東京文化財ウイークの期間、通常は非公開の文化財も特別公開されている。以下、特別公開された文化財の中から、旧醸造試験所第一工場、茂呂遺跡、旧吉岡家住宅を取り上げる。
(1)旧醸造試験所第一工場(北区滝野川2-6-30)
旧醸造試験所第一工場は、酒類の醸造を研究するため明治37年(1904)に設立された醸造試験所の中核的建造物で、国の重要文化財である。設計監督は横浜赤レンガ倉庫などを建てた妻木頼黄で、竣工は明治36年。現在は赤煉瓦酒造工場とも呼ばれ、日本醸造協会が管理している。醸造試験所は印刷局王子抄紙部附属工場跡地を敷地としているが、幕末には大砲製造を目的とした滝野川反射炉があった場所で、千川上水公園の位置にあった千川上水の元舛(分配堰)から堀割で水を引いていた。
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都電を飛鳥山で下車して音無橋へ。橋の手前を左に行き醸造試験所の門を入る。先に進むと醸造試験所跡地公園の広場に出る。この辺りは研究室や講習の教室などがあった場所で、南側には第一工場が見える。広場を先に進み西側から工場内へ。
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最初に入った場所は旧ボイラー室で、現在は講習室として使用されている。ここで資料を受け取り、次の原料処理室に入る。白米を洗って蒸すまでの工程を行う場所という。
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次に入った部屋は旧麹室で、施釉白煉瓦を用いた麹室であったが、麹室としては不向きな事が分かったため、冷蔵庫として使用されていた。
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旧麹室を出て先に進む。通路の床面は床と天井を一体化した耐火床になっている。通路や部屋の入口には煉瓦によるアーチも見られる。廊下を進むと麹室がある。ここではスリッパに履き替えて中に入る。
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建物は地上3階、地下1階で、丸窓のある階段があり、ほかに荷物用エレベータもある。
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階段を上がって2階へ。ここには第一第二第三の醗酵室が並んでいた。3階は倉庫として使われているという。
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地下に下りる。ここは試験室・貯蔵室として使われており、日本酒の保存も行われている。工場内の見学はここまで。この工場は、平成27年まで清酒造りを学ぶ施設として使われており、現在も酒類の保存や講習の場として利用されているようである。
帰りに、通年公開の重要文化財(歴史資料)、「スタンホープ印刷機」を見に、王子駅から近い場所にある「お札と切手の博物館」に立ち寄った。18世紀末にスタンホープ伯によって発明された平圧式手引印刷機で、嘉永3年に長崎のオランダ商館長から将軍に献上されたと伝えられ、洋書の印刷などに用いられたという。
(2)茂呂遺跡(板橋区小茂根5-17)
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板橋区と練馬区との境界は、大山高の敷地内を抜け城北中央公園を横切っているが、もとは上板橋村と下練馬村の境界になっていた旧道の跡である。昭和になって、石神井川の独立丘のオセド山を切り通しとして、栗原橋を通る栗橋新道ができると、旧道は不要になって消滅したが、その跡が区境として残ったという事になる。昭和26年、栗橋新道の切通しから中学生によって黒曜石の石器が発見され、国内2例目の旧石器時代の遺跡と認められたことから、オセド山の東側は茂呂遺跡として都指定史跡となる。なお、オセド山の西側半分も遺跡地の可能性はあったが、大山高の造成工事の際に消滅している。
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茂呂遺跡は、遺跡地を保存するため通常は非公開になっているが、文化財ウイークの期間中には公開されている。ただし、発掘後は元の状態に戻されているので、遺跡を思わせるものはなく、解説を聞きながら、数万年前の旧石器時代の暮らしぶりを想像するしかない。
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茂呂遺跡で発掘調査が行われたのは3カ所ある。最初に石器が発見された道路側と、東側の平坦な土地の辺り、そして、個人の敷地内である。ほかの場所も発掘すれば何かが見つかる可能性はあるが、敢えてそうしないらしい。ところで、昭和26年頃の写真を見ると、遺跡地の辺りは畑か荒地で樹林もあまり見られない。
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以前、茂呂遺跡で地層のはぎとり標本が展示されることがあった。茂呂遺跡の石器はその特異な形状から茂呂型ナイフ形石器とされ、出土した地層は立川ローム層(第Ⅳ層またはⅥ層)とされる。なお、茂呂遺跡から近い、城北中央公園内の練馬区側にある栗原遺跡でも、旧石器時代の黒曜石の石器が出土しているので、この辺り一帯には旧石器時代から人が住んでいたようである。
(3)旧吉岡家住宅(東大和市清水3-779)
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国登録有形文化財の旧吉岡家住宅は画家・吉岡堅二の旧宅で、今は東大和市の所有になっている。東大和郷土美術園(仮称)としての公開も検討されているようだが、現在は東京文化財ウイーク期間中を含む年2回、特別公開されている。武蔵大和駅から歩いて5分ほどで、旧吉岡家住宅の長屋門の前に出る。この長屋門は東村山市にあった他家の長屋門の解体部材により、昭和37~38年に現在地に再建したもので、路面電車の敷石が敷かれている。
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旧吉岡家住宅は、一代名主の池谷藤右衛門が明治前期に建てた農家を、画家の吉岡堅二が土地ごと買い取って昭和19年に転居した家で、昭和37年頃に、主屋の屋根を茅葺から瓦葺に変えるとともに増改築を行っている。
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土間はアトリエとして使用され、改築の際に天窓を設けている。また、昭和40年代後半に、アトリエに隣接して寝室を増築している。
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長屋門が設けられる以前に使われていた表門は、主屋の西側に移築されて中門となり、主屋の西側に和風住宅に相応しい小さな庭が造られた。
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敷地の西側には明治17年に建てられた蔵があり、藤に山の紋はこの蔵が池谷藤右衛門の蔵である事を示している。この蔵は、最初は土蔵であったというが、関東大震災後にモルタル洗い出し石蔵風に仕上げ防火戸を設けている。
公開期間中、堅二と親交のあった画家たちの作品が主屋内に展示されていた。また、庭では演奏会も行われていた。