夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

9.1 吹上観音道くさ(1)

2008-12-29 22:32:24 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文化十三年、後の八月(閏八月)二十日(1816年10月11日)。嘉陵(村尾正靖)は吹上観音に詣でるべく、午前8時に家を出る。今回の経路だが、本郷通りから壱岐坂を下り富坂を上って、伝通院前を経て大塚通りに入り、波切不動(現在地は本伝寺内。文京区大塚4)を過ぎて庚申塚への道を分ける。さらに進んで高田への道を分け、用水(谷端川。千川上水の分流を入れる。現在は暗渠)を渡り、鎮守の森を西に見て大矢口(大谷口)に出る。ここから上板橋に出て、石神井川を下頭橋で渡り、川越街道下練馬の宿場に出ている。中山道を板橋まで行き川越街道に入って練馬に出るルートに比べ、距離的には多少短いと思われる。練馬では蕎麦屋に入って休息し、うどんを食べている。

 下練馬の先で川越街道と分かれて北に向い、徳丸から下赤塚に出て西に折れて松月院(板橋区赤塚8)の前に出る。ここから、その南にある大堂(板橋区赤塚6)に立ち寄っている。松月院は御朱印を与えられ、後に高島秋帆が西洋砲術の演習を行った際の本陣にもなった寺である。江戸名所図会でも松月院を主体に描き、その南側に大堂を小さく載せているに過ぎないが、嘉陵は松月院より大堂の方に関心があったようである。

 大堂は、古くは七堂伽藍を備えた大寺であったが、上杉謙信の小田原攻めの際に兵火にかかり、一時は廃寺となっている。その後、大堂は規模を縮小して再建されているが、嘉陵が訪れた時、本堂は茅葺で雨を凌ぐ程度であり、戸張も無いため、阿弥陀仏を自由に拝むこと出来たという。嘉陵の図には本堂の手前西側に鐘楼が描かれているが、歴応三年(1340)の銘がある鐘は現存している。現在の本堂には、平安後期の作とされる木造の阿弥陀如来坐像が安置されているが、嘉陵が見た阿弥陀仏と同じと思われる。嘉陵の図には、本堂右手奥に社が見えるが、これは八幡神社であろう。このあと、嘉陵は松月院から北に少し行ったツルシ坂から、溜池を眼下に城山と吹上を望む風景を写生している。

 現在、松月院の付近は、ちょっとした観光スポットになっている。東京大仏で知られる乗蓮院は、江戸時代には板橋宿にあり、嘉陵も近くを通った際に参詣しようとして果たせなかった寺である。この地に乗蓮院が移転したのは昭和48年の事であり、東京大仏も昭和52年に開眼した新しいものである。乗蓮院から北に続く台地が城山で、千葉自胤の赤塚城があった場所である。城山の下にある赤塚溜池の周辺は梅林になっていて、近くには郷土資料館や美術館がある。



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8.木下川薬師 正福寺

2008-12-25 22:07:49 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文化十三年(1816年)、嘉陵(村尾正靖)は木下川(キネガワ)薬師をへて、正福寺を訪ねている。日付は記載されていないが、木下川薬師の開帳にあわせて、3月から5月の間に出かけたのであろう。亀戸天満宮の後ろの境橋から、浄光寺(木下川薬師)の総門までは一直線の道で、道の東側の川には引き船があり、両岸には桜が数百本も植えられていた。木下川薬師は恵信作の本物の古物で、子供ぐらいの大きさ、寄付状には応永三十三年(1426年)、家定とあったと記す。引き舟が通った中居堀も、現在は道路に変わり、木下川薬師(写真)も、荒川掘削の際に現在地(葛飾区東四つ木1。木根川薬師)に移転して、昔の参詣道とは荒川(放水路)によって分断されることになった。

 浄光寺の惣門を出て、曲がりくねった道を行くと梅若の堤(墨田区堤通2)に出る。ここから東の仁王門を出て、東南に行ったところが、正福寺(墨田区墨田2)である。ここに宝治二年と刻まれた古碑と五重塔碑石があったと記す。現在、正福寺には宝治二年の板碑が残されているが、形や大きさの点からすると、嘉陵の見た古碑とは別のものであるかも知れない。亀戸天満宮から梅若までの距離は4kmほどである。

(注)「嘉陵紀行」には梅若塚と浄光寺(木下川薬師)についての勁斎の文章が綴りこまれ、そのあとに付近略図、木下川薬師を経て正福寺に至る紀行文が続いている。勁斎と正靖の文章の区切りは明記されていないが、正靖の他の紀行文から正福寺への紀行文は正靖とし、再遊年月の点から付近略図は勁斎とした。
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7.上高田村氷川社道草

2008-12-19 22:16:44 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文化十三年三月七日(1816年4月4日)、嘉陵(村尾正靖)は仕事を終え、昼12時に清水邸を出て、上高田の氷川神社に向う。連れは石坂、永井、加藤の三人である。嘉陵は高田馬場(高田馬場跡。新宿区西早稲田3)から北側の道を西に行くが、途中の寺の門前に戸塚村の石碑があり、さらに進むと井の頭の流れ(神田川)に渡す戸塚村の石橋があって、その手前の小高い所に薬師堂があったと記す。大江戸絵図や村絵図から、寺とは観音寺(新宿区高田馬場3)、戸塚村の石橋は小滝橋、薬師堂とは観音寺薬師堂を指すと考えられる。嘉陵はまた、橋を渡った少し先に馬継場(新宿区上落合1)のような休憩地があったと記しているが、この通りが青梅街道の裏道としてよく利用されていたことを示すものであろう。この道は、現在の早稲田通りとも重なる道である。ここで嘉陵は北に向い、次に西南に行き、上落合の最勝寺(新宿区上落合3)に出ている。さらに行くと焼場法界寺(新宿区上落合3。落合斎場)がある。ここを霧ケ谷といい、出外れの乗馬の死骸を捨てる場所を狼谷と呼んでいた。この先、上落合と上高田の境となる溝を渡り、新井薬師へ行く道を左に分け、北へ行くと氷川明神(中野区上高田4。氷川神社)に出る。

 氷川明神(図)の石段を下った所に湧水のある御手洗池があった。位置的には、この地にあった桜ケ池と思われる。嘉陵はこの池にすむ大黒虫(沙虫)を持ち帰っている。このあと一行は、社の前を北に登って展望の開けた岡の上に出る。ここから小径を下り、石神井の水(妙正寺川)に渡す橋を渡る。少し行くと社(御霊神社か)があり、東に行けば恵古田(江古田)村の道に出る。ここを東に行けば椎名町で、ここから先は既知の道である。

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6.日曜寺愛染王参拝の記

2008-12-12 19:05:49 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文化十三年一月十二日(1816年2月9日)。嘉陵(村尾正靖)は中山道板橋駅近くの日曜律寺(板橋区大和町。写真)を訪れ、田安宗武の持仏であった愛染王像を参拝している。この像の内部には、宗武自筆の家康の尊像を収めてあったという。この寺、以前は参詣する人も少なかったが、住持の才覚で松平定信書の扁額を請けてからは、参詣者も増えてきたということである。日曜寺に至る経路は書かれていないが、中山道板橋宿から近い場所にあるので、中山道を利用したのであろう。

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5.2 谷原村長命寺道くさ(2)

2008-12-09 19:27:32 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 清戸道(目白通り)をさらに進むと、長崎村の内の椎名町に出るが、入口に慶徳屋という穀物を商う豪家があったという。元文元年(1736)の中野成願寺鐘楼の寄付者として、大久保の杉浦藤兵衛の孫・慶徳屋藤右衛門の名があるが、同一人物とすれば、古くから手広く商売をしていたことになる。この通りは練馬からの穀物輸送ルートでもあり、嘉陵は、この辺に貧しい家は無いと書いている。目白通りは、この先、二又交番の所で道を分けるが、清戸道は右側の細い方の道である。ここから、清戸道は五郎窪を通り千川上水に出たあと、千川上水に沿って西に向かい中荒井(練馬区豊玉)を通る。現在は千川上水が暗渠化されているため往時の面影は無いが、桜並木の残る千川通りが清戸道で、練馬駅の付近で目白通りに合流する。ここからは、現在の目白通りが清戸道の道筋となる。嘉陵によると、貫井の道の左に子の権現の小祠があり古着を商う市が開かれる場所があったと記す(練馬区貫井5の円光院は子の権現を祀る)。また、その先の分かれ道に東野某が銘文を作った碑があったと記す。この碑は現存しており(練馬区貫井5・練馬二小前交差点の北側)、清戸道が分かれる地点に置かれている。ここからは曲がりくねった参詣道を長命寺(練馬区高野台3。写真)に向うことになるが、いま歩くとなると分かりにくい道である。この道をたどると、長命寺の裏門に出ることになるが、嘉陵も裏門から長命寺に入っている。

 長命寺は、後北条氏の血筋を引く慶算(増島重明)が、夢で弘法大師のお告げを聞き、茅堂を建てて弘法大師像を安置したことに始まる。その後、奥ノ院が造られたが、高野山を模していたため、俗に東高野と呼ばれるようになった。江戸時代は、紀州の高野山を参詣したのと同じだけの御利益があるとされて、人気があった寺である。ところで、嘉陵が土地の者から聞いていた話では、曹司谷(豊島区雑司ヶ谷)から長命寺まで二里半(10km)ということであったが、実際には、それより遠かったらしい。長命寺から石神井の池までの半里を、やや遠いと書いているところをみると、石神井まで足を延ばすのは諦めたのだろう。午後からの出発ゆえ、そろそろ帰途につく時間になっていたはずである。帰路については記載されていないが、もと来た道を戻ったとして、清水家を起点とした往復の歩行距離は、30数kmほどになる。長命寺は頼めば宿泊もできたようだが、嘉陵一行は、そうせずに帰ったのではなかろうか。なお、現在の長命寺の境内は、江戸時代のままではないが、奥の院と石仏群は当時の面影を残しているということである。
 
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5.1 谷原村長命寺道くさ(1)

2008-12-03 22:05:53 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文化十二年九月八日(1815年10月10日)、午前10時頃に清水邸を出る。嘉陵(村尾正靖)は徳川清水家に仕えていたため、前の日に清水家に泊まる必要があったのかも知れない。嘉陵は小久保清右衛門の家に立ち寄って昼食を御馳走になるが、そのあと小久保清右衛門の案内で長命寺に出かけることになった。同行者は他に三人。12時頃の出発である。江戸から東高野・長命寺への参詣ルートは幾つかあるが、嘉陵の略図によると、清戸(清瀬市)や練馬から農産物を江戸に運ぶ道で、明治になって清戸道と称されるようになった経路をたどったようである。

 清戸道の起点は神田川にかかる江戸川橋で、道はその少し先から目白坂の急坂となる。荷物の運搬を助けて日銭を稼ぐ立ちん坊が居たところである。この坂を上がると、道は現在の目白通りに合流して西に向かうが、この先、清戸道は目白通りと重なるところが多い。その目白通りを先に進むと、面影橋から宿坂を上がって鬼子母神へ行く道と交差する。この道は池袋を経て板橋に出る鎌倉時代からの古道で、交差する辺りを四家町(豊島区雑司ヶ谷2、高田1,2)と云った。嘉陵は、ここを過ぎたところで東北の方に見えた大行院の屋根を、今日の眺望ここに極まると書き、また、西北を望めば安藤対馬守の屋敷があり、その左は鼠山であると記している。大行院は鬼子母神の別当寺(神社の経営管理を行う寺)で、法明寺内にあった寺である。安藤対馬守の屋敷は後に移転させられ、跡地に感応寺が建立されたものの、風紀を乱すという理由で廃止されるという事件があったが、文化十二年にはまだ、現在の目白駅西北(豊島区目白3)にあった。鼠山は清戸道の北側の一角(豊島区目白4)を指し、四家町から西に行く清戸道は鼠山に向っていたため鼠山道と称されていた。その頂上付近は樹林が伐採されて芝になっていたが、清戸道の南側も開かれていたため、落合薬王院の森の梢が見えていたという。
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