夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

ブログを始めて三年

2011-06-27 21:46:42 | Weblog
ブログを始めて三年

 我が家の花暦、今回はナンテンを取り上げました。風雨で曲がってしまった茎の途中からも、花が咲こうとしていました。ナンテンは難を転じると読めるので、縁起の良い木とされているのだそうです。
 さて、ブログを始めてもう3年半になりました。そこで、これまでの経過を振り返ってみることにしました。最初は、ホームページの開設を検討していたのですが、操作性と容量の点から、多少の制約はあっても、ブログの方が有利と判断して、ブログを選びました。ただ、日記の類を公開する気はなかったので、テーマを決めて取材し、記事を書き、連載形式で投稿することにしました。以下、カテゴリー別に、これまで扱ってきたテーマの内容を示しておきます。

1.稲荷百社詣(2007.11~2008.4)
 都内の稲荷神社百社をめぐる紀行文。ただし、陰陽五行説をちょっと借りて与太話にしてしまった巡拝記。
2.古いアルバムめくり
(1)竜ノ口渓谷から太白山へ(2008.4)
 昔、仙台市内の竜口渓谷と名峰太白山を歩いた時の記録と写真。初代オリンパス・ペンで撮影。
(2)阿蘇九重(2010.8~2010.9)
 昔、阿蘇山と九重山に登った時の記録と写真。写真は主に、初代オリンパス・ペンで撮影したカラースライドによる。
(3)初代オリンパス・ペンの思い出(2010.9)
 初代オリンパス・ペンについての思い出。
(4)ある船の残像(2010.9~2010.10)
 今は廃船となった海底ケーブル敷設船・千代田丸の写真。初代オリンパス・ペンで撮影。
3.巡見使の旅(2008.4~2008.11)
 江戸幕府は、各藩の情勢監察のため各地に巡見使を派遣したが、そのうち、陸奥・出羽・松前に派遣された巡見使の道中記をもとに、旅の道筋を追ってみた。
4.江戸近郊の小さな旅(2008.11~2009.8)
 文化文政の頃、江戸近郊を歩き紀行文を書いた村尾嘉稜の足跡をたどる。方面別に編集された原著を、執筆順に並べ替えた。老年を迎えた嘉稜の心境にも着目。
5.気ままに百人一曲(2009.8~2009.10)
 クラシックの作曲家百人に対し、各々一曲を勝手気ままに選んだもの。
6.神田川橋めぐり(2009.10~2009.1210)
 神田川を上から下まで橋めぐりをした紀行文。10数年前の写真で、現在の橋との比較ができそう。
7.民話伝説の世界(2009.12)
 民話を改ざんしたらどうなるかという、単なるお遊び。
8.寺社巡拝(2009.12~2010.1)
 江戸時代の地図をもとに、都内の七福神めぐりをしてみた。
9.しょーとしょーと
 いわゆる掌編小説、といっても与太話の類だが、それでよろしければどうぞ。
(1)(2010.1~2010.2)
(2)(2010.3~2010.4)
10.あの町この町
 あちこちの町を取り上げ、思い付くままに書く。錦糸町は、駅北側地区の再開発の前後についての記事を含む。
(1)錦糸町雑記(2010.2~2010.3)
(2)気ままに亀戸散歩(2010.3)
11.千川上水花めぐり(2010.4~2010.5)
 千川上水路図や明治の迅速図などを参考に、明治の風景を思い描きながら、千川上水跡を歩いた紀行文。
12.絵葉書で海外の旅(2010.5~2010.8)
 大正時代の欧米の風景絵葉書を、当時の海外旅行を思い描きながら、眺めてみた。斎藤茂吉の日本帰航記の概要付き。
13.都電荒川線に沿って(2010.11~2011.4)
 都電荒川線に沿って早稲田から三ノ輪橋まで歩いた紀行文。
14.神田川支流散歩(2011.5~2011.6)
 善福寺川、妙正寺川、桃園川を見て歩いた紀行文。

 当ブログは主として、散歩、旅、紀行、雑文などを扱ってはいますが、雑録の名の通り、種々雑多なテーマが扱われることになってしまいました。また、新しい記事が優先されるため、古い記事が埋もれがちで、修正が必要な記事も放置されたままという事になりました。この点をどうするかが、今後の検討課題でしょう。

(6.27修正)
 次回ですが、古いアルバムめくりの五回目として、戦前・戦中の写真を公開することにしました。題して「戦前戦中写真館」。それでは、 夢七。 

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神田川支流・桃園川(2)

2011-06-05 10:41:38 | 神田川と支流

 馬橋の先で桃園川は高円寺に入る。桃園川沿いには長仙寺と高円寺の二つの寺がある。そのうち、村名となり駅名にもなった高円寺に立ち寄り、それから、また緑道を歩く。村絵図では、桃園川は緩やかに蛇行しつつ流れているが、今の緑道は直線的な道になっている。

 高円寺から中野に入ってそのまま進むと、桃園があったという台地の裾を回り込んで、中野通りの五差路に出る。旧道の石神井道は青梅街道の鍋屋横丁近くの追分から北西に進み、中野通りを経て桃園川を渡り、北西に向かって今の早稲田通りから旧早稲田通りを経て石神井に向かっていた。一方、桃園川の方は五差路の先で右に曲がり大久保通りに平行に東に向かっている。緑道を進むと、もみじ山通りに出る。この道は、鎌倉街道の中道とされ、南に行くと青梅街道の鍋屋横丁に出る。北に行く道は、哲学堂付近に出ていたとされるが、古来の道は途中で失われている。江戸から明治にかけて、北に行く道は新井薬師への参詣道として利用されたらしく、中央線のガードの先を左に入り、北野天神の先を右折し、早稲田通りを経て薬師柳通りを行けば、新井薬師に出る。島忠の角の五差路で東南に入る道は新井薬師の参詣道に続く道で、青梅街道につながる道である。この道を入り、大久保通りの手前の道を左折すると谷戸運動公園に出る。北側一帯は城山と呼ばれ、以前は太田道灌の砦とする説もあったが、現在は後北条の小代官を務めた堀江氏の居館跡とされている。堀江氏の祖先である堀江兵部は越前から中野に来て一帯を開拓したと伝えられている。なお、運動公園から東で北から谷が入ってくるが、中野サンプラザ近くを源流とし、北野天神の前を東に流れ、もみじ山通りを過ぎ、線路の下をくぐって東南に流れる谷で、その流れは、桃園川ともつながり、桃園川下流から神田川にかけての水田を潤していたようである。運動公園の先を右に折れ、大久保通りと桃園川を渡り、左の坂を上がれば青梅街道に出る。ここを左に行けば宝仙寺に出る。 

 宝仙寺は、源義家が護持していた不動明王像を本尊とし、大宮八幡の別当寺として阿佐ヶ谷に建立された寺であるが、その後、大宮寺が大宮八幡の別当寺となり、宝仙寺は中野に移ったという。今は、大宮寺が廃寺になったため、宝仙寺が大宮八幡についての由緒を伝えている。宝仙寺には、中野の塔と呼ばれた三重塔があったが焼失し、現在は復元した塔が建っている。この塔は飯塚氏の寄進によるものだが、江戸時代には中野長者が成願寺に建立した塔を移設したものという説が流布していた。成願寺は中野長者と呼ばれた人物、鈴木九郎の館跡に建てられた寺とされ、江戸時代には、寺の裏山に堀で囲まれた塚があったという。中野長者の伝説の原型は貧しい博労の九郎が観音の御利益で長者になる話で、これに朝日長者の伝説が加わり、さらに熊野信仰の話も取り入れられて成願寺の縁起が形成されたらしい。この伝説は、農地開拓で時間をかけて地歩を築いた堀江氏とは対照的に、短期間に富を蓄えた新興勢力が存在したことを想像させる。桃園川の緑道を進んで山手通りを渡ると、北側に中野氷川神社がある。この神社の由緒では、源頼義の父、源頼信が平忠常を討伐した際に勧請したといい、太田道灌も戦勝祈願したと伝えている。桃園川の緑道をたどっていくと、ほどなく神田川に出る。

 橋を渡って、対岸から眺めてみる。桃園川から神田川に流れでる水量は多くない。時は夏。梅雨入りあとの、昼下がり。大気は重く、葉桜はすでに翳を作っている。神田川はただひたすら流れ、低い音を響かせている。小さな空を見上げ、それからゆっくりと、川の流れを追うように歩いて行く。すべて世は事も無く   ・・・。そう、思いながら。


<追記>
 善福寺川、妙正寺川、桃園川と、神田川の支流をめぐってみると、近辺の社寺に、太田道灌や源頼義義家父子についての由緒が幾つもあることに気付く。太田道灌については、妙正寺川流域が合戦の場所であったから当然と言えば当然だが、頼義と義家については、通過地点に過ぎない土地にも関わらず、何故に由緒が多いのか少々気になる。前九年後三年役にかかわる神社の由緒については、もう少し調べてみたい気がする。


 今回の連載にあたっては、次の資料を参考とさせていただきました。
「神田川再発見」「杉並区史跡散歩」「中野区史跡散歩」「新宿区史跡散歩」「豊多摩郡誌」「杉並の古道」「杉並の地名」「東京近代水道の百年史」「東京和田大宮の研究」「大宮八幡宮史」「伝説と史実のはざま」「千川上水関係資料Ⅰ」「地図で見る新宿区の移り変わり」「落合の歴史」「私たちの下落合」「哲学の庭」「哲学堂公園内遺跡発掘調査報告書」「東京都市地図」「五百年前の東京」「古代の道」「東京古道散歩」「旧鎌倉街道探索の旅」「江戸名所図会」等の資料、「すぎなみ学倶楽部」「街道を尋ねて」等のホームページ。

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神田川支流・桃園川(1)

2011-06-01 19:58:14 | 神田川と支流

 妙正寺川水源の一つ清水田用水口から近い場所に、神田川のもう一つの支流である桃園川源流の天沼の弁天池がある。以前、この弁天池は私邸内にあったが、今は、その跡地を杉並区が入手し天沼弁天池公園として整備している。ただ、残念ながら、もとの弁天池は埋め立てられ、新たな池が作られている。公園内には郷土博物館分館の建物が二棟建っている。園内について発掘調査をしたのか聞いてみたが、していないという事だった。ひょっとしたら、古代の遺物が見つかったかも知れないのだが。天沼の弁天池の湧水量は十分ではなかったらしく、青梅街道沿いに流れてきた六ケ村分水天沼村口からの分水を、桃園川の助水としていた。天沼村絵図には弁天池や分水の記載は無いが、明治13年頃の地図を見ると、天沼の八幡神社の南側で弁天池から流れでる桃園川に六ケ村分水からの水路が合流していたようである。天沼村は畑作が主体で水田は少なかったらしく、川沿いに水田が広がって枝分かれした水路が田圃を潤すようになるのは、阿佐ヶ谷村に入ってからである。桃園川は川底が浅く、大雨が降ると浸水して、なかなか引かなかったという。それなりの苦労はあったのだろう。現在、桃園川およびその支流はすべて暗渠になっており、暗渠の上は、一部を除いて、緑道か遊歩道として整備されている。

 八幡神社から少し行ったところにある熊野神社は、一説に東海道巡察使の紀廣名が武蔵国に来た時に勧請したと伝えられ、また、新田義貞が創建したとも伝えられている。古代、武蔵国府と下総国府の間の連絡道に乗瀦と豊島の二つの駅があったが、乗瀦をアマヌマと読んで杉並区の天沼にあてる説がある。ただ、乗瀦の場所については諸説あり、今のところ確定されていない。古代の道や駅の遺構が発見されるまでは、お預けである。

 遊歩道のようになっている桃園川の跡をたどり、天沼から阿佐ヶ谷に入る。さらに進むと中杉通りに出る。その手前の南北に通じる道は鎌倉街道とされる古道で、北に行くと中杉通りに合して鷺宮を経て練馬に出る。また、ここを南に行くと中杉通りを渡って世尊院を過ぎ、神明宮の前から南に行き、線路南側のパールセンターを通って大宮八幡に向かっている。一方、桃園川の流路は中杉通りを越えてから南東に向きを変え、けやき公園の方向に向かっていたが、今は、その跡が分かりにくくなっている。神明宮のある一帯は阿佐ヶ谷の本村で、ここにあった名主屋敷は、今も神明宮の南側に、けやき屋敷として残っている。阿佐ヶ谷村の絵図では、桃園川沿いの水田のほか、村の南側にも水田が書かれている。青梅街道沿いに流れてきた六ケ村分水の末端、阿佐ヶ谷村口の分水口から流れてくる水路に沿った水田で、その水路は今のけやき公園の手前で桃園川に流れ込んでいたが、今は中央線で分断されているため、その跡をたどるのは難しい。

 中央線のガードをくぐると桃園川緑道が始まる。歩くには快適で、そのまま進めば何事もなく神田川に出てしまう道である。本来の桃園川は緩やかに蛇行しながら東に流れていたが、その水路は後に直線の多い流路に改修され、さらに暗渠化されており、暗渠の上に作られた緑道も直線の多い道になっている。阿佐ヶ谷村の東側は馬橋村だった土地で、その村絵図によると、阿佐ヶ谷との境に馬橋稲荷の別当寺だった福泉寺が記されている。馬橋稲荷の東には、南から合流してくる水路が書かれている。善福寺川から分水しトンネルで青梅街道の下を抜けてくる新堀用水で、今の区役所の東側でトンネルから出て、既存の流れの助水となり、複数の水路に分かれて水田を潤していたが、今はもちろん暗渠になっている。この新堀用水を渡って馬橋稲荷を過ぎ、今のパールセンター方向に至る道は、江戸時代にもあった道である。村絵図によると、新堀用水と合流する手前で、水神の祠近くから流れてくる水路が、北から桃園川に合流していたようである。

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