都内有数の遊園地であった豊島園が100周年を待たずに今年の8月で閉園するという。豊島園には暫く行っていないので、閉園前に行ってみようと思っていたが、遊戯施設の休業日に、あじさい園が公開されているという事なので行ってみた。また、これに加えて、目白駅と豊島園を結ぶ戦前のバスのルートに沿った散策コースを考えてみた。なお、江戸川橋から清戸(清瀬市)に至る道を清戸道と呼ぶようになったのは明治時代以降のことだが、そのルートは、豊島園までのバスのルートとも重なるところが多い道でもある。
昭和8年の豊島区詳細図によると、目白駅北側の線路上に架かる目白橋の西側が、豊島園へのバスのルートの起点だったようである。昔のバスのルートをそのまま進むとすれば、ここから目白通りを西に向かうことになるが、近辺の公園などに寄り道するコースも合わせて考えてみた。
目白通りを渡って北側の歩道を西に行き、寄り道として、目白庭園の案内表示により右に入り、道なりに北へ向かえば目白庭園に出る。庭園内を見て回ったあと目白通りに戻って西に向かって進み、目白三の交差点に出る。
おとめ山公園を寄り道とする時は、目白三の交差点を南に行き、駐在所を過ぎてその先の四つ角を右に行き次の角を左に、その先を右に入って下っていけば、おとめ山公園に出る。公園は、おとめ山通りの両側にあり、東側には弁天池、西側には湧水のある谷がある。公園内を散策したあと、おとめ山通りを北に向かい二つ目の四つ角を右に少し下って上がり、その先を左斜め後ろに入るとT字路に出る。ここを北に行けば目白通りに出るが、西に行けば中村彝アトリエ記念館に出る。
おとめ山公園に行かない場合、目白三の交差点から目白通りの南側の歩道を西に進むと、中村彝アトリエ記念館の入口表示がある。寄り道する場合は、ここを南に行きT字路を西に中村彝アトリエ記念館に行く。道の左側は林泉園と呼ばれる谷であったが、その面影はない。記念館から元の道を戻るか、記念館の西側の細い道を北に行けば目白通りに出られる。
目白通りを西に行きピーコックの先の交差点を渡り、北側の歩道で西に行く。寄り道として目白の森に行くには、目白病院の先を右に入って次の四つ角を右に行けばいい。目白の森は邸宅跡を緑地として保存したもので、園内を見てから目白通りに戻る。先に進むと郵便局があり、目白通りの向こう側には、七曲坂から上がってくる道の角に子安地蔵尊の祠が見える。
目白通りを西に進むと次の交差点で南側から聖母坂通りが上がってくる。ここで寄り道として、聖母坂通りを車に注意しながら、右側の歩道を進み、二つ目の角を右に入り、案内表示により細い道を南に入れば佐伯祐三アトリエ記念館に出る。記念館から出て細い道を戻り、左、右、左、右へと曲がって北に進めば目白通りで、西に行くと山手通りとの交差点に出る。
山手通りを渡って西に進むと二又交番があり、道が左右に分岐する。左側の道は葛が谷に向かう道であったが、道幅が拡張されて目白通りとなった。一方、右側の細い方の道は練馬方向に向かう昔からの道で、清戸道のルートであり、豊島園に向かうバスが通る道でもあったので、この道を先に進むことにする。なお、この辺りでは清戸道を椎名町通りと呼んでいた。また、分岐点の北側にはダット自動車の営業所があったが、これについては後述する。
先に進むと右側にトキワ荘通りお休み処がある。トキワ荘の名が知られるようになると、通りの名もトキワ荘通りに変えられている。洛西館という映画館があったのは、道を挟んで反対側の辺りだろうか。
その先、右手の奥に子育地蔵の祠がある。その先を右に入ると東側に電話局があり、公衆電話ボックスが設置されていたが、今はマンションになっている。道の反対側にはトキワ荘の玄関に通じる路地があり、漫画家が出版社などに連絡する場合には、電話局側に出て公衆電話を使っていたという。
トキワ荘通りを先に進むと漫画家たちが利用したという中華料理松葉が左側にある。通りの反対側を入ると奥にトキワ荘のモニュメントが置かれている。
先に進むと左側にトキワ荘公園がある。以前は南長崎花咲公園という名称で、トキワ荘のヒーローたちの記念碑が置かれていたが、トキワ荘が復元されたため名称変更したらしい。当初の開館日は3月22日であったが、延期されて7月7日に予約限定の開館となる。
トキワ荘通りを先に進み、岩崎家住宅を過ぎ、長崎銀座の商店街を北に行き、東長崎駅の北口に出る。駅の北側には、日産自動車の前身となる快進社が、大正7年(1918)に建設した工場があった。敷地は6000坪。最盛期の従業員は50~60人。翌年にはダット41型自動車を完成発売している。なおダットの名は出資者の田、青山、竹内の頭文字をとったDATで、脱兎という意味もあったらしい。大正12年(1923)関東大震災が起きるが東長崎の工場は被害を受けず、大正13年(1924)には軍用トラックが陸軍の検定に合格している。大正14年、快進社はダット自動車商会となり、その翌年には合併によりダット自動車製造となる。同社はダット号の試験運用を兼ねて従業員を運んでいたが、地元の要求でバス路線としての認可を受け、ダット41型自動車と軍用試作トラックをバスに改装して使用し、二又交番の近くに営業所を設けていた。しかし、利益が出なかったため、バス路線の業務は、昭和11年(1936)に東京環状乗合自動車に吸収されている。その後、新橋駅~市ヶ谷見附~江戸川橋~目白駅~豊島園の幹線ルートとして運行されたが、昭和17年(1942)には豊島園~練馬車庫~目白駅のルートになった。
<参考>「国産車づくりへの挑戦」ほか