【2024年】ツイッターつぶやき
時々ピーマンの肉詰めを作りますが、ひき肉に長ネギや味付けをする面倒がありますが、ピーマンの苦みもあり美味いですなぁ。我が家は上にはソースです。
教買い物に行くと鍋用の鶏団子があったのでそれを買ってきて詰めてみました。ショウガ風味と柚子風味を買ってきて作りましたが、案外うまかったです。
ピーマンの中に片栗粉を塗って肉を積めたら小麦粉をまぶして焼きました。
≪過去の記事≫
【2004年】
ユニクロに言ってきました。娘のジーパンなどを買いに行ったのですが、ついでに僕のお気に入りの靴下も。脛のところから足首までゴムが入っているのでずり落ちなくてはきやすいし、案外暖かいのです。それに3足980円という値段も・・・・
ただし見た目は少し前に女子高生のあいだに流行っていたルーズソックスのようですが。ユニクロは安いし、安いわりには品質もいいのでお気に入りです。
下着からジャンパーまですべてユニクロ。。。ハハハ
ただしジーパンだけは某有名メーカーの少し高いものにしています。
ミルクチャンのような日々、
そして妊娠!?
yoshimotobanana.com 2
新潮文庫
よしもとばなな 著
.com1と同じく豪快というのかばななさんの生き方を現しています。
忙しい方です。
明るくいろいろな方と合い、話をし、飲む。卓球やフラダンスと、習い事も楽しんでいるし、家族やスタッフとの関係も大切にしています。
このような私生活を楽しんでいるようですが、一方では、寂しさや孤独から逃れるために動き回っているようにも感じます。バナナさんの作品は、まだ1冊しか読んでいないのですが、作品に表れるばななさんのイメージと日記には大きな差があるように感じます。なんとなくばななさんの陰と陽というのか。。。。
もちろん両方が本当のばななさんなのでしょうが、日記(Q&Aを含め)の中にところどころ現れるばななさんの家庭環境など、さまざまなことを背負いながら生きてきたという感じを受けます。このことから私生活に明るさを求めて動き回っていると同時に、さまざまなことを背負いながら生きてきたからこそそれを克服してきた中のこころからの明るさも出ているのかもしれません。
日記は、前書きにもありますが、たしかに「メモ帳代わり」であり、登場人物とのことを呼んでもわけがわからないところがあり、僕としてはあまりおもしろくないのですが、やはりばななさんの作品を理解するうえでは読むべきものだと思いました。
ばななさんの日記は、ヒロチンコさんと結婚をしてからはじまったのでしょうか?妊娠をされ、今はお子さんも誕生されたようですが、この点では、銀色夏生さんの日記「つれづれノート」と同じです。この意味では、もっとばななさんの平凡な部分というのか、夫やお子さんとの日常が書かれていくことを期待しながら読んで行きたいと思います。
もう少しばななさんの作品を読みながら日記を読みたいと思います。
【2005年】
おでんの残りを食べました。味がしみておいしかったです。
カレーでも煮物でも残り物がすごく美味いと感じるときがあります。
朝起きて、妻の「雪だよ」という言葉にびっくりしました。
【2006年】
昨日の日記は途中で終わってしまい何が結論なのか。。。
要するに、数学はこの世界の不思議を解き明かすためには必要不可欠だけど、それを人の関係や運命にまで結びつけるとなんとなく占いのような気がしてくる。
たしかに、生年月日の数字からバイオリズムを出し、その日の体調を見るというものもあったが、今も使われているのかな?でも、これも数字の不思議な力ではなくて生年月日からはじまる体の持つリズムが問題であり、その日の占いを数字で行っているわけではないだろう。
ピタゴラス学派はある意味教団のような性格もあるらしい。
「数は人がこの世に表れる前からあった」というような博士の言葉。ここに神秘性が出てくる。これと自然を数字として解釈できるということを混同してはならない。数学は、やはり自然を解釈する一つの方法であるということだと思うのだが。。。
「自然界の不思議さは、人が生まれる以前からあった」というのと「数は人が生まれる以前からあった」というのでは少しニュアンスがちがうのでは?不思議さは、人が認識してきたものだが、数はその認識するための一つの手段として考え出されたのでは?
読み終わるまでは感想はかけないけど。。。
【2007年】
(記事なし)
【2008年】
(記事なし)
【2009年】
かもめ食堂
幻冬舎文庫
群 ようこ 著
読み終わった本をどこかにしまい忘れてしまいましたので、主人公の名前などもわからず、作品全体から受けた観想となります。
群さんの小説は久しぶりに読みました。
群さんの作品は女性同士の友人関係などを通して、女性の本音というのか女性がそのままに生きる姿をコミカルな軽いタッチで描きます。そこには女性の弱さもありますが、女性たちが集まって互いを「そうだよね」などと語り合うような中に強さを感じ、それはがんばって生きていこうよという読後感を抱きます。登場する女性たちは、美人でもないし恋も普通の恋。職業も地味だったり。。。。。
このような作品の世界に群さんの特徴がありますね。
今回読んだ「かもめ食堂」も3人の女性が登場します。
武道家の父を持つ主人公は、母親が早く死に子供の頃から家事をこなしてきた。父のしょおうかいで勤めた会社は親方日の丸関連の会社でどこかのんびりしている。楽な仕事である程度の給料。しかしその会社もなくなることに。楽な仕事は主人公にとっては何のキャリアを残さない。年齢は40代。未婚。
こうなると一人で生きていくことに苦労をする。どうすべきか。。。。
あるとき主人公は目をつぶり世界地図を開いて「えいっ」と指をさす。そこはフィンランド。フィンランドに行こう!!金は?くじ運がいいから宝くじを買おう!!
ううう。。。当たります。宝くじ1等1億円。
父親は家事をやらないけど、主人公が子供の頃から遠足などではおにぎりを作ってくれた。そのおにぎりの味を持ってフィンランドのヘルシンキに向かいます。料理は得意!!店を出します。おにぎりもメニューに。
こんな突拍子もないような形で作られたヘルシンキの店を舞台にお話は進みます。
そこに主人公と境遇や年齢が近い女性2人がやってきます。けして幸福ではないがかといって不幸ということもない、そう平凡すぎる生活から抜け出してきた3人の女性。女性たちは、1億円という豊富な資金のもとに自分を捨てないで食堂を続けるというお話。
フィンランドへ行こう、金は宝くじが当たる。。。。
なんだかできすぎな幸運が主人公を自立させますが、あとの2人もなんのあてもなく同じような人生の境遇の中にフィンランドに来る。こういう3人をある意味雑なストーリー展開で作品は進みます。
だれでもが一度は1億円会ったらなぁ。。。と夢を持ちますが、それがうまい具合に現実となる。ここに、できすぎだよなぁ。。。。と読みすすめていきますが、たしかに雑な展開にもハハハ。。。。と笑ってしまう。ドラマ化された作品のようですが、楽しく見ることができるドラマを見ているようです。それで読後感も終わり、となればそれまでですが、夢のような条件で後の半生を生きることができるようになった40代、50代の女性。3人の女性たちはそれまで平凡ながらも何かに縛られてきた。平凡というのはある意味その縛られる条件の中にのんきでいられるということでもある。それがヘルシンキに来て食堂をやる中に、初めて自分の強い意志を貫けたのではないかな。日本食のおにぎりはフィンランド人にとっては変な紙(海苔)をまいたライス。。。であるわけですが、フィンランド人に迎合するような味は求めない。伝統的な梅とオカカと鮭。それは父の味であり愛情。それは必ずフィンランド人にも伝わるはずと。。。。
おにぎりとは平凡な料理である。でも平凡な中に握った人の愛情や味が出る。人はみんな平凡に生きているわけですが、その平凡と思われる中にあなたはあなたしかいませんよというメッセージが聞こえて競うです。自分はここに自分としている。。。。これがわかったときには生きがいとなりますよね。おにぎりのように平凡な特別なものがない人生でも。
群さんのこの作品は、傑作ではないかもしれない。でも、群さんがうったえかけるメッセージはこの作品の中にもはっきりと出ているのではないでしょうか。
楽しく読める作品です。
【20101年】
(記事なし)
【2011年】ツイッターつぶやき
内田樹著「日本辺境論」(新潮新書)
極東という位置を示す言葉がありますが、これはもちろん世界地図を広げたときにヨーロッパが中心に描かれたときに日本は東の果てにあるわけでしてそれからして日本は偏狭なわけです。そして日本人もこの極東にいるという自覚を持って自らの位置を意識しています。しかし学校で使う世界地図を広げると日本が世界の中心にあります。ここでは日本が世界の中心であるという意識を日本人は子供の頃から意識をしていきます。
まぁ、地球は丸いのですから本来は地図に書いても中心はないわけですが、たかが地図といってもやはりどこが中心に描かれているかによってその立つ位置に意識をせざるを得ません。「日本辺境論」はやはり極東意識なのですが、しかし日本は内に向かっては、内というのは日本国民ですが、常に日本文化や日本人の精神を世界にはない稀なものとして「日出づる国」としてそれを世界には認められるはずもなくしかしよいものだというある意味自己満足的に世界の中心におきます。この日本人がもつ内と外の二面性というのか、強いものと弱いものに対する二面性というのか、その二面性をうまく使い分けることに秀でた国民であるといわざるを得ません。
ですから日本人は「辺境人」であると同時に中心にいるという意識を他の国に認めてもらうことを第一義にしていく。内田さんのこの「日本辺境論」もこの日本人の二面性をよく表した著書ではないかと思います。
まず内田さんは、これまで多くの人々が描いた日本人論の中の辺境人意識をとりあげます。今まで多くの人がこの辺境人という視点で書いてきたのであらためて内田さんが自説を書くことはできない(しなくても)として数人の人の説を紹介しながらある意味「虎の威を借る狐」的な論法で「日本辺境論」をお書きになります。ここでまず日本あるいは日本人を日本人論として語るには「日本辺境論」がその一つであるという結論を導きこの日本辺境論から内田さん独自の世界に導いていきます。ですからこの本の題名である「日本辺境論」は終わるのです。
ここからが内田さんの自説となる?その自説とはこれまでの著書にもお書きになっていたと思うのですが、「学び」というものは何かどうあるべきかにあると思います。
日本人は辺境人であるという意識を自らが持つ民族であるというこの日本辺境論の特殊性からお話しが始まるのと思うのですが、自らを辺境人としてすすんだ文化や技術を受け入れていく(自分のものにしていく)ことに長けた民族なのですから、その日本人がしなくてはいけないのは、辺境人意識が古代から身にしみこんだものとして消えないならば残るのはその「学び」を捨てたりしてはだめでどう学びの方法を確立するかが主題となる著書といえると思います。ですから「日本辺境論」ではなく「辺境人の学びについて」とか「辺境人の学びの大切さ」「辺境人の学びを活かす!」といった主題としてこの著書はあるのではないでしょうか。
以下ツイッターに書いたものを再録しますので箇条書きになりますが、
昔から「追いつけ追い越せ」というものが一つの日本のエネルギーととなっていた面がある。大昔からは中国であったり、幕末から明治はヨーロッパ、そして戦後はアメリカが世界の中心だったからそのつどその中心に向かって「追いつけ追い越せ」と。
この「追いつけ追い越せ」というエネルギーは時には大きな力になってきたことは否定をしない。しかしこの「追いつけ追い越せ」という目標とするものはその時々の世界の中心にある経済や文化であり、真似したり取り入れるべき経済や文化だということである。
それは常にその土俵は中国が作り上げた文化であり、ヨーロッパやアメリカの文化だったということである。そこに「追いつけ追い越せ」だから追い越すことはできないという矛盾が起きる。追い越すには今まで取り入れたさまざまな文化を基礎にしたより発展したものを作り上げなければならないからである。
アメリカが世界の中心であるというものが崩れはじめると「追いつけ追い越せ」という目標が揺らいでくる。そこで右往左往し始める。まだアメリカには頼らねばならないがかといって中国も無視ができない。何を「追いつけ追い越せ」でなければならないか。。。。日本はそこに独自性が出ない。
意識では世界一位になりたい。でも一位になる独自性の基礎がない。政治や経済哲学や科学もろもろの文化。。。。。もちろん世界に認められる日本人や文化があるが、それも「世界に認められた・・・・」という形で逆輸入的な評価しかしない場合がある。何か自信というものが出てこない。
うろうろ世界を見回して何かを追い求める中に日本の独自的な良い部分を忘れたり捨ててしまう。追随してその追随したものに限界が来たときもうろうろと見回す。日本的な何が経済を発展させたかとか日本が日本を見ない状態。もちろん悪い面があったけどそこをどう日本的に改善してよいものを残すか。。。
みんなと同じことを言ったりしないと孤立するような世間様。。。。この世間様を作り上げたのも集団的な「追いつけ追い越せ」だったのかもしれない。集団的なものが世間様を作るから世間様から抜け出せない。みんなと違うことが言いにくく、「出る杭は打たれる」的世間様の中のな異端児扱い。
こう書くと日本の独自性が一人歩きをして変な意味での科学性のない精神論的な独自主義が。。。。。今の日本はうまく機能すれば平和的な環境重視そしてこれまでの日本的経済発展のよさを世界に広げるチャンスなのに。それが一番になることなのでは?「学び」を大切にすることと、世界の中で辺境人として生き抜くことは、どうしても「追いつけ追い越せ」というものの中に生きてその目標とするものがなくなったり揺らぎはじめると途方に暮れてきょろきょろとしてしまう。ですから「学び」は大切なのですが、そこには発展性が泣けれなければならないということです。その発展性は日本人が辺境人から抜け出すことにあるわけですが、内田さんの著書では辺境人はそこから抜け出せないので辺境人独自の発展をという結論になります。それが「学び」とは?という考え方にもとうぜん現れてきます。そしてそれは日本のあるいは日本人の特殊性にある精神世界というのか生き方や考え方の中心となっているだろう武士道などの特殊なものをとらえていきます。上にも書きましたが、日本人の偏狭性は、外と内という二面性(極東意識と日出づる国という)に現れているのですが、この外という中の辺境人意識が消えないなら、内である精神活動(物ものの考え方や捕らえ方)からの発展となります。
よく考えると、世界の中心になった国・民俗というのはそうは多くありません。ほとんどの国がその中心となった国から何かを学び血肉としてきたわけです。日本だけが特殊な国あるいは民族ではない。特殊なのは日本人は自らを辺境人として位置づける中にあり、「虎の威を借る狐」的な中での内なる「日出づる国」意識が強いということなのでしょう。ですから発展というものを考えるときには、どうしても日本人が持つ辺境人意識をどこかで拭い去るということで、辺境人は辺境人のままに特殊な文化の中で生き続け発展するしかないということではないと思います。
自己を世界から差別化する。日本独特な日本人しか理解できないものの中に生きるというのもある意味差別化なわけでして、そういう差別化の中の独自性はそれ自体が辺境人ということになります。辺境人なんだから辺境人として発展していこうという内田さんの一つの結論はこのようなものかもしれません。
日本人は古代には中国の漢字文化を受け入れる。しかしその漢字は今でにある外来語をカタカナで表し発音するというものではなくて日本語に当て字をしていく。漢字の音も含めて漢字を崩して平仮名やカタカナを作っていき日本語化した漢字と併せ持っていく。漢字が日本語化した中に外国の精神文化であるような専門的な言葉もカタカナで表すこと意外に日本語の感じとして翻訳していく。その翻訳は外来語の精神をも表現できるものとなる。それがまた日本語として精神面でも定着をする。
仏教が入ってくればすぐに神仏を混合した宗教を作り出し、独自な宗教観を作り、後には諸行無常の鐘を鳴らし、禅宗や侘び寂ともつながり朝鮮半島の茶碗をなでやはり日本の独自な精神文化をつくっていく。
良い悪いは別にして、明治はヨーロッパやアメリカの植民地主義である帝国主義をいち早く取り入れて植民地化されない中に天皇制というものと結びついて独自な帝国主義を作る。
敗戦後はすぐにアメリカの民主主義を取り入れて平和国家となり、産業の復活に取り掛かる。軍隊は世界でも特殊な専守防衛という形をとっていく。産業はまた日本独特な家族主義ともいう米終身雇用制の中でのある意味チームワーク的な形ができる。労働運動や社会主義も平和主義の中でやはり独自な形となり、それはまた日本的な労使関係や55年体制を作って生き産業は発展をする。
このように日本というのは古いものに新しく入ってきたものを相互に同化していくという学びをしてきたのではないか?古いものに固執をしてそれが発展をしていったという形はむしろ稀ではないか?
それは古いものの中に新しいものを入れながら温故知新をしながら発展させたということでしょう。ですから辺境人は辺境人なりに発展をしてきたわけです。ただ足りなかったものが「追いつけ追い越せ」で目先の目標が見えなくなるとまごまごして、上に書いたようなその時々の日本的なよいものを独自に発展させる意識が出ないことです。
ここで日本人の「学び」とは何かということになります。歴史というのはそもそも弁証法的なものです。古いものは保守的な停滞に陥りそこに新しいものが入ってきて内部の矛盾を見えるものとしていき時には闘争となる。その中に矛盾解決の新たな古いものと新しいものの調和としてのものが作られていく。これが発展ですが、新しいものを生み出しそして導入して古いものとの矛盾を解決内部では、その新しいものが古いものから切り離したものとして生まれてきます。古いものを受け継ぎながら否定をする。否定の否定の中に新たな新しいものが生まれてくる。このすべての過程にあらゆる「学び」があると見ることができます。人間は考えます。考えることが学びです。発展自体が学びの結果です。
バネを思い描いてください。そのバネを真上から見ると円になります。そこにある点Aを置きます。そのA点は時間の流れの菜が運動をして円の上を移動します。そしていつか1週して同じ出発点に戻ります。
バネを真上から見るとただA点が1週しただけですが、これをバネの真横から似たらどうでしょうか?出発点はある点としてしか見えないものだったのですが、バネを横から見ると側面を縦に走る線となります。Aという点はその出発点から移動をするわけですが、A点が1週するということはバネで見れば出発したところよりも一段上のところに移っています。そうするとAという点は同じAという点であるが一段高まったところに位置するという意味では違うA”という点になっています。A点は同じA点ですが同時に違うA”になっている。高い位置を発展とするならば、A点は同じA点ですが発展したAだということになります。古いA点でありながらそれをを残しながらも発展したA点に新たなものとして存在する。学びというものもこれと同じではないでしょうか?
ある人が武道の極意を学びたいと思う。その人は空手と合気道を間違えることはあっても日本舞踊のお師匠さんの門はくぐらない。なぜかといえば武道を学びたいというその人の中には幼稚ともいえるようなものでも武道というものとは何かという学んだものが古い土台としてあるからです。そこで武道を学んで新たな武道というものの学びに入るわけです。オギャーと生まれたときの動物本能からはじまってまるっきり無からはじまることは学びにはないです。
人は時々生まれ変わったと意識する瞬間や、悟ったというような瞬間があるといいます。それはまるで別人になったという感覚でしょうが、やはりそこでもそれまでの古いものが土台になって発展した中での生まれ変わりです。
カントになくヘーゲルにあるものはこの発展ではないでしょうか?
この発展を日本人はうまく行ってきたというべきではないでしょうか?学びの中から。
日本は世界第二位という経済大国にもなったし、海外に行けばノーベル賞もとったりその世界で一流なものとして認められる。この中で辺境人意識が抜けない。ですからこの辺境人意識は発展性があるというものを意識しない中にあるのではないか?または、外へのこの極東意識と内での日出づる国や島国根性というような内部に生まれるものを古さから開放しないというこの二面性が辺境人意識を続けていると見たほうがいいのではないでしょうか?今、日本でも権威とかいろいろな古いものが崩れ去っていく過程に入っているようですが、この古いものの中から何を守り何を捨てるかを発展の中に新しいものを見なくてはいけないということでしょう。それを今までの歴史の中に無意識としても行ってきたのですから。新自由主義がいいとそこに走る。今までの日本的なものはすべて間違いと位置付ける。ここには新しいものを受け入れる意味がなくなるわけです。まったく違う日本を作るということに形而上学が見えます。
【2012年】ツイッターつぶやき
春闘が始まりました。とはいっても昔のような盛り上がりはありませんが。。。。。
それでも春闘は労働者の生活を守るための大切な闘争です。今は連合も組織率も下がって大企業や公務員が中心になっていることがさらに顕著になってしまいました。しかし春闘の妥結高はある程度社会全体への賃上げの影響力は残っているのではないでしょうか?しかし今の格差の中、なかなか社会全体へ影響を及ぼすことも難しくなっているのでしょう。連合も非正規社員の賃上げや最低賃金引き上げの要求も出していますが、今の春闘の実態からしてこれもまた難しくなっています。
今春闘では、連合は賃金の総額1%上げをうったえている。一方経団連は定昇延期・凍結を言っている。「賃金の総額1%上げ」とは毎月の賃金だけではなくてボーナスの率のアップ分も含めた総額ということでしょう。これまでは昇給プラス〇円といった賃上げと臨時給(ボーナス)の率のアップを要求してきたものですので、今回の要求は相当抑えた要求ということになるでしょう。それに対して経団連は定昇すら凍結をすると。定昇は社員募集時に「定昇あり」といったような企業の社員への約束事でもあるが、「定昇をひたすら守っていてグローバル競争に勝てるのか」(朝日新聞3面より引用)とある意味開きなりを見せている。
相当厳しい春闘結果になるのではないかと思います。それでも今までの経営側は企業業績による賃上げを言っていたわけですし、今でもそれに変わりはないでしょう。企業による賃上げの格差も出るかもしれません。
停滞する春闘。。。。
これを打破するには何が必要でしょうか?
1%要求はしながら、何かしら社会全体の要求を吸い上げた政治性の高い春闘が必要になってきているのではないでしょうか。それは格差の是正でしょう。連合組織が大企業と公務員の組織になっている(もちろん産別内には小さな企業もあるが)中、賃上げといっても今の社会で賃上げか?という労働者内からの反発(たとえば非正規社員やパートなどの労働者から)も危惧されたりします。その中で1%要求とプラス何を要求したらよいのでしょうか?
労働者全体の賃金の底上げです。そして国の財政からの社会保障の充実です。
これを行うには今までも書いてきたように、企業が労働者の労働力を買ったときにも消費税を納めるようにすることではないでしょうか?これを政治的要求として行う。
賃金に消費税がプラスされるわけです。そしてこの消費税のうち年収200万か300万ぐらいにかかる消費税部分(200万円なら10万円、300万円なら15万円)を労働者の益税とし、残りを国に納める。この中で実質的な賃上げと同じ作用が起こりますし、国の財政にも入っていくわけです。
経団連は消費税10%という増税を歓迎しています。もちろん企業も消費税を支払うわけですが、それは商品の値段に含めたり下請けから買い叩いて消費税分を安くさせるなどのものが予想されます。また輸出企業は輸出戻し税というものもあり輸出企業はその痛みは軽減されると言います。
そのような中、労働力を買っても消費税は払わないといった不公平さが残っているわけです。もちろん零細企業などの苦しい企業もあるわけですから、消費税を還付するようなものは必要ですが。
企業側にもこのような要求を出すことは、春闘に加わる一部の労働者の賃上げにとどまらない社会全体の要求として組織できるのではないでしょうか。
春闘は「国民春闘」として闘われた時期があります(今でもこの言葉は残っているでしょう)。もう一度国民的れっべるの理解を得た春闘を作り直さねばならないでしょう。連合が民主党にすり寄っていますが、その民主党がまた変質してきました。政治闘争を民主党の応援というだけでは済まされない実態にあります。広く国民を組織できる要求作りの中、独自の政治闘争を組織していくべきでしょう。それは様々な問題(たとえな脱原発や平和など)を考え要求していく必要も出てきます。その中で労働者だけではない農民や知識階層等等との今の社会で苦しめられているすべての階層との統一戦線につなげなければならないでしょう。
国民生活間ますます苦しくなるのは今の国会の議論を聞いていてもはっきりとしています。
ますます国民の連帯の条件は生まれてきます。しかしもちろん今の政治はそれを分断しようとします。だからこそ国民的要求の組織化が必要なのです。
【2013年】ツイッターつぶやき
政府の2013年税制大綱が出た。
消費税が来年には8%となり15年には10%に段階的に引き上げられる。この消費増税には一定の景気回復が条件であり、安倍内閣は成長路線を打ち出して日銀をねじ伏せて2%のインフレ目標を立てた。日銀による市場への貨幣量を増やす中でその資金をどう企業活動に入れていくかが課題で、税制大綱もその線に沿って税制からこれを後押しをしようとするものでしょう。
税制大綱では「成長による富の創出に向けた税制処置」として「民間投資の喚起」を大きく取り上げています。研究開発での減税や設備投資への減税を行い、日銀の資金を企業が活用するように促しています。また企業の投資を促すためには消費がなければならないわけですから自動車税関連や住宅ローン減税の延長を行う。大綱では同時に「人材育成・雇用対策」のための減税も行いますが、雇用対策も企業の成長を待ってという形でしょう。そして賃上げは1千億円の企業減税によって。
所得税では4千万を超える高所得者への増税はありますが中間層以下の減税はありません。消費増税時の食料品などと考えられる軽減税率は10%時にと後送りになりましたし、一般的な庶民生活は苦しくなることが目に見える税制大綱でしょう。
企業優遇と庶民生活の低下を対向には見ることができます。
これが安倍内閣の税制から見た成長路線なわけです。
これまでの自民党の政策の基本である企業を支えることによる景気対策が安倍政権にも露骨に表れているといってよいでしょう。
税と社会保障の一体改革がどうなるのか?消費増税は社会保障のためといった基本は野田政権当時から揺らぎ始めていますし、消費増税は景気回復のためといったあるいは公共事業にといったものに変更されるか、国家財政のためには10%でも足りないという議論もあります。
企業優先でその企業が利益を回復させても雇用増(正社員増)や賃上げには結びつかない状態が以前から続いています。政府の政策にもこのへんの改善に向けた具体的なものはないといった状態でしょう。
【2014年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2015年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2016年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2017年】ツイッターつぶやき
今日のツイートから。。。。。
オバマ政権を知性派、トランプ政権を反知性派と仮定するならば、このどちらを支持するかがアメリカの二大政党制です。一党独裁という矛盾が言われますが、この二党独裁もまた矛盾を抱えるようになってきました。
ある学校で学級委員の選挙がありました。立候補したのは知性派で頭もよいしスポーツもできて先生にも気に入られている。もう一人立候補したのは反知性派でクラスの番長的な子でした。しかし知性派の子は建前では良いことを言うのですが、陰ではクラスの子をいじめていた。
反知性派の子は見たからにクラスの子をいじめていた。
知性派の子が反知性派の子に対して「君は暴力的でだめだ」と。しかし反知性派の子は「お前だって陰でいじめしているぞ。これからは本音でクラスの中でやっていこうぜ」と。さて、クラスの子供たちはどちらを支持すべきか?
どちらも支持はできないのですが、二者択一でしか判断できない。そのとき、クラスの中でおとなしくていつも一人でぼうっと考えている子が、「じゃぁ。僕もいじめをなくすために立候補するよ」と。すると周りの多くの子供たちが笑いながら「お前は引っ込んでろよ」と。先生も笑った。
でも、2,3人の子が第三の意見もあるんならいいじゃないかと。すると知性派の子も反知性派の子もそして多くの子も、お前ら3票か4票でもいいなら立候補しろよと。先生も「あまり多く立候補が出ると、少数派だし、クラスが混乱するね」と。
そして選挙は終わって反知性派の子が勝利をした。。。。知性派支持者の子も先生も顔が青くなった。。。。
アメリカだけではなくて、日本も他の先進国も、たとえ話ですが、この子供たちのクラスと同じ状態になっているのではないでしょうか?
先生の役割をするのは、司法であり日銀であり、すべての専門分野の知識人であったり、マスコミであったりするわけですが。。。。
【2018年】ツイッターつぶやき
gooお題「夏が好き?冬が好き?」
今、日本に大寒波が来ていて雪の被害も大きくなっています。
ですからいま冬が好きという方は少ないかもしれませんね。もちろんウインタースポーツの好きな方や冬ならではのものが好きな方は別としても。
僕自身としては、どちらかと言えば夏が好きです。
布団の上げ下ろしも楽ですからぁ・・・・・・
冬になると、「やっぱり夏の方がいいようなぁ」と家族に話することがありますが、夏の暑い最中に「やっぱり冬の方がいいよなぁ」と話するのは皆無ですし。
極端な暑さや寒さを除外すれば、それぞれにいいところもいやなところもあり、その中で季節を楽しむわけですから好き嫌いというよりもどちらが季節を楽しめるかという事になると思います。上にも書いたようにウインタースポーツが好きな方ならば冬の良さをいっぱい知って楽しめるわけです。
人と人との関係もすべて同じですね。好きか嫌いかはそうは簡単には決められません。
今の社会は嫌悪や差別とか、好きか嫌いか、日本を応援するかしないかなどといった勘定感情で動くものになってしまいました。理屈や討論話に。だから政治も数の力などの力が優先して民主主義まで否定する人が増える。
先日書いた「資本主義は眠りにつく」の続きです。
企業間競争は特別剰余価値の生産を目指す。生産技術を高めて同じ労働力量でより多くの商品を生産しようとする。言い換えれば同じ商品量を生産するのにより少ない労働力量でそれを行おうとする。
すると、必然的に資本の有機的組成に変化をきたし、可変資本(賃金)よりも不変資本(生産設備など)が増加する。
この資本の有機的組成が高度化すると何が起きるか?
同じ労働力量でより多くの商品が生産されるのでその商品は価値低下を起こす。特別剰余価値を企業が求めるのがなぜかという事は、資本の有機的組成の高度化によりより安くなった商品を市場においてより千三世の悪い企業の高い商品と同じ値段で売れるからである。あるいは市場での独占化のために値下げ競争を行えるからである。
言い換えれば企業間競争による資本の有機的組成の高度化がある産業において進めば商品価格は下落して企業の利潤率は下がるのである。ただし搾取率は一定として。
現在デフレが問題視されている。上記した資本の有機的組成の高度化による利潤率の低下が全産業にも及ぶと社会全体においてあらゆる商品価値が低下をして価格は下がり続ける。競争の弱い企業はさらに利潤を犠牲にして価格競争に参加せざるを得ない。これは、生産業におけるロボット化というコンピューターと精密機械が結びついた生産性の向上による。
日本はこの利潤率の低下を海外の安い労働力と国内の低賃金化(派遣労働制名の働き方も含めて)により搾取率を上げることで克服しようとしてきた。
搾取率が一定であっても商品価値は落ちるところをさらにこの搾取率を高める中で商品価値を下げようとした。その中で一定の企業利益を確保してきた。
このような状態でさらに企業利益を確保するために行おうとしているがIT革命である。これは技術者あるいはトラックや鉄道の運転などの労働力を削減する中で、またそれはホワイトカラーの削減でもあるが、この部門での資本の有機的組成の高度化による特別剰余価値を得ようとしている。
同時に過労死労働法案や残業代ゼロによる搾取率を高めようとしている。
国際的な企業間競争は熾烈となるでしょう。
しかしこのIT革命における資本の有機的組成の高度化が何を招くかと言えば上記したように企業の利潤率の低下であり、商品やサービスの価値低下による価格の下落である。
資本主義的経済は眠りにつく。
しかし、日本の特殊性は搾取率を高めることが容易になっていることにある。これは企業利益を上げるのだが、デフレになれば絶対的な消費の低迷になるでしょう。リーマンショックからもいまだに抜け出せない原因です。更なるデフレ不況には体力は残っていないでしょう。
【2019年】ツイッターつぶやき
a title="ウウウ・・・・・" href="https://blog.goo.ne.jp/yuura2/e/206208d98bf741c7dc1b27132095706b" target="_blank">ウウウ・・・・・
ううう・・・・
風邪がよくなりません。明日も医者は休みなのでこのまま治してしまおうかと思っています。
夕方になると38.5度ぐらいまで熱が上がります。インフルエンザかな?
人間が持つ治癒力を信じてこのまま様子を見ます。
夕方、あまりにも寒気がひどいのでホットはちみつレモンを作りました。
はちみつレモンといっても売っているものではなくて、レモンを絞ってはちみつを入れて熱いお湯を注ぎました。熱い風呂から出たらほっと生姜レモンでも飲んで寝ます。
そういえば昨夜は熱が高かったのでしょう、汗がひどかったです。
汗が出れば治るのも今少し!
【2020年】ツイッターつぶやき
中国武漢の新型肺炎は拡大してきましたね。
すでに50数名がなくなっている。
そして中国全土とアジア周辺国に広がっている。
日本でも3人でしたっけ、感染者が出ている。
これで急激に日本でも広がればオリンピックどころではなくなるかもしれない。
中国は団体旅行での出国を規制しはじめたようですが、中国人の爆買いを中心とした外国菱光社の国内消費を当てにする日本は厳しくなるでしょう。
鳥インフルエンザ(サーズ)の薬もまだ難しいようですが、新型肺炎も時間がかかるかもしれませんね。
いつ頃からでしょうか?抗生物質という薬ができたのは。
ネット上でもこの抗生物質と細菌やウイルスとの変異のイタチごっこだと読んだことがあります。
また抗生物質の残りを捨てたりすれば細菌が抗生物質にも強くなるともいわれています。
抗生物質に強くなった細菌やウイルスにはさらに強い薬が必要になり、それは人体が耐えきれなくなるかもしれない。
たしかに抗生物質で救われた人の命は多いでしょうが、しかし抗生物質のような薬に頼っていられる状態ではなくなっている。
人の社会は人体に悪い影響を与える化学物質が蔓延している。
それもがんという病気を以上に増加させているのではないかいと思います。
禁煙運動が盛んですが、禁煙が進めばがんがなくなるわけではないでしょう。
外国人観光客の爆買いに頼らざるを得ない経済。これも一つに矛盾で新型肺炎が入ってこられては大変だが、中国人が落とす金はもっと必要だ。こういうジレンマが日本社会には表れている。有害物質は困るがそれが亡くなれば経済が成り立たない。。。。。これもジレンマですね。
薬やワクチンを開発した製薬会社はすごい利益を生む。これが起爆剤かもしれませんが人が作り出す強い菌をまた作り出すようでは。。。。
【2021年】ツイッターつぶやき
「イオンは、勤務時間中を禁煙にするほか、出勤前や休憩から職場に戻る前の45分間もたばこを吸うことを禁止にします。」(日テレNEWS)
出勤時間45分前及び休憩時間も「実質的に喫煙できなくなる」ようです。
「実質的に喫煙できなくなる」というのは、いくら企業でも合法的な禁煙を露骨に強制できないでしょうから敷地内禁煙や休憩時も喫煙後45分は勤務できないのですから実質上の強制禁煙です。就業時間中だけではなくて出勤の45分前は喫煙禁止ですから従業員の私的時間にも立ち入った強制禁煙です。休憩時間も就業時間内とはいえ昼食後も働くために心身ともに休息をする権利が労働者にはあるはずです。私的時間とは言わないですが、拘束内でも個人的に自由にできる時間です。
このように企業の実質的な禁煙の強制は合法的な喫煙の自由を損なうでしょう。分煙などの処置を行うことは良いとしても強制の禁煙は許されるのか?
禁煙運動も露骨な力による強制禁煙に動きはじめました。
【2022年】ツイッターつぶやき
コロナ感染拡大防止に対して国はまん延防止を出すだけでほぼあとはマスクをしなさい程度で国民に対しては自己責任で感染防止をうったえているだけでしょう。飲食店の営業時間短縮はありますが、人の社会活動の中ではごく一部の行動パターン日舞であり、オミクロンの感染力に対しては焼け石に水です。
一方感染者に対する濃厚接触者の判断も感染者個人が濃厚接触した人に伝えるというようにこれも自己判断自己責任です。COCOAなんてものは何の役にも立たない。
感染してしまって症状が出ても医療機関での検査はできずに自腹で検査キッドを買って検査をしてから受診。これも自己判断自己責任です。
国や自治体はオミクロンは重症化しないという点に胡坐をかいてしまっているのか?
しかし最近はデルタ株がまた拡大しているというニュースやオミクロンの変異株も言われています。
ワクチンの効果も期待はできない。医療は崩壊をしている。
結局科学の敗北です。
自己判断自己責任は社会活動に対しても影響してくるでしょう。
自己責任は体がもつ自然免疫を高めるしかない。栄養のあるものを食べて必要最小限での労働。
【2023年】ツイッターつぶやき
時々味噌ラーメンを作ります。といっても市販のスープの素を使いますが。
ひき肉と野菜をさっと塩コショウで炒め、お湯とスープの素を入れて温めます。
どんぶりに長ネギのみじん切りを入れておきます。ほんの少し隠し味程度のニンニクを入れることもあります。
麺が茹って来たらどんぶりに先ほど作ったスープを入れてその上にひき肉や野菜を乗せ七味をぱらっと。
今夜テレビを見ていたら、本場の札幌味噌ラーメンをやっていましたが、中華鍋一つでひき肉や野菜のスープを作っていました。
味噌ラーメンも醤油や塩と同じようにどんぶりの中に味噌とスープを入れて作る店がありますが、これは本来の札幌味噌ラーメンではななさそう。。。。
僕の作る味噌ラーメンが本格札幌味噌ラーメン?(笑)
時々ピーマンの肉詰めを作りますが、ひき肉に長ネギや味付けをする面倒がありますが、ピーマンの苦みもあり美味いですなぁ。我が家は上にはソースです。
教買い物に行くと鍋用の鶏団子があったのでそれを買ってきて詰めてみました。ショウガ風味と柚子風味を買ってきて作りましたが、案外うまかったです。
ピーマンの中に片栗粉を塗って肉を積めたら小麦粉をまぶして焼きました。
≪過去の記事≫
【2004年】
ユニクロに言ってきました。娘のジーパンなどを買いに行ったのですが、ついでに僕のお気に入りの靴下も。脛のところから足首までゴムが入っているのでずり落ちなくてはきやすいし、案外暖かいのです。それに3足980円という値段も・・・・
ただし見た目は少し前に女子高生のあいだに流行っていたルーズソックスのようですが。ユニクロは安いし、安いわりには品質もいいのでお気に入りです。
下着からジャンパーまですべてユニクロ。。。ハハハ
ただしジーパンだけは某有名メーカーの少し高いものにしています。
ミルクチャンのような日々、
そして妊娠!?
yoshimotobanana.com 2
新潮文庫
よしもとばなな 著
.com1と同じく豪快というのかばななさんの生き方を現しています。
忙しい方です。
明るくいろいろな方と合い、話をし、飲む。卓球やフラダンスと、習い事も楽しんでいるし、家族やスタッフとの関係も大切にしています。
このような私生活を楽しんでいるようですが、一方では、寂しさや孤独から逃れるために動き回っているようにも感じます。バナナさんの作品は、まだ1冊しか読んでいないのですが、作品に表れるばななさんのイメージと日記には大きな差があるように感じます。なんとなくばななさんの陰と陽というのか。。。。
もちろん両方が本当のばななさんなのでしょうが、日記(Q&Aを含め)の中にところどころ現れるばななさんの家庭環境など、さまざまなことを背負いながら生きてきたという感じを受けます。このことから私生活に明るさを求めて動き回っていると同時に、さまざまなことを背負いながら生きてきたからこそそれを克服してきた中のこころからの明るさも出ているのかもしれません。
日記は、前書きにもありますが、たしかに「メモ帳代わり」であり、登場人物とのことを呼んでもわけがわからないところがあり、僕としてはあまりおもしろくないのですが、やはりばななさんの作品を理解するうえでは読むべきものだと思いました。
ばななさんの日記は、ヒロチンコさんと結婚をしてからはじまったのでしょうか?妊娠をされ、今はお子さんも誕生されたようですが、この点では、銀色夏生さんの日記「つれづれノート」と同じです。この意味では、もっとばななさんの平凡な部分というのか、夫やお子さんとの日常が書かれていくことを期待しながら読んで行きたいと思います。
もう少しばななさんの作品を読みながら日記を読みたいと思います。
【2005年】
おでんの残りを食べました。味がしみておいしかったです。
カレーでも煮物でも残り物がすごく美味いと感じるときがあります。
朝起きて、妻の「雪だよ」という言葉にびっくりしました。
【2006年】
昨日の日記は途中で終わってしまい何が結論なのか。。。
要するに、数学はこの世界の不思議を解き明かすためには必要不可欠だけど、それを人の関係や運命にまで結びつけるとなんとなく占いのような気がしてくる。
たしかに、生年月日の数字からバイオリズムを出し、その日の体調を見るというものもあったが、今も使われているのかな?でも、これも数字の不思議な力ではなくて生年月日からはじまる体の持つリズムが問題であり、その日の占いを数字で行っているわけではないだろう。
ピタゴラス学派はある意味教団のような性格もあるらしい。
「数は人がこの世に表れる前からあった」というような博士の言葉。ここに神秘性が出てくる。これと自然を数字として解釈できるということを混同してはならない。数学は、やはり自然を解釈する一つの方法であるということだと思うのだが。。。
「自然界の不思議さは、人が生まれる以前からあった」というのと「数は人が生まれる以前からあった」というのでは少しニュアンスがちがうのでは?不思議さは、人が認識してきたものだが、数はその認識するための一つの手段として考え出されたのでは?
読み終わるまでは感想はかけないけど。。。
【2007年】
(記事なし)
【2008年】
(記事なし)
【2009年】
かもめ食堂
幻冬舎文庫
群 ようこ 著
読み終わった本をどこかにしまい忘れてしまいましたので、主人公の名前などもわからず、作品全体から受けた観想となります。
群さんの小説は久しぶりに読みました。
群さんの作品は女性同士の友人関係などを通して、女性の本音というのか女性がそのままに生きる姿をコミカルな軽いタッチで描きます。そこには女性の弱さもありますが、女性たちが集まって互いを「そうだよね」などと語り合うような中に強さを感じ、それはがんばって生きていこうよという読後感を抱きます。登場する女性たちは、美人でもないし恋も普通の恋。職業も地味だったり。。。。。
このような作品の世界に群さんの特徴がありますね。
今回読んだ「かもめ食堂」も3人の女性が登場します。
武道家の父を持つ主人公は、母親が早く死に子供の頃から家事をこなしてきた。父のしょおうかいで勤めた会社は親方日の丸関連の会社でどこかのんびりしている。楽な仕事である程度の給料。しかしその会社もなくなることに。楽な仕事は主人公にとっては何のキャリアを残さない。年齢は40代。未婚。
こうなると一人で生きていくことに苦労をする。どうすべきか。。。。
あるとき主人公は目をつぶり世界地図を開いて「えいっ」と指をさす。そこはフィンランド。フィンランドに行こう!!金は?くじ運がいいから宝くじを買おう!!
ううう。。。当たります。宝くじ1等1億円。
父親は家事をやらないけど、主人公が子供の頃から遠足などではおにぎりを作ってくれた。そのおにぎりの味を持ってフィンランドのヘルシンキに向かいます。料理は得意!!店を出します。おにぎりもメニューに。
こんな突拍子もないような形で作られたヘルシンキの店を舞台にお話は進みます。
そこに主人公と境遇や年齢が近い女性2人がやってきます。けして幸福ではないがかといって不幸ということもない、そう平凡すぎる生活から抜け出してきた3人の女性。女性たちは、1億円という豊富な資金のもとに自分を捨てないで食堂を続けるというお話。
フィンランドへ行こう、金は宝くじが当たる。。。。
なんだかできすぎな幸運が主人公を自立させますが、あとの2人もなんのあてもなく同じような人生の境遇の中にフィンランドに来る。こういう3人をある意味雑なストーリー展開で作品は進みます。
だれでもが一度は1億円会ったらなぁ。。。と夢を持ちますが、それがうまい具合に現実となる。ここに、できすぎだよなぁ。。。。と読みすすめていきますが、たしかに雑な展開にもハハハ。。。。と笑ってしまう。ドラマ化された作品のようですが、楽しく見ることができるドラマを見ているようです。それで読後感も終わり、となればそれまでですが、夢のような条件で後の半生を生きることができるようになった40代、50代の女性。3人の女性たちはそれまで平凡ながらも何かに縛られてきた。平凡というのはある意味その縛られる条件の中にのんきでいられるということでもある。それがヘルシンキに来て食堂をやる中に、初めて自分の強い意志を貫けたのではないかな。日本食のおにぎりはフィンランド人にとっては変な紙(海苔)をまいたライス。。。であるわけですが、フィンランド人に迎合するような味は求めない。伝統的な梅とオカカと鮭。それは父の味であり愛情。それは必ずフィンランド人にも伝わるはずと。。。。
おにぎりとは平凡な料理である。でも平凡な中に握った人の愛情や味が出る。人はみんな平凡に生きているわけですが、その平凡と思われる中にあなたはあなたしかいませんよというメッセージが聞こえて競うです。自分はここに自分としている。。。。これがわかったときには生きがいとなりますよね。おにぎりのように平凡な特別なものがない人生でも。
群さんのこの作品は、傑作ではないかもしれない。でも、群さんがうったえかけるメッセージはこの作品の中にもはっきりと出ているのではないでしょうか。
楽しく読める作品です。
【20101年】
(記事なし)
【2011年】ツイッターつぶやき
内田樹著「日本辺境論」(新潮新書)
極東という位置を示す言葉がありますが、これはもちろん世界地図を広げたときにヨーロッパが中心に描かれたときに日本は東の果てにあるわけでしてそれからして日本は偏狭なわけです。そして日本人もこの極東にいるという自覚を持って自らの位置を意識しています。しかし学校で使う世界地図を広げると日本が世界の中心にあります。ここでは日本が世界の中心であるという意識を日本人は子供の頃から意識をしていきます。
まぁ、地球は丸いのですから本来は地図に書いても中心はないわけですが、たかが地図といってもやはりどこが中心に描かれているかによってその立つ位置に意識をせざるを得ません。「日本辺境論」はやはり極東意識なのですが、しかし日本は内に向かっては、内というのは日本国民ですが、常に日本文化や日本人の精神を世界にはない稀なものとして「日出づる国」としてそれを世界には認められるはずもなくしかしよいものだというある意味自己満足的に世界の中心におきます。この日本人がもつ内と外の二面性というのか、強いものと弱いものに対する二面性というのか、その二面性をうまく使い分けることに秀でた国民であるといわざるを得ません。
ですから日本人は「辺境人」であると同時に中心にいるという意識を他の国に認めてもらうことを第一義にしていく。内田さんのこの「日本辺境論」もこの日本人の二面性をよく表した著書ではないかと思います。
まず内田さんは、これまで多くの人々が描いた日本人論の中の辺境人意識をとりあげます。今まで多くの人がこの辺境人という視点で書いてきたのであらためて内田さんが自説を書くことはできない(しなくても)として数人の人の説を紹介しながらある意味「虎の威を借る狐」的な論法で「日本辺境論」をお書きになります。ここでまず日本あるいは日本人を日本人論として語るには「日本辺境論」がその一つであるという結論を導きこの日本辺境論から内田さん独自の世界に導いていきます。ですからこの本の題名である「日本辺境論」は終わるのです。
ここからが内田さんの自説となる?その自説とはこれまでの著書にもお書きになっていたと思うのですが、「学び」というものは何かどうあるべきかにあると思います。
日本人は辺境人であるという意識を自らが持つ民族であるというこの日本辺境論の特殊性からお話しが始まるのと思うのですが、自らを辺境人としてすすんだ文化や技術を受け入れていく(自分のものにしていく)ことに長けた民族なのですから、その日本人がしなくてはいけないのは、辺境人意識が古代から身にしみこんだものとして消えないならば残るのはその「学び」を捨てたりしてはだめでどう学びの方法を確立するかが主題となる著書といえると思います。ですから「日本辺境論」ではなく「辺境人の学びについて」とか「辺境人の学びの大切さ」「辺境人の学びを活かす!」といった主題としてこの著書はあるのではないでしょうか。
以下ツイッターに書いたものを再録しますので箇条書きになりますが、
昔から「追いつけ追い越せ」というものが一つの日本のエネルギーととなっていた面がある。大昔からは中国であったり、幕末から明治はヨーロッパ、そして戦後はアメリカが世界の中心だったからそのつどその中心に向かって「追いつけ追い越せ」と。
この「追いつけ追い越せ」というエネルギーは時には大きな力になってきたことは否定をしない。しかしこの「追いつけ追い越せ」という目標とするものはその時々の世界の中心にある経済や文化であり、真似したり取り入れるべき経済や文化だということである。
それは常にその土俵は中国が作り上げた文化であり、ヨーロッパやアメリカの文化だったということである。そこに「追いつけ追い越せ」だから追い越すことはできないという矛盾が起きる。追い越すには今まで取り入れたさまざまな文化を基礎にしたより発展したものを作り上げなければならないからである。
アメリカが世界の中心であるというものが崩れはじめると「追いつけ追い越せ」という目標が揺らいでくる。そこで右往左往し始める。まだアメリカには頼らねばならないがかといって中国も無視ができない。何を「追いつけ追い越せ」でなければならないか。。。。日本はそこに独自性が出ない。
意識では世界一位になりたい。でも一位になる独自性の基礎がない。政治や経済哲学や科学もろもろの文化。。。。。もちろん世界に認められる日本人や文化があるが、それも「世界に認められた・・・・」という形で逆輸入的な評価しかしない場合がある。何か自信というものが出てこない。
うろうろ世界を見回して何かを追い求める中に日本の独自的な良い部分を忘れたり捨ててしまう。追随してその追随したものに限界が来たときもうろうろと見回す。日本的な何が経済を発展させたかとか日本が日本を見ない状態。もちろん悪い面があったけどそこをどう日本的に改善してよいものを残すか。。。
みんなと同じことを言ったりしないと孤立するような世間様。。。。この世間様を作り上げたのも集団的な「追いつけ追い越せ」だったのかもしれない。集団的なものが世間様を作るから世間様から抜け出せない。みんなと違うことが言いにくく、「出る杭は打たれる」的世間様の中のな異端児扱い。
こう書くと日本の独自性が一人歩きをして変な意味での科学性のない精神論的な独自主義が。。。。。今の日本はうまく機能すれば平和的な環境重視そしてこれまでの日本的経済発展のよさを世界に広げるチャンスなのに。それが一番になることなのでは?「学び」を大切にすることと、世界の中で辺境人として生き抜くことは、どうしても「追いつけ追い越せ」というものの中に生きてその目標とするものがなくなったり揺らぎはじめると途方に暮れてきょろきょろとしてしまう。ですから「学び」は大切なのですが、そこには発展性が泣けれなければならないということです。その発展性は日本人が辺境人から抜け出すことにあるわけですが、内田さんの著書では辺境人はそこから抜け出せないので辺境人独自の発展をという結論になります。それが「学び」とは?という考え方にもとうぜん現れてきます。そしてそれは日本のあるいは日本人の特殊性にある精神世界というのか生き方や考え方の中心となっているだろう武士道などの特殊なものをとらえていきます。上にも書きましたが、日本人の偏狭性は、外と内という二面性(極東意識と日出づる国という)に現れているのですが、この外という中の辺境人意識が消えないなら、内である精神活動(物ものの考え方や捕らえ方)からの発展となります。
よく考えると、世界の中心になった国・民俗というのはそうは多くありません。ほとんどの国がその中心となった国から何かを学び血肉としてきたわけです。日本だけが特殊な国あるいは民族ではない。特殊なのは日本人は自らを辺境人として位置づける中にあり、「虎の威を借る狐」的な中での内なる「日出づる国」意識が強いということなのでしょう。ですから発展というものを考えるときには、どうしても日本人が持つ辺境人意識をどこかで拭い去るということで、辺境人は辺境人のままに特殊な文化の中で生き続け発展するしかないということではないと思います。
自己を世界から差別化する。日本独特な日本人しか理解できないものの中に生きるというのもある意味差別化なわけでして、そういう差別化の中の独自性はそれ自体が辺境人ということになります。辺境人なんだから辺境人として発展していこうという内田さんの一つの結論はこのようなものかもしれません。
日本人は古代には中国の漢字文化を受け入れる。しかしその漢字は今でにある外来語をカタカナで表し発音するというものではなくて日本語に当て字をしていく。漢字の音も含めて漢字を崩して平仮名やカタカナを作っていき日本語化した漢字と併せ持っていく。漢字が日本語化した中に外国の精神文化であるような専門的な言葉もカタカナで表すこと意外に日本語の感じとして翻訳していく。その翻訳は外来語の精神をも表現できるものとなる。それがまた日本語として精神面でも定着をする。
仏教が入ってくればすぐに神仏を混合した宗教を作り出し、独自な宗教観を作り、後には諸行無常の鐘を鳴らし、禅宗や侘び寂ともつながり朝鮮半島の茶碗をなでやはり日本の独自な精神文化をつくっていく。
良い悪いは別にして、明治はヨーロッパやアメリカの植民地主義である帝国主義をいち早く取り入れて植民地化されない中に天皇制というものと結びついて独自な帝国主義を作る。
敗戦後はすぐにアメリカの民主主義を取り入れて平和国家となり、産業の復活に取り掛かる。軍隊は世界でも特殊な専守防衛という形をとっていく。産業はまた日本独特な家族主義ともいう米終身雇用制の中でのある意味チームワーク的な形ができる。労働運動や社会主義も平和主義の中でやはり独自な形となり、それはまた日本的な労使関係や55年体制を作って生き産業は発展をする。
このように日本というのは古いものに新しく入ってきたものを相互に同化していくという学びをしてきたのではないか?古いものに固執をしてそれが発展をしていったという形はむしろ稀ではないか?
それは古いものの中に新しいものを入れながら温故知新をしながら発展させたということでしょう。ですから辺境人は辺境人なりに発展をしてきたわけです。ただ足りなかったものが「追いつけ追い越せ」で目先の目標が見えなくなるとまごまごして、上に書いたようなその時々の日本的なよいものを独自に発展させる意識が出ないことです。
ここで日本人の「学び」とは何かということになります。歴史というのはそもそも弁証法的なものです。古いものは保守的な停滞に陥りそこに新しいものが入ってきて内部の矛盾を見えるものとしていき時には闘争となる。その中に矛盾解決の新たな古いものと新しいものの調和としてのものが作られていく。これが発展ですが、新しいものを生み出しそして導入して古いものとの矛盾を解決内部では、その新しいものが古いものから切り離したものとして生まれてきます。古いものを受け継ぎながら否定をする。否定の否定の中に新たな新しいものが生まれてくる。このすべての過程にあらゆる「学び」があると見ることができます。人間は考えます。考えることが学びです。発展自体が学びの結果です。
バネを思い描いてください。そのバネを真上から見ると円になります。そこにある点Aを置きます。そのA点は時間の流れの菜が運動をして円の上を移動します。そしていつか1週して同じ出発点に戻ります。
バネを真上から見るとただA点が1週しただけですが、これをバネの真横から似たらどうでしょうか?出発点はある点としてしか見えないものだったのですが、バネを横から見ると側面を縦に走る線となります。Aという点はその出発点から移動をするわけですが、A点が1週するということはバネで見れば出発したところよりも一段上のところに移っています。そうするとAという点は同じAという点であるが一段高まったところに位置するという意味では違うA”という点になっています。A点は同じA点ですが同時に違うA”になっている。高い位置を発展とするならば、A点は同じA点ですが発展したAだということになります。古いA点でありながらそれをを残しながらも発展したA点に新たなものとして存在する。学びというものもこれと同じではないでしょうか?
ある人が武道の極意を学びたいと思う。その人は空手と合気道を間違えることはあっても日本舞踊のお師匠さんの門はくぐらない。なぜかといえば武道を学びたいというその人の中には幼稚ともいえるようなものでも武道というものとは何かという学んだものが古い土台としてあるからです。そこで武道を学んで新たな武道というものの学びに入るわけです。オギャーと生まれたときの動物本能からはじまってまるっきり無からはじまることは学びにはないです。
人は時々生まれ変わったと意識する瞬間や、悟ったというような瞬間があるといいます。それはまるで別人になったという感覚でしょうが、やはりそこでもそれまでの古いものが土台になって発展した中での生まれ変わりです。
カントになくヘーゲルにあるものはこの発展ではないでしょうか?
この発展を日本人はうまく行ってきたというべきではないでしょうか?学びの中から。
日本は世界第二位という経済大国にもなったし、海外に行けばノーベル賞もとったりその世界で一流なものとして認められる。この中で辺境人意識が抜けない。ですからこの辺境人意識は発展性があるというものを意識しない中にあるのではないか?または、外へのこの極東意識と内での日出づる国や島国根性というような内部に生まれるものを古さから開放しないというこの二面性が辺境人意識を続けていると見たほうがいいのではないでしょうか?今、日本でも権威とかいろいろな古いものが崩れ去っていく過程に入っているようですが、この古いものの中から何を守り何を捨てるかを発展の中に新しいものを見なくてはいけないということでしょう。それを今までの歴史の中に無意識としても行ってきたのですから。新自由主義がいいとそこに走る。今までの日本的なものはすべて間違いと位置付ける。ここには新しいものを受け入れる意味がなくなるわけです。まったく違う日本を作るということに形而上学が見えます。
【2012年】ツイッターつぶやき
春闘が始まりました。とはいっても昔のような盛り上がりはありませんが。。。。。
それでも春闘は労働者の生活を守るための大切な闘争です。今は連合も組織率も下がって大企業や公務員が中心になっていることがさらに顕著になってしまいました。しかし春闘の妥結高はある程度社会全体への賃上げの影響力は残っているのではないでしょうか?しかし今の格差の中、なかなか社会全体へ影響を及ぼすことも難しくなっているのでしょう。連合も非正規社員の賃上げや最低賃金引き上げの要求も出していますが、今の春闘の実態からしてこれもまた難しくなっています。
今春闘では、連合は賃金の総額1%上げをうったえている。一方経団連は定昇延期・凍結を言っている。「賃金の総額1%上げ」とは毎月の賃金だけではなくてボーナスの率のアップ分も含めた総額ということでしょう。これまでは昇給プラス〇円といった賃上げと臨時給(ボーナス)の率のアップを要求してきたものですので、今回の要求は相当抑えた要求ということになるでしょう。それに対して経団連は定昇すら凍結をすると。定昇は社員募集時に「定昇あり」といったような企業の社員への約束事でもあるが、「定昇をひたすら守っていてグローバル競争に勝てるのか」(朝日新聞3面より引用)とある意味開きなりを見せている。
相当厳しい春闘結果になるのではないかと思います。それでも今までの経営側は企業業績による賃上げを言っていたわけですし、今でもそれに変わりはないでしょう。企業による賃上げの格差も出るかもしれません。
停滞する春闘。。。。
これを打破するには何が必要でしょうか?
1%要求はしながら、何かしら社会全体の要求を吸い上げた政治性の高い春闘が必要になってきているのではないでしょうか。それは格差の是正でしょう。連合組織が大企業と公務員の組織になっている(もちろん産別内には小さな企業もあるが)中、賃上げといっても今の社会で賃上げか?という労働者内からの反発(たとえば非正規社員やパートなどの労働者から)も危惧されたりします。その中で1%要求とプラス何を要求したらよいのでしょうか?
労働者全体の賃金の底上げです。そして国の財政からの社会保障の充実です。
これを行うには今までも書いてきたように、企業が労働者の労働力を買ったときにも消費税を納めるようにすることではないでしょうか?これを政治的要求として行う。
賃金に消費税がプラスされるわけです。そしてこの消費税のうち年収200万か300万ぐらいにかかる消費税部分(200万円なら10万円、300万円なら15万円)を労働者の益税とし、残りを国に納める。この中で実質的な賃上げと同じ作用が起こりますし、国の財政にも入っていくわけです。
経団連は消費税10%という増税を歓迎しています。もちろん企業も消費税を支払うわけですが、それは商品の値段に含めたり下請けから買い叩いて消費税分を安くさせるなどのものが予想されます。また輸出企業は輸出戻し税というものもあり輸出企業はその痛みは軽減されると言います。
そのような中、労働力を買っても消費税は払わないといった不公平さが残っているわけです。もちろん零細企業などの苦しい企業もあるわけですから、消費税を還付するようなものは必要ですが。
企業側にもこのような要求を出すことは、春闘に加わる一部の労働者の賃上げにとどまらない社会全体の要求として組織できるのではないでしょうか。
春闘は「国民春闘」として闘われた時期があります(今でもこの言葉は残っているでしょう)。もう一度国民的れっべるの理解を得た春闘を作り直さねばならないでしょう。連合が民主党にすり寄っていますが、その民主党がまた変質してきました。政治闘争を民主党の応援というだけでは済まされない実態にあります。広く国民を組織できる要求作りの中、独自の政治闘争を組織していくべきでしょう。それは様々な問題(たとえな脱原発や平和など)を考え要求していく必要も出てきます。その中で労働者だけではない農民や知識階層等等との今の社会で苦しめられているすべての階層との統一戦線につなげなければならないでしょう。
国民生活間ますます苦しくなるのは今の国会の議論を聞いていてもはっきりとしています。
ますます国民の連帯の条件は生まれてきます。しかしもちろん今の政治はそれを分断しようとします。だからこそ国民的要求の組織化が必要なのです。
【2013年】ツイッターつぶやき
政府の2013年税制大綱が出た。
消費税が来年には8%となり15年には10%に段階的に引き上げられる。この消費増税には一定の景気回復が条件であり、安倍内閣は成長路線を打ち出して日銀をねじ伏せて2%のインフレ目標を立てた。日銀による市場への貨幣量を増やす中でその資金をどう企業活動に入れていくかが課題で、税制大綱もその線に沿って税制からこれを後押しをしようとするものでしょう。
税制大綱では「成長による富の創出に向けた税制処置」として「民間投資の喚起」を大きく取り上げています。研究開発での減税や設備投資への減税を行い、日銀の資金を企業が活用するように促しています。また企業の投資を促すためには消費がなければならないわけですから自動車税関連や住宅ローン減税の延長を行う。大綱では同時に「人材育成・雇用対策」のための減税も行いますが、雇用対策も企業の成長を待ってという形でしょう。そして賃上げは1千億円の企業減税によって。
所得税では4千万を超える高所得者への増税はありますが中間層以下の減税はありません。消費増税時の食料品などと考えられる軽減税率は10%時にと後送りになりましたし、一般的な庶民生活は苦しくなることが目に見える税制大綱でしょう。
企業優遇と庶民生活の低下を対向には見ることができます。
これが安倍内閣の税制から見た成長路線なわけです。
これまでの自民党の政策の基本である企業を支えることによる景気対策が安倍政権にも露骨に表れているといってよいでしょう。
税と社会保障の一体改革がどうなるのか?消費増税は社会保障のためといった基本は野田政権当時から揺らぎ始めていますし、消費増税は景気回復のためといったあるいは公共事業にといったものに変更されるか、国家財政のためには10%でも足りないという議論もあります。
企業優先でその企業が利益を回復させても雇用増(正社員増)や賃上げには結びつかない状態が以前から続いています。政府の政策にもこのへんの改善に向けた具体的なものはないといった状態でしょう。
【2014年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2015年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2016年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2017年】ツイッターつぶやき
今日のツイートから。。。。。
オバマ政権を知性派、トランプ政権を反知性派と仮定するならば、このどちらを支持するかがアメリカの二大政党制です。一党独裁という矛盾が言われますが、この二党独裁もまた矛盾を抱えるようになってきました。
ある学校で学級委員の選挙がありました。立候補したのは知性派で頭もよいしスポーツもできて先生にも気に入られている。もう一人立候補したのは反知性派でクラスの番長的な子でした。しかし知性派の子は建前では良いことを言うのですが、陰ではクラスの子をいじめていた。
反知性派の子は見たからにクラスの子をいじめていた。
知性派の子が反知性派の子に対して「君は暴力的でだめだ」と。しかし反知性派の子は「お前だって陰でいじめしているぞ。これからは本音でクラスの中でやっていこうぜ」と。さて、クラスの子供たちはどちらを支持すべきか?
どちらも支持はできないのですが、二者択一でしか判断できない。そのとき、クラスの中でおとなしくていつも一人でぼうっと考えている子が、「じゃぁ。僕もいじめをなくすために立候補するよ」と。すると周りの多くの子供たちが笑いながら「お前は引っ込んでろよ」と。先生も笑った。
でも、2,3人の子が第三の意見もあるんならいいじゃないかと。すると知性派の子も反知性派の子もそして多くの子も、お前ら3票か4票でもいいなら立候補しろよと。先生も「あまり多く立候補が出ると、少数派だし、クラスが混乱するね」と。
そして選挙は終わって反知性派の子が勝利をした。。。。知性派支持者の子も先生も顔が青くなった。。。。
アメリカだけではなくて、日本も他の先進国も、たとえ話ですが、この子供たちのクラスと同じ状態になっているのではないでしょうか?
先生の役割をするのは、司法であり日銀であり、すべての専門分野の知識人であったり、マスコミであったりするわけですが。。。。
【2018年】ツイッターつぶやき
gooお題「夏が好き?冬が好き?」
今、日本に大寒波が来ていて雪の被害も大きくなっています。
ですからいま冬が好きという方は少ないかもしれませんね。もちろんウインタースポーツの好きな方や冬ならではのものが好きな方は別としても。
僕自身としては、どちらかと言えば夏が好きです。
布団の上げ下ろしも楽ですからぁ・・・・・・
冬になると、「やっぱり夏の方がいいようなぁ」と家族に話することがありますが、夏の暑い最中に「やっぱり冬の方がいいよなぁ」と話するのは皆無ですし。
極端な暑さや寒さを除外すれば、それぞれにいいところもいやなところもあり、その中で季節を楽しむわけですから好き嫌いというよりもどちらが季節を楽しめるかという事になると思います。上にも書いたようにウインタースポーツが好きな方ならば冬の良さをいっぱい知って楽しめるわけです。
人と人との関係もすべて同じですね。好きか嫌いかはそうは簡単には決められません。
今の社会は嫌悪や差別とか、好きか嫌いか、日本を応援するかしないかなどといった勘定感情で動くものになってしまいました。理屈や討論話に。だから政治も数の力などの力が優先して民主主義まで否定する人が増える。
先日書いた「資本主義は眠りにつく」の続きです。
企業間競争は特別剰余価値の生産を目指す。生産技術を高めて同じ労働力量でより多くの商品を生産しようとする。言い換えれば同じ商品量を生産するのにより少ない労働力量でそれを行おうとする。
すると、必然的に資本の有機的組成に変化をきたし、可変資本(賃金)よりも不変資本(生産設備など)が増加する。
この資本の有機的組成が高度化すると何が起きるか?
同じ労働力量でより多くの商品が生産されるのでその商品は価値低下を起こす。特別剰余価値を企業が求めるのがなぜかという事は、資本の有機的組成の高度化によりより安くなった商品を市場においてより千三世の悪い企業の高い商品と同じ値段で売れるからである。あるいは市場での独占化のために値下げ競争を行えるからである。
言い換えれば企業間競争による資本の有機的組成の高度化がある産業において進めば商品価格は下落して企業の利潤率は下がるのである。ただし搾取率は一定として。
現在デフレが問題視されている。上記した資本の有機的組成の高度化による利潤率の低下が全産業にも及ぶと社会全体においてあらゆる商品価値が低下をして価格は下がり続ける。競争の弱い企業はさらに利潤を犠牲にして価格競争に参加せざるを得ない。これは、生産業におけるロボット化というコンピューターと精密機械が結びついた生産性の向上による。
日本はこの利潤率の低下を海外の安い労働力と国内の低賃金化(派遣労働制名の働き方も含めて)により搾取率を上げることで克服しようとしてきた。
搾取率が一定であっても商品価値は落ちるところをさらにこの搾取率を高める中で商品価値を下げようとした。その中で一定の企業利益を確保してきた。
このような状態でさらに企業利益を確保するために行おうとしているがIT革命である。これは技術者あるいはトラックや鉄道の運転などの労働力を削減する中で、またそれはホワイトカラーの削減でもあるが、この部門での資本の有機的組成の高度化による特別剰余価値を得ようとしている。
同時に過労死労働法案や残業代ゼロによる搾取率を高めようとしている。
国際的な企業間競争は熾烈となるでしょう。
しかしこのIT革命における資本の有機的組成の高度化が何を招くかと言えば上記したように企業の利潤率の低下であり、商品やサービスの価値低下による価格の下落である。
資本主義的経済は眠りにつく。
しかし、日本の特殊性は搾取率を高めることが容易になっていることにある。これは企業利益を上げるのだが、デフレになれば絶対的な消費の低迷になるでしょう。リーマンショックからもいまだに抜け出せない原因です。更なるデフレ不況には体力は残っていないでしょう。
【2019年】ツイッターつぶやき
a title="ウウウ・・・・・" href="https://blog.goo.ne.jp/yuura2/e/206208d98bf741c7dc1b27132095706b" target="_blank">ウウウ・・・・・
ううう・・・・
風邪がよくなりません。明日も医者は休みなのでこのまま治してしまおうかと思っています。
夕方になると38.5度ぐらいまで熱が上がります。インフルエンザかな?
人間が持つ治癒力を信じてこのまま様子を見ます。
夕方、あまりにも寒気がひどいのでホットはちみつレモンを作りました。
はちみつレモンといっても売っているものではなくて、レモンを絞ってはちみつを入れて熱いお湯を注ぎました。熱い風呂から出たらほっと生姜レモンでも飲んで寝ます。
そういえば昨夜は熱が高かったのでしょう、汗がひどかったです。
汗が出れば治るのも今少し!
【2020年】ツイッターつぶやき
中国武漢の新型肺炎は拡大してきましたね。
すでに50数名がなくなっている。
そして中国全土とアジア周辺国に広がっている。
日本でも3人でしたっけ、感染者が出ている。
これで急激に日本でも広がればオリンピックどころではなくなるかもしれない。
中国は団体旅行での出国を規制しはじめたようですが、中国人の爆買いを中心とした外国菱光社の国内消費を当てにする日本は厳しくなるでしょう。
鳥インフルエンザ(サーズ)の薬もまだ難しいようですが、新型肺炎も時間がかかるかもしれませんね。
いつ頃からでしょうか?抗生物質という薬ができたのは。
ネット上でもこの抗生物質と細菌やウイルスとの変異のイタチごっこだと読んだことがあります。
また抗生物質の残りを捨てたりすれば細菌が抗生物質にも強くなるともいわれています。
抗生物質に強くなった細菌やウイルスにはさらに強い薬が必要になり、それは人体が耐えきれなくなるかもしれない。
たしかに抗生物質で救われた人の命は多いでしょうが、しかし抗生物質のような薬に頼っていられる状態ではなくなっている。
人の社会は人体に悪い影響を与える化学物質が蔓延している。
それもがんという病気を以上に増加させているのではないかいと思います。
禁煙運動が盛んですが、禁煙が進めばがんがなくなるわけではないでしょう。
外国人観光客の爆買いに頼らざるを得ない経済。これも一つに矛盾で新型肺炎が入ってこられては大変だが、中国人が落とす金はもっと必要だ。こういうジレンマが日本社会には表れている。有害物質は困るがそれが亡くなれば経済が成り立たない。。。。。これもジレンマですね。
薬やワクチンを開発した製薬会社はすごい利益を生む。これが起爆剤かもしれませんが人が作り出す強い菌をまた作り出すようでは。。。。
【2021年】ツイッターつぶやき
「イオンは、勤務時間中を禁煙にするほか、出勤前や休憩から職場に戻る前の45分間もたばこを吸うことを禁止にします。」(日テレNEWS)
出勤時間45分前及び休憩時間も「実質的に喫煙できなくなる」ようです。
「実質的に喫煙できなくなる」というのは、いくら企業でも合法的な禁煙を露骨に強制できないでしょうから敷地内禁煙や休憩時も喫煙後45分は勤務できないのですから実質上の強制禁煙です。就業時間中だけではなくて出勤の45分前は喫煙禁止ですから従業員の私的時間にも立ち入った強制禁煙です。休憩時間も就業時間内とはいえ昼食後も働くために心身ともに休息をする権利が労働者にはあるはずです。私的時間とは言わないですが、拘束内でも個人的に自由にできる時間です。
このように企業の実質的な禁煙の強制は合法的な喫煙の自由を損なうでしょう。分煙などの処置を行うことは良いとしても強制の禁煙は許されるのか?
禁煙運動も露骨な力による強制禁煙に動きはじめました。
【2022年】ツイッターつぶやき
コロナ感染拡大防止に対して国はまん延防止を出すだけでほぼあとはマスクをしなさい程度で国民に対しては自己責任で感染防止をうったえているだけでしょう。飲食店の営業時間短縮はありますが、人の社会活動の中ではごく一部の行動パターン日舞であり、オミクロンの感染力に対しては焼け石に水です。
一方感染者に対する濃厚接触者の判断も感染者個人が濃厚接触した人に伝えるというようにこれも自己判断自己責任です。COCOAなんてものは何の役にも立たない。
感染してしまって症状が出ても医療機関での検査はできずに自腹で検査キッドを買って検査をしてから受診。これも自己判断自己責任です。
国や自治体はオミクロンは重症化しないという点に胡坐をかいてしまっているのか?
しかし最近はデルタ株がまた拡大しているというニュースやオミクロンの変異株も言われています。
ワクチンの効果も期待はできない。医療は崩壊をしている。
結局科学の敗北です。
自己判断自己責任は社会活動に対しても影響してくるでしょう。
自己責任は体がもつ自然免疫を高めるしかない。栄養のあるものを食べて必要最小限での労働。
【2023年】ツイッターつぶやき
時々味噌ラーメンを作ります。といっても市販のスープの素を使いますが。
ひき肉と野菜をさっと塩コショウで炒め、お湯とスープの素を入れて温めます。
どんぶりに長ネギのみじん切りを入れておきます。ほんの少し隠し味程度のニンニクを入れることもあります。
麺が茹って来たらどんぶりに先ほど作ったスープを入れてその上にひき肉や野菜を乗せ七味をぱらっと。
今夜テレビを見ていたら、本場の札幌味噌ラーメンをやっていましたが、中華鍋一つでひき肉や野菜のスープを作っていました。
味噌ラーメンも醤油や塩と同じようにどんぶりの中に味噌とスープを入れて作る店がありますが、これは本来の札幌味噌ラーメンではななさそう。。。。
僕の作る味噌ラーメンが本格札幌味噌ラーメン?(笑)
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