散歩は、当ブログの主な内容の一つになっているが、今は思い通りに散歩することも難しくなっている。当分は、あまり歩かないで書ける記事で、このブログを続けていく事になりそうだが、その手始めとして、散歩についての記事を書いてみることにした。
大辞林には、散歩は“特別の目的をもたずに、気のむくままに歩くこと”とある。一方、広辞苑では散歩を“気晴らしや健康のためにぶらぶら歩くこと”としており、“健康のため”という目的があるものも散歩に含めている。類語新辞典では娯楽の一つとして散歩を設け、“特定の目的もなく気楽に出歩くこと”と記し、類する言葉として、散歩のほかに散策、逍遥、そぞろ歩き、杖を曳く、漫歩、遊歩、吟行、銀ぶらを取り上げ、それに加えて細分に遠足を設け、車による遠出やハイキング等も含めている。”
大漢和辞典には散歩についての中国の出典が載っている。白居易(772-846)の犬鳶詩に、“晩来天気好 散歩中門前 ”とあるのがその一例である。ほかに、“古之老人 飯後必散歩”と書かれた書も取り上げられている。日本国語大辞典には散歩についての日本の出典として、虎関師錬の著作である済北集(1346年頃か)の巻之二・梅花九首から“散歩前披与後岡別尋幽径入禅房”が取り上げられているほか、良寛が松之尾の松林を皆で散歩し時のことを詠んだ“遊松之尾”という漢詩(1835頃か)が取り上げられている。
“茲来此地九月初 長天雁啼菊花開 老少相卒散歩去 松林数里無塵埃”
しかし、散歩という言葉の古い出典があまり見当たらないからか、散歩が一般的に用いられるようになったのは明治時代からで、運動の一種だったとする。また、散歩が西洋の風俗の一つとして使われるにつれ、逍遥の意味を含むようになったとしている。なお、日本国語大辞典では、逍遥について、気のむくままにあちこち遊び歩くこととしているが、これに加えて、世間の俗事を忘れて楽しむという意味もあるとする。
最近は、散歩に似た言葉としてウォーキングがよく使われている。大辞林ではウォーキングを“歩くこと。有酸素運動の一。大股で速く歩くことにより、通常の歩行よりも高いカロリーを消費できる”とし、広辞苑では“歩くこと。歩行。特に健康増進や運動のために歩くこと”としている。日本ウォーキング協会ではスポーツ・ウォーキングを健全に推進する一環として歩行距離認定を行っており、大会や例会のコースを完歩した距離のほか、自然に親しみ健康・体力の維持増進等の目的で歩いた朝夕の散歩も対象に含めている。大会や例会では決められたコースを歩くことになるが、朝夕の散歩ではコースが決まっているわけではない。それでも、通常の歩行より速く歩く場合はスポーツ・ウォーキングの一種ということになるのだろう。なお、通勤や通学、仕事や買い物などで歩いた距離は対象にならない。
ところで、江戸時代にも散歩する人は居た。例えば、村尾嘉稜(1760-1841)がそれで、天保2年(1831年)9月の記事に、“すでに職を退いた身ゆえ、心のまま、時間の許すままに、山を越え、川を渡り、さまよい歩いている・・・”と書いているが、その内容からして、嘉稜は散歩をしていたと考えて良さそうである。江戸時代には、お伊勢参りのような長旅を庶民もするようになり、日帰りの寺社参拝や物見遊山も行われるようになったが、老人の散歩は理解されなかったらしく、70歳を過ぎて目的もないのに出歩く嘉稜に対して、陰口をたたく者も居たらしい。それでも嘉稜は家に閉じこもる気にはなれずに、歩きまわっているのだと書いている。
嘉稜と同じ時代に、同じように出歩いている人は居た。小日向の寺の住職であった十方庵敬順(1762-1832)はその例で、文化8年(1811年)に寺務を子に譲ったあと、好みにまかせて各地を巡り歩き、その時の紀行文を遊歴雑記としてまとめている。その中に富士見茶屋に行った時の記事があり、持参した折り畳みのコンロを組み立て、用意の茶二品を煎じて、床几に座って楽しんだとある。そのあと、雑司ヶ谷鬼子母神をへて高田馬場に至る道は閑寂として古雅天然の趣があり、近くを逍遥するに足れりと書いている。敬順は文政3年(1820年)にも雑司ヶ谷に行っており、“雑司谷村茶屋町の逍遥”という記事に、七、八人で出かけたこと。護国寺をぶらついたあと鬼子母神をめぐり、そのあと、小茗荷という酒楼に上がって遊んだが、遅くなったので高田馬場には行かずに帰宅したことが書かれている。逍遥は、気ままに歩くという意味だが、気ままに楽しむという意味でもあった。