夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

39.牛久から江戸へ

2008-10-22 21:18:30 | 巡見使の旅
(166)享保2年9月14日(1717年10月18日)。
 牛久を出立。藤代、取手、我孫子を過ぎ、小金で休憩。ここで、巡見使の一人・高城孫四郎清胤が慶麟寺(慶林寺?)に立ち寄っている。実は、高城孫四郎の先祖は小金城十五万石の城主であり(その所為か城跡に強い関心を持っていた)、その時に取り立てた寺に立ち寄ったということである。すでに巡見使としての役目を果たしていることから、個人的な用向きではあっても、許されるということなのであろう。この日は、千住で泊まる。行程は十三里余であった。

【参考】「寛政重修諸家譜」によると、高城氏は、二階堂山城守胤行の子、治部少輔胤忠が二階堂を改めて高城と称し、小金城に住んだことに始まるという。胤忠のあとを胤廣が継ぎ、そのあとを胤辰が継ぐが、胤辰のあと、巡見使・高城孫四郎清胤に至る系図は次のようになる。<胤辰―胤時―胤則―重胤―貞胤―清胤>。この系図で、胤則までは小金城を居城として小田原の北条氏に仕えるが、胤則の時に小田原城が落城したため浪人となり、重胤の時に二代将軍秀忠に召抱えられて旗本となる。菩提寺は胤則までは小金の廣徳寺であったが、重胤以降は芝の妙福寺を菩提寺としている。なお、「寛政重修諸家譜」には記載されていないが、胤辰が母・桂林尼の菩提を弔うため建てた寺が桂林寺で、後に改称して慶林寺となったという。

(167)同年9月15日。
 天明の巡見使に随行した古川古松軒は、千住から江戸へ戻る日の事を、次のように書いている。「江戸より人びとの親族・知音の人びと、千寿の駅へ迎えに来たり、長旅無難に帰郷のよしを互いに悦び合いぬ」
享保の時も同じような光景が見られたことであろう。江戸迄は二里。昼前には屋敷に帰り着いた筈である。167日間、千里に及ぶ巡見使の長旅も、ここに終りを告げる。

【参考】千住に出迎えの人が来ていたということは、先触れの者などによって、一行の到着日が留守宅にも知らされていたということである。では、旅の途中経過は知らされていたのだろうか。第2回の諸国巡見使が会津を巡見した時の例によると、会津での巡見が終了した2日後には、江戸の藩邸に会津での巡見が無事終了した事が伝えられ、4日後には老中にその旨伝えられるとともに、留守宅の子息にも伝えられたという。他の藩でも同様に、巡見が無事終わったことを江戸の藩邸に伝えていたと思われ、留守宅にも逐次、旅の経過が伝えられていたのではなかろうか。

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38.棚倉から牛久へ

2008-10-19 22:07:43 | 巡見使の旅
 江戸幕府が陸奥出羽松前に派遣した巡見使の旅を連載しておりますが、巡見使としての役目も、国境を越えるところまでで、あとは江戸への帰路をたどることになります。

(162)享保2年9月10日(1717年10月14日)。
 棚倉を出立。寺山に某浄蓮院の古舘ありと記す。八槻の近津大明神(都々古別神社)を参詣したあと花輪(塙)に出る。ここに大塚越前守のあと石川近江の籠城となった佐竹番城跡ありと記す。薬師堂のある植田で休憩したあと東舘に出る。天野下総、田島相模守、畠越前の籠城であった東舘という佐竹番城跡ありと記す。この日は下関河内で泊まる。行程は六里半であった。旅宿には水戸藩主の使者が訪れている。巡見使としての仕事も、あと僅か、明日の国境見分を残すのみとなった。

(163)同年9月11日。
 大(大ぬかり)を過ぎ、陸奥と常陸の国境(明神峠)を越える。巡見の場所もここが最後。3月29日に下野と陸奥の国境を越えて以来、半年に近い巡見使としての務めも、ようやく終わりを迎え、あとは江戸に戻るだけである。住田(徳田?)を通り、小中で馬継(馬と人足の交代)をし、川原野(上深荻)で休憩。このあと玉簾に出る。観音堂があり景地と記す。町屋で馬継をし、薩都(里野宮)に出る。近くの瑞霊(瑞竜)に水戸家代々の墓所ありと記す。水戸殿御休所のある馬場を過ぎ、太田で泊まる。行程は九里である。

(164)同年9月12日。
 日記に、水戸殿の御使者も麻上下で対面とある。巡見が滞りなく済んだ事への御慶という意味合いがあったのだろう。太田を出立した一行は、下川合で藩提供の船により久志川(久慈川)を渡り、水戸殿菩提寺のある額田で馬継。田彦で休憩し、枝川で中川(那珂川)を渡って水戸城下に出る。ここで馬継をしたあと、長岡で泊まる。行程は八里半である。

(165)同年9月13日。
 千貫桜のある小幡、石船明神のある小岩戸、水戸大学領分の片倉を通り、府中[石岡]で休憩。土浦を過ぎ、中村で馬継をし、牛久に泊まる。行程は十三里余である。

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37.平から棚倉へ

2008-10-15 22:24:38 | 巡見使の旅
(158)享保2年9月6日(1717年10月10日)。
 平では飯野八幡を参詣する。平には、岩城忠治古舘ありと記す。そのあと、茂木稲荷のある御厩を経て湯本に出る。湯本に五十一坪の湯坪ありとし、また釈迦堂ありと記す。湯長谷、野田、住吉を通り小名浜にて休憩。ここから、八幡宮や岩城判官兼氏城跡のある泉を過ぎ、植田に出て泊まる。行程は七里半である。

(159)同年9月7日。
 植田から、地蔵堂のある下山田、国上明神のある下瀧を経て、上遠野に出て泊まる。行程は三里余。ここに上遠野大炊頭籠城でのち駒木野右近将監持ちの八塩城ありと記す。

(160)同年9月8日。
 諏訪明神のある根岸を通り、大平を経て石住で休憩。そのあと下松川から上松川に出る。竹貫三河の椚舘のほか、陣場館ありと記す。この日の行程は六里、竹貫に泊まる。

(161)同年9月9日。
 田口半兵衛古館のある田口、義家の八幡舘のある鎌田を経て、観音堂のある宝木で休憩。玉野から上遠野美濃守の中丸一本木館のある上台を経て棚倉に出る。入口に芦名盛氏築城の赤館及び宇賀明神ありと記す。この日の行程は六里、棚倉に泊まる。巡見使一行が4月1日に最初の巡見場所として訪れた関山満願寺は、ここから四里の距離にある。はるばる蝦夷の松前まで行き、そして今ようやく、ここまで戻ってきたのである。

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36.中村[相馬]から平へ

2008-10-11 22:32:18 | 巡見使の旅
 江戸幕府が奥州方面に派遣した巡見使の旅を、連載形式で投稿しておりますが、その旅も福島県に入りました。一行は中村[相馬]から平、棚倉を経て国境まで巡見を続けます。

(154)享保2年9月2日(1717年10月6日)。
 巡見使一行は、中村からは浜街道を離れ、草野経由の迂回路をとる。実は境界争いに関連して、第一回の巡見使が草野に近い相馬郡玉野と伊達郡石田の境界を見分したことがあり、享保の巡見使もこれを踏襲したものと思われる。一行は粟津から宇田川(宇多川)沿いの道を進み、滝明神のある山神(山上)を通り、霊仙山(霊山)近くの笹町(東玉野)で休憩。草野に出て泊まる。行程は七里半。ここに草野兵庫古館ありと記す。

【参考】享保2年の第5回巡見の時は、平穏無事に草野経由で小高に向ったようだが、延享3年の第6回巡見の時は、訴状が提出されるということがあったという。この時は、一村の訴願は吟味し難いとして取り上げられなかったが、宝暦11年の第7回巡見使が草野に宿泊した際には、伊達郡十三ケ村連名で助郷免除の訴状が提出され、巡見使もこれを受け取っている(誉田宏「奥羽松前巡見使と一揆訴願について」福島県歴史資料館研究紀要14)。江戸幕府の伝馬制度では宿場に所定数の人と馬を置くことを義務付けるとともに、これで不足する場合は近隣の村から人と馬を徴発する、助郷という仕組みをもっていた。ただ、近隣の村にとっては助郷の負担が重かったため、助郷免除の訴えが各地に発生することになった。幕府は、安易に助郷を免除すると、伝馬制度の根幹を揺るがしかねないと考えたためか、この訴えを取り上げることはなかったようである。ところで、天明8年の第8回巡見の時は、草野を経由せずに直接、小高に向っているが、草野でのトラブルを避けようとしたのであろうか。

(155)同年9月3日。
 草野から赤坂、沖見峠、はら坂を越えて大原で休憩し、原町近くの新田に出る。途中の牛越に牛舘ありと記し、また、二本松に通じる関の沢脇道についてもふれている。新田には、東西二里南北二十二丁の原があるが、ここでは、五月中の申の日に行われる妙見宮の祭礼において、藩主の御越しをえて、家中五百人余が武装してこの原に集まり、放された野馬を騎馬で追うという祭事が行われるという話を聞いている。これは、日程や内容は当時と異なるとはいえ、現在も続けられている相馬野馬追い祭のことである。ここから、小高に出る。相馬孫九郎重胤籠城の妙見舘や、千葉妙見堂ありと記す。この日の行程は八里、小高に泊まる。

(156)同年9月4日。
 高野(浪江)で休憩し、高瀬を経て、狼河神右衛門古館のある熊を通り、新田で藩境を越え、富岡で泊まる。行程は六里半余である。

(157)同年9月5日。
 薬師堂のある前原、八幡宮のある北迫を通り、廣野で馬継(馬と人足の交代)をし、塩釜が多く見られる草野浜(久之浜?)と田の網を過ぎ、薬師のある八立を経て、四倉で休憩。花園権現のある下神谷を通って岩城平に出る。この日の行程は十里余。平に泊まる。藩主の内藤右京大輔が旅宿に御見舞のため訪れている。
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35.仙台から中村[相馬]へ

2008-10-07 22:05:55 | 巡見使の旅
(149)享保2年8月27日(1717年10月1日)。
 仙台を出立。奥州街道を進み、仙台出口で馬継、また、廣瀬川を渡った長町でも馬継をし、郡山を過ぎて名取川を渡り中田から前田、飯野坂を経て植松に出る。途中、茂庭生出森の八幡宮、名取の老女が勧請した熊野堂と吉田の熊野三社、吉田の高舘、川上の小佐治(長者の娘との悲恋物語の主人公)の墓、塩手の中将藤原実方(陸奥守に左遷されこの地で亡くなった)の墓所、笠島の道祖神などを見聞きしている。植松では、弘誓寺を参詣し数々の宝物を拝観する。休憩地となった岩沼では竹駒稲荷明神を参詣して宝物を拝観。二木松と花輪の松、藤平王(東平王)の塚についても記す。南長谷では阿武隈川の稲葉の渡し、入万野(入間野)では笹谷峠越えの道、船迫では柴田外記居城しのぶ館、沼辺では、にら神山と照井太郎(藤原秀衡の家臣)の古跡、千塚を記す。行程は九里余、大河原に泊まる。

(150)同年8月28日。
 大河原から奥州街道を進み、右手に大刈田山、蔵王山、不忘山を望みつつ、宮、白石、中目、斎川、五賀を経て越河に出て休憩。半里先の貝田は、一行が4月24日に通過した場所である。長旅の果てここまで戻ってきた事を、一同実感したことであろう。郡境を見分したのち白石に戻って宿泊。十里の行程であった。途中、平の西木戸国衡(奥州藤原氏第四代泰衡の兄)の塚と馬取沼跡、津田の山崎源蔵天神舘と遠藤甚七かふき舘、宮の白鳥明神宮とやんべ館及び宮内因幡の古舘、内親の宮内因幡古舘、郡山の古舘、長袋の陣場跡、中目の中目日向古舘と大平館と赤館、同じく田村将軍堂と越王堂および桑折播磨の馬牛館と馬牛沼、五賀の見明館と小屋舘、越河の別当館などを見聞きしている。

(151)同年8月29日。
 白石から奥州街道を離れ、大町から山越えし笠島を経て角田で休憩。阿武隈川を舟で渡り金津で泊まる。七里弱の行程である。途中で見聞きした、大町の大町備前大館、笠嶋の金沢古舘、横倉の愛宕堂、小田の斗蔵山千手観音などについて記す。

(152)同年8月30日。
 金津を出立。藤田から、天明の巡見と同じであれば、明通峠を越えて大平に出る。ここからは、浜街道を進み、麻生(浅生原)を経て坂元で休憩。福田の地蔵森、真弓の東光山、杉目の鹿狼山を見ながら進み、駒が嶺で泊まる。六里の行程である。途中見聞きしたものとして、金津の高玉明神、尾山の亘理元安重宗医王館、麻生の亘理右近古館、高瀬のかひふき舘、谷地小屋の伊達安房要害屋敷及び杉目八左衛門・みの首館、などを記す。

(153)同年9月1日。
 仙台藩番所を通り、塚野辺(塚部)で相馬へ入り、初野の羽黒権現を右手に、古舘のある黒木を通り、千手観音のある小泉を経て中村[相馬]に出て泊まる。行程は短く二里である。相馬藩主の讃岐守が御見舞のため旅宿を訪れている。

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34.石巻から仙台へ

2008-10-03 21:28:29 | 巡見使の旅
(140)享保2年8月18日(1717年9月22日)、雨天。
 この日は門脇に行き日和山に上る。葛西三郎清重の古舘跡といい、山上に愛宕山社、麓には鹿島明神があった。ここから、北上川を船で渡り、湊に出る。このさきは、金花山[金華山]への道となり、渡波、祝田を経て風越峠を越え蛤浜を通って桃の浦で休憩する。そのあと、萩浜、小積浦、小網倉浜を経て、大原に出て泊まる。七里半の行程であった。

(141)同年8月19日、雨天。
 小淵浦を経て石峠に上る。ここから金花山へは、山鳥まで二里行き船で渡ることになるが、無風の時しか渡れないと聞き、金花山行きを断念。峠の上から金花山を望み、案内者から金花山についての説明を聞くにとどめ、石峠から引き返す。この日は大原を経て、石巻に戻って宿泊。行程は九里半である。休憩地は記載が無いが、往路と同じであれば、桃の浦である。ところで、宝暦と天明の巡見使は、石巻から先へは行かなかったが、天明の巡見に随行した古川古松軒は、金花山に至らざること、生涯の残念にてと書き記している。

(142)同年8月20日。
 この日は、涌谷に向う予定であったが、玉造川[江合川]となひれ沼(名鰭沼)が洪水のため、一里半にわたって通行ができなくなり、石巻に逗留することとなった。

(143)同年8月21日。
 この日も通行が出来なかったため、石巻に逗留する。

(144)同年8月22日。
 この日も石巻に逗留となる。

(145)同年8月23日、曇。
 ようやく石巻を出立。蛇田、赤井、須江を経て広淵に出て休憩する。そのあと、大堤という、縦千二百七十間、横千二間の溜池(広淵沼)を見る。そのさき、北では田村将軍の馬立城ありと記し、また、慈覚大師開基の箱泉寺を参詣している。ここから、前谷地、馬場谷地を通る。ここに六郎舘ありと記す。この日の宿泊は涌谷。行程は六里半である。

(146)同年8月24日。
 伊達淡路守の籠城のある涌谷を出て、南小牛田、北浦、鶴𡉻を通り、奥州街道の宿場、古川で休憩。稲葉に歌枕の緒絶橋を見る。また、古川刑部の古舘、青塚左衛門の古舘ありと記す。その先、奥州街道から分かれ、飯川、平柳、上狼塚を経て中新田で泊まる。七里の行程であった。

(147)同年8月25日。
 中新田を出立。四竃、大、大瓜を経て、大衡冶部大輔古館のある大衡を通り、七つ森を見つつ、奥山勘解由陣屋のある吉岡に出る。吉岡で奥州街道を横切り、御所舘のある蒜袋を通り、舞野、北目大崎、大平、鶉崎、中を経て、常山城守のあしけ舘のある羽生、味明、初原、高城本郷を通って松島に出る。高城本郷には高城外記のかみ舘があるが、巡見使の一人、高城孫四郎の先祖に当たるという。この日の行程は六里半、松島に泊まる。なお、日記役の記録には、大谷原村迄六里十九丁休み、とあるが誤記ではなかろうか。

(148)同年8月26日。
 松島では瑞巌寺を参詣。五大尊堂を拝観したあと、島々を眺めつつ塩釜に出る。明記はされていないが、船で湾内を周遊したと思われる。塩釜では一宮(塩釜明神)を参詣し、御釜や牛石を見物したあと、八幡、山王、南宮、岩切、燕沢、小田原、南目、躑躅ケ岡を経て仙台に出る。途中の名所旧跡として、末の松山、沖の井、坪の石文、野田玉川、玉田横野、宮城野についてふれ、また、岩切の志波彦明神や躑躅ケ岡の天神宮・釈迦堂などの寺社、岩切の信田小太郎古館についても記している。塩釜まで海上三里、塩釜から仙台国分町まで四里半。この日は仙台に泊まる。
 
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