夢七雑録

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亀戸天神と香取神社の梅まつり

2017-02-25 10:56:57 | 寺社巡拝

(1)亀戸天神社

亀戸天神社は藤の名所として知られているが、菅原道真ゆかりの梅の名所でもある。現在は50種300本ほどの梅が植えられており、開花の時期には梅まつりが開催されている。

天神社を参詣したあと、池に沿って歩き、梅を見てまわる。

白梅とともにスカイツリーが見えることを確認し、池を一周してから外に出る。

 

(2)亀戸梅屋敷跡

亀戸天神を東側に出て、道を左に進むと北十間川沿いの浅草通りに出る。以前は、その手前の三角地に梅屋敷跡の説明板が置かれていたが、現在は浅草通りに出て右に少し行ったところに、江東区登録史跡・梅屋敷跡の説明板が置かれている。この説明版の南側一帯が梅屋敷と呼ばれた、本所の商人伊勢屋の別荘であり、臥龍梅と呼ばれる梅が評判であったという。広重は「名所江戸百景」の中に亀戸梅屋舗として臥龍梅を取り上げているが、ゴッホもこれを写している。説明版の傍らには臥龍梅跡の石標柱があるが、文字は何故か車道側に刻まれている。

 

(3)香取神社・香梅園

浅草通りを渡って、境橋で北十間川を渡る。川沿いには梅も植えられている。北に進むと、次の交差点の向こう側に香取神社がある。梅まつりの提灯が懸かった鳥居をくぐると、境内の西側と東側に梅が植えられている。

東側には香梅園の入口があり、広くはないが梅がびっしりと植えこまれている。江戸時代末期、香取神社の東側に小村井村名主の梅屋敷があり、小村井梅園と呼ばれていた。広さは3300坪。亀戸梅屋敷より広く、園内には釣り堀もあった。「絵本江戸土産」の小村井梅園の図を見ると、富士山のような築山や茶屋もあったようである。しかし、明治43年の大洪水の結果、亀戸梅屋敷ともども廃園となってしまった。過去の梅屋敷を偲び、小村井梅園の復活を願って平成6年に開園したのが、この香梅園ということのようである。

香梅園には85種120本の梅が植えられている。花も様々、樹形も様々。梅の間を縫って見て回る。他の梅林と異なり密生しているので、多種多様な梅に包まれるような気がしてくる。香取神社を参拝したあと、梅林の上に顔を出しているスカイツリーを確認して帰途につく。

 

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池上梅園

2017-02-23 19:14:05 | 公園・庭園めぐり

池上駅から本門寺通りを進み霊山橋を渡る。本門寺総門の手前を左に入るのが池上梅園へのルートだが、今回は総門の手前を右に行き池上会館の屋上に上がる。富士山は見えなかったが、暫し展望を楽しんだあと大堂を参詣し、裏手の本殿前の道を左へ、次の角を右に車坂の続きの道を歩き、坂道の途中に出て左へ、ガードの前を左に折れて池上梅園に出る。

普段の池上梅園は閑散としているが、梅の季節は混雑する。入口でもらったパンフレットによると、池上梅園の北半分は伊東深水の自宅兼アトリエであったが戦災で焼失。戦後に南半分が拡張されて小倉氏の別邸となるが、後に都に譲渡され、昭和53年に大田区に移管されてから、植林と拡張が行われたとある。

階段を上がり、急斜面に植樹された梅林を横からと上から眺める。梅林は斜面の下にもあり、池上梅園全体では30種370本の梅があるという。見晴台から園内と園外の風景を眺めてから階段を下りる。

清月庵という名の茶室に行ってみる。池上門前にあった川尻家の離れが大田区に寄付された事から、池上梅園内に再建したもので、平成元年から公開している。

清月庵の隣には、昭和58年に大田区に寄贈された政治家藤山愛一郎の茶室、聴雨庵がある。茶室の前は芝生地で、冬の景物として欠かせない雪吊も造られていた。

園内には和室もあるが、外観を眺めるだけにとどめ、池に沿って歩く。この池には、地下鉄浅草線のトンネル内湧水が引かれており、池から流れ出た水は呑川に落とされているという。園内にも湧水はあるようだが、今はほんの僅からしい。

池から戻り園内を歩く。水琴窟の音を聞く人が列を作っている。一時は廃れてしまった水琴窟だが、近頃は所々で見かけるようになった。斜面地の梅林を見上げながら、平地の梅林を通り抜ける。それから、外に出て、第二京浜を西馬込駅まで歩く。

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羽根木公園に梅を見に行く

2017-02-21 19:26:22 | 公園・庭園めぐり

小田急梅ヶ丘駅近くの羽根木公園(世田谷区代田4-38)は、スポーツ施設や遊戯施設などがある区立の公園で、梅林でも知られている。この公園は丘の上にあり、位置的に富士山が見えることを期待して上がったのだが、残念ながらこの日は見えなかった。

羽根木公園に梅が植樹されたのは昭和42年からだそうだが、今では紅梅白梅合わせて650本の梅があり、開花の時期には「せたがや梅まつり」が開催されている。

公園内に、世田谷区代田に住んでいた俳人の中村汀女の句碑があり、次のような句が刻まれている。終戦の翌年の句である。

 「外にも出よ ふるるばかりに 春の月」

休憩にも利用可能な和室の星辰堂と、茶室の日月庵を眺めたあと、丘の上広場に戻り、周回園路を一周して帰途に就く。

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若宮公園・宮城道夫記念館・矢来公園・漱石公園

2017-02-05 14:13:19 | 公園・庭園めぐり

(1)若宮公園

江戸の地図を参考に飯田橋から早稲田まで小さな公園・庭園をめぐってみた。神楽坂下の交差点を渡り、外堀通りを市ヶ谷方面に右側の歩道で歩く。東京理科大の角を曲がると、若宮公園の門が石垣の上に見えて来る。

石段を上がって門をくぐると、上は広場のようになっている。南側には四阿があるが、遊具などは無い。公園の周囲は漆喰の塀で囲まれ、北側には冠木門もあって、武家屋敷らしい雰囲気になっている。「市ヶ谷牛込絵図」によると、付近には武家屋敷が並び、公園のある場所には都筑鍋五郎の名が記されている。北側の門を出て左に行く。ここから先、暫くは江戸時代からの道が続く。当時は武家屋敷が並んでいた場所だが、今は高級住宅地になっている。道なりに進んで突き当りを右に折れると、若宮八幡に出る。

 

(2)宮城道夫記念館

若宮八幡の先を左に入り、右に折れ左に折れる。この先は上り坂となるが、この坂は新坂と呼ばれている。「沿革図書」の元禄12年(1699)の図によると、若宮八幡の西側は戸田左門の広い屋敷になっている。享保16年(1731)になって、戸田左門の屋敷跡に道が造られ、多くの屋敷が設けられる。この時に造られたのが新坂である。坂を上がって突き当りを右に行く。西側一帯は御徒組の組屋敷があったところで、南側から南御徒丁、中御徒丁、北御徒丁と呼ばれていた。現在の南町、中町、北町はこれに由来する地名である。このうち中御徒丁には江戸後期の文人で、狂歌で知られる大田南畝(蜀山人)が住んでいたという。電柱の案内表示に宮城道夫記念館とあるのを確認し、左に入れば中町となる。

先に進むと、左側に中町公園があり、反対側に宮城道夫記念館がある。水木金土が開館日で有料である。中に入り展示を眺め、春の海などの作品を視聴覚室で聴いてから、国登録有形文化財になっている検校の間を見に行く。これは、昭和23年に建てられた6畳と2畳からなる茶室風の建物で、宮城道夫の晩年の作品はここで作られたという。現在の建物は敷地内で曳き屋により移されたそうだが、検校の間の前には趣のある小さな庭も造られている。

 

(3)矢来公園

宮城道夫記念館を出て坂を下り、やや上がって牛込中央通りに出る。ここを右に下り大久保通りを渡る。周辺の納戸町、細工町、箪笥町という地名は江戸時代の町名に由来する。坂を上がって次の交差点から北は矢来町となる。矢来町は小浜藩酒井家の牛込下屋敷の跡地に相当し、牛込中央通りは、牛込下屋敷を東西に分断する形になっている。矢来町の名は、酒井家の下屋敷の周囲を竹矢来で囲んでいたため矢来屋敷と呼ばれていたことに由来する。矢来町ハイツに沿って牛込中央通りを北に進み、次の信号で左に入り突き当りを右に行くと、右手に矢来公園がある。公園内には小浜藩邸跡の標柱が立つが、藩邸跡らしきものは見当たらない。

 

若狭小浜藩主で後に大老となる酒井忠勝は、寛永5年(1628)に牛込下屋敷(矢来屋敷)を拝領する。広さは43500坪あった。忠勝は家光に予の右腕と呼ばれるほど信頼され、牛込下屋敷への家光の御成も100回を越えている。宝永5年(1708)、下屋敷の南東側が分割され柳澤家の屋敷となるが、安永4年(1857)に南東側が戻されて酒井家上屋敷となる。屋敷の北側の中央には、ひたるが池を中心に庭園が造られ、その東隣は御殿になっていた。屋敷の南側には長安寺という菩提寺があった。屋敷内には家臣の屋敷や長屋も設けられていた。「解体新書」で知られる杉田玄白は、牛込下屋敷内にあった藩医の家に生まれている。明治になって牛込下屋敷は酒井伯爵の所有となるが、明治16年の牛込区神楽坂近傍図によると、南側の伯爵邸や道路沿いの宅地のほかは、殆どが畑や林になっている。酒井家は、必要とする土地以外を貸地にしていたようだが、大正時代の終わり頃になると貸地を売却するようになる。昭和の頃の酒井邸があったのは現在の矢来町ハイツの位置になる。

江戸時代の”ひたるが池”は、南北に長い池で中程に橋が架かっていたが、明治16年の図では池は三つになり中島もあった。大正1年の地籍図にも、この池は記されているが、その後、この池は埋め立てられて現存しない。明治後期に刊行された「名園五十種」には、牛込矢来町の酒井伯爵邸の庭も取り上げられているが、芝生の広庭と記しているだけで、池についての記載は無い。また、西南に菩提寺である長安寺の木立が見える事が書かれているので、ひたるが池の庭ではなく、明治時代に建てられた酒井伯爵邸の庭園を取り上げていると思われる。

 

(4)漱石公園

矢来公園から西へ坂を下り矢来町を抜ける。この先は江戸時代に治安維持を担っていた御先手組の組屋敷があった場所になる。突き当りを右に行き大願寺の前を左に、やや上がって下り外苑東通りを渡る。付近は宗参寺の門前町で、弁天町の名は弁天堂に由来する。ここから先は、将軍直衛の弓・鉄砲隊である持弓組・持筒組の組屋敷があった場所を通る。坂を下ってまた上がると右側に漱石公園がある。

漱石公園は夏目漱石が晩年を過ごした漱石山房があった場所で、漱石の胸像や、資料を展示する道草庵、漱石没後に猫などの供養のため遺族が建てた猫塚がある。漱石公園は記念館の建設工事中で、3月からは全面休園する予定になっているので、記念館が開館したあと再訪する事にして公園を出る。坂をやや上がって下り、また上がって下ると早稲田通りに出る。左へ行けば馬場下町で穴八幡の前になる。

<参考資料>「地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編」「酒井忠勝と小浜藩矢来屋敷」「名園五十種」「漱石山房秋冬」

 

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