文政元年八月十二日(1818年9月12日)、志村に遊ぶ。ここに、中山道を戸田に下る隠岐殿坂(清水坂)があった。現存する志村の一里塚の一つ先の信号から、左斜め先に入るのが清水坂である。この坂の途中から東へ下ると清水薬師があり、山腹から湧き出る水を湛えていたが、嘉陵は最清冷可掬と書いている。この泉は、大善寺境内に湧いていた薬師の泉で、江戸名所図会にも描かれた霊泉である。将軍吉宗が文政6年にこの地を訪れた際に、清水に因んで清水薬師と唱えよと命じたとされるが、それ以前から清水薬師と呼ばれていたようである。現在は湧水も止まり、大善寺も総泉寺に吸収されてしまったが、江戸名所の復元を目的として、現中山道沿いに薬師の泉庭園(板橋区小豆沢3)が造られている。このあと、嘉陵は中山道の途中にある大山道道標の所から入って熊野権現に向っている。この道標は、清水坂の上に現存する富士大山道の道標であろうか。
嘉陵は熊野権現(熊野神社。板橋区志村2。写真)を参詣し、社の西側に堀切の跡があり、東の方に空堀の形が残ると記し、崖上からの眺望は赤塚ツルシ坂に勝ると書いている。嘉陵はまた、寛政年間に奥の院を建てた時に古刀、鏡、兜などを掘り出したことがあったので、此処は古城跡であろうという話を地元の人から聞いている。現在は、熊野神社境内に千葉自胤一族の千葉隠岐守信胤居城の二の丸跡があったとされ、志村城址の碑が建てられている。嘉陵は城主の名までは知らなかったようで、隠岐殿坂の名も、昔ここに住んでいた人の名であろうと記すにとどまっている。このあと、嘉陵は赤小豆沢の百姓勘衛門方を訪れ八本竹を見ているが、すでに老いて葉も少ないと記している。なお、この日の往路と帰路は記載が無いが、中山道を利用したと思われる。
嘉陵は熊野権現(熊野神社。板橋区志村2。写真)を参詣し、社の西側に堀切の跡があり、東の方に空堀の形が残ると記し、崖上からの眺望は赤塚ツルシ坂に勝ると書いている。嘉陵はまた、寛政年間に奥の院を建てた時に古刀、鏡、兜などを掘り出したことがあったので、此処は古城跡であろうという話を地元の人から聞いている。現在は、熊野神社境内に千葉自胤一族の千葉隠岐守信胤居城の二の丸跡があったとされ、志村城址の碑が建てられている。嘉陵は城主の名までは知らなかったようで、隠岐殿坂の名も、昔ここに住んでいた人の名であろうと記すにとどまっている。このあと、嘉陵は赤小豆沢の百姓勘衛門方を訪れ八本竹を見ているが、すでに老いて葉も少ないと記している。なお、この日の往路と帰路は記載が無いが、中山道を利用したと思われる。