夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

48.北沢牡丹 深大寺道しるべ 

2009-07-28 22:44:51 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 天保四年四月十日(1833年5月28日)、嘉陵は上北沢の凝香園に牡丹を見に行っている。牡丹の種類は凡そ二百五六十種。嘉陵は花の銘を記録し、牡丹畑の配置を図に残している。嘉陵は四谷新町(角筈新町)の牡丹桜花の銘も記録しているので、途中で立ち寄ったのだろう。また、牡丹畑への道しるべとして、宮益町から駒場野、代田、松原、上北沢を経て牡丹園に至る案内図を付けている。ほんの概略図なので、牡丹園で聞いた道筋を書き留めただけかも知れない。嘉陵によると、四月十日の時点では全体の十分の一しか花が咲いていなかったが、四月十九日に行った人の話では、既に花も末になっていたということであった。嘉陵は、四月十九日に墨田川の牡丹園に行っているが、すでに花は散って跡形もなかったとし、牡丹は廿日草と言うが、盛りは十日に過ぎないと書いている。

 嘉陵の略図からすると、この日、上北沢から深大寺まで足をのばしている。しかし、紀行文は残されていない。ここでは、略図に基づいて、その行程をたどることにする。上北沢の牡丹園へは、甲州街道の松原から入る道を通っている。滝坂北道と呼ばれた道と思われるが、現在の道であれば、日大通りを歩くことになるだろう。この道を進んで行くと、凝香園を開いた鈴木左内の屋敷が道の右側にあった。その場所は、現在の緑丘中(世田谷区桜上水3)の付近とされている。凝香園はその向い側にあり、堀割を渡って入るようになっていた。その少し西に、鈴木左内とともに北沢を開いたという、榎木平蔵の屋敷があった。屋敷の場所には池があり、その水は凝香園の前の堀割に流れこんでいた。さらに行くと、八幡宮(勝利八幡か。世田谷区桜上水3)があり、松の古木が二本あった。

 この先、滝坂北道は滝坂道に合して甲州街道の滝坂に出るが、嘉陵は滝坂道を通らずに、赤堤の道(赤堤通り。世田谷区八幡山3)を歩いて、甲州街道の下高井戸の西に出ている。そのあと甲州街道を西に行き、上高井戸を経て滝坂(調布市仙川町2)の上から深大寺(調布市深大寺元町5)への道に入っている。道標が整備された道で、迷うことなく深大寺に出られたという。帰りは滝坂の上まで、もと来た道を戻り、恐らくは甲州街道を新宿へ向かったのであろう。嘉陵、時に74歳。この日、歩いた距離は40kmを越えていた。

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47.2 遅野井村八幡宮参詣 善福寺池 妙正寺池(2)

2009-07-26 22:24:03 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 来た道を戻って伊草(井草)に行き、寒泉寺(観泉寺。杉並区今川2)を訪れる。客殿につながる室は修理中であった。門の右手に拝殿と本社があったが何の神を祀るかは不明であった。庫裏には人が居る気配があったが、戸を締め切ったままであったため、何も聞けずに、その場を立ち去っている。寒泉寺は今川氏の菩提寺であったのだが、嘉陵が、そのことを知っていたかどうかは分からない。

 嘉陵は、門前に居た翁から妙正寺への道を聞き、その言葉通りに行くと、長屋門を構えた名主井口新之丞の家と、冠木門を構えた井口新十郎の家があった。その前を北に行くと妙正寺(杉並区清水3)の門があり、入ると左に番神堂、右に仮の鐘楼があり、奥には枝垂桜が見えた。寺の堂舎は一昨年、焼失したため、坊と堂を兼ねた庫裏があるだけだった。傍らに居た40歳ばかりの男に池への道を聞くと、案内してくれるという。池(妙正寺池。杉並区清水3)は大きくはないが、湧き水があり、池の水は東南に流れて下落合に至る(妙正寺川)ということであった。また、池の中の島には弁財天の祠が祀られていた。妙正寺の住職は不在で、堂舎建立のために、本所猿江の慈眼院に寄宿して、寄付を募っているという話であった。案内してくれた男は、井口新十郎といい、途中まで送ってくれると言う。天沼と井草の境の石橋まで送ってもらい、帰り道を細々と教わって、謝して別れている。なお、井口家の古文書は、現在、杉並区の文化財に指定されており、門の前にその事を記す標柱も立てられている。妙正寺池の水は、当時は湧水であったが、現在は地下水をくみ上げて、池の水を保っているということである。

 北西に行けば三宝寺や長命寺に出るが、すでに午後4時近くであったので、またの機会ということにして、帰路に着く。天の沼を経て高田へ行く道を進み、下高田の橋(小滝橋)を渡って、大久保中百人町(新宿区百人町)に出る。そこから、尾張戸山屋敷(新宿区戸山)の横を通り、月桂寺(新宿区河田町)の前を過ぎ、尾張の市谷北長屋下を経て、左内坂(新宿区市谷左内町)を通り、市谷御門から家に帰った。午後6時を少し過ぎていた。この日は、阿佐ヶ谷で休んだ以外は休みを取らなかった。歩いた距離は40km弱。嘉陵は数えで73歳になっていた。

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47.1 遅野井村八幡宮参詣 善福寺池 妙正寺池

2009-07-24 20:30:00 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 天保三年五月九日(1832年6月7日)、午前10時に三番町の家を出て、中野の法泉寺(宝仙寺。中野区中央2)の大師に詣でる。嘉陵は大師八十八箇所詣でをしようと思い、最初に、この寺を選んだと記している。ところで、高田村天満宮詣の記の頭書に、壬辰(天保三年)五月九日遊行富士見の茶屋、云々とあるので、この日は富士見茶屋(跡地は学習院内。豊島区目白1)に立ち寄った事になる。経路は記されていないが、三番町から高田馬場を経て面影橋を渡り、富士見茶屋に立ち寄ったあと、薬王院前を過ぎて西橋を渡り、小滝橋の近くに出て、御成山の麓を南に行き、法泉寺に出たのではなかろうか。

 ここから青梅街道を行き、鍋屋横丁から堀の内に行くのは熟知の道である。妙法寺を参詣したあと西に行き、谷の窪への道を分け、稲荷の祠を過ぎて馬道に出る。五日市街道と思われる。その四辻を北へ行くと青梅街道の馬橋である。さらに西に行くと阿佐ヶ谷で、ここで食事をとる。そのさき、天の沼村の八丁(杉並区天沼3)を通り、12時過ぎに遅野井に着く。馬橋からの道筋は民家が少なく、貧しい村が続いていると記している。

 嘉陵はここで遅野井八幡宮(図。井草八幡宮。杉並区善福寺1)を参詣している。現在の井草八幡宮からは想像しにくいが、社は茅葺で簡素な造り、宮主の住まいも人が住んでいるとは思えぬほどだったという。このあと、善福寺池(杉並区善福寺3)に行く。地元の人の話では、此処にあった善福寺、万福寺が廃寺になり、その跡地にある池なので善福寺池ということであった。池は一面に葦が生えていて、水面が僅かに見えるだけ。池の東縁にある弁財天の祠も分け入る事が出来ないため、遠くから手を合わせて立ち去っている。また、この辺り、民家は困窮しているようで、無住の寺も二ヶ所あったと記している。当時の善福寺池は、下から水が湧き上がって葦も浮き根になるほどであったが、現在は、地下水をくみ上げて池の水を確保しているという事である。周辺は公園として整備され、冬には水鳥も多く飛来する。嘉陵が行くことが出来なかった弁財天も、池の西北の小島に市杵島神社として残っている。

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46.白鳥の社を拝す

2009-07-20 10:40:14 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 天保三年三月二十五日(1832年4月25日)、嘉陵は北郊の花見に行っているが、紀行文の本文は無い。ただ、駒込追分の略図に、花見の道すがら初めて白鳥の社を拝すと書かれているだけである。嘉陵の略図からは少しずれるが、駒込近くで白鳥の社というと、妙義神社(写真。豊島区駒込3)が該当すると思われる。北郊の花見の代表格は飛鳥山になるが、今さら述べるまでも無いと考えたのだろうか、何の記載も無い。しかし、近くの王子権現(王子神社。北区王子本町1)や、滝野川八幡(北区滝野川5)については境内図が付けられている。
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45.隅田村道くさ

2009-07-17 21:33:00 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 天保二年九月六日(1831年10月11日)、隅田村に遊び、正福寺(写真。墨田区隅田2)を訪ねる。嘉陵は、文化十三年(1816)と文政十年(1827)にも正福寺を訪ねているが、紀行文中に、“もとこしは三十余年を経れば”、とあるので、それ以前にも正福寺を訪れたことがあったのだろう。今回、来て見ると、木立の下にあった古碑は墓所入口に移されており、あった筈の五重の石塔婆は何処にも見当たらない。昔は、毛氈を敷いたようだった高麗芝も今は無く、松は半ば枯れ、坊の後ろにあった茶亭は跡形も無かった。嘉陵は、時の移ろいを感じつつ、客殿の弘法大師像を拝んで、寺を出ている。

 嘉陵は渡辺周助から、「隅田村の百姓源右衛門の屋敷から、旗揚八幡宮と彫付けた石が出て来たので、中川飛騨守に訴えたが、いまだに音沙汰が無い」という話を聞いたことがあったが、今まで訪ねることはしなかった。今は源右衛門の子、五郎兵衛が後を継いでいて、古碑の文字が剥落していたのを、読み易く直したため偽物の様になり、評判も良くないので隠しているという事であったが、今回は、それでもと、五郎兵衛の家を訪ねている。しかし、そっけない応対であったので、掘り出した場所を教えてもらって、その場を辞した。

 そのあと、若宮八幡宮(荒川放水路工事に伴い隅田川神社(墨田区堤通2)に合祀)を参詣する。赤く塗った鳥居があり、社は板葺きで南に面していた。境内には楠の古木があったが、あとはみな松であった。別当は善福寺といい、客殿には弘法大師が祀られていた。食事の用意をしている嫗が居たが、僧の姿は見えなかった。嘉陵は、この辺の松と御殿山の松とを比べて、土壌によって違いがあるのだろうと述べている。また、堀の内妙法寺の杉が伐採され、江戸で売られていた事を取り上げて、杉は60年経つと役に立つが、自分は役に立っていない。我、杉に恥じると言うべきか、と書いている。

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44.2 瀬田村行禅寺 奥沢村九品仏 道しるべ(2)

2009-07-15 22:13:48 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 嘉陵は九品仏への道を聞いて行禅寺を出るが、九品仏に行く前に二子の渡しに立ち寄っている。故宮(伏見宮貞建親王の子で清水家初代重好の妻となった田鶴宮貞子女王)が存命であった時に、嘉陵は、石坂直温、重沢清門、小川弁右衛門と一緒に、鮎を獲りに此処に来たことがあったが、それからもう24年も経っていた。あの時一緒に来た直温が今なお壮健で、要職に進んでいるのは目出度いことだが、清門と弁右衛門は先だって亡くなっている。今にして、同遊の者が二人も居ないのに、自分のみ生き残っているのは、恥じというべきか、それとも幸いというべきかと、嘉陵は思いを書き記している。

 二子の河原で、嘉陵は石を幾つか拾って懐に入れている。河原には蓬が生えていたが、やつれて小さかった。また、翁草という、花も葉も真っ白な草があった。それは我が身のようでもあった。世の中には、「あの人は、まだ生きていて、よろよろと歩いている」などと陰口をたたく者も居る。それを黙って聞いているのも悔しいが、家に閉じ籠もる気にはなれない。すでに職を退いた身ゆえ、心のまま、時間の許すままに、山を越え、川を渡り、さまよい歩いているが、そんな自分を「老いぼれのくせに」と笑っている者も居るだろう。それでも、まだ見ていない場所はもとより、行ったことのある場所も、昔のことを偲びながら、せっかちに飽きることなく歩き回っているのだと、嘉陵は書いている。

 河原をさまよっている内に、午後2時を過ぎてしまったため、もとの道に戻って九品仏に向かう。野良田村(世田谷区中町付近)を経て、衾村(目黒区八雲付近)を過ぎ、九品仏道を行く。農夫に道を尋ね田圃の中道を進むと、九品仏(写真。世田谷区奥沢7)の仁王門の前に出る。本堂があり、九品仏の堂宇が三宇ある。また、未完成の仏像を多数安置している堂があった。

 帰りは、来た道を衾村まで戻り、東に行って坂を下る。大陽山の額のある寺(太陽山東光寺か。目黒区八雲1)を過ぎ、碑文谷村を経て、日が暮れる頃に祐天寺(目黒区中目黒5)の前を通る。ここから、目黒の元富士(目黒区上目黒1)の裾を過ぎ、渋谷八幡(金王八幡神社。渋谷区渋谷3)の下の橋を渡って、熟知の道を家路に着く。家に帰ったのは午後8時であった。この日、歩いた距離は35kmほど。嘉陵は72歳になっていた。

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44.1 瀬田村行禅寺 奥沢九品仏 道しるべ(1)

2009-07-13 21:46:21 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 天保二年九月三日(1831年10月8日)、朝食を済ませ、午前9時に家を出て、二子の渡し近くの行禅寺に向かう。この寺は、以前、寛量院が玉川(多摩川)に行かれた時に立ち寄った所である。寛量院は、嘉陵が仕えていた徳川清水家第四代の斉明のことだが、文政十年(1827年)に19歳の若さで亡くなっており、その跡を偲びつつ、書院の眺めが良いという行禅寺を訪ねてみようというのが、今回の目的である。

 赤坂から青山百人町、宮益町を経て、渋谷川を渡り、道玄坂を上がって駒場への道と分かれ、世田谷二子道を行く。ここで、嘉陵は携帯した磁石を振って南南西に向かうことを確認している。行禅寺への経路は、嘉陵の略図からすると、大山街道(玉川通り)をたどったようである。三田用水を渡ると上目黒で、ここで氷川社(目黒区大橋2)を参詣する。このあと、流れ(目黒川)を渡り、池の尻(世田谷区池尻)に出る。説法があるという常光院に人が大勢集まっていたが、そのまま進み、三軒家(世田谷区三軒茶屋)に出る。ここで新町への道と分かれて二子道を行き、用賀を通って瀬田に出る。所々に民家があり、落ち栗を茹でて器に盛って道の傍らに置いてあり、一皿四文としてあったが、無人であった。

 さらに行くと行禅寺(写真。世田谷区瀬田1)に出る。中に入ると右に薬師堂があり、東向きに本堂がある。書院は閉まっていたので、庭から眺めると、多摩川の流れが見え、富士、大山、秩父の山々が連なって良い眺めである。行禅寺は玉川八景の一つで、展望に恵まれていたため、将軍が遊覧の折に訪れた場所である。清水家第四代斉明も、この辺を訪れた時に休憩した場所でもあった。その事もあってか、しばらく佇んでいると、往時が偲ばれて粛然とすると、嘉陵は書いている。ちょうど昼時でもあり、寺に居た老人のすすめもあって、嘉陵は持ってきた飯を食べている。


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43.高田村天満宮詣の記

2009-07-09 22:08:19 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 天保二年八月十九日(1831年9月24日)、仕事を終えての昼過ぎ、嘉陵は高田近辺の散歩に出掛けている。最初に立ち寄ったのは高田天満宮の別当寺である真定院(廃寺。跡地は新宿区西早稲田2)である。嘉陵は八月五日にも、この寺を訪れて院主に会っているが、この日も丁度、院主が居て、大橋長左衛門が書いた三十六歌仙の額を詳しく見せてもらう。また、大橋龍慶が彫刻した菅原道真尊像と、龍慶が家光から拝領した尊像を拝謁。ほかに源実朝の持仏という金銅観自在菩薩立像も見る。院主の話では大橋龍慶の宅地が小日向に移されたあと、跡地に穴八幡を勧請し、その時に土中から出現した像などを八幡宮に納めたという。高田天満宮は、当初、早稲田天神町にあり、後に尾張藩戸山屋敷に移され、さらに高田(旧地は新宿区西早稲田2)に移された。周辺に住人も居ない僻地で、土地は広いが日陰地で菜園にならず、檀家も少ないという事であった。嘉陵は、ここの院主について、詩をよくし、歌を詠み、衣破れ食乏しくとも気にせず、人にものを乞うこともなく、世間に学識をひけらかすでもなく、七十余歳にしてなお健康であると書いている。嘉陵は、この人物に引かれる所があったのだろう、後に人づてに詩を贈っている。

 嘉陵自筆本表紙の注記によると、天保十年(1839年)冬に、自火のため天満宮の社も坊も焼失し、一物も留めず烏有となったという事である。なお、現在の高田天満宮(北野天神。写真。新宿区西早稲田3)は、近くの水稲荷の裏手にひっそりと祀られている。

 高田天満宮の参詣を終えた嘉陵は、午後2時過ぎに門を出て、高田馬場(跡地は新宿区西早稲田2)から、砂利場(面影橋の北側)を通り、藤稲荷(新宿区下落合2)に詣でている。面影橋を渡り南蔵院から西に行く道を辿ったのであろう。そのあと、氷川神社(新宿区下落合2)を左に見て、薬王院(新宿区下落合4)の前を通り、伊草の用水路(妙正寺川)に架かる橋を渡り、上落合の石地蔵の所から上って、曲がりくねった本道に出る。村絵図から、西橋(西ノ橋。新宿区上落合1)を渡って墓所の場所から右に入り、光徳寺に向かう道をたどり、その先を南に行ったと思われる。嘉陵は、この本道について、高田馬場から西に行く下戸塚の橋通りで、青梅街道の裏通りにあたり、西に行くと天沼、伊草に至り、さらに行けば遅野井八幡の前に出る道であると記している。また、この本道の道筋の家は農と商を兼ね、相応の蔵もあり、漬物の樽を積み重ねた家もあって、貧しい家は見当たらないと書いている。この本道は、地元では牛込通りと呼ばれていた道だが、現在の道で言えば、早稲田通りに該当する道筋である。

 嘉陵は本道の北側にある浅間塚を訪れている。塚は土を盛り上げて、石像の浅間大菩薩を建てたもので、台石は2mほど、周囲は杉が生い茂っていたと記す。また、北側に稲荷社があり、浅間の祠、石塔婆もあって、全体の高さは6mほどと記している。この浅間塚は、落合村絵図にも記載されている。嘉陵は、浅間塚から南に、雑木の茂みを分け入ったところに伊勢皇大神宮の祠があったと記しているが、落合村絵図及び嘉陵の書いた略図から、南というのは誤りで、伊勢皇大神宮の祠は浅間塚の東にあたる。浅間塚のあった場所は、現在の早稲田通りと山手通りの交差点(新宿区上落合2)付近とされ、大塚という古墳を利用して築かれたと伝えられている。浅間塚は昭和2年の道路工事の際に取り壊され、塚の岩石は月見ケ岡八幡(旧地は八幡公園)に移されたとされる。さらに昭和37年に八幡宮が現在地(新宿区上落合1)に移されるに伴い、現在の八幡宮境内に浅間塚(富士塚)が造られ、現在に至っている。なお、最勝寺(新宿区上落合3)の「十一面観音立像」は、浅間塚から移したと伝えられており、確認はしていないが、刻まれた文面からすると、嘉陵が図に残した浅間塚の石像である可能性がある。

 嘉陵は、この日、浅間塚を訪ねた理由として、過日、四家町(豊島区雑司が谷2、高田1,2)の末の富士見茶屋を訪れた際に、西北(西南の誤りか)の方に杉の梢が高く見える所があり、茶屋の嫗に聞いたところ、浅間塚の杉という事だったので、今日、思い立って詣でたのだと記している。富士見茶屋は、現在の学習院(豊島区目白1)内に、その場所があったとされる茶屋で、広重の富士三十六景にも「雑司がや不二見茶屋」として取り上げられている。この絵の中にも、富士の見える方角に二本の杉が高く聳える様子が描かれているので、目立つ存在ではあったのだろう。なお、広重の絵からすると、杉のある場所は月見ケ岡八幡宮の辺り(現在は八幡公園)になり、当時の浅間塚の場所ではない。描かれた風景と現実の風景は、必ずしも一致しないという事なのだろうか。

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42.代々木八幡に詣でる記

2009-07-05 10:50:57 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 天保二年八月八日(1831年9月13日)、代々木八幡宮に詣でる。四谷新町(角筈新町。新宿区西新宿)の天満宮(箒銀杏の下の祠。渋谷区代々木3)のわきより上水に架けた橋(天神橋)を渡り、少し下って制札のある四辻(参宮橋付近)に出る。八幡もうでの時は、ここを北(左)に行き井伊家屋敷(明治神宮付近)の横を通り千駄ヶ谷八幡(鳩森八幡)への道をたどったが、今回は南(右)に行き、木立の茂る道を抜けて少し下って、田圃が見渡せる場所に出る。ここから、農夫しか通らない山際の畦道を行く。現在の道で言えば、小田急の線路に沿って南に行くということになろうか。さらに行くと山道になり、けもの道を登って行く。少し離れた所に人家が見えたが、夕餉の煙がもの寂しい。木立の中を上がれば代々木八幡宮(写真。渋谷区代々木5)の入口に出る。向かいに鳥居があり、傍らに別当の坊の門がある。御社は茅葺で西に向き、右に神楽殿がある。拝殿には柘植清左衛門他の弓射の額や歌の額などがあるが、すでに黄昏で老眼では読み難い。ここを出て別当寺の福泉寺(渋谷区代々木5)の坊の門から入ると、老僧ともう一人が、碁を囲んでいるだけ。その他には誰もいない。客殿や庫裏があり、御堂もあった。あちこち見て歩き、南の門から外に出る。

 門を出て石段を下ると、西から東に一本の馬道がある。ここを東に少し行き用水(河骨川か。現在は暗渠)を渡る。この先、嘉陵は馬道を歩かずに、曲がりくねった田圃の畦道を歩き、井伊家屋敷南側の代々木田圃が見渡せる場所に出ている。嘉陵の略図からすると、代々木田圃とは渋谷川沿いの原宿村・隠田村(渋谷区神宮前3~5)の田圃をさしているようである。ここまでの距離は3km余り。かなりの回り道をしたことになる。このさき、千駄ヶ谷八幡への道を分け、北に少し行って東に折れ、四谷上水の切落しの流れ(渋谷川)に架かる、下の水車橋を渡る。この辺りで、明かりが点るのを見る。橋の近くの水車を眺めながら少し上がり、松平(浅野)近江守の隠田屋敷(港区北青山3)を裏手から回り、原宿に出る。ここから青山通り五十人町を過ぎ、家に帰ったのは、午後6時頃であった。現在の道で言えば、代々木八幡から、代々木公園の中を廻り歩き、神宮橋から竹下通りの中ほどに出て、明治通りの竹下口から原宿通りを通り、旧渋谷川歩道を横切って、次の道を左に行き、十字路を右に折れて妙円寺の前を過ぎ、キラー通りから青山通りに出て、番町の家に帰るということになるだろう。

 今日歩いた道は本道ではなく、裏手の小道であったが、途中には手折る人も居ないまま、萩、薄、藤ばかま等の花が咲いていたという。地元の人の話では、新町から荻久保、地蔵窪を経て、八幡宮の西の口に出るのが本来の道だといい、また、江戸へ帰るには恩田(隠田)から青山、赤坂をさして行く道が近く、分かりやすいということであった。
 
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