7月21日の「日の丸・君が代」問題等全国交流・学習集会におけるメイン講演は、私たちの今後の運動にとって非常に示唆に富む素晴らしいものでした。
いずれ公式報告集が出ますが、それまでは、どうぞ大阪ネットの寺本勉さんの「聞き書き版」で、そのエッセンスを味わいください。
「日の丸・君が代」と子どもの良心形成
世取山(よとりやま)洋介さん(新潟大学准教授)
はじめに
今日は参院選の投票日。そこで、2012年からの安倍第二次政権による教育再生実行改革の中で教育政策を振り返り、「日の丸・君が代」強制をとらえたい。さらに、子どもの人格形成・良心形成という観点から、「日の丸・君が代」強制がどのような意味を持つのかを考えたい。
安倍第二次政権における教育再生実行改革
安倍政権は、再成立以降の七年間で、教育改革をはじめとした自らの政策・野望を実現してきた。
教育再生実行改革においては、人材育成を唯一の目的として、国民の「統合と排除」、つまり統合とともに排除を行うことがポイントになっている
2012年までの教育改革は、競争的市場原理主義に基づいて、学校の階層化による校長の権限強化によって、エリート層の育成、立ち遅れた学校の淘汰が進むと考えられていた。しかし、それではうまくいかないということで、2012年以降、特定の産業を重点的に発展させるという産業政策にもとづく労働力政策を打ち出し、そのことを、学校体系の複線化による「効率的なエリート選抜」「非エリート向け教育の陳腐化」「いずれにも適応できないものの排除」を柱として、実現しようとした。
その展開がどのように行われたのか、行政組織・学校体系・学校組織の改革、教育内容の改革、生徒指導の3つの面で考えたい。
2015年の地教行法改正が持っていた意味は、地方交付税を紐付きにして(国庫負担制度化)、特定の方向へと誘導する、具体的には、学校統廃合と小中一貫校創設、高校の多様化、つまり学校体系の複線化を誘導することにあった。創設された大規模小中一貫校では、規模が大きすぎて、生徒一人一人と向き合うまともな教育ができずに「収容施設」化している。今まで通りに小学校を維持できるのは、豊かな財政を持つ自治体だけになり、その結果、従来の6・3・3制を歩めるのはエリートだけということになる。
高校多様化の中では、たとえば高校3年間で、その地域の特産物を作り出そうとして、作られた「特産物」を道の駅で売るという教育が行われている。この子たちの高校3年間は何だったのか、という思いになる。
中教審答申(2015年)に基づく教員改革によって、教師の本務である「教育」のダウンサイジングがすすみ、チーム学校の名の下に教員が担う教育を切り刻んでいっている。教員が担ってきた教育の中で、生活指導は大きな位置を占めてきた。子どもの生活を抱え込んで、科学的に子どもをとらえる伝統があったのだが。一方で、給特法はそのままにして、教員の無定量の労働時間の存続と正当化がはかられ、学期内の超過勤務は存続させている。
2018年、学習指導要領が、それまでの全国的な最低水準の維持のための統制から、全面的にあるべき教育を規定するものへと変えられ、方法までに及ぶ全面的な統制へと向かっている。では、学習指導要領の法的拘束力は、全国的な最低水準の維持のために必要との最高裁判例だが、この段階でも法的拘束力は果たしてあるのか、という問題が出てくる。この問題について、文科省は沈黙しているが、元文科省官僚の前川氏らは、いまや法的拘束力はない、指導・助言というべきだと主張している。
その中で、アクティブ・ラーニングとICTの活用が進められている。アイパッドによる教育では、ソフトは民間に任せている。電子黒板を全教室に導入して、教師の仕事は電子黒板の操作へと切り縮められるのではないか。まさに教育の規格化・陳腐化によって、子どもたちの葛藤の中で真理に到達するというプロセスが学校教育からなくなっていく。電子黒板とアイパッドで進められる授業では、ある意味「美しい」場面が展開されるが、子どもの成長にとっては何の意味も持たない教育になってしまっている。
教科書検定基準の改悪(2017年)によって、教科書には政府見解や最高裁の判断を書き込むことが義務付けられた。特別の教科として「道徳」が新設されたが、その教科書では、22の「徳目」を子どもたちにどのように刷り込んでいくのか、をはっきりと書かないと検定に合格しないようにされた。「道徳」の授業では、「恥」という概念を「道徳」の基礎において、子どもの教育を行うことが求められている。近代的な「恥」の概念とは、自分の人格が嫌だと思うこと、人格を取り替えたいと思うことである。そこには、近代的な個人の確立が前提とされている。だから、戦前の教科書では「恥」が出てくるのは、兵士の敵前逃亡の場面だけだった。「道徳」の授業の中身は、徳目に従って行動できないときに「恥」を感じなさい、人格を入れ替えなさい、というもので、子どもたちに「恥」を知れということを教えるものだ。
生徒指導では、いじめ防対法(2013年)では、懲罰主義の拡大と、何でも第三者委員会に任せて、学校が主体であることの希釈化が打ち出された。さらに、教育機会確保法(2016年)によって、人材育成に基づく「統合と排除」の周辺への拡大がおこなわれた。
展開の全体的特徴と学校で起きていること
こうした展開の全体的特徴として、一つは利用できるものは何でも利用するというショック・ドクトリン的手法があり、もう一つは青写真をしっかりと持っていて、それをどのように実現するかは体系的には持っていないが、問題が出てきたときに、問題の解決策であると称して、そのパーツの現実化を図ろうとしてきたことがある。
この流れのもとにあって、学校で起きていることは何か?
学校については、教育の責任範囲が人格の全面的発達から、「学力」形成への縮減がおこなわれ、さらに学校内での階層化がすすみ、つまり上意下達の組織に変えられた。
教師については、本務である「教育」を授業へと縮減させるとともに、労働時間政策が授業準備や自主研修などを労働時間の中に組み入れられないままで進められている。本務である「教育」の一環としての生徒指導は、規則制定とその機械的適用に縮減されている。
子どもにとっては、先生は授業する人、ないしはゼロトレランスを実行する人として現れる。自分のことを全体として分かってくれている大人が学校にはいなくなり、学校に頼る意味がなくなる。自分の悩みなんか学校や教師に相談できないという不信感を持つだろう。電子黒板などを使った陳腐化された授業を受けることだけが学校に行く意味になる。
「日の丸・君が代」問題の位置付けの変化
こうした中で「日の丸・君が代」問題の位置付けが変わっているのではないか?
東京の「10.23通達」(2003年)とそれ以降の「日の丸・君が代」強制は、校長独裁制実現のための手段であった。当時の石原慎太郎知事にとって、新自由主義的教育改革に乗り出す格好の口実となった。その結果、論争的主題を教師は子どもたちに提示して、そこから考えることの意味を教えるという教育を進めることを不可能にしてきた。その意味では、国家主義イデオロギー統制は副次的であったのではないか、と私は考えている。
レジュメには、陳腐化した教育の中で、「光り輝く筋(?)」としての国家への帰属意識・忠誠意識の涵養の手段という新しい位置付け、と書いたが、安倍にとって、国家が国民を統合する際のイデオロギー統制とは、国家が作った共同体イメージの中に国民を統合していくことだと考えられる。この国家イメージを象徴するものとしての「日の丸・君が代」という位置付けになる。
しかし、その国家イメージはまだうまく作り出せていないのではないか。政府によってねつ造されるはずの「共同体」イメージの内容は、経済的自己責任と大国日本への忠誠である。そういう長時間低賃金労働と福祉国家の縮小を受け入れた上での、経済的自己責任を受容する自由で強い個人の集合体としての日本、そして日本がグローバル経済競争に打ち勝つことに熱狂し、それに忠誠を誓う個人の集合体としての日本という物語をいかに作れるか、が問題となっている。
道徳の「特別の教科化」にもかかわらず、「共同体」イメージのねつ造が進んでいないからこそ、イメージねつ造と「日の丸・君が代」の利用が進むはずだ。そのためには、再びショックドクトリン手法を使うのではないか
文科省の4・22通知では、代替わりに伴う「日の丸」の掲揚の要請と「国民こぞって祝意を表する意義について、児童生徒に理解させるようにすること」という要請が行われた。前天皇が退位を表明する際、非人間的な生き方を強いられてきた天皇が退位表明という形ではじめて人間的な発言をしたということについて、私は生きている天皇に初めて共感してしまった自分に動揺してしまった。生きている人間を象徴にしてしまう残酷さを感じた。この点について、他にそのように考える人がいない孤立感を感じていたが、樋口先生が「奴隷制」だと表現してくれて、ホッとした(朝日新聞、5月3日?)。
「日の丸・君が代」の位置付けが変化してきている。これまでは、教師の教師としての職能的自由の侵害であり、その基礎に座るべき教師の個人としての市民的自由の侵害であり、教師が教師であることを許さないシンボルとしての「日の丸・君が代」の強制であった。
これからは、政府のねつ造する共同体イメージのシンボルとしての位置付けが増していけばいくほど、子どもの非宗教的良心(自らの行動を律するその人独自の価値体系)の形成を操作し、その自律的な形成を不可能にする教育のシンボルとして、「日の丸・君が代」が強制され、政治的に利用されるだろう。良心は、宗教が力を持っていない現在では、非宗教的に形成されるものではないか、と私は思っている。
子どもの非宗教的良心形成と教師・学校
人格とは、社会と自然という外界に関する認識を、その人独自に統合したものだが、外界の認識を許さないシンボルとしての「日の丸・君が代」、教育の陳腐化が進む中で、まともな教育をやっているシンボルとして愛国心の涵養がすすめられるだろう。そのことによって、良心形成を不能にするだけでなく、その基礎としての科学的認識をも不可能にする。
科学的認識と価値体系は連続して形成される。この子どもたちによる、この連続体の形成に責任を持つということが人格の保障に責任を持つということだ。このような連続体は、どのようにして形成されうるのか。そのためには、子どもの成長にとって、自らの要求・欲求にたいして応答してくれる教師を必要とする。
私が指導した大学院生の研究の結論を紹介すると、小1までは、遊びは空想の中で自らの要求・欲求を実現することだが、学童期では遊びの中で得た経験と教師から得た科学的概念を結びつけて、子どもたちは認識を形成していく。思春期以降は科学的概念を遊びのように使って、社会的概念を形成していくということだった。
そのためには、教師はどのような自由を持たなければならないのか?それは、市民的自由の保障の上に職能的自由が保障されなければならない。それに加え、集団化され、自治的に運営される教師集団が必要だ。
国連子ども権利委員会への提訴について、「日の丸・君が代」問題を20年来トライしてきたが、うまくいっていない。子ども権利委員会は、子どもへの強制はないという姿勢で止まっている。教師に強制することが子どもにとって悪影響を与えることを説得するのは今後の課題である。ヨーロッパでは国民統合に教育を使うのは常套手段なので理解されにくいのかも知れない。
民主的に形成された教師集団こそが、子どもの要求・欲求に応答できる。学校行事を教員集団が作り上げること、教員が集団化することについての意味が社会で理解されていないのではないか。それを理解してもらうことが必要だ。
最後に、教師への「日の丸・君が代」強制は子どもへの強制に帰着する、という当初から確認されていたテーゼが正しいことが確認されたが、「日の丸・君が代」問題の意味を市民に広く理解してもらうには、教育とはそもそも何かということを理解してもらうことがポイントとなる。
(文責:寺本勉)
いずれ公式報告集が出ますが、それまでは、どうぞ大阪ネットの寺本勉さんの「聞き書き版」で、そのエッセンスを味わいください。
「日の丸・君が代」と子どもの良心形成
世取山(よとりやま)洋介さん(新潟大学准教授)
はじめに
今日は参院選の投票日。そこで、2012年からの安倍第二次政権による教育再生実行改革の中で教育政策を振り返り、「日の丸・君が代」強制をとらえたい。さらに、子どもの人格形成・良心形成という観点から、「日の丸・君が代」強制がどのような意味を持つのかを考えたい。
安倍第二次政権における教育再生実行改革
安倍政権は、再成立以降の七年間で、教育改革をはじめとした自らの政策・野望を実現してきた。
教育再生実行改革においては、人材育成を唯一の目的として、国民の「統合と排除」、つまり統合とともに排除を行うことがポイントになっている
2012年までの教育改革は、競争的市場原理主義に基づいて、学校の階層化による校長の権限強化によって、エリート層の育成、立ち遅れた学校の淘汰が進むと考えられていた。しかし、それではうまくいかないということで、2012年以降、特定の産業を重点的に発展させるという産業政策にもとづく労働力政策を打ち出し、そのことを、学校体系の複線化による「効率的なエリート選抜」「非エリート向け教育の陳腐化」「いずれにも適応できないものの排除」を柱として、実現しようとした。
その展開がどのように行われたのか、行政組織・学校体系・学校組織の改革、教育内容の改革、生徒指導の3つの面で考えたい。
2015年の地教行法改正が持っていた意味は、地方交付税を紐付きにして(国庫負担制度化)、特定の方向へと誘導する、具体的には、学校統廃合と小中一貫校創設、高校の多様化、つまり学校体系の複線化を誘導することにあった。創設された大規模小中一貫校では、規模が大きすぎて、生徒一人一人と向き合うまともな教育ができずに「収容施設」化している。今まで通りに小学校を維持できるのは、豊かな財政を持つ自治体だけになり、その結果、従来の6・3・3制を歩めるのはエリートだけということになる。
高校多様化の中では、たとえば高校3年間で、その地域の特産物を作り出そうとして、作られた「特産物」を道の駅で売るという教育が行われている。この子たちの高校3年間は何だったのか、という思いになる。
中教審答申(2015年)に基づく教員改革によって、教師の本務である「教育」のダウンサイジングがすすみ、チーム学校の名の下に教員が担う教育を切り刻んでいっている。教員が担ってきた教育の中で、生活指導は大きな位置を占めてきた。子どもの生活を抱え込んで、科学的に子どもをとらえる伝統があったのだが。一方で、給特法はそのままにして、教員の無定量の労働時間の存続と正当化がはかられ、学期内の超過勤務は存続させている。
2018年、学習指導要領が、それまでの全国的な最低水準の維持のための統制から、全面的にあるべき教育を規定するものへと変えられ、方法までに及ぶ全面的な統制へと向かっている。では、学習指導要領の法的拘束力は、全国的な最低水準の維持のために必要との最高裁判例だが、この段階でも法的拘束力は果たしてあるのか、という問題が出てくる。この問題について、文科省は沈黙しているが、元文科省官僚の前川氏らは、いまや法的拘束力はない、指導・助言というべきだと主張している。
その中で、アクティブ・ラーニングとICTの活用が進められている。アイパッドによる教育では、ソフトは民間に任せている。電子黒板を全教室に導入して、教師の仕事は電子黒板の操作へと切り縮められるのではないか。まさに教育の規格化・陳腐化によって、子どもたちの葛藤の中で真理に到達するというプロセスが学校教育からなくなっていく。電子黒板とアイパッドで進められる授業では、ある意味「美しい」場面が展開されるが、子どもの成長にとっては何の意味も持たない教育になってしまっている。
教科書検定基準の改悪(2017年)によって、教科書には政府見解や最高裁の判断を書き込むことが義務付けられた。特別の教科として「道徳」が新設されたが、その教科書では、22の「徳目」を子どもたちにどのように刷り込んでいくのか、をはっきりと書かないと検定に合格しないようにされた。「道徳」の授業では、「恥」という概念を「道徳」の基礎において、子どもの教育を行うことが求められている。近代的な「恥」の概念とは、自分の人格が嫌だと思うこと、人格を取り替えたいと思うことである。そこには、近代的な個人の確立が前提とされている。だから、戦前の教科書では「恥」が出てくるのは、兵士の敵前逃亡の場面だけだった。「道徳」の授業の中身は、徳目に従って行動できないときに「恥」を感じなさい、人格を入れ替えなさい、というもので、子どもたちに「恥」を知れということを教えるものだ。
生徒指導では、いじめ防対法(2013年)では、懲罰主義の拡大と、何でも第三者委員会に任せて、学校が主体であることの希釈化が打ち出された。さらに、教育機会確保法(2016年)によって、人材育成に基づく「統合と排除」の周辺への拡大がおこなわれた。
展開の全体的特徴と学校で起きていること
こうした展開の全体的特徴として、一つは利用できるものは何でも利用するというショック・ドクトリン的手法があり、もう一つは青写真をしっかりと持っていて、それをどのように実現するかは体系的には持っていないが、問題が出てきたときに、問題の解決策であると称して、そのパーツの現実化を図ろうとしてきたことがある。
この流れのもとにあって、学校で起きていることは何か?
学校については、教育の責任範囲が人格の全面的発達から、「学力」形成への縮減がおこなわれ、さらに学校内での階層化がすすみ、つまり上意下達の組織に変えられた。
教師については、本務である「教育」を授業へと縮減させるとともに、労働時間政策が授業準備や自主研修などを労働時間の中に組み入れられないままで進められている。本務である「教育」の一環としての生徒指導は、規則制定とその機械的適用に縮減されている。
子どもにとっては、先生は授業する人、ないしはゼロトレランスを実行する人として現れる。自分のことを全体として分かってくれている大人が学校にはいなくなり、学校に頼る意味がなくなる。自分の悩みなんか学校や教師に相談できないという不信感を持つだろう。電子黒板などを使った陳腐化された授業を受けることだけが学校に行く意味になる。
「日の丸・君が代」問題の位置付けの変化
こうした中で「日の丸・君が代」問題の位置付けが変わっているのではないか?
東京の「10.23通達」(2003年)とそれ以降の「日の丸・君が代」強制は、校長独裁制実現のための手段であった。当時の石原慎太郎知事にとって、新自由主義的教育改革に乗り出す格好の口実となった。その結果、論争的主題を教師は子どもたちに提示して、そこから考えることの意味を教えるという教育を進めることを不可能にしてきた。その意味では、国家主義イデオロギー統制は副次的であったのではないか、と私は考えている。
レジュメには、陳腐化した教育の中で、「光り輝く筋(?)」としての国家への帰属意識・忠誠意識の涵養の手段という新しい位置付け、と書いたが、安倍にとって、国家が国民を統合する際のイデオロギー統制とは、国家が作った共同体イメージの中に国民を統合していくことだと考えられる。この国家イメージを象徴するものとしての「日の丸・君が代」という位置付けになる。
しかし、その国家イメージはまだうまく作り出せていないのではないか。政府によってねつ造されるはずの「共同体」イメージの内容は、経済的自己責任と大国日本への忠誠である。そういう長時間低賃金労働と福祉国家の縮小を受け入れた上での、経済的自己責任を受容する自由で強い個人の集合体としての日本、そして日本がグローバル経済競争に打ち勝つことに熱狂し、それに忠誠を誓う個人の集合体としての日本という物語をいかに作れるか、が問題となっている。
道徳の「特別の教科化」にもかかわらず、「共同体」イメージのねつ造が進んでいないからこそ、イメージねつ造と「日の丸・君が代」の利用が進むはずだ。そのためには、再びショックドクトリン手法を使うのではないか
文科省の4・22通知では、代替わりに伴う「日の丸」の掲揚の要請と「国民こぞって祝意を表する意義について、児童生徒に理解させるようにすること」という要請が行われた。前天皇が退位を表明する際、非人間的な生き方を強いられてきた天皇が退位表明という形ではじめて人間的な発言をしたということについて、私は生きている天皇に初めて共感してしまった自分に動揺してしまった。生きている人間を象徴にしてしまう残酷さを感じた。この点について、他にそのように考える人がいない孤立感を感じていたが、樋口先生が「奴隷制」だと表現してくれて、ホッとした(朝日新聞、5月3日?)。
「日の丸・君が代」の位置付けが変化してきている。これまでは、教師の教師としての職能的自由の侵害であり、その基礎に座るべき教師の個人としての市民的自由の侵害であり、教師が教師であることを許さないシンボルとしての「日の丸・君が代」の強制であった。
これからは、政府のねつ造する共同体イメージのシンボルとしての位置付けが増していけばいくほど、子どもの非宗教的良心(自らの行動を律するその人独自の価値体系)の形成を操作し、その自律的な形成を不可能にする教育のシンボルとして、「日の丸・君が代」が強制され、政治的に利用されるだろう。良心は、宗教が力を持っていない現在では、非宗教的に形成されるものではないか、と私は思っている。
子どもの非宗教的良心形成と教師・学校
人格とは、社会と自然という外界に関する認識を、その人独自に統合したものだが、外界の認識を許さないシンボルとしての「日の丸・君が代」、教育の陳腐化が進む中で、まともな教育をやっているシンボルとして愛国心の涵養がすすめられるだろう。そのことによって、良心形成を不能にするだけでなく、その基礎としての科学的認識をも不可能にする。
科学的認識と価値体系は連続して形成される。この子どもたちによる、この連続体の形成に責任を持つということが人格の保障に責任を持つということだ。このような連続体は、どのようにして形成されうるのか。そのためには、子どもの成長にとって、自らの要求・欲求にたいして応答してくれる教師を必要とする。
私が指導した大学院生の研究の結論を紹介すると、小1までは、遊びは空想の中で自らの要求・欲求を実現することだが、学童期では遊びの中で得た経験と教師から得た科学的概念を結びつけて、子どもたちは認識を形成していく。思春期以降は科学的概念を遊びのように使って、社会的概念を形成していくということだった。
そのためには、教師はどのような自由を持たなければならないのか?それは、市民的自由の保障の上に職能的自由が保障されなければならない。それに加え、集団化され、自治的に運営される教師集団が必要だ。
国連子ども権利委員会への提訴について、「日の丸・君が代」問題を20年来トライしてきたが、うまくいっていない。子ども権利委員会は、子どもへの強制はないという姿勢で止まっている。教師に強制することが子どもにとって悪影響を与えることを説得するのは今後の課題である。ヨーロッパでは国民統合に教育を使うのは常套手段なので理解されにくいのかも知れない。
民主的に形成された教師集団こそが、子どもの要求・欲求に応答できる。学校行事を教員集団が作り上げること、教員が集団化することについての意味が社会で理解されていないのではないか。それを理解してもらうことが必要だ。
最後に、教師への「日の丸・君が代」強制は子どもへの強制に帰着する、という当初から確認されていたテーゼが正しいことが確認されたが、「日の丸・君が代」問題の意味を市民に広く理解してもらうには、教育とはそもそも何かということを理解してもらうことがポイントとなる。
(文責:寺本勉)