夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

前九年後三年役と社寺の縁起

2012-04-28 16:41:44 | 歴史メモ帳

 前九年後三年役は、世界遺産の平泉を拠点として花開いた奥州藤原氏の歴史の、前段となる合戦である。この合戦の主人公である、源頼義・義家父子についての縁起を有する社寺が都内には意外と多いが、前九年・後三年役の合戦の場でもない都内において、なぜ、源頼義父子の縁起が多いのか、少し調べてみた。
(注)社寺の縁起とは、社寺の起源や由来をいう。同じような言葉に、社寺の由緒があり、社寺の起こりや来歴を意味しているが、今回は、便宜上、縁起に統一している。

1.源頼義・義家父子と前九年後三年役

 初めに源頼義と義家、および前九年後三年の役について簡単にまとめておく。

(1)源頼義
 源頼義(988-1075)は平安中期の武将で、父の頼信に従って平忠常の乱を平定した際に勇気や知略で名をあげる。後に相模守となり、東国の武士の多くを従える。1051年、陸奥守となり安倍頼時の鎮撫に赴く。1053年、鎮守府将軍兼任。1056年、陸奥守に重任。1057年、安倍頼時を討つ。1062年、子の安倍貞任を討ち、前九年役が終結。1063年、伊予守に任ぜられる。

(2)源義家
 源義家(1039-1106)は平安後期の武将で頼義の長子。八幡太郎と称した。前九年役では父の頼義に従って出陣した。その後、出羽守、下野守を歴任し、1083年に陸奥守兼鎮守府将軍となる。1086年、清原氏の内紛に介入し、苦戦ののち勝利したが(後三年役)、義家に対する朝廷の評価は低かった。なお、源義家の子孫には、源頼朝や木曾義仲がおり、また、新田氏や足利氏も義家の子孫にあたる。徳川氏は新田氏の血筋であり源義家の子孫と称した。

(3)前九年役(1051-1062)
 実際には12年間の戦役である。陸奥の奥六郡(岩手県・北上川流域)の長であった安倍頼良(後に頼時)が朝廷への貢租を怠るようになったため、これを罰しようとして陸奥守の藤原登任が攻めたが大敗した。そこで朝廷は源頼義を陸奥守に任命して平定させようとした。源頼義は長男の源義家(八幡太郎)とともに陸奥国に赴任し、鎮守府将軍も兼ねることになった。大赦によって罪を許された安倍頼時は源頼義に帰順し、平和が長く続いた。しかし、陸奥守の任期が終了する1056年、安倍頼時の子の安倍貞任が人馬殺傷の罪を犯したとの告げ口があり、源頼義は安倍貞任を罰しようとしたが、安倍頼時はこれを拒否して反乱を起こした。1057年、源頼義が津軽の安倍富忠を味方に引き入れた事を聞き、安倍頼時は津軽に赴いたが、流れ矢が当たって死に、安倍貞任が後を引き継いだ。安倍貞任は抗戦を続け黄海の戦いでは源頼義を完敗させた。この戦乱における源義家の奮戦ぶりは後々まで評判になっている。1062年、源頼義は甘言を用いて出羽の清原氏を味方とし、清原武則の援軍を得て厨川柵(岩手県盛岡市)に安部貞任を討った。

(4)後三年役(1083-1087)
 清原武則は鎮守府将軍となり、陸奥の奥六郡をも支配地域とし勢力を拡大した。その孫の清原真衡と弟の清原清衡・家衡は不仲であった。1083年、陸奥守に就任した源義家は、真衡の留守を狙って攻めてきた清衡・家衡と戦って降伏させた。しかし、真衡が急死したため、源義家は清衡と家衡に奥六郡を配分した。この配分に不満を抱いた家衡は、叔父の武衡とともに難攻不落の金沢柵(秋田県横手市)に立てこもった。そこで、源義家は清衡とともに金沢柵を兵糧攻めにして陥落させ武衡と家衡を討った。この時の戦いで、源義家に従って参戦した鎌倉景政が目を射られながらも奮戦したことが知られている。朝廷はこの戦役を私戦として扱い恩賞も与えなかったため、義家は私財をもって参戦した武士に報いた。一方、清原清衡は奥六郡を手に入れ、藤原を名乗って、平泉を拠点とする奥州藤原氏の初代となった。 
 
2.源頼義、義家を縁起に有する各地の神社

 源頼義・義家と関わりのある社寺は、頼義・義家の行動範囲に対応している筈なので、前九年後三年役の地域と、陸奥国に向かう経路上の神社について縁起を調べてみた。

(1)源頼義・義家を縁起に有する各県の神社数

 昭和52年版の全国神社名鑑により、前九年後三年役の地域および奥州への道筋にあたる地域の神社の中で、頼義・義家に関係する縁起を持つ神社が、どれ位あるか調べてみた。なお、この名鑑は、全国から6400社を選び、各神社からの寄稿のほか、各種の資料をもとに編集・監修して出版したものである。

 この名鑑による、源頼義・義家を縁起とする各県別の神社の数は、次のようになる。

 青森 2。 岩手14。 宮城17。 秋田 4。 山形28。 福島 12。
 茨城 4。 栃木10。 群馬 4。 埼玉 7。 千葉 2。 東京 15。
 神奈川5。 静岡 3。 愛知 1。 岐阜 1。 三重 0。 合計129。

 上記の集計結果は全数調査による結果ではなく、全国神社名鑑に記載されていない神社も数多くあるので、少なめの数になっている。ただ、傾向はみてとれるだろう。岩手、宮城、山形、福島の各県の神社数が多いのは、前九年後三年役との関係が深いからと思われる。このデータでは秋田が少ないが、実数はもっと多いようである。陸奥国への往路・復路上の都道府県の中では、東京が特に多い点が気になるところである。
 
(2)源頼義・義家を縁起に有する都内の神社

 昭和52年版の全国神社名鑑に加えて、昭和61年の東京神社名鑑に掲載されている神社も含めて、都内における源頼義・義家について記述がある神社を調べてみた。 

・八幡神社(足立区千住宮元町)。    ・竹塚神社(足立区竹の塚6)。
・八幡神社(足立区六月3)。      ・小豆沢神社(板橋区小豆沢4)。
・熊野神社(板橋区志村2)。      ・六郷神社(大田区東六郷3)
・千束八幡神社(大田区南千束2)。   ・平塚神社(北区西ヶ原2)。
・白山神社(北区堀船2)。       ・王子稲荷神社(北区岸町1)。
・荏原神社(品川区北品川2)。     ・寄木神社(品川区東品川1)
・穴八幡神社(新宿区西早稲田2)。   ・月見岡八幡(新宿区上落合1)。
・厳島神社(新宿区余丁町)。      ・荻窪八幡神社(杉並区上荻4)。
・大宮八幡宮(杉並区大宮2)。     ・世田谷八幡(世田谷区宮坂1)。
・駒繋神社(世田谷区下馬4)。     ・駒留神社(世田谷区上馬5)。
・宇佐神社(世田谷区尾山台1)。    ・銀杏岡八幡神社(台東区浅草橋1)。 
・鳥越神社(台東区鳥越2)。      ・今戸神社(台東区今戸1)。
・白幡稲荷(中央区日本橋本石町)。   ・鷺宮八幡神社(中野区白鷺1)。  
・多田神社(中野区南台3)。      ・八幡神社(中野区大和町2)。
・白山神社(練馬区練馬4)。      ・若宮八幡(練馬区高松1)。
・簸川神社(文京区千石)。       ・大国魂神社(府中市)。
・三島神社(あきる野市戸倉)。     ・子安神社(八王子市明神町)。
・住吉神社(八王子市叶谷町)。     ・百草八幡(日野市百草)。      
・箭幹八幡(町田市矢部町)。      ・狭山神社(みずほ町)。
  
  以上、38社の神社を地域別にすると、下記のようになる。

足立区 3。 板橋区 2。 大田区 2。 北区  3。
品川区 2。 新宿区 3。 杉並区 2。 世田谷区4。 
台東区 3。 中央区 1。 中野区 3。 練馬区 2。 
文京区 1。 府中市 1。 あきる野市1。八王子市 2。
日野市 1。 町田市 1。 みずほ町1。 

 上記のほか、前九年後三年役の参戦者に関わるものとして、大鷲神社(足立区花畑)、猿江神社(江東区猿江)、御霊神社(新宿区西落合)がある。また、全国神社名鑑や東京神社名鑑に記載はないが、頼義・義家を縁起に有する神社としては、気付いただけで、熊野神社(荒川区南千住)、天祖神社(大田区山王)、諏訪神社(新宿区高田馬場)、雷電稲荷(新宿区新宿)、八幡神社(世田谷区太子堂)、八幡神社(文京区白山神社境内社)がある。さらに、寺院では、中野の宝仙寺、足立区の炎天寺、北区の金輪寺、高幡不動も該当する。これらも含めると、都内において源頼義・義家についての縁起を有する社寺は51社寺になる。全数調査をすればもっと増えるであろう。

 源頼義・義家が、現在の都内を通ったのは、人口も少なく、社寺も少なかったであろう平安時代の事である。京都と陸奥国の間の通過地点の一つに過ぎない地域で、これだけの数の社寺が、源頼義・義家と関わりがあったとは思えない。
   
3.史実と伝承

 史実が伝承されていく過程を、史実が継続して伝承される第一段階、史実が忘却され変容する第二段階、新しい要素が加わって伝説化する第三段階に分ける考え方がある。史実を伝承する体制が整っているかどうか、そして、人々の心に残るような事柄かどうかにもよるが、一般的には、100数十年すなわち数世代の間は、史実が本来の姿で伝えられ、それを越えると内容が変わってしまい、数百年後には史実とかけ離れた伝説と化してしまうという事になるだろうか。大災害や合戦のような大事件であっても、記録を残さない限り、数百年後には忘れ去られてしまう可能性が大きいかも知れない。たとえば、太田道灌と豊島氏との合戦の場所も、江戸時代には地元でも忘れ去られていたという。新田義貞が鎌倉方と戦った関戸の古戦場も、太平記などの歴史物語から得られた知識により発見されるまでは、地元においても忘れ去られていたらしい。古川古松軒は1788年に後三年役の地を訪ねているが、合戦の跡を地元の人に尋ねてみたものの、これという場所はなかったと記している。

 石碑や古文書の形で記録が残っていれば、史実は本来の形で伝えられていくが、古代まで遡る記録が残っていることは稀で、中世の記録が残るものもかなり少なく、大半の記録は江戸時代以降に作成されたものという。社寺の古記録が火災などで失われ、史実が分からなくなる事例は少なくない。長い年月の間には社寺も衰退する時期があり、このような時には、古くからの伝承が途絶えてしまう可能性も大きい。社寺が合併したり、移転したり、神職等の変更や、宗旨の変更によっても、伝承が失われる可能性がある。平安時代の事柄が、今日まで正しく伝えられる可能性は、かなり低いと言えそうである。
      
4.秋田における前九年後三年役の伝承

 平安時代の前九年後三年役が、秋田においては、どのように伝えられてきたのか見てみよう。秋田に「金沢安倍軍記」または「御領分神社仏閣縁起」と題する、前九年後三年役について記した史料が伝わっている。この史料は、1678年に藩の命令により提出した、社寺の書き上げと安倍合戦之次第からなる古記録の後半部分である。この史料では、前九年後三年役について、概略、次のように伝えている。

 “安倍貞任の悪事を聞いた源頼義は、安倍貞任討伐の綸言を得て八十万騎の大軍で下り、金沢の城を攻める。この戦いで鎌倉権五郎は眼を射られ、源義家は囚われの身となる。源義家は安倍貞任の娘、おと姫と懇ろになり、安倍貞任は源義家を婿にしたと考える。源義家は隙を見て馬に便りを結び、馬は空を飛んで父の源頼義のもとに便りを届ける。源義家は安倍貞任が留守の間に、おと姫を連れて頼義のもとに行く。源頼義の軍は金沢へ押し寄せ、安倍貞任は逃亡し、津軽を回って南部の厨川の城に入る。源頼義は厨川に押し寄せ、ついに安倍貞任を討つ。”

 前九年役の舞台は岩手、後三年役の舞台は秋田である。金沢城(柵)は、源義家・清原清衡と清原武衡・清原家衡との間の後三年役における合戦の舞台だが、「金沢安倍軍記」では、秋田での伝承にもかかわらず、前九年役における源頼義・義家と安倍貞任との合戦の話に入れ替わっている。また、古くからの言い伝えであるとすれば、地元の清原氏の伝承があって然るべきだが、そうなっていない。「金沢安倍軍記」の成立は近世の初期とされるが、前九年後三年役に関する伝承で近世より前の記録は、地元では見当たらないという。これらの事から、平安時代の前九年後三年役の伝承は、地元では既に途絶えていたと考えられ、「金沢安倍軍記」に見られる伝承は、古浄瑠璃などにより外から伝えられた歴史物語が元になり、政治的意図をもって書き換えられたと考えられている。秋田には多くの源義家伝説があるが、外から入ってきた歴史物語の知識をもとにしたか、「金沢安倍軍記」のような先行する伝承をもとにして、江戸時代になってから、その土地の事物に対応させて作り上げられたという事になるだろうか。

 源義経の生涯を書いた「義経記」という物語がある。人々に語られていた数多くの義経伝説をもとに、一つの物語としてまとめられた伝承文学で、歴史の史料としての価値は低いとされる。作者は不詳。成立は室町時代の初めごろという。この「義経記」に、金売吉次の話として、源義家を大将として安倍貞任を攻め、金沢城を落とし、貞任は逃げて岩手の野辺に倒れたという話がのっている。史実とは異なるが、物語が人々に受け入れられるためには、敵役も名の通った安倍貞任である必要があったのかも知れない。「義経記」に書かれた金沢城攻めの内容は、「金沢安倍軍記」と類似点があるが、「金沢安倍軍記」の内容が「義経記」をもとに創作されたかどうかは分からない。ただ、同様な物語が何らかの形で秋田にも伝わっていた事を想像させる。なお、1717年に巡見使がこの金沢を訪れた時の記録に、武衡・家衡の城跡ありと記しており、この頃には、源義家が武衡・家衡を攻めたという歴史認識に変わっていたと思われる。

5.社寺の縁起と史実

 古代における社寺の縁起は、国家に提出する公文書としての性格から、史実をもとにした記載がなされていた。中世に入ると、布教を目的とした縁起が寺院により作成されたが、民衆を啓蒙するため、史実とは関係ない著名な人物を登場させたり、荒唐無稽な霊験を持ち出すようになる。これは民衆の側が望むものでもあった。神仏習合の時代、神社もこのような縁起の影響を受けるようになる。一方、経済基盤の確保などを目的として、偽の縁起も作られるようになった。江戸時代になって、社寺の縁起が必要になると、支配者に対する配慮をしつつ、新たな歴史認識を受けた縁起が生み出されるようになる。江戸も終わりの頃になると、縁起の無かった小さな社寺も、縁起を創作して略縁起として配布するようなことも行われた。

 中世以降に生み出された社寺の縁起は、史実より、縁起の効用に重きが置かれていたと思われる。特に、民衆を相手とする社寺においては、民衆が望むような縁起を提供する必要があったのだろう。人々は、社寺の縁起を介して、歴史上の人物や高貴な人物と、何がしかの縁を感じる事が出来たのであり、それ故にこそ、史実はどうあれ、縁起を事実と信じたい気持が強かったと思われる。しかし、人々の歴史に対する知識が深まるにつれ、史実と矛盾する社寺の縁起は淘汰されてしまう。社寺の縁起は、人々の思いに沿いつつも、史実に配慮した縁起へと変化していったのではなかろうか。

 それでは、都内において源頼義・義家の縁起が多く存在する理由はなぜか。理由は幾つか考えられるだろうが、ここでは、単なる憶測ではあるが、その理由を考えてみた。各地からの移住者が多数派を占める江戸のような地域では、古くからの伝承が伝わらなかった可能性がある。人口が急増し、社寺の数も増えていった中で、新たな縁起が必要となる社寺も少なくなかっただろう。江戸時代には、源頼義・義家父子が奥州の安倍貞任を攻めたという歴史認識はあったと思われる。人々は、源頼義一行が江戸を通ったと考えたに違いない。では、どのルートを通ったか。江戸時代の東海道と奥州街道を通ったと考えた人もあり、鎌倉古道のうちのどれかを通ったと考えた人もいただろう。これらの街道や古道沿いにある社寺を、一行が参詣したと考えた人もいたに違いない。どのルートを通過したか分からなければ、それぞれの街道や古道沿いの社寺が、自説を主張するようになるのは世のならいである。徳川家の先祖として人気の高かった源頼義・義家を縁起とする事は、社寺にとっても、地元の人々にとっても、また、為政者の側にとっても好都合であったに違いない。

6.おわりに

 社寺の縁起は時代とともに変化する。江戸時代と昭和の時代と現在の、都内の社寺の縁起は、必ずしも同じではない。社寺の縁起は、あくまで宗教活動の一環であり、史実とは分けて考えるべきものと思われるので、歴史に関する新たな知見による変化というよりは、社寺の考え方や、氏子や信徒など受け取る側の考え方の変化によるのであろう。

 都内の社寺の縁起を見ていて、気づいた事もある。たとえば、足立区には源義家が野武士と戦ったという縁起があるが、中世のこの地域において野武士が出没したという史実と源義家の物語が結びついた可能性がある。大宮八幡には源氏の白旗に似た瑞雲を見たという縁起があるが、他の神社にも同様な伝承がある。また、土器塚と胴勢山の伝承、鎧懸けの伝承、旗立ての伝承なども各地にある。伝承が伝播したのだろうか。

 源頼義・義家はどのルートを通って陸奥国に向かったのか、分らないながらも考えてみた。源頼義は相模国の国司だったことがあるので、陸奥国に向かう途中、相模国府(平塚)に寄るのは十分考えられる事である。源頼義は京都を出て古代の東海道を通り、相模国府に入ったと考えて良いだろう。14世紀に編纂された「源威集」の中に、武蔵国府(府中)に逗留していた時に六所宮(大国魂神社)の向きを南から北に変えたという記述があるが、坂東武士の参加を求めるため相模国府から武蔵国府に向かったと考えてもおかしくはない。相模国府と武蔵国府の間の官道については、夷参(座間)を経由したとする説と、古代東海道を店屋(町田)で分かれたとする説がある。何れにせよ、関戸近くで多摩川を渡り武蔵国府(府中)に入ったと思われる。武蔵国府からは北上して、東山道の上野国か下野国に出る事も出来たが、「奥州後三年記」の内容から源頼義が常陸国を通った可能性が高いので、武蔵国府(府中)から下総国府(市川)を経由して常陸国府(石岡)に向かい、常陸国府からは白河関を経て東山道に入ったか海岸沿いの道を進んだと考えられる。武蔵国府と下総国府を結ぶ道には、乗瀦と豊島の駅があったという。乗瀦を天沼とする説や、豊島を飛鳥山近くの豊島郡衙の近辺とする説があるが、何れも異説があって確定されていない。古代道路がどこを通っていたかは不明であるが、大雑把に言うと、武蔵国府(府中)から東北東に向かい、王子から上野に続く台地の途中から平地に下り、隅田川を渡って東進し、荒川と江戸川を渡って下総国府(市川)に出ていたと思われる。確証はないが、源頼義・義家もこのルートを通ったと思われる。

(注)今回は、次の資料を参考とさせていただきました。「全国神社名鑑(昭和52年)」「東京神社名鑑(昭和61年)」「陸奥話記」「前九年合戦絵詞(日本の絵巻・続17)」「後三年合戦絵詞(日本の絵巻14)」「伝説と史実のはざま」「歴史を創った秋田藩」「社寺縁起(日本思想大系)」「義経記」「偽文書学入門」「古代の道」「古代東海道と万葉の世界(特別展図録)」。その他、HPなど。

コメント

夢まぼろしの鼠山感応寺

2012-04-07 09:59:00 | 歴史メモ帳

 目白駅に近い豊島区目白3丁目に、天保の頃、感応寺という大寺があった。その寺は、本堂の入仏供養をしてから僅か5年にして突然、廃寺を命ぜられ、跡形もなく取り壊されて姿を消した。今回、歴史メモ帳として取り上げるのは、この感応寺である。

(1)感応寺の再興
 谷中の天王寺は、もと感応寺と称し、日蓮宗の不受不施派に属していたが、幕府に咎められて天台宗に改宗させられた。元禄11年(1698)のことである。日蓮宗では、名刹の感応寺の日蓮宗への復帰を願っていたが、果たせずにいた。ところが、天保4年(1833)になって、本門寺から出されていた日蓮宗への復帰願いが聞き届けられることになった。ただ、寛永寺の意向もあって、谷中の感応寺は天王寺と改称してそのまま残し、感応寺は別の土地に再興することになった。感応寺の再興が認められた背景には、日蓮宗・中山智泉院の僧日啓の実子(妹とする説もある)で、時の将軍家斉に寵愛された側室、お美代の方の関与があったとされる。

 天保5年、再興する感応寺の敷地として、磐城平藩安藤対馬守の下屋敷跡地、28,642坪をあてる事が決められた。その敷地は、“大江戸の尻尾のあたり鼠山”と川柳に詠まれた、江戸の場末の、そのまた外れの鼠山に隣接していたため、“鼠が大寺を引いてきた”と、評判になったという。鼠山感応寺の建立から廃寺に至るまでの経緯は、雑司ヶ谷村の名主から転じて鼠山感応寺の寺務を担当した戸張平次左衛門が、「櫨楓」という資料にまとめており、今回は、これを主な資料として用いている。

 天保6年、感応寺に対して、乗輿と白書院での独礼が許されるという破格の寺格が与えられている。また、長耀山という山号も認められている。感応寺の伽藍のうち、本堂にあたる祖師堂のみ幕府が建立し、それ以外の堂宇は池上本門寺が建立する事になり、その費用をまかなうための勧化すなわち寄付金集めも許可されている。感応寺住職は、本門寺貫主の日満が当面兼ねることも承認されている。この年の8月、本堂の地所の地形を整えるため千本突きが行われたが、この時の事が、「櫨楓」「巷街贅説」「寝ぬ夜のすさび」「天保雑記」「事々録」に記されている。その様子は、江戸近在の信者が老いも若きも着飾って集まり、本丸・一橋家・加賀家からの奥女中も多数加わって、揃いの手拭、揃いの着物で徒党を組み、土を掘り或いは運び、飯や茶を施す者もあり、幟に所の名を書いて押し立て、やかましく騒ぎ、見物人も多数いて、前代未聞の事であったという。

(2)感応寺の建設

 天保7年(1836)、幕府の作事方により感応寺本堂の建設が始まり、12月には完成を見る。作事方には大棟梁として甲良、平内、鶴の三家があるが、「櫨楓」に記された棟札から、今回は平内家の平内安房斉部廷臣が、大棟梁を務めたことが分る。平内廷臣は、もとの姓を福田と言い、長谷川寛門下の和算家であったが、平内家の養子となり大棟梁となる。平内廷臣は伝統的な大工技術の奥義とされた規矩術を理論的に解明し書物として公開した人物である。

 「櫨楓」は、感応寺本堂の規模を、縁を除いて7間四面と記しているが、資料によって、記載されている規模は異なっている。「論考・鼠山感応寺本堂の姿を探る」では感応寺本堂の規模を7間四面として、感応寺本堂復元図も載せている。寺社建築の場合は、柱と柱の間隔を1間とする慣習があり、1間は必ずしも6尺ではないため分かりにくいが、縁を除いて、おおよそ20数m四方の規模になる。

 感応寺本堂が完成したことにより、天保7年12月、本門寺に奉安されていた日蓮聖人尊像が、感応寺に運ばれ入仏供養が行われた。この時の引っ越しの行列について、「瓦版」は絵入りで伝えている。道筋は、池上より下宿本芝二丁目栄門寺、金杉橋、新橋、京橋、日本橋通り、昌平橋、お茶の水、小日向筋、音羽9丁目、目白通り、感応寺で、御先触れは新曽妙顕寺、御供は本門寺の前貫主日教と当貫主日満、それと経王寺、長遠寺、江戸五ケ町ほかの総講中であった。

 本堂の完成に引き続き、他の堂宇の建設が本門寺により進められる。天保8年、将軍家斉は将軍職を家慶に譲って自らは大御所となる。天保9年、開堂供養が行われ、もと中延法蓮寺の住職であった日詮が、日満の名代を勤めるが、その後、日詮は日満に代わって感応寺の住職に就任する。天保10年、感応寺でお会式が行われ、「東都歳時記」にも取り上げられている。天保11年、この年は特に、徳川家、大奥、大名家からの参詣が多かった年である。天保12年1月、前将軍家斉が亡くなっている。

 天保12年10月頃の感応寺の境内の様子を、「櫨楓」により記すと、本堂①と東側の惣門④との間に敷石が敷かれ、敷石の傍らに鼓楼③、その後ろに客殿と庫裏と居間②が建てられていた。南門近くには源性院⑥、その東側には大乗院⑦が建ち、境内のあちこちに千本松と千本桜が植えられていた。境内西側の池⑧の近くには、弁天社と一如庵があった。本堂の北側では鐘の鋳造が始まっており、翌年の3月に鐘供養を行う手筈になっていた。また、千川上水から分水して池に水を引くことになり、総延長1960間余の堀を造る予定であった。山門と五重塔については、その次の年に建設を開始する事を計画していた。

(3)感応寺の廃寺
 天保12年の10月、本門寺の貫主は寺社奉行に呼び出され、感応寺の廃寺を申し渡されている。青天の霹靂のような出来事であった。廃寺の申し渡しは、本門寺経由で感応寺に伝えられているが、その時の文書が「藤岡屋日記」と「天保雑記」に掲載されている。その文書によると、感応寺住職は別段御構い無く、一宗の内の相応の寺院で住職をするのは勝手次第としている。「藤岡屋日記」によると、日蓮宗の多くの寺院で捕縛者があり、中山智泉院の僧の日啓と日尚が遠島と晒しを、堀之内妙法寺の住職も遠島を命ぜられたという。しかし、感応寺住職は何のお咎めもなかった。
 
 感応寺の廃寺については、川路聖謨の「遊芸園随筆」にも記されており、中山智泉院の当住と先住(日尚と日啓)が女犯の罪で遠島になったとしているが、感応寺住職については何も述べていない。斎藤彦麿は「神代余波」に、山門も出来ぬうちに破却が命じられ、跡形もなく取り壊されたのは夢の中の夢のようだ、と記している。片山賢は「寝ぬ夜のすさび」の中で、大御所の思し召しで建立されたものを、他界されるとすぐに廃寺にしたのは如何なる事か、お上のする事は分からないと述べるとともに、近頃の法華宗の行いが甚だしい事をあげ、感応寺が廃寺になったのもあり得ることだと書いている。喜多村香城は「五月雨草子」に、前将軍家斉が菩提のために建立したものを、他界してすぐ取り壊したのは、道にそむくと書き、水野忠邦に対する批判を記している。「櫨楓」は、住職の日詮について、道念堅固なること鉄の如く、いささかも不律不如法の事なく、明書経巻を読誦する外、世の楽を知らずと記し、この寺の住職として堂舎を壊すという前代未聞の珍事に逢ったとしている。また、将軍が代替わりとなって、改革の手始めに廃地となるのは、時のしからしむる所で、是非を論ずるには及ばないと記している。これらの資料を見る限り、法華宗(日蓮宗)の中に問題があったにせよ、当時の感応寺に、いかがわしい風評があったとは思えない。

 大谷木醇堂の「燈前一睡夢」には、感応寺についての、いかがわしい話が記載されている。感応寺が廃寺になった頃、醇堂はまだ幼児だったので、ずっと後になって祖父から話を聞き、明治25年になって書きつけたのが、その話という事になる。その内容だが、中山智泉院の僧と感応寺の住職を取り違えている上に、話の中身も、うわさ話の類に過ぎないものである。当時、将軍の寵愛を受けていた側室のお美代の方の縁で、日蓮宗が勢力を拡大していたが、その専横ぶりに対する反発もあったらしい。恐らく、流言飛語の類もあったのだろう。「燈前一睡夢」は、後になって、三田村鳶魚によって取り上げられ、世間に知られるようになる。この種の話を好む人が居り、また、面白い話は記憶に残りやすいから、風評が事実を駆逐してしまう事になったのか、感応寺には、いかがわしい風評が付いて回ることになる。

 感応寺の廃寺については、思し召しとだけあって理由は知らされていない。真実は闇の中だが、当時、天保の改革を推し進めようとしていた老中水野忠邦にとっては、前将軍家斉のもとで権勢をふるっていた家斉の側近たちや側室のお美代の方の影響力を、何としても排除する必要があったのだろう。お美代の方の息のかかった感応寺について、住職の罪を問えないまでも、廃寺にすべしと考えたのは、不思議ではない。ただ、多岐にわたる天保の改革については、思ったようには進まなかったようである。結果として、改革は失敗に終わり、水野忠邦も罷免されている。

 感応寺の廃寺の後、すべての堂宇は取り壊され、一木一草に至るまで撤去されてしまっている。堂宇のうち一部は移設されているが、本堂の古材はしばらく保管された後、身延山の祖師堂を再建する際に使用されている。感応寺の跡地のうち東南側には、浅草の花川戸にあった小出伊勢守の屋敷が移され、小出伊勢守の屋敷跡には境町や葺屋町の芝居小屋が移転させられている。また、感応寺跡の西側は旗本の小屋敷の地となり、北東側には江戸市中に住んでいた巫女や修験などが移住させられている。なお、感応寺の跡地のうち三か所について、豊島区により試掘調査が行われたが、感応寺のものと確認されたものはなかったようである。

(4)感応寺跡周辺散歩

 感応寺が廃寺にならなければ、鬼子母神付近から感応寺まで町続きになっていただろうという話もある。鬼子母神から感応寺に直接出る江戸時代の道は、鉄道により分断されてしまったが、それに近い道を歩いて、感応寺跡の周辺をめぐってみよう。鬼子母神から北に行くと、桜の名所でもある法明寺の前に出る。その前の道を左に行くと明治通りに出る。歩道橋を渡り、すぐ南の道を西に入って進んで行くと西武線のガードに出る。昔は、ガードを潜って開かずの踏切でJRを渡っていたが、今は踏切が閉鎖されているので、ガードの手前を左に行き、JRの上を歩道橋で渡り、右に折れてガードを潜り、線路の北側を西に向かう。次の踏切で左に行くと、目白庭園がある。

 園内でちょっと休憩したあと、目白庭園の北側の道を西に向かう。少し先でT字路になるが、南北に通じる道は感応寺の東側の境界の道に相当している。ここを左に行く。そのまま歩いて行くと目白通りに出るが、そのすぐ手前を右に入る道が、感応寺の南側の境界の道になっている。この道を進んで行くと、左手に目白の森の看板がある。この辺りの右側が感応寺の西端に当たる場所である。

 左手の道に入り、少し先の目白の森に行く。ここは、鼠山の東の端に当たっている。もとに戻って、感応寺の西端に当たる場所から、感応寺の北側の境に相当する、細い道に入る。しばらく道なりに進んで行くと、その先で、道は線路で行き止まりになる。その手前の道を右に折れると、少し先に徳川黎明会の建物がある。この辺の右手が本堂跡になるだろうか。さらに南に進むと目白通りで、左へ行けば目白駅に出る。

(注)今回、次の資料を参考としました。「櫨楓(「新編若葉の梢」所収)」「豊島区史資料編3」「東京市史稿・市街篇37、38、39」「鼠山感応寺展図録」「雑司ヶ谷風土記」「三田村鳶魚全集1、3」「藤岡屋日記」「一夜で消えた大寺の謎」

コメント