(1)実篤公園
仙川駅を南に出て右へ、仙川商店街に出て左折し南へ、桐朋学園前の交差点で桐朋学園沿いに右へ行き、その先、学園の敷地に沿って左に折れ、道なりに右へ曲がり、変形の四つ角を越えて進むと実篤公園の入口に出る。この公園は、武者小路実篤旧宅跡を調布市が寄贈を受けて昭和53年に公園としたもので、昭和60年には隣接地に記念館を設置している。調布市若葉町1-8-30。仙川駅またはつつじヶ丘駅から歩いて10分ほど。公園までのルートは、仙川駅からの方が分かりやすい。
公園の管理事務所の先に実篤公園の案内板が設置されている。この公園は国分寺崖線に位置しているが、案内板の辺りまでが台地の上で、1500坪ほどの敷地の大半は斜面とその下になる。台地上からは樹林のため、展望は得られないが、展望は望んでいなかったのであろう。武者小路実篤は、老後を水のある場所で送りたいという長年の夢を叶えるべく土地を探し歩いた結果、この地に湧水と池がある事を知り、土地を取得し家を建てて移住した。昭和30年のことである。実篤は、水がある事のほか、つくしがとれる事と古い土器が出ることも希望していたが、つくしは敷地内からとれ、また古い土器の破片も敷地内から見つかり、実篤の希望はすべて叶えられることになった。この家は仙川駅に近かった事から、実篤は仙川の家と呼んでいた。
入口から玄関に至るアプローチは急坂で、やや右に曲がって玄関に達する。建物の延床面積は30余坪、国分寺崖線下部の緩やかな傾斜地に建てられている。建物は南向きで玄関は北側にあり、入るとロビ-で、その周りに仕事部屋、応接室、客間が配置され、左側には居室などがあり、地下は倉庫になっている。土日祝日には内部が公開されているが、写真撮影は禁止されている。ただし、仕事部屋と応接室については平日でも外から内部を見る事が出来る。現在は樹木が茂ってしまったが、当時の写真を見ると、建物の南側が芝地になっていて、実篤の希望通り日当たりの良い明るい家であったらしい。
敷地内の崖下からは涌水があり、小さな池になっている。今は涌水量も多くはなさそうだが、昭和30年頃はかなりの湧水量があったらしい。この水は上の池を経て下の池に流れ込み、さらに田圃の水源としても利用されていた為、池を埋めない事が土地購入の条件だったという。実篤は池に放した鯉や鱒に餌をやる事が日課になっていたようで、上の池にあずまやが造られる以前の、桟橋のような場所から餌を撒いている写真が残っている。
実篤公園は道路によって上の池の区画と下の池の区画に分断されている。この道路は戦前からあった農道で、利用する人があったためか購入の対象にはならなかったのだろう。現在は道路下の地下通路により二つの区画が結ばれているので、ここを通り抜けて菖蒲田を見に行く。今年は生育に難があって菖蒲は残念な状態になっているが、その代わりヒカリモが見ごろになっていた。ヒカリモは単細胞の藻類で、群生すると光を反射して黄金色に輝くのだが、都内で見られるのはここだけということなので、少し得した気分になる。
実篤公園には実篤旧宅と庭がほぼそのまま保存されており、武蔵野の雑木林の面影も残されている。ただ、樹木が茂って幾分暗くなっているという難点が無いでもない。この暗さを和らげているのが竹林である。竹林があると無いとでは、かなり印象が違うかも知れない。
下の池には小島があって、人の手で造られたような風情もあるが、多分、自然の池なのだろう。この小島を実篤は孫ヶ島と呼び、最初のうちは舟で渡っていたが、後になって橋を架けている。昭和30年頃、下の池の西側は、入間川沿いに開かれた田圃に続いていた。しかし、昭和30年代の終わりごろには、田圃が埋め立てられ、宅地化が進んでしまう。
地下通路を通って記念館に行く。無料の実篤公園に対し、記念館は有料になっているが、折角、武者小路実篤ゆかりの場所に来ているゆえ、入ってみる。帰りは、つつじヶ丘駅に出るが、道は少々わかりにくい。
(2)蘆花恒春園
明治大正の文豪、徳富蘆花の旧宅と遺品を愛子夫人が寄付した事から、これを整備して昭和13年に開園したのが蘆花恒春園である。当初の敷地面積は1万2千㎡余であったが、現在は、周辺の土地も取得して8万㎡まで拡張している。現在の正門を含む北東の区画も、後に取得したもので、正門が建てられたのは昭和47年である。徳富蘆花の旧邸宅を中心とした恒春園区域に対して、後に拡張した開放公園区域は、家族連れにも楽しめる公園になっている。恒春園区域を含め入園は無料。世田谷区粕谷1。最寄り駅は八幡山駅、芦花公園駅、千歳烏山駅だが、千歳烏山駅から歩くのであれば、南口に出て千歳烏山駅南の交差点を過ぎて南東に、品川用水が流れていた道を進み、延命地蔵のある芦花公園西の交差点を東に行けば公園の正門に着く。歩いて15分ほどである。
明治39年、蘆花がロシアにトルストイを訪問した際の、「農業で生活できないか」というトルストイの一言がきっかけで、蘆花は農業生活を始める事を決意し、明治40年、紹介された北多摩郡千歳村字粕谷に東京青山の借家から移住する。移住先は人家もまばらな新開地の低い丘で南と西に展望が開け、西には高尾山や甲斐東部の連山(大菩薩峠に連なる小金沢連嶺)が見えたが、富士山は防風林に阻まれて見えなかったようである。当時は京王線がまだ開通しておらず、蘆花が東京に出かける時は、3里の道を徒歩で往復したという。移住先には井戸もあったが飲用には難があり、大掛かりな井戸浚いを行う羽目となる。粕谷での暮らしは、蘆花が望んでいたものではあったが、家族にとっては都落ちの悲哀を感じる時もあっただろう。その後、大正2年に京王線が開通し芦花公園駅の前身である上高井戸駅が開業。やがて、住まいも次第に整えられて、恒春園と称するようになる。その住まい、恒春園は、今も当時の姿を伝えており、都指定の史跡になっている。
昭和34年に建てられた記念館に入って、一通り見たあと、愛子夫人の居宅を見に行く。この居宅は、愛子夫人が蘆花旧宅を寄付するに当たっての条件の一つとして建てたものであったが、実際に愛子夫人がこの家に住んだのは1年ほどで、その後は三鷹台に転居している。近くのゴミ集積場からの悪臭が原因だったとされる。現在、この建物は有料の集会場として利用されている。
恒春園内を歩くと竹林の存在が目立つが、それはそれとして、クマザサと建物との対比も印象的である。恒春園が開園した昭和13年当時、園内の植物は156種1716本で、既存の植物に加えて、地元及びその周辺で入手した植物を中心に、青山の借家から持ち込んだものや、各地から取り寄せたものを植えていたようである。昭和61年の調査では144種、高木が3226本なので、種類は減っているが本数は倍増していることになる。蘆花は農業生活を目的として移住しており、畑を耕している写真も残っているが、畑地がどこにあったのかは分からない。開園当時の平面図では、現在の記念館の辺りが空地になっているので、この辺りに畑があったのかも知れない。
秋水書院は屋根が特徴的だが、茅葺の維持が難しいので、今は擬木を用いているらしい。秋水書院は明治44年に烏山の古屋を移築したもので奥書院とも呼ばれていた。秋水書院が建てられた後、各棟を結ぶ廊下も造られている。秋水書院の南側には宝永4年の地蔵尊が置かれているが、高尾山下の浅川の農家から移したものという。
梅花書屋は、明治42年に北沢の売家を購入して移築したもので、表書院とも呼ばれていた。この建物は東に面していて、母屋との間が庭のようになっている。林に囲まれている割には明るく、落ち着ける庭である。現在、梅花書屋は有料の集会場として使用されている。
明治40年、粕谷に移住した時、すでに粗末な草葺の家が存在していた。母屋と呼ばれているのがその家で、粕谷で最初に暮らした家である。ただ、暮らすには難があったらしく、その後、リフォームしたようである。大正12年には、恒春園に4棟の茅葺の古屋があったというが、現存するのはそのうちの3棟で、何れも老朽化していたため、昭和60年までに改修が行われている。母屋の近くに恒春園の入口があるが、蘆花邸の門があった場所である。初めの内、蘆花邸には囲いなど無かったが、後に恒春園を囲むように生垣や竹垣が造られる。
母屋近くの恒春園入口の東側は、大正7年に買い上げた土地で、雑木林の中には徳富蘆花夫妻の墓所がある。ここは、武蔵野の面影が比較的残されている場所でもある。この場所のそばに共同墓地があるが、蘆花が移住する以前からあった墓地で、蘆花は自らを墓守と称していた。
恒春園の敷地の南側は一段低くなっている。今は公園の一部となり、児童公園やトンボ池、自然観察資料館などが設けられているが、もとは水無川沿いの田畑だった場所である。水無川は、玉川上水から牟礼で分水した三鷹用水を受け、芦花公園西の交差点の南で品川用水の下を潜り、恒春園の南側を流れて烏山川に合流していたが、水が流れていないことが多く、大雨が降れば溢れるような川だったらしい。現在、水無川は暗渠化されているが、公園の南側の境界が、その流路の位置を示している。
公園の南東は公園化が遅かった場所だが、今は花の丘区域と呼ばれ、花壇には季節に応じた花が植えられている。花の丘区域から道路を挟んで向こう側は東京ガスの世田谷整圧所で、昭和31年に球状のガスホルダーが設置された時は、その景観が評判になったそうである。花の丘の東側、環八通り沿いは低地になっているが、田圃を埋立て植樹をして公園としたところで、今はフィールドアスレチック広場や、草地広場になっている。ドッグランを左に見ながら進み、駐車場の横を過ぎて先に行くと、公園の北東側に出る。環八通りを渡り、八幡山アパートを抜ければ程なく八幡山駅に着く。
蘆花恒春園付近の環八通りとその両側は、八幡田圃があった場所であり、この田圃には2本の川が南に流れていた。東側の川は烏山分水(烏山村分水)と呼ばれ、玉川上水の現・岩崎橋付近から分水し、芦花公園駅の西側を南に流れ、世田谷文学館の近くで東流し、環八通りの東側の辺りで北からの支流を入れて南に流れていた。北からの支流は、はらっぱ広場沿いに流れて来る支流(水源は医王寺の薬師池か)と、八幡山駅付近からの支流を合わせたもので、流れに沿って田圃になっていた。現在の世田谷区と杉並区の区境は、それを反映しているようである。一方、西側の川は本来の烏山川で、現・高源院鴨池の辺りを水源とし、烏山分水の西側を南に流れ、途中、西からの出井の流れを入れた後、烏山分水と並行して流れ、環八通りの西側、現・公園駐車場の辺りを通って南に流れ、その先で東に流れて烏山分水と合流していた。昭和30年代に入ると、烏山川は芦花中付近で烏山分水に合流したあと、芦花小の先で西側に分流するように変更される。昭和30年代の後半になると、八幡田圃の埋立てが進み団地が建てられ田畑は一部に残るだけとなる。昭和40年代、公園拡張のため田畑は都に買収されて西側の川は消滅、東側の川は残るものの、用水としての意味は失われている。昭和46年には環八通りが開通。昭和55年には公園の拡張部分が開園する。その後、東南側の土地が買収され平成12年に花の丘区域として開園し、現在に至っている。
<参考資料>「緑と水のひろば71」「明治大正期の別邸敷地選定にみる国分寺崖線の風景文化論的研究」「仙川の家」「蘆花恒春園」「みみずのたはごと」「今昔マップ」