夢七雑録

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谷中コースを歩く

2013-04-06 15:03:03 | 歴史と文化の道
 東京都の歴史と文化の散歩道のうち「谷中コース」は、「上野のお山散歩(湯島天神~根津神社)」と、その途中の谷中霊園から分岐する「日暮らしの里散歩(谷中霊園~西日暮里駅)」、および、「駒込寺町散歩(根津神社~駒込駅)」の3区間のサブコース(ガイド区分)から成り、総延長は7.3kmになる。

(1)上野のお山散歩

 「池袋コース」の途中、湯島天神の西側にある標識Aが、このコースの起点となる。湯島天神は、梅の季節も終わって、今は参詣する人も少なめになっているが、その分ゆっくりと、お参りすることが出来る。この神社、菅原道真を祭る天満宮としての創建は14世紀中頃と伝えられるが、この地に天之手力雄命を祭ったのはそれより古く、古代にまで遡るとする説すらある。天之手力雄命は地主神として境内の戸隠神社に祭られているが、現在は湯島天神の祭神に加えられているようである。湯島天神の横の坂は切通坂と呼ばれ、昔は急な坂だったそうだが、今はさほどでも無い。坂を下って交差点を左に渡ると標識Bがあり、さらに進んで道路を渡り上野公園に入る。ここの入口にも標識Bがある。

 不忍池に沿って右に行き、蓮見茶屋を過ぎる。その先、下町風俗資料館近くの人込みの中に標識Aを見つける。ここは、千住コースの起点にもなっているのだが、そんな事に関心があるのは少数だろう。資料館への入館はまたの機会にして先に進むと、十字路に出る。左へ行けば弁天堂だが、ここは右に行き道路を渡って石段を上がり、桜通りに出る。

 桜通りは上野の花見の中心となる通りだが、ここに、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。その内容は、ルート図、寛永寺と上野公園の説明、江戸時代の寛永寺境内の地図である。桜通りから石段を上がると清水観音に出るが、今回はパスして桜通りを左に行き、大仏パゴダのある大仏山の先を左に入る。東照宮への参道を見送って先に進むと、動物園の表門となり、その先に標識Bがある。湯島天神からここまでは、人通りが多く、見どころも多いので、ルートにこだわらずに、自由に散策した方が良さそうである。

 動物園から先に進むと東京都美術館の前に出る。ここを左に行く。行き止まりのような道だが、道は突き当たって右に曲がり、動物園と美術館の間の閑散とした道となる。その先、角に旧博物館動物園駅の建造物がある交差点を渡ると、左側に黒田記念館があるが、現在は耐震改修工事中で休館している。その隣の国際こども図書館の方も改修工事中である。先に進み、角を標識Cにより左に曲がると、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。その内容は、現代および江戸の地図上にルートをプロットしたもの、江戸名所図会による東叡山寛永寺の全体図、上野寛永寺の説明、広重による「上野東叡山ノ図」である。広重の図は、現在の桜通りに相当する道を描いているが、右側の山上に清水観音を描き、中央に山門とも呼ばれた文殊楼(現存せず)を描いている。その位置は大仏パゴダのある大仏山の下あたりになる。

 寛永寺の本堂に相当する根本中堂は、上野公園の噴水池の辺りにあった。幕府は、根本中堂の造営にあたり、天皇の筆になる勅額の拝受を願い出たが、東山天皇が受けなかったため、上皇(霊元天皇)が受けることになった。完成した勅額は京都から陸路で運んだが、途中の運搬に手間取って、落慶法要には間に合わなかった。そればかりか、勅額が江戸に到着した日に大火が発生し、寛永寺の本坊や霊廟も類焼した。根本中堂は何とか防ぎとめることが出来たが、幕府は、勅額の複製を作って根本中堂に掲げることとし、本物の勅額は土蔵に保管することにした。この火事が世に言う勅額火事である。根本中堂は、官軍と彰義隊が戦った上野戦争の際に、他の多くの建造物とともに焼失してしまったが、滋賀県石津寺から移した本尊の薬師如来と、山形県立石寺から移された日光菩薩・月光菩薩は無事に運び出されている。この三体の仏像は、現在、秘仏の扱いになっているが、国立博物館の特別展の時に公開されたことがあり、その折に拝観したことがある。

 案内板から先に進むと、右手に寛永寺の根本中堂が見えてくる。川越喜多院の本地堂を移設したもので、瑠璃殿の勅額は、土蔵に保管されていたものであれば、本物という事になる。寛永寺から言問通りを渡ると、江戸六地蔵の一と称する浄名院に出る。江戸六地蔵とは、宝永年間に地蔵坊正元の発願で鋳造され、江戸の六ケ所の出入口に配置された六体の地蔵の事を言うが、そのうちの一体、深川の永代寺の地蔵が明治になって破却されたため、浄名院が、明治時代に日清日露の戦没者供養のため建立した地蔵を、その代替えと称したのだが、これには、異論も出ているらしい。浄名院の右側、霊園の道に入り、次の角を左折、浄名院の塀に沿って先に行き、標識Cにより右に折れると、その先で道幅が広くなる。塀に沿って進むと谷中霊園中央園路に出るが、ここでは、左側の歩道に移り、少し先の標識Aを確認し、右に分岐する「日暮らしの里散歩」のルートを見送って先に進む。

 寺の多い三崎坂を左側の歩道で下り、不忍通りに出る。これを渡り、団子坂を上がる。坂の上に標識Cがあるが、位置移動の際に向きを変えたらしく表示がおかしいので、無視して、すぐ先の道を左に入る。この道を藪下通りといい、校舎を一段下に見ながら進む。途中で標識Cと標識Bを確認しながら歩いて行くと、根津裏門坂に出る。「上野のお山散歩」はここが終点で、道路を渡れば根津神社はすぐそこだが、今回は立ち寄らない。

(2)日暮らしの里散歩

 三崎坂の上にある標識Aを起点として、道路を渡り、北に向かって進むのが、「日暮らしの里散歩」のルートだが、その前に、右手にある谷中霊園中央園路に行ってみる。この道はもともと感応寺(天王寺)の参道であったが、今は桜が多いため桜通りとも呼ばれている。この道の入口に、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。その内容は、谷中寺町と霊園についての説明と、江戸時代の谷中の地図にプロットしたルート図に焼失前の天王寺五重塔の写真、観音寺の土塀の写真、広重の「道灌山虫聞之図」、江戸名所図会による感応寺(現・天王寺)の図と三崎法住寺(三崎坂の下にあった)の図を配したものである。

 本来のルートに戻って、北に進む。車一台が通れるほどの道だが、趣のある道である。この道の途中に、和風と洋風の建築を一体化した朝倉彫塑館があるが、現在は改修工事中になっている。その先、経王寺の前の通りを左に行くと、ゆうやけだんだんを経て谷中銀座に出るが、今回は本来のルートに従い、諏訪台通りを直進する。この道の途中に、江戸の六地蔵の寺である浄光寺がある。江戸の六地蔵には、宝永の頃に建てられた江戸六地蔵のほかに、元禄時代に建てられた六地蔵があり、江戸六地蔵と区別するため東都六地蔵と呼ばれている。浄光寺は、この東都六地蔵に属している。その先、諏方神社に立ち寄ったあと、標識Cに従って先に進むと、西日暮里公園に出る。公園の入口には、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。その内容は、ルート図、道灌山の説明、広重の「道灌山虫聞之図」である。広重の図は谷中霊園の中央園路入口にあった案内板と重複している。西日暮里公園に沿って下ると、西日暮里駅に出る。ここが、サブコースの終点である。

(3)駒込寺町散歩

 藪下通りを抜け、根津神社裏門坂に出たところで、右に折れる。そのまま進めば本郷通りで、ここを右折。布袋に見守られつつ浄心寺を過ぎる。今もなお、寺町の雰囲気が感じられる道を進めば、吉祥寺の山門の前に出る。吉祥寺は、学問寺であった頃の面影はすでに無く、江戸から引き継いだ建造物も山門と経蔵だけになってしまっている。それでも、往時の風格は失われていない。寺の山門の前に、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。ルート図、本郷通り周辺の概説、吉祥寺門前の図が、その内容である。

 本郷通りを歩くのも少々飽いて、吉祥寺からは裏道を歩く。突き当たりは富士神社。閑散としている境内に入り、石段の下から頭を下げ、また本郷通りに戻り、不忍通りを渡る。そのまま進めば駒込駅。本コースもそこ迄となるが、その前に六義園に入ってみる。正門には人が溢れていて、その流れの行き先に枝垂れ桜が一樹。その華麗な姿を人々に披露している。しかし、今日のお目当ては、この桜ではない。池に沿って歩き、千鳥橋を渡り、吹上茶屋の裏手へと歩を進める。ここに、お目当ての桜の木がある。吟花亭跡にひっそりと立つ、孤高の枝垂れ桜。この桜樹が全ての花を散らし終えたあとは、その姿を仰ぐ人も、いなくなるのだろう。桜の散る音を微かに感じながら、園内を巡り歩き、裏門から外に出る。まだ昼日中。散りかけの桜を探し求めて、もう少し、この町を歩いていたい。

(注)当ブログのカテゴリー「江戸名所」の江戸名所記見て歩きの(2)と(4)に、寛永寺と吉祥寺の記事がある。


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1 コメント

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はじめまして、初コメントです! (めぐみ)
2013-04-12 22:54:09
はじめまして!めぐみっていいます、他人のブログにいきなりコメントするの始めてで緊張していまっす(o^∇^o)ノ。ちょくちょく見にきてるのでまたコメントしにきますね(*゜ー゜*)ポッ
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