ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2011.2.5 キャッチ・アンド・リリース

2011-02-05 18:11:53 | 日記
 “catch and release”・・・そもそもの語源は釣りで釣った(catch)魚を、海または川に返す(release)行為を指す。つまり釣った魚をその場で逃がしてあげる釣りのルールということなのだけれど、先日、ある女性研究者からとても良いお話を聞いた。

 80代の日本人男性(今は故人となったその方の実のお父様)とアメリカ人男性(その方の留学中のホストファミリーのお父様で、実の娘のように可愛がって頂いた方)が日本で初めて対面したときの話だ。
 もう高齢だから今後2人は二度と生きて会うことがないだろう、ということを前提にして会話は始まったという。一方では実の娘、他方にとってはホストファミリーとして迎えた娘、を介しての会話に花が咲いたという。
 お互い相手の母国語の日本語も英語も全く話せないが、彼女(娘)の通訳を介してとてもしみじみと語りあったそうだ。そして「死とはなんだろう。」という話になったときに、日本人の父は「死は無だ。」と言ったとのこと。これに対して、アメリカ人の父は「死は“catch and release”だ。決して無になるわけではない。自分が手に入れてきたものを解き放つことだ。」と。
 それまで彼女は、自分がいくら勉強しても本を読んでも映画を見ても何かしても、結局自分がいなくなったら全て無になってしまう。無になってしまうことを前提にすれば、自分はいったいなんて贅沢なことをしているのだろう、と申し訳なく思っていたそうだ。が、この“catch and release”という言葉を聞いて、なんと良い言葉だろう、それだからこそ、やはり若い人たち=学生たち=に還元しなくては、と思うようになったとのこと。
 そして、その2人の高齢者の対話をそばで聞いていた彼女の息子さんが、それを機にパタリと変わったという。それまでは思春期でもあり、かなり荒れていたのだそうだ。やはり、大の大人の男性が、死について面と向かって語り合う場面に若者が遭遇するということはめったにないことだ。だから言葉では言い表せないほどとても心に染みたのだろう。

 人は産まれてきたからにはいずれ死ななければならないのは当然のこと。だが、現代人はとにかく死をあえて遠ざけ、非日常のこととし過ぎるのではないかと思う。もっと死について大人がきちんと語る機会があってしかるべきなのだろう。
 あまりに死を忌み嫌い、子どもを死というものから遠ざけ過ぎることはどうなのだろう、と思った。
 そしてこの“catch and release ”という言葉どおり、自分が生きた証として自分が手に入れてきたものを後に続く人たちにどんな形であれ残せるとしたらどんなにか良いだろう。死は決して無ではない。

 私のブログ上での読書やら映画やらもろもろの、たまたま手に入れたり触れたりしたもの、それが取るに足りないものではあっても、もし、これをちょっぴりでも他の方たちにおすそわけできるとするなら、こんなに嬉しいことはない。
 「どうぞのいす」の一部として。

 体調だが、昼過ぎから気持ち悪さが殆どなくなって、普通に食事が出来るようになった。昨日で薬も飲み終わり、ようやく休薬の週を迎える。この一週間は白血球の低下を頭に入れつつ、でも、できるだけアクティブに動きたい。

 今日は午前中には映画を見(この話はまた後日にご報告)、午後から2週間ぶりにホットピラティスに参加した後、夕方、息子の塾の面談をしてきた。あと5日で入試でいったい何を面談か・・・、という感じではあったが、早くも入試後の学年末試験対策と春休みの講習の話やらで、さすがにウンザリ。
 それでも週明けには指導コマ以外に様子を見て頂ける、ということなので、先生から本人に電話をして説得してくれるようにお願いした。
 泣いても笑ってもあと5日後には入試は終わり、週明けの14日にはホームルームで、高校進学後のクラス分けの結果が渡されることになっている。

コメント (2)
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