※住友剛さまのブログから、パブコメ第2弾を転載させていただきます。
ブログ「できることを、できる人が、できるかたちで」から転載させていただきます。シリーズ3編の第1弾です。
http://tsuyokun.blog.ocn.ne.jp/seisyonenkaikan/2013/01/post_7278.html
大阪市教育振興基本計画の改訂素案に対するコメント(2)
昨日に引き続き、大阪市教育振興基本計画の改訂素案に対して、私が送ったパブリック・コメントを掲載します。昨日も書いたとおり、こちらにはフェイスブックに書いたものを転載しています。誤字脱字の修正などをフェイスブックに載せる際に行ったので、実際に大阪市教委に送ったコメントとは若干、ちがっている部分があります。ただ、基本的な趣旨には違いはないので、大筋で何が問題かはわかっていただけるかな、と思います。
なお、改訂素案そのものについては、下記のページを見てください。
http://www.city.osaka.lg.jp/templates/jorei_boshu/kyoiku/0000194120.html
それにしても、改訂素案、特に第2章を読んでいて思ったのは、「文科省がこの十数年すすめてきた教育施策を大阪であらためてやろうとしてい」、という側面が強いこと。したがって、今の子どもたちの現状を見れば、「もう、こういうモデルはやめたほうがいい」と思われるような案に、いまだにしがみついている感が強いということでもあります。
そして、本気で大阪の培ってきた教育、とりわけ人権教育の伝統が大事だと思うのであれば、今こそ、「こんな改訂素案なんて、いらんわ!」と、声をあげていく必要があると思っています。
<以下、コメントの「その2」です>
第2章「第3 改革に向けた施策の内容」の「1 カリキュラム改革」
(1)まったく無意味な「新たな幼児期カリキュラム」の提案
ここで「新たな幼児期カリキュラムを編成・実施」とあるが、大阪市の「市政改革プラン」では公立幼稚園・保育所の民営化が提案されていたのではなかったか? このカリキュラムが出来上がった頃には、大阪市内には公立幼稚園・保育所は一つもないという想定が市教委にはできているのか? また、私立幼稚園・民間保育園との話し合いはどのようにすすめるつもりなのか? さらに、基本的な生活習慣の形成など、ここに書いてあるような趣旨で、今までだって幼稚園教育要領や保育所保育指針は改訂されてきたのではなかったのか??(内容の是非はひとまず置くとして)。だとすれば、このようなカリキュラム改革の提案そのものが「無意味」である。
(2)まったく無意味な「道徳教育の強化」の提案、むしろ「子どもの権利学習」の徹底の必要性があるのでは?
同様に、「幼児期から義務教育修了までに、基本的な道徳心・規範意識を培います」という提案も、この間の文科省の学習指導要領改訂の流れからすれば、同じようなことをあらためて言い換えて提案しているだけで、まったくもって「無意味」なものである。
いったい、このような提案を平気でできるのは、どのような見識なのか? 改訂素案を検討した人々の意識を問いたい。
むしろ、本気で改訂素案を作った人々に「自由と規範意識や権利と義務を重んじ、自己の判断と責任で道を切り拓き、真理と正義を求め、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性をはぐくみ」たいという気持ちがあるのなら、なぜ「子どもの権利条約」を基盤にして、子どもの権利学習を大阪市内の各学校で進めようという提案ができないのか。それこそ、第2章の「基本的な考え方」で「一人一人の子どもを、個人としての尊厳を重んじ、その意見を尊重する」というのであれば、その前提になる「子どもの権利条約」の学習をすすめなければ、改訂素案自体の論理的な整合性が取れない。
(3)ICT教育も、この案なら「やめたほうがマシ」
情報化社会に対応する教育は、ただ単にタブレット端末等のIT機器やデジタル教科書等を学校に導入して、それを授業などで活用すればいいというものではない。
むしろ、機器の使用の前提となるコミュニケーションのあり方、例えば「自分は誰に何を伝えたいのか?」「誰が自分に何を伝えようとしているのか?」というようなことをじっくりと考え、自分なりに工夫して情報発信をしたり、他者からの情報発信を適切に受け止めたりするようなセンスを磨くことが重要なのではないか。そのためには、あえて「紙と鉛筆」のようなハイテク以前の道具であえて思考をしたり、「車座になってみんなで話し合って、その成果をからだとことばで何かを表現」といったことをすることが大事な時もある。
だから情報化社会に対応する教育も、まずは子どもの状態を見ながら学校現場で創意工夫をすることと、そこで得られた成果を現場教員間で交換しあう余地さえ残しておくことのほうが大事であって、「上から、無理やりIT機器を学校に入れさえすればいい」かのような発想でやっても、あまり意味はないだろう。
(4)「カリキュラムイノベーション」は「なんのため??」
ここで「教育効果が見込まれるカリキュラムの開発・普及」というのであるが、そもそも「何に対する教育効果」なのか??
例えば改訂素案のこの部分では習熟度別授業や言語力、論理的思考力、理科教育などに関するカリキュラム開発が例示されているが、この改訂素案において学校が目指すべきものは、いわゆるテストで計測可能な「学力」を挙げることだけだったのか? それは改訂素案自らが、自らの立てた目標を、具体的なプランのところで矮小化するようなもので、ばかげているとしかいいようがない。
そもそも、改訂素案の「目指すべき目標」には、「自立した個人として自己を確立し、他者とともに次代の社会を担うようになること」とある。その「自立した個人としての自己の確立」という観点と、ここで「カリキュラムの開発」として提案されていることとの間には、何ら論理的な整合性はない。
それこそ、夏休みの短縮や学校に冷房を入れることなど、カリキュラム開発の問題とどうかかわるのか? むしろ、学校外での子どもの豊かな体験活動を育む方が理科教育の前提として重要とか、あるいは、教員の現場を離れての研修こそが理科教育の振興には大事という結論に至った場合、夏休みの短縮はマイナスにしかならないだろう。
この改訂素案が本気で「自立した個人としての自己の確立」ということを考えるのであれば、その観点に沿っての「言語力、論理的思考力」とは何か、それはどのようにすれば養うことができるのか、ということを、学校現場の教職員がさまざまな実践を通して確認していけるような条件整備こそ、この改訂素案がまずは書くべきことではないのか。
(5)「通知表改革」もなんのため??
改訂素案がそれこそ本気で「自立した個人としての自己の確立」ということを考えるのであれば、それと「学力」形成との関係こそまずは論理的に整合性を保つように、学校現場の実践を通してさまざまな検証を行うべきこと。それをふまえた「通知表改革」であればわかるが、はじめにテストのデータの活用ありきのこの提案には、何の意味もない。というか、そのような提案自体が、改訂素案を作った人たち自身が実は「自立した個人としての自己の確立」などどうでもいいと思っていて、ただ「テストで測定される学力の向上」しか考えていないことを物語っていると思われる。そして、このような発想こそ、グローバルな社会では全く通用しない学力を形成してしまうかもしれないという危惧が見られない。
(6)小中学校の「食育」を本気でするつもりなら、学校給食に関する条件整備も本気ですべきである。
それこそ、かつて大阪市内の一部の公立中学校では実施されていた給食をわざわざ「廃止」して、あらためて「弁当デリバリー事業」のようなことを開始したが、その成果はいかがなものだったのか。その検証を大阪市教委としてきちんと行ったのか。また、これから学校選択制を導入して統廃合を進める気なら、給食の実施体制についてはどうするつもりなのか。「市政改革プラン」とこの改訂素案との整合性をどうつくるつもりなのか。