夕螺の一言日記

毎日心に浮かんだことなどを書いてみたいと思います。。。(2014年3月13日開設)

「12月 1日という日」

2024年12月01日 08時08分48秒 | 「何を思ってた?」(旧ブログまとめ)
【2023年】ツイッターつぶやき
昼飯は外食でした。
街の定食屋さんのようなところで、夜は酒を出すようでつまみメニューがたくさんありました。
カツとじ定食にしましたがカツが小さくなりました。
時々行く店ですが、そうは値上げをしていないようでしたがカツが小さくなっているような。
値上げをした高いものを食うか、値上げはされないがしょぼくなったものを食うか。
貧乏人は究極の選択をせざるを得ない世の中ですなぁ。
これが日本社会自体の貧困化です。

≪過去の記事≫

【2003年】
「ハードボイルド」「ハードラック」
幻冬舎文庫
吉本 ばなな 著

どちらの作品も死んだ人を通してそこに残された人たちの経験が著されています。
「ハードボイルド」は、ある女性が不思議なまるで深い夜のような深い霧の中に住むようなそんな女性千鶴と一緒に生活をし、肉体関係を持つまでにいたっていました。その不思議な女性と別れしばらくすると火事で死んでしまう。
ある日主人公の女性はハイキングに行き、石ころが積まれた何か不思議な力を感じる祠を見る。夜になってやっと安宿にたどり着くが、そこで不思議な夜の体験をする。
夜明けを待ち遠しくなるようなそんな夜。
宿に着く前に寄ったまずいうどん屋の中では、バッグから知らない石ころが転がり、その後にそのうどん屋はボヤを出す。あの祠の石か?火事・・・・・死んでしまった千鶴との関係?
主人公の女性は、何回も千鶴の夢を見る。知っている千鶴とはなんとなく違う。そのうえ怪しい女性の訪問を受ける。宿屋で自殺した女性の幽霊。
主人公も千鶴も幽霊も不幸を背負った女性ばかり。でも千鶴は生活音の中に人間の暖かさを感じて生きていた。別れを持ち出した主人公は、千鶴がどう思っていたか心配だった。このいやな夜も千鶴の不思議な力か?しかし人の暖かさを知る千鶴は、最後の夢に出てきて、はじめに見た夢のいやな千鶴は私ではなく、今見ている夢がほんとの私という。千鶴は主人公が邪悪な祠を見たので心配になってついてきた。
うどん屋がボヤで終わったのも千鶴が助けてくれたのか?
千鶴は邪悪なものから主人公を守ったようである。
主人公は、千鶴が自分を恨んでいたのではないかと心配であったが、この夢から、千鶴が心配をしていてくれたことがわかり、二人の生活を良い思いでとしていけるような終わり方である。
「ハードラック」は、脳死をした姉を通じて、姉の婚約者の兄と主人公とのふれあいである。婚約者を残し脳死状態の姉。それもその婚約者は弱気ですぐに婚約を解消するような人間。そんな姉が横たわるベットの前で知り合う。
お互いに生命維持装置をはずす直前の姉を前にして素直にはお互いの感情を出せずにいる。
維持装置がはずされた夜、人は死ぬ前に頭の中に響くような音楽響き渡るという話から、姉の好きなユーミンの歌を二人で歌う。このとき二人の姉へのこだわりが消えていく。二人はそれぞれの道へと進むが再開を約束する。
人の死は悲しみであるが、その死んだ人が愛してくれることによって自分は守られているというようなそんな不思議な気持ちを抱く二つの作品でした。
このように霊的なあるいは不思議な力のお話としてだけではなく、死んでいくときに自分が残す人々に何を残せるか、それが邪悪(というよりも悪い心か)なものか、幸せか。それは残された人々の心へしか残せないものである。
僕は不思議なお話という面ではなく、この心のこととして何か温かいものが読後に残りました。

【2004年】
唯川さんの「肩越しの恋人」を読み終わりました。
近いうちに感想を入れます。
このところ女性作家ばかりを読んでいたので、脳みそがとろけそう。。。(笑)
何も甘くて飽きたというわけではないですよ。少しづつ女性作家の世界がわかってくると、ますます深みにはまっていくほど好きです。奥が深いです。
しかし、好きな善哉だけど、ちょっと柴漬けを合間に食べたいということもありますからね。。。
そんなわけで漱石のお弟子さん内田百閒の「私の漱石と龍之介」を読むことにしました。たしか内田百閒は、川上さんの作品に影響がったというようなことを読んだ覚えがあります(記憶違いだったらゴメンナサイ)。川上さんは、漱石の「夢十夜」や初期のロマンティリズムの孫弟子と言うことか?
内田百閒にも興味があります。
昨夜の忘年会が始まる前に大きな本屋さんで見つけました。
そういえばノーベル賞作家大江健三郎も読んでいなかったので(昔からあまり言い印象がなかったので)買ってみました。こちらはまた時間を置いてから読みたいです。
相変わらず空気が乾燥しています。唇ががさがさ。。。。

【2005年】
師走になったせいということではないと思いますが、いつもは渋滞などはない路地が渋滞してました。どうも事故らしかったです。なんとなく気があせるような雰囲気が町に漂っています。
12月ですなぁ。。。
桜の木など、紅葉していた葉もほとんど散ってしまいました。まさに秋が冬にバトンを渡そうと併走しているような季節です。
水道の浄水器のフィルターがそろそろ替えどきになってきたので早めに刈っておこうとスーパーに行きました。浄水器本体をこのスーパーで買ったので交換フィルターもあるはずと思ったのが間違いです。売るだけ売って交換フィルターなどは置いてない。我が家の使っている機種だけではなくて、他のメーカーや同じメーカーのものでもフィルターがほとんど並んでいない。
同じメーカーの浄水器も様々な型のものがあり、同じ機種にもいろいろなタイプのフィルターがある。そしてメーカーも数社あるわけで、すべてのメーカー・機種・フィルターの種類とある中でスーパーでもすべてのフィルターの種類を在庫するというのは難しいのかな?それにしても使っているフィルターの機種番号のようなものをしっかりとメモして買いにいかないとえらいことになってしまう。数千円もするものだから。。。
こんなわけで浄水器のフィルター一つ買うにもイライラするなんて、世の中が便利になったようだが多様化しすぎてシステムを維持するのにぎくしゃくさが出ているのではないか。浄水器のフィルターが売られていないということぐらいならまだいいが、今問題になっている欠陥マンションの問題は、衣食住の一つである国民生活に最も重要な住居の問題であり、それは命の問題であり、この安全上の社会的システムが狂ってきていることである。豊かさが表面的にはあるようだが、目に見えないところでは貧困さが存在し、その社会的貧困さが目に見えるようになってきたということである。ネットでの株売買が進み株価も上昇している中で、デフレからの脱却が言われ始めているが、経費削減のためには詐欺まがいの欠陥マンションが平気に売られること自体デフレなど脱却はしていないのである。表面上の反映と影の貧困が同居をしている。
競争社会というシステムの中で、弱者が犠牲になうような事件なども増加をして人の心もすさんできている。心も貧困化をしている。
窮乏化作用というカビの生えた古臭い言葉が庶民生活の中にしみこみ現れ始めているのではないか。

【2006年】
(記事なし)

【2007年】
(記事なし)

【2008年】
(記事なし)

【2009年】
(記事なし)

【2010年】ツイッターつぶやき
寝ぼけ眼でコーヒーを淹れ新聞を広げる。まだ掃除もしていないリビングに数日間の新聞が積まれている。一面の記事が目に飛び込んでくる。まだ目覚めぬ脳みそに刺激が入ってくる。コーヒーは苦い。。。。。
脳みそに入ってくる刺激は混乱を引き起こすほどに盛りだくさんである。よいことならいいがそうではないさまざまな刺激のある棘のある文字。それは混乱の中に曖昧な一つの言葉になって。
ソビエト崩壊に似ている。。。一つの政治的システムの崩壊。
ソビエトや東欧諸国の崩壊の根っこは経済的なシステムの崩壊があったのだろうが、一つの社会システムが崩壊するにはその経済的基盤の脆弱性を基本としながら上部構造の崩壊がはじまる。それは民主主であったり事由というある意味抽象的な言葉が具現化する瞬間にある。「自由と民主主義の勝利」この言葉は中国に対する圧力の言葉であり、極東で言えば北朝鮮に向けられている。
しかし、この「自由と民主主義の勝利」は、ソビエト東欧諸国崩壊に対する先進資本主義国の宣言であったが、この言葉自体が今や先進資本主義国に投げかけられるように何かがうごめきはじめているのではないか。
それは、その崩壊の兆しは、やはり根幹は経済的矛盾の深まりであり、その矛盾を現在のシステムでは解決できない状態に深めてきてしまったことにあるが、その矛盾の具現化は、社会システムのちぐはぐさとして現れ自由や民主主義とは何かを問い直そうとせざるを得ない状態になったことである。
先に書いたようにさまざまな新聞の記事は脳みそを混乱させるように乱雑に情報として現れるが、その一つひとつが社会の崩壊に小さな表れとなっているのではないか。
今の社会はネット社会である。リアル社会はその中に貧富の差を拡大させるが、ネットはこの貧富の差を緩和するように無料となってその情報をやはり乱雑だがあるときは集約をする。ソビエトの崩壊時はどうだったか、今の中国への民主化を要求する手段としてのネットはどうなっているのか、同時にそれは先進資本主義国の自由や民主化をも経済的批判として何かがうごめき始めているのではないか。それは情報発信の特権がマスコミや知識人などの独占から離れて一般国民の手に入ったという自由と民主主義の発展である。
しかし同時に日本でも尖閣諸島ビデオを発信した動きもあったし、アメリカにおいて「外交の9・11だ」と言わしめるほどの外交文書の暴露があった。これは報道の自由と国民の知る権利という自由と民主主義の問題を投げかけるだろうが、反面その情報を公開するやり方への自由と民主主義の問題もあわせて投げかけるものである。
リアル社会においての混迷とそれが具現化し波及するにつれてのネット社会のうごめき。ここからもう一度徐々にではあるが自由と民主主義とは何かを見つめる動きが出るのは必然だろう。ここに到達してこそ自由と民主主義は目に見えた穏健的だが力のある国民運動として現れるだろう。
中国のネットに対する規制が言われる。一方ネットが無料(低額)であることに対する規制も現れるかもしれない。ネットも一つのマスコミのようなもので広告費からなる。経済情勢が新聞やテレビのあり方を見直すようなところにもきているが、ネットも同じ経済的基盤の中にある。寄付によって維持するといった動きも。しかし企業の売り上げは巨額な広告料を支払ってもその広告の魅力は捨てるわけにはいかない。リアル社会はそんなさまざまな一つの矛盾の中に、その矛盾解決の中に自由と民主主義を発展させる動力を持つ。
必然性はどこに?目を見開いて見つめたいです。

ううう。。。。雨
家の中の洗濯物がいつまでもじっとり。
仕事が遅くなったので外食。
ラーメン屋さんに入ったのですが、このラーメン屋さんがすごい!中華のメニューのほかに、飲み屋さんで出すようなつまみがいっぱい。
思わずつまみとビールを頼んでしまった・・・・ハハハ
おいしかったです。
川上弘美さんの「溺レる」を読んでいます。
なんだかなぁ・・・・・
絶望感というのか、動物的本能だけというのか・・・・・
かといって人間的なものもある。けど、その人間的なものをまた否定するようなものがある。独特な世界があり、なぜか樋口一葉の作品を思い出してしまった。。。。。

【2011年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

【2012年】ツイッターつぶやき
「仕事ではなく身分が欲しい日本人」という文章が出ていた。
「日本人の多くが仕事ではなく身分を欲しているからだと思う。つまり、現在の正社員のように身分として雇用と収入が安定していることが重要なのであって、それ以下の収入や不安定な雇用については、「何の足しにもならない」と考えられている」
なんだか、発想がさかさまになっているんじゃないかと思います。
日本は格差が拡大して労働者の中にもその格差が拡大した。昔から男女格差や企業規模での賃金格差そしてもちろん正社員とパートなどの格差などもあったが、この間派遣法の改悪などから格差は拡大していると思う。これらの格差の拡大は自然水準ではない。企業論理とそこにくみする政治的な人的な格差拡大である。この格差の拡大からの格差が目にはっきりと見えるようになり、社会問題化する中に階層という意識も生まれ、雇用身分もそこに位置する。このような流れが自然なものとみると、「日本人の多くが仕事ではなく身分を欲している」というさかさまな発想が出てくるのだろう。
なぜ派遣やアルバイトパートなどの非正規労働から正社員を望むか、それは身分ほしさではなくて少しでも高い賃金や条件を得たいと思っているからである。
この身分から見た正社員と非正規社員との格差をなくすことを正社員の身分剥奪から進めようというのはたしかに格差の縮小でしょうがこういったマイナス思考の考え方は案外多くあり、公務員の懐古規定やら賃下げ人減らし攻撃にも表れていたし、それがついに正社員攻撃に向けられることになってきているという事でしょう。
「労働市場制度改革を実行すれば、正社員の立場は不安定になるだろう。一方で、最低賃金廃止と解雇規制緩和により雇用は増える。」
「労働市場制度改革で自然失業率を下げ、その他の規制緩和と合わせて潜在成長率を上げていくことが、雇用創出と日本経済の再生には欠かせない条件である。」
ここで言う自然失業率は長期的な結果としての失業率といったようなものでしょう。なぜ「最低賃金廃止と解雇規制緩和により雇用は増える」といえるのでしょうか?賃金が安くなれば雇用は増える?低賃金化の中で自然失業率は下がる?
例えば日本の企業が中国に安い賃金労働を求めて行ったとき、仮に中国の賃金が日本の半分だとしても中国工場で日本工場の倍の労働者を雇うなどという事はありえないでしょう。ましてやデフレ下の国内で賃金が半分になったからといって倍の人数などを雇用はしないでしょう。やはり中国と同じように限られた人数しか雇用はしない。雇用の拡大のためには企業の設備投資が必要で、倍の人数を雇うには倍の設備が求められる。中国のような成長過程の国ならあり得ますが。自然失業率が下がらないでしょう。
結局は正社員層という中間層を破壊して低賃金化にしていくことでしかない提起なのです。
民間中間層そして公務員という中間層を破壊して、同時に低賃金層はそのままにあるいはさらに低賃金化に持って行くことは、その国内消費を下げてデフレはさらに進むでしょう。

【2013年】
(記事なし)

【2014年】ツイッターつぶやき
ブログでは「悪性の物価高」という言葉を使っていたが、最近は急激な円安に対して「悪い円安」という言葉観る。政府もこの急激な円安に警戒感和示す。
円安は株価も上げて物価も上げてきた。しかしこの円安によって労働者の実質賃金は下がり、国内(内需)産業はやはり輸入物価に苦しむ。円安の効果が見えていたと仮定してもその円安が逆に足かせとなるという分岐点にきているのではないか?
原油の値下がりが続いている。これは輸入物価を下げて国内産業のエネルギー使用の負担を下げるでしょう。すると値下げを許す環境が出てくる。物価を下げる圧力となる。物価が下がってもすでに労働者の雇用環境を見ても個人消費は急激には増えないでしょう。すると値下げ傾向は下手をすれば値下げ競争ともなる。それはデフレ圧力でしょう。
一方では消費増税の延期で国債の信用が落ちてきている。それが円安要因になるかもしれない。もちろん日銀は追加緩和をしているわけですから円安は進む。
デフレ圧力が強くなる一方での円安。
これはやはり悪い円安でしょう。同時に悪性の物価だからこそデフレ圧力は常に働いていたのです。

【2015年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

【2016年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

【2017年】ツイッターつぶやき
今年はフリージアの他にブローディアや球根ツリガネソウあと名前を忘れましたが2種類植えてみました。
フリージアはすでに芽が出て大きくなってきましたが、その他の球根は芽が出るのが遅くてやっといくつか芽を出しました。
フリージアが主体なのですがその他の花がうまくフリージアの開化に合えばきれいだと思います。紫や黄色、ピンク。。。。
春が楽しみです。
昨日書いた多年草のプランタそして今回の球根のプランタ。。。。植え替えの楽しみは減りますが大きくそして球根が増えてどのように成長してくれるかが楽しみです。

スーパーに行ったらエゴマがあったので買ってきました。
このエゴマで何をつくろうか?
タコの刺身を買って和えることにしました。
エゴマは千切りにします。そこに醤油、味噌少し、砂糖、ごま油、白ごま、七味唐辛子、おろしニンニクのたれを入れて混ぜておきます。
ここにタコの刺身を一口大に切って入れてさっと和えました。
試食をしたら案外うまいです。
エゴマは好き嫌いがありますからね・・・・・・でも日本酒があいそうです。

【2018年】ツイッターつぶやき
アゴラに「ランチを値下げではなくて値上げしてほしいという理由」という記事があった。
超人気店のランチ時間が混雑をしてヘビーユーザーである著者が困っているようである。そこでこの著者は
「ランチの価格を値上げして需要のコントロールをして欲しいと思っています。現状はフリードリンク付きで1200円程度ですが、これを1400円くらいに値上げする。そうすれば、ランチタイムの殺人的な混雑は緩和でき、従業員の待遇も良くなるはずです。」(引用)
結局1400円という値段に躊躇する客が出るために「殺人的な」混雑が避けられるのではないかという発想でしょう。
この著者はもちろん1400円でも食いたいという気持ちがあり、財布の中身を考えても躊躇はしないということでしょう。今の時代こういった発想をするカネ中心の考え方は多いのでしょうね。躊躇して行けなくなった人たちもランチを食いたいわけで、その人たちとは財力での差だから仕方ないと。。。。。。
ひどい発想ですなぁ。。。。。
昔聞いた話だったか、駅前の駐輪場が満杯で増やしてほしいという要望が出たが、そこで何をしたかというと駐輪場料金を値上げしたそうです。すると要望を出す人も減ったといいます。
後期高齢者の医療費負担も昔は無料だったと記憶していますが、病院の待合室もお年寄りでごった返した、そこで1割負担をというものが出たような?(記憶違いならごめんなさい)
タバコも同じ発想があって、値上げすれば禁煙する人が多くなるだろうと毎年のようにたばこ増税が行われる。禁煙運動にはこの発想がある。
このアゴラの記事のような発想をする人々が社会の隅々にまで広がっていくでしょう。
発想の中身は少し違いますが、政府や日銀は物価上昇を良しとします。これにはマスコミもたくさんの経済評論家も否定をしません。その政策にあるアベノミクスと日銀緩和は経済の好転からの物価上昇ではなく、結果として輸入品の物価上昇を起こしてしまった。物価を上げる(値上げをする)という発想には必ず矛盾を大きくする危険性が隠れている。

ちょっと落ち着いたテンプレートにしようと思いました。でも少し明るめのベージュ系に。。。。。

【2019年】ツイッターつぶやき
「国会審議中にマイボトルでコーヒーを飲んではいけないのか-。小泉進次郎環境相が、慣例に縛られた国会のルールに一石を投じている」(産経新聞
僕も国会銀も審議中に缶コーヒーぐらいは飲んでもいいと思う。我慢して居眠りをされるよりずっといいでしょう。
しかし役所や企業の窓口に行っても昔のように湯飲み茶碗を机の上に置いている風景はもう皆無になっている。お客様(市民の皆さん)にだらしないものは見せられないという理由もあるでしょうし、苦情魔の餌食にもなる。そして理由の一つに仕事の生産性が落ちるという企業論理も存在する。
以前ちびだら飲みと喫煙という記事を書いたが、喫煙は喫煙所に言ったりして生産性が落ちる。労働者間でも喫煙者ばかり求刑しているという不公平感が言われた。しかし喫煙がだめで缶コーヒーならいいという論理は成り立たない。禁煙の次はちびだら飲み禁止でしょう。もちろん自由な働き方を進めている企業は違いますが。
小泉さんも、自分たち議員ばかりに目を向けずに労働者全体を見まわして「働き方改革」の一環としてみるべきでしょう。
国会議員は国家国民のために働いているんだからいいだろう!ではだめです。国民も国家国民自身のために働いているのですから。

【2020年】ツイッターつぶやき
自民党内ではGO Toを来年5月の大型連休まで延長する要望が出ている一方で、東京での感染拡大の中Go Toから高齢者の排除が決まりそうです。高齢者はGo Toで東京にはこれないし東京からも出かけられない。
感染したら高齢者は重症化や死亡しやすいから高齢者を守るやさしさの様に勘違いしてしまいますが、これ以上重症者や死亡者が増えたら医療崩壊してしまうから高齢者を隔離するというものでしょう。
しかし現在の感染拡大の特徴は家庭内や老人施設や病院でのクラスターが多いわけで、Go Toで若い人の感染拡大があれば、すぐに高齢者の感染拡大が進みます。実際、若い人の感染増からだんだんと高齢者の感染者数が増えていったというのが今回の第三の波の特徴でもあります。
Go Toは税金を使った経済対策ですから、平等性が必要です。高齢者除外というのは平等ではありません。コロナ感染拡大を防いで収束してからGo Toを行うべきです。

【2021年】ツイッターつぶやき
             



「東京・天王洲で開催中の「バンクシーって誰?展」。会場内は全て撮影可能で、SNSで連日多くの写真が投稿されています。」(日テレNEWS24
絵画展としては異例の写真撮影OKでした(一部撮影禁止はありましたが)。



今回の展示の特徴はバンクシーがどのようなところに絵を描いたかというものが再現されていることでした。

      

そして社会の怖さとそれへの皮肉。。。。。



そして平和。。。。。



       

【2022年】ツイッターつぶやき
ツイッターより
国は無理のない程度に節電をお願いするとソフトな言葉で国民にお願いしている。
しかし。。。。
電力料金を30%以上値上げを許しているのだから 低所得層に対しては節電を強制しているに等しい。
マイナンバーカードにしても同じで、カードを作るのは任意であり協力をお願いしたいとする。
しかしマイナンバーカードに健康保険証を入れてこれまでの保険証を無くすと。車の免許証やらコンビニで酒やたばこを買うための証明書を入れるとか。
もう、ここまでくると任意ではなくて強制です。
節電は無理はする必要はない。マイナンバーは任意ですと。しかし先にツイートしたように現実は強制となりつつある。
こういった卑劣なことを国が行っているのである。
これまでも喫煙は自由だとして、たばこ増税で低所得層に強制禁煙を進めてきた。格差社会を放置し、その格差を利用した強制禁煙。
金でも、地位でも、腕力でも、それを利用して俺はお前に強制をしているわけではないが、俺の言うことはわかっているよなと恫喝する人間がいたが、国がこれと同じことを行ったら世も末である。
国家権力がこのように動く危険性。。。。。
自由と民主主義という言葉が消えて久しい。
国民のための政治と国家が消えて久しい。
今や恫喝国家となった。
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