夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

千川上水花めぐり(7)

2010-04-29 09:07:53 | 千川上水

 九頭龍橋跡から、次の信号の所まで行くと、ようやく北側の歩道に桜並木が続くようになる。桜の下はグリーンベルトで、千川上水が地下を流れているという。桜の下の道を歩いて行くと祠があり、九頭龍弁財天ほか石造物を集めて祀っている。その先、中村橋駅の入口にある交番の近くに架かっていたのが中村橋で、今は駅名にその名を残すだけである。中村橋跡から千川通りの北側の歩道を歩くが、グリーンベルトには桜の並木が続き、花見時には歩いて楽しい道である。その先、桜の下の不動の祠にちょっと頭を下げ、桜の向こうの桜井銘木の建物に目を留め、古道の下練馬道を知らぬ間に通りすぎる。


 そろそろ桜にもグリーンベルトにも飽いてくる頃、桜並木が途切れて豊玉北六の交差点に出る。この交差点で、千川通りは目白通りと交差するが、西側の目白通りから東側の千川通りに抜ける道は、清瀬や練馬からの農産物の運搬ルートであった清戸道に相当する道である。この交差点を渡って千川通りに入ると、練馬駅前の繁華街となる。北側の歩道を歩くと、文化センター入口の五差路の先に筋違橋跡の小さな碑がある。人通りの多い駅前を抜け、練馬消防署前の交差点を過ぎると、再びグリーンベルトと桜が現れる。桜台駅前の交差点を過ぎ、桜の碑を横目に先へ進んで、環七の陸橋の下を潜る。ここから道は右に曲がるようになり、右手に武蔵大学が見えてくる。武蔵野稲荷神社の前を過ぎて、江古田駅が近くなると桜並木も無くなり、江古田二又、現在の江古田駅南口の五差路の交差点まで、桜並木は途切れたままである。

 「千川上水路図」(明治16年頃)で、九頭龍橋から千川上水の右岸を行く。北側は畑地が続くが、南側に林が見えるようになり、中村橋が架かっている。この橋には、阿佐ヶ谷、鷺宮から清戸道に出る道が通っている。現在の中杉通りである。千川上水の右岸をさらに進むと、現・中村北三の交差点から南に中村分水が分かれている。この分水は南に流れて南蔵院付近の田の灌漑に使われた後、東流して現・学田公園付近にあった沼に注いでいた。この沼に流れ込んでいた分水はもう一つある。中村分水から橋を六ヶ所過ぎたところから、中村と中新井村の境を南に流れる中新井分水である。なお、この沼から流れ出た中新井川(江古田川)は、東流して水田を潤し、北に流れたあと南に向きを転じて妙正寺川に流れ込んでいた。中新井分水から先、二つ目の橋を北に渡ると清戸道に出る。ここを右に千川上水の北側を進み、橋を三か所ほど過ぎると、千川上水が南から北に移る場所に筋違橋が架かっている。この橋を渡って人家が続く清戸道を進むと現・練馬消防署の近くに水車があった。矢島水車で、筋違橋の手前から回し掘を設けて清戸道の南側を通し、その水で水車を回していた。この水車から先、千川上水の右岸をそのまま進んで橋を二か所過ぎる。清戸道沿いには人家が点在しているが、北側は相変わらず畑地が続いている。現・環七の陸橋の辺りまで来ると、下練馬分水が北に分かれ、石神井川に向かって谷を下っている。その先では、南へ中新井村用水が分かれている。現・武蔵大学構内を抜けて江古田川に流れ、妙正寺川に注ぐ分水である。なお、現・桜台駅交差点近くにも、中新井村分水があったとされるが、「千川上水路図」には記載が無い。右岸をそのまま進むと、清戸道と高田道が分岐する江古田二又に出る。

コメント

千川上水花めぐり(6)

2010-04-26 19:38:30 | 千川上水

 伊勢橋から先、千川上水の水路は、北側の石神井川水系の谷と、南側の妙正寺川水系の谷に挟まれた台地を流れることになるが、現在は、一部を除いて暗渠になっている。青梅街道を渡って右側の千川上水緑道を歩く。千川上水の暗渠の上に作られた緑道で、樹木も程々に植えられているが、周辺は工事中で、今は少々煩わしい。緑道は立野橋の交差点で終わりとなり、ここから先は、千川通りが千川上水の経路となる。立野橋は名前だけが残っているだけだが、東北の角にある庚申塔は、昔の位置のままだという。庚申塔にちょっと頭を下げ、ついでに千川上水の説明板を読んでから、北側の歩道を歩いていくと、歩道が広くなっている場所がある。筋違橋があった場所という。その先、昭和44年まで稼働していた田中水車に因む遊具が上石川児童遊園にある。

 次の庚申塔の祠の所からは、南側の歩道に移り、上井草給水所の下石神井調圧槽の塔を過ぎる。道は僅かに下りとなるが、北側の歩道は水準を保ち、車道との段差が広がっていく。妙正寺川に注ぐ谷の源流部が入り込んでいたため、土手を築いてその上に水路を通した築樋の跡が、北側の歩道だという。そのまま進むと左手直ぐに西武新宿線の踏切がある。その東側に、千川上水の水路が姿を見せている。水路はカーブを描きながら線路の下を通り抜け、踏切の向こうで短い間だけ姿を現している。千川上水の水路とは、ここが最後の対面の場である。

 南側の歩道を歩いて行くと、道の横に屋敷森が今も残っている。その先の交差点で今度は北側の歩道に移る。ここから暫くは桜並木が続くが、それも、井草四の六差路までである。この六差路から、右斜め前方に入る新青梅街道を進むと、休憩するには好適な井草森公園に出るが、今回は直進して千川通りを進む。ここから、富士見台駅の辺りまでは、北側の歩道を歩くが、交通量の多い道路の横を歩くので、少々煩わしくもある。それに、この区間には、桜も申し訳程度にしか存在しない。住宅展示場を過ぎ、急ぎ足で環八を渡ると、八成橋の交差点となり、昔の所沢道、現在の旧早稲田通りを渡る。この近くに八成水車があったという。その先、東高野と称された長命寺への道を渡ると、滝沢花園の温室が左手に見えるようになる。この辺りから、車の喧騒も心持ち遠のいて、少しだけ歩を緩めたくもなる。相変わらず、歩いて楽しい道ではないが、途中には小公園が三か所ほどあるので、小休止するには良いかも知れない。鴨下水車という水車があったのも、この辺りである。その先が、富士見台駅近くの五差路で、九頭龍(クズリュウ)橋という石橋が架かっていた場所という。現在の千川通りは千川上水の水路上を通っているが、九頭龍橋を渡って西に行く道が本道だったということである。

 「千川上水路図」(明治16年頃)によると、伊勢橋から先の千川上水の南側は、松林や藪に阻まれて上水沿いに続く道はなかったようである。そこで、伊勢橋を渡って青梅街道から分かれ、千川上水の北側にある道をたどる。現在の車道に該当する道である。関村から上石神井村に入ると土橋がある。立野橋である。その少し先、筋違橋という石橋があるが、その下流にあったとされる田中水車は、明治16年には未だ存在しておらず「千川上水路図」にも記載は無い。筋違橋を渡り千川上水の南側、右岸をたどるが、千川上水は築樋で低地を越えている。ここには石橋が3か所架かっているが、北へ行く道は途中で一緒になり石神井の弁天社に向かっている。三番目の石橋から先は、千川上水の両側に畑地が続くようになる。道は右岸に沿っており、途中五か所に橋が架かっている。ただし、明治16年頃には西武新宿線が存在していなかったため、この辺りの道路は現在とかなり違っている。
 その少し先に、「千川上水路図」にも記されている、東京同潤社の工場があり、石橋が架かっていた。この工場では、糸を晒すために千川上水の水を使用していたが、明治19年には廃業になっている。工場の先、橋を二つ過ぎると土橋があり、北へ天王祠(天祖神社)を経て禅定院に向かう道が通っている。ここから三か所の土橋を過ぎるが、南側には楢の林が続くようになる。当然の事ながら、途中に環八は存在しないので、そのまま進んで、所沢道が通る八成橋という石橋に出る。なお、八成水車は、明治16年頃には存在せず、「千川上水路図」にも記載されていない。八成橋から二つ目の三兵橋で、北へ行く長命寺への道を見送り、さらに二つほど橋を過ぎると、田中村と谷原村の境となる橋がある。広い道が南北に通じているが、この道を北に行き右に折れて九頭龍橋に出るのが当時の本道だったらしい。ここでは、千川上水沿いの細い道を行く。しばらく進むと、北側に分水があり水車がある。鴨下水車である。その先で千川上水は左に曲がっていく。現在の道は、千川上水の流れに沿って斜めに曲がっているが、当時の道は千川上水から離れ、林の中を直進してT字路に出て左折し、九頭龍橋に出ていた。

コメント

千川上水花めぐり(5)

2010-04-23 21:14:53 | 千川上水
 更新橋から右岸を歩く。自転車も通る道だが、煩わしいという程ではなく、桜も所々にあって散策するには良い道である。ただ、コンクリートの直線的な水路が、少し興ざめではある。次の無名の橋を過ぎると、木の橋風に作られた西北浦橋に出る。ここから無名の橋が二か所続くが、水路が石積護岸となり、昔からの水路のような眺めとなる。

 右岸をさらに歩くと、北裏橋に出る。次の橋は桂橋、その次の橋は東北浦橋と続く。この橋の近くには供養塔があるが、昔の千川上水は水量もあり流れも速かったのだろう。次の橋は吉祥寺橋で、ここを渡ると、昔に戻ったような風景が広がっている。北側には畑が広がり、南側の屋敷森の下には、千川上水が小川のような風情で流れている。ここからは、農道のような道を歩くが、本来は畑の北側の道を歩くべきなのかも知れない。次の橋を渡り、千川上水の右岸に沿って一般道路を歩くが、その先に、もう一つの屋敷森が現在も残っている。吉祥寺橋から先、無名の橋が幾つかあるが、川が身近な存在で、暮らしと結びついていた頃を思い出す風景である。

 屋敷森を過ぎると、千川上水は突如暗渠となる。遊歩道風に整えられた道を歩いていくと、その先の石神井西中の前の辺りに、千川上水の水路が再び姿を現す。それも短い区間で、再び暗渠となり千川上水緑道となる。この緑道は吉祥寺通りで終わるが、この場所、石神井西中の交差点のところには、千川橋という橋が架かっていたという。吉祥寺通りを渡ると、千川上水が石積護岸の姿で現れる。ここから伊勢橋までの区間は、昔を思わせる水路が続くが、右岸は車道で、歩道はその南側にしか無く、左岸の細い歩道は部分的にしか通れない。無名橋、田中橋、久山(キュウヤマ)橋を過ぎ、北側に広がる畑を眺めながら歩く。さらに、無名橋、竹下橋、さらに無名橋を幾つか過ぎると青梅街道に出る。伊勢橋があった所である。なお、青梅街道の手前で、千川上水から六ケ村分水が分かれていたが、現在は暗渠となり、清流復活で流されて来た水の7割が、青梅街道沿いを流れて善福寺川に流入しているとのことである。


 「千川上水路図」(明治16年頃)によると、現・更新橋から先の左岸の道は千川上水から少し離れた所を通っていた。千川上水の北側は畑地で、南側の千川上水沿いには屋敷森らしきものが続いていたようである。しばらく行くと、南側の吉祥寺村に出る橋がある。この橋の先で、弧を描いて流れてきた千川上水が東北に折れ曲がるようになるが、ここに南北に通じる道があり、橋が架かっていた。現在の吉祥寺橋である。なおも左岸を進み、南側に渡る橋を見送ると、道が左岸から右岸に移る場所に橋が架けられている。現在の石神井西中の西側辺りになるだろうか。その先にあるのが千川橋である。ここから、両側に畑地が続く道を進み、橋を一つ通り過ぎると、千川上水から六ケ村分水が分かれている。この分水は元々七ケ村分水であったが、後に中村が外れて、明治の頃には六ケ村分水になっていた。この分水は、青梅街道沿いに流れ、上井草村、下井草村、上鷺宮村への用水となり、その先で上萩久保村、天沼村、阿佐ヶ谷村へ用水を供給していた。六ケ村分水を小橋で渡ると青梅街道で、左に行けば千川上水に架かる伊勢橋である。この橋の南側には、千川上水の維持管理を行う水番屋があったというが、明治時代まで残っていたかどうかは分からない。
 千川上水の水車への利用は、安永9年(1780)に今川氏知行地の井草村に設置された水車に始まる。千川上水の水量は、玉川上水から千川上水への分水口で加減しており、その管理は水元役である千川家が行っていたが、井草村の水車を回すに十分な水量が得られないこともあったらしく、井草村の人間が無断で分水口を加減し、千川上水の水量を増やす事があった。その結果、千川上水の下流で水が溢れ、田畑や街道が浸水する事態が発生したため、千川家から訴状を出したものの、それで一件落着とはならなかった。文政元年(1818)になって、井草村の水車を上保谷新田に移す事で決着が図られたが、その後、井草村に水車が新設されたことから問題が再燃し、結局、井草村に新設された水車は廃止される事になった。文政5年(1822)のことである。

コメント

千川上水花めぐり(4)

2010-04-20 21:54:31 | 千川上水

 現在の千川上水は、武蔵野大学前の交差点から先、五日市街道と分かれて直進するが、川沿いの緑地は大幅に縮小してしまう。その代わり、横断歩道を渡る煩雑さも無くなって歩きやすくはなる。千川上水遊歩道とあるので、水路の近くに下りてみる。当然ながら、本来の千川上水とは別物で、水路も狭く人工的ではあるが、車の通る道を歩くよりは快適である。そのまま進むと、橋の名が地名に由来する葭窪橋に出る。ここからは左岸の道を歩くと、千川小の近くに千川橋がある。その次の橋は、こいこい橋だが、橋の由来までは分からない。

 なおも左岸を進むと、地名を橋の名にした関前橋となり、緑地が途切れて伏見通りに出る。この橋の南側一帯は、戦前まで戦闘機を製造していた中島飛行機の製作所があった場所という。伏見通りを渡ると、千川上水の水路が再び現れるが、右岸が歩けないので左岸を歩く。それも少し先で、水路は道路の下に消えてしまう。広い交差点を渡ると、交通量の多い右前方と左前方の道路の間の道に、千川上水がまた姿を現す。相変わらず人工的な水路だが、自然の川のような雰囲気があり、左岸の車道も交通量が少ないので、歩いていて煩わしさが無い。右岸を歩いていくと、三郡(ミゴオリ)橋に出る。橋の名は、新座郡上保谷新田、北豊島郡関村、北多摩郡関前村の三つの郡が隣接していたからという。現在は、橋の南側が武蔵野市で北側が西東京市だが、三郡橋から少し歩くと練馬区になっている。三郡橋から無名の橋を二つほど過ぎると西窪橋に出る。この橋の名は地名に由来するのだろうが、次の更新橋の名の由来はよく分からない。橋の傍に庚申塔が祀られているが、庚申が更新と誤記され、橋の名として定着したのだろうか。もっとも、この庚申塔は元々三郡橋の近くにあったということである。更新橋は交通量の多い中央通りが通っているが、付近には桜が多く南側の中央通りも桜並木が続いている。


 「千川上水路図」(明治16年頃)で、千川上水沿いの道をたどると、橋を渡って南東に行く五日市街道と分かれて、左岸に沿って進み、少し先にある水路を板橋で渡る。この水路は、現・千川橋の上流で千川上水から分水し、上水に並行して流れて、平井家が経営する坂上水車を回したあと、現・関前橋の手前で千川上水に戻る水路である。水路を渡ってすぐの右側に、千川上水に架かる板橋があるが、橋の向こう側は畑地で、川沿いに歩く道はなさそうである。そのまま、水車の水路と千川上水の間の道を進み、少し先で、水車から流れ出た水路を渡る。この辺りの「千川上水路図」の記載は明確ではないが、当時の地図によると千川上水の左岸に沿って道が続いていたようである。北側は畑地が続くが、南側には人家も見えるようになる。暫く行くと橋があり、関前村から青梅街道に抜ける道が通っている。位置的には、現・関前橋より下流だろうか。次の三郡橋まで、北側は畑地が続くが、南側は千川上水沿いに林や藪が続いている。三郡橋の少し下流に、新座郡と北豊島郡の境界、現在の西東京市と練馬区の境界があり、この境界に沿って、溜井(現在の武蔵関公園富士見池)に注ぐ関分水が流れていた筈だが、「千川上水路図」には記載が無い。この辺り、北側は青梅街道まで畑地が広がっているが、南側は、所々に林がある畑地で、千川上水沿いには人家が点在している。左岸を歩いていくと、南に渡る橋がある。現在の更新橋に相当する橋である。

コメント

千川上水花めぐり(3)

2010-04-17 08:53:46 | 千川上水

 現在は、境橋の交差点から武蔵野大学前の交差点まで、千川上水跡地の緑地が五日市街道の中央を分離するように伸びている。この緑地は、多摩湖自転車道と交差する関前五の交差点と、柳橋交差点とにより三か所に分断されている。千川上水は、境橋に近い一番目の緑地内の「千川上水 清流の復活」碑近くの開口部から流れ出している。現在の千川の水路は千川上水本来の姿ではないが、緑地には欅の並木が続き遊歩道もあって、交通量の多い道路の中央にあるとは思えないほどである。ただ、横断歩道が少ないので緑地に入るのは少々煩わしい。まず、五日市街道北側の歩道から横断歩道を渡って一番目の緑地内の蛍橋に出る。そのあと、緑地内を右に行き、清流の復活の碑を見たあと引き返し、緑地内の遊歩道を歩いて、蛍橋の下流にある樋口橋に行く。橋の名は、バス停にその名を残す橋からきているのだろうか。なお、樋口は地名で、千川上水に分水する埋樋の出口・樋口に由来している。遊歩道はさらに下流に続いているが、交差点で行き止まりになるので、樋口橋に戻って横断歩道を渡り、南側の歩道に出て、次の交差点に行く。左へ行けば、多摩湖自転車道を通って花小金井方面、右へ行けば境浄水場に出る。

 二番目の緑地は、柳橋交差点の横断歩道を渡って入ることになる。緑地内には橋が無いので、遊歩道により緑地内を一巡して戻り、柳橋交差点の横断歩道を三回渡って、三番目の緑地に行く。この緑地内の水路を流れに沿って歩いて行くと鎮守橋がある。橋の名は、上保谷新田の鎮守・阿波洲神社に由来する地名からだろうか。この橋の先にあるのは無名の橋で、その下流はショカッサイの花も咲く春の小川のような雰囲気の水路になるが、交差点で行き止まりになる。無名橋からは、横断歩道を北か南に渡れるが、ここでは北に渡って武蔵野大学前の交差点に出る。2mはあろうかという文字庚申塔が印象的である。千川上水に架かる井口橋は交差点の北側にあり、この橋が石橋に架け替えられた時の供養塔が傍らにひっそりと建っている。この橋から北に行く道は、田無から所沢に出る深大寺街道で、古くは川越から深大寺に至る軍道であったそうだが、今は、南に深大寺に向かう道が境浄水場で分断されている。


 明治16年頃の「千川上水路図」には、玉川上水からの分水が地上に現れる樋口から、井口橋までの間に三か所の橋が記されている。現在の千川上水の水路は、当時とは異なるので、現在の橋と対応させることは出来ないが、最初の橋は土橋で境橋の近く、二番目の橋は石橋で現・樋口橋の付近、三番目の橋は土橋で柳橋交差点より上流部に位置していたと思われる。当時、千川上水の南側には畑地が広がっていたが、千川上水の左岸・北側には五日市街道があり、街道沿いに人家もあった。五日市街道を先に進むと二番目の橋の手前に水路があり小橋が架かっていた。この水路は五日市街道の北側を流れ、水車を回したのち、地下を通って、三番目の橋の下流で千川上水に戻っていた。水車の位置は、現・柳橋交差点の西側、五日市街道の北側にあたる。水車を経営していたのは平井家で、他にも坂上水車を保有していた。平井家は上保谷新田の名主を勤める家柄で、千川上水分水口の水番人も勤めていたという。上保谷新田には、同一の水車かどうかはともかく、江戸時代から水車はあったようである。さて、三番目の橋を過ぎると、北側には楢の林が広がるようになる。そのまま進むと五差路に出る。現在の武蔵野大学前の交差点が、その場所に相当する。五差路から北に行く道は田無に出る深大寺街道、西に行く道は鈴木新田に行く道、橋を渡って南東に行く道は五日市街道、あとの二つは千川上水の左岸の道である。

コメント

千川上水花めぐり(2)

2010-04-14 20:08:32 | 千川上水

 現在の千川上水の分水地点である境橋へは、武蔵境駅から15分ほどで行けるが、多少遠回りになっても、花小金井から歩く方がお勧めである。もう少し余裕があれば、小平から花小金井まで、花見をしながら歩いても良い。花小金井を起点にすると、駅を出てすぐ、桜の下に遊歩道が続いている。左側の広い方の道が多摩湖自転車道、右側の歩道が狭山・境緑道ということになるのだろうか。この道を東に向かって歩き、車道を二つ渡ると、また、桜の下の道となる。道は遥か先まで直線的に続いている。多摩湖から境浄水場まで敷設された水道管の、昔で言えば上水の、その上の道である。畑からまっしぐらに持ち込まれた野菜の直売所を過ぎると、間もなく、自転車道は下り道となり、歩道は左側に移って土手の道へと上がって行く。この先、展望の開ける場所は無いので、しばし休んで周囲を眺める。下を見ると、土手の下を直角に通り抜ける水路が見える。水流は確認できないが、石神井川の上流だという。

 土手の道は、少し先で、また自転車道と一緒になり、緑道として続いている。迷う事なき一本道で、桜もあり、畑もあって、ウオーキングやジョギングには好適な道だが、今回の目的には合致せぬ故、土手から下りて小金井公園に入り、広い公園内の東側を散策して、桜を眺めたあと、スポーツセンター入口から外に出る。ここまでの自転車道・緑道や小金井公園は、明治時代には無かったものだが、五日市街道と玉川上水は、当時から存在していたものである。ただ、その様子はかなり様変わりしている筈である。長い歩道橋で、この二つを一まとめにして渡り、桜が点々として続く玉川上水の南側を、水の流れる向きに歩いていく。新橋を過ぎると、そのもう少し先に、曙橋という橋がある。明治時代に作られた二つの分水口は、この橋の上流にあったという。曙橋で上流方向を眺めてから、今度は玉川上水の左岸、北側を歩く。

 この先、玉川上水に並行して流れていた筈の千川上水の水路は既に無く、今は五日市街道の上を車が流れているだけである。川沿いの道を歩き、くぬぎ橋、もみじ橋を経て境橋に出る。橋の下を覗いてみるが、明治の頃の面影など探しようもなく、まして、江戸時代の痕跡など見つかりそうにない。境橋の北側は広い交差点で、五日市街道の先、道路の中央に緑地が見えている。現在の千川上水は、境橋下流の玉川上水から分水しているが、分水地点は都の建設事務所敷地内にあり、五日市街道の下を通って緑地内の水路に流しているという。

 明治16年頃に書かれた「千川上水路図」は、現・曙橋の上流にあった分水口が起点になっている。最上流にあるのが明治13年に作られた分水口で、ここから千川上水の水路は玉川上水と五日市街道の間を流れていた。この水路には橋が架けられていて、玉川上水の土手の側にも行けたようである。五日市街道をさらに進むと、明治4年に作られた分水口があり、この分水口からの水路が合流してくる。この水路にも橋が架かっていた。当初、これらの水路は胎内堀(地下トンネル式)であった筈だが、明治16年頃には、開渠のようになっていたらしい。千川上水沿いに五日市街道を進んでいくと人家があり、その先、左から別の水路が流れてくる。関前村に水を引く関野分水だという。元々の関野分水は、玉川上水の左岸を流れて、千川上水の上を懸け樋で越えていたが、明治16年頃には、千川上水の方が地下に潜って、関野分水と立体交差するように変えられていたようである。関野分水を渡ると、その先で、千川上水が地上に顔を出すことになる。その位置は、現在の境橋の近辺と思われるが、確かな場所は分からない。

 小金井の桜は江戸時代から有名であったから、花見時には玉川上水沿いに歩く人も少なからず居たのだろう。ただ、明治16年と言えば、中央線はおろか甲武鉄道も開通していなかった時代である。泊まりがけの行楽客も居たに違いない。当時、五日市街道沿いに、人家が所々にあったとは言え、周辺には雑木林が点在する畑地が広がっていた。

コメント

千川上水花めぐり(1)

2010-04-11 12:34:51 | 千川上水

 西武池袋線の東長崎駅に、「千川上水を探訪する」というパネルがあり、千川上水についての説明と昔の写真とが展示されている。駅の近くを千川上水が通っていた事に因んだものらしい。そこで、千川上水について少し調べてみた上で、千川上水の跡をたどってみる事にした。時は4月。桜など花を見ながらの散策という事になる故、タイトルは、「千川上水花めぐり」とした。

 初めに、千川上水についての概略を記しておく。千川上水は、元禄9年(1696)に将軍綱吉の命令で、玉川上水から分水して作られた水路で、設計は河村瑞賢が担当したともいわれている。工事を請け負ったのは播磨屋徳兵衛、和泉屋多兵衛と加藤屋善九郎、中島屋与一郎である。工費は幕府の見積費用を超過したが、私財を投じて無事完成し、その功により千川の姓を拝領する。善九郎と与一郎も千川を名乗るが、水元役として千川上水に関わり続けたのは、徳兵衛と多兵衛の家だけである。工事は、玉川上水の分水口から巣鴨の元枡までの、距離にして約22km、高低差40mほどを素掘りとし、西巣鴨の元枡からは木樋により、白山御殿、湯島聖堂、東叡山、浅草寺と、柳沢屋敷(六義園)などの屋敷及び駒込から浅草に至る地域に上水を供給するものであった。
 
 千川上水の上水(飲用水)としての利用は、享保7年(1722)に休止となり、天明元年(1781)に再開されるが、天明6年(1786)に再度休止となる。明治13年(1880)、千川水道株式会社により上水は再興されるが、明治40年(1907)には会社閉鎖により、上水としての利用は終了する。一方、農業用水としての利用は、宝永4年(1707)に始まり、上水としての利用が休止された期間も農業用水としては継続的に利用されている。また、江戸後期から明治にかけて、水車への使用や工業用水としての利用も行われるようになった。しかし、戦後は需要が減少し、昭和46年をもって千川上水の水利用は終止する。一方、玉川上水については、淀橋浄水場の廃止により、小平監視所下流の水路はその役割を終えていたが、清流復活の要望が強かったため、昭和61年から処理水が流されるようになる。千川上水についても、平成2年、玉川上水から分水して、処理水による清流が復活することになった。

 玉川上水から千川上水への江戸時代の分水口は、「上水記」の図面によると、新橋と保谷橋の中間にあった。現在でいうと、新橋と大橋の間で分水していたことになる。千川上水への分水は、享保17年(1732)以降は、地下に埋めた木樋すなわち埋樋により行われるようになる。江戸時代、千川上水の上流の各所でも、玉川上水からの分水は行われてきたが、明治3年(1870)になると、玉川上水からの直接分水が禁止され、上流の小川村での分水を共同利用することになる。しかし、千川上水の下流まで水が行き渡らない事態に陥った為、翌年、千川上水については、元の分水口から500mほど上流の玉川上水から直接分水する事が許される。さらに、明治13年(1880)には、千川水道株式会社により、分水口がもう一か所増設される。二つの分水口の位置は、現・曙橋の上流部に当たる。現在は、これらの分水口は廃止され、境橋の下流から分水されている。

 現在の千川上水は、境橋近くに始まり伊勢橋までは概ね開渠で、流れを見ながら歩くことが出来る。しかし、伊勢橋から先はごく一部を除いて暗渠になっていて、知らなければ千川上水の存在さえ気付かないかも知れない。今回は、現在の千川上水跡をたどるとともに、明治16年頃に書かれた「千川上水路図」を参考に、当時の千川上水路についても考えてみることにした。なお、「千川上水路図」は、玉川上水から千川上水への分水口から、巣鴨の元枡までの千川上水の水路を、連続して描いた絵図であり、縮尺は5000分の1程度で比較的正確とされるが、実測したものではないので実際の距離や方位とは、ずれがあり、そのまま現在の地図と対応させるには難がある。また、水路図以外は省略されており、周辺の状況が分からないこともあるので、「迅速測図」のような当時の地図も参考にすることとした。

 それでは、千川上水の分水口から巣鴨の元枡まで、交差する鉄道線路も存在せず、流域の大半が田園地帯だった明治16年頃の風景を想像しながら、現在の千川上水の跡をたどってみることにしよう。

コメント

お知らせ

2010-04-08 21:44:26 | Weblog
 わが家の花暦、今回はアセビです。今年は花があまり付きません。来年咲くかどうか分からないので、記念写真を撮っておくことにしました。
 さて、次回ですが、江戸時代に、玉川上水から分水して巣鴨まで水路を掘り、飲用水や農業用水を供給していた千川上水を取り上げ、その跡をたどることにしました。それでは、次回。 夢七。
コメント

花の寺

2010-04-03 10:21:20 | ショートショート

 子供の頃、この寺の辺りは、遠征するには丁度良い距離であったので、何度か寺の境内に入り込んだ事がある。ただ寺らしい建築物があったという記憶がない。ところが今は、由緒がありそうな立派な寺院に生まれ変わっている。山門を入ると、石畳に沿って小さな庭が続き、さらに歩を進めると、突然、清水の舞台と思しき本堂が、台地の上に現れる。その劇的効果を誰が考えたのかは知らないが、この寺の敷地を、実際よりも、かなり広く見せている。

 いつ頃からか、この寺に牡丹が植えられるようになり、花時になると、この寺も混雑するようになった。こんな絶好の儲け時に、入場無料という至極当然の習慣を守って呉れているのは有り難いが、有料だったら、多分、誰も来ないのだろう。まあ、それはともかく、昼間はこうやって、群衆の一人として花を楽しむのも悪くない。

 この寺の牡丹も、丹精をこめて育てる人があって、毎年、美しい花を咲かせているのだろう。大風で牡丹が傷ついた時には、枝に添え木をしたり、悪戯者が花壇を荒らした時には、落ちた花を拾い集めて悲しむようなこともあるのかも知れない。ただ、牡丹は人のために毎年美しい花を開いている訳ではないし、仮に牡丹が知性を持っていたとしても、世話してくれる人に感謝の念など抱くとは思えない。牡丹のような生命体には、生存本能の一つでもある恐怖の機構などは無意味なものでしかなく、まして、強大な存在に同化して心の安定を保つメカニズムなど無用な筈である。牡丹にとって、育ててくれる人の存在は、外界の構成要素の一つに過ぎず、時には有益で、時には害をなす、そして大抵の場合は無関係な存在でしかないのだ。人は勝手に牡丹を育て、牡丹は勝手に花を咲かせているのである。

 牡丹は花の王様だと言う。王様だから何もしない。人間が手入れしてやらないと何も出来やしないのに、一本、一本、大面をしてふんぞり返っている。むろん、こちらの思いが通じないのは分かっている。それでも、何とか思い知らせてやりたい。こんな事を考えるようになったのは、いつの頃からだろうか。

 その日、用事で夜遅くなって、偶然にも寺の前を通りかかると、何時もは閉まっている門が開いている。こんな機会を逃す手は無い。さっそく境内に進入し、近くにあった草刈り鎌で、ばっさばっさと牡丹の首を掻ききった。しかし勝利感に酔い過ぎたらしい。人影が暗闇の向こうに現れた事に気付かなかった。「誰だ!」と言う声に一瞬ぎょっとしたが、とっさに「牡丹です」と言ってやった。それに納得したのだろう、人影は見えなくなってしまった。それでも、暫くはその場にじっとしていることにした。そうして居るうち、何だか牡丹になったような気がした。その時になって初めて、牡丹が如何に幸せな存在なのかという事に気が付いた。このまま、永遠に牡丹のままでいたい。そう思った途端、目の前に現れたものがある。鎌の刃だった。




コメント