電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

R.シューマンの病気治療について~水銀治療の根拠は刺青か?

2010年07月06日 06時02分59秒 | クラシック音楽
ローベルト・シューマンの指の故障の原因について、若いころに梅毒に感染し、水銀治療を受けたことによる運動機能障害が考えられること、さらに後年の幻覚や幻聴などについても、水銀治療ではトレポネーマ(スピロヘータ)が死滅せず潜伏し、脳脊髄に移行し、脳梅毒の症状が進んだと考えられることを記事にしたことがあります(*1)。また、恩師でありクララの父であるフリードリヒ・ヴィークが、なぜあれほど執拗に娘の恋愛を妨げようとしたかも、皮膚症状からシューマンの梅毒感染を察知したためと考えれば、あながち頑固で無理解な父親とばかりは言い切れない、とも考えます。

現在はカルテや病状日誌が公開されており、悲惨な最後の様子が記録されている(*2)そうです。この事実を医師から初めて知らされたクララの衝撃と悲嘆(*3)は、察するにあまりあります。信頼する夫が、性病で死病である梅毒の末期で、自分自身も感染の可能性があるとなれば、文字通り「青天の霹靂」でしょう。もちろん、現代の医学では、クララと結婚した頃にはもう感染しない潜伏期に入っていることがわかりますが、当時は原因不明の病気であり、さぞ不安だっただろうと思います。

当時、梅毒の治療には、水銀化合物が処方されていたそうです。具体的には、塩化第二水銀の0.1%水溶液の内用というのですから、恐ろしい。運動機能障害など水銀中毒による重篤な副作用が大きいにもかかわらず、トレポネーマ(スピロヘータ)を殺すことはできないので、潜伏する脳梅毒の進行を止めることはできなかったでしょう。ちなみに、この処方は、長崎の出島で、日本人に梅毒が多いことを報告しているツンベリーの記載だそうです。

では、そもそもなぜ梅毒の治療に水銀を処方するようになったのか。私たち素人は、昔の医学を遅れたものと決め付け、液体水銀の不思議な性状から迷信的な効能を期待して処方したかのように錯覚しがちです。ところが、山形市郷土館「済生館」内における医学展示を見ているうちに、実は危険な水銀療法にも、それなりの根拠があったこと、梅毒は当時の皮膚科医学の重要なテーマの一つであったことを知りました。

明治初期、当時の山形県令・三島通庸(みしま・みちつね)は、当時の山形県立病院「済生病院」に、オーストリアの医師ローレツ博士を招きます。博士は皮膚科を専攻していたようで、済生館にも皮膚科に関する様々な資料が残されています。古い医学資料の展示を見ているうちに気がついたことは:

(1)梅毒に感染すると、様々な皮膚科の症状があらわれます(*4)が、不思議なことに、刺青をした膚の特定の色のところには発疹などの症状が現れません。その刺青には、水銀化合物が使われていました。すると、水銀は梅毒に対し、抑制的に作用するのではないか、と考えたのでしょう。
(2)明治初期の梅毒に対する処方箋には、塩化水銀剤の処方が明記されており、当時の主要な治療法であったことがわかります。

クララがまだ小さかったころ、梅毒の初期症状を発症した青年シューマンは、皮膚科医のもとに行き、水銀製剤を処方されたことでしょう。たぶん、外用(塗布)だけでなく内用(内服)薬も与えられたのではないか。

水銀の毒性は当時から知られておりましたが、梅毒は死病であり、有効な治療法がなかった19世紀前半には、他の選択肢は残されていなかったのでは。日本人留学生・秦佐八郎が、ドイツのパウル・エールリヒの指導のもと、1909年に梅毒治療の特効薬「サルヴァルサン」を発見(*5)するまで、まだ50年以上の間がありました。シューマンは、「魔法の弾丸」の恩恵を受けることなく、脳梅毒に侵され、死亡した(1856年)と考えられます。

(*1):シューマン「子供の情景」を聴く~「電網郊外散歩道」2005年9月
(*2):シューマンの死因は梅毒による脳軟化症~独で病状日誌を公開
(*3):答えは伝記の中に~「Robert Schumannの指の故障・死因の謎?」
(*4):「梅毒って?」~「Robert Schumannの指の故障・死因の謎?」
(*5):秦佐八郎、梅毒の特効薬サルバルサン606号を開発~「日本の科学者・技術者100人」
コメント