昨夜思いがけず、世取山洋介先生の訃報を知った。謹んで哀悼の意を表すとともに、2019年7月の講演を掲載したい。今読み直しても大いに示唆に富むお話であった。
講演「『日の丸・君が代』と子どもの良心形成」
世取山洋介さん(新潟大学准教授)
今、紹介にあずかりました世取山です。「『日の丸・君が代』 と子どもの良心形成」というタイトルの報告を依頼されてい ます。たまたま今日が令和という元号に初めて行われる国政 選挙ということになりましたので、テーマを良心形成という ことに限定せずにやや広めに設定してみたいと思います。
今日の話のポイントの第1は、2012年に安倍が政権に返り咲いた後、教育再生実行改革という旗印のもと教育改革が全面 的に展開することになりましたが、そういった全体状況の中 に「日の丸・君が代」問題をおいてみた場合に浮上する、「日 の丸・君が代」の強制、ないしは「日の丸・君が代」の政治的利用を問題視することにどのような意味があるのか、とい うことです。そして、今日の話のポイントの第2は、教育法制の改革が全面的、かつ深く進んでいる中で、教師という教育 の担い手の問題だけでなくて、学習の主体である子どもの人 格形成という、より基本的な観点から問題全体をとらえ直す 必要が出ているのだということです。
永井先生が長い運動の歴史について振り返りましたけども、 この運動が持っている意味は情勢の変化によって違ってこざ るを得ないし、そういった新しい意味に応えてこそ、運動が よりしっかりとしたものになり、広がっていくだろうという
話をして見たいと思います。
1.安倍第2次政権における教育再生実行改革
早速、レジュメの1に入っていきます。安倍第2次政権が2012年にできた後、教育再生実行改革が大きく進 展していき、現在では憲法改正の三つの柱のうちの一つに憲法26条三項の追加というところにまできてしまっています。安倍政権の再成立以降のこの7年間、教育というのは彼にとって重要なアジェンダであり続け た。自民党は2011年3・11以降、政見奪取後の政策の青写真を着々と練り上げてきたわけで、安倍プラス自 民党、さらには財界が大きな野望をもって、それを実現してきた。一体それはどういうものであったのかと いうことをここで振り返ってみたいと思います。
安倍教育再生実行改革の核になっているのは、人材育成を教育の目的に限定し、それを軸にして国民を統合し、ないしは排除する。統合と排除とが対になっているところがポイントになっています。この手の国家主義的な国民動員には統合の部分が着目されがちなのですけれども、統合と同時に進む排除というのがなかなか面白いところなのです。最近、ファシズム研究で統合と排除の両面をドイツナチズムにおける政策の特 徴としてとらえるというのが結構流行りになっています。
2012年までの教育改革は非常に単純なものでして、学校を取り巻く環境を競争的にし、学校を階層的に変えれば、つまり、校長の独裁制を導入しさえすれば、おのずと教育のパフォーマンスはあがり、優秀な学校は浮上し、ダメな学校は沈むので、その沈んだ学校を刈り取っていけば、それによって教育改革はできると いう、競争的市場原理主義とでも言うべき改革でした。
しかし、安倍政権はそれだけではだめだということで、新しくできてきた産業政策に労働力政策を加え、それを教育政策に流し込むという、こういうことをやってきています。産業政策というのは日本人の耳には 慣れたことばなのですけども、欧米では国家が特定の産業を指定して、その援助と育成を行うという政策は 非常に例外的なものなのです。日本が1980年代中盤までにやっていた経済管理政策というのは、開発国家における経済政策の典型だったわけですけど、それを中曽根以降捨て去っていたのを復活させるというのが、 安倍の特徴だったのです。それは、原子力輸出とか、鉄道輸出とか、巨大公共インフラ輸出に日本の産業発
展をかけるという政策に現れていたわけです。その時に、特定の産業に必要なエリートを効率的に養成するという要請が出てくると同時に、それにそぐわない人間、つまり非エリートについては、教育は放棄し、規格化され細分化された陳腐な労働能力を学校で適当に与える。それが実際の労働現場で陳腐化すれば、私費で教育を受けなおさせて、また労働市場に送 り返せばいいという、こういう政策を取っていったわけです。こういった政策の中心的な部分というのは、 学校体系の複線化によってエリートを選抜し、非エリートには適当な教育をあてがい、いずれにも適応でき ないものについては排除するという、こういうものが政策の基軸として展開することになるわけです。
2012年の暮れに安倍政権が出てきた後、2013年の3月に民主法律家協会主催のシンポジュウムがありまし て、そこで、僕は安倍の新しい教育政策というのがどういうものなのかという報告をしたことがあって、そ の時にこういう話をしました。その時の会場もこの日比谷図書館地下ホールでした。
その後、これがどう展開していったのか、三つの側面に分けてお話をさせていただきたいと思います。一 つは教育行政、学校体系、学校組織の改革、次が教育内容の改革、三番目が「生徒指導」で、改革がどう進 んでいったのかと。
まず、行政組織について申し上げます。2015年に地教行法が「改正」されて、首長の教育行政に対する権 限が一段と拡大することになりました。当時、この地教行法「改正」が何をもたらすのか、よくわからない ことが多かったのですが、その後4年間経ってわかったのが、地方交付税をひも付き化して特定の政策を誘導するための手段として使う。地方交付税の国庫負担制度化と言われているものなのですけども、それによ って、小中段階においては学校統廃合と小中一貫校の建設を誘導し、高校については、特色ある学校づくりを誘導していく。こういうことになっていくわけです。今、伝統的な小・中・高・大という単線型の6・3・ 3・4制が相当に浸食されていまして、小中・高とか、小・中高とか、実質的に学校体系が複線化し、かつ、 それぞれの学校が担うべき役割が、その学校の条件整備の状態に応じて区分されているということになって います。
小中一貫校は小1年から中学校3年までふくめて1500人ぐらいいる学校ですので、教師と子どもとの親密 な人間関係が展開しないのでエリート教育はもとより、まともな教育ができるはずがありません。小中一貫校は、ある種、収容施設みたいになり、多くの場合ノンエリートづくりの学校に落ちていってしまう。伝統的な小・中・高というコースというのは、小学校を維持できる豊かな自治体、豊かな地域以外ではあり得ま せんので、その伝統的な6・3・3のコースを歩んでいくのがエリートになっていく。
次に、学校の組織ですけども、2015年に3つの中教審答申が出て、その後4年間かけて、この答申の具体 化が行われている。まだ法制化前の段階なのですが、一番大きなものは、チーム学校論。これまで教師が一 元的に担当していた授業と「生活指導」と、全校的学校行事などについて、それを切り刻んで、違う非常勤職にそれを割り振っていくという政策が出ていました。チーム学校については、いろんなとらえ方があるん ですが、私は教育内容統制の新しい形だというふうに理解しています。つまり教師が本務として司る教育の 中身を上から勝手に切り刻む、ないしは、縮減していくという動きです。これほど露骨に教師の教育という 職務に対する範囲を限定して切り刻んでいくというのは、今回が初めてです。
これは非常に大きな意味を持っているだろうと思います。日本の教師の行ってきた教育の中で、「生活指導」が占めていた位置は、結構大きかったのです。それはおそらく高校の先生方でもそうだと思います。学 校の外に出て、社会とか家庭で疲弊せざるを得ない状況に置かれた子どもたちが、学校にやって来た時に、 気持ちを建て直して自分たちの要求をこの社会の中で苦しくても実現していこうとなるよう、それに必要な 能力を一緒に育てていく、こういう実践っていうのが高校段階、特に定時制高校では普通に行われていたわけです。そういった子どもの生活を抱え込んで、なお科学的認識を子どもたちに形成させていくという、こ ういう働きが日本の学校教育からなくなっていくということで、端的に言うと教師の本務である教育のダウ ンサイシングと学校全体としての貧困化、貧相化、陳腐化に帰結することは間違いないと思います。
しかも、この間、働き方改革がチーム学校論を含みつつ展開しているわけですけども、教師の無定量の労働時間を帰結していた給特法はそのままにし、年間対応の裁量労働時間制の導入によって、学期期間中の無定量の労働については規制をかけず放置するという、こういうことが政策として決められ実行されていると いうことです。以上が、学校体系とか学校組織の改革の現状です。
教育内容改革について見ていきます。これまで学習指導要領の建前というのは、全国一律に求められる最低水準を確保するためのもの、つまり、全国の学校で教えられるべき最低水準の内容を提示するものでした。 だからこそ、それは法的拘束力があってよいのだという主張を文科省はずっとしてきたわけです。しかし、 2018年学習指導要領は、教育内容についての書き込みを以前と比べものにならないくらい詳細化した上に、 教育方法のあり方についても規定し、あるべき教育を規定したものに全面転換させました。最低水準のとき に法的拘束力はあると主張してきたけれども、最高水準になってもなお法的拘束力があるのか、という結構 どぎつい問題が文科省に突き付けられているわけですが、文科省は、それについては沈黙する。元文科省官 僚の前川氏と元スポーツ教育局長の樋口氏は、「すでに学習指導要領の法的拘束力を論じるような段階でなくなった。端的に指導助言基準だとすべきなのだ」と主張してしまっている。
ただ、そうは言え、現場への浸透力というのは相当に強く、新学習指導要領が何をもたらすのかというこ とは、考えざるを得ません。内容というよりは、むしろ方法改革を梃子にした教育内容の陳腐化が学習指導 要領の本質なのだろうと私は理解しております。アクティブラーニングとか、深い学びとかです。あまりケチつけてもしょうがないのですけれども、深い主体的な学びが世の中にあるとすれば、浅い受動的な学びが なくてはいけません。深い主体的な学びと、浅い受動的な学び、両方の典型例を出してくれて議論展開して くれればまだしもわかるのですが、そんなことは一切ありません。言葉だけが独り歩きしている。ただその 中で、非常にはっきりしているのは、ICT、iPadを使って教育をするということです。しかもiPad に搭載するソフトについては、民間企業の力を借りるということです。これから後起きるのは電子黒板を全国の学校に入れて、教師の仕事は「はい、分かりましたか。では次に行きます。」と言いながら、指を使っ て画面をスワイプすることに集中させる。深くて主体的な学びと言われているものの実質は教育産業による 授業の乗っ取りないしは教育産業のソフトウエアを使っての授業の陳腐化なのだと考えています。
教師が子どもに発問をし、子どもの中に動揺ないしは葛藤を引き起こして、その葛藤を起爆力にしながら 授業を進めていく、矛盾を経験しながら真理に到達して身体の中にポンと落としていく、こういうプロセス が学校教育から消えてなくなることはほぼ間違いありません。葛藤も矛盾も動揺も何もないきわめて美しい、 いや、平板な世界が展開するのですが、子どもの成長発達とか認識の内面化という観点から見ると何の意味もありません。
「教育内容改革」についてはこれに加えて、教科書検定基準の改悪と「特別な教科」道徳の新設です。20 14年の教科書検定基準の改悪で、政府見解、最高裁の判断を書き込むことが義務付けられました。更に新教 育基本法第2条に書かれた約20の徳目が教科のどの単元で内面化することになるかを書かなければいけない。 つまり第2条ができたことによって、戦前の修身と同じように道徳が筆頭科目化するであろうと予測を立て ていたわけですが、思っていた通り、そうなった。教科、単元を問わず20の徳目がどこで内面化されるのか を書かないと教科書検定を通らない、こういうところまで来ました。
最後に道徳の新設ですが、これについてはまだ実施後の様子について僕の方でうまく情報収集できなくて、まだ問題がはっきり出てきていないのかなあと推測しています。しかし、道徳の「解説」を読んだ限りでは 今度の道徳の特徴は「恥」という概念を道徳の基礎において、子どもたちに教育を行うことを学校現場に求 めたことだと思っています。「恥」という概念は結構近代的な概念で、自分の人格を全体として取り替えてしまいたいほど今の人格が「いやだ」と思うことを「恥」というふうに言うのですね。で、「恥」の概念と いうのは基本的に近代的意味で個人がないと生まれない概念なのです。
そう言うと戦前にもあったはずだろうと思われるかもしれないのですが、戦前の修身教科書を調べてみる と「恥」が出てくるのは、兵士の敵前逃亡の時だけなのですね。つまり普段の社会で人間が生きる道は恥を知ることでなく、天皇に対する忠孝なのです。戦争に行って、戦場で戦って、敵に追い詰められ、一人ぼっ ちになり、もう死ぬしかないというときに初めて日本人は人格を持ち、恥を感じることができるというのが 戦前の修身の書き方です。戦前の日本人というのは個人になれるのは敵に囲まれてもはやどうしたらいいの だと極限まで追い込まれたときなのです。今回の学習指導要領では、「恥」という概念が一番基礎に据えられていて、自分が徳目を実現できない、ないしは徳目に従った行動ができないときは「恥」を感じるべきだ とされています。「恥」は人格の入替が必要な時ですから、「人格を全面的に入れ替えなさい」というのがメ ッセージで、こういうメッセージが改訂学習指導要領の「解説」の一番の中心部分、基底に座っているので す。
「『恥』の日常化」は非常にこわい。道徳の授業は、徳目を実現できない子どもに対して「恥を知れ」と いうことが基本になっている。つまり、はやく人格を変えろと。こういうことを言っているのが道徳で、教 師のやることとしては非常に簡単で、どついて、「お前その人格じゃダメじゃないか」とさんざん罵詈雑言 を浴びせ、もしそれで人格が入れ替わったら道徳教育の目標達成みたいなこととなるのです。
生徒指導領域については「いじめ防対法」が2013年にできたのですが、これは加害者に対して厳罰主義的 な対応を求めたほか、第三者委員会の導入によって学校に於ける教育の直接責任性を希釈化している。つま り、いじめが起きたときの第一義的対応当事者が学校なのだという感覚が次第に薄れていって、すべてを第三者委員会にお任せするという状況が現在展開しています。
しかも2016年に教育機会確保法(義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関す る法律)ができました。この法律を巡ってはいろいろな議論があるのですが、私の理解では、人材育成をメ インから外れた周辺の子どもたちにも拡大し、いったんメインから外れたような子どもでも人材育成に有用 であると判断できればメインに戻す、ないしは人材育成共同体に引き戻そうという法律です。人材育成とい う「統合と排除」の権利を周辺にまで一気に拡大した法律が教育機会確保法になるわけです。
こうやって見ていくと結構全体的に進んでしまっているなあと分かるのですが、展開の特徴というのは利用できるものは何でも利用すると、つまり彼らは、青写真は非常にしっかり持っていて青写真のどのパーツをいつ出現させるかについてはあまり体系的な思考を持っていない。ただ何か世の中で事件が起きたときに、 それに対する解決策ですよという形でパーツパーツを時期に合わせて提起していく。ショックドクトリンと か火事場泥棒的手法と言われているのですが、この7年間のやり方は火事場泥棒とかショックドクトリンそ のもので、一番典型的なのが2013年のいじめ防対法でした。
ではこの流れのもとにあって学校で今何が起きているのか。学校、教師、子どもと分けて見ていきます。 学校について言えば、学校の責任の範囲が人格の全面的発達から学力形成、括弧付きの学力形成に収斂していく、フラットな共同的組織から階層的上意下達の組織へと大きく変わっていく。つまり責任範囲が縮減したために、階層的秩序ができあがっていっている。教師では本務である教育が、授業へ縮減する。つまり狭い意味での学力形成に縮減してしまっている。なお、この間の教師の労働条件政策は、授業準備も自主研修 も総労働時間の中に組み入れていない。教師が授業準備をしたり、校務をしたり、自主研修をしたりするこ とが一切考慮されないまま労働時間についての政策ができあがっている。こういった背景の上に更に教師の 職務を狭い意味での授業に限定することになるわけですから、教師の本務である教育の痩せ細りは、決定的 段階に入りつつあると言えます。かつて比較的豊かに展開していた、いわゆる生徒指導については規則制定 と罰の機械的適用に縮減されてしまっている。これはいわゆるゼロトレランスということになる訳です。
こういった状況の中に子どもが置かれているわけですが、子どもは何を経験しているのかというと一つは 自分のことを全体として分かってくれる大人が学校にはいなくなる。つまり、何か生活上の悩みがあればま ず、担任の先生が聞いてくれるのではなく、スクールソーシャルワーカーのところに行ってくださいとか、 スクールカウンセラーのところに行ってくださいとか言われてしまうわけですね。もしチーム学校が進めば、先生は授業をする人か、そうでなければゼロトレランスに基づく生徒指導規則の機械的適用を行う人という 形で目の前にいるわけです。僕が子どもであったらそんな大人は絶対信用しない、あるいは頼らないと思うのです。スクールソーシャルワーカーのところにも行かないと思うし、スクールカウンセーラーのところに も行かないと思うのです。何か悩みがあっても。
多様な職種を前に子どもは学校をどう思うかというと、「ばかだなこいつら」「くそだな」、文字通り「くそだな」と言うと思うんですね。「こっちの悩みに何も対応できないじゃないか、ばらばらか、あほかお前ら」「偉そうな顔をするな」と、不信感だけを子どもが持つことはまず間違いないと思うのですね。で、子どもたちにとってみれば電子黒板を使って陳腐化した授業を受けに行くことだけが学校に行く意味に縮減さ れていくだろうと思います。
2.「日の丸・君が代」問題の位置づけの変化
さてここまできた段階で、では「日の丸・君が代」を問うことに何の意味があるか、あるいは「日の丸・君 が代」問題を問うことの新しい意味は何なのかを考えなければならない。
2003年の10.23通達、「日の丸・君が代」問題は、強制する側から見るとどういう意味を持っていたのか。
少なくとも東京都だけに限定して言うと、10.23通達というのは東京都教育改革の目玉の一つだった、校長の独裁性確立の手段として使われたというのが私の基本的理解です。それまでは国家主義者である石原は教育改革に全く手が出せなかったのですけれども、「日の丸・君が代」の強制を梃子にして学校の組織改革を行 い、教育改革に参入していく恰好な入口となった。彼は学校の組織改革ということを主要な狙いとしながら「日の丸・君が代」の強制を行い、反抗する教師については懲戒処分を加えて追いだそうと、こういうこと をやっていたと思います。
この政策の一番大きな問題点というは、論争的主題を教師が子どもたちに提起し、そこから考えることの意味を教える、そうした教育活動を全体として排除していくことにありました。異論もあると思いますが、 私は基本的にそういう風に見ていて、国家主義的イデオロギー統制というのは結果ないし副次的だったのか なというのが私の理解です。
しかし、2003年から16年、2012年から7年が経ち、教育の状況が大きく変化するなかで、実は向こう側に とっての「日の丸・君が代」問題の位置づけは変わっていっていると思います。レジュメでは、「陳腐化した 教育の中で“光り輝く筋”(?)としての国家への帰属意識・忠誠意識の涵養の手段という新しい位置づけ」 と書きました。安倍にとってと言うか国家が国民を統合するためにイデオロギー統制をやる場合の大きな特徴というのは、国家それ自体を愛せとは言わないで、国家が作った共同体イメージを受容せよ、ないしは共 同体イメージの中で積極的に生きよという、こういうメッセージを出すところが大きな特徴となるわけですね。
つまり、決して国家、政府、首相を愛せとは言わず、むしろ国家が作った共同体イメージの中に人間を 統合していくというのが基本になる訳です。しかし、現段階にあって、共同体イメージがまだそんなにうま くできあがっていない、ここが作りきれていません。
本来彼らが作り上げなければいけない共同体イメージというのは、経済的自己責任という考え方と大国日 本への忠誠の2つを軸にした新しい日本で、彼らの政策を彼ら自身が実行するためにはこの物語をどれだけ美しく作れるかがポイントになります。具体的には、自由で強い個人の集合体としての日本というイメージ がある。もう一つは日本がグローバル経済競争に打ち勝つことに熱狂し、それに忠誠を誓う個人の集合体と しての日本というイメージがある。一方は福祉国家とか労働時間規制の縮小とか緩和と表裏一体となり、他方は日本の軍事国家化、ないしは自衛隊の軍隊化と一体化するわけです。この2つの軸をイメージした日本 という共同体の新しいイメージをどのくらいきれいに作り上げて国民に刷り込んでくのか、そのために教育をどう使っていくのかが問題になっているわけですが、共同体のイメージの捏造があまり進んでいない。だ からこそ、これから後、イメージの捏造とその下での「日の丸・君が代」の政治的利用が進んでいくと思い ます。
再びショックドクトリン的手法を使うのだろうと思っているのですが、事実この間、起きた2つのことと いうのは、たぶん、この読みが正しいということを示していると思います。
まずは、永井さんが指摘した4・22通知ですけれども、国旗掲揚の要請をし、「国民こぞって祝意を表 する意義について、児童生徒に理解させるようにすること」を学校長に要請したわけですね。憲法「改正」 については、「新しい時代の新しい憲法」という、よくわからない標語を出してきて、まさに改元という事 態を政治的に利用していくわけです。
4・22通知にかかわっては、資料末尾に「赤旗」を載せておきました。4月24日か25日に電話がか かってきて、インタビューを頼まれました。最初は「これは私の所場か?」「こんなでかい問題に僕は答えられるのか?」と思ったのですが、前の天皇の退位に関するビデオを見ていた時に感じた引っ掛かりに決着 をつけるのによい機会だと思って引き受けました。前の天皇の退位に関するビデオを観たときに初めて人間を天皇という地位に縛り付けておくのは極めて非人間的なのだと実感しました。また、前の天皇は、非人間的な任務を尽くしてきたのだから引き際ぐらい自分で決めさせてくれと必死に訴えているようにも見え、生まれて初めて天皇に共感を覚えてしまいました。共感を覚えている自分に動揺し、この共感は何なのだろう かとテレビを観ながら呆然としてしまいました。
インタビューを引き受けてから考えて出した結論は、天皇制という仕組みと基本的人権の尊重という仕組 みとが両立しないということでした。そして、通知を読み直して実感したのは、生きた人間を象徴としてし まうことの残酷さを彼が身をもって示し、我々はそのことを身をもって感じた段階で、その直後の代替わり儀式で「ご祝意」とか「ご祝奉」を示せというのは、あまりに暢気すぎる、あるいは、「天皇の政治的利用というのもはばかられる」ということでした。あれだけ深刻な場面をビデオで見せつけられながら、内閣が祝意奉表、頑張ろうと言っていること自体が異様に思えました。4・22通知、「ご祝意」問題について、誰がどんなことを言うのだろうと不安に思っていたら、5月3日の朝日新聞のインタビューで樋口陽一先生が「奴隷制」いうことばで天皇制を表現していました。「日の 丸・君が代」問題で意見書を書く研究者もそんなに多くはなく、しかも、「日の丸」に正対しての君が代の 斉唱は忠誠宣誓に他ならないという研究者はほとんどいない。「僕は天皇代替わりをもって世の中から徹底 的に孤立してしまうのか...」と思っていたので、樋口先生も同じように考えていたことがわかって正直ほっ としました。
以上のような動きの中で「日の丸・君が代」問題の位置づけは変化してきていると思います。これまでは 教師としての職能的自由を侵害ないしは、その基礎にある教師の個人としての市民的自由を侵害するものと 評価された上で、「日の丸・君が代」の強制は、教師が教師であることを許さないことのシンボルになって いました。しかし、これからは政府の捏造する共同体のイメージのシンボルとしての位置づけが増していく。 日本というのはこういう共同体だという幻想が政府によって作られ、その幻想を象徴するものとして「日の 丸・君が代」が利用されていく。このように利用されればされるほど、子どもの非宗教的良心の形成を操作 し、その自律的な形成を不可能にする教育のシンボルとして「日の丸・君が代」問題が位置づくことになる と思います。
良心という言葉の本来的な意味は自らの行動を律する価値体系ということです。西欧では良心は宗教によって形成されるとされるのですが、我々の社会のように宗教が力を持っていない場合には「良心」は神によってつくられた既存のものというよりは、自らの力によって作り上げていく自ら独自の価値体系となります。 そして、非宗教的に自らの力で作り上げた価値体系に基づいて、自らの行動を律することになる。良心は広い意味を持っていまして、心の内にあるものと外形的行為は良心の前では区別できないことになります。あ る特定の行為を良心に反するかたちで強制されたときには、それは当然、良心の自由に対する侵害になる。 そして、非宗教的良心は、社会と自然という外界に関する認識が子どもたちの人格の中で独特な形で統合さ れていき、外界に関する認識の独自の形態の統合の上に独自の価値体系が形成されていくものです。従って、 ある特定の価値体系に反する行為を強制すれば良心の自由の侵害になりますが、それは単に価値体系を否定 するのではなく、外界に関する認識の在り方も否定することになります。このような非宗教的な意味での良 心形成を許さないシンボルとして「日の丸・君が代」問題が位置づいていくのだろうと思います。
そして、教育の全体としての陳腐化が進んでいくなかで、教育をきちんと全うしている口実として「日の 丸・君が代」強制を通しての国家意識、愛国心の涵養をしているということが強調されざるを得なくもなっ てくると思います。つまり、授業の電子黒板化と愛国心とか共同体のイメージ強要が表裏一体として進むこ とになろうと思います。授業を電子黒板化するからこそ、「私は愛国心を涵養していますよ!」と安倍は言 いたい。「日の丸・君が代」は科学的認識の獲得とは相当に距離のある陳腐化した教育を押し隠すシンボル にさえなると思います。
3.子どもの非宗教的良心形成と教師・学校
今お話ししたことをもう一度繰り返すと、子どもは学校に通うことによって科学的な認識を形成するだけではなくて、その上に自分の価値観の体系をも作り上げていって、その価値観の体系に基づいて自らの行動 を律していくことを学んでいく。それを6歳の入学から18歳の卒業まで、もっと言うと、大学に入ってか らもやり続けるというのが子どもたちの成長の特徴なのです。したがって、科学的認識と価値体系は連続的 に出来上がっているものでして、決して分離されるものではない。むしろちゃんとした科学的認識の上にき ちんとした価値体系が生まれて、合理的に行動ができるようになるというのがポイントなのだと思うのです。 こういった教育を実現することが子どもの人格の全面的発達に責任を持つ教育なのだと私は理解していま す。
こういった科学的認識と価値体系の連続体はどのようにして形成されるのかということですけれど、基本 になるのは、子どもたちの要求ないしは欲求で、子どもたちは乳幼児期から外に向かって自分の欲求を表明 してその欲求に応答してもらい、欲求を実現してもらいながら新しい力を獲得する。新しい力を獲得すると、 今度は新しい要求を周りの大人に出して、その要求に大人に応えてもらい、さらに新しい力を内面化する。これを繰り返しながら子どもは成長発達していきます。なので、子どもが自由に要求を意見表明できるとい うことと、それに自由に応答できる教師が不可欠となる。そういった教師とは、市民的自由を保障された上に職能的自由を保障された教師であり、学校においては個々の教師が集団化されて、子どもの人格の発達の あらゆる側面に集団として対応できるような集団になっていくというのがポイントになると思います。
子どもの欲求とか要求をベースにして子どもの発達を全体として見直す作業というのは、進んでいるよう であんまり進んでいません。去年修士を終わった大学院生ですが、彼女に過去の学説を調べなおして、子どもの欲求や要求をベースにして子どもの発達をどう描き直せるかという作業を、子どもの遊びとか自由時間 を軸にやってもらいました。彼女の結論は極めて興味深いもので、小学校1年くらいまでは子どもの発達は遊びによって埋め尽くされている。遊びは基本的に空想の中で自分の欲求を実現することにその意味がある。 「ごっこ遊び」は子どもの空想上での自分の欲求の実現を意味している。乳幼児期においては、遊びこそが 子どもの発達を主導することになる。
学童期に入ると遊びを通じて得た日常的な概念をベースにしながら今度は教師から教わった科学的概念を それと噛合わせることによって自分の中に科学的認識を形成していく。つまり、遊びで得た経験を軸にして 科学的概念を獲得していくのが学童期である。では、思春期や青年期ではどうなるのか。彼女の結論は振るっていまして、学校で得た科学的概念を遊ぶかのように使って社会とか自分の社会における地位とか今後どうなるのだろうとか、遊びのように空想していく。学童期においては遊びの上に科学が展開したのに対して、 思春期、青年期においては科学の上に遊びが展開する。つまり、民主主義とか人権とか、そういった新しい 概念を獲得した上で、先生たちと一緒に、人権を使ったら世の中はよくなるのだろうかとか、民主主義って 本当にあるのかとか、遊ぶかのように議論しながら、社会的認識を形成していき、最終的に自分は社会でどうやって生きていくかを考えることになるのだ。実になるほどと思える結論です。
この結論に基づいて現状、特に青年期の教育の在り方を見てみると実に惨憺たるありさまであることがわ かります。今の青年は科学的概念を遊びのように先生と一緒に使って、世の中とは何なのか、世の中をどう 変えていくのかということを、十分に楽しんでいるのかというと、決してそうではありません。そういった ことを可能にするのが本当は学校教育なのですけれども、安倍はそれとは全く逆の方向にことを進めてしま っている。高校教育において前面に押し出されているのはセンター試験対策。0時間目から7時間目までが試験対策。そういう教育になってしまっている。
科学的概念を用いた遊びをしたいという青年の欲求は、教師が市民的自由や職能的自由を十分に行使して もらって初めて満たされるはずです。遊び相手が自由に遊べないのであれば、その遊びは成立しません。子 どもが科学的認識と良心を連続的に形成していくことに対して教師が責任を持てるようにするためには、い ったい教師とはどういう権利とか自由を持っていなければならないのかを本格的に考えられなければならな いはずです。もっと言えば、子どもの発達について相当に豊かな対抗構想を持っていないと教師の職能的自 由や市民的自由の意義を論じきれない、そういう状況にあるということを認識していただければと思います。
子どもの良心の自律的形成ということについては、国連子どもの権利委員会で一昨年2017年の11月に提起しました。国連子どもの権利委員会は今年2019年3月に日本政府報告に対する最終所見を出しましたが今 回も「日の丸・君が代」問題は最終所見では明記されませんでした。「日の丸・君が代」問題はこの20年 間くらいトライをし続けては失敗をしてきた課題でした。自由権規約委員会が10・23通達をとり上げたので、子どもの権利委員会はどう対応するかということで注目していました。子どもの権利委員会は子ども に対する直接の強制はないということを確認した段階で今は止まっています。教師について本来ならば拒否権があるはずなのですが、それについては「ある」とは言わない。子どもの権利委員会で教師の権利委員会ではないと、そういう理屈を立てているのだと思います。しかし、子どもに対する統制があれば、それはそ れで私たちは日本政府にちゃんとものを言いますよという段階にあると思います。
そこからもう一歩進んで、仮に子どもに対する直接的な制約がなくとも、教師に対して「日の丸・君が代」 を強制することが子どもの良心の自律的形成にとってはマイナスなのだということを国連に理解してもらう ことは残された課題となりました。ただ、ヨーロッパでは国民統合のために公教育を使うことが常套手段な ので、教師に対する強制を問題視しないのではないかと考えています。であるとすれば、公教育を国民統合の手段としてみなしていいのかという問題を提起しなくてはなります。僕に言わせると国民統合の手段とし て公教育を使っているヨーロッパの在り方の方がおかしいので、このような問題提起はし続けていこうと思 っています。
ともあれ、「日の丸・君が代」問題は今後非常に大きな意味合いを持つことになると思います。つまり、 陳腐化した教育を覆い隠す、イデオロギー統制のシンボルとなるだろうし、子どもの良心形成、さらには、科学的認識の形成を操作するシンボルとして使われることになると思います。そうであればこそ、子どもの 発達とか子どもの内面の形成とかといったことと連動させながら議論をしなければいけないと思います。
さらには、子どもの自律的良心形成に対しては民主的に形成された教師集団こそが応答しやすい、ないし は応答できるのだということを主張し、世論に理解してもらう必要があると思います。最高裁では2011 年にいろんな少数意見が出され、その中で最も教師の自由に親和的であった宮川先生の意見でさえも、授業 はともかく、学校行事なので個々の教師の好きにやらせればいいのではないかという水準で、学校行事を教員が集団としてつくることについての認識が全く欠落していました。学校行事は教員が集団として子どもの 要求を汲み取るかたちでつくって、初めて意味のあるものになるのだという、この当然の理が伝わっていな い。おそらく、教師が集団化することについての積極的意味が、世の中では了解されてないだと思います。 したがって子どもがどう成長するのか、その中で教師集団がかかわることの意味合いを押さえ直したうえで 運動をする必要があるだろうと思います。
4.終わりに
2003年以降の16年間を振り返ってわかるのは、「教師への『日の丸・君が代』の強制は子どもへの強制に帰着する。」とずっと言い続けてきたテーゼは正しかった、ということです。全体としての子どもの 成長発達のプロセスを国家が都合のいいように管理する方向に帰着したということです。だからこそ、「日 の丸・君が代」問題を重要な問題だと理解してもらうためには、教育との絡みでこの問題が持っている意味、あるいは持たされようとしている意味を国民に訴え、そんな教育ではだめなのだと国民に理解してもらうこ とがますます重要になっているのだと思います。
ご清聴ありがとうございました。