夢七雑録

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トーキョーウォーキング・豊島区(2)

2022-06-20 18:21:28 | 散歩道あれこれ

(3)巣鴨東コース 

ジョギングに向いたコースとウォーキングに向いたコースは必ずしも同じではなく、巣鴨東コースでも、コースの一部をジョギング用とウォーキング用で分けている。今回は、巣鴨駅を起点としてウォーキング用のコースの方を歩いてみた。なお、公衆浴場については場所を確認するにとどめた。

J Rの巣鴨駅を出て白山通りを渡り右に行くと、とげぬき地蔵入口の交差点に出る。その左側に真性寺の入口があった。以前は、交差点の手前を左に入った少し先に真性寺の入口があったのだが、道路整備に関連して入口を変えたらしい。江戸時代、主な街道6カ所に対し地蔵菩薩が安置され江戸六地蔵と呼ばれていたが、その一つ、中山道を守る銅製地蔵菩薩座像が真性寺に安置されていた。真性寺には来たことがあるが、その時は地蔵菩薩座像は修理中だったので、今回ようやく地蔵菩薩座像を拝観出来たことになる。

真性寺は江戸名所図会の挿絵にも取り上げられている。上の図はその部分図で、少々分かりにくいが地蔵菩薩座像は境内の左側に描かれており行列が出来ている。この図で、真性寺の門は“すかも通り(巣鴨通り)”と書かれた道、すなわち江戸時代の中山道に面していた。そして現在の真性寺の入口も、江戸時代の中山道(旧中山道)に面するようになった。

とげぬき地蔵入口の交差点から先、現代の中山道でもある白山通りから、旧中山道でもある巣鴨地蔵通りが左に分かれていく。この通りが、おばあさんの原宿と呼ばれるようになったのは昭和の終り頃らしいが、今でも主役は、おばあさんなのかも知れない。ただ、若い人の姿もかなり見られるようになっている。この通りを久しぶりに歩いてみて、道が広くなったような気がした。後で分かったことだが、この通りでは無電柱化整備事業が行われていたのである。今は一部の区間だけだが、この通りから全ての電線が消える日は近いのかも知れない。

とげぬき地蔵の高岩寺に行く。子供の頃、のどに魚の骨がささった時に、とげぬき地蔵尊の御影の紙を飲まされた記憶がある。高岩寺は明治時代に下谷から移ってきた寺だが、毎月4のつく日が縁日で賑わうこともあって、地元にとっては欠かせぬ存在になっているらしい。高岩寺を参拝したあと、外に出て商店街を歩く。先に進むと庚申塚の交差点に出た。

庚申塚の交差点は、中山道と王子道が交差する地点にあたる。江戸時代、ここには街道の途中の休憩施設に相当する立場(たてば)があった。江戸名所図会の挿絵からすると、この立場には葦簀張りの茶屋が並んでおり、庚申塚もあった。庚申塚は道教に由来する庚申信仰の供養塔で、村境など各所にあったが、ここの立場(たてば)にあった庚申塚は目立つ存在であったので地名にまでなったのかも知れない。現在、庚申塚そのものは交差点の角にある猿田彦大神の祠に収められているという。猿田彦は庚申塚の本尊に当たると言う考えからのようだ。

庚申塚の交差点を右に行く。この通りの名は栄和通りになっている。先に進むと、現代の中山道に相当する白山通りに出る。ここを渡って北に向かう道は、江戸時代の王子道に相当するが、今回は先には行かない。公衆浴場“やすらぎの湯ニュー椿”の建物を確認したあと、庚申塚の交差点に戻る。

庚申塚の交差点から南に行く。通りの名は折戸通りになっている。道はやや左に曲がって行くが、その手前に公衆浴場の巣鴨湯があった。折戸通りをさらに進むと信号のある交差点に出た。この交差点を右に行くと銀泉湯という公衆浴場に出る筈なのだが、すでに廃業しているようなので、行くのは止めて左へ、江戸橋通りを歩く。この通りは昔からあった道らしく、曲がりくねったところが多少あり僅かながらアップダウンもある。先に進むと、J Rの線路の上に架かる江戸橋に出た。ここを左に線路沿いの桜並木の道を歩くと、線路の上に架かる宮下橋に出た。

宮下橋を渡って宮下通りを少し先に行くと、左側に宮下湯があった。公衆浴場もこれにて終り、後は巣鴨駅に戻るだけである。今回歩いた距離は3kmほど。一寸したウォーキングということになるだろうか。このコースの見どころは、おばあちゃんの原宿だそうだが、そればかりではない。江戸時代の人が歩いた道をたどる道でもある。

上の図は享和元年(1801)の巣鴨村図の部分図で、図の上側が北東に当たる。この図で①とあるのが中山道、②は真性寺である。中山道の下側すなわち西側には民家が並んでいるが、上側(東側)は武家屋敷が続いている。当然の事ながら高岩寺は存在しない。③とあるのは御薬園で、この辺りからは中山道の両側に民家が並ぶようになり、道に沿って並木が続いていた事が分かる。④は庚申塚で⑤は王子道に相当する。⑥は大塚道で、現在の折戸道に相当する。この道は⑧の藤橋で谷端川を渡り、大塚上町に通じている。問題は庚申塚に近い十字路から中山道に平行して進む⑦の道で、真性寺の裏手を通り、その先で別の道と合流する道として描かれている。この道は現在の江戸橋通りのルートと類似しており、かつ、江戸橋通りは明治時代の地図にある道とも合致することから、江戸橋通りは江戸時代の道とほぼ同じルートと考えても良さそうである。そうだとすると、巣鴨東コースは江戸時代からの道を歩くコースということになる。江戸時代の人は何を考えて、この道を通っていたのだろう。

 

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