東京都の歴史と文化の散歩道のうち、「芝高輪コース」は、「お堀端コース」の祝田橋(日比谷公園)を起点とし、途中で分岐して品川と目黒に至る、総延長9.5kmのコースである。このコースは、芝御成道散歩(日比谷公園~赤羽橋)、三田坂めぐり散歩(赤羽橋~伊皿子坂)、高輪潮の香散歩(伊皿子坂~品川駅)、山の手白金散歩(伊皿子坂~目黒駅)の四つのサブコース(ガイド区分)から成っている。このコースは途中で分岐しており、通して歩けないので、2回に分けて歩いてみた。
(1)芝御成道散歩
「お堀端コース」の祝田橋から、交差点を渡って日比谷公園の角に行く。ここから、祝田通りを進むのが、本来のルートという事になるが、日比谷公園に入らない手はない。まずは、公園内をしばし散策。それから、三角形の敷地に建つ日比谷図書文化館に立ち寄る。東京都から千代田区に移管された図書館にも寄ってみたい気がしたが、今日のところは時間が無いので、四番町歴史民俗資料館を移設して作られたミュージアムの、無料の常設展を一通り見ただけで外に出る。祝田通りを先に進み、外堀通りを渡る。その名の通り、昔はここに外堀があり、新シ橋という橋が架かっていたという。
交差点を渡って愛宕通りを先に進む。蕎麦店の昔ながらの建物が健在なことに少し安堵。その一方で、かつて17森ビルがあった筈の場所に、建築中の超高層ビルが日の光を遮るかのように立ち上がっている事に驚く。去年の1月、虎ノ門から新橋まで神社巡りをした時には、気付かなかったその建造物は、今や虎ノ門ヒルズという呼び名まで与えられて、その存在感をあらわしつつある。来年の開業時、このビルの地下を通過するであろう環状2号線、通称マッカーサー道路は、まだ工事の真っ最中だが、その工事現場をカタツムリ・マークのガードレールに誘導されるように横切り、その先へと進む。500年前、この辺りは日比谷入江の開口部にあたっていたが、江戸時代になると、日比谷入江を越えて埋め立てが進み、大名屋敷などが立ち並ぶ地域へと変貌する。古代から近世を経て、この地域がどのように変わっていったのか。工事に先立って行われた発掘調査の結果が楽しみでもある。今も、昔の姿を留めている愛宕山を過ぎ、青松寺を横目に先に進むと、歩道橋のある交差点に出る。ここから標識Bにより、左に折れて進み、御成門の交差点に向かう。
(注)カテゴリー「寺社巡拝」に虎ノ門から新橋までの神社巡りの記事がある。
増上寺の裏門は、現在の御成門交差点の場所にあった。この門は、将軍が増上寺に参詣する際に利用していたため、人々は御成門と呼んでいた。では、将軍はどの道を通って増上寺に参詣したか、当て推量ながら考えてみた。将軍家などが町人地を通行する場合、あらかじめ町触により具体的な道順を示す必要があったが、寛永寺の参詣のような恒例化した行事については、道順が固定されていたのでその必要はなく、人々は、参詣ルートを御成道として認識し記憶していた。増上寺の参詣の場合も、幸橋御門を通る際には付近の町人地を通るので、幸橋は御成橋として人々に認識されていたが、町触の対象外であった武家地の区間については、御成道として認識されなかったかも知れない。葬列についての道順は固定されていなかったが、そのルートは参詣ルートとも重なる部分があったと思われる。第五代将軍家継の葬列は、幸橋御門から二葉町、兼房町を通り、宇田川町に出て旧東海道を経て表門(大門)から増上寺に入ったとされる。この道順には、兼房町から宇田川町までの間の武家地の記載はないが、兼房町に続く愛宕下大名小路を通ったと考えるのが妥当であろう。参詣の場合も、愛宕下大名小路までは同じルートを通ったと考えられ、そのあと、裏門(御成門)から増上寺に入ったと思われる。このルートを現在の道でたどると、新橋駅付近にあった幸橋御門から、赤レンガ通りに出て直進し、右折して御成門交差点に向かった事になる。このほか、第六代将軍家斉と第九代将軍家重の葬列が新シ橋を通っている事から、新シ橋を通る参詣ルートもあったと思われるが、町人地を通過しないので、御成道としては認識されなかっただろう。「吹上より愛宕下辺増上寺迄之図」のルートは、半蔵門を出て外桜田門の外を通り、上杉家の屋敷の角を曲がって、新シ橋を渡り、真福寺前を左に折れて薬師小路を通り、次の角を曲がって増上寺裏門近くに出たあと、旧東海道を経て表門(大門)から増上寺に入っているが、参詣の場合、裏門から増上寺に入る点を除けば、同じルートを通った可能性がある。現在の道で、そのルートをたどると、祝田通りを進み、外堀通りを渡り、愛宕通りを進んで、真福寺の先を左折、日比谷通りに出て御成門交差点に向かうことになる。なお、薬師小路を通らずに愛宕神社の下を通った事も考えられるが、この場合のルートは、「芝御成道散歩」のルートと同じになる。
御成門の交差点を渡って南に行く。江戸時代、交差点から先の日比谷通りの両側は増上寺の敷地になっていた。御成門は、普段、自由に通行出来たので、人々はこの門から入って、日比谷通りに相当する境内の道を歩き、増上寺を参詣していたのであろう。御成門を入ってすぐ右側には方丈があったが、今は芝公園になっている。その公園内を少し歩き、また歩道に戻ると、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。その内容は、ルート図、愛宕山・青松寺・増上寺についての説明、それと、山本松谷の描いた図である。ところで、この案内板の山本松谷の図、「芝愛宕山眺望之図」には、どこか違和感があったので、後で調べてみたところ、案内板の図は左右が逆になっている事が分かった。何故こんな事になったのかは不明だが、この誤りに誰も気付かなかったのか、気付いても修理しなかったのかの何れかだろう。一応、図を説明しておくと、この図は愛宕山の女坂を上がった場所からの眺望を描いたもので、当時は海が見晴らせたことが分かる。図の中ほどの帯状のものは、愛宕神社との間の石段である。また、案内板では左側になっているが、現在の「菜根」の場所にあった茶屋も描かれている。案内板はこのぐらいにして、先に進むと、プリンスホテルの前に出る。その敷地は、徳川家の北側の霊廟跡である。ホテルと増上寺の境になっている道を入り、東京タワーを見ながら進むと、交差点近くに出る。ここを左折。公園に沿って進み交差点を渡ると、赤羽橋となる。芝御成道散歩は、ここ迄である。
(2)三田坂めぐり散歩
赤羽橋で渋谷川を渡り、桜田通りの右側の歩道を歩く。三田国際ビルの先を右に折れ、綱の手引坂を右側の歩道で上がる。坂の上に標識Bがあるので、ここを左に閑静な道に入り、三井倶楽部とイタリア大使館の間の綱坂を下る。坂の下の標識Bを過ぎ、先に進んで桜田通りを左に行き、慶大正門前の信号を渡って、左前方を斜めに入る道を進む。右側の歩道に標識Bがある。その先、聖坂に出て左側の歩道で坂を上がる。聖坂は旧中原街道の道筋にあたり、家康が江戸に入った時は、この街道を通ったとも言われている。坂を上がったところに亀塚公園があり、公園前の交番の前に、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。その内容は、ルート図と三田一帯の説明、それと山本松谷の「芝三田聖坂より銀座を望む」の図である。山本松谷の図は汚れて分かりにくいが、正月の聖坂を描いたもので、猿回し、三河万歳、獅子舞、角兵衛獅子のほか、恵方参りに出かける人々の姿が描かれている。当時は高いビルなど無かったので、坂の上から銀座がよく見えたのだろう。
亀塚公園には、亀塚という塚がある。この塚、古墳という説もあったが、発掘調査したところ何も出なかったという。亀塚の横から御田八幡の裏手に出る道はすでに廃道になったらしく、それに代わって開放的な階段が作られている。下りてみたい気もしたが、また上がるのも面倒なので、この案はあっさり棄却、公園の外に出る。先に進むと、三田台公園という小公園がある。こちらの方は間違いない遺跡地で、貝塚の標本があり、復元された古墳時代住居がある。ざっと見てまわって外に出ると、伊皿子の交差点まで一気に下る。交差点の東南の角には標識Aが置かれているが、三田坂めぐり散歩は、ここで終了となる。
(3)山の手白金散歩
今回は、目黒駅を起点として、伊皿子の交差点を経て、品川まで歩くことにする。駅から目黒通りに出て、左側の歩道を東へ向かう。歩道に埋め込まれている標識Cを確認しながら先に進むと、上大崎の交差点に出る。ここに標識Bがあり、交差点を渡った先には、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。その内容は、江戸の絵図上にルート図をプロットしたものと、庭園美術館の説明および写真から成っている。その美術館だが、現在は改修工事中で閉館しており、開館時期は未定という。
案内板はその先にもあり、こちらの方は、現代の地図によるルート図、汚れて読みにくいが自然教育園の説明、そして江戸の切絵図からなっている。自然教育園は開園中であったので入ってみる。自然教育園のある場所は、氏名不詳の白金長者の館跡と言われ、土塁の跡も残っているが、それよりも、この土地の原風景を想像しながら散策するのに良い場所である。ただ、カラスの鳴き声の喧しさには閉口、園内を一通り回っただけで外に出る。
自然教育園のすぐ隣に白金台どんぐり児童遊園がある。人っ子一人いない小さな児童遊園は、あちこちで見かけるが、これほど広くて子供たちが思い切り遊べる児童遊園は滅多に無い。外苑西通りを過ぎて先に進むと、道は僅かに下り坂となり、やがて日吉坂となる。標識Bを過ぎると、まもなく桜田通り。ここを左に折れて坂を下る。坂と言えるほどの坂ではないが、名光坂という名称を与えられている。新たな道路が作られたことで消滅してしまった坂の名を継承したのだろうか。坂の下の信号で桜田通りを渡り、右側の歩道に移って先に進む。しばらく行くと右側に魚籃坂がある。坂の下の標識Bを確認し、右側の歩道を上がる。坂の途中、左側に魚籃寺の赤い門が見えるが、今回は通過。坂を上がりきって、また下ると、伊皿子の交差点となる。左側の道は聖坂から来る道で、交差点の東南の角に標識Aが置かれている。この標識が、山の手白金散歩の終了地点となる。
(4)高輪潮の香散歩
伊皿子の交差点から伊皿子坂を下る。下りきって道が左に曲がるところに、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれているが、この案内板については後回しとして、先に右の道を入って泉岳寺に行く。今も人気のある寺である。
泉岳寺から案内板のところに戻る。その内容は、ルート図と、この辺りの東海道の様子や泉岳寺や東禅寺の説明、それと、高輪の風景に満月と雁を配した、広重の「高輪之明月」の図である。先に進み、第一京浜に出て右に折れる。ここから先、品川までは、交通量の多い道路沿いの、少々退屈な道となるが、江戸時代は海沿いの眺めの良い道であった。当時、街道の海側は石垣になっていたが、その石垣石が発掘され、桂坂下のコーナーに説明板付きで展示されている。やがて品川駅。芝高輪コースも、これにて終わりとなる。
(1)芝御成道散歩
「お堀端コース」の祝田橋から、交差点を渡って日比谷公園の角に行く。ここから、祝田通りを進むのが、本来のルートという事になるが、日比谷公園に入らない手はない。まずは、公園内をしばし散策。それから、三角形の敷地に建つ日比谷図書文化館に立ち寄る。東京都から千代田区に移管された図書館にも寄ってみたい気がしたが、今日のところは時間が無いので、四番町歴史民俗資料館を移設して作られたミュージアムの、無料の常設展を一通り見ただけで外に出る。祝田通りを先に進み、外堀通りを渡る。その名の通り、昔はここに外堀があり、新シ橋という橋が架かっていたという。
交差点を渡って愛宕通りを先に進む。蕎麦店の昔ながらの建物が健在なことに少し安堵。その一方で、かつて17森ビルがあった筈の場所に、建築中の超高層ビルが日の光を遮るかのように立ち上がっている事に驚く。去年の1月、虎ノ門から新橋まで神社巡りをした時には、気付かなかったその建造物は、今や虎ノ門ヒルズという呼び名まで与えられて、その存在感をあらわしつつある。来年の開業時、このビルの地下を通過するであろう環状2号線、通称マッカーサー道路は、まだ工事の真っ最中だが、その工事現場をカタツムリ・マークのガードレールに誘導されるように横切り、その先へと進む。500年前、この辺りは日比谷入江の開口部にあたっていたが、江戸時代になると、日比谷入江を越えて埋め立てが進み、大名屋敷などが立ち並ぶ地域へと変貌する。古代から近世を経て、この地域がどのように変わっていったのか。工事に先立って行われた発掘調査の結果が楽しみでもある。今も、昔の姿を留めている愛宕山を過ぎ、青松寺を横目に先に進むと、歩道橋のある交差点に出る。ここから標識Bにより、左に折れて進み、御成門の交差点に向かう。
(注)カテゴリー「寺社巡拝」に虎ノ門から新橋までの神社巡りの記事がある。
増上寺の裏門は、現在の御成門交差点の場所にあった。この門は、将軍が増上寺に参詣する際に利用していたため、人々は御成門と呼んでいた。では、将軍はどの道を通って増上寺に参詣したか、当て推量ながら考えてみた。将軍家などが町人地を通行する場合、あらかじめ町触により具体的な道順を示す必要があったが、寛永寺の参詣のような恒例化した行事については、道順が固定されていたのでその必要はなく、人々は、参詣ルートを御成道として認識し記憶していた。増上寺の参詣の場合も、幸橋御門を通る際には付近の町人地を通るので、幸橋は御成橋として人々に認識されていたが、町触の対象外であった武家地の区間については、御成道として認識されなかったかも知れない。葬列についての道順は固定されていなかったが、そのルートは参詣ルートとも重なる部分があったと思われる。第五代将軍家継の葬列は、幸橋御門から二葉町、兼房町を通り、宇田川町に出て旧東海道を経て表門(大門)から増上寺に入ったとされる。この道順には、兼房町から宇田川町までの間の武家地の記載はないが、兼房町に続く愛宕下大名小路を通ったと考えるのが妥当であろう。参詣の場合も、愛宕下大名小路までは同じルートを通ったと考えられ、そのあと、裏門(御成門)から増上寺に入ったと思われる。このルートを現在の道でたどると、新橋駅付近にあった幸橋御門から、赤レンガ通りに出て直進し、右折して御成門交差点に向かった事になる。このほか、第六代将軍家斉と第九代将軍家重の葬列が新シ橋を通っている事から、新シ橋を通る参詣ルートもあったと思われるが、町人地を通過しないので、御成道としては認識されなかっただろう。「吹上より愛宕下辺増上寺迄之図」のルートは、半蔵門を出て外桜田門の外を通り、上杉家の屋敷の角を曲がって、新シ橋を渡り、真福寺前を左に折れて薬師小路を通り、次の角を曲がって増上寺裏門近くに出たあと、旧東海道を経て表門(大門)から増上寺に入っているが、参詣の場合、裏門から増上寺に入る点を除けば、同じルートを通った可能性がある。現在の道で、そのルートをたどると、祝田通りを進み、外堀通りを渡り、愛宕通りを進んで、真福寺の先を左折、日比谷通りに出て御成門交差点に向かうことになる。なお、薬師小路を通らずに愛宕神社の下を通った事も考えられるが、この場合のルートは、「芝御成道散歩」のルートと同じになる。
御成門の交差点を渡って南に行く。江戸時代、交差点から先の日比谷通りの両側は増上寺の敷地になっていた。御成門は、普段、自由に通行出来たので、人々はこの門から入って、日比谷通りに相当する境内の道を歩き、増上寺を参詣していたのであろう。御成門を入ってすぐ右側には方丈があったが、今は芝公園になっている。その公園内を少し歩き、また歩道に戻ると、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。その内容は、ルート図、愛宕山・青松寺・増上寺についての説明、それと、山本松谷の描いた図である。ところで、この案内板の山本松谷の図、「芝愛宕山眺望之図」には、どこか違和感があったので、後で調べてみたところ、案内板の図は左右が逆になっている事が分かった。何故こんな事になったのかは不明だが、この誤りに誰も気付かなかったのか、気付いても修理しなかったのかの何れかだろう。一応、図を説明しておくと、この図は愛宕山の女坂を上がった場所からの眺望を描いたもので、当時は海が見晴らせたことが分かる。図の中ほどの帯状のものは、愛宕神社との間の石段である。また、案内板では左側になっているが、現在の「菜根」の場所にあった茶屋も描かれている。案内板はこのぐらいにして、先に進むと、プリンスホテルの前に出る。その敷地は、徳川家の北側の霊廟跡である。ホテルと増上寺の境になっている道を入り、東京タワーを見ながら進むと、交差点近くに出る。ここを左折。公園に沿って進み交差点を渡ると、赤羽橋となる。芝御成道散歩は、ここ迄である。
(2)三田坂めぐり散歩
赤羽橋で渋谷川を渡り、桜田通りの右側の歩道を歩く。三田国際ビルの先を右に折れ、綱の手引坂を右側の歩道で上がる。坂の上に標識Bがあるので、ここを左に閑静な道に入り、三井倶楽部とイタリア大使館の間の綱坂を下る。坂の下の標識Bを過ぎ、先に進んで桜田通りを左に行き、慶大正門前の信号を渡って、左前方を斜めに入る道を進む。右側の歩道に標識Bがある。その先、聖坂に出て左側の歩道で坂を上がる。聖坂は旧中原街道の道筋にあたり、家康が江戸に入った時は、この街道を通ったとも言われている。坂を上がったところに亀塚公園があり、公園前の交番の前に、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。その内容は、ルート図と三田一帯の説明、それと山本松谷の「芝三田聖坂より銀座を望む」の図である。山本松谷の図は汚れて分かりにくいが、正月の聖坂を描いたもので、猿回し、三河万歳、獅子舞、角兵衛獅子のほか、恵方参りに出かける人々の姿が描かれている。当時は高いビルなど無かったので、坂の上から銀座がよく見えたのだろう。
亀塚公園には、亀塚という塚がある。この塚、古墳という説もあったが、発掘調査したところ何も出なかったという。亀塚の横から御田八幡の裏手に出る道はすでに廃道になったらしく、それに代わって開放的な階段が作られている。下りてみたい気もしたが、また上がるのも面倒なので、この案はあっさり棄却、公園の外に出る。先に進むと、三田台公園という小公園がある。こちらの方は間違いない遺跡地で、貝塚の標本があり、復元された古墳時代住居がある。ざっと見てまわって外に出ると、伊皿子の交差点まで一気に下る。交差点の東南の角には標識Aが置かれているが、三田坂めぐり散歩は、ここで終了となる。
(3)山の手白金散歩
今回は、目黒駅を起点として、伊皿子の交差点を経て、品川まで歩くことにする。駅から目黒通りに出て、左側の歩道を東へ向かう。歩道に埋め込まれている標識Cを確認しながら先に進むと、上大崎の交差点に出る。ここに標識Bがあり、交差点を渡った先には、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。その内容は、江戸の絵図上にルート図をプロットしたものと、庭園美術館の説明および写真から成っている。その美術館だが、現在は改修工事中で閉館しており、開館時期は未定という。
案内板はその先にもあり、こちらの方は、現代の地図によるルート図、汚れて読みにくいが自然教育園の説明、そして江戸の切絵図からなっている。自然教育園は開園中であったので入ってみる。自然教育園のある場所は、氏名不詳の白金長者の館跡と言われ、土塁の跡も残っているが、それよりも、この土地の原風景を想像しながら散策するのに良い場所である。ただ、カラスの鳴き声の喧しさには閉口、園内を一通り回っただけで外に出る。
自然教育園のすぐ隣に白金台どんぐり児童遊園がある。人っ子一人いない小さな児童遊園は、あちこちで見かけるが、これほど広くて子供たちが思い切り遊べる児童遊園は滅多に無い。外苑西通りを過ぎて先に進むと、道は僅かに下り坂となり、やがて日吉坂となる。標識Bを過ぎると、まもなく桜田通り。ここを左に折れて坂を下る。坂と言えるほどの坂ではないが、名光坂という名称を与えられている。新たな道路が作られたことで消滅してしまった坂の名を継承したのだろうか。坂の下の信号で桜田通りを渡り、右側の歩道に移って先に進む。しばらく行くと右側に魚籃坂がある。坂の下の標識Bを確認し、右側の歩道を上がる。坂の途中、左側に魚籃寺の赤い門が見えるが、今回は通過。坂を上がりきって、また下ると、伊皿子の交差点となる。左側の道は聖坂から来る道で、交差点の東南の角に標識Aが置かれている。この標識が、山の手白金散歩の終了地点となる。
(4)高輪潮の香散歩
伊皿子の交差点から伊皿子坂を下る。下りきって道が左に曲がるところに、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれているが、この案内板については後回しとして、先に右の道を入って泉岳寺に行く。今も人気のある寺である。
泉岳寺から案内板のところに戻る。その内容は、ルート図と、この辺りの東海道の様子や泉岳寺や東禅寺の説明、それと、高輪の風景に満月と雁を配した、広重の「高輪之明月」の図である。先に進み、第一京浜に出て右に折れる。ここから先、品川までは、交通量の多い道路沿いの、少々退屈な道となるが、江戸時代は海沿いの眺めの良い道であった。当時、街道の海側は石垣になっていたが、その石垣石が発掘され、桂坂下のコーナーに説明板付きで展示されている。やがて品川駅。芝高輪コースも、これにて終わりとなる。