国会も選挙で多数になれば後は数の力で何でもできるとというのが民主主義のようになっています。昔から学校でも多数決で決めるが民主主義でした。
こういう社会ですから、「みんな」が正しさになってしまいますね。
会社でもみんなが定時に帰っていないとか、休暇を残しているとか。そのみんなの中で自分だけ提示に「失礼します」と替えうわけにはいかない。「みんな」に縛られているわけです。
正しいか正しくないかではなくて、みんながどう思っているかが問題になる。
みんな自体も抽象的であったりして、議論の中で「みんなもそう思ってる」とか「みんなも言っている」とかわけのわからない抽象性に惑わされてしまいます。
「池の上に月が昇る
その池に写る月は現実の月ではない
しかし現実の月を写したものであることでその池に浮かぶ月も現実である
人間の過去もすでに現実としては存在しない
しかし過去の時間の中で現実であった」
こういう社会ですから、「みんな」が正しさになってしまいますね。
会社でもみんなが定時に帰っていないとか、休暇を残しているとか。そのみんなの中で自分だけ提示に「失礼します」と替えうわけにはいかない。「みんな」に縛られているわけです。
正しいか正しくないかではなくて、みんながどう思っているかが問題になる。
みんな自体も抽象的であったりして、議論の中で「みんなもそう思ってる」とか「みんなも言っている」とかわけのわからない抽象性に惑わされてしまいます。
「池の上に月が昇る
その池に写る月は現実の月ではない
しかし現実の月を写したものであることでその池に浮かぶ月も現実である
人間の過去もすでに現実としては存在しない
しかし過去の時間の中で現実であった」
「9月12日という日」
【2018年】ツイッターつぶやきハフィントンポストに「”みんな”って誰だ?「個の時代」の先にある第三の”みんな”」という記事があった。この記事の中身についてはまた読み返して考え......
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