文化十三年、後の八月(閏八月)二十日(1816年10月11日)。嘉陵(村尾正靖)は吹上観音に詣でるべく、午前8時に家を出る。今回の経路だが、本郷通りから壱岐坂を下り富坂を上って、伝通院前を経て大塚通りに入り、波切不動(現在地は本伝寺内。文京区大塚4)を過ぎて庚申塚への道を分ける。さらに進んで高田への道を分け、用水(谷端川。千川上水の分流を入れる。現在は暗渠)を渡り、鎮守の森を西に見て大矢口(大谷口)に出る。ここから上板橋に出て、石神井川を下頭橋で渡り、川越街道下練馬の宿場に出ている。中山道を板橋まで行き川越街道に入って練馬に出るルートに比べ、距離的には多少短いと思われる。練馬では蕎麦屋に入って休息し、うどんを食べている。
下練馬の先で川越街道と分かれて北に向い、徳丸から下赤塚に出て西に折れて松月院(板橋区赤塚8)の前に出る。ここから、その南にある大堂(板橋区赤塚6)に立ち寄っている。松月院は御朱印を与えられ、後に高島秋帆が西洋砲術の演習を行った際の本陣にもなった寺である。江戸名所図会でも松月院を主体に描き、その南側に大堂を小さく載せているに過ぎないが、嘉陵は松月院より大堂の方に関心があったようである。
大堂は、古くは七堂伽藍を備えた大寺であったが、上杉謙信の小田原攻めの際に兵火にかかり、一時は廃寺となっている。その後、大堂は規模を縮小して再建されているが、嘉陵が訪れた時、本堂は茅葺で雨を凌ぐ程度であり、戸張も無いため、阿弥陀仏を自由に拝むこと出来たという。嘉陵の図には本堂の手前西側に鐘楼が描かれているが、歴応三年(1340)の銘がある鐘は現存している。現在の本堂には、平安後期の作とされる木造の阿弥陀如来坐像が安置されているが、嘉陵が見た阿弥陀仏と同じと思われる。嘉陵の図には、本堂右手奥に社が見えるが、これは八幡神社であろう。このあと、嘉陵は松月院から北に少し行ったツルシ坂から、溜池を眼下に城山と吹上を望む風景を写生している。
現在、松月院の付近は、ちょっとした観光スポットになっている。東京大仏で知られる乗蓮院は、江戸時代には板橋宿にあり、嘉陵も近くを通った際に参詣しようとして果たせなかった寺である。この地に乗蓮院が移転したのは昭和48年の事であり、東京大仏も昭和52年に開眼した新しいものである。乗蓮院から北に続く台地が城山で、千葉自胤の赤塚城があった場所である。城山の下にある赤塚溜池の周辺は梅林になっていて、近くには郷土資料館や美術館がある。
下練馬の先で川越街道と分かれて北に向い、徳丸から下赤塚に出て西に折れて松月院(板橋区赤塚8)の前に出る。ここから、その南にある大堂(板橋区赤塚6)に立ち寄っている。松月院は御朱印を与えられ、後に高島秋帆が西洋砲術の演習を行った際の本陣にもなった寺である。江戸名所図会でも松月院を主体に描き、その南側に大堂を小さく載せているに過ぎないが、嘉陵は松月院より大堂の方に関心があったようである。
大堂は、古くは七堂伽藍を備えた大寺であったが、上杉謙信の小田原攻めの際に兵火にかかり、一時は廃寺となっている。その後、大堂は規模を縮小して再建されているが、嘉陵が訪れた時、本堂は茅葺で雨を凌ぐ程度であり、戸張も無いため、阿弥陀仏を自由に拝むこと出来たという。嘉陵の図には本堂の手前西側に鐘楼が描かれているが、歴応三年(1340)の銘がある鐘は現存している。現在の本堂には、平安後期の作とされる木造の阿弥陀如来坐像が安置されているが、嘉陵が見た阿弥陀仏と同じと思われる。嘉陵の図には、本堂右手奥に社が見えるが、これは八幡神社であろう。このあと、嘉陵は松月院から北に少し行ったツルシ坂から、溜池を眼下に城山と吹上を望む風景を写生している。
現在、松月院の付近は、ちょっとした観光スポットになっている。東京大仏で知られる乗蓮院は、江戸時代には板橋宿にあり、嘉陵も近くを通った際に参詣しようとして果たせなかった寺である。この地に乗蓮院が移転したのは昭和48年の事であり、東京大仏も昭和52年に開眼した新しいものである。乗蓮院から北に続く台地が城山で、千葉自胤の赤塚城があった場所である。城山の下にある赤塚溜池の周辺は梅林になっていて、近くには郷土資料館や美術館がある。