夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

15.志村に遊ぶ

2009-02-27 21:36:59 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文政元年八月十二日(1818年9月12日)、志村に遊ぶ。ここに、中山道を戸田に下る隠岐殿坂(清水坂)があった。現存する志村の一里塚の一つ先の信号から、左斜め先に入るのが清水坂である。この坂の途中から東へ下ると清水薬師があり、山腹から湧き出る水を湛えていたが、嘉陵は最清冷可掬と書いている。この泉は、大善寺境内に湧いていた薬師の泉で、江戸名所図会にも描かれた霊泉である。将軍吉宗が文政6年にこの地を訪れた際に、清水に因んで清水薬師と唱えよと命じたとされるが、それ以前から清水薬師と呼ばれていたようである。現在は湧水も止まり、大善寺も総泉寺に吸収されてしまったが、江戸名所の復元を目的として、現中山道沿いに薬師の泉庭園(板橋区小豆沢3)が造られている。このあと、嘉陵は中山道の途中にある大山道道標の所から入って熊野権現に向っている。この道標は、清水坂の上に現存する富士大山道の道標であろうか。

 嘉陵は熊野権現(熊野神社。板橋区志村2。写真)を参詣し、社の西側に堀切の跡があり、東の方に空堀の形が残ると記し、崖上からの眺望は赤塚ツルシ坂に勝ると書いている。嘉陵はまた、寛政年間に奥の院を建てた時に古刀、鏡、兜などを掘り出したことがあったので、此処は古城跡であろうという話を地元の人から聞いている。現在は、熊野神社境内に千葉自胤一族の千葉隠岐守信胤居城の二の丸跡があったとされ、志村城址の碑が建てられている。嘉陵は城主の名までは知らなかったようで、隠岐殿坂の名も、昔ここに住んでいた人の名であろうと記すにとどまっている。このあと、嘉陵は赤小豆沢の百姓勘衛門方を訪れ八本竹を見ているが、すでに老いて葉も少ないと記している。なお、この日の往路と帰路は記載が無いが、中山道を利用したと思われる。

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14.2 大師河原に遊ぶ(2)

2009-02-21 11:23:23 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 しばらく行くと羽田で、大師河原渡し道の石標を過ぎ、町の東の外れから堤をたどると堀切があり仮橋が架かっていた。橋を造るための資金を集めていた僧に、銭を渡して向こうに渡り、荒磯の細道を行くと羽田の森で、弁才天の祠があった。実は、嘉陵がここに来たのは始めてではない。最初は、安永三年(1774)頃、今は亡き父に連れられて来たのである。その時は、蓮乗院様御用人の高橋太兵衛の建てた社があり、貫を多く用いた掘立式で、床下は3mほどあって梯子で上がるようになっていた。文化七、八年(1810,11)に舟で通りかかった時には、緋の垣根があり社も赤く塗られていた。ところが、この日、来てみると、石垣を高く造り、その上に拝殿と土蔵造りの本社が建てられていて、朱の玉垣も全て取り払われ、欅の白木造りになっていた。建てたのは、酒問屋の小西九兵衛だという。周辺には石の鳥居や灯籠、僧の居る房や常夜灯があり、宇賀神の祠もあった。鳥居の傍らには蛤を蒸して食べさせる店も出来ていた。江戸名所図会の「羽田弁財天社」にも描かれている店である。嘉陵は、この店で蛤を食べ、まことに美味と褒めている。沖の洲で獲れる蛤は、この店でしか食べられないということであった。当時の羽田弁財天の位置は現羽田空港内に当たるが、現在は移転させられて、堤防下(大田区羽田6)に鎮座し、名称も玉川弁天になっている。ところで、この辺りで良く知られた神社といえば穴守稲荷神社だが、この稲荷も羽田空港内から現在地(大田区羽田5)に移転させられている。もっとも、この稲荷が繁盛したのは明治以降で、江戸時代は個人の祠に過ぎなかったという。穴守稲荷の縁起によると文政二年の創建とされているので、嘉陵が訪れた時には、穴守稲荷は無かったかも知れない。

 蛤を売る店の主人は鈴木五郎左衛門と云い、舟を四隻所有していた。その舟を操る男が居たので、嘉陵は銭を渡して舟に乗り、大師河原の渡しに着けている。そこから堀切に沿って平間寺(川崎大師。川崎市大師町。写真)の門前に出る。しばらく茶店で休み、開帳を待って内陣に入り尊像を拝む。そのあと、厄除けの符をたくさん買って、午後4時少し前に出発。石観音の道標を過ぎて六郷の渡しを渡り、周知の道である東海道を歩いて午後5時頃に八山に着く。ここで舟に乗り、午後6時には永代橋の上がり場に着いている。この日、ものを食べたのは羽田の蛤の店と、大森の山本という茶漬け飯屋だけであった。その他の店は不潔で高価であったが、平間寺前の茶店はことのほか高かったという。舟賃は、大森までが六百文、八山からが百五十文であった。羽田で食べた蛤と酒代が三人で三百文、そのほか数十銭を使ったと書いている。この日は、往復に舟を利用しているので、歩いた距離は25km程度であったろう。

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14.1 大師河原に遊ぶ(1)

2009-02-19 22:48:37 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文政元年五月二十六日(1818年6月29日)、夜明けごろ、永代橋近くの深川餌場から漁師の釣り舟に乗る。少し曇っていて富士も秩父も見えず、筑波山だけが見えていた。高輪沖には多くの船が停泊していた。その数、常時200艘。永代橋から距離にして8kmほど。船と船は後先を違えて停泊していた。江戸時代、各地から江戸に入ってくる廻船は、佃島沖か高輪沖に停泊し、荷物は川舟に積み替え陸揚げしていたのである。さらに釣り舟を漕いでいくと、鮫洲に海苔を取るヒビが並べてあるのが見えた。広重の名所江戸百景「南品川鮫洲海岸」に描かれている光景である。舟が大森の磯に着いたので、舟を下り遠浅の海を歩いて岸に上がり、茶店に入って足を洗ってから出発した。時刻は午前10時。ここからは、東海道を南に向って行くことになる。

 その先の磐井神社(大田区大森北2)に鈴石という石があったが、この日は見ないで通り過ぎている。この社には烏石の祠があるが、この烏石について、嘉陵は次のような話を書き記している。もともと古川町にあった鷹石という石を、書家の松下八蔵(1698-1779)が買い求めて烏石と名付け、磐井神社に祀って祠を建てた。これが烏石の祠である。松下八蔵は、将軍吉宗がこの地を訪れた時に、この石をご覧にいれたが、案に相違してお褒めの言葉もなく、大いに失望したという。その後、八蔵は烏石と号し門人を多く抱えるようになった。嘉陵の亡父は、松下烏石(松下八蔵)に書を習い、手本も二三書いてもらっていたが、烏石が京都に立つ折に、「私の筆遣いを真似しただけでは私を越えられない。古法帖を学び古人を師とせよ」と諭され、それからは古法帖だけを学ぶようになった。しばらく後に、京都に居た松下烏石が、嘉陵の父の書を見て感嘆し、自分の識鑑に間違いが無かった事を喜んだという。なお、鈴石と烏石は、現在も磐井神社内に保管されているということである。

 江戸名所図会にも描かれているが、大森には和中散(食あたりの薬)を売る店があった。嘉陵はその店の少し先にある茶店の傍らから、東海道と離れて羽田の弁才天へと向かっている。大師参詣者が多く利用したとされる羽田道をたどったと思われる。現在の道で言えば、平和島口の交差点の先、左斜め前方に入るミハラ通りが旧東海道で、和中散の店もこの通りのうち(中原と南原)にあった。その先、内川橋を渡って左に入る「するがや通り」が旧羽田道である。ここからは、うねうねと続く道となるが、いま羽田まで歩くとなると分かりにくい道である。嘉陵は、羽田に向う途中に浦守稲荷の社があり、社頭は新築できらびやかだったと書いている。三百年前の創建という浦守稲荷(大田区大森南3)が、当時もこの付近に鎮座していたとすると、嘉陵の略図からして、この稲荷が嘉陵の見た稲荷に位置的には該当しそうだが、確かなことは分からない。

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13.手向の尾花 牛田薬師、関屋天神

2009-02-13 20:40:08 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 年月日は不明だが(文化年間?)、嘉陵は牛田薬師と関屋天神を参詣している。牛田は戸数12、3戸の村だが、相応の家づくりで、貧しそうには見えないと嘉陵は書いている。経路は明記されていないが、略図によると、木母寺の堤を北に行き、綾瀬川を渡って牛田の堤を右に行ったと思われる。現在の道で言えば、吾妻橋を渡って墨堤通りを北に向い、旧綾瀬川を渡った先を右に行くと牛田薬師である。なお、墨堤通りを西に行けば北千住に出られる。千葉山西光寺(西光院。写真。足立区千住曙町)の本堂は南面して大日如来を安置し、そのそばに薬師堂が東に面して建てられていた。寺僧に聞いたところ、書付なども無く来歴も不明だが、千葉介常胤の守本尊と伝わっており、山号を千葉ということから、恐らくは千葉家に由緒のある寺だろうと云う事であった(千葉常胤の孫が祖父の守本尊の薬師如来を本尊として建てた寺とされる)。寺は真言宗で、少しの地所を人に頼んで耕作してもらっているという。庵ほどの寺とはいえ、堂宇、門、塀に至るまで壊れた所が無いのは、不思議でもあった。この薬師堂に狩野元信の牛の画があったのを、以前見たことがあり、洪水の時に流失したという事であったので、寺僧に尋ねてみたが、全く知らないという。また、石出帯刀の建てた碑があったが、文字は読めなかったと記す。現存する日念碑のことであろうか。この寺へも、春になると偶に訪ねてくる人があるということであった。

 牛田の堤を西に千住の方に行くと大川(墨田川)の入堀があり、その西側、田の中の小高い場所に関屋天神の小祠(足立区千住関屋町)があった。古来よりの祠といい、鳥居もあって、畔の小道を伝って参詣するようになっていたと、嘉陵は書いている。ところで、江戸名所図会の「関屋天満宮」には氷川神社の中に鎮座する関屋天神が描かれており、嘉陵の記述とは違っている。一方、田の中に元天神の名も見えているが、こちらの方が嘉陵の記述には合っているようである。実は、関屋の里はたびたび出水した為、天明7年(1787)に関屋天神を氷川神社内に遷座し、跡地に小祠を建てるという事があった。多分、嘉陵は跡地の方に詣でたのであろう。なお、現在の関屋天神は文化4年(1807)の石碑とともに、千住の氷川神社(足立区千住仲町)境内に鎮座している。

 嘉陵は宿願の事があって、亀戸天満宮に詣でていたが、この日は25日でもあったので、本来なら亀戸天満宮を参詣する筈であった。ところが、やむを得ぬ事情があって、千住のこの辺に来てしまったのである。はからずも、この天神を詣でることになったのは、如何なる縁があったのだろう。亀戸にしろ、関屋にしろ、場所は違っていても同じ神である。心の行き届いた神である事に、かたじけない思いがして、嘉陵は神に手向ける和歌を詠んでいる。
 「しくれ降枯生の薄それをだに たてながらこそぬさにまつらめ」

 と、ここまでは良かったのだが、このあと嘉陵は、この天神が菅原道真なのかどうか疑念が湧いてきたらしい。もともと、天神とは天の神の事であって、菅原道真だけを指す言葉ではない。実は、物部氏の神も天神と称していたのである。武蔵の北野天神は物部の天神であったが、これに菅原道真の神が混じって、各地に分祀するという事があり、その場合も菅原道真の神と称していた。ここの天神も、専ら菅原道真の神と称してはいるが、当てにはならない、と嘉陵は思ったらしい。武蔵の北野天神とは所沢の北野天神(所沢市北野)である。この神社は、もともと物部氏の天神を祀っていたが、後に京都の北野天満宮を勧請して北野天神と称するようになる。享保7年(1722)、この北野天神が目白坂上にあった目白不動に出開帳をした事があり、多くの参詣客が訪れたが、北野天神のことを物部の神として、悪く言う者も居たらしい。嘉陵は、その事を知っていたのだろう。

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12.3 小金の牧 道くさ(3)

2009-02-09 22:20:59 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 嘉稜は、小金の牧から元の道を戻り、松戸で昼食をとったあと、一筋の道を国分寺に向っている。国府台の裏手から、国分寺山の西南の坂を上がれば、下総国分寺である。むろん、再建されたもので、仁王門と本堂があり、傍らに聖武天皇時代の礎石を三つ重ねて毘沙門天像を置いていた。国分寺は国分僧寺(金光明四天王護国之寺、金光明寺)と国分尼寺(法華滅罪之寺、法華寺)からなるが、嘉稜が訪れたのは国分僧寺の方である。嘉稜は帰りがけに本堂の裏手で古瓦を二三個拾っているが、当時はまだ古瓦を拾う事が出来たらしい。なお、現在の下総国分寺(市川市国分3。写真)は国分山国分寺と称し真言宗豊山派の寺になっている。また、下総国分寺については発掘調査が行われ、中央に講堂、右手に金堂、左手に七重塔を配置する法隆寺様式だったことが判明している。

 嘉稜は国分寺を出て、弘法寺(市川市真間4)に向う。途中の山の上に太鼓塚という塚を見る。さらに行けば、弘法寺の堂の東側に出る。嘉稜は、文化四年三月七日にも弘法寺を訪れているが、二葉の紅葉と名付けられた楓の一本が枯れて、その傍らに若木を添えて居たのが、この日、行ってみると半分くらいの高さまで伸びていたと書いている。

 嘉稜は、寺の茶店で少し休んでから、午後4時頃に出発。利根の渡し(市川市)を渡り、逆井(江戸川区小松川2)を過ぎて、午後8時には家に帰りついている。歩いた距離は、引舟の区間を除いても60km近くにはなるだろう。
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12.2 小金の牧 道くさ(2)

2009-02-05 22:29:53 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 松戸を北に行き、上本郷、新作を過ぎると、水戸藩御鷹場のある馬橋に出る。嘉陵はここで、万満寺(松戸市馬橋)を参詣しているが、先を急ぐため、開基も聞かなかった(実は、建長8年(1256)、千葉頼胤が開基)。寺の外に出て坂を上がり、八ケ崎への道を分ける。ここからは現在の水戸街道の道筋となるが、少し行ったところに蘓羽鷹大明神(蘓羽鷹神社。松戸市二ツ木)の祠があった。嘉陵は、何の神を祀っているのか分らぬままに、ここを通り過ぎている(実は、千葉氏の守護神である国常立命を祀っている)。この先、旧街道は現在の水戸街道から分かれて、二つ木から下って上がり、左へ上総内を経て小金宿(松戸市小金)に向う。戸数300戸。松戸に比べて、やや貧しそうに見えたと記す。この宿の中ほどに関東十八檀林(檀林とは仏教の学問所をさす)の一つ仙法山一乗院(東漸寺。松戸市小金)があるが、嘉陵は見るべき程のもの無しと記している。すでに正午。先を急いでいたのだろうか。

 小金宿の北側で、北に本土寺へ向かう道と分かれ、旧水戸街道を東に向う。現在、北小金駅近くのサティの西南側に本土寺と水戸道の道標が残されているが、ここが分岐点である。この先、旧水戸街道は下り坂となり、現水戸街道を横切って、根木内の上り坂となる。さらに下って上がると中新宿(柏市)で、ここを過ぎれば向小金(流山市)に出る。嘉陵が書いた略図では、途中に「今川焼あり。食うべし」と記されているが、嘉陵も食べたのだろうか。そろそろ空腹を感じる時間である。嘉陵は、向小金(流山市向小金)の一里塚近くの店で休憩し、店主から小金の牧について話を聞いている。現在、一里塚は失われているが、香取神社(流山市向小金)付近にあったとされ、境内に一里塚の碑が建っている。

 店主からは聞いた話では、水戸街道北方の上の牧に、蛇沢、高田台、大田前の牧、南方の下の牧に、日ぐらし山、五助原、平塚、白子の牧、合わせて七つの牧があり、全部で千五六百頭の馬がいて、毎年十一月には馬狩を行っているという事であった。実は享保以降になると、小金の牧は、高田台、上野、中野、下野、印西の五牧に整理されていたが、店主は知っている範囲で話したのだろう。一里塚から先、道はやや下りとなって小金の牧に出るが、水戸街道は、ここから牧を横切っていた。牧の周囲には、放し飼いの馬が逃げ出さないよう、野馬土手が作られていたが、その土手の一部が切られて木戸が設けられ、牧への入口になっていた。現在、牧の木戸はその痕跡すら無く、新木戸の地名を残すのみであるが、その場所は、南柏駅の近く、旧水戸街道の旧日光街道への分岐点付近(柏市今谷上町)とされている。嘉陵は、木戸から牧の中に入り、道の傍らで暫く牧の様子を眺めたり、また、道行く人から話を聞いたりしている。現在、小金の牧は存在しないが、南柏駅西口を出て、現水戸街道を渡った先に、野馬土手(流山市松ケ丘1)が残されている。

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12.1 小金の牧 道くさ(1)

2009-02-03 22:29:55 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文化十四年九月七日(1817年10月17日)。嘉陵(村尾正靖)は、小金の牧で野飼いの馬を見ようと、朝早く家を出る。経路は明記されていないが、半田稲荷に行った時と同じく、吾妻橋を渡り世継(四つ木)に出て曳舟を利用し、亀有から水戸街道(旧水戸街道)を行き、新宿を経て金町に出たのであろう。ここを過ぎて、利根川(江戸川)の堤に出ると、香取大明神(葛西神社。葛飾区東金町6。写真)があり、祭礼で行われる木偶回しの準備が進められていた。木偶回しとは、あやつり人形の事だが、嘉陵が聞いたところによると、この神社の木偶回しは、国守の許しを得て戦勝祝いとして行われたのが始まりといい、江戸から代官配下の者も来るということであった。嘉陵は知らなかったようだが、神社の由緒によると、家康が当地を訪れた際に、この神社の木偶回しを見て、奇特なこととして御朱印十石を与えたという。木偶回しとはいえ、由緒ある神事であった。

 香取大明神を出て、堤の上を半里ほど行くと松戸の番所(葛飾区東金町8)に出る。番所の少し先が、松戸の渡し、または、金町の渡しとも称された渡し場である。番所は日没以降、人を通さなかった。また、番所では女を通さなかったが、上流の小むかいの渡しと下流のやぎれの渡し(柴又の矢切の渡しとは別の渡し)で、内証で女を渡していたという。

 利根川(江戸川)を渡れば、水戸街道の松戸の宿(松戸市本町ほか)である。松戸は戸数500戸ほど。中に、「津の国」や「竹沢」などの造り酒屋があり、また、渡し場の南には、川で獲った魚を集めて江戸に送るための会所があったと記している。松戸からは水戸街道(旧水戸街道)をさらに進むことになる。

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