夢七雑録

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白馬・唐松縦走の思い出(1)

2011-07-31 09:18:32 | 古いアルバムめくり
 今は昔、白馬岳から唐松岳へ縦走したことがある。私の記憶もあまり当てにはならなくなっているが、多分、1962年のことではなかったかと思う。その時は、オリンパス・ペンにカラー・スライド・フィルムを入れて出かけたのだが、そのカラー・スライドが今も残っている。その画面を眺めていると、昔の事が少しずつ蘇ってくる。

 信濃四ツ谷駅(現在は白馬駅)から猿倉まではバス。身支度を整えてから、ゆっくりと歩き始める。快晴。白馬の山々が姿を見せている。夜行列車では、あまり寝むれなかったが、それでも、今の気分は上々である。1時間ほどで白馬尻に到着。白馬大雪渓は、もう少しのところにある。




 大雪渓の入口には、アイゼン貸し屋が待ち構えていた。折角なので、キャラバン・シューズにアイゼンを付けて登ろうかと思ったが、連れは付けないという。それならばと、こちらも付けずに登る。雪渓は思いのほか汚れているが、吹き下ってくる冷気は清々しく、気分がいい。この年、雪は例年より少なく、雪渓の一部は溶け始めているという。まさか、クレバスに落ちることは無いだろうが、落石には注意しながら、雪渓の中央を一歩一歩のぼる。両側の絶壁を覆う緑と、頭上の空の青が、想像していたより鮮やかに見える。



 大雪渓を過ぎ葱平に入る。やはり、歩くなら大地の上がいい。ここからは、お花畑が始まるが、花の名はさっぱり分からない。分らぬ花の横を、ただ黙々と上る。そういえば、バスを下りた時、ズック靴姿の登山客が居たが、彼も雪渓を上がったのだろうか。



 稜線が近づいてくると、まもなく小雪渓となる。横断には少し気を使うが、ここを過ぎてしまえば、今夜の宿、白馬山荘が間近に見えてくる。





 荷物を山荘に置いて頂上に向かう。山頂を目指しているのは我々だけではない。中には、せっかく解いた靴の紐を結ぶのが面倒なのか、紐を両手に持ちあげて歩いている者も居る。左手に西日を隠すかのように座り込んでいる山がある。その時は、雪倉岳と思い込んでいたのだが、本当は旭岳というらしい。すでに日は傾き、雲も出てきて、山荘の辺りは既に夕景になっている。白馬岳の頂上は東側が崖となって下界に落ちている。上から四ツ谷方面(白馬村)を見下ろし、それから、白馬大雪渓を俯瞰する。来た方を振り返り、杓子岳と白馬鑓ケ岳を眺める。その後ろに、霞んで見えるのは八方尾根だろう。

 白馬岳頂上に着く頃、黒い雲が近づいてくるのが見えた。「大丈夫ですかね」と、近くに居た人に聞くと、「そのうちワッサワッサと降ってきたりして」と言い、平然としている。白馬山荘はすぐ近く。雷は困るが、雨に濡れるぐらいは、大したことではない。この日の夕食は定番のカレー。これで十分である。夕食後、明日に備えて少しばかりの準備をする。白馬山荘には個室もあるという。ズック靴で登ってきた登山客も、今夜は個室泊まりにしたらしい。こちらは、一人分のスペースを断固確保する事に専念する。やがて消灯時間。何も考えずに、ただ眠る。


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オリンパス・ペンの思い出(3)

2011-07-28 20:08:36 | 古いアルバムめくり
 最初のmyカメラ、オリンパス・ペンを使い始めた頃はモノクロ写真の全盛時であったが、やがてカラーの時代がやってきた。下の写真は、ある現像所がさくらフィルムのカラー現像を開始した時に記念にもらったスライドである。

 当時、カラープリントはまだ高かったので、普段、利用する気にはなれなかった。その代わりに、カラー・スライドを上映して楽しむことはしていた。それでも、カラーフィルムはまだ高価で気軽には使えなかった。そんなある日、かなり安いカラーフィルムを見つけた。店の人に聞くと、期限切れになってから時間が経つので感度はだいぶ低下している。撮ってみないと分からないと言う事だった。試しにこのフィルムを購入し、オリンパス・ペンで撮影してみた。その一枚が下の写真である。撮影したのは夜中ではなく、真昼間。露出をどうしたか、覚えていない。

 オリンパス・ペンは全手動のカメラだったが、モノクロ写真の場合には、それでも何とかなっていた。しかし、露出の許容範囲が狭いカラーフィルムを使用するようになると、カンで露出を決めるわけにはいかなくなってくる。カラーフィルムは高価だったので、1カットも無駄にしたくはないという気持ちもあった。そこで、セレン光電池式の簡易な露出計を購入して露出を決めるようになった。時には、オリンパス・ペンの他に8ミリシネカメラを持参することもあったが、そんな時には、シネカメラの露出計を参考にして露出を決めたりしていた。

 戸棚の中を整理していたら、オリンパス・ペンで撮ったカラースライドが何箱も出てきた。これらのスライドの全てを埋もれさせておくのも忍びないので、公開しても良さそうなものを選んで、投稿することにした。最初に取り上げるのは、半世紀ほど前に、白馬岳から唐松岳に縦走した時のカラースライドである。

(追記)オリンパス・ペンというと、現在では、デジタル一眼のことを指すこともあるので、オリンパス・ペンの思い出(1)、(2)では初代の名を冠してタイトルとした。しかし、別会社が製造したオリンパス・ペンを初代とすれば、最初のmyカメラは二代目のオリンパス・ペンと呼ぶのが正しい事になる。煩わしいので、以降は単にオリンパス・ペンと呼ぶことにした。
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お知らせ

2011-07-24 10:55:21 | Weblog
お知らせ

 我が家の花暦 今回はホオズキです。今年は中止となる行事が多いので、浅草寺の四万六千日&ほおずき市がどうなるのか、気にしていたのですが、どうやら開催するという事なので、9日に行ってきました。人出は気のせいか、例年より少ないようでしたが、その分、楽に四万六千日分のお参りができました。

 さて、次回ですが、「オリンパス・ペンの思い出」の続きを、連載することにしました。それでは、夢七。
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戦前・戦中写真館(4)

2011-07-22 19:32:47 | 古いアルバムめくり
 今回は、国内の兵営における写真と、軍事郵便として使用された絵葉書を取り上げる。写真を撮影した年は昭和18年(1943年)頃である。




 上から1番目の写真は軍事演習後の記念写真と思われる。これにくらべると、2番目の写真は、ずいぶんくつろいだ写真である。3番目の写真は、誰かが面白い事を言ったのだろう、一同、破顔一笑。笑い声が聞こえてきそうな写真である。4番目の写真は、メモ書きから、区隊長が出征したのを記念して、昭和18年10月13日に撮影したことが分かる。明日は自分たちが・・・、そんな時代になっていた。


 二点の絵は、軍事郵便として使用された絵葉書の絵である。上の絵は「泥濘を征く」と題した玉井力三画伯の絵である。玉井は絵本や雑誌の挿絵画家であった。下の絵は「落下傘を造る少女」と題した堀文子女史の絵である。堀は日本画家で、この葉書が使用された数年前に女子美を卒業している。なお、この絵葉書は、戦地に赴く前に、国内で投函されている。
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戦前・戦中写真館(3)

2011-07-16 10:18:25 | 古いアルバムめくり
 今回は軍旗祭の写真を取り上げる。軍旗祭は、天皇から連隊旗を拝受したことを記念する行事だが、この写真は、許可を得て職業写真家が撮影したのであろう。撮影年は不明だが、昭和18年頃と思われる。



 この日、軍旗は兵営の外に出され、公式行事としての栄誉礼や分列行進が行われる。





 軍旗祭では、公式行事のあと余興も行われた。軍旗祭には一般市民も招待されるので、軍隊と国民との交流の場にもなっていた。
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戦前・戦中写真館(2)

2011-07-08 19:16:13 | 古いアルバムめくり
 今回は隅田川のボートの写真を取り上げる。撮影年は明らかではないが、昭和15年(1940年)頃から昭和18年頃までの間と思われる。


 上の写真は、開成中学校友会艇庫の前での写真で、端艇部とあるのはボート部のことである。下の写真は、右側の建物にペンと剣の校章らしきものが描かれているので、開成中学校の艇庫の全景写真と考えてよいだろう。


 上の写真は早稲田大学向島艇庫の前で撮影したものと考えられる。この艇庫は白髭橋の下流、今の堤通り公園の位置にあった。下の写真も同じ艇庫で写した写真であろう。上の写真はお馴染みのポーズだが、下の写真のポーズも定番の一つだったらしい。





 上から1番目と2番目の写真は艇庫とその近くである。3番目は浅草の近く、4番目は白髭橋、5番目はその中間であろう。




 上から1番目の写真の場所は高圧線の鉄塔が見えるので尾久か、その上流域と思われる。2番目の写真は、水路が狭いので本流ではなさそうだが、その場所は分からない。3番目は直線的な水路であることから、昭和15年開設の戸田漕艇場かも知れない。4番目の写真も戸田漕艇場だろうか。岸には距離標識らしきものが見える。

 練習を終えた後の歓談のひと時といったところだが、場所は分からない。昭和15年(1940年)に勃発した太平洋戦争も、緒戦は勝利したものの、その後、戦況は日を追って悪化していく。昭和17年(1942年)、早稲田大学の端艇部は練成部漕艇班となり、平成18年(1943年)になると学徒出陣が始まる。平成19年(1944年)には競技も中止に追い込まれる。

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戦前・戦中写真館(1)

2011-07-01 23:20:06 | 古いアルバムめくり
 古いアルバムの中に眠っていた戦前・戦中の写真の中から、公開した方が良さそうな写真を選んでみた。最初に、昭和初期までの写真を公開する。

 この写真は、明治の末か大正の初めに、東京の幼稚園で撮られた記念写真である。ただ、撮影地は分かっていない。撮影したのは職業写真家と思われる。一般の集合写真では全員を整列させて写すことが多いが、この写真では、幼稚園の日頃の様子が想像できるような撮り方になっている。


 昭和4年(1929)8月19日、硬式飛行船の発明者の名を冠したドイツの大型飛行船ツェッペリン伯号が、世界一周の途中に日本の霞ヶ浦に飛来した。この時、東京上空を通過する飛行船を見ようと、人々が集まって大騒ぎにとなったという。この写真は、東京上空を通過するツェッペリン伯号と、飛行船を見上げる群衆を写している。


 昭和7年(1932年)、長野県の霧ケ峰はスキーの適地として広く知られるようになる。上の2枚の写真は、スキーの指導に当たっていた外国人の一人、ドイツ人のホフマン氏で、昭和7年の撮影である。


 上の2枚は何れも、昭和8年2月に撮影した霧ヶ峰の写真である。上の写真には、遠くに二階建てらしき建物が写っている。該当するかどうかは分からないが、当時すでに、初代の霧ケ峰ヒュッテが建てられていたということである。写真にはスキーをする人の姿も見られるが、当時はまだ、スキー客も多くはなかったらしい。

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