ内に下国勘解由建立の天神宮ありとし、都の方になびく松の伝承を記す。そのあと、富川を経て戸切地川を渡り有川に出る。有川からは内浦岳(駒ケ岳)が見えてくる。巡見対象外の蝦夷地内の山ではあるが、その様子について話を聞いている。その先、七座浜(七重浜)から亀田に出る。ここから箱館(函館)は遠くないが、巡見地ではないため立ち寄らない。ただ、箱館には湊があること、河野加賀守の城址があることを聞くにとどまっている。この日は亀田に泊まる。五里半の行程であった。

(100)同年7月7日、晴。
 亀田を出立。出湯のある湯川を通る。林太郎左衛門の古館ありと記す。しのり浜から、松前巡見の東端にあたる黒岩に出る。黒岩まで二里半、ここで休憩となり、乙部と同様に蝦夷人が巡見使にお目見えする。クレマミ、ヲニシロ、アカシ、タヤラ、トルモ、シコワシ、ノヤク、ペリシ、クシハイ、大スミ、ハンシャク以上十一人である。終わって、巡見使一行は宿泊地に戻る。宿泊地の記述はないが、亀田であろう。

 宝暦と天明の巡見使は、亀田の手前の戸切地に宿泊し、黒岩まで往復している。「東遊雑記」によれば、往復十里の行程で戸切地に帰ったのは四つ(午後十時)頃になったが、深夜になって羆が馬を襲うという騒動が持ち上がったという。疲れているのに、夜も寝る間がなかったというわけだが、実は、宝暦の巡見使も戸切地で宿舎火災という災難に見舞われている(「福島町史」)。

(101)同年7月8日、記述はないが、往路と同じであれば茂辺地泊りである。

(102)同年7月9日、記述はないが、往路と同じであれば知内泊まりである。

(103)同年7月10日、記述はないが、往路と同じであれば福島泊りである。

(104)同年7月11日、松前町に帰り宿泊している。

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松前西在郷の巡視

2008-08-10 14:35:44 | 巡見使の旅
 松前藩は、米の産出量すなわち石高に裏付けられた土地の支配ではなく、蝦夷地交易の独占権によって支えられた特異な藩である。藩の支配域は北海道渡島半島の南端部であり、巡見使の監察対象もこの地域に限られ、他の蝦夷地は対象外であった。巡見使の経路は、はじめ、西在郷すなわち松前の西側を乙部まで巡視して松前に戻り、次に東在郷すなわち東側を黒岩まで行き松前に戻っていた。

(89)享保2年6月25日(1717年8月2日)、曇。
 松前福山を出立。町西でばくち石を見ている。また、海中に弁才天の島を見る。たて石野を通り、小島を見つつ折戸坂を下り折戸川を渡る。ねふた、さつまい(札前)、あまたれ石、熨斗の下を過ぎ、清部で小ケ持川(小鴨津川)、大ケ持川(大鴨津川)を渡る。この辺から海中に大島が見えてくる。この日は、江良にて泊まる。行程は五里弱であった。

(90)同年6月26日、晴。
 二越坂を越え、をこしえ(奥末)を経て原口で休憩。岩鼻に熊が出たので鉄砲で撃ち、その様子を巡見使も見る。蝦夷松前では熊による人的被害が多いため、松前藩から銃を持った警護の者が同行し、先行して警戒していたのである。この辺から前方に奥尻島が見えてくるが、道は上り下りの多い難所となる。この日の行程は六里余、石崎に泊まる。

(91)同年6月27日、晴。
 塩吹(汐吹)で観音堂と潮吹岩を見る。その先、滝沢に観音堂と滝を見る。小安在川、大安在川を渡って上之国で休憩。ここに、松前藩主の松前志摩守先祖、蠣崎伊豆守の古館があり、村末には毘沙門堂ありと記す。また、上之国の天下川(天の川)は献上品の鮭を取る故、この名があると聞く。椴川を渡り、この日は江差に泊まる。行程は六里余。江差に当地の神である姥神の宮ありと記す。

(92)同年6月28日、晴。
 つめき石、田沢を通り、厚沢部川を渡って乙部に出る。江差から三里、ここで休憩する。乙部では恒例により、藩役人に付き添われた蝦夷人が、庭前において巡見使に御目見えに出る。そのあと男女揃って踊り、また浜辺にて的を射るのを見る。セタナイ国のナヲ、オフレ。ヒトロ国のペシクシ、イワヒ五郎。ウスイシ国のシイアリ、ユウヘリコホ、ハイクホ、メナシクホ、シウクホの名を記す。巡見使一行は乙部から船で江差に戻り宿泊する。

(93)同年6月29日。
 日記役の記録はないが、石崎泊まりと思われる。

(94)同年7月1日。
 日記役の記録はないが、江良泊まりと思われる。

(95)同年7月2日。
 松前に帰着し宿泊。松前から乙部までの道は、風雨が激しい時は通行できなかった。実際、宝暦及び天明の巡見使一行は、帰途、悪天候のため江差に逗留している。享保2年の時は、悪天候ではなかったのか、途中の逗留は無かったようである。

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23.松前へ渡る

2008-08-03 08:19:51 | 巡見使の旅
 江戸幕府が東北各地と北海道松前に派遣した旅を、連載形式で投稿しておりますが、一行はいよいよ北海道へ渡ります。 

(80)享保2年6月16日(1717年7月24日)。
 三馬屋(三厩)から松前まで海上十二里(注)。東風の時を選び、潮に逆らって船を松前に入れることになるが、容易ならざる渡海である。渡海できなかった巡見使はいなかったとはいえ、天和元年の第3回巡見使の時は、海上波浪のため三艘の船は別々の場所に到着し、その内の一艘は無人島に漂着したという(「新北海道史」)。航海の安全を期すためには、日和を十分見定めて出航する必要があり、結果として、風待ちのため何日も逗留することもあった。この日は、順風待ちのため三馬屋に逗留という事になった。

【注】享保の頃は、松前まで海上十二里としていたが、天明の頃になると、何故か海上七里と称するようになった。これを受けてか、街道細見でも七里としている。これに疑問を抱いた古川古松軒は、地元の人の話も聞いたうえで、十里に少し遠し、と書き記している。

(81)同年6月17日。風待ちのため三馬屋に逗留。
(82)同年6月18日。風待ちのため三馬屋に逗留。
(83)同年6月19日。風待ちのため三馬屋に逗留。
(84)同年6月20日。風待ちのため三馬屋に逗留。
(85)同年6月21日。風待ちのため三馬屋に逗留。
(86)同年6月22日。風待ちのため三馬屋に逗留。

(87)同年6月23日。
 この日ようやく、順風すなわち東風となったため、五つ時(午前八時)、津軽藩から提供された馬丸という船に乗り込む。船は供舟を含めて三艘。茶湯料理菓子など色々積み込んでの出航である。タツヒの潮、中の潮、シラカミの潮、三箇所の難所を乗り切り、松前に無事到着。松前藩主が子息を連れて、御見舞いのため宿を訪問している。なお、巡見使の宿舎は、有馬の宿が下村勘解由の屋敷、小笠原の宿が松前主殿の屋敷、高城の宿は次郎兵衛であったと記されている。

【参考】出航から着船までの様子については、「東遊雑記」に詳細な記述があるが、ここでは、宝暦の巡見使随行者の日記により、航海の様子を示しておく。

 今朝順風との案内があり、辰の刻(午前八時)出帆。船は長柄二十筋、弓鉄砲で飾り立て立見付御門のごとく、幕を打回して御朱印を守護する構えである。船には、津軽藩から、船奉行その他の役人、医師、船頭、船子楫取数十人が乗り込んでいる。三馬屋の山の上から、御上使の出船を告げる狼煙があがり、これに答えて、松前の方からも、承知の合図に狼煙が上げられる。出航するも、狼煙が幽かにみえるだけで、松前の方は一向に見えない。タツヒの汐、中の汐、シラカミの汐の難所を過ぎ、羊の下刻(午後3時)松前福山に着船。

(88)同年6月24日。
 この日一日、松前に滞留。
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