上の絵葉書は、1900年のパリ万国博の際に建てられたグラン・パレとプティ・パレを北側から描いた絵で、TUCKのポストカードです。右側のガラス天井のグラン・パレ(現在は美術館、博物館など)と、左側のプティ・パレ(現在は美術館)の間に、よく見ると、自動車に混じって馬車の姿も見えています。
次の絵葉書は、アレクサンドル3世橋の写真です。大広場の向こうにアンヴァリッドの建物(廃兵院)と、その後にあるアンヴァリッド教会のドームが見えています。この写真では見難いのですが、橋の上に荷物を運んでいる馬車が見えています。
次の絵葉書は、コンコルド広場の絵ですが、今と違うのは、行きかう人々と自動車の型式、それに騎馬の人ぐらいでしょうか。
次の絵葉書は、ロワイヤル通りと、その奥にあるマドレーヌ寺院の写真です。通りの建物や寺院の姿も、交通渋滞している通りの風景も、今と同じようですが、よく見ると、通りは自動車と馬車で渋滞しているようです。当時、すでに時代遅れになっていた馬車を、ステイタス・シンボルとして使用する人も居たのでしょう。
絵葉書により、大正時代の海外出張の旅をたどってきましたが、今回からパリに入ります。そこで、今も昔のままに残るパリの、そして、今は変わってしまったパリの風景を、1924年に現地で買い求めた絵葉書で見ていきましょう。
最初のカードは、トロカデロ庭園から見たエッフェル塔の写真です。この庭園は、象やサイ、雄牛、馬の像がアクセントになっていました。このカードはYVON社が制作したものですが、ポストカードの表示は無く、切手を貼る枠も記されていません。同社は、単なる観光絵はがきではなく、観賞用の写真のカードとして出版したのかもしれません。もっとも、宛名を書いて切手を貼れば、葉書として通用したのでしょうが。
次の絵葉書は、1876年に建てられたトロカデロ宮殿の絵です。この宮殿には6000人収容のホールがあり、地上80mの塔にはエレベータで上がることができました。しかし、1937年に取り壊されて、現在のシャイヨ宮が建てられました。なお、この絵葉書の出版は、飛び出す絵本を出版したことでも知られるラファエロ・タック&サン社(TUCK)ですが、この会社はポストカードの普及にも熱心な会社でした。
上の絵葉書は、1836年に建てられたエトワール広場の凱旋門の上からの展望写真です。右側のクレベール通りの先に二本の塔が見えていますが、トロカデロ宮殿の塔です。また、エッフェル塔の左側に、微かに丸い輪のようなものが見えますが、1900年のパリ万博の際にシュフラン通りに建てられた、ラ・グラン・ルー(大観覧車)のようです。何れも後に取り壊されて、現在はありません。
イギリスでの日程を終えたあと、ベルリンに向かったと考えられますが、ドイツの絵葉書が無いのでパスして、ベルギーのブリュッセルを取り上げることにします。
上の絵葉書は、ブリュッセルの大広場(グラン・プラス)の写真です。左側は市庁舎、右側が王の家と呼ばれている建物(現・市立博物館)、中央の奥がギルド・ハウスです。この写真では少々分かりにくいのですが、大広場で花市が開かれているようです。
次の絵葉書は、ギルド・ハウスの写真ですが、花市の様子が写されています。ギルド・ハウスとは、昔、同業者組合が入っていた建物のことで、絵葉書の説明書きによると、一番左が小間物商、その右が船頭、その右にある雌狼という名の建物が射手(治安維持・警備を担当していた人達という)、四番目が家具屋と樽屋、五番目が油脂業者、そして一番右がパン屋の、それぞれの組合が入っていた建物ということになります。
次の絵葉書は、1873年に建てられた証券取引所(現在はユーロネクスト・ブリュッセル)の写真です。路面電車の通っている道路は、アンスパッハ大通りで、証券取引所の右側には市庁舎の塔が見えています。
次の絵葉書は、1924年以前のアンスパッハ大通りの写真です。この写真には写っていませんが、証券取引所は写真の右側です。
上の絵葉書は、ブリュッセルの大広場(グラン・プラス)の写真です。左側は市庁舎、右側が王の家と呼ばれている建物(現・市立博物館)、中央の奥がギルド・ハウスです。この写真では少々分かりにくいのですが、大広場で花市が開かれているようです。
次の絵葉書は、ギルド・ハウスの写真ですが、花市の様子が写されています。ギルド・ハウスとは、昔、同業者組合が入っていた建物のことで、絵葉書の説明書きによると、一番左が小間物商、その右が船頭、その右にある雌狼という名の建物が射手(治安維持・警備を担当していた人達という)、四番目が家具屋と樽屋、五番目が油脂業者、そして一番右がパン屋の、それぞれの組合が入っていた建物ということになります。
次の絵葉書は、1873年に建てられた証券取引所(現在はユーロネクスト・ブリュッセル)の写真です。路面電車の通っている道路は、アンスパッハ大通りで、証券取引所の右側には市庁舎の塔が見えています。
次の絵葉書は、1924年以前のアンスパッハ大通りの写真です。この写真には写っていませんが、証券取引所は写真の右側です。
上の絵葉書は、ワイト島のオールド・ヴィレッジ、シャンクリンを描いたクイントンの水彩画です。ワイト島は避暑地として古くから利用されていた場所で、この絵でも、道の奥の、古い村に相応しい造りのホテルの前に、避暑客らしい婦人の姿が見えています。
次の絵葉書は、デボンの道という題で、リントン付近を描いたクイントンの水彩画です。19世紀の末には、河口のリンマスから山上のリントンまでケーブルカーが開通していましたが、クイントンも利用したのでしょうか。
次の絵葉書は、英国王室の属国で、オートバイのレースでも知られているマン島の、サルビー・グレンの風景を描いたクイントンの水彩画です。
絵葉書の束の中には、キツネ狩りと思われる絵が入っていました。海外出張の途中で、このような場面に遭遇したとは思いませんが、イギリスの風習の一つとして興味をひかれて入手したのでしょう。このカードは、ポストカードではなく印刷物となっていますが、切手を貼って宛名を書けば絵葉書として使えそうです。
持ち帰った絵葉書の中には、イギリスの村を描いたものが幾つか含まれていますが、大正13年の海外出張の折に、これらの村をわざわざ訪ねたとは考えにくいので、恐らく、風景画の絵葉書として買い求めたのでしょう。
上の絵葉書は、ケントのチディングストーンを描いたバートンの水彩画です。現在、この場所はナショナルトラストの管理下にあるということです。
次の絵葉書は、今も昔の景観を残している小さな村、ケントのビデンデンを描いたクイントンの水彩画です。道の奥にオール・セインツ教会が見えています。
次の絵葉書は、サリーのドーキングを描いたクイントンの水彩画です。橋の名はボックスヒル橋です。
次の絵葉書は、サセックスのブランバーを描いたクイントンの水彩画です。絵を良く見ると、家の背後に古城のようなものが見えますが、ブランバー城でしょうか。この城はハワード家の本拠でしたが17世紀に放棄されて廃墟になっていたといいます。今は、この絵が描かれた当時より廃墟化が進んでいるかも知れません。
上の絵葉書は、ケントのチディングストーンを描いたバートンの水彩画です。現在、この場所はナショナルトラストの管理下にあるということです。
次の絵葉書は、今も昔の景観を残している小さな村、ケントのビデンデンを描いたクイントンの水彩画です。道の奥にオール・セインツ教会が見えています。
次の絵葉書は、サリーのドーキングを描いたクイントンの水彩画です。橋の名はボックスヒル橋です。
次の絵葉書は、サセックスのブランバーを描いたクイントンの水彩画です。絵を良く見ると、家の背後に古城のようなものが見えますが、ブランバー城でしょうか。この城はハワード家の本拠でしたが17世紀に放棄されて廃墟になっていたといいます。今は、この絵が描かれた当時より廃墟化が進んでいるかも知れません。
上の絵葉書は、ブーサム・バーの写真です。バーとは城門を意味していますが、ブーサム・バーは、現存する最古の城門といわれています。
次の絵葉書は、イギリス最大級の規模をほこるゴシック様式の大聖堂、ヨーク・ミンスターの写真です。
次の絵葉書は、ウオームゲート・バーの写真です。ゲートとは通りを意味します。城門から突き出している楼門は防御のために設けられたもので、ヨークの城門で残っているのは、ここだけということです。
ヨークでは、多分、ステーション・ホテルに宿泊したのでしょう。上の絵葉書は、このホテルから展望した写真で、ヨーク・ミンスターが遠くに見えています。ヨークで入手した絵葉書は、写真をエンボス仕上げの紙にカラー網版印刷したものです。
次の絵葉書は、ヨークを囲む城壁、シティ・ウオールと、そこから眺めたヨーク・ミンスターの写真です。
次の絵葉書は、廃墟となったセント・メアリ・アビー(現・ヨークシャー博物館内)の写真です。
大正時代の渡航案内に、ロンドンに行ったら、オックスフォードとケンブリッジにも立ち寄れと書いてありますが、オックスフォードの絵葉書が3枚あるので、オックスフォードの方に立ち寄ったのでしょう。最初の絵葉書は、オックスフォードのハイストリートを描いたクイントンの水彩画ですが、絵の中央には、セント・メアリ教会の塔が見えています。中心街といえども、車が少なかった頃の風景です。
次の絵葉書は、今も昔の姿のままのモードリン橋、上に聳えるモードリン・カレッジの鐘楼、そして温室を描いたクイントンの水彩画です。
次の絵葉書は、フォーリー橋の辺りに集まっている、各カレッジの艇庫を描いたクイントンの水彩画です。
上の絵葉書はロンドン橋です。この場所に石橋が架けられたのは1209年のことですが、やがて、橋の上に商店が並ぶようになりました。この橋は1831年まで残っていましたが、五本の橋脚を持つ橋に架けかえられました。上の写真はこの時に架けられた橋を写したものですが、この橋も1967年に架け替えられてしまいました。橋の向こうに塔が見えますが、左側はロンドン大火を記念する塔、右側はセント・マグナス・ザ・マーター教会の塔です。
次の絵葉書は、ホワイト・タワーを中心とした城塞、ロンドン塔を描いたクイントンの水彩画ですが、1896年頃にバーツが撮った写真をもとに、追加修正を行った絵のようにも見えます。19世紀から20世紀にかけて多くの画家が写真をもとに絵をかきましたが、クイントンも写真をもとに描いたのでしょうか。
次の絵葉書は、ロンドン橋と間違える人がいるぐらいロンドンを代表する橋であるタワー・ブリッジを描いた、クイントンの水彩画です。この橋は1894年に開通しましたが、当時は、技術の粋を集めた橋とされていました。また、中世ゴシック風の塔をもち、近くのロンドン塔とも調和する外観になっています。
上の絵葉書は、王立取引所とイングランド銀行をクイントンが描いた水彩画で、正面のコリント風玄関柱廊のある建物が、商品や証券の取引を目的として1845年に開館した王立取引所(旧)、左手の窓の無い建物がイングランド銀行です。この絵は、1896年頃にバーツが撮影した写真にそっくりですが、馬車のほかにガソリン・エンジンのバスや自動車が加えられています。バーツの写真には、LONDON GENERAL OMINIBUS・・という乗合馬車の会社(略称LGOC)の名が写っていますが、この会社が後にガソリン・エンジンのバスの運行を開始し、やがてロンドンのバスを席巻することになりました。クイントンの絵には、GENERALと書かれ、赤く塗られた二階建てバスがしばしば登場しますが、これがLGOCのバスのようです。
次の絵葉書は、王立取引所の写真ですが、自動車で大混雑する様子が写されています。よく見ると馬車も紛れ込んでいるようですが。
次の絵葉書は、マンション・ハウスとチープサイドを描いたクイントンの水彩画です。左手にあるのが、1752年に建てられたロンドン特別市長公邸、マンション・ハウスで、その前に続く通りがチープサイドです。チープとは商店の意味で、チープサイドはシティの繁華街でした。この通りの奥に見える塔は、セント・メアリ・ル・ボウ教会の尖塔ですが、ロンドンっ子とは、ボウ教会の鐘の音が聞こえる区域の生まれと言われていたそうです。
次の絵葉書は、ギルド・ホールの写真です。ギルド・ホールは市庁舎に相当し、ギルドの組合員によるロンドン特別市長の選出も、ここで行われてきました。現在のギルド・ホールは、第二次大戦で被害を受けたあと、戦後に修復したものです。