(63)下谷神社 (台東区東上野3)★★
地下鉄の駅名になっている稲荷町は、この下谷稲荷から来ている。今は稲荷も下谷神社に昇格し、境内の片隅にある稲荷の祠だけが稲荷の雰囲気を伝えているが、江戸稲荷番付では勧進元の王子稲荷の差添え(付き添い)をつとめる格式ある稲荷である。とりあえず神社として参拝し、稲荷社の方にも頭を下げてから外に出る。それから写真を撮ろうとカメラを構えていると、婦人が一人すっと画面の中に入ってきて参拝を始めた。終わるまで待とうとしたが、そのうち姿がぼやけてきた。どうやら当方の目がぼけてきたらしい。
(64)熊谷稲荷 (台東区寿2)★
下谷神社に行ったついでに、神仏具卸問屋街を歩いてみた。中に稲荷の社殿を扱う店があった。土地があれば稲荷の祠を据え付けるのも悪くない。ご利益は、いじめ封じ、ボケ封じ、何でもいい。インターネットなら宣伝費もタダ同然だ。うまく宣伝すれば参詣する連中も出てくるし、賽銭も集まるだろう。街頭募金とは違って、人件費ゼロの無人店舗営業が可能である。違法行為に当たるかどうかは、調べてみればいい。いったい稲荷の社殿はいくら位するのだろう。などと妄想が膨らんだが、残念ながら土地を持っていない。どうしよう、やっぱり駄目か・・と、そんな馬鹿な事を考えて歩いていくうちに、熊谷稲荷のある本法寺に行きついた。
朝倉の武将、熊谷安左衛門が狩猟の折に狐の命を救ったところ、その後幸運に恵まれたことから、稲荷を勧請したのが熊谷稲荷の始まりといい、今でも狐一族を招いて感謝する日を設けているらしい。訪れた日がそんな日だったかどうか分からないが、門内には読経の声が響き、カメラを向けるのも憚られた。仕方なくカメラを下げたまま外へ出た途端、何者かがぶつかってきた。危うく倒れそうになりながらも夢中でシャッターを切った。後で写真を見ると、1枚には空と幟が写っており、もう一枚には黒い影が写っていた。
(65)被官稲荷 (台東区浅草2)★
新門辰五郎が建てた被官稲荷が、浅草神社の裏手にあった。開放的な覆屋の中に小さな祠があるだけだが、何となく風格があり、地の利もあってか、参詣者が少なくない。たとえ、仕官を願う身でなくとも、幾らかの賽銭を投じて、心静かに頭を垂れるのが定法だ。
(66)嬉しの森稲荷 (台東区花川戸1)
浅草寺に近い花川戸公園の傍らに稲荷社があった。むかし花川戸にあった達磨池の辺に
嬉しの森という森があり、そこに祀られていた稲荷という。火防に霊験ありという事で、本当は中に入って参拝すべきだったが、先を急いでいたので、頭を下げて通り過ぎる。
(58)大島稲荷 (江東区大島5)★
小名木川沿いの稲荷で、この川に芭蕉が舟を浮かべて遊んだときの句碑がある。今では丸八橋の影になってしまい、川面も眺められない。しかし、稲荷としてはいい雰囲気の社である。一応、交通安全を願って参拝。いつか船に乗る機会もあるだろう。
(59)治兵衛稲荷 (江東区北砂3)★
この稲荷は、新田を開拓した治兵衛に因んで名付けられという。村の鎮守といった雰囲気を残す社である。境内で小休止してから次の稲荷へ。
(60)亀高神社 (江東区北砂4)
買い物客で賑う砂町銀座の商店街の裏手にあり、亀高村の鎮守であったと言う。亀高稲荷と称していたが、今は稲荷の雰囲気はない。ひと回り見渡してから、次の稲荷へ。
(61)志演神社 (江東区北砂2)★
元は深川稲荷と称したが、将軍綱吉が鷹狩でこの地を訪れた際に、民の志を演ること殊勝なりと言ったことから、志演(しのぶ)と名付けられたと言う。後に、尊空稲荷も合祀して現在に至る。社は稲荷としては立派な方だろう。ひとまず参拝して、次の稲荷へ。
(62)砂村仙気稲荷 (江東区南砂3)
疝気が治る事で知られた稲荷。元の稲荷は移転してしまい、現在のものは町内会によって再建されたものである。この位の大きさの祠の方がお稲荷さんらしくて良い。
(54)黒船稲荷 (江東区牡丹1)★
門前仲町で下車して大横川を渡る。例によって少々探し回ってから、やっと稲荷に行き当たった。鶴屋南北が住んでいた頃は、この辺りは雀の森と呼ばれていて屋敷森が多かったと言う。今は住宅が建てこんで昔の面影なんぞはないのだろうが、稲荷の境内は何故か過去をそのまま引き摺っているようで、何と無く暗い感じが漂っている。祠には狐が今でも棲み付いていそうな気もして、写真を撮ってからさっさと退散。
(55)開運出世稲荷 (江東区富岡1)
深川不動の境内に、ダキニ天を祭る開運出世稲荷があるのを見つけた。とってつけたような名前の稲荷だが、相応のご利益はあるのだろう。賽銭無しで参拝するのは憚られるので、横目に見ながらそっと通り過ぎる。
(56)繁栄稲荷 (江東区木場2)
大丸デパートの業祖が江戸へ進出した折、この地に別邸を置き稲荷を祀ったのが、この稲荷の始りである。大丸の繁栄は当方と関係がないが、ひとまず参拝だけしておく。
(57)於六稲荷 (江東区木場6)
黒船稲荷の近くにある州崎神社の境内に於六という女狐を勧請した稲荷が、豊川稲荷と並んでいた。神社の方に参拝し稲荷の方は一寸だけ頭を下げて済ます。
(49)正木稲荷 (江東区常盤1)★
この稲荷の名は、柾の大木から出ているらしいが、その木は現存しない。だが、腫物に効くと言う稲荷の効能の方は、残っている事になっているのだろう。江戸稲荷百番付では世話人をつとめた稲荷ゆえ、敬意をはらって参拝する。
(50)芭蕉稲荷 (江東区常盤1)★
小名木川にかかる万年橋の近くに芭蕉稲荷がある。芭蕉庵の旧跡としての意味合いはあるのだろうが、稲荷として機能しているかどうかは不明。一礼して立ち去る。
(51)深川稲荷 (江東区清澄2)★
稲荷としてより、深川七福神の一つ布袋尊の社として知られている。正月は参詣する人も多く町内会の人も摂待に出るが、それ以外の季節は道路の角にぽつんと置き忘れられた格好になっている。今日は布袋の方はお休み願って、稲荷の方を参拝。
(52)三穂道別稲荷 (江東区清澄3)
清澄庭園から小名木川方面へ行く途中、路地を抜けると稲荷があった。元は敷地の大きさに因んで三坪稲荷と言ったらしいが、他の稲荷も合祀して現在名となる。この稲荷、不信心者を拒むかのように金網で囲まれている。中を覗いてみると、何故か三毛猫が居た。
(53)紀文稲荷 (江東区永代1)
紀文(紀国屋文左衛門)が建てた稲荷とあるが、どうだろうか。近くの清澄庭園の辺りに紀文の別邸があったという話があるが、後世の作り話という説の方が本当のような気がする。明暦の大火で財をなしたという話は河村瑞賢との混同かも知れない。紀文は虚像ばかりが膨らんで分からない事が多いのである。荒天をついてミカンを江戸に運んだのが事実であったとしても、それだけで巨万の富を得たとは考えにくい。ただ、稲荷のふいご祭にミカンを撒く風習があり、そのためのミカンを運んだとすれば、紀文も多少は稲荷と縁があるということになる。ふいご祭の時に来てみれば何か分かるかも知れない。その時には、境内の力石が効力を発揮するような気もする。今は手を触れても、何ごとも起きないが。
(47)鉄砲州稲荷 (中央区湊2)★★
もともとは日比谷入江の奥にあったのが、江戸時代の埋め立てに伴って移動し、この場所、鉄砲州に辿り着いたらしい。今は海から遠く離れているが、江戸時代は湊があったようで、この稲荷も港に出入りの船乗りから厚く信仰されていたという。いつか船に乗ることがあるかどうかは分からぬが、その時の為に拝礼。
(48)波除稲荷 (中央区築地6)★
築地市場が開いていないと、波除神社(稲荷)の周辺は閑散としている。市場関係者ではないので、見物客の雰囲気で神社に入り獅子頭を見物してから外に出た。築地市場が移転したら、この稲荷どうなるんだろうと考えるのは余計なお世話かも知れない。
(42)幸稲荷 (中央区銀座1)
幸という名がついているが、もとは武具の商人の屋敷稲荷であったらしい。銀座では珍しい土地付きの社で、狭い境内ぎりぎりに背を伸ばした銀杏が黄葉を散らしている。裏手の小料理店に敬意を表して一句ひねりたいところだが、とても無理なので省略。稲荷を横目で拝んでから、路地の三毛猫に会釈して通り過ぎる。
(注)現在、幸稲荷の敷地にはビルが建ち、敷地内の銀杏は伐採され、幸稲荷も路地を入った先に遷座している。稲荷裏手の小料理店も今は無い。
(43)朝日稲荷 (中央区銀座3)
道路に面した場所に鳥居と拝殿が設けられ、ビルの屋上にある稲荷の社殿と拝殿はパイプで繋がっている。パイプを通して願い事が上まで届くというわけだ。ビル屋上の神社は神社に非ずという公式見解があるらしいが、もともと神社の埒外である稲荷社にとってはどうでも良いことなのだろう。人通りの邪魔にならぬよう、頭を下げただけで通過。
(44)宝童稲荷 (中央区銀座4)
江戸城内紅葉山の子育祈願の稲荷を、弥左衛門なる者が願い出て、分祀した稲荷という。弥左衛門は城内の下働きの一つ、掃除之者であったらしい。現在は、ビル裏側に取り囲まれた日も当たらぬ路地に、ひっそりと鎮座している。通行人を装って、目礼して通過。
(45)あづま稲荷 (中央区銀座5)
あづま通りから入る三原小路に小さな稲荷があった。この辺りは火事が頻々と発生していたのが、この稲荷を祀った後は、火事が無くなったと言う。社はミニ版だが、この銀座ではあまり無理を言えないのだろう。地面に置かれているだけで良しとしなければ。
(46)豊岩稲荷 (中央区銀座7)★
入口に標柱が無ければ、こんな所に稲荷があるとは思わない。ビルとビルの間の人ひとり通れる位の隙間を入ると、ビルに嵌め込まれたような稲荷が出現する。黒岩稲荷と称し明智光秀家臣の子孫が主家の再興を願って建てたとも云う。今は西側が空き地のため光が差し込んでいるが、そのうちビルが建てば、再び昼なお暗き薄気味悪い場所に戻るに違いない。迷路のような道と異様な雰囲気は稲荷巡りの醍醐味ということにはなるが、夜になってからは行きたくない。閉じられた扉の向こうに何があるのか、稲荷社の上の階はどうなっているのか、少々気にはなったが、長居は無用で、そっと通り過ぎる。
(39)椙森神社(中央区日本橋堀留町1)★★
この神社は藤原秀郷が平将門の乱を鎮定するため戦勝祈願したところと伝えられ、後に太田道灌が雨乞祈願のため伏見稲荷を勧請したとされる。江戸時代には、烏森稲荷、柳森稲荷と並び江戸城下の三森と称され、江戸稲荷番付の小結をつとめた稲荷でもある。今では、日本橋七福神の恵比寿神の方で知られているかも知れない。実は、しるしの杉を授与しているかどうか気になってはいたのだが、面倒なので社務所には聞かず終い。次回、宝くじが当たったら、また参拝に来ることにして、今回は簡略な礼拝で済ます。
(40)末広神社(中央区日本橋人形町2)★
稲荷神の倉稲魂命を祭る小さな社だが、稲荷社らしい雰囲気はあまりない。この神社はこの辺りの産土神だったようだが、今は日本橋七福神の毘沙門天として正月には参詣客が訪れる。次回来た時に改めて参拝することにして、今回は頭を少し下げただけで通過。
(41)笠間稲荷(中央区日本橋人形町2)★
江戸中期に常陸国の笠間稲荷を分霊した稲荷社という。稲荷社としては程々の大きさの社である。大正時代の稲荷番付では、京都の伏見稲荷、三河の豊川稲荷と並んで常陸の笠間稲荷が行司役をつとめており、常陸の笠間稲荷の格が上がっているが、人形町の笠間稲荷の方はどうだったのだろうか。今は日本橋七福神の寿老人として参詣する人の方が多いかも知れない。ここまで来て、七福神の色紙を持って来なかった事に気がついた。七福神巡りと稲荷詣を兼ねるのがここを巡る趣旨なのだろうが、それは次の機会まで延期ということに。
(37)半田稲荷(葛飾区東金町4)★★
ほうそも軽い、はしかも軽い、祈るは葛西金町の、半田稲荷の幟ざお、・・・」
半田稲荷が歌舞伎の踊りに取り上げられたのは、半田稲荷の幟を持った願人坊主が、江戸の町々を踊りながら回ったことが元になっているという。この稲荷は、流行期と衰退期が入れ替わる典型的な流行神であったと言われているが、現在の稲荷が立派な社殿におさまっているところを見ると、流行神から脱却したのだろう。この先、はしかが流行したとしても、この稲荷が急に繁盛し始めて、再び流行神に戻るようなことはないだろうな、多分。
(38)大下稲荷(葛飾区東金町5)
水元公園のすぐ近くで、小さな稲荷社を見つけた。社の大きさでは半田稲荷とは比べようもないが、どこか懐かしいところがある。このような稲荷も悪くない。
(35)三囲神社 (墨田区向島2)★★
むかし、狐に乗った翁の像が掘出された事があり、その周りを狐が3回まわったのが、この神社の名前の由来になっている。狛犬と狐の間を通り社殿に一礼。石碑やら三角鳥居やらを見ながら境内をうろつく。近所から来たらしい老夫婦がベンチに腰をかけている。冗談に「白狐、呼び出せませんかねぇ」と言おうかと思ったが、無作法に過ぎるので、声に出さずに通り過ぎる。多分、白狐はもう居ないのだろう。来るのが遅すぎたのだ。
(36)飛木稲荷 (墨田区押上2)★
押上駅の北側、東武と京成の線路を越えた所に、神木のいちょうを前面にして、飛木稲荷が鎮座している。ただ、何となくだが、本日は稲荷神不在のような気がする。験の杉もなさそうなので、記念として神木のいちょうの落ち葉を一枚持ち帰る事にした。