夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

砂町富士と深川富士

2019-06-08 11:58:21 | 富士塚めぐり

(1)砂町富士

東西線の南砂町駅で下車し、東西線沿いの道を東に向かう。明治、大正の地図を見ると、東西線の位置は堤防に相当していた。先に進んで日通の敷地に沿って北に向かうと富賀岡八幡宮(元八幡)に出る。江戸時代、この辺りは海辺で景勝地でもあったので、広重の名所江戸百景にも「砂むら元八まん」として取り上げられている。

神社の裏手に回ると浅間神社があり、富士塚がある。この富士塚の石碑のうち最古のものは天保4年(1833)なので、それ以前の築造と考えられている。この富士塚を築造したのは、身禄と行動を共にしていた渋谷道玄坂の吉田平左衛門を講祖とする山吉講である。明治時代には、八幡神社の社殿うしろに池があり、池の中島に富士が築かれていたという。塚を築くために土を掘り、その跡を池にしたと思われる。昭和12年(1937)の地図からすると、この頃の富士塚も池の中島にあったようである。当時の富士塚は土の山であったらしく、水害で崩れたため、昭和8年(1933)に伊豆の黒ボク石(溶岩)で表面を固めた富士塚に変えている。江戸時代に富士の溶岩を江戸に運ぶのは容易でなかったと思われるが、昭和の時代には、庭石として黒ボク石が使われるようになり、入手しやすくなっていたのだろう。昭和37年(1962)になって、富士塚を30mほど南に移して再築する事になったが、これが現在の“砂町の富士塚(砂町富士)”で、江東区の有形民俗文化財に指定されている。

 

(2)仙台堀川公園

富賀岡八幡宮の北側にある元八幡通りを西に行き、南砂三公園入口の交差点を右に、トピレックプラザのプロムナードを通り、葛西橋通りを渡って、その先の左側にある仙台堀川公園に入り西に向かう。この公園は仙台堀川の跡を公園としたものだが、小名木川から横十間川までの間は、もともと砂町運河だったところである。

公園内には遊歩道や自転車道、堀割や池などが設けられており、散歩を楽しむことが出来る。砂町橋、福島橋、弾正橋を抜け貨物線の下をくぐり松島橋、尾高橋を過ぎれば横十間川との交差点に至る。野鳥の島の南側を回り込み、川の北側の道を進む。豊住橋を抜け魚釣場の先の千田橋を潜って石住橋で道路に上がる。来し方を振り返り、それから大横川を渡ると、両側に木場公園がある。南側の木場公園を通り抜け、高速道路下を通って富岡八幡に行く。

 

(3)深川富士

富岡八幡宮裏手の小学校の西側にあった深川富士と呼ばれる富士塚は、昭和39年(1964)に取り壊されたため、今は、江東区登録史跡の“富岡八幡宮富士塚跡”の扱いになっている。平成14年(2002)に、富岡八幡宮の北西側の境内にある末社のうち、富士浅間神社の裏手に小さいながら富士塚が再建され、江東区の有形民俗文化財の“山玉講同行碑”と“深川山山講登山再建立手伝碑”が近くに設置されて、富士信仰の名残を伝えるようになった。山玉講同行碑は欠損しているが拓本に文政3年(1820)とあるので、深川富士はそれ以前に築かれたと考えられている。一方、現存はしていないが、文政4年(1821)の太田屋磯右衛門所建の碑に、深川越中島太田屋磯右衛門と門前仲町の大津屋七左衛門の名で、“当御山は寛保2年(1742)江戸元場干鰯問屋中が開発してから年重なり大破した。文政2年(1819)再建の願いが叶い、所々の講中などの助力もあって完成した”という趣旨のことが書かれている。再建にあたっては山玉講のような別の講中も参加していたのだろう。

 「御府内備考続編」によると、享保7、8年(1722、1723)に、高さ2丈(6m)の石尊山、またの名を宮口山と呼ぶ山が宮口屋徳右衛門により築かれたとあり、享保17年(1732)には石尊を勧請、その後、文政2年(1819)に再興したとある。境内図には、富岡八幡の別当寺であった永代寺境内の北東(富岡八幡の北西)に石尊山が記され、その麓には浅間社があり、その南側には細い池が書かれている。江戸時代に流行した大山詣は、相模国大山の山岳信仰と修験道を融合した石尊権現の信仰によるものだが、各地に石尊を祀る石尊山があったようで、永代寺の石尊山もそうした山の一つであったのだろう。「寺社書上」によると文政2年に再興される以前にも山の修復は、寛保の頃も含めて、何度もあったようである。

深川富士は、天保7年(1836)の序がある「東都歳時記」に取り上げられており、岩で覆われた富士塚が挿絵に描かれ、“八幡宮の乾(北西)の隅なり。五月晦日より六月朔日に至って山上に登ることを許す”と記すとともに、本文には“文化年中に石を以て富士山の形を造る。昨今登ることを許す”と書いている。ところが、天保7、8年(1836、1838)に刊行された「江戸名所図会」には深川富士についての記載が無く、富岡八幡宮の挿絵には、八幡宮の北西側に樹木のある築山が描かれているだけである。

「江戸名所図会」は享和の終り(1803)には草稿が完成していたが、諸事情から出版が遅れていたので、享和以前に描かれた挿絵がそのまま使われたとも考えられ、「江戸名所図会」の挿絵には石尊山だった頃の築山が描かれていた可能性はある。では何故、石尊山が富士塚に変わったのか。江戸も後期になると身禄の教えをもとにした富士講が各地に誕生し、安永8年(1779)の高田富士を初めとして、各地に富士塚が築かれる。享和3年(1803)刊行の「増補江戸年中行事」によると、六月朔日の富士参りには、富士塚のある、駒込、浅草、高田に前夜の晦日から参詣者が群集したという。このような時勢もあって、石尊山を深川富士へと変えることになったのかも知れない。改修は大掛かりであったので文化年中から始まり、文政2年になって深川富士として再興したのではないかとも思うが、確証は無い。

広重の「名所江戸百景」に「深川八まん山ひらき」という図がある。富岡八幡宮の別当寺であった永代寺では、空海が入滅した3月21日から4月15日まで、空海の画像をかかげて供養を行うとともに永代寺の庭園を公開した。これを山開きと称し、多くの人が訪れたという。広重の図では池の向こうにジグザクの道のある山が描かれているが、「江戸名所図会」の「永代寺山開」という挿絵にも描かれている甲山のようで、深川富士ではないだろう。

  

<参考資料>「日本常民文化研究所調査報告2」「富士塚考続」「東京名所図会(南部・東郊之部)(深川区深川公園之部)」「東都歳時記」「東京都神社史料1」ほか。

 

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十条富士塚と氷川神社富士塚

2019-05-26 15:39:28 | 富士塚めぐり

(1)十条冨士塚

埼京線の十条駅から北に行き演芸場通りを東に向かうと都道に出る。この都道は旧日光御成街道で岩槻街道とも呼ばれていた江戸時代からの道である。ここを北に行くと左側に十条冨士神社があり、北区指定有形民俗文化財の十条冨士塚がある。十条冨士神社は王子神社の境外末社のようだが、十条冨士塚については十条丸参伊藤元講という富士講により管理されており、毎年6月30日と7月1日に、この富士講による大祭が行われている。

十条冨士塚は高さ6mほど。もとは古墳だったという説もある塚に、富士山の溶岩を置き多数の石造物を配置するなどして富士塚としている。新編武蔵風土記稿には、十條村に塚が二つ往還の西にあり共に由来を伝えずとあるが、その塚の一つが十条冨士塚に該当するのだろう。十条冨士塚は明治時代に整備されているが、その後も改修が行われていたらしく、今後も再整備の計画があるらしい。十条冨士にはつづら折りの道があったようだが、現在は石段と手すりが設けられていて登りやすくなっている。頂上には、明治時代に造られた冨士浅間大神の祠が置かれている。

 

富士山信仰を主体とする富士講は、食行身禄(伊藤伊兵衛1671-1733)によって庶民を対象とする富士信仰へと変化し、江戸を中心として各地に富士講が生まれる。身禄の入定後、三女“はな”が跡目を継ぎ、その次に花形浪江が跡目を継ぎ、文化6年(1809)からは丸参という富士講を開いた滝野川の安藤富五郎(1755?-1827?)が跡目を継いで、伊藤参翁と名乗る。十条の富士講はその後継として丸参伊藤元講を名乗っているようである。

 

十条冨士塚が築造された年代については、現存する石造物の銘文から天保11年(1840)以前とする説、失われた石猿の銘文から文化11年(1814)以前とする説、滝野川の寿徳寺にあった天明7年の巡拝塔の道標に“ひだりおふじいわぶちみち”とあった事から天明7年(1787)以前とする説がある。また、十条冨士塚の頂上にある祠に明治14年当所上下伊藤講中とあり、さらに明和3年・願主醍醐久兵衛とある事から、明和3年(1766)の富士塚の祠を明治14年に造り直したとする説もある。身禄との関わりは分からないが、富士を信仰していた醍醐久兵衛が、塚の上に浅間神社の祠を祀った事はあったかも知れない。ただ、表向きは由来を伝えぬ塚のままであっただろう。なお、昭和41年の銘のある伊藤元講創建350年の碑があり、元和2年(1616)の銘の供養塔もある事から、元和2年に富士塚があったとする説もあるが、身禄はまだ生まれておらず、伊藤元講も存在していない。

 

(2)氷川町氷川神社富士塚

十条冨士神社の北側の道を西に向かい、埼京線を過ぎて十条銀座を南に行き、その先を右に折れて十条仲通りを西に進み、十条通りを渡って帝京大学病院入口の交差点を南に進むと石神井川に架かる御成橋に出る。石神井川を上流に向かって歩いていくと、旧中山道が通る“板橋”に出る。ここを過ぎて高速道路下の中山道を渡って氷川町の氷川神社に行く。

氷川神社に入って右側の中山道側に、板橋区の登録記念物(史跡)になっている富士塚があるが、昭和初期の中山道の道幅拡張により富士塚の東側が削られてしまっている。富士塚の頂上には永田同行と記された石祠があり、登山道に沿って石碑や富士山の溶岩が置かれている。石祠の周辺には神社の境内整備のため末社が集められている。富士塚を築造したのは、平尾の住人で身禄の側近であった永田長四郎を講祖とする永田講である。富士塚頂上の石祠に安政2年(1855)とあるほか、弘化4年(1847)の富士塚奉納碑や、安政4年(1857)の手水鉢、安政5年(1858)の奉納碑がある事から、この富士塚の築造年代は、19世紀中頃以前と考えられている。永田講は、丸参講に次ぐ格式のある富士講であった。

 

<参考資料>「日本常民文化研究所調査報告2」「十条富士講調査報告」「富士塚考続」「地域史・江戸東京」「ご近所富士さんの謎」「いたばしの文化財7」

 

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板橋赤塚の富士塚めぐり

2019-05-13 19:49:49 | 富士塚めぐり
(1)赤塚氷川神社富士塚(上赤塚富士)
東上線成増駅北口から赤塚二中の南側を通る成丘通りに出て右へ坂を上がる。成増の丘の上を通る道は、やがて右に曲がり果樹園を過ぎて下って行き、やや上がって宮前公園前の交差点に出る。三園通りを横切って進むと、宮前公園の隣に赤塚氷川神社の参道がある。
赤塚氷川神社は、新編武蔵風土記稿の上赤塚村の項に、氷川御霊合社の名で村の鎮守と記されている。長い参道を進むと鳥居の左側に、板橋区の登録記念物(史跡)になっている赤塚氷川神社富士塚(上赤塚富士)がある。円墳形の富士塚で高さは3mほど。この富士塚を築いた丸吉講は、新座の浅海吉右衛門を講祖とし、武蔵野の北部一帯に多くの富士塚を築造している。明治5年の丸吉講新富士の奉納額に上赤塚仙元富士山が記されているので、築造は明治5年以前のことと考えられるが、この富士塚には慶応4年(1868)の石碑もあるので、築造時期が慶応以前まで遡る可能性もある。
 
(2)赤塚諏訪神社富士塚(下赤塚富士)
赤塚氷川神社の東側に出て北に、神社の先を右に赤塚四公園を左に見て下ると、板橋区郷土資料館の裏手に出る。郷土資料館は次の機会にして溜池を通り抜け、区立美術館入口の交差点を左に上がり新大宮バイパスの上を渡って、その先の諏訪神社に行く。諏訪神社は、新編武蔵風土記稿の下赤塚村の項に、十羅刹諏訪合社の名で村の鎮守と記されている。
本来は、諏訪神社から南に向かう参道があり、浅間神社の富士塚の近くまで道が続いていたのだが、今はその道が失われてしまっている。現在、諏訪神社の境外社になっている浅間神社へは、新大宮バイパス沿いの道を南に行き、裏参道のような通路を左に入ることになるが、少々分かりにくい。富士塚の麓には浅間神社の石鳥居があり祠があるが、富士塚は草木が茂って見づらくなっている。富士塚の築造は、赤塚氷川神社と同じ丸吉講で、石鳥居の銘からすれば明治7年以前の築造と考えられるが、明治5年の丸吉講新富士の奉納額に下赤塚仙元富士山が記されているので、明治5年以前の築造と考えられている。なお、この富士塚は板橋区の登録記念物(史跡)になっている。富士塚から諏訪神社を経て高島大門の交差点を渡り、北に行けば新高島平駅に出られる。
<参考資料>「日本常民文化研究所調査報告2」「富士信仰と富士講」
 
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清瀬の中里富士

2016-11-13 11:02:26 | 富士塚めぐり

清瀬駅北口を出て、けやき通りを歩く。けやき並木が続く歩道の所々には、彫刻作品が置かれている。途中の郷土博物館は帰りに寄る事にし、郷土博物館東の信号の次の角を左に入る。道はやがて下り坂となり、坂の下で左に曲がると左側に富士山神社(浅間神社)の鳥居があり、富士塚が見えてくる。この富士塚は中里富士と呼ばれ、東京都の有形民俗文化財に指定されている。なお、富士塚の所有者は東光院(丸嘉講武州田無組中里講社)になっている。寺の土地を借りて富士塚を築いたのだろうか。

この富士塚は、柳瀬川の右岸段丘の端に、周辺より9m高く赤土で築かれている。富士塚には、高田富士に倣って富士山の溶岩を用いたものが多いが、中里富士のように溶岩を用いない例もある。中里富士の築造は丸嘉講武州田無組中里講社で、「清瀬村中里富士講社起源」によると、文政8年(1825)再築で、明治7年に七尺五寸高く再築とある。中里富士の祠の銘に文政8年とあるので文政8年再築は確からしいが、最初の築造年については分からない。丸嘉講の開祖は赤坂伝馬町の近江屋嘉右衛門で、品川富士を築いたのも丸嘉講に属する品川丸嘉講である。丸嘉講田無組は、近江屋嘉右衛門の弟子の安右衛門(善行道山)によるところが大きく、「清瀬村中里富士講社起源」では、享保18年(1733)に田無を経て中里に経典が伝えられたのが、田無組中里講社の始まりとしている。

中里富士の登山路は電光型で傾斜も急ではなく、土留もされているので歩きやすく、頂上も滑りにくい工夫がされている。山頂にある石造物のうち、左から2番目が仙元大菩薩の祠、その隣の石碑には大日如来と思われる像が刻まれている。中里富士には、○の中に嘉と記した講紋を付けた丸嘉講の石碑のほか、合目石、小御岳の石碑、富士山登拝の途中に参詣する高尾山や道了尊の石碑、小祠などが建てられている。なお、麓の右側にある地蔵菩薩や庚申塔は年代からみて富士塚を築造する以前のものだろう。中里富士は全体として、江戸時代の神仏習合の姿を残しているように思える。

中里富士には火の花祭りの説明版が置かれていた。火の花祭りは吉田の火祭り(鎮火祭)をもとにした祭で毎年9月1日に開催されているそうだが、まだ見た事はない。この行事は東京都の無形民俗文化財(風俗習慣)に指定されており、山頂での儀式のあと、巨大な藁束に点火するという。その灰を持ち帰ると火災除けや魔除け、畑にまくと豊作になるらしい。なお、都内では駒込の富士神社でも山仕舞い行事として篝火をたく鎮火祭が行われている。

<参考資料>「日本常民文化研究所調査報告2」「富士山文化」「富士信仰と富士講」「ご近所富士さんの謎」

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品川神社の品川富士

2016-11-06 17:09:47 | 富士塚めぐり

品川富士は品川神社の境内にある。品川神社の最寄り駅は京急の新馬場駅だが、今回は品川駅から歩く。品川駅を東口に出て歩行者専用歩道のスカイウエイを南に向かい、八ツ山方面に進んで歩道橋を下り、都バス品川営業所の先の角を右に折れ、信号を渡って上がると旧東海道に出る。ここからは旧品川宿を南に向かい、聖蹟公園入口の次の角を右に進むと、品川神社の下に出る。ゆっくり見て歩きたい道筋だが、今回は急ぎ足で通り過ぎる。

品川富士の入口は品川神社の石段の中ほど左側にある。品川富士については、正徳寺住職の日記に明治2年5月29日に富士塚浅間神を馬込村より移したとある。この富士塚は廃仏毀釈の影響で後に壊されたらしく、再建したことを示す明治5年の再建碑が残されている。大正11年には国道建設のため品川神社境内の東側が削られたため、富士塚も西に移動して再建されたようで、この時に登山経路も現在のように変更されたらしい。

品川神社の石段途中にある鳥居をくぐる。ここは一合目に相当し猿田彦の祠がある。ここから五合目までは石段で楽に上がれて、眺めも良い。五合目は品川神社の社殿がある境内とほぼ同じ標高であり、五合目から下は台地の東側の斜面を利用している事になる。

五合目から上は黒ボク石で覆われた富士塚となる。狭く急な石段を上がれば、すぐに山頂である。山頂は富士塚としては広い方で眺めも良い。富士塚は神社の境内にあたる台地の端に築かれ、高さは5mほどだが、国道と境内との高度差があるので、国道から見た品川富士の高さは15mぐらいになる。この富士塚は品川区の有形民俗文化財に指定されている。

富士塚の頂上に奥宮は無いが、富士塚の裏手にあたる品川神社の境内には浅間神社がある。品川富士を築いたのは、身禄の三女はなの弟子であった赤坂伝馬町の近江屋嘉右衛門を講祖とする丸嘉講に属する品川丸嘉講で、この富士講による山開きの神事は品川区の無形民俗文化財に指定されている。

江戸時代、牛頭天王社(現在の品川神社)の山続きは御殿山と呼ばれ、桜の名所としても知られていた。そこで、品川神社の帰りに寄ってみる事にした。品川神社の石段を下りて左へ、次の角を左に入って進むと権現山公園の下に出る。道は右に曲がり上り坂となり、その先で下りとなり跨線橋に出る。左に跨線橋を渡ると御殿山庭園に出る。江戸の面影がどの程度残っているか分からないが、桜の季節に来てみたい場所である。その先、翡翠原石館に出て左に折れ、公開空地を通り抜け、小関通りに出れば、大崎駅はさほど遠くない。

<参考資料>「日本常民文化研究所調査報告2」「富士信仰と富士塚」「ご近所富士さんの謎」

 

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木曽呂の富士塚

2016-11-03 18:02:41 | 富士塚めぐり

国指定の重要有形民俗文化財の富士塚は4件あり、そのうち下谷坂本、江古田、豊島長崎の各富士塚は既に紹介済みなので、今回は木曽呂の富士塚を取り上げる。武蔵野線の東浦和駅を出て右へ、東浦和駅前の交差点を左に下って、見沼代用水西縁を渡り、右へ行くと見沼通船堀がある。その南側に行き、通船堀を左に見ながら、竹林の中を歩いて行く。

竹林の途中に通船堀についての説明板があった。その中から抜き出した地図を上に示す。通船堀は、見沼代用水の東縁及び西縁の水路と芝川の間に設けられた運河で、国の史跡に指定されており、木曽呂の富士塚もこの史跡に追加指定されている。竹林の道が終わったところで橋を渡り、通船堀を右に見ながら進むと、途中に芝川と見沼代用水との水位差を調節するための閘門式の関があった。桜の頃を想像しながら、堀に沿って先に進むと芝川に出る。

芝川を右に行き八丁橋を渡ると水神社がある。この神社も通船堀の史跡に追加指定されている。芝川に沿って北に少し行くと、見沼代用水東縁と芝川を結ぶ通船堀に出る。通船堀を右に見ながら進むと、ここにも閘門式の関が設けられている。さらに進むと、行く手に木曽呂の富士塚が見えてくるが、樹木が茂っているため全体の姿はつかめない。

見沼代用水東縁に出て右へ行き、橋を渡って先に進み、信号の手前を左に入る。道はやや上りとなる。そば店があった場所の先、日本料理の看板を左に入ると、浅間神社の鳥居が見えてくる。木曽呂の富士塚は、その左側にある。

木曽呂の富士塚は台地の上にあり、塚の高さは5.4m、直径は20m。寛政12年(1800)に、丸参講によって盛土で築かれている。この富士塚を発願した蓮見知重(蓮見知道居士)の石碑の裏には、その由緒が記されている。なお、石碑の上にある大日如来像は修復されているようである。

北側から富士塚に登る。頂上には火口を模した深さ1mほどの穴があったそうだが、今は殆ど埋まってしまっている。頂上からの眺めは樹木が茂っているため今は良くはないが、葉が枯れ落ちた頃に来れば、富士山を遥拝する事も出来るのだろう。

頂上から南側に下りると、富士塚の南側を下っていく道があった。この道を下りていくと、途中に胎内らしきものがあったが、今は入れないらしい。この辺りの斜面はかなり崩れたらしく、改修したようである。見上げると、崖上に富士嶽神社の石宮らしきものが見えた。

麓の道まで下りて右に行くと、ここにも胎内らしきものがあった。この付近の斜面も崩れたらしく、改修したように見える。この胎内も入れないらしいが、昔は南側と西側の胎内がつながっていたという。ところで、胎内も富士塚の構成要素の一つとすれば、台地上に築かれた高さ5.4mの塚に加えて、この斜面も富士塚に含まれることになる。通船堀から眺めると、見沼代用水東縁の上に、富士山の姿を写しとった高さ12mの木曽呂富士が聳えているという事である。

 

<参考資料>「日本常民文化研究所調査報告4」「富士山文化」

 

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音羽富士と白山富士

2016-10-29 09:31:52 | 富士塚めぐり

(1)音羽富士

音羽富士と呼ばれる富士塚は、有楽町線護国寺駅直ぐの護国寺の中にある。護国寺の仁王門を入り正面の石段に向かって進むと、境内案内図には記されていないが、石段の右方に鳥居が見えてくる。寺院には珍しい富士浅間神社・音羽富士の鳥居だが、この富士塚に登るのは後回しにして、石段を上がり不老門をくぐって護国寺の本堂に行き、参拝を済ませる。

本堂の裏手にある、西国三十三所写の標柱を見に行く。江戸時代の音羽富士は、護国寺本堂の西側、西国三十三ケ所の札所を再現した場所にあった。この標柱の銘に寛政3年(1791)とある事から、西国三十三所写は、この頃には概ね完成していたと思われる。この場所は、明治になって陸軍の埋葬所となったため、西国三十三所写は消滅し、本堂の裏手に標柱を残すのみになっている。

「護持院日記」の文化14年(1817)6月10日の項に、“富士山再建に付き開元之儀を願い出候に付き・・”とあるので、文化14年に富士塚が築かれたと考えられる。「江戸名所図会」の挿絵によると、西国三十三所写は、西に向かって傾斜している土地を造成して、一番から三十三番に至る札所の堂宇を各所に配置していた。挿絵には、傾斜地の少し下の方に、独立した塚として富士塚が描かれているが、恐らくは富士山を遥拝できる高さがあったと思われる。

音羽富士は、明治18年に西国三十三所写の場所から現在地に移され、再築される。築いたのは、身禄の直弟子である藤四郎が開いた丸藤講の枝講、丸護講で、富士塚の高さは6m。斜面を利用して築かれている。鳥居の前には橋があるが池があったのだろう。富士塚の前に池を設けるのは、下谷坂本や千駄ヶ谷の富士塚にも例がある。

鳥居をくぐって先に進むと、土留めのため丸石を積んだ場所があり、ここが一合目となる。合目石には文化14年の銘があるので、江戸時代の音羽富士にあったものを移したと思われる。ただ、講紋が丸護講とは異なるように見える。調べた範囲では、この紋に近いのは丸藤講のようだが、江戸時代の音羽富士は丸藤講が築造に関わったのだろうか。

丸石の石段を上がると胎内のような洞があり、中に木花咲耶姫の像が刻まれた石板がある。昭和2年とあるので新しいものである。音羽富士には石造物が多いが、江戸時代の音羽富士から移したものと、明治の再築後に立てられたものが混在している。

この富士塚は平成元年に修復されているので、さほど荒れたところは無い。石造物を一つ一つ見て回るのは省略し、ジグザグの登山路を適当に選んで一気に頂上に上がると、奥宮があった。平成の改修の際に造られたものらしい。山頂の周辺を見ると、大師堂に続く踏み跡のようなものが見える。昔は頂上と大師堂の間を苦も無く行き来できたに違いない。しかし、今はフェンスによって遮られているので、足元に注意しながら、もと来た道を戻る。

 

(2)白山富士

白山富士と呼ばれる富士塚は、三田線白山駅から近い白山神社にある。白山神社の本殿と社務所の間を通り、渡り廊下をくぐると、右側に富士塚があり浅間神社の鳥居がある。しかし、6月中頃の“文京あじさいまつり”の時以外は、入ることが出来ないので外から眺める。

見上げると頂上に祠が見える。以前、あじさいまつりの時に入った事はあるが、鳥居をくぐり紫陽花の中を上り、祠に頭を下げて、紫陽花の中を下って、そのまま外に出たという記憶しかない。富士塚というより、紫陽花の丘という印象であった。

東側から富士塚を眺めるべく、社務所の東側の道を入る。確かに、この辺りからは富士塚らしい姿に見える。富士塚に付きものの富士講の石碑も、社務所の東側にある。上の写真は丸白講の石碑で文政5年(1822)の銘がある。この石碑から丸白講は指ケ谷壱二丁目と南片町による地元の富士講だったことも分かる。「寺社書上」によると、この塚には昔から小さな祠があったが、文化13年(1816)に、富士信仰の人たちが高さ三丈の山の上に富士浅間大明神の石祠を安置したという。大正時代の調査では古墳があったと判断されているので、白山富士は古墳を利用して築かれたと思われる。ただし、丸白講が富士塚の築造に関わっていたかどうかは分からない。

社務所の東側には、上の写真に示す山水講の石碑もあった。山水講は木更津の人が始めた千葉県の富士講である。明治後期の「東京年中行事」によると、白山の富士神社祭では、山水講による拝みも行われており、山水講が富士神社祭を仕切っていたようである。どのような縁があったのだろうか。明治時代の富士神社祭では、露店や見世物が多数出ていたとあり、参詣客も多く富士塚も健在だったと思われるが、大正時代にはかなり崩れていたらしい。現在の富士塚が当初の姿をどの程度残しているかは分からないが、それはそれとして、昭和60年頃から始まった“あじさいまつり”では、見所の一つになっている。

 

<参考資料>「富士塚考続」「江戸の新興宗教」「富士信仰と富士塚」「日本常民文化研究所調査報告2、4」「江戸名所図会」「ご近所富士山の謎」「東京名所図会・小石川区之部」「寺社書上」「東京年中行事」

 

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鳩森八幡の千駄ヶ谷富士

2016-10-19 18:09:45 | 富士塚めぐり

千駄ヶ谷駅から300mほど南に行った所に鳩森八幡神社があり、その境内に千駄ヶ谷富士と呼ばれる富士塚がある。高さ6m径25m。関東大震災後に修復されているが、旧態を留めていて、都内に現存する富士塚の中では最古のものとして、都指定の有形民俗文化財になっている。登山路は幾つかあるようだが、鳥居のある場所を正面とみなし、ここから入る。

参明藤開山の碑に導かれて登山路を上がる。自然石を階段状に並べた道で、手すりもあって歩きやすい。この富士塚は土を円墳状に積み上げ、全体をクマザサで被っている。他の草も茂っているが目障りではない。先ずは、くの字状の急坂を上がって頂上を目指す。

頂上には黒ボク石に囲まれた奥宮がある。その周囲には、富士山頂の名所である、金明水、銀明水、釈迦の割れ石(釈迦ヶ岳の割れ石)が設えられている。頂上からは、神社の境内が見わたせる程度だが、昔はもっと眺めが良かった筈で、富士山を遥拝する事も出来たと思われる。

頂上から下を見ると里宮があった。本来は里宮を参拝するのが先で、順序が逆になってしまったが、一旦下って浅間神社里宮を参拝し、それから改めて富士塚をめぐってみる。途中、小御岳石尊大権現の石碑があったが、ここが五合目という事になるのだろう。先に進むと、七合目に当たる烏帽子岩と身禄の像があった。

江戸時代の中頃、富士信仰の行者であった身禄が、富士山の烏帽子岩で断食し入定したあと、その教えが江戸を中心として庶民の間に急速に広まり、身禄派の富士信仰の団体である富士講が数多く結成され、この富士講による富士塚が各地に築かれる。千駄ヶ谷富士を築いた烏帽子岩講もそうした富士講の一つで、千駄ヶ谷を拠点にしていたらしい。

富士塚を下りて、千駄ヶ谷の富士塚の図を見る。この図によると、登山口は三カ所あるようだが、今回は右側の登山口の道は歩いていないので、途中の石造物は見ていない。そのほか、亀岩や須走りも見落としているが、それはまたの機会ということにしたい。千駄ヶ谷富士の前面には池があるが、富士塚を築くための土を掘ったあとを池にしたという。大名庭園でも池を掘った時の土で築山を造っているので、それと同じ事である。下谷坂本富士も、昔は池があったそうで、掘ったあとを池にしていたようである。なお、高田富士のように古墳を崩して富士塚を築いたり、また、斜面地を利用して築いている事例も少なくない。

「江戸名所図会」の千駄ヶ谷八幡宮という挿絵に、千駄ヶ谷富士も描かれている。現在の富士塚と少し違うようにも見えるが、長年の間に多少の変化はあり得るのだろう。鳩森八幡(千駄ヶ谷八幡)の表門の前の通りは、鎌倉路と呼ばれる古くからの道で、江戸時代にこの道を通る人からは、千駄ヶ谷富士は目立つ存在であったと思われる。

 千駄ヶ谷富士は小御岳石尊大権現の銘から、寛政元年(1789)の築造と考えられているが、水盤や石灯篭や狛犬の銘に享保とある事から享保の築造とする説もある。「寺社書上」には、八幡宮に奉納された狛犬(石獅子)が後に移されたとあり、水盤や石灯篭も他から移されている可能性があるので、築造年代の決め手にはならないだろう。また、富士浅間築山については、天正年間とあるが確かではないとし、神体は富士山形の石と記しているが、万治3年(1660)の「古縁起写」に、天正年間(1573~1592)に富士峰を築いたとあるので、万治3年には富士塚が存在していた可能性がある。さらに、寺社の縁起は変更される事もあるが、富士塚の有無のような事柄は三世代ぐらいはまともに伝わると思われるので、天正年間の築造もあり得ると考えられる。万治3年以前の富士塚は、身禄派の富士塚ではないが、中世にも富士塚が存在していた事は知られており、神体が富士の形の石だとすると富士信仰に関わる塚と考えられる。例えば、富士山南麓の村山を拠点とする修験道、村山修験に関わりがあるのかも知れない。富士塚は改修される事があり、大きさや形、石造物も変わる。時には場所を移動する再築のような事もあり得る。江戸時代の中頃、千駄ヶ谷八幡(鳩森八幡)にあった富士塚が、身禄派の富士講によって改修または再築された可能性もあるのではないか。

 

<参考資料>「日本常民文化研究所調査報告2」「寺社書上」「富士塚考」「富士山文化」「ご近所富士山の謎」「江戸名所図会」

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練馬の富士塚めぐり

2016-10-08 13:18:47 | 富士塚めぐり

練馬区に現存する富士塚は5カ所で、そのうち江古田富士は投稿済み、もう1カ所は個人の邸内にあるので除外し、残りの3カ所、八坂神社境内の大泉富士(中里富士)、大松氷川神社の富士塚、下練馬の富士塚をめぐる。何れも練馬区の有形民俗文化財に指定されている。

 (1)大泉富士(中里富士)

大江戸線の光が丘駅から西に向かい、高松六の交差点で笹目通りを渡る。ここから土支田通りまでは、大江戸線の延伸計画と関連する補助230号線の通行が可能になっているので、南側の旧道(長久保道)は次の機会にして、今回は補助230号線の方を選ぶ。市街化される前の風景を楽しみながら歩いていくと、途中に新駅の予定地があった。大江戸線の延伸により、土支田、大泉町、大泉学園町の3駅(何れも仮称)が設置されるという事だが、ここには、土支田駅ができるらしい。この辺りは田柄用水が流れていた低地で、この先は少し上り坂になる。さらに進むと土支田通りに出るが、この先の補助230号線の開通は先のことなので、信号を渡って右に行き、次の信号で左に入る。この道は旧道(長久保道)の続きで、少し先で右に下っていくと、坂の下に長久保道の説明版がある。白子川を別荘橋で渡って左に行くと、右側に八坂神社の参道がある。光が丘からここまでは少し遠いが、大江戸線が延伸されれば、大泉町が最寄り駅になるので、距離はかなり短縮される。

参道を進み2番目の鳥居の手前を右に入ると、八坂神社の末社、富士浅間神社の鳥居があり、その先に富士塚がある。現地の説明板によると、南側からの高さ12m直径30mの大規模な富士塚という。大泉富士は、麓に近い部分に植栽を、頂上に近い部分に黒ボク石を置いて、富士山の姿を巧みに写している。北側の比高は低いので、南向きの斜面を崩して築いたのだろうか。この富士塚は明治の初めに築かれたと伝えられているが、文政5年(1822)の富士仙元浅間大神の石碑があるので、すでに原形があったと考えられている。富士塚の改修は珍しい事ではなく、明治7年の石造物が多く丸吉講の碑も多い事から、明治7年に丸吉講という富士講により大規模な改修が行われ、ほぼ現在の形になったという事かも知れない。

大泉富士は石造物が多いことが特徴であり、現存しないものも含め富士山の社寺や名所を対象とした、数多くの石造物が置かれている。鈴原社、御室浅間社、役行者、秋葉社、大黒神、御座石、不二森稲荷、小御岳社、泉が滝、大澤、経ケ岳、宝永山、烏帽子岩、聖徳太子、日ノ御子、龍王を守る亀岩、薬師ヶ岳、駒ヶ岳、馬背、剣ヶ峰、浅間大神と頂上石宮がそれで、他に道祖神まで置かれている。富士講の碑が多いのはよくある事だが、この富士塚には詩歌の碑まで置かれている。これらの石造物を見て回るのも良いのだろうが、今回は割愛し、ついでに御胎内を探すのも取り止めて、ひたすら山頂を目指す。

この富士塚は8月の山開きの際に清掃されているそうで、草木が繁茂して煩わしい場所も少ない方かも知れない。ジグザグの登路は歩きやすく整備されているので、割と容易に頂上に達する事が出来る。山頂には奥宮と思われる祠が中央にあり、それを囲むように馬背、剣ヶ峰、駒ヶ岳の石造物が配置されている。

頂上からは南方と東方に展望が開けているが、西側の展望は神社の森に妨げられている。富士山を遥拝することは出来ないかも知れない。富士塚を下りて、改めて八坂神社に参拝したあと土支田通りに戻り、道幅の割に交通量の多い道を東に向かう。やがて、この道は都県境界となり、笹目通りを過ぎると程なく光が丘公園につきあたる。江戸時代、土支田通りは江戸道と呼ばれ、この先を直進し川越街道に合流して江戸に出る主要道であったが、現在は光が丘公園により分断されている。公園内を通り抜け川越街道を歩いて地下鉄赤塚駅に出る。

 

(2)氷川神社の富士塚

地下鉄赤塚駅から川越街道を東に、右側の歩道を歩く。歩道橋の先、二つ目の角を右に入り直ぐ左の道に入ると、前方に氷川神社の森が見えて来る。大松の氷川様と呼ばれた神社で、参道の石段の横に、斜面を利用した富士塚がある。この富士塚は、鳥居、植栽、石碑などを配し、塚に登る道を設けて、小ぶりながら富士塚らしい姿になっている。

富士塚の高さは4m。築いたのは丸吉講で、頂上の石祠の台座に天保6年(1835)再建の銘がある事から、それ以前の築造と考えられている。参拝を終え、氷川神社の参道を南に出て左へ、突き当りを右に、その先の丁字路を左に進んで川越街道に出る。これを渡り直進すると、やがて道は右に曲がっていき、旧川越街道に出る。

 

(3)下練馬富士塚

旧川越街道を東に向かうと、左側に北町上宿公園がある。下練馬宿のうち上宿があった事に因んでの名称という。この辺りから次第に商店街らしくなり、東武練馬駅への道を左に分けると道はゆるやかに右へ曲がって行き、北町観音堂を過ぎると程なく北町浅間神社の前に出る。中に入ると、右側に境内社の天祖神社があり、左側に富士塚がある。この富士塚が最初に築造された年は分かっていないが、明治5年に丸吉講によって再築され、さらに昭和2年に場所を少し移して築造されている。高さは、南側が6mで北側が4m、大きさは南北15m東西10m。黒ボク石を要所に配し、植栽によって庭園の築山のような姿になっている。

この富士塚の麓にある石造物の配置を示す平面図を眺め、それから登り始める。最初に富士講の開祖とされる角行の像に迎えられるが、この富士塚には定番の猿や天狗の像もある。登路は歩きやすく容易に頂上に達する。頂上は平坦で、奥宮の祠の前には標高37.76mと記した標識が埋め込まれている。遊び心で、富士山の100分の一の標高になるよう富士塚の高さを決めたのだろうか。頂上には富士山の方向を示す表示もある。折角なので、見えない富士山を遥拝してから、富士塚を後にする。

<参考資料>「練馬区の富士塚」「ご近所富士山の謎」「富士講と富士塚―東京・神奈川」「新駅予定地周辺マップ」「下練馬の富士塚現況測量調査報告書」「富士山ガイダンス2016」

 

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新宿の富士塚めぐり

2016-10-01 11:43:11 | 富士塚めぐり

前回に引き続き新宿区内の富士塚(跡)として、花園神社の三光町富士、西向天神の東大久保富士、稲荷鬼王神社の西大久保富士の3カ所をめぐってみた。

 

(1)花園神社の芸能浅間神社・三光町富士

靖国通りから花園神社に入り参拝したあと、境内の北東隅にある芸能浅間神社に行く。昭和3年、花園神社の境内に三光町富士と呼ばれた富士塚が築かれたが、昭和39年には取り壊される。その後、昭和56年に三光町富士の塚の石などを利用して建立されたのが芸能浅間神社で、三光町富士に比べると、現在の塚はかなり小ぶりになっている。

三光町富士を築いたのは、少なくとも天明の頃には活動していた内山講という富士講で、藤圭子の歌碑の裏側にその講碑がある、芸能浅間神社内には、このほかに富士参明藤開山碑や題目石、講碑が置かれている。

(2)西向天神の富士塚・東大久保富士

花園神社を出て北に行き新宿六の交差点を右に、文化センター通りを進む。天神小の先を右に行き突き当りを左に折れると、右手前方に西向天神の富士塚、東大久保富士が見えてくる。右に坂を上がり下から富士塚を眺めるが、手前に小御岳石尊大権現の石碑が見えるものの、頂上辺りは陰になって良く見えない。富士塚を左に見ながら坂を上がり、左側の天神山児童遊園に入る。遊具が置かれているが人影は無い。ここは西向天神の境内地では一段高い位置にあり、西から南にかけては急斜面で、児童遊園とはフェンスで仕切られている。

東大久保富士は斜面を利用して築かれているので、児童遊園から見ると低い塚にしか見えないが、下から眺めると大きな富士塚に見えるようになっている。この富士塚は開山記念碑に相当する参明藤開山碑から天保13年に丸谷講という富士講が築いた事が分かっている。江戸名所図会はこれより前なので大窪天満宮(西向天神)の挿絵には富士塚は描かれていないが、嘉永年間の大久保絵図には不二として記されている。この富士塚は大正14年に改修再築されているが、その事を示す丸谷講の記念碑もある。富士塚はフェンスで囲まれているので登るのは止め、西向天神を参拝してから次の富士塚に向かう。

(3)稲荷鬼王神社の富士塚・西大久保富士

 

抜け弁天から左に職安通りを進み、鬼王神社前の信号で左に入ると稲荷鬼王神社がある。この神社は、当ブログでも取り上げたことがある新宿山ノ手七福神の一社で、恵比寿神を祀る神社でもある。稲荷鬼王神社にお参りしてから左側に入ると、裏門に通じる参道があり、道の両側に分割された富士塚が築かれている。この神社が明治27年に浅間神社を合祀したあと、昭和5年になって丸谷講により境内に富士塚が築造される。この富士塚は、昭和24年に道路拡張工事のため取り壊されるが、昭和34年に社務所建設に際して現在の形に改築される。現在の富士塚は昔の姿を留めていないが、裏門の鳥居を潜って、北側に築かれた塚を一合目から四合目まで目でたどり、引き返して南側の塚を五合目から目でたどり頂上奥宮に達すれば、視覚による富士登拝の疑似体験が出来ることにはなる。

<参考>「新宿区の民俗2、3」「新宿区文化財総合調査報告書4」「ご近所富士山の謎」「富士塚ゆる散歩」

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