音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

王の男

2009-03-02 21:07:02 | 子ども

連翹(レンギョウ)が咲いていました。今日は寒かったけれど、連翹は春の季語だそうです。春はもう少し。

韓国映画「王の男」をケーブルTVで見ました。
16世紀、李王朝、ヨンサングンの治世。
大道芸人のコンギルとチャンセンは、王のヨンサングンをからかう芸をして、役人捕らえられます。死刑になるところを、王を笑わせることができたら、侮辱罪にはならないと、王の前で、同じ芸を披露することになります。
満座の貴族や大臣が並ぶ中、王をからかうネタを披露すると、王は笑い出し、二人は王宮に住むことになります。王は女より美しいコンギルを気に入って、一人呼び、人形劇をさせます。
王の前で芸をさせた大臣は、今度は大臣をからかうネタを披露するように仕向けます。
賄賂を受け取る芝居をみた、王は、その場で青ざめた大臣の指を切り落とし全員に回覧するように命じ、処刑します。

コンギルは一人王に呼ばれ、王の前で人形劇をします。そこで、王の父が、王の母に毒を飲ませて処刑したことをしります。
コンギルに執着する王から、チャンセンは逃げようと誘いますが、次の芝居をしたいからとコンギルはとどまるように懇願します。
次に大臣が披露することを進めたのは、王の身の上そっくりの物語。それには二人の后と、王大后(王の祖母)が毒殺を仕向けたことも、書いてあります。母を演ずるコンギルが毒をあおった芝居の瞬間、王はコンギルを母とよび、逆上して、二人の后を斬り殺し、祖母はショックで死んでしまいます。

王の妻ノスクは、コンギルに嫉妬し、陥れようとしますが、チャンセンがかばって刑罰を受け、両眼をこてで焼かれてしまいます。コンギルはチャンセンが処刑されようとする前日、自殺しようとします。
王は、最後の芸をするようにチャンセンとコンギルに命じます。眼が見えないチャンセンが見事に綱渡りの芸をし、コンギルもそれに応えます。そのころ、圧政に対する反乱が起き、大臣は首をつり、民衆が宮廷に押し寄せます。

暴君、ヒトラーのために、演じた芸人、音楽家、画家、映画監督、スポーツマン。政治に芸術や芸能が利用されてきた歴史は、今も連綿と続いています。
腹いっぱい食べるために、王宮に居ついた彼らは、断りきれなくてどんどん政治の世界に巻き込まれていってしまいます。

このヨンサングンは、韓国史では残虐な王として、悪名高いですが、この王は18歳で王位について、10年で、流されて2ヶ月で亡くなっています。実際の史実は、いろいろと検証もあることでしょうが、王の母が、毒を飲まされて処刑された、それから芸人を取り立てたり、残酷な粛清を繰り返したというのは、史実としてあったようです。

私は虐待されて育った子どもが、傷を癒されないでいると、どうなるか?ということをこの映画は計らずも描いていると思いました。

周り中の人間を信ずることができず、意見する忠臣たちの言葉は全て、前王(父)との比較に思え、耳に入れず、惨殺し、唯一劇や芝居で癒される。劇の中のコンギルに母を見て、彼を取り立て、大切に思いながら、コンギルの気持ちや、大切にしているものを破壊し、死に追いやる。自殺を図ったコンギルを見て、王が「なぜだ?」と叫ぶ声は、気持ちを大切にされたことの無い、子どもが、他人の気持ちを気づけるはずも無く、大切にする方法も知ることがない。ということをあらわしているように思えました。
父に母を殺された子どもの気持ちが共感されることなく、きれいな衣服や官位を与え、力を与えられるという大切にされた方法が、唯一王が知っている大切にする方法だったから、それをコンギルにも与えたのに・・・。

一方チャンセンは、衣服や食べ物よりも、自由。逃げるチャンスもあったのに死よりも、自分の思いや仲間をプライドを大切にすることを選びます。生い立ちはあまり描かれていませんが、彼は、生まれた時から、貧しく、旅回りの親方からは叩かれるという過酷な状況を、生き抜いてきたに違いありません。叩かれても叩かれても、立ち上がり、生まれ変わっても、芸人として生きると言う彼の矜持は、一人でも誰か気持ちを共有したという経験があったという一点おいて、王の底知れぬ孤立とは質が違っていたのだろうと思います。
虐待を受けた子どもが誰でも、虐待を繰り返すはずがなく、王と、チャンセンの違いが、そのことをあらわしていると思います。

他にもジェンダーとか、芸能、ヒエラルキーとかいろいろ考えさせられる映画でした。当分この映画が頭から離れそうにないです。とんでもなく長くなりそうなので、今日は、やめます