【2023年】ツイッターつぶやき
アメリカでは、返品送料は企業が負担するのでしょうか?
この返品送料と変わらない値段の商品は返品なしで返金をするそうです。(ロイター)
たしかに送料まで支払って、返品された商品は売ることはできないのですから、返金だけをする方が企業にとってはよいのかもしれませんね。
そういえば、ツイッターにフロリダの方だったか?一定の額以下の商品を万引きしても警察は捕まえないそうで、下手に捕まえれば逆に訴えられるとか。堂々と盗んで出ていく。
経済的損得で人の善悪に影響するような社会はよくありませんね。
返品なし返金も悪用を心配されているようですが、ブランクマンデーのセールで大量販売をしても返品が50%を超える社会というのも怖いですなぁ。
そういえば、日本でもフォーマルの洋服を買って、1度着ればいらなくなるので7日以内に返品というようなことがあるそうです。
資本主義的共産主義がくすぶっている。
≪過去の記事≫
【2003年】
「溺レる」
文春文庫
川上 弘美 著
川上さんの作品ははじめて読みました。
ものすごくアクの強い作品です。そのほかの作品も同じなのでしょうか?
「溺レる」他、7つの短編からなっています。
どの短編も、愛欲、飲食、排泄と、人間の欲望がむき出しとなった作品です。もうひとつの主題、「死」もある意味では人間の欲望となりますが、作品中にも死がひとつの欲望として表れているのではないかと思います。
すべての短編に共通するのは、ある過去を背負った男が過去を捨て、捨てるというよりもその現実から逃げています。そしてその男にはっきりとした愛情がないままについてくる女です。二人は現実というものから逃げているわけですから、社会の中で孤立をしている。なんとなく寄り添うものは二人というお互いどうしである。
この狭い中に二人は「生きている」。食べるために働くという最低限の現実とのかかわりのほかには、自分たちが生きている証はその動物的な欲望だけである。短編ごとにいろいろな性が描かれている。よく食べてよく飲む。排泄・嘔吐などという恥ずかしさは、お互いの関係の中で当たり前のようになり、動物的な獰猛さも描かれる。これがまた愛欲に結び付けられる。
このような動物的な「生きている」状態の中に、ただひとつの人間的なものを持つ。それは、自らの命を自ら絶つという人間的なものだけである。
動物のように、本能的な欲望だけに生きている中にそれは人間としての死と同じ状態を見る。生きていても死んでも二人にとっては同じである。読む者も生と死の境界を感じなくなる。
「百年」という短編の書き出しは、「死んでからもうずいぶんになる」と書かれ、「無明」には、「トウタさんと連れ添ってからじき五百年にもなろう」とある。
「百年」は、心中をした女だけが死に、相手の男は生き残って平凡な生活を送り、女は意識だけがこの世に残って男の一生を見送るというものである。その二人の過去は、やはり動物的な本能だけの二人であった。女にとっては生きているのも死んで見届けているのも同じである。「無明」は、情欲の果てに永遠ともいえる命を持つことになった二人である。やはり生きているのか死んでいるのか、「百年」の女のように意識だけがこの世にさまよっているのか、本当に生があるのか判然としない。その意味で生きているのも死んでいるのも同じである。
このような生、動物的な本能は生の根本である。同時に「人間性という皮」をかぶってこそ人間の生である。このへんを強く感じました。
この「人間性の皮」については、トップページの「ちんまりと」に書いておきました。よろしければこちらも読んでみて下さい。
さっき買い物に出たら、半そで一枚でランドセルをしょった子供がいました。
見ている僕が寒くなってしまいました。
11月に入った秋、大人たちもいろいろな格好をしていました。まだ薄着の人や、気が早く本格的な秋の格好をした人。さまざまでした。
暑さ寒さも個人差があります。まあ、女性はファッション性が一番大きいかな。
【2004年】
昨日の日記、キリストの復活は、春分の後の復活祭でしたね。。。
週末は東京も天気が崩れそうです。乾燥状態が続いていますので少しお湿りもいいでしょう。風邪も流行っていますし。
そういえば、東京では過ぎ花粉症が出ているようです。僕も時々くしゃみが出ます。
春先のスギ花粉ですがなぜこんな季節に?と不思議です。植物は自然災害に敏感だといいます。地震の前には竹が花を咲かすとか。。。。スギ花粉も不気味です。単なる異常気象の影響だけならいいのですが。
【2005年】
「晩鐘(上・下)」
双葉文庫
乃南 アサ 著
「風紋」(上・下)の続編である。
「風紋」が発表されたのが1994年。そして「晩鐘」は2003年に発表された。「晩鐘」は、「風紋」の中に登場した人々の7年後を描くが、乃南さんご自身も「風紋」を発表してからちょうど7年を隔ててこの作品を書いたことになる。乃南さん自身の時間の流れと「風紋」に登場した人々とは時間の流れを共有している。ちょしゃである乃南さん自身もこの7年という時間の中で変化したであろうし、その変化の流れの中に「晩鐘」もあるのかもしれない。ある作品に登場する人物と著者とが同じ時間の流れの中に変化して続編を書くといくということに著者の思い入れを感じる。
僕は、約半年という時間をおいてこの両作品を文庫という形で読んだわけだが、乃南さんファンは、発表直後の単行本で「風紋」を読み、そしてやはり7年という時間をおいて単行本で「晩鐘」をお読みになったことと思う。その意味では、読者も自分の7年という時間を「風紋」の登場じんぶつと乃南さんご自身とこの7年という時間を共有したのであり、7年という時間の流れを読者自身の日常の流れに感じ取り、実感を持って時の流れを感じつつお読みになれたのではないかと、少しうらやましい思いが沸き起こりました。
これから「風紋」と「晩鐘」を読んでみようという方がいらしたら、最低でも半年から1年ぐらいの時間をおき、「風紋」の細かなところを忘れかけたときに「晩鐘」をお読みになることをお薦めします。
新聞記者建部は、7年前の事件の被害者の娘である高校生であった真裕子を思い出し、変わってしまった加害者の妻香織の7年前の姿を思い出す。そしてその7年という時間の重みを成長過程の早い子供である加害者の息子大輔に目を見張り感じる。こんな建部の思いを「風紋」を読み終わってからしばらくして「晩鐘」を読んだほうがこの「思い出」あるいは「変化」を感じ取りながら読めるのではないかと思う。
7年という時間は長いのか、短いのか。
真裕子の母親則子が、真裕子の担任でもある教師秀之に不倫の果てに殺されたという衝撃的な事件も世間では「ああ。。。そういう事件もあったなぁ・・・」というぐらいに風化をさせる時間である。その意味では長い時間である。新聞記者建部も深く事件にかかわったとはいえ、7年の間には東京本社から長崎支社に都落ちをし、結婚はするがすぐに離婚と、様々なことがその私生活には起こった。その意味では長い時間だったのかもしれない。しかしそうのような世間の中にあって時間が止まってしまった人々がいる。真裕子は、母親の死をいまだに受け容れられなかった。妻の死を忘れたかのように再婚をした父。そしてあんなにも母親に心配をかけた姉も母を忘れたかのように結婚をして子供もできた。その中にあって真裕子自身だけの時間は止まったままだった。真裕子にとっては、7年という時間が長いのか短いのかという簡単なものではなくて止まった時間の中に生きざるを得なかった。
加害者の妻香織や義弟にとっては、世間という空間の中で必死に生き抜くことしかできなかった時間であり、7年をいう時間はどうだったのだろうか?毎日を必死に生き抜くことしかできなかったならば、やはりあの事件以後の時間は止まったままだったのかもしれない。
そして秀之は。。。。
しかしこれは大人の中に流れる7年という時間の流れである。
加害者の息子大輔、娘絵里という子供達の成長の中においての7年という時間は、まるで霧の中に見る風景のようなほとんど記憶のない世界から今ある自分を見るしかないのである。長崎に住む祖父母に育てられなぜ両親がいないのか、隣の叔父夫婦や従兄妹たちにいじめらられなければならないのか、何一つとわからない今という時間におかれる。
このように「風紋」の登場人物はそれぞれの7年間という時間が通り過ぎた今に生きていた。
そんなある日、大輔の従兄弟歩が殴り殺されるという事件が起きる。
犯人はすぐに捕まりこれという大きな事件としても扱われないほどだったが、長崎支社にいた建部は、取材先の歩の葬儀に来ていた香織と偶然に再会する。建部は7年前という時間に引き戻される。偶然過ぎる偶然。。。そして建部は香織と一緒にいた大輔に事件とのかかわりを直感する。
ここから「晩鐘」は始まる。
主人公は25歳になった真裕子であり、副主人公は10歳になる小学生の大輔。そして2人をつなぐ建部である。この3人が語るように作品は進んでいく。歩が殺され事件を追うが、それはきっかけだけであり、流れはやはり「風紋」が描いたように被害者の家族と加害者の家族の物語であり、それ以上に真裕子と大輔の中に現れる精神面での葛藤を描く。そして建部が追う世間というものが2人に絡み合い、建部と真裕子の愛を描く。
7年前の事件は、まだ高校生であり母親に甘えながら相談もしたい年頃の真裕子にとっては、心に大きな傷を残し、その傷は、周囲の人々との間に摩擦もおき、真裕子自身も嫌な性格と思うほどに心を殻の中に押し込める。大輔にとっては7年前の事件は、そのときの母親香織に苛立ちの様子をおぼろげながら覚えているぐらいで、その母親も今になっては叔母という形で現れるだけである。しかし記憶にないにもかかわらず7年前の事件により大輔を邪魔真にする叔父家族の仕打ちにそして両親が誰かわからない不安の中に心を傷つけられている。体は大人並だが心はまだ幼さを持つ。
アダルトチルドレンとは
インナーチャイルドとは
僕のホームページからリンクさせていただいている「窓際主夫のひとり言」という窓際主婦さんのブログで、このアダルトチルドレン、インナーチャイルドという言葉を知ったが、ネットで調べているうちに、真裕子や大輔の中に7年前の事件という心に大きな傷を残したことによる心の障害が出ているのではないかと思う。
真裕子は、母親が殺害されたことでまだ甘えたい相談したいと思う母親から強制的に突き放される。父親は不倫をし、姉は家庭内暴力で母をないがしろにしているという意識が持っていた。そして母親の死体をはじめに警察で確認したのは真裕子一人であり、父親も姉も帰ってこない夜を過ごす。母親でさえ不倫の中で殺された。母親の死後は、真裕子に家事の重みが襲ってくる。高校生というまだ母親に甘え、父を頼りにしたい年頃の7年前に真裕子の時間は止まってしまい、心も取り残されてしまう。ここにアダルトチルドレン、インナーチャイルドという症状を見ることができるのではないか?たしかに虐待ではないが結果としては心に多くの傷を残したという面では虐待に等しい。
大輔は、よい子を演じる。わけもわからないのに両親がどこの誰だかわからない状態に置かれ、母親の実家に住むが同じ敷地内の叔父家族からはないがしろにされて育った。早く大人になりたい。病気がちの妹を自分が父親となり守ってあげたい。しかしまだ子供であり自分自身をも守り生きることもできず、ましてや妹を守ることもできない。今は良い子を演じるしかないのである。この早熟さは心だけではなく体も大人並になっており、女を知ってしまっている。しかし心の中には幼さが残り、今の自分を否定をし、雨の吹き付ける夜のガラス窓に写る自分の顔を見てその写った自分が別の世界にいて幸せな子どもとして生活していることを想像する。大輔はまだ子供だが、ここにアダルトチルドレンやインナーチャイルドの傾向を見ることができるのではないか?子供のこのような症状にはまた違った臨床名があるかと思うが、僕にはわからない。しかし、真裕子と同じような心の障害を持つことは確かではないか?
「晩鐘」は、この二人の心理と心の葛藤を描き続けたといっても過言ではない。
建部は、香織と再会をし、真裕子とのメール交換を通して、接触しながら加害者家族・被害者家族のその後を追うルポ「連鎖」を連載し始める。これは、僕の「風紋」の感想として異界ために見えぬ「世間というものが犯した犯罪」を世間に問うという正当でもあり正義でもあるルポであっただろう。この意味においても「晩鐘」は「風紋」の続編なのであり、建部という記者の目で見た被害者家族・加害者家族の描写が全体の中に貫かれている。
このように、この作品は真裕子と大輔の心理と心の葛藤を描きながらそこに建部の記者の目が加わり一つの結末を迎えていくのである。
その結末の一つは、真裕子と建部との愛である。それは同時に真裕子の心の開放でもある。
真裕子は、事件のすべてを知り昔の自分を知り理解してくれるたった一人の人間である建部を慕う。しかし建部もそうは強い人間ではない。真裕子が支えなければ崩れてしまうような弱さを持っている。そんな建部を支えなければという意識が出たとき、愛となる。同時に、父親の再婚相手には10歳の連れ子が居り、真裕子にとっては突然の義弟となり現れる。少しづつ打ち解ける中に、その義弟に真裕子は母性で接するようになる。真裕子は、建部を愛し、義弟を愛しむ中にアダルトチルドレンやインナーチャイルドと思われる心の傷を癒していく。この過程に流れる真裕子の変化は温かみのある幸せを感じるものとして描かれ、読者もほんのりしてしまうだろう。
しかし建部は大輔ともかかわるし、大輔を心配する。
しかし。。。。
この結末は書かないほうがよいだろう。
真裕子の幸せに涙が止まらないだろう。同時に大輔の結末にも涙が止まらないだろう。
この大輔の結末に対しての涙は、悲しさでもなく苦しさでもない。やるせない気持ちからの涙だと思う。
7年前という時間は取り返すことができない時間である。その時間の流れの中に常に流れる「連鎖」。この連鎖を断ち切れないやるせなさである。建部にも新たな不安が漂う。真裕子が結婚後に植物を育てる仕事をしたと言い、どこか田舎のほうでできれば幸せだというが、建部は心のかなで「そんな田舎にいくということは、俺にとっては左遷だ」と思う。これが事実となることを暗示をする思わぬルポ「連鎖」の影響を世間がどう見るのかという不安を読者は抱くだろう。出所していた秀之。。。秀之と大輔は接触していた。秀之は大輔の結末に涙する。その涙は憎しみかもしれない。建部と真裕子の幸せは。。。
こんなことを思い描くことができる結末であり、ここにもやるせなさという涙が出てくる。連鎖は続くのである。「風紋」から「晩鐘」へ、「晩鐘から」から。。。「晩鐘」も続かざるを得ないだろう。
【2006年】
昼時、ファーストフード店に行った。
「いらっしゃいませ!!」「ご注文は何にいたしましょうか」
「○○をください」
「はいかしこまりました」
(たのまれたのをそろえながら)
「ご一緒にお飲み物やポテトなどはいかがですか?」
「・・・・・」「じゃァ。ポテトをください」
(ちらっとポテトのほうを見て、明るい声で)
「ポテトはしなぎれです!!」
「・・・・うううう」
接客マニュアルの落とし穴ですなァ。そして在庫管理の強化の落とし穴でもある。
今、この日記を書いていて「マニュアル」という言葉が出てこなくてイライラした。最近こういうことがよくある。。。。単語が出てこないイライラというのはどんよりしますなァ。イライラすると胃がきゅ~っとなる。本と体に悪いです(笑)
そういえば、さっきまで手に持っていたものをどこかに置き、さて使おうかと思ったらどこに置いたのかがわからなくなるイライラも。。。。。「さっきまで持っていたんだようなァ。。。。もうっ!ムカ」これもまた胃がキリキリと痛む(笑)
あと、目の前にあったにもかかわらず、一生懸命に探し、あきらめた頃に目の前のものが見えたとき。。。
なんかこういうのも老化なのかな?それとも考え事をしていて集中が足りないのか?
【2007年】
(記事なし)
【2008年】
(記事なし)
【2009年】
(記事なし)
【2010年】ツイッターつぶやき
一部高速道路の無料化を「社会実験」という言葉で現していたように思う。
高速道路料金については、土日・祝祭日は1000円というものが来年なくなるようで、その後は検討中らしいが、すべての高速道路無料化というマニフェストはチャラになり、車種による上限が新たに検討されているようです。軽やエコカーは1000円、その他の普通車は2000円が上限に。予備曜日に関係なくということは平日も?
3歳以下の子供に子供手当て。これもマニフェストがチャラになった中の代案ですが。
そのほか政府によるいろいろなバラまきが行われていくわけですが、これが一つの社会実験となることはたしかでしょう。
また、「休暇分散化」というものも検討されていたようですが、休む日を分散化させることによるメリットやデメリットが。これもまた社会実験でしょう。
さらにこの社会実験というものがすすむと、医療費や教育といった国民生活になくてはならないものの無料化にすすまざるを得ません。それが社会民主主義という社会実験にすすむ。
そうなると国の財源が問題になり、消費増税が出てくる。
そこで社会実験ですが、以前にも書いたように労働者の労働力を買ったときにも5%の消費税をかける事が検討されてもいいのではないでしょうか?企業は個別の競争からはんれて平等な支出となり、賃上げを形を変えたやり方でできる。この消費税には益税を設けたり、中小零細企業には還付も必要でしょう。これにより個人消費は増えるわけです。
今アメリカが40兆円・ものバラマキをして個人消費がクリスマス前に伸びたといいますが、これまでの日本の景気対策と同じように早ければクリスマス後には破綻します。そしてまた株価が下がります。こういったものではない経済成長への社会実験。これが必要でしょう。その道筋にあるのが社会実験としての日本型社会民主主義です。
(追記)
休暇分散化ですが、国民すべてを週7日に休みを振り分けて学校やすべての社会帰還や企業を365日営業とする。これは相当メリットのある社会実験です。土日に休みたいというのや知人と過ごす時間がとりにくくなるとかというデメリットは、土日に休んでいる人たちの個人的なもので、考えようによっては役所や銀行に行くとかは便利になるわけです。これもまた社会実験でしょう。
【2011年】ツイッターつぶやき
磯田道史著「武士の家計簿 加賀藩御算用者の幕末維新」(新潮新書)
加賀藩の藩士御算用者猪山家の30年にも及ぶ家計簿と暮らしをつづった貴重な資料の発見からそこに書かれた武士としての一家族の生活と武士というその当時の支配層の暮らしぶりをまとめた本です。
同時にまだ徳川幕府時代であった幕末と維新そして明治の代に武士がどのように生きたかの記録でもあります。一つの大きな歴史の転換点で武士そのものがいなくなる中で旧武士はどのように生き残りをかけたか。
これを詳しい家計簿の分析から「生きた武士」を描いたすぐれた本ではないかと思います。
武士は反より『給料』として米と銀(石高による)を受け取る。米は売って「現金化」する。藩の経理などを行う猪山家は今の金に換算をすると父直之が700万円、息子信之が530万円で合計1230万円の年収となっていたようです。家計を一つにした二世帯住宅に住む大企業のサラリーマン家庭といったところでしょうか。このあと猪山家は出世をしていきますから年収は増えていきます。
武士も大名や上級武士になれば世襲制ですが御算用者というのは息子だからと世襲するわけでもなく幼い頃より算盤や数学を勉強して藩に召し抱えられなければならない。その意味では勉学は相当厳しいものがあったようです。
猪山家は藩の官僚ともいえるような重要な位置におかれれて幕末の藩を支えていました。
加賀百万石の大大名家の官僚として相当の年収もあるわけですが、家計簿を見ると赤字だらけで借金地獄に落ちた時代もあったというその当時の武士の支出も詳しく書かれています。
藩主に見込まれて出世をしたのはいいが江戸づめを命じられて家計門住生活という出費も出て江戸のいけばそれなりの付き合いなどもあって家計は苦しくなる。同時にその当時の支配層の武士ですから家柄や石高によるそれに見合った支出もしなければならず、形骸化していたとはいえ家来や下女を置かねばならない。先祖の残してくれた「家」ですから先祖を敬うための寺や周忌などの支出もそれなりに行う。この本ではこのような支出を「身分費用」という言葉で表していますが、年収1230万の家柄の武士はそれなりの「身分費用」という支出を行わなければ格に傷がつく。
一時は2000万円(だったかな?)以上の借金をしてにっちもさっちもいかずに先の「家」の継続を考えれば借金整理をしなければならないくなる。着物や刀まで売って借金を整理する。
親戚同士での借金は日常茶飯事でその意味でも親戚通しの付き合いは大切にしなければならない。しかしこの親戚づきあいがまた出費を増やす。ご主人様といっても小遣いは6000円に満たずもしかしたら一緒に出掛ける家来の懐の方が暖かだったのか。
このように大きな藩の官僚でも武士というのは幕末には相当厳しい生活をしていたようです。
猪山家のようなまずまずな年収のある武士ですらこのような生活ですからそれ以下の武士の生活は推測できると思います。時代劇で長屋に住んで傘張りの内職をするという武士もまんざら物語ではないのではないでしょうか。
異常なような武士の姿をこの本ではいろいろな角度から明らかにしていきます。この中に武士の「生きた姿」が見えるように思いました。
大名も藩のやりくりが大変でご応召から借金をするといったものがあったように何かで読みましたが、幕末ともなれば貨幣経済が発達をしますから給料の米や銀は両替をして細かい貨幣の銭にしなければならない。億特両替商というのも時代劇に出てきますが、金融も発達していたのでしょう。時代は商人の時代になっていた。武士の権威も金には勝てなくなっていたということでしょう。時代は資本主義を求め始め、その流れを西洋に学んだすぐれた下級武士と商人が結び付いて明治維新を迎えて行ったということだと思います。その中で猪山家は算盤や数学にたけた家柄ですから、明治維新を切り抜けていきます。加賀の数学は日本でも有名でその中でも出世をするほどの猪山家ですから算盤によって生き残っていきます。もちろん明治維新後といっても武士は武士の誇りがあるわけで承認になったわけではなくて算盤と数学を生かした海軍という国の官僚となっていきます。直之の孫の成之は海軍の官僚として今の金にして3000万円ほどの年収を得る。親類の武士たちは多くは没落をしていく。しかし成功をした猪山家も資本主義の中の日清日露戦争に翻弄される。
だいぶ前に古代の荘園制の崩壊と武士の台頭がどのように行われて日本がどのように武士の世としての中世が生まれたかという本を読んだことがありますが、今回読んだ本は、その武士たちの封建制の時代がどのように資本主義としての明治の代になっていくかを一人の武士の生活からの一面として描かれているのではないでしょうか?
武士はもう必要ではなくなった。刀では西洋の大砲や軍艦には勝てない。貿易が国を発展をさせる。そのためには日本も向上や銀行鉄道などが必要になりその担い手は商人だったということでしょう。明治の代が猪山家に求めたのはやはり算盤と数学だった。武士の猪山家ではなかった。武士の「身分費用」というものは商業を発達させるある役割はあったろうが、新しい時代にはただの無駄でしかなくなったのである。
【2012年】ツイッターつぶやき
朝日新聞の記事に「それでも、政策で決める選挙だ」という記事があった。
リンク先は記事の中身をすべて読めませんが、マトリックスという図だけを見ても興味あるものだと思います。
民主党が適したマニフェスト政治はある程度の政策を決めましたが、肝心要の国民生活に関係する消費増税を菅政権がいきなり打ち出して野田内閣で成立をさせ、また原発事故というものに対する対処やその後の大飯原発の再稼働も行い、国民意識からかい離したものが目立つ中にマニフェストというもの自体への不信感が生まれてしまいました。
しかしいくら政策を立てても実現しないなら。。。。。といった意識になったならそれもまた国民の悲劇ではないでしょうか。
同時にこのマニフェスト政治の失敗から政治の民主主義も問われるようになり、「決められない民主主義」といった意見も出るようになってしまいました。決められないのは民主主義が邪魔だからではなくて、常に二大政党での政局政治の結果としてのねじれにあったわけです。
この民主主義が邪魔といったものに自民党や維新の会の改憲路線も無関係ではないのではないかと思います。これも国民の悲劇です。
こういった視点で見ればやはり「政策で決める選挙だ」。
マトリックスの図を見ると、自民党・維新の会・みんなの党が改憲をはっきりといい政策的には新自由主義といってもよい「小さな政府(個人で自立することを重視)」政策を持ちます。一方では、社民党・共産党・民主党(これは党内の一部とみた方がいいのかもしれませんが)・未来の党・公明党(これは自公路線がありますから今後どのような立場に立つかにありますが)福祉国家あるいは社会民主種や共産主義そして一方的な新自由主義ではないという意味の出の中間派がいる。これは改憲に対しても同じ構図を示して護憲と中間派といったものになります。
この構図はしっかりと見なければいけないと思います。自民党や維新の会が改憲をそして自民党が国防軍構想を出していること自体選挙の争点をつくりだしています。維新の会は最低賃金法の廃止などとも言っていますし、自民党は建設国債という国民の借金を増やして(10年で200兆円)公共事業をといっています。どちらもが企業の利益が上がれば国民生活も向上するといったこれまで失敗した政策の繰り返しでしょう。脱原発も消極的で、この先どうなるかを見て決めるといったような原発の継続を言っています。
民主党やその他の小さな党も意識するしないにかかわらずこの自民党の争点づくりに対する政策を言いはじめています。それがある意味反自民党的な結集する条件を産む可能性があります。生活党が未来の党に合流をして社民党との選挙協力や政策協議にも進みそうです。
それぞれの党がそれぞれに選挙目的であってもその考え方と政策を出しているわけですが、それがだんだんと一つの争点となって見えてきているのではないでしょうか。それが憲法と暮らしという国民生活に多大な影響を及ぼす大きな争点であることが見えてきます。
【2013年】ツイッターつぶやき
日本政府はずっと安保の中に時刻自国を置いていた。軍事面はもちろんそれは経済にも波及していた。同時に日本の政権内には改憲理由を含めてアメリカの傘から抜ける動きも示してきた。もちろんアメリカも日本の基地の重要性と経済を重視してきた一方ではロシアの立ち直りや中国の発展そしてロシア・中国の柔軟さの中に日本一辺倒で入られなくなってきた。
軍事面の安保の重要さと世界1位と3位の経済を握る経済的なつながりも切り離せないが互いに安保関係は利用するものという位置づけが強くなっているのかもしれない。あるいは今のアジアでは安保関係は古い体質となってきているのかもしれない。
日本は安保を利用しながら中国をけん制しようとするが、アメリカは軍事面の安保に抵触しない事柄なら中国ともロシアとも連携を強める。日本は独自の道を歩く方向を示して改憲を中心に今秘密保護法を対米関係から離れた統治の中に組み込もうとしそれをばねに力による中国への圧力にしようとする。
中国の今回の領空識別権問題でも朝日新聞の記事を読めば、日本がアメリカに要求する対中国への強硬姿勢とアメリカのアジアの安定とに違いが出ている。民間機の飛行計画の中国への提出での違いが出る。その中にアメリカが望んでいるものが見えるだろう。この中に安保自体がどのような役割を持つのか?もちろん中国が軍事康応に出ればアメリカは動くでしょうが、中国はしたたかで強硬さと安定化を見せる。強硬さが行過ぎれば危機になるが安定化でそれを緩和している。アメリカはその中国のアジアの安定化という面に乗らざるを得ないでしょう。安定化には両国は一致をする。その中で日本の強硬路線がさらにアメリカを困惑させるでしょう。改憲や秘密保護法の中身においてはアメリカさえ警戒感を持つ。それは終戦という歴史問題でもある。
韓国も強硬さと安定の両面を持つ。
このまま行けばアメリカが日本をもてあます時期がくるのではないか。
アメリカと中国・ロシアはいざとなれば腹を割った話ができるという互いに敵ながら天晴れという認め合うものがある。それが悪いか良いかは別としても。その中で日本が安保を利用する面が強くなった場合どのような国際関係の中におかれるか。。。。
外交は孤立したほうが負けです。自分を捨てて孤立しないではなくて世界がどのような方向に動いているかの判断の中での「孤立をしない」です。そこに古い日本を見せてはならないということです。
【2014年】ツイッターつぶやき
労働力の移動が必要となる場合とはどのようなときか?
経済が発展しはじめた時に新たな成長産業が生まれてそれがまた産業構造まで変えていくような場合にその成長産業に労働力が足りなくなる場合である。もちろん成長産業が生まれるときにスクラップ産業も生まれるかの世は高い。そのスクラップ産業から労働力を成長産業に移動をさせなければならない。
この労働力の移動は、スクラップ産業での首切りによる失業した労働力の吸収という事になる。労働力の移動はこのように暴力的であり労働者に多くの犠牲と負担をかける。
しかしこのような労働力の移動はまだましな方なのである。
労働力を吸収する産業があり、そこでの賃金が保障されるなら多くの労働者は救われる可能性が残るのだから。
しかし今言われている「雇用の流動化」とはどのようなものか?
失われた20年の中で経済は低迷をして成長産業が見えない時代になっている。デフレ不況は深刻となっている。このような中では上記したような「労働力の移動」は起きない。
そこで起きているのは雇用の流動化といわれるものであり、アベノミクスにおいて失業率が下がり雇用が拡大しているといわれるが、中身は正社員の割合の現象であり、不安定雇用の増加という形をとっている。このような正社員から不安て雇用に労働力を移動させるものが雇用の流動化なのです。安定した中間層としての雇用と賃金を低賃金へと労働者を移動をし、解雇の自由論が高まる中での不安定な雇用の増加なのである。
ここで見る雇用の流動化は明らかに労働力の移動とは違う。不況の中での企業の生き残り策としての雇用の流動化であり、経済発展の過程においてのスクラップ&ビルドでの労働力の移動ではない。
雇用の流動化は許してはならない。
【2015年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2016年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2017年】ツイッターつぶやき
newsweekに二つの記事があった。
「長時間労働で減退する、日本の働き盛りの知的好奇心」
「働き盛りが読書しない日本、やがて訪れる思考停止社会」
ツイッターで時々目にするツイートで日本人は今の政治や社会を考えない思考停止になっているといったものがある。すでに思考停止は始まっているのでしょうか?
知的好奇心と読書とは切っても切れない関係にあります。
ですから、知的好奇心が減退し、読書しない人々が増えていけば確かに思考停止社会を加速するでしょう。今は読書をしなくても様々な知識や情報を手に入れられます。しかしこの知識や情報は思考ではない。膨大な知識や情報量があるがそれを処理するには思考が必要です。知識と思考は別物です。最近考える力の教育が言われていますが、まさに思考は考える力です。
読書はもちろん知識や情報を得るものです。しかし1冊の本を読む行為と時間は数日という長く続くものです。この中で考えることが必然となります。時には前のページまで読み返したりしながら理解しようとします。また以前読んだ関連する本を開くこともあるでしょう。又は小説や詩の本を思い出すことがある。今読んでいるほんとはまったく関連性のない本を思い出しハッとすることもある。そして批判的に読み進める中でまた考える。
本を読んでもほとんど中身は忘れ去られることが多いのですが、すべてを忘れるのではなくて思考の血肉として残っているものです。
このように読書によって得た思考力(考える力)が今の膨大な知識や情報を処理する基礎となります。
知的好奇心は知識や情報をたくさん得たいというものではないと思います。
思考する中で、これはどうなんだろ?あれはどうなんだろ?と考える中で知りたいという気持ちが高まる状態でなければ知的好奇心は膨らみません。詰め込みは苦痛となりますが、考えることは楽しみとなっていきます。ですから知的な人ほど専門の知識から離れた様々な知識を追い求められます。
では日本社会が思考停止になっていく理由は何でしょうか?
読書量と言いますが読書は有り余る時間があるからできるというものではありません。先ほど書いた知的好奇心がなければ本は読めません。長時間労働だから読書もできずに知的好奇心が薄れるとだけでは説明できないでしょう。
社会のシステムが知的好奇心や考える力を必要としないようになっており、それを政治や企業が生み出しているという事です。
1960年代から70年代の安保闘争時代は労働者や学生は自ら考えることを行っていました。しかし政治や企業はそれを必要とせず逆に邪魔になった。知的レベルが高く国や企業に何も考えずにあるいは忖度して従う人間作りが求められた。今後憲法改悪がありそうですがこれが考えない日本人をさらに増やして考える日本人を押さえつけるでしょう。
こういった社会が日本の社会システムとすれば考えることひどい場合は読書することが異端視扱いされる。
「趣味は?」
「読書かな・・・・」
「まじめぇ~・・・あははは」
こういう日常が生まれます。
同時に議論を深めること自体も蔑ろにされます。
議論よりも力ですよね、今の時代は。
古代弁証法すら忘れ去られている。
この状態がまた政治にも働き方にも悪影響を及ぼして負の連鎖は底なしとなる。
何も日本人の知的レベルが下がっているわけでもないのに今後はノーベル賞が無理ではと言われている。知的好奇心を活かせない社会システムならこれは当たっているでしょう。そしてアメリカなどの大学で働く研究者がノーベル賞でも取ると、「日本人、すごい!!」と見当はずれの愛国心が生まれる。
(追記)ツイッターから
知識や情報という面では、スマホ1台持っていれば深い専門性を求めなければ図書館を持ち歩いているようなもんですね。しかし思考・考える力はスマホにはない。思考・考える力も知識や情報としてでしか知りえない。
こういう考え方をしなさいとスマホが教えてくれてその通りに動くようになった時、人間は人間でなくなる。こういう考え方をしなさいというものはすでに誰かがインプットしてしている社会かも。。。。
【2018年】ツイッターつぶやき
朝日新聞12月2日朝刊1面に「中絶か帰国か 迫られた実習生」という記事があった。
ベトナム人女性【22歳】の外国人実習生は妊娠をした。すると企業の担当者から「中絶するか、ベトナムに強制帰国かのどちらかを選べ」(引用)といわれた。しかも中絶をするなら「中絶の薬を与えるともいわれた」(引用)
渡航費の100万円は親類などからの借金。日本で働かねば返せるとは思えない。
そして女性は逃げた。。。。。
またある研修施設では「恋愛禁止」に署名させられる実習生も出ている。日本で働くための「意識改革」。。。。
政府は2016年の答弁で妊娠、出産、結婚を理由とした強制帰国を違法ととしたようである。しかし現実はこの「違法」が正々堂々と行われている。
現在国会でも新たな外国人労働者の受け入れについての法案が討議され散るが、衆議院ではやはり数の力で討議時間も少ない中で可決され参議院でも野党は政府の矛盾を突く発言が出ている。このままではやはりかうのちからにより可決されるでしょう。
法で縛りをかけたとしても細かな点になれば省令で決められる。症例は法より縛りが緩くなるでしょうし、しかも企業内となれば無法的な取り扱いがされる可能性を朝日新聞の記事は表している。
外国人労働者は休暇制度があると聞けば、先進国である日本だから真に受けて休暇を取るでしょう。しかし現実は日本の労働者も休暇を捨てている実態が。その中で休暇も取れないという真実を目にすることになるでしょう。日本で働くための「意識改革」は休暇を取ることは迷惑をかけることになる。結婚すれば寿退職。さらに妊娠すれば生産性が落ちるという論理外資の入学試験にも出ているような実態。子供を産めば保育園もない。この真実を知らしめるのが意識改革という名の研修なのでしょう。
たぶんこのベトナムの女性の現実を見て、日本の労働者はそうは感じるところが少ないのではないかと思う。日本人ならば法で認められる労働条件などは現実には存在しない部分があることを日常みているのだから。
もうこのような社会は発展性がないですね。
gooのお題に「コスパの良い神コスメを教えて!」というのがあったので参加しようかと思ったが、お題の意味が全然理解できない。
コスパ?コスメ?神?(これは神対応の神のようなものか)
お題のページを覗いてみたらどうも冬の乾燥肌対策のことらしい。
おやじの僕にはわからないはずですなぁ。。。。。
「コスパとは?」「コスメとは?」。。。。
検索をして調べてみましたが、略語のようですね。
なるほど。。。。と、理解できたので、確かに僕も乾燥肌で脛に粉が吹くほど痒さに苦しんでいることがあるので書こうとしたが、女性たちがもちもち肌対策を語り合う中におやじの脛に粉が吹いているなどという話を入れると、女性たちが眉間にしわを寄せられるかと思いよしました。
コスメもコスパも略語ですしわからないですが、最近テレビを観ていても何のコマーシャルなのかがわからないときが度々あります。妻に「今のコマーシャル、何のコマーシャルなの」と聞いてなるほどと思います。それでも妻もわからないものがたくさんある。
こうして老人は置いてけ堀になっていくのでしょうか?
ウウウ・・・・・
イカン、イカン!!
「コスパの良い神コスメを教えて!」のようなものも興味を持って調べてみることが大切なのか。。。。。?
【2019年】ツイッターつぶやき
嫌いな言葉に「長いものには巻かれろ」がある。
長いもの=力のある者
たしかに力のある人にくっついていれば得なことが多い。
しかしこれには自分を殺さねばならない場合が多い。
今の日本の政治や社会に対して不平不満はたくさんあるでしょう。
しかし不平不満ばかり言っていてもらちが明かないから
長いものには巻かれて生きていれば得だし楽であると
しかし長いものに巻かれていると自分を否定せざるを得ないのが苦しいから
長いものに巻かれながらそれを肯定して長いものに巻かれない人を攻撃すれば自己満足は得られる。暴力でもいじめでも何でもありとなる。
今の国民の多くがこんな状態ではないかな。
この長いものには巻かれるの対義語を調べていたら、
蟷螂の斧という言葉があった。
対義語としては弱い者でも強い者に立ち向かうということになるらしいが、
同時に蟷螂の斧は力の弱い者が強い相手に立ち向かっても負ける。そんなむなしさを言い表しているともいう。
まぁ、こうなると長いものには巻かれろの対義語とは言えないくなる。
しかしこのむなしさが諦めにつながり結局は「長いものには巻かれる」となってしまう。
たしかに弱い者は負けるのですが、かといって蟷螂の斧でも持たないと強い者はのさばり続ける。歴史を長いスタンスで見れば、強い者でも必ず敗れてきた。なぜかといえば、強い・弱いは相対的であり強い者に弱さが出れば弱い者は強くなる。強い者にも弱さがあるということを忘れてはいけない。そう思うならば蟷螂の斧もまんざらむなしいものではなくなる。
人の歴史はこんな蟷螂の斧のようなものが無数に繰り広げる舞台ったのです。
【2020年】ツイッターつぶやき
昨日書いた「抗体・免疫・抵抗力そして分散」の続きです。
そもそも役所や銀行などが土日や休日が休みになるというのが変なものです。わざわざ仕事を休んでいかなければならないんですからね。まだ専業主婦の奥さんでもいる夫婦ならどうにかできますが、今は共働きが当たり前になっています。もちろん独身者は困りますね。
土日休むということから平時にに人が集中して密ができます。もちろん通勤電車も込み合います。シフトを組んで土日や休日も営業すれば密も解消されるでしょうし、平日の出面が減れば働く人の密も避けられます。
社会全体がこのようなシフトを組むようになれば密を避けられますし経済効果もあるでしょう。
また出勤時間をずらしたり時短も有効でしょう。そして何よりも休暇を完全に消化することも必要です。
連休を分散できますし、すると旅行先でも観光地や歓楽街でも人の密が分散されるでしょう。
家族単位でこの家族は月曜日と火曜日が休みとか分散すればいいのです。すると学校なども土日に休む必要がなくなる。
こう書くと非現実的だという方もいるでしょうが、現実は上記したような分散が行われている仕事が多いのです。それによって社会は維持されています。
【2021年】ツイッターつぶやき
これまでもワクチン接種による副反応として心筋炎が言われていましたが、厚労相はやっと心筋炎を「重大な副反応」と認めたようです。
ただしコロナ感染での後遺症としても心筋炎があるため判断は難しくなるのかもしれません。
コロナで心筋炎の後遺症になるのもワクチンで心筋症になるのも悲劇ですが、「その頻度はワクチン接種後よりも高いことが分かっている。」とはいえ、コロナは自然の災いとしてのものですが、ワクチンは人工的な厄ですからね。
今後オミクロンが広がるかもしれませんが、ワクチンの効き目がどうなのかもはっきりしない中で3回目の接種がはじまりました。ワクチンの効き目が弱いならば、あるいは重症化しない新型のウイルスならば、無理な接種の方が危険性は大きいと言えるでしょう。
【2022年】ツイッターつぶやき
マイナンバー顔度を普及させようと政府はポイントをばらまいたり、健康法検証や車の免許証をマイナンバーにすると言いだして半強制的なやり方をしている。
一方ある程度普及する中、企業や行政で紛失や漏洩が起きている。
5年間で3万5千人分が報告をされているそうです。でも、これは明らかになった人数ですから実態はもっとたくさんあるのではないかと思います。
現在6割程度にマイナンバーも広がっているようですが、さらにさまざまなところでマイナンバーと暗証番号を使うようになればさらに多くの紛失や漏洩が発生するでしょう。紛失や漏洩というだけならまだよいですが、そこから犯罪に結びつくと被害は大きくなるでしょう。
最近ではコンビニで酒やたばこを買うための身分証明にも利用するという話も出ていますからマイナンバーは日常の生活の中に入りこんでいきます。
日本は高齢化していますから。今でも高齢者狙いの詐欺が後を絶たない状態ですから、すぐにマイナンバー詐欺も出てくるでしょう。
マイナンバーが生活上において必要だというものはほとんどありません。政府が紐付けするために必要になってしまうというだけですね。
アメリカでは、返品送料は企業が負担するのでしょうか?
この返品送料と変わらない値段の商品は返品なしで返金をするそうです。(ロイター)
たしかに送料まで支払って、返品された商品は売ることはできないのですから、返金だけをする方が企業にとってはよいのかもしれませんね。
そういえば、ツイッターにフロリダの方だったか?一定の額以下の商品を万引きしても警察は捕まえないそうで、下手に捕まえれば逆に訴えられるとか。堂々と盗んで出ていく。
経済的損得で人の善悪に影響するような社会はよくありませんね。
返品なし返金も悪用を心配されているようですが、ブランクマンデーのセールで大量販売をしても返品が50%を超える社会というのも怖いですなぁ。
そういえば、日本でもフォーマルの洋服を買って、1度着ればいらなくなるので7日以内に返品というようなことがあるそうです。
資本主義的共産主義がくすぶっている。
≪過去の記事≫
【2003年】
「溺レる」
文春文庫
川上 弘美 著
川上さんの作品ははじめて読みました。
ものすごくアクの強い作品です。そのほかの作品も同じなのでしょうか?
「溺レる」他、7つの短編からなっています。
どの短編も、愛欲、飲食、排泄と、人間の欲望がむき出しとなった作品です。もうひとつの主題、「死」もある意味では人間の欲望となりますが、作品中にも死がひとつの欲望として表れているのではないかと思います。
すべての短編に共通するのは、ある過去を背負った男が過去を捨て、捨てるというよりもその現実から逃げています。そしてその男にはっきりとした愛情がないままについてくる女です。二人は現実というものから逃げているわけですから、社会の中で孤立をしている。なんとなく寄り添うものは二人というお互いどうしである。
この狭い中に二人は「生きている」。食べるために働くという最低限の現実とのかかわりのほかには、自分たちが生きている証はその動物的な欲望だけである。短編ごとにいろいろな性が描かれている。よく食べてよく飲む。排泄・嘔吐などという恥ずかしさは、お互いの関係の中で当たり前のようになり、動物的な獰猛さも描かれる。これがまた愛欲に結び付けられる。
このような動物的な「生きている」状態の中に、ただひとつの人間的なものを持つ。それは、自らの命を自ら絶つという人間的なものだけである。
動物のように、本能的な欲望だけに生きている中にそれは人間としての死と同じ状態を見る。生きていても死んでも二人にとっては同じである。読む者も生と死の境界を感じなくなる。
「百年」という短編の書き出しは、「死んでからもうずいぶんになる」と書かれ、「無明」には、「トウタさんと連れ添ってからじき五百年にもなろう」とある。
「百年」は、心中をした女だけが死に、相手の男は生き残って平凡な生活を送り、女は意識だけがこの世に残って男の一生を見送るというものである。その二人の過去は、やはり動物的な本能だけの二人であった。女にとっては生きているのも死んで見届けているのも同じである。「無明」は、情欲の果てに永遠ともいえる命を持つことになった二人である。やはり生きているのか死んでいるのか、「百年」の女のように意識だけがこの世にさまよっているのか、本当に生があるのか判然としない。その意味で生きているのも死んでいるのも同じである。
このような生、動物的な本能は生の根本である。同時に「人間性という皮」をかぶってこそ人間の生である。このへんを強く感じました。
さっき買い物に出たら、半そで一枚でランドセルをしょった子供がいました。
見ている僕が寒くなってしまいました。
11月に入った秋、大人たちもいろいろな格好をしていました。まだ薄着の人や、気が早く本格的な秋の格好をした人。さまざまでした。
暑さ寒さも個人差があります。まあ、女性はファッション性が一番大きいかな。
【2004年】
昨日の日記、キリストの復活は、春分の後の復活祭でしたね。。。
週末は東京も天気が崩れそうです。乾燥状態が続いていますので少しお湿りもいいでしょう。風邪も流行っていますし。
そういえば、東京では過ぎ花粉症が出ているようです。僕も時々くしゃみが出ます。
春先のスギ花粉ですがなぜこんな季節に?と不思議です。植物は自然災害に敏感だといいます。地震の前には竹が花を咲かすとか。。。。スギ花粉も不気味です。単なる異常気象の影響だけならいいのですが。
【2005年】
「晩鐘(上・下)」
双葉文庫
乃南 アサ 著
「風紋」(上・下)の続編である。
「風紋」が発表されたのが1994年。そして「晩鐘」は2003年に発表された。「晩鐘」は、「風紋」の中に登場した人々の7年後を描くが、乃南さんご自身も「風紋」を発表してからちょうど7年を隔ててこの作品を書いたことになる。乃南さん自身の時間の流れと「風紋」に登場した人々とは時間の流れを共有している。ちょしゃである乃南さん自身もこの7年という時間の中で変化したであろうし、その変化の流れの中に「晩鐘」もあるのかもしれない。ある作品に登場する人物と著者とが同じ時間の流れの中に変化して続編を書くといくということに著者の思い入れを感じる。
僕は、約半年という時間をおいてこの両作品を文庫という形で読んだわけだが、乃南さんファンは、発表直後の単行本で「風紋」を読み、そしてやはり7年という時間をおいて単行本で「晩鐘」をお読みになったことと思う。その意味では、読者も自分の7年という時間を「風紋」の登場じんぶつと乃南さんご自身とこの7年という時間を共有したのであり、7年という時間の流れを読者自身の日常の流れに感じ取り、実感を持って時の流れを感じつつお読みになれたのではないかと、少しうらやましい思いが沸き起こりました。
これから「風紋」と「晩鐘」を読んでみようという方がいらしたら、最低でも半年から1年ぐらいの時間をおき、「風紋」の細かなところを忘れかけたときに「晩鐘」をお読みになることをお薦めします。
新聞記者建部は、7年前の事件の被害者の娘である高校生であった真裕子を思い出し、変わってしまった加害者の妻香織の7年前の姿を思い出す。そしてその7年という時間の重みを成長過程の早い子供である加害者の息子大輔に目を見張り感じる。こんな建部の思いを「風紋」を読み終わってからしばらくして「晩鐘」を読んだほうがこの「思い出」あるいは「変化」を感じ取りながら読めるのではないかと思う。
7年という時間は長いのか、短いのか。
真裕子の母親則子が、真裕子の担任でもある教師秀之に不倫の果てに殺されたという衝撃的な事件も世間では「ああ。。。そういう事件もあったなぁ・・・」というぐらいに風化をさせる時間である。その意味では長い時間である。新聞記者建部も深く事件にかかわったとはいえ、7年の間には東京本社から長崎支社に都落ちをし、結婚はするがすぐに離婚と、様々なことがその私生活には起こった。その意味では長い時間だったのかもしれない。しかしそうのような世間の中にあって時間が止まってしまった人々がいる。真裕子は、母親の死をいまだに受け容れられなかった。妻の死を忘れたかのように再婚をした父。そしてあんなにも母親に心配をかけた姉も母を忘れたかのように結婚をして子供もできた。その中にあって真裕子自身だけの時間は止まったままだった。真裕子にとっては、7年という時間が長いのか短いのかという簡単なものではなくて止まった時間の中に生きざるを得なかった。
加害者の妻香織や義弟にとっては、世間という空間の中で必死に生き抜くことしかできなかった時間であり、7年をいう時間はどうだったのだろうか?毎日を必死に生き抜くことしかできなかったならば、やはりあの事件以後の時間は止まったままだったのかもしれない。
そして秀之は。。。。
しかしこれは大人の中に流れる7年という時間の流れである。
加害者の息子大輔、娘絵里という子供達の成長の中においての7年という時間は、まるで霧の中に見る風景のようなほとんど記憶のない世界から今ある自分を見るしかないのである。長崎に住む祖父母に育てられなぜ両親がいないのか、隣の叔父夫婦や従兄妹たちにいじめらられなければならないのか、何一つとわからない今という時間におかれる。
このように「風紋」の登場人物はそれぞれの7年間という時間が通り過ぎた今に生きていた。
そんなある日、大輔の従兄弟歩が殴り殺されるという事件が起きる。
犯人はすぐに捕まりこれという大きな事件としても扱われないほどだったが、長崎支社にいた建部は、取材先の歩の葬儀に来ていた香織と偶然に再会する。建部は7年前という時間に引き戻される。偶然過ぎる偶然。。。そして建部は香織と一緒にいた大輔に事件とのかかわりを直感する。
ここから「晩鐘」は始まる。
主人公は25歳になった真裕子であり、副主人公は10歳になる小学生の大輔。そして2人をつなぐ建部である。この3人が語るように作品は進んでいく。歩が殺され事件を追うが、それはきっかけだけであり、流れはやはり「風紋」が描いたように被害者の家族と加害者の家族の物語であり、それ以上に真裕子と大輔の中に現れる精神面での葛藤を描く。そして建部が追う世間というものが2人に絡み合い、建部と真裕子の愛を描く。
7年前の事件は、まだ高校生であり母親に甘えながら相談もしたい年頃の真裕子にとっては、心に大きな傷を残し、その傷は、周囲の人々との間に摩擦もおき、真裕子自身も嫌な性格と思うほどに心を殻の中に押し込める。大輔にとっては7年前の事件は、そのときの母親香織に苛立ちの様子をおぼろげながら覚えているぐらいで、その母親も今になっては叔母という形で現れるだけである。しかし記憶にないにもかかわらず7年前の事件により大輔を邪魔真にする叔父家族の仕打ちにそして両親が誰かわからない不安の中に心を傷つけられている。体は大人並だが心はまだ幼さを持つ。
アダルトチルドレンとは
インナーチャイルドとは
僕のホームページからリンクさせていただいている「窓際主夫のひとり言」という窓際主婦さんのブログで、このアダルトチルドレン、インナーチャイルドという言葉を知ったが、ネットで調べているうちに、真裕子や大輔の中に7年前の事件という心に大きな傷を残したことによる心の障害が出ているのではないかと思う。
真裕子は、母親が殺害されたことでまだ甘えたい相談したいと思う母親から強制的に突き放される。父親は不倫をし、姉は家庭内暴力で母をないがしろにしているという意識が持っていた。そして母親の死体をはじめに警察で確認したのは真裕子一人であり、父親も姉も帰ってこない夜を過ごす。母親でさえ不倫の中で殺された。母親の死後は、真裕子に家事の重みが襲ってくる。高校生というまだ母親に甘え、父を頼りにしたい年頃の7年前に真裕子の時間は止まってしまい、心も取り残されてしまう。ここにアダルトチルドレン、インナーチャイルドという症状を見ることができるのではないか?たしかに虐待ではないが結果としては心に多くの傷を残したという面では虐待に等しい。
大輔は、よい子を演じる。わけもわからないのに両親がどこの誰だかわからない状態に置かれ、母親の実家に住むが同じ敷地内の叔父家族からはないがしろにされて育った。早く大人になりたい。病気がちの妹を自分が父親となり守ってあげたい。しかしまだ子供であり自分自身をも守り生きることもできず、ましてや妹を守ることもできない。今は良い子を演じるしかないのである。この早熟さは心だけではなく体も大人並になっており、女を知ってしまっている。しかし心の中には幼さが残り、今の自分を否定をし、雨の吹き付ける夜のガラス窓に写る自分の顔を見てその写った自分が別の世界にいて幸せな子どもとして生活していることを想像する。大輔はまだ子供だが、ここにアダルトチルドレンやインナーチャイルドの傾向を見ることができるのではないか?子供のこのような症状にはまた違った臨床名があるかと思うが、僕にはわからない。しかし、真裕子と同じような心の障害を持つことは確かではないか?
「晩鐘」は、この二人の心理と心の葛藤を描き続けたといっても過言ではない。
建部は、香織と再会をし、真裕子とのメール交換を通して、接触しながら加害者家族・被害者家族のその後を追うルポ「連鎖」を連載し始める。これは、僕の「風紋」の感想として異界ために見えぬ「世間というものが犯した犯罪」を世間に問うという正当でもあり正義でもあるルポであっただろう。この意味においても「晩鐘」は「風紋」の続編なのであり、建部という記者の目で見た被害者家族・加害者家族の描写が全体の中に貫かれている。
このように、この作品は真裕子と大輔の心理と心の葛藤を描きながらそこに建部の記者の目が加わり一つの結末を迎えていくのである。
その結末の一つは、真裕子と建部との愛である。それは同時に真裕子の心の開放でもある。
真裕子は、事件のすべてを知り昔の自分を知り理解してくれるたった一人の人間である建部を慕う。しかし建部もそうは強い人間ではない。真裕子が支えなければ崩れてしまうような弱さを持っている。そんな建部を支えなければという意識が出たとき、愛となる。同時に、父親の再婚相手には10歳の連れ子が居り、真裕子にとっては突然の義弟となり現れる。少しづつ打ち解ける中に、その義弟に真裕子は母性で接するようになる。真裕子は、建部を愛し、義弟を愛しむ中にアダルトチルドレンやインナーチャイルドと思われる心の傷を癒していく。この過程に流れる真裕子の変化は温かみのある幸せを感じるものとして描かれ、読者もほんのりしてしまうだろう。
しかし建部は大輔ともかかわるし、大輔を心配する。
しかし。。。。
この結末は書かないほうがよいだろう。
真裕子の幸せに涙が止まらないだろう。同時に大輔の結末にも涙が止まらないだろう。
この大輔の結末に対しての涙は、悲しさでもなく苦しさでもない。やるせない気持ちからの涙だと思う。
7年前という時間は取り返すことができない時間である。その時間の流れの中に常に流れる「連鎖」。この連鎖を断ち切れないやるせなさである。建部にも新たな不安が漂う。真裕子が結婚後に植物を育てる仕事をしたと言い、どこか田舎のほうでできれば幸せだというが、建部は心のかなで「そんな田舎にいくということは、俺にとっては左遷だ」と思う。これが事実となることを暗示をする思わぬルポ「連鎖」の影響を世間がどう見るのかという不安を読者は抱くだろう。出所していた秀之。。。秀之と大輔は接触していた。秀之は大輔の結末に涙する。その涙は憎しみかもしれない。建部と真裕子の幸せは。。。
こんなことを思い描くことができる結末であり、ここにもやるせなさという涙が出てくる。連鎖は続くのである。「風紋」から「晩鐘」へ、「晩鐘から」から。。。「晩鐘」も続かざるを得ないだろう。
【2006年】
昼時、ファーストフード店に行った。
「いらっしゃいませ!!」「ご注文は何にいたしましょうか」
「○○をください」
「はいかしこまりました」
(たのまれたのをそろえながら)
「ご一緒にお飲み物やポテトなどはいかがですか?」
「・・・・・」「じゃァ。ポテトをください」
(ちらっとポテトのほうを見て、明るい声で)
「ポテトはしなぎれです!!」
「・・・・うううう」
接客マニュアルの落とし穴ですなァ。そして在庫管理の強化の落とし穴でもある。
今、この日記を書いていて「マニュアル」という言葉が出てこなくてイライラした。最近こういうことがよくある。。。。単語が出てこないイライラというのはどんよりしますなァ。イライラすると胃がきゅ~っとなる。本と体に悪いです(笑)
そういえば、さっきまで手に持っていたものをどこかに置き、さて使おうかと思ったらどこに置いたのかがわからなくなるイライラも。。。。。「さっきまで持っていたんだようなァ。。。。もうっ!ムカ」これもまた胃がキリキリと痛む(笑)
あと、目の前にあったにもかかわらず、一生懸命に探し、あきらめた頃に目の前のものが見えたとき。。。
なんかこういうのも老化なのかな?それとも考え事をしていて集中が足りないのか?
【2007年】
(記事なし)
【2008年】
(記事なし)
【2009年】
(記事なし)
【2010年】ツイッターつぶやき
一部高速道路の無料化を「社会実験」という言葉で現していたように思う。
高速道路料金については、土日・祝祭日は1000円というものが来年なくなるようで、その後は検討中らしいが、すべての高速道路無料化というマニフェストはチャラになり、車種による上限が新たに検討されているようです。軽やエコカーは1000円、その他の普通車は2000円が上限に。予備曜日に関係なくということは平日も?
3歳以下の子供に子供手当て。これもマニフェストがチャラになった中の代案ですが。
そのほか政府によるいろいろなバラまきが行われていくわけですが、これが一つの社会実験となることはたしかでしょう。
また、「休暇分散化」というものも検討されていたようですが、休む日を分散化させることによるメリットやデメリットが。これもまた社会実験でしょう。
さらにこの社会実験というものがすすむと、医療費や教育といった国民生活になくてはならないものの無料化にすすまざるを得ません。それが社会民主主義という社会実験にすすむ。
そうなると国の財源が問題になり、消費増税が出てくる。
そこで社会実験ですが、以前にも書いたように労働者の労働力を買ったときにも5%の消費税をかける事が検討されてもいいのではないでしょうか?企業は個別の競争からはんれて平等な支出となり、賃上げを形を変えたやり方でできる。この消費税には益税を設けたり、中小零細企業には還付も必要でしょう。これにより個人消費は増えるわけです。
今アメリカが40兆円・ものバラマキをして個人消費がクリスマス前に伸びたといいますが、これまでの日本の景気対策と同じように早ければクリスマス後には破綻します。そしてまた株価が下がります。こういったものではない経済成長への社会実験。これが必要でしょう。その道筋にあるのが社会実験としての日本型社会民主主義です。
(追記)
休暇分散化ですが、国民すべてを週7日に休みを振り分けて学校やすべての社会帰還や企業を365日営業とする。これは相当メリットのある社会実験です。土日に休みたいというのや知人と過ごす時間がとりにくくなるとかというデメリットは、土日に休んでいる人たちの個人的なもので、考えようによっては役所や銀行に行くとかは便利になるわけです。これもまた社会実験でしょう。
【2011年】ツイッターつぶやき
磯田道史著「武士の家計簿 加賀藩御算用者の幕末維新」(新潮新書)
加賀藩の藩士御算用者猪山家の30年にも及ぶ家計簿と暮らしをつづった貴重な資料の発見からそこに書かれた武士としての一家族の生活と武士というその当時の支配層の暮らしぶりをまとめた本です。
同時にまだ徳川幕府時代であった幕末と維新そして明治の代に武士がどのように生きたかの記録でもあります。一つの大きな歴史の転換点で武士そのものがいなくなる中で旧武士はどのように生き残りをかけたか。
これを詳しい家計簿の分析から「生きた武士」を描いたすぐれた本ではないかと思います。
武士は反より『給料』として米と銀(石高による)を受け取る。米は売って「現金化」する。藩の経理などを行う猪山家は今の金に換算をすると父直之が700万円、息子信之が530万円で合計1230万円の年収となっていたようです。家計を一つにした二世帯住宅に住む大企業のサラリーマン家庭といったところでしょうか。このあと猪山家は出世をしていきますから年収は増えていきます。
武士も大名や上級武士になれば世襲制ですが御算用者というのは息子だからと世襲するわけでもなく幼い頃より算盤や数学を勉強して藩に召し抱えられなければならない。その意味では勉学は相当厳しいものがあったようです。
猪山家は藩の官僚ともいえるような重要な位置におかれれて幕末の藩を支えていました。
加賀百万石の大大名家の官僚として相当の年収もあるわけですが、家計簿を見ると赤字だらけで借金地獄に落ちた時代もあったというその当時の武士の支出も詳しく書かれています。
藩主に見込まれて出世をしたのはいいが江戸づめを命じられて家計門住生活という出費も出て江戸のいけばそれなりの付き合いなどもあって家計は苦しくなる。同時にその当時の支配層の武士ですから家柄や石高によるそれに見合った支出もしなければならず、形骸化していたとはいえ家来や下女を置かねばならない。先祖の残してくれた「家」ですから先祖を敬うための寺や周忌などの支出もそれなりに行う。この本ではこのような支出を「身分費用」という言葉で表していますが、年収1230万の家柄の武士はそれなりの「身分費用」という支出を行わなければ格に傷がつく。
一時は2000万円(だったかな?)以上の借金をしてにっちもさっちもいかずに先の「家」の継続を考えれば借金整理をしなければならないくなる。着物や刀まで売って借金を整理する。
親戚同士での借金は日常茶飯事でその意味でも親戚通しの付き合いは大切にしなければならない。しかしこの親戚づきあいがまた出費を増やす。ご主人様といっても小遣いは6000円に満たずもしかしたら一緒に出掛ける家来の懐の方が暖かだったのか。
このように大きな藩の官僚でも武士というのは幕末には相当厳しい生活をしていたようです。
猪山家のようなまずまずな年収のある武士ですらこのような生活ですからそれ以下の武士の生活は推測できると思います。時代劇で長屋に住んで傘張りの内職をするという武士もまんざら物語ではないのではないでしょうか。
異常なような武士の姿をこの本ではいろいろな角度から明らかにしていきます。この中に武士の「生きた姿」が見えるように思いました。
大名も藩のやりくりが大変でご応召から借金をするといったものがあったように何かで読みましたが、幕末ともなれば貨幣経済が発達をしますから給料の米や銀は両替をして細かい貨幣の銭にしなければならない。億特両替商というのも時代劇に出てきますが、金融も発達していたのでしょう。時代は商人の時代になっていた。武士の権威も金には勝てなくなっていたということでしょう。時代は資本主義を求め始め、その流れを西洋に学んだすぐれた下級武士と商人が結び付いて明治維新を迎えて行ったということだと思います。その中で猪山家は算盤や数学にたけた家柄ですから、明治維新を切り抜けていきます。加賀の数学は日本でも有名でその中でも出世をするほどの猪山家ですから算盤によって生き残っていきます。もちろん明治維新後といっても武士は武士の誇りがあるわけで承認になったわけではなくて算盤と数学を生かした海軍という国の官僚となっていきます。直之の孫の成之は海軍の官僚として今の金にして3000万円ほどの年収を得る。親類の武士たちは多くは没落をしていく。しかし成功をした猪山家も資本主義の中の日清日露戦争に翻弄される。
だいぶ前に古代の荘園制の崩壊と武士の台頭がどのように行われて日本がどのように武士の世としての中世が生まれたかという本を読んだことがありますが、今回読んだ本は、その武士たちの封建制の時代がどのように資本主義としての明治の代になっていくかを一人の武士の生活からの一面として描かれているのではないでしょうか?
武士はもう必要ではなくなった。刀では西洋の大砲や軍艦には勝てない。貿易が国を発展をさせる。そのためには日本も向上や銀行鉄道などが必要になりその担い手は商人だったということでしょう。明治の代が猪山家に求めたのはやはり算盤と数学だった。武士の猪山家ではなかった。武士の「身分費用」というものは商業を発達させるある役割はあったろうが、新しい時代にはただの無駄でしかなくなったのである。
【2012年】ツイッターつぶやき
朝日新聞の記事に「それでも、政策で決める選挙だ」という記事があった。
リンク先は記事の中身をすべて読めませんが、マトリックスという図だけを見ても興味あるものだと思います。
民主党が適したマニフェスト政治はある程度の政策を決めましたが、肝心要の国民生活に関係する消費増税を菅政権がいきなり打ち出して野田内閣で成立をさせ、また原発事故というものに対する対処やその後の大飯原発の再稼働も行い、国民意識からかい離したものが目立つ中にマニフェストというもの自体への不信感が生まれてしまいました。
しかしいくら政策を立てても実現しないなら。。。。。といった意識になったならそれもまた国民の悲劇ではないでしょうか。
同時にこのマニフェスト政治の失敗から政治の民主主義も問われるようになり、「決められない民主主義」といった意見も出るようになってしまいました。決められないのは民主主義が邪魔だからではなくて、常に二大政党での政局政治の結果としてのねじれにあったわけです。
この民主主義が邪魔といったものに自民党や維新の会の改憲路線も無関係ではないのではないかと思います。これも国民の悲劇です。
こういった視点で見ればやはり「政策で決める選挙だ」。
マトリックスの図を見ると、自民党・維新の会・みんなの党が改憲をはっきりといい政策的には新自由主義といってもよい「小さな政府(個人で自立することを重視)」政策を持ちます。一方では、社民党・共産党・民主党(これは党内の一部とみた方がいいのかもしれませんが)・未来の党・公明党(これは自公路線がありますから今後どのような立場に立つかにありますが)福祉国家あるいは社会民主種や共産主義そして一方的な新自由主義ではないという意味の出の中間派がいる。これは改憲に対しても同じ構図を示して護憲と中間派といったものになります。
この構図はしっかりと見なければいけないと思います。自民党や維新の会が改憲をそして自民党が国防軍構想を出していること自体選挙の争点をつくりだしています。維新の会は最低賃金法の廃止などとも言っていますし、自民党は建設国債という国民の借金を増やして(10年で200兆円)公共事業をといっています。どちらもが企業の利益が上がれば国民生活も向上するといったこれまで失敗した政策の繰り返しでしょう。脱原発も消極的で、この先どうなるかを見て決めるといったような原発の継続を言っています。
民主党やその他の小さな党も意識するしないにかかわらずこの自民党の争点づくりに対する政策を言いはじめています。それがある意味反自民党的な結集する条件を産む可能性があります。生活党が未来の党に合流をして社民党との選挙協力や政策協議にも進みそうです。
それぞれの党がそれぞれに選挙目的であってもその考え方と政策を出しているわけですが、それがだんだんと一つの争点となって見えてきているのではないでしょうか。それが憲法と暮らしという国民生活に多大な影響を及ぼす大きな争点であることが見えてきます。
【2013年】ツイッターつぶやき
日本政府はずっと安保の中に
軍事面の安保の重要さと世界1位と3位の経済を握る経済的なつながりも切り離せないが互いに安保関係は利用するものという位置づけが強くなっているのかもしれない。あるいは今のアジアでは安保関係は古い体質となってきているのかもしれない。
日本は安保を利用しながら中国をけん制しようとするが、アメリカは軍事面の安保に抵触しない事柄なら中国ともロシアとも連携を強める。日本は独自の道を歩く方向を示して改憲を中心に今秘密保護法を対米関係から離れた統治の中に組み込もうとしそれをばねに力による中国への圧力にしようとする。
中国の今回の領空識別権問題でも朝日新聞の記事を読めば、日本がアメリカに要求する対中国への強硬姿勢とアメリカのアジアの安定とに違いが出ている。民間機の飛行計画の中国への提出での違いが出る。その中にアメリカが望んでいるものが見えるだろう。この中に安保自体がどのような役割を持つのか?もちろん中国が軍事康応に出ればアメリカは動くでしょうが、中国はしたたかで強硬さと安定化を見せる。強硬さが行過ぎれば危機になるが安定化でそれを緩和している。アメリカはその中国のアジアの安定化という面に乗らざるを得ないでしょう。安定化には両国は一致をする。その中で日本の強硬路線がさらにアメリカを困惑させるでしょう。改憲や秘密保護法の中身においてはアメリカさえ警戒感を持つ。それは終戦という歴史問題でもある。
韓国も強硬さと安定の両面を持つ。
このまま行けばアメリカが日本をもてあます時期がくるのではないか。
アメリカと中国・ロシアはいざとなれば腹を割った話ができるという互いに敵ながら天晴れという認め合うものがある。それが悪いか良いかは別としても。その中で日本が安保を利用する面が強くなった場合どのような国際関係の中におかれるか。。。。
外交は孤立したほうが負けです。自分を捨てて孤立しないではなくて世界がどのような方向に動いているかの判断の中での「孤立をしない」です。そこに古い日本を見せてはならないということです。
【2014年】ツイッターつぶやき
労働力の移動が必要となる場合とはどのようなときか?
経済が発展しはじめた時に新たな成長産業が生まれてそれがまた産業構造まで変えていくような場合にその成長産業に労働力が足りなくなる場合である。もちろん成長産業が生まれるときにスクラップ産業も生まれるかの世は高い。そのスクラップ産業から労働力を成長産業に移動をさせなければならない。
この労働力の移動は、スクラップ産業での首切りによる失業した労働力の吸収という事になる。労働力の移動はこのように暴力的であり労働者に多くの犠牲と負担をかける。
しかしこのような労働力の移動はまだましな方なのである。
労働力を吸収する産業があり、そこでの賃金が保障されるなら多くの労働者は救われる可能性が残るのだから。
しかし今言われている「雇用の流動化」とはどのようなものか?
失われた20年の中で経済は低迷をして成長産業が見えない時代になっている。デフレ不況は深刻となっている。このような中では上記したような「労働力の移動」は起きない。
そこで起きているのは雇用の流動化といわれるものであり、アベノミクスにおいて失業率が下がり雇用が拡大しているといわれるが、中身は正社員の割合の現象であり、不安定雇用の増加という形をとっている。このような正社員から不安て雇用に労働力を移動させるものが雇用の流動化なのです。安定した中間層としての雇用と賃金を低賃金へと労働者を移動をし、解雇の自由論が高まる中での不安定な雇用の増加なのである。
ここで見る雇用の流動化は明らかに労働力の移動とは違う。不況の中での企業の生き残り策としての雇用の流動化であり、経済発展の過程においてのスクラップ&ビルドでの労働力の移動ではない。
雇用の流動化は許してはならない。
【2015年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2016年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2017年】ツイッターつぶやき
newsweekに二つの記事があった。
「長時間労働で減退する、日本の働き盛りの知的好奇心」
「働き盛りが読書しない日本、やがて訪れる思考停止社会」
ツイッターで時々目にするツイートで日本人は今の政治や社会を考えない思考停止になっているといったものがある。すでに思考停止は始まっているのでしょうか?
知的好奇心と読書とは切っても切れない関係にあります。
ですから、知的好奇心が減退し、読書しない人々が増えていけば確かに思考停止社会を加速するでしょう。今は読書をしなくても様々な知識や情報を手に入れられます。しかしこの知識や情報は思考ではない。膨大な知識や情報量があるがそれを処理するには思考が必要です。知識と思考は別物です。最近考える力の教育が言われていますが、まさに思考は考える力です。
読書はもちろん知識や情報を得るものです。しかし1冊の本を読む行為と時間は数日という長く続くものです。この中で考えることが必然となります。時には前のページまで読み返したりしながら理解しようとします。また以前読んだ関連する本を開くこともあるでしょう。又は小説や詩の本を思い出すことがある。今読んでいるほんとはまったく関連性のない本を思い出しハッとすることもある。そして批判的に読み進める中でまた考える。
本を読んでもほとんど中身は忘れ去られることが多いのですが、すべてを忘れるのではなくて思考の血肉として残っているものです。
このように読書によって得た思考力(考える力)が今の膨大な知識や情報を処理する基礎となります。
知的好奇心は知識や情報をたくさん得たいというものではないと思います。
思考する中で、これはどうなんだろ?あれはどうなんだろ?と考える中で知りたいという気持ちが高まる状態でなければ知的好奇心は膨らみません。詰め込みは苦痛となりますが、考えることは楽しみとなっていきます。ですから知的な人ほど専門の知識から離れた様々な知識を追い求められます。
では日本社会が思考停止になっていく理由は何でしょうか?
読書量と言いますが読書は有り余る時間があるからできるというものではありません。先ほど書いた知的好奇心がなければ本は読めません。長時間労働だから読書もできずに知的好奇心が薄れるとだけでは説明できないでしょう。
社会のシステムが知的好奇心や考える力を必要としないようになっており、それを政治や企業が生み出しているという事です。
1960年代から70年代の安保闘争時代は労働者や学生は自ら考えることを行っていました。しかし政治や企業はそれを必要とせず逆に邪魔になった。知的レベルが高く国や企業に何も考えずにあるいは忖度して従う人間作りが求められた。今後憲法改悪がありそうですがこれが考えない日本人をさらに増やして考える日本人を押さえつけるでしょう。
こういった社会が日本の社会システムとすれば考えることひどい場合は読書することが異端視扱いされる。
「趣味は?」
「読書かな・・・・」
「まじめぇ~・・・あははは」
こういう日常が生まれます。
同時に議論を深めること自体も蔑ろにされます。
議論よりも力ですよね、今の時代は。
古代弁証法すら忘れ去られている。
この状態がまた政治にも働き方にも悪影響を及ぼして負の連鎖は底なしとなる。
何も日本人の知的レベルが下がっているわけでもないのに今後はノーベル賞が無理ではと言われている。知的好奇心を活かせない社会システムならこれは当たっているでしょう。そしてアメリカなどの大学で働く研究者がノーベル賞でも取ると、「日本人、すごい!!」と見当はずれの愛国心が生まれる。
(追記)ツイッターから
知識や情報という面では、スマホ1台持っていれば深い専門性を求めなければ図書館を持ち歩いているようなもんですね。しかし思考・考える力はスマホにはない。思考・考える力も知識や情報としてでしか知りえない。
こういう考え方をしなさいとスマホが教えてくれてその通りに動くようになった時、人間は人間でなくなる。こういう考え方をしなさいというものはすでに誰かがインプットしてしている社会かも。。。。
【2018年】ツイッターつぶやき
朝日新聞12月2日朝刊1面に「中絶か帰国か 迫られた実習生」という記事があった。
ベトナム人女性【22歳】の外国人実習生は妊娠をした。すると企業の担当者から「中絶するか、ベトナムに強制帰国かのどちらかを選べ」(引用)といわれた。しかも中絶をするなら「中絶の薬を与えるともいわれた」(引用)
渡航費の100万円は親類などからの借金。日本で働かねば返せるとは思えない。
そして女性は逃げた。。。。。
またある研修施設では「恋愛禁止」に署名させられる実習生も出ている。日本で働くための「意識改革」。。。。
政府は2016年の答弁で妊娠、出産、結婚を理由とした強制帰国を違法ととしたようである。しかし現実はこの「違法」が正々堂々と行われている。
現在国会でも新たな外国人労働者の受け入れについての法案が討議され散るが、衆議院ではやはり数の力で討議時間も少ない中で可決され参議院でも野党は政府の矛盾を突く発言が出ている。このままではやはりかうのちからにより可決されるでしょう。
法で縛りをかけたとしても細かな点になれば省令で決められる。症例は法より縛りが緩くなるでしょうし、しかも企業内となれば無法的な取り扱いがされる可能性を朝日新聞の記事は表している。
外国人労働者は休暇制度があると聞けば、先進国である日本だから真に受けて休暇を取るでしょう。しかし現実は日本の労働者も休暇を捨てている実態が。その中で休暇も取れないという真実を目にすることになるでしょう。日本で働くための「意識改革」は休暇を取ることは迷惑をかけることになる。結婚すれば寿退職。さらに妊娠すれば生産性が落ちるという論理外資の入学試験にも出ているような実態。子供を産めば保育園もない。この真実を知らしめるのが意識改革という名の研修なのでしょう。
たぶんこのベトナムの女性の現実を見て、日本の労働者はそうは感じるところが少ないのではないかと思う。日本人ならば法で認められる労働条件などは現実には存在しない部分があることを日常みているのだから。
もうこのような社会は発展性がないですね。
gooのお題に「コスパの良い神コスメを教えて!」というのがあったので参加しようかと思ったが、お題の意味が全然理解できない。
コスパ?コスメ?神?(これは神対応の神のようなものか)
お題のページを覗いてみたらどうも冬の乾燥肌対策のことらしい。
おやじの僕にはわからないはずですなぁ。。。。。
「コスパとは?」「コスメとは?」。。。。
検索をして調べてみましたが、略語のようですね。
なるほど。。。。と、理解できたので、確かに僕も乾燥肌で脛に粉が吹くほど痒さに苦しんでいることがあるので書こうとしたが、女性たちがもちもち肌対策を語り合う中におやじの脛に粉が吹いているなどという話を入れると、女性たちが眉間にしわを寄せられるかと思いよしました。
コスメもコスパも略語ですしわからないですが、最近テレビを観ていても何のコマーシャルなのかがわからないときが度々あります。妻に「今のコマーシャル、何のコマーシャルなの」と聞いてなるほどと思います。それでも妻もわからないものがたくさんある。
こうして老人は置いてけ堀になっていくのでしょうか?
ウウウ・・・・・
イカン、イカン!!
「コスパの良い神コスメを教えて!」のようなものも興味を持って調べてみることが大切なのか。。。。。?
【2019年】ツイッターつぶやき
嫌いな言葉に「長いものには巻かれろ」がある。
長いもの=力のある者
たしかに力のある人にくっついていれば得なことが多い。
しかしこれには自分を殺さねばならない場合が多い。
今の日本の政治や社会に対して不平不満はたくさんあるでしょう。
しかし不平不満ばかり言っていてもらちが明かないから
長いものには巻かれて生きていれば得だし楽であると
しかし長いものに巻かれていると自分を否定せざるを得ないのが苦しいから
長いものに巻かれながらそれを肯定して長いものに巻かれない人を攻撃すれば自己満足は得られる。暴力でもいじめでも何でもありとなる。
今の国民の多くがこんな状態ではないかな。
この長いものには巻かれるの対義語を調べていたら、
蟷螂の斧という言葉があった。
対義語としては弱い者でも強い者に立ち向かうということになるらしいが、
同時に蟷螂の斧は力の弱い者が強い相手に立ち向かっても負ける。そんなむなしさを言い表しているともいう。
まぁ、こうなると長いものには巻かれろの対義語とは言えないくなる。
しかしこのむなしさが諦めにつながり結局は「長いものには巻かれる」となってしまう。
たしかに弱い者は負けるのですが、かといって蟷螂の斧でも持たないと強い者はのさばり続ける。歴史を長いスタンスで見れば、強い者でも必ず敗れてきた。なぜかといえば、強い・弱いは相対的であり強い者に弱さが出れば弱い者は強くなる。強い者にも弱さがあるということを忘れてはいけない。そう思うならば蟷螂の斧もまんざらむなしいものではなくなる。
人の歴史はこんな蟷螂の斧のようなものが無数に繰り広げる舞台ったのです。
【2020年】ツイッターつぶやき
昨日書いた「抗体・免疫・抵抗力そして分散」の続きです。
そもそも役所や銀行などが土日や休日が休みになるというのが変なものです。わざわざ仕事を休んでいかなければならないんですからね。まだ専業主婦の奥さんでもいる夫婦ならどうにかできますが、今は共働きが当たり前になっています。もちろん独身者は困りますね。
土日休むということから平時にに人が集中して密ができます。もちろん通勤電車も込み合います。シフトを組んで土日や休日も営業すれば密も解消されるでしょうし、平日の出面が減れば働く人の密も避けられます。
社会全体がこのようなシフトを組むようになれば密を避けられますし経済効果もあるでしょう。
また出勤時間をずらしたり時短も有効でしょう。そして何よりも休暇を完全に消化することも必要です。
連休を分散できますし、すると旅行先でも観光地や歓楽街でも人の密が分散されるでしょう。
家族単位でこの家族は月曜日と火曜日が休みとか分散すればいいのです。すると学校なども土日に休む必要がなくなる。
こう書くと非現実的だという方もいるでしょうが、現実は上記したような分散が行われている仕事が多いのです。それによって社会は維持されています。
【2021年】ツイッターつぶやき
これまでもワクチン接種による副反応として心筋炎が言われていましたが、厚労相はやっと心筋炎を「重大な副反応」と認めたようです。
ただしコロナ感染での後遺症としても心筋炎があるため判断は難しくなるのかもしれません。
コロナで心筋炎の後遺症になるのもワクチンで心筋症になるのも悲劇ですが、「その頻度はワクチン接種後よりも高いことが分かっている。」とはいえ、コロナは自然の災いとしてのものですが、ワクチンは人工的な厄ですからね。
今後オミクロンが広がるかもしれませんが、ワクチンの効き目がどうなのかもはっきりしない中で3回目の接種がはじまりました。ワクチンの効き目が弱いならば、あるいは重症化しない新型のウイルスならば、無理な接種の方が危険性は大きいと言えるでしょう。
【2022年】ツイッターつぶやき
マイナンバー顔度を普及させようと政府はポイントをばらまいたり、健康法検証や車の免許証をマイナンバーにすると言いだして半強制的なやり方をしている。
一方ある程度普及する中、企業や行政で紛失や漏洩が起きている。
5年間で3万5千人分が報告をされているそうです。でも、これは明らかになった人数ですから実態はもっとたくさんあるのではないかと思います。
現在6割程度にマイナンバーも広がっているようですが、さらにさまざまなところでマイナンバーと暗証番号を使うようになればさらに多くの紛失や漏洩が発生するでしょう。紛失や漏洩というだけならまだよいですが、そこから犯罪に結びつくと被害は大きくなるでしょう。
最近ではコンビニで酒やたばこを買うための身分証明にも利用するという話も出ていますからマイナンバーは日常の生活の中に入りこんでいきます。
日本は高齢化していますから。今でも高齢者狙いの詐欺が後を絶たない状態ですから、すぐにマイナンバー詐欺も出てくるでしょう。
マイナンバーが生活上において必要だというものはほとんどありません。政府が紐付けするために必要になってしまうというだけですね。