電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

映画「蝉しぐれ」を見る

2005年10月01日 21時25分20秒 | -藤沢周平
今朝、早起きして映画「蝉しぐれ」の初日・初回を見るためにでかけた。館内は予想よりもすいていた。いい席で、ゆったりと見られた。映画は、映像作品として、緊張感と美しさがあり、とても良かった。

この物語、原作で何度も読み、細かなところまで一通り頭に入っているし、テレビでも優れた連続ドラマとして再放送を含めて三度楽しんでいる。一度目は七回シリーズ、次も七回、最後は六回に編集したバージョンで。七回で五時間をこえるドラマでも、原作のいいところをかなりはしょって映像化しなければならなかった。たとえば、かなり重要な登場人物である加治織部正が省かれている。それでも、主要なストーリーを追って、物語を展開していくことができた。だが、映画はおよそ二時間である。この中にどんな内容を盛り込むことができるのか。「戦争と平和」の物語をわずかな時間の中に押し込めたとき、たんにヘプバーンの映画になってしまったではないか。五時間を二時間にそのまま縮小することは無理がある。

映画「蝉しぐれ」は、映画は単に物語の筋を追うだけでなく、独立した映像作品であることを示している。ナレーションもなく、エピソードも限られている。しかし、大きな画面に映し出される四季の風景をバックに、登場人物の美しいシーンが積み重ねられ、リアルな殺陣が緊迫感を出す。演じる人たちの台詞はいささか不器用で、特に子役たちは棒読みに近いが、心情には偽りがない。演じているというよりも、役柄に入り込んでいるといえる。藤沢周平の台詞に泣かされる場面は、今度も同じだ。義父との対面を済ませ、逸平に会ったとき、不意に父に言いたかった言葉があふれてくる。「もっとほかに言うことがあったんだ」「だが、おやじに会っているうちは思いつかなかった」「おやじを尊敬していると言えばよかったんだ」。この場面には、テレビでも泣かされた。また、最後の対面のシーン、おふく役の木村佳乃の気迫がすごい。帰りの駕籠の中の目の演技もすごい。

気づいたことをいくつか。父の遺骸を運ぶ荷車が、坂道で立ち往生したとき、テレビではふくも横から荷車を引くが、それはおかしい。映画では、きちんと後ろを押している。しかも、引き棒が上がらないように、荷台を持ち上げるように押している。これが正しい。テレビでは文四郎が受け継ぐ秘剣村雨、映画では犬飼兵馬が狂気の剣として使っている。矢田作之丞の妻女・淑江の役割も、テレビでは封建社会の桎梏に抗った哀れな女性として描かれ、また布施鶴之助との縁につながるが、映画ではきわめて単純化され、美しい人妻としての意味しか持たない。

映画「蝉しぐれ」は、ぎりぎりまでに単純化されたために、物語としての厚みは失われたが、逆に映像作品としての緊張感と映像美を獲得した作品だと言えるだろう。
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