(166)享保2年9月14日(1717年10月18日)。
牛久を出立。藤代、取手、我孫子を過ぎ、小金で休憩。ここで、巡見使の一人・高城孫四郎清胤が慶麟寺(慶林寺?)に立ち寄っている。実は、高城孫四郎の先祖は小金城十五万石の城主であり(その所為か城跡に強い関心を持っていた)、その時に取り立てた寺に立ち寄ったということである。すでに巡見使としての役目を果たしていることから、個人的な用向きではあっても、許されるということなのであろう。この日は、千住で泊まる。行程は十三里余であった。
【参考】「寛政重修諸家譜」によると、高城氏は、二階堂山城守胤行の子、治部少輔胤忠が二階堂を改めて高城と称し、小金城に住んだことに始まるという。胤忠のあとを胤廣が継ぎ、そのあとを胤辰が継ぐが、胤辰のあと、巡見使・高城孫四郎清胤に至る系図は次のようになる。<胤辰―胤時―胤則―重胤―貞胤―清胤>。この系図で、胤則までは小金城を居城として小田原の北条氏に仕えるが、胤則の時に小田原城が落城したため浪人となり、重胤の時に二代将軍秀忠に召抱えられて旗本となる。菩提寺は胤則までは小金の廣徳寺であったが、重胤以降は芝の妙福寺を菩提寺としている。なお、「寛政重修諸家譜」には記載されていないが、胤辰が母・桂林尼の菩提を弔うため建てた寺が桂林寺で、後に改称して慶林寺となったという。
(167)同年9月15日。
天明の巡見使に随行した古川古松軒は、千住から江戸へ戻る日の事を、次のように書いている。「江戸より人びとの親族・知音の人びと、千寿の駅へ迎えに来たり、長旅無難に帰郷のよしを互いに悦び合いぬ」
享保の時も同じような光景が見られたことであろう。江戸迄は二里。昼前には屋敷に帰り着いた筈である。167日間、千里に及ぶ巡見使の長旅も、ここに終りを告げる。
【参考】千住に出迎えの人が来ていたということは、先触れの者などによって、一行の到着日が留守宅にも知らされていたということである。では、旅の途中経過は知らされていたのだろうか。第2回の諸国巡見使が会津を巡見した時の例によると、会津での巡見が終了した2日後には、江戸の藩邸に会津での巡見が無事終了した事が伝えられ、4日後には老中にその旨伝えられるとともに、留守宅の子息にも伝えられたという。他の藩でも同様に、巡見が無事終わったことを江戸の藩邸に伝えていたと思われ、留守宅にも逐次、旅の経過が伝えられていたのではなかろうか。
牛久を出立。藤代、取手、我孫子を過ぎ、小金で休憩。ここで、巡見使の一人・高城孫四郎清胤が慶麟寺(慶林寺?)に立ち寄っている。実は、高城孫四郎の先祖は小金城十五万石の城主であり(その所為か城跡に強い関心を持っていた)、その時に取り立てた寺に立ち寄ったということである。すでに巡見使としての役目を果たしていることから、個人的な用向きではあっても、許されるということなのであろう。この日は、千住で泊まる。行程は十三里余であった。
【参考】「寛政重修諸家譜」によると、高城氏は、二階堂山城守胤行の子、治部少輔胤忠が二階堂を改めて高城と称し、小金城に住んだことに始まるという。胤忠のあとを胤廣が継ぎ、そのあとを胤辰が継ぐが、胤辰のあと、巡見使・高城孫四郎清胤に至る系図は次のようになる。<胤辰―胤時―胤則―重胤―貞胤―清胤>。この系図で、胤則までは小金城を居城として小田原の北条氏に仕えるが、胤則の時に小田原城が落城したため浪人となり、重胤の時に二代将軍秀忠に召抱えられて旗本となる。菩提寺は胤則までは小金の廣徳寺であったが、重胤以降は芝の妙福寺を菩提寺としている。なお、「寛政重修諸家譜」には記載されていないが、胤辰が母・桂林尼の菩提を弔うため建てた寺が桂林寺で、後に改称して慶林寺となったという。
(167)同年9月15日。
天明の巡見使に随行した古川古松軒は、千住から江戸へ戻る日の事を、次のように書いている。「江戸より人びとの親族・知音の人びと、千寿の駅へ迎えに来たり、長旅無難に帰郷のよしを互いに悦び合いぬ」
享保の時も同じような光景が見られたことであろう。江戸迄は二里。昼前には屋敷に帰り着いた筈である。167日間、千里に及ぶ巡見使の長旅も、ここに終りを告げる。
【参考】千住に出迎えの人が来ていたということは、先触れの者などによって、一行の到着日が留守宅にも知らされていたということである。では、旅の途中経過は知らされていたのだろうか。第2回の諸国巡見使が会津を巡見した時の例によると、会津での巡見が終了した2日後には、江戸の藩邸に会津での巡見が無事終了した事が伝えられ、4日後には老中にその旨伝えられるとともに、留守宅の子息にも伝えられたという。他の藩でも同様に、巡見が無事終わったことを江戸の藩邸に伝えていたと思われ、留守宅にも逐次、旅の経過が伝えられていたのではなかろうか。