2021年6月28日
意 見 陳 述 書
原告 奥野泰孝
第1 生徒が主役
1 支援学校(2006年までは養護学校)では、「生徒が主役」とよく言われます。重い障害を持った生徒の場合、食事、着替え、トイレ等での全介助や、言葉を使わないコミュニケーションの工夫が必要であったりします。もし「生徒が主役」ということを忘れたら、生徒の訴えを無視して教員が自分の都合で生徒の身体を移動したり、トイレで「今排尿しなさい」と強制することになります。生徒の自立支援をすることが「生徒が主役」ということだと思います。
2 私の所属する支援学校では、体育大会の時、教員は黒や白の体操服を着ます。児童生徒の活躍が目立つようにという配慮です。日頃は、教室内の雰囲気が明るくなるような色の服を着たりもします。行事で舞台発表のある時は、立位できなかったり自力歩行できない生徒の後ろに教員が付きます。全身黒の目立たない服を着て、中腰というきつい姿勢で生徒を後ろから支えます。
卒業式も生徒(卒業生)が主役です。主役のために支援の方法などを考えます。自己肯定感を高め、周りへの感謝と将来への希望と決意を持って巣立って行く、そういうことを私は目指しました。
第2 卒業式の目標と合理的配慮
1 2014年度卒業のA君については、毎日起こしているてんかん発作を式の間に起こさないようにすることが必要だと考えました。発作を起こすと、ぐったりし、介助しても自力歩行ができなくなる可能性があったのです。A君は立位を維持することができなくて学校では主に車いすを使っていましたが、自立支援の目的で3年間毎日、介助歩行をする時間を持ってきました。歩くことが生きる意欲にもなっていました。その成果を卒業式で披露すべきと私は考えました。周りのほとんどの人が起立した状況での取り残された孤独感は発作の誘因になると考えました(前年卒業式で発作)。私はクリスチャンですが、日本社会の中で少数者としての孤立や不安を感じることがあるので、立てないA君が、周りを立っている人に囲まれ、信頼している担任教員も立つなら、どんなに不安になるか共感できました。
2 A君が発作を起こしにくくする接し方を私は3年間担任をして学びました。私は祈り、考え、斉唱時も彼と一緒に座って居るという合理的配慮をしました。結果としてA君は発作を起こさず、にこにこと自力で歩き、2m程は介助の手を離れ、式場を退場しました。
第3 教育の仕事と信仰
1 1981年、初任の養護学校は、主に筋ジストロフィーの児童生徒が在籍していました。私は図工・美術担当です。
障害の重い児童生徒は風邪をひくと痰を自分で取り除けないことがあって生死に関ります。なのに私はよく風邪をひいてしまい、自分の健康管理ができないことに責められる思いでした。ある時学校隣接の病院の看護師に「この子たちの自己実現ってどういうことだと思いますか」と聞かれて、「自分がこうなりたいと思う夢を実現していくことでしょうか」と答えたものの、寿命の短い子どもたちを前にして、適切な答えが見つからず悩みました。そういう時にキリスト教に出会い、信仰を持つようになりました。隣人を自分自身のように愛することや、規則のために人が存在するのではなく、人のために規則があるんだということを聖書を通して学びました。
2 普通高校に転勤して、美術を通して、生徒の自己実現を支援しようと取り組みました。また人権教育の大切さを学びました。そして2006年に現在も所属する支援学校に転勤した時は、初任の養護学校で十分出来なかったことをやり直せという神の導きと感じました。また、支援学校の美術教育には表現活動の根っこがあると目が開かれる思いでした。美術の表現活動は、自己肯定になり、自己実現に繋がると思いました。
第4 教育の目的
1 教育基本法にある教育の目的「人格の完成を目指す」とは、自己肯定して生きて行けるようにすることだと思います。子どもたちに獲得してほしいのは、今日を犠牲にしないで充実して生きる力だと思います。自己肯定し今日を生きることが自己実現だと思います。重い障害の子どもと接していると本当に自己肯定の大切さを感じます。競争に勝つ力を身に着けるなんて教育の本質とは思えません。
2 特別支援学校は、障害に応じて、一人一人の教育的ニーズに応じることができるように存在しているのですから、立てない生徒の教育的ニーズは何か考えて合理的配慮をするのは当然だと思います。しないことは差別です。合理的配慮を選択し、実践したことがなぜ職務命令違反として処分の対象となるのでしょうか。
3 最後に。 この訴訟は、「教育の目的とは何か」ということを根本的に問うものだと思います。現場の教員の経験と学びからくる
判断がもっと尊重されるようになることを強く願い、裁判での判断をお願いします。 以上