誰が、何のために、「君が代」不起立教員を学校から排除しようとするのだろうか?
辻谷博子
職場の若い教員たちをはじめ多くの教員は、私の再任用「否」の結果に驚いています。
私は、そういう彼・彼女らに、是非とも考えてほしいのです。
なぜ、これほどまでに、「君が代」不起立の教員が職や生活を奪われるような弾圧をされるのか、その理由を。
市民のみなさんの中にも、「かめへんやん!たかがウタや、歌ったらええやん」と思っている方は少なくないと思います。
私は、そういう方々に、今回のこと、つまり、「君が代」に立たないというだけで、事実上の「クビ」と言ってよい、
再任拒否がされるのか、その理由を、是非とも考えてほしいのです。
なぜ、そこまで「君が代」不起立の教員を排除しようとするのでしょうか?
結論を一言でいえば、まさに「君が代」とは、そう言うものなのです。
国家のシンボルである国旗や国歌は、誰よりも為政者にとっては必要なのものなのです。
それらを通して養われる愛国心は、なにより為政者が国民を管理統合するとき不可欠なものなのです。
考えてほしい。
なぜ、そこまでして教員に「君が代」を強制するのか?
強制に反対する教員を根こそぎ排除しようとするのか?
為政者のねらいは、教員を通して、強制などではなく、
為政者のねらいは、教員を通して、強制などではなく、
子どもたちが「自然な形」で君が代を歌うようになることにあるのです。
橋下現大阪市長をはじめとして、教員に対し「君が代」を強制して来た人々は必ず次のように言います。
子どもたちには強制はしていないと。
しかし、学校という場で、教員への強制が浸透すれば、じきに子どもたちは間違いなく君が代を歌うようになります。
学習指導要領で「指導」という文言が使われていますが、
学校において、「指導」という名で教員が子どもたちを導くさまは、
誰しも自身の学校生活を振り返ればおわかりになるのではないでしょうか。
つまり、教員にさえ強制すれば、あとは、わざわざ子どもたちへの強制などする必要はないのです。
小学校、中学校、そして高校、学校の儀式において子どもたちは身体的行為として君が代を歌わせられる。
小学校、中学校、そして高校、学校の儀式において子どもたちは身体的行為として君が代を歌わせられる。
厳粛にそしてあたかも自然に。
その先に何があるか、おわかりになりますか。
子どもたちは、それが強制されていることなど全く意識せぬままに、君が代を内面化していくのです。
学校で愛国心が強制されるとき、次にあるのは「戦争」です。
それがわかるだけに、私は、君が代強制には「不起立」で抵抗するしかなかったのです。
今、教育を通して着々と戦争への準備が行われています。
今、教育を通して着々と戦争への準備が行われています。
戦争への道は、学校教育抜きに実現することは不可能です。
教科内容や教科書、行事等の特別活動、いろんな角度から「平和と人権」を阻害する教育が仕組まれつつあるのです。
「君が代」不起立は、いわばそういった流れに対する不服従の象徴なのです。
そう考えれば、なぜ、これほどまで君が代強制に反対する教員が排除されるのか、
わかっていただけるのではないでしょうか。
日本を戦争できる国家としようと思っている人々は、
学校においてあくまで、「君が代」強制に反対する教員はどうしても排除しておく必要があるのです。
子どもたちが「君が代」を歌うことに疑問を持たせないようにするためには、
「君が代」不起立の教員の教育活動などあってはならないことなのです。
私たちはあくまで戦争には反対します。
いや、教員である以上、戦争への道に協力するわけにはいかないのです。
若い教員たちよ、恐がらないでください。
若い教員たちよ、恐がらないでください。
確かに今の学校は、「見ざる」「聞かざる」「言わざる」でないと自分の身は守れない、
そう考えるのはわからないでもありません。
「君が代」不起立教員が、処分され、再任用拒否にある姿を見れば、
くわばら、くわばらと思うのは、ある意味当然かもしれません。
しかし、それが戦争への道につながるならば、教員は抵抗する義務があるのです。
しかし、それが戦争への道につながるならば、教員は抵抗する義務があるのです。
それが教員と言う仕事の責任なのです。
なぜ、「君が代」不起立というだけで、
職と生活を根こそぎ奪うような再任拒否を教育委員会は行おうとしているのか?
そこに政治的意図はないのか?
いま、教育はあまりにも危険な状況に突入しています。
そのことから逃げずに、私はあなた方とこの問題を考えていきたいのです。