雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

青野ヶ原モトクロス    雑感

2023-12-10 06:55:21 | M/Cレース

青野ヶ原モトクロスのあったのは昭和38年(1963)5月のことである。
 このレースが無かったら、ひょっとしたらカワサキの二輪事業もなかったかも知れない。
 カワサキが二輪の一貫生産を始めたのは昭和35年(1960)のことなのだが、最初に開発・生産した125B7がとんでもないクルマだったのである。
 車体に欠陥があって工場は返却車の山になった。
 昭和37年1月度の生産台数は返却車が出荷台数を上回ってマイナス17台の生産となったのである。

  

 
 こんな状態だったから、当時の川崎航空機の本社は日本能率協会に『この事業続けるべきかどうか』市場調査を依頼したのだが、
 その年にあった青野ヶ原モトクロスの1位から6位までの独占勝利で事業部の意気は上がったこともあって、
 日能は『この事業やるべし』との結論を出すのである。

 これがその時の記念写真なのだが、ここに写っているメンバーは製造部業部ばかりで、技術部は誰もいないのである。

  
   
 
 
 この青野ヶ原のモトクロスは会社の正規のイベントではなくて、
 製造部と営業部の有志で行われたプライベートなものだったのである。
 私は当時営業部の管理係にいて、このレースには直接には関わっていないのだが、
 上司の小野助治次長が『残業料も出ないのでパンでも買う金を都合してやれ』との指示があって、
 幾らかの金を都合したぐらいのことなのである。
 ただ、当時のメンバーも殆どが亡くなってしまわれて、
 『青野ヶ原のモトクロス』を語れる方もいなくなってしまわれたので、
 少し長くなるがその背景などを含めて纏めてみたいと思っている。

★まずはなぜこんなモトクロスをやることになったのか?
 それはその時代の二輪業界の背景と『仕掛け人』がいたのである。

 青野ヶ原モトクロスのあった前年昭和37年(1962)は、
 鈴鹿サーキッが誕生した年でもあり、
 同時にMFJがスタートした年でもあった。
 この年の11月には日本で初めての本格的なロードレース・MFJ全日本ロードレースが鈴鹿サーキットで開催されたのである。
 このレースの250㏄の優勝者が三橋実350ccの優勝者が片山義美で、
 この時は二人ともヤマハなのだが、
 このお二人はその後のカワサキのレー密接に関係されることになるのである。
 このレース観戦を仕掛けた方が、兵庫メグロの西海義治社長で、
 元プロのオートレーサーなのだが、
カワサキのレース」をスタートさせようと目論まれたようで、
 その第一弾が『鈴鹿のレース観戦』で、製造部の連中を鈴鹿サーキットに連れて行かれたのである。
 製造部のメンバーは二輪のロードレースを始めて観て、
 いたく感動し『カワサキもレースを』ということになって、
 青野ヶ原モトクロス出場になるのだが、
 当時のカワサキにはレースのマシンなど造るノウハウはないので、
 西海さんは、子飼いの松尾勇さんを製造部に入れてマシン製造に当たらせるのである。
 そしてこの青野ヶ原モトクロスが兵庫県のMFJの第1回モトクロスなのだが、
 このレースを開催された主宰者が当時のMFJの兵庫県支部長であった西海義治さんなのである。

    
  
 
★このように見てくると、青野ヶ原モトクロスはまさに西海義治さんが綿密に仕組んだものなのだが、
1位から6位までの独占』と言うのはこれはまさに天祐で、
カワサキのマシンもライダーも速かった訳でもなく、
神様が雨を降らせて』カワサキを勝たせてくださったのである。
 この日のレースは雨でいたるところに水溜りが出来て、
 他メーカーのマシンはみんな水につかってエンジンが止まってしまったのだが、
 カワサキの実用車に近い125B8のマシンのみが、
 止まらずに走り切った結果なのだと思う。
 私もその後レースに関係することになるのだが、「1位から6位独占」という成績ははこのレースだけなのである。
 ライダーも別にモトクロス専門でもない製造部の若手たちなので、
 特に速かった訳でもないのだが、車が止まらずに最後まで走り切った結果なのだろう。
 後、カワサキの契約ライダーになりMFJの殿堂入りを果たす山本隆もこのレースにはヤマハで出場しているのだが、
 やはりマシンが止まってリタイヤしているのである。


このレースの中心になった人たちは、製造部の中村治高橋鐵郎川崎芳夫さんなどなのだが、
営業からは私の下にいた川合寿一さんがこのチームのマネージャーとして参画していたのである。
川合さんは明石工場の野球部のマネージャーなどもしていたことから、このレースチームでもマネージャーを務めたのである。


  


この青野が原のレースでは『1位から6位独占』とは言われるのだが、
レースで常に言われる『優勝者』が誰なのかがよく解っていないのは、不思議なことである。
当日現場監督をされた高橋鐵郎さんは海軍兵学校出身なので
カワサキが勝つこと』が最優先で
 個人的な優勝者などは関心がおありでなかったのかも知れない。


★こんなカワサキの初めてのレース・青野ヶ原モトクロスの成果も大いに関係して、
カワサキの二輪事業』は苦難の時代を乗り越えて再出発することになるのだが、
このとき日本能率協会が下した結論の条件の中に、
広告宣伝課を創るべし』と言うのがあって、
 その広告宣伝課を私が担当することになるのである。
 その広告予算は当時の金で1億2000万円を3年間本社開発費で出されることになったので、
 現在の金に直したら優に10億円を超える額で大変な額だったし、
 レースも正規にチームを創ることになったので、その費用も広告宣伝費の中で扱うことになり、レースとの関係が出来たのである。

 レースチームは川合寿一さんが担当して、
 関西では、神戸木の実クラブの歳森康師・山本隆の二人と契約するのだが、
 この神戸木の実の主宰者が鈴鹿の優勝者の一人片山義美さんだったのである。
 
 関東では当時のカワサキ自動車販売が、125B7の時代からレースを始めていたのだが、
このレースを担当していたのがカワサキ自販の広告宣伝課長の小野田滋郎さんで、
 ヤマハにいた三橋実を引っこ抜いて、カワサキコンバットというチームを厚木で立ち上げたのである。
 そんなことから鈴鹿サーキットでの初めてのレース優勝者のお二人がカワサキのレース立ち上げに関係するという不思議なご縁だったのである。

そんなことからカワサキのレースチームも、新しくできた広告宣伝課の中での運営となるのだが、
 当時の川崎航空機の明石工場の技術屋さんは、エンジンの専門家は沢山いたのだが、
 特に二輪車が詳しかった訳でもなくエンジンを除いたら『素人集』と言っていい状況だったのである。
 そんなことから、エンジンは技術部が担当したのだが、
 レーサーに仕上げるために製造部に『レース職場』を造って、
 ここでは兵庫メグロから来た松尾勇さん個人のノウハウでマシンに仕上げ、
 ライダー契約レース運営広告宣伝課と言う3者協力体制で、レース運営がなされたのである。


 最初にスタートした時は、
 カワサキコンバット三橋実・岡部能夫・梅津次郎
 神戸木の実クラブ歳森康師・山本隆の5人のライダーでのスタートだったのだが、
 その後、安良岡健や新人の星野一義も加わって、
 ロードレースでは、三橋実・安良岡健のほか金谷秀夫和田正宏とも契約し、
 創成期ながらなかなかの陣容となったのである。
 

 

 

 このような体制は、レースを正規にスタートさせた昭和39年(1964)から結構長く続いて、

松尾勇さんが『レース職場』で最後に仕上げたマシンは
 「F21M」でこれは日本のモトクロス界を席巻した結構なマシンだったが、


   
  
 このマシンまでは『赤タンク』で、『赤タンクのカワサキ』と称されていたのである。


★ 現在のように技術部がレース部門を統轄するようになったのは昭和48年(1973)からで、

 モトクロッサーでいえば『KX』と称されるマシンからで、
 マシンのカラーもライムグリーンに統一され、
 『チームグリーン』の活躍なども見られるようになるのである。

 ごく最近、この『KX50周年を祝う有志の会』が開催され、私も出席したのだが、
 かって星野一義の良きライバルだったスズキの吉村太一ちゃんも来てくれていた。

  
   

  
 
 

 

 今年は『青野ヶ原モトクロス』からは60周年に当たるのである。
 私の現役時代だが、
 1988年に『カワサキファクトリーチーム結成25周年記念』の会合を開催している。

  

 
 これがその時の写真なのだが、
 当時のレース運営委員会のメンバーやライダーたちも揃っているのだが、
 この最前列の真ん中にお座りの方が西海義治さんで、
 左から2番目がメカニックの松尾勇さんなのである。

 ここには青野ヶ原の中村治道さんも、高橋鐵郎さんもおられるし、
 初代のレース監督大槻幸雄さんもおられる。
 ライダー諸君も安良岡・和田・山本・岡部・梅津・金谷・星野・清と顔を揃えていてOBライダーでは星野と清原が一番の若手だったのである。

 当時の現役ライダーなども出席していて、多田・杉本・宗和などの顔も見えるのである。

 この会合は芦屋の有名旅館『竹園』で全額費用持ちで1泊泊まりで行った豪勢な25周年記念で、
 この写真を撮ってくれたのは二輪車新聞の記者衛藤誠さんなのである。

 この会合自体が35年も前の話なのである。
 元川重社長の田崎雅元さんも、チームグリーンの平井稔男さんもいるし、
 私の後のファクトリーを纏めてくれた岩崎茂樹さんの顔も見える。

 創成期のカワサキのレースを支えたメンバーなのである。
 私自身はレースに関わったお陰で今もなお豊かな人生が送れたと
 レースに感謝する昨今なのである。


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カワサキのレース60周年とKX50周年

2023-12-01 07:07:21 | M/Cレース

★とうとう今年も12月になった。
 振り返ってみると今年は戦後軍事産業だったということで
 休止していた川崎航空機が昭和28年に再開して70周年なのである。

 カワサキが本格的に単車事業に進出するきっかけとなった
 青野ヶ原のモトクロスは昭和38年だったし、
 これを契機にカワサキのレース活動がスタートしたので
 カワサキのレーススタート60周年なのである。


  

  
 そのスタートの時期からたまたまレースを担当したので、あれから60年経っている。
 
 そんな2023年だったのだが、
 12月2日にはカワサキKX50周年を祝う有志の会も行われることになっていて、
 その幕開けのご挨拶をすることになっている。


  
  
 
★ ほんとにいろいろとカワサキ単車とはご縁があるのだが、
 そのスタート時期のことを語れることが出来る方も少なくなってしまった。
 KXが スタートしたのは1973年のことなのだが、
 その当時は私もレースを離れて、販売関係にいたので
 実をいうとあまりよく解っていないのである。

 そんなことなので、カワサキがレースをスタートした当初の話などを
 ご紹介しようかなと思っている。
 私がレースを担当したのはスタートから4年間で、
 その間は、本社が単車事業を軌道に乗せるために毎年1億2000万円の
 広告宣伝費を本社開発費でくれてたので、
 ほんとにいい時代だったのである。

 マシンでいえばF21Mまでの時代で

  

 
 タンクの色は赤かったので国内市場では『赤タンクカワサキ』と呼ばれたりした時代なのである。

 ライダーは、MXは、山本・歳森・星野・梅津・岡部
 ロードは金谷・安良岡・三橋などがいてなかなかのメンバーだったのだが、
 当時はまだレース職場に松尾勇さんがいて、
 エンジンは技術部だがマシンにするのは松尾勇さん個人のノウハウだったと言ってもいい時代だったのである。
 そうい意味では、まさに創生期で、
 カワサキの技術部が本格的にマシンを開発にあたったのはKXからで、
 カラーもライムグリーンに統一されたのである。


  
 
 
★ いずれにしてもよく生きたものだなと思う。
 スタート当時のメンバーたちも、
 みんな私よりは若いのに先に逝ってしまった。
 このKX50周年の会合は、私にとっても最後の公式行事になるだろうと思うのである。
 それも明日になったが、いいメンバーが集まるようなので、
 どんな会合になるのか楽しみである。

 
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谷口尚己さんのこと

2023-03-08 06:13:10 | M/Cレース

★ 昨日は松島裕さんが推進されている
 「二輪文化を伝える会 」のことをご紹介したのだが、
 その中にこんな二輪関連の人物の名前が載っていて、
 その一番先に上げられているのが「谷口尚己」さんなのである。

 松島さんの感覚なのだろうが、
 二輪文化への貢献度のようなものが、その名前の大きさに現れているのだと思う。

 そんな有名人の中に私の名前も真ん中あたりにあるのは嬉しい限りなのだが、
 赤線を敷いた人物は「私が直接お会いしたことのある」方々で、
 親しく言葉を交わしているのだが、
 その中でただお一人「本田宗一郎さん」だけが何度も同じ会議でご一緒しているのだが、
 当時は「恐れ多くて」名刺交換すら出来なかったのである。
 その他の方とはホントに親しくして頂いて、
 「谷口尚己」さんもそんな中のお一人なのである。

 
    



谷口尚己さんは、1954年にホンダに入社、1955年の第一回浅間火山レース250ccクラスで、ライラックの伊藤史郎選手に僅差で届かず2位。
その後もワークスライダーとして活躍をされたのだが、優勝することないままに1966年を最後にホンダを退社されたのだが、
それはWGPで優勝を獲得するための決断だったのだという。

その谷口さんは昨年末にお亡くなりになったとか。
松島さんはこのように語られているが、
その話の中に「カワサキ」は登場したのだろうか?


  



 1966年と言えばカワサキがGPレースに初めて出場した年なのだが、
 その当時のライダー契約担当が私で、
 その年の1月に藤井敏雄と契約するのだが、彼はマン島のプラクテイスで転倒亡くなってしまうのである。
 外人ライダーとしては、デグナー・シモンズとも契約をしたのだが、
 日本人ライダーとしては安良岡健と、
 新たに契約したのが「谷口尚己」さんだったのである。
 初めてお会いしたのがその年の9月9日だったのだが、
 その時の「谷口尚己さん」は従来私が接してきたライダーたちとは、全然違った「紳士然」とされていてびっくりしたのが印象に残っている。
 その年の日本GPでは結果は出なかったのだが、
 翌1967年のシンガポールGPの350ccクラスに出場し、
 カワサキのマシンで見事念願の優勝をされて、
 それを機にレースの世界から引退されたのである。


  

★ 谷口尚己さんは有名ライダーだが、
 彼がカワサキに乗ったということはご存じない方が多いのだろうと思う。
 谷口さん引退後は、一度だけ電話でお話をしたことはあるのだが、
 昨年末にお亡くなりになったとは、
 松島さんの「二輪文化を伝える会 」の記事の中で知ったのである。

 みんな若くして亡くなってしまう。
 上記の表の中の私と面識のあるライダーたちも
 安良岡健・金谷秀夫・野口種晴・金子豊・岡部能夫なども逝ってしまわれて、もうこの世にはいないのである。

 こんな著名なライダーたちと懇意にさせて頂いたのは、
 私の人生の宝物で、本当にいい想い出として残っているのである。


 
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創成期の二輪のレース界と私

2022-09-08 06:18:02 | M/Cレース
★ 私が若いころ4年間だけカワサキの二輪のレース関係を担当したのだが、
 それは1960年代のことで、二輪のレース界も創成期と言っていい時期だった。

 昨日、当時のカワサキを代表するライダーだった山本隆さんのことを書いたのだが、
 そのコメントに増田耕二・従野孝司くんのことが書かれたりして、
 当時を懐かしく思いだしたりした。

 この写真は2016年に『二輪文化を伝える会』が主宰して
 日本のモトクロス界を支えた当時のトップライダーたちが多数集まったのだが、
その時思いもしなかった従野孝司くんや、これも当時カワサキにいた増田耕二くんもいて一緒に写した写真なのである。

 
 


★ 私がレースに関係していた当時、
 こんな有名ライダーたちもまだまだ若かったのだが、
 みんな成長されてこの4人のライダーは、今年MFJから表彰され殿堂入りを果たされたのである。




 

★ 私自身はバイクにも乗らないのだが、
 若いころレース界に関係したことが、ほんとによかったと思っているし、
 当時から60年経った今も何となく二輪関係と繋がっているのである。
 いま繋がっているFacebookのトモダチを見ても、その80%が二輪関連なのである。
 

 かっての名門城北ライダースの大御所・久保和夫さんとは特に親しくして頂いたし、

 


 今は超有名人となった星野一義さんとも、
 初めて会った彼が17歳の頃のままのおつき合いだし、


 

  
 その星野一義との良きライバルだった、吉村太一ちゃんとはいろんな形で繋がっていて、
 これはマウンテンライダースの50周年記念に出席した時、
 その日が「私の80歳の誕生日」だったので
 お祝いの花束などを頂いたのである。





  まだまだいっぱい写真はあるのだが、
 これらはみんな「私の宝物」であり、私の人生を豊かにして頂いている。
 ほんとに短い間だったが、創成期のレース界に関係してよかったなと思っている。



 
 




 


 
 
 
 
  
 
 

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鈴鹿サーキットの想い出

2022-07-05 05:50:22 | M/Cレース

つい先日のFacebook に松嶋裕さんが、
 こんなコメントで鈴鹿サーキットの開業前の写真をアップされていた。 

『ひと足もふた足も早く梅雨が明けて夏がやって来てしまいました。
夏といえば、そう、鈴鹿8耐。3年ぶりの開催となります。

舞台となる鈴鹿サーキットは今年60周年
ということで60年前の夏鈴鹿サーキット開業直前の姿をどうぞ。』

  


 鈴鹿サーキットと言えば、私にとっていろんな想い出がいっぱいなのである。
 1962年6月に着工し、9月に完成して
 11月には第1回全日本ロードレースが開催されて、
 そのレースを観に行ったカワサキの製造部の連中が感激して、
 カワサキもレースをと翌年青野ヶ原のモトクロスで、
 1位から6位までを独占する完全優勝を果たしたのが、カワサキの二輪事業本格的進出に繋がったのである。

 そういう意味では若し鈴鹿が産まれなかったら
 カワサキの二輪事業はなかったかも知れない。

 ちょうど60年も前の話なのだが、
 実は私もこの年の10月5日鈴鹿サーキットに行ってるので、
 カワサキの中では私が一番乗りなのである。
 当時ちょうど広報も担当していて、新装なった鈴鹿サーキットに看板を付けないかという話があって、
 業者の方が何社かの候補を募って大阪から車で案内してくれたのである。
 ホンダのレーサーが爆音を立てて走っていて、初めてみるレーサーにびっくりしたのを覚えている。


★ その後、二輪事業を本格的にスタートしたカワサキは、
レース委員会』なるものが創られて私はその事務局や直接のレースマネージメントを担当していたのである。

当時の契約ライダー
左から岡部能夫・歳森康師・山本隆・三橋実・梅津次郎の5人のライダーが、そのスタート時期なのである。


 


 ただ当初はモトクロスオンリーだったのだが、
 1965年の5月に行われた鈴鹿ジュニアロードレースに、
 モトクロスのチャンピオンライダーだった山本隆がどうしても出場したいというのである。
 当時はまだロードレース出場の許可は会社からは出ていなかったのだが、
 レーサーを造ってこっそり出場してみたら、
 山本隆はホンダに次いで3位に入賞したのである。

 これがその時の写真でトップにいるのが3位になった山本隆だが、




 

その勝因は『』で、全体のスピードが落ちたのと
モトクロスライダー山本隆のテクニックが生きての3位入賞で、
カワサキもロードレースに本格的に取り組むことになるのである。
青野ヶ原のモトクロスで完全優勝出来た勝因も実は『』なのである。
カワサキにとってはこの二つのレースの雨は、
本当に恵みの雨だったということが出来ると思う。


★前述の松嶋裕さんがさらにこんな記述をされているのだが、

『1962年に開業した鈴鹿サーキット。
2年後の1964年8月1〜2日には鈴鹿18時間耐久レースが開催されています。
たぶんこれが初めての鈴鹿サーキットでの耐久レースだと思われます。
スタートは夜の8時。翌日の昼2時がゴール。
さらに翌1965年7月31日〜8月1日には、24時間耐久レースが開催されます。
24時間耐久は7月31日午後5時にスタートし、翌8月1日の午後5時がゴール。』

 
実は私はこの『24時間耐久レース』にはMFJの運営員として鈴鹿の現場にいたのである。

これがその日の日記だが、こんな風に書いている。
 
参加台数は27台とちょっと寂しい。
鈴鹿サーキットは派手にデコレーションや催し物を準備、オールナイト映画劇場など。
完全にアメリカナイズされた催し物に集まった人たちも若くエネルギッシュで、イカス10代のカップルが圧倒的に多かった。
夜を徹しての行事「外泊はイケマセン」という時代は過ぎた、熱っぽい夏の一夜であった。』
 とこんな風に書いているが、そんな雰囲気だったのである。
           

            

   


後にこの若い人たちの夜の行動が問題になって、24時間耐久はこの1回で終わってしまったのである。
こんな不祥事があって中止になった『24時間耐久レース』なので、ネットにも出ていないのだが、
松島裕さんの記事はそういう意味でも非常に貴重なのである。
日本でも二輪の24時間耐久レースがあったことは間違いないのである。
 
その後も鈴鹿サーキットにはいろいろと関係があって、
現役時代の7月末は、八耐週間でずっと鈴鹿サーキットで過ごしていた時代もあったのである。

もう行くこともないのかも知れぬが、
鈴鹿サーキット』は想い出いっぱいの懐かしいサーキットなのである。



 
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日本モーターサイクル殿堂入り

2022-03-23 06:48:08 | M/Cレース

★日本モーターサイクルスポーツ協会(MFJ)は昨年末に、
2021年度の「MFJモーターサイクルスポーツ殿堂」の受賞者、
久保和夫・鈴木忠男・山本隆氏・吉村太一の4名の殿堂入りを発表したのだが、
ごく最近の二輪車新聞に改めて記事発表がなされたのである。





第一回は高橋国光氏や伊藤光夫氏、第二回は本田宗一郎氏と吉村秀雄氏が選出されるなど最高の賞なのだが、
今回はモトクロス部門の黎明期を対象に多大な貢献をした4名が選ばれ殿堂入りしたのである。

 この4名が現役で活躍した当時、たまたまだが私はカワサキのレース部門を担当していて、よく知っている仲間なので、非常に喜ばしく改めて心からお祝いしたいと思っている。

 昭和40年(1965)前半のことだが、久保和夫さんはすでに日本のトップライダーだったが、
山本隆さんなどもファクトリライダースタート当時だったし、
吉村太一さんなどは星野一義と同期生なのだが、まだ10代の新人ライダーだったのである。


★そんなライダーたちが、日本を代表するトップライダーに成長し、
 今回は殿堂入りもされたのだが、
 そんなに立派になられても、その当時そのままのおつき合いが今でも続いているのである。

 私自身はバイクにも乗らないし、バイクも持っていないのだが、
 二輪のレース界に関係したお陰で、極端な言い方をすると
 『私の人生は豊かになった』と思っている。

 この4人の方たちと一緒に写った写真もあるし、
 ごく最近まで親しくお付き合いが出来ているのである。

 何故か大御所・久保和夫さんとも気があって、親しくさせて頂いた。


 


 これはまたレース界の大御所が顔を並べているが、
 マウンテンライダースの50周年記念
 吉村太一ちゃんから、ご招待を頂いたのである。

 
 

 
その当日がたまたま私の80歳の誕生日だったので、
太一ちゃんが気を遣って頂いて、こんな立派な花束まで頂いたのである。






 これもその当日の写真だが、
 安良岡健さんとはこの時が最後になってしまった。






★レースに関係したお陰で、ホンダ・スズキ・ヤマハのみなさんとも
 親しくなれたし、カワサキだけではなくて二輪業界への関りがいろいろと出来たのはよかったと思っている。

 毎日アップしているFacebook では、レース界や二輪業界の方たちと
 親しくお会いできてるし、
 私の毎日が豊かなものになっている。

 Facebook に使っているこの写真は4メーカーに関係した人たちに加えて、
 BSの田中隆さんも加えて5社のメンバーのほか星野一義もいるし、
 私にとっては当時の想い出深いメンバーが揃っているからなのである。

 


 
この写真は、レース界で活躍された平井稔男さんが主宰された
カワサキの想い出、そして未来』の会合に集まられたレース界のメンバーたちなのである。


 改めて久保和夫・鈴木忠男・山本隆氏・吉村太一さん
 日本モータサイクル殿堂入りおめでとうございました。


 
 
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私の周りにいた人たちはどんどん立派になる

2021-12-21 06:48:37 | M/Cレース

★こんな4人が「MFJモーターサイクルスポーツ殿堂入り 」をしたというニュースが流れた。
 左から久保和夫・鈴木忠男・山本隆・吉村太一さんである。



 
 
 私がカワサキでレース担当をしていたころの
 ライダー諸君で当時は久保和夫さんは名実ともに日本のトップライダーだったが、
 山本隆さんがちょっと有名になりかけた頃、
 吉村太一ちゃんと鈴木忠さんはまだ新人ライダーだった。

 なぜか、いろいろと関係があった。
 久保さんは当時の名門城北ライダースのTOPライダーで、
 久保さんだけでなく、城北ライダースの人たちと何となく繋がっていた。
 藤井敏雄さんを私に紹介してくれたのは久保さんだった。


 山本隆さんはカワサキのライダーだったから当時は毎日会っていた。
 私は彼の仲人でもある。

 吉村太一ちゃんは、当時カワサキにいた星野一義のライバルで、
 二人が18歳の頃からよく知っている。

 鈴木忠さんも知っているが、
 彼の師匠・スポーツライダースの野口種晴さんとも結構親しかった。


 この写真後列の一番右は、大久保力さんである。
 当時はバイク雑誌はオートバイ誌モーターサイクリストの二誌しかなくて、
 大久保力さんはサイクリストで新車のテストライデイング記事担当で、
 よく明石に来られてた。
  今は二輪車業界の大御所なのである。

★ それにしても、みんな立派になられるものである。
 50年前、皆さんがこんなことになるとは夢にも思わなかったのである。

 この数年でも、いろんな機会にいろんなところでお会いはしているのだが、
 みんな昔のご縁で繋がっているのである。
 たまたま、若いころレースを担当したお陰で、
 当時はただのライダーだった方たちが「世界の~」とか「日本の~」とかがつく
 有名人になっていくので私としても嬉しい限りなのである。
 いろんなライダーたちとの思い出の写真がいっぱいなのでご紹介してみよう。

これは東京で、サイクリスト誌の会合で久しぶりにお会いした久保和夫さん

   


 これは同じ会合で、私がシャッターを押してるが
 山本隆・久保和夫・菅家安智さんである。
  


これはかってのモトクロスライダーの集まりに、ご招待頂いたときに 
 菅谷・久保・吉村さん





 これは「片山義美をしのぶ会」での私のテーブルで、
 有名人いっぱいである。
 私の左の大槻幸雄さんも殿堂入りされたし、
 吉田純一さんは叙勲を受けられたが、
 今回は山本隆さんも殿堂入りなのである。
 私の右が大久保力さん、この時は同じテーブルだった。
 




  これはまだ片山義美さんがお元気なころ、
 確か「神戸木の実50周年記念」だったと思う。




 これはマウンテンライダースの50周年記念で、
 当日は私の誕生日だったものだから、
 太一ちゃんが気を遣ってくれて、こんな花束を頂いた。
 


 その会合の始まる前に、こんなライダーたちと
 鈴木忠さんもいるし、金谷もいる。
 金谷秀夫とはこの日が最後になってしまった。
 


 
 超有名人になった星野一義とも、想い出いっぱいなのである。




 これはちょっと珍しいトリオ。
 北川圭一のスタートはカワサキなのである。
 京都の吉川健一さんに頼まれてチーム・グリーンに推薦したのがレースの始まり、
 真ん中の女性は、今ちょっと話題のKMJの社長になられた桐野英子さんである。





★ 私自身は長く二輪に関係はしたが、
 自分ではバイクにも乗らないし、バイクを持ったこともない。
 それなのに、若いころちょっとレースに首を突っ込んでいただけで、
 こんなレース界のいろんな会合にいろいろと声を掛けて頂けるのは嬉しいことである。

 特に定年後の今、そんな二輪界の方たちとネットでは、殆ど毎日繋がっている。
 そういう意味では「私の財産」と言ってよく、
 そんな方たちが単なる有名人からさらに社会的な表彰を受けられることは
 私にとっても「誇り」なのである。


 沢山ある写真の中から、Facebook の私の表紙にこの写真を使っているのは、
 私がレース担当をした時代の5メーカー
 ホンダ・スズキ・ヤマハ・BS・カワサキのレース関係者が揃っているからである。
 
 右からホンダ渡辺さん
 ブルジストン田中隆造
 スズキとホンダにいた村太一
 カワサキとスズキ木村夏也
 それに「カワサキ星野一義金谷秀
 このお二人はカワサキから移動後が有名だが、
 レースのスタートのその故郷は「カワサキ」なのである
 こんな皆さんとの思い出いっぱいなのである。 



 ほんとに「私の周りにいた人たちはどんどん立派になる」が実感なのである。


 
 
 
 
 
 
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カワサキのロードレースがオモシロかった時代

2020-10-05 07:28:57 | M/Cレース

★今月号の『カワサキバイクマガジン』が送られてきた。

 毎朝  Facebookではお会いしてる『鶴田竜二』くんの
 ZX25Rのロードインプレッション記事が載っている。


     



 もう長くお会いしていないが幾つになられたのだろう?


  



 そんなことから、1989から90年代にかけての
 カワサキのロードレースを思いだしたりした。



★カワサキのレースはモトクロスからのスタートなのだが、
 レースで華やかなのは、やはりロードレースなのだろう。

アメリカでのロードレースやヨーロッパのGPやフランスの耐久レースなど
カワサキのロードレースは、華やかな実績を残した時代も数多くあったのだが、
国内のロードレースではなかなか華を咲かせることが出来なかった時代が続いたようにも思う。

カワサキのロードレースのスタートは、
非公式な出場ではあったが、
1965年4月にモトクロスライダーだった山本隆が鈴鹿のジュニアロードレースに出場して、
ホンダに次いで3位で表彰台に上がったのである。
 

この実績からカワサキもロードレースの世界に公式に出場することになり、
翌月の鈴鹿アマチュア6時間耐久レースには歳森康師・金谷秀夫のコンビで出場したし、
ロードライダーとしては三橋実・安良岡健など著名ライダーもいたのだが、
なかなか優勝にはご縁がなかったのである。


A1ロードレーサーを擁した1967年はマシンは圧倒的に速かったのだが、
その年行われたFISCOの日本GPには,
ヤマハは日本人ライダーではとても勝ち目はないと思ったのだろう、
当時のアメリカでは既にTOPライダーだったガリー・ニクソンを呼びよせて
金谷秀夫と二人が同じベストラップを記録したりする大接戦だったのだが、
結果は2位に終わってしまうのである。



★ カワサキ創成期のレース活動を担当していた私もこのレースを最後に営業に異動になったので、
それ以来カワサキのレース活動はずっと横から見ていたのだが、
1988年に国内の販売担当になって7万台を目指した時期に、
国内のレース活動に再び情熱を燃やすことになったのである。

88年10月1日に担当して一番最初にやったことは、
10月15日にかってのレース関係者と現役ライダーを集めて、
国内レースに全力投球するとその『決意表明』を行ったのが『25周年記念OB会』だったのである。


   

  

カワサキの創生期にレースを担当した人たちと
ライダーOBたちと当時の現役諸君が殆ど集まったのである。


 

★ 販社の中に『スポーツ推進課』を新たに創って、
 『Team Green』を組織して、重本・野村体制で、
 販売促進の最重点に レースを位置付けたのである。

 当時の単車事業本部にも『スポーツ推進部』が出来て、
岩崎茂樹部長がその初代担当となったのだが、彼は60年代に私の後の国内レースマネージメントを担当してくれた人で、
それが事業の中心の企画本部内に出来たということは、
当時の事業本部長はあの『青野ヶ原モトクロス』を指揮した髙橋鐵郎さんで、
髙橋さんは国内販社の社長も兼務されていたので、

この時期はカワサキが『ホントにレースに力を入れていた時代』だったと言えるのだろう。

 
今思うと、ホントにオモシロかった時代である。
二輪車は遊びの道具』なのだから『いい遊びを提供したら自然に売れる』と
ホントにそう信じていたし、
SPA直入も作ったし、遊び会社『ケイ・スポーツ・システム』も設立して『遊び半分ではいい遊びは出来ない』といろんな遊びに徹していたのである。

 

★その結果はツキもあって、1年目から結果が出るのである。
手元にその1989年の日記があるのだが、カワサキが本格的に『レース活動を復帰』したこの年は、非常にオモシロい展開となったのである。

●3月4日の『鈴鹿2&4』では宗和がTT-F1で3位に入ったりして、幸先良いスタートが切れたのである。
4輪の星野インパルズも参加していて私と岩崎が来ていると聞いたのか、
星野一義と金子豊がわざわざカワサキのパドックまで挨拶に来て、旧交を温めたりしたのである。
Team Greenの結果は はもう一つだったが、『ルマンの出場』も決まったし、
鈴鹿サーキットも『カワサキの本格的レース復帰』を喜んでくれたのである。

● その『ルマン24時間』は4月に行われたが、『宗和・多田・塚本組』がフランスチームに続いて3位入賞を果たしたのである。

● 7月に行われた鈴鹿サーキットの『6時間耐久』では『鶴田・北川組』が期待通りTOPで、 
藤坂・林組』も頑張って、カワサキが1・2フィニッシュを決めたのである。



★ このように『カワサキのレース活動』は復活初年度から好成績でその幕を開けるのだが、
Team Green 』だけではなく、BEET チームや地方のクラブチームの支援なども積極的に行ったし、
レースにも注力していた『阪神ライデングスクール』の有馬さんともこの年に繋がって、その後の密接な活動となっていくのである。

 

この年には、あの北川圭一くんがそのデビューを飾っているのだが、


  
 
  
 
  彼は京都の山科カワサキの吉川健一、ヨシケンのチーム出身なのである。



 
 


ヨシケン』は、私が大阪母店長だったころの京都営業所のサービス担当で、
その『ヨシケン』からの依頼があってのTeam Green 入りだったのである。
 

 カワサキにいたライダーたち、金谷もそうだが、北川
 他メーカーに移動してから大成している人が多いのだが、
 金谷も晩年はカワサキのZ1会に戻ってきたり、
 北川もMFJのミーテングで私を見つけてわざわざ挨拶に来てくれたりした。
 そんな北川圭一くんもFacebook ではトモダチで繋がっているのである。

 1993年には念願の『鈴鹿8耐優勝』も出来たし、
 1990年代のカワサキのレースは、ホントに『いい時代』で、
 『オモシロかった懐かしい時代』なのである。


     


   カワサキバイクマガジンの『鶴田竜二』くんの記事から
 懐かしいあの時代を思いだしたのである。



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片山義美を偲ぶ会 で出会った人たち

2020-02-02 09:12:58 | M/Cレース

★ 昨日は『片山義美を偲ぶ会』が神戸のポートピアホテルで盛大に開催された。

   

 
日本の昭和のレース界を支えた方たちが170人も集まって大成功だった。
 沢山の写真を撮って頂いたのでご紹介しよう。

 
この会の発起人の方々、宇野順一郎さんの幕開けのご挨拶である。
小嶋松久・寺田陽次郎・山本隆・星野一義・坂口顕・吉村太一・村上力・清原明彦という錚々たる昭和のライダーたちである。

 


星野一義、大槻幸雄、吉田純一、山本隆、杉本五十洋さんなどカワサキ関係者と大久保力さんも、大久保さんはカワサキの創生期の頃、モータ―サイクリストのロードインプレッションによく明石にお越しになって、そんな頃からのお付き合いである




 会が始まる前に、あの北野元さんにお会いした。
 お話するのは初めてである。
 星野に紹介して頂いた。
 


片山義美を偲んで想い出話を披露されているのは、本橋明泰さん。
かって、カワサキの創生期、125B7の時代に三吉一行などと一緒に、カワサキのモトクロッサーに乗ったことがあるとか。
 当時の井出哲也さんのお名前が出たりして懐かしかった。

  



 大槻幸雄さん出席されていて、かってのカワサキのライダーたちと。



 北川圭一はFacebook ではしょっちゅうお会いしているのだが、久しぶりだった。
 真ん中はいまもカワサキの現役ぱりぱり・桐野英子さんである。
 


 星野がやってきて、大槻さんと長い間、話をしていた。
星野にとっては『カワサキ時代』が一番懐かしいのかも知れない。





 星野一義と山本隆。
 星野のカワサキ時代のお師匠さんが 山本隆なのである。



吉田純一さんとのスリーショット。
純ちゃん、今は超有名人だが、かってのカワサキ時代は神戸スーパースポーツの平井稔男さん門下で、バイクもレースもやっていたとか。




 星野と清原、お二人とも神戸木の実クラブのメンバーなのである。






 会場にはこんな写真や山本隆のロードレース入賞トロフィーなども飾られた。

 左は神戸木の実クラブの解散会の時、右はカワサキのレースライダーのOB会に片山義美が出席しているのである。





後列右から5人目が片山義美さんである。
髙橋鐵郎・田崎雅元・大槻幸雄・平井稔男さんなどかってのカワサキのレース関係者も・・・
2010年1月だったから、ちょうど10年前なのだが、何人かの方が逝かれてしまった。
 


写真は撮れていないけどいろんな有名人と再会してお話が出来た。

小嶋松久・吉村太一さんとはマウンテンライダース50周年記念パーテー以来かも知れない。
鈴木忠さんとは彼がまだ野口種晴さんのスポーツライダースの新人時代の時の話や、札幌の手稲の全日本の優勝の時の懐かしい話など、2番・3番が山本隆・星野一義だったのである。

 かっての城北ライダースの菅家安智さんもわざわざ私の席まで訪ねて頂いてお話が出来た。 久保和夫さんとは何故か親しくして頂いて、今でも甥っ子の久保 亨さんとはFacebook で繋がっているのだが、そんなお名前も出たりした。


この会の発起人代表の宇野順一郎さんとは、三木のモトクロス場でお会いして以来だったが、かってカワサキのヘリコプターに載せて貰ったことがあるなどと仰っていた。
当時のカワサキのレースチームはヘリコプタを持っていて、レース場にもヘリを持って行ったりしていた。 みんなびっくりされるが当時の中古の下取りのヘリコプターで簿価は200万円ぐらいだったから持てたのである。


★片山義美さんとは直接カワサキとは契約関係などはなかったのだが、神戸だったし『神戸木の実クラブ』の傘下のライダーたちがカワサキとの契約があった関係などもあって、非常に親しくお付き合いをさせて頂いたのである。

 この会の席上で当時はカワサキのGPマシンの開発に当たっておられた大槻幸雄さんが岐阜の飛行場で片山さんにカワサキのGPマシンに乗って貰ったというような話もなさっていたが、そんな時代もあったのである。

私も知らなかったが、片山義美さんは三木のご出身なのである。
そんなことで晩年は三木にお店を持たれていたし、今も息子さんの片山勝美さんが
Katayama Racing をそのまま引き継がれているようなのである。

片山さんのお蔭で昔の懐かしい方たちにお会いできて本当にいいひとときだった。
まずは、とりあえずご一報である。

 
 

 

 

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レース界の話 いろいろ

2019-12-21 07:38:21 | M/Cレース

★昨日の午後、『忠幸松本』さんから突然、Facebook のメッセージが届いた。


今から三木にお伺いしたいのだが、ご都合は?』 と仰るのである。

FBでは毎日繋がってはいるが、お会いしたことはなくて、レース界の特に『神戸木の実クラブ』の金谷秀夫のことなどに詳しく、沢山の写真を持っておられる方、という認識だったのである。

お会いしていろいろお聞きしたら、『金谷秀夫の店』に勤めておられて、神戸木の実クラブとも関係が深かく、楽しい『レース界独特の』の昔話が続いたのである。

今は旭川にお住まいのはずだが、『なぜ神戸に?』とお聞きすると
来年2月1日に、神戸である『片山義美を偲ぶ会』の打ち合わせに来られたようなのである。

この会には私もご案内を頂いていて出席の予定なのだが、この会の発起人の方々の殆どは、私も親しく関係のあった方々なので、お会いできるのが楽しみなのである。
そんなことで、『初対面』とは思えないような、いろんなレース話に花が咲いた楽しい数時間を過ごせたのである。

   
 
 

★この時代のレース界は、メーカーの枠を越えての繋がりがあった時代だったので、『片山義美』さんともカワサキは直接の契約関係などはなかったのだが、非常に親しくさせて頂いたのである。

以下はかって私がアップした
名門神戸木ノ実レ―シング50周年を祝う会』というブログからの抜粋だが、


●『神戸木ノ実レ―シング50周年を祝う会』がグリーンピア三木で行われたので出席した。
●50年前の日本のレース界、特にモトクロス関係は、MCFAJという全国のレーシングクラブからなるクラブ連盟の方がMFJよりもむしろ主力であった。
●カワサキがレースを始めたころは、片山義美さんが主宰する、神戸木ノ実レーシングの歳森康師、山本隆と個人的なライダー契約を結んでスタートしたのである。
●ヤマハは、野口種晴のスポーツライダースというクラブで、スズキは、東京の城北ライダース、関西は京都の小島松久のマウンテンライダースなどがファクトリーライダーたちを擁していた。
●カワサキは、歳森康師、山本隆に続いて、ロードレースで金谷秀夫、さらに村上力などとも契約を結んだし、片山の義弟の従野孝司とも契約を結んだ。
●関東のカワサキコンバットがが解散してからは、星野一義や清原明彦さらには和田将宏などカワサキの契約ライダーたちがその籍を置いてカワサキ色が強くなった時期はあるが神戸木の実クラブ』はマツダとも、ヤマハ、スズキやホンダとの契約のあるライダーを有する非常に特色のあるレーシング倶楽部だったのである。


昨日の『忠幸松本』さんとのお話も、こんな昔ばなしに終始したのである。



 ブログにはこんな写真も貼付してあって、

メインテーブルに座ったメンバー、前列左から
山本隆、片山義美、清原明彦、後列左から私、金谷秀夫、和田将宏、村上力。

他にも毛利良一、杉尾良文、近藤博志、など全日本チャンピオンたちも出席していたのに、まあ年寄りの特権ということか。
このパ―テ―の最後に挨拶に立った片山義美さんが、
『神戸木ノ実レ―シングは本日の会合でその歴史を閉じたい。今後は神戸木ノ実クラブとして親睦会として継続したい。』と述べて50年の歴史の幕を閉じたのである。

と結んでいるのだが、そんな片山義美さんや、金谷秀夫を偲ばねばならぬことは、ホントに残念なのである。


★片山義美さんは三木のご出身で、これは三木で開催されたイベントに出席された片山さんと、今の三木商工会議所会頭の稲田三郎さん、現市会議員の大西ひできさんとのスリーショットで、シャッターを押したのが私なのである。
 
この時が片山義美さんとの最後になってしまった。
 

    


そんないろいろのレース関連の想い出話がいっぱいだったのだが、
初対面の『忠幸松本』さんだったが、なかなかイイお話が出来た昨日の午後だったのである。

 


★ 次回は来年の2月1日の『片山義美を偲ぶ会』でお会いすることになるのだと思うのだが、昨日お会いできたのは本当によかったと思う。


 
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1966年のカワサキのレースの出来事と 藤井敏雄さんのこと

2019-12-10 07:06:30 | M/Cレース

★1966年(昭和41年)が私のレース担当の最後の年となったのだが、この年はいろんな意味で大変な年だったのである。
 
 この1年のことを日記をめくりながら振り返ってみたい。

そんなきっかけになったのが、Facebook に『忠孝松本』さんがアップされた、
藤井敏雄さんのこんな写真』なのである。

 藤井敏雄さんの経歴など写真と共にこのように松本さんは紹介されている。

 
トーハツのライダー・組立工を経て鈴木誠一さん・久保和夫さんの率いる名門「城北ライダース」に移籍。
1962年スズキに入社し、メカニック・車両開発ライダーとして活躍。
1966年川崎航空機工業へ移籍。エースライダー・メカニックとして第2戦西ドイツGPから125ccクラスで単身世界選手権へ参戦する。
1966年世界選手権第8戦のマン島TTレースに、カワサキ125ccで出場。
問題を抱えながらマン島初出走するも、予選前の義務周回1周目、北部の避難港ラムゼイのコーナーで塀に激突し、将来を有望されたレーサー人生の幕を25歳で閉じる。


    


いろんなレースの想い出のある中で
一番悲しい想い出』が藤井敏雄さんのマン島での突然の事故死なのである。

素晴らしい好青年だった』という印象を持っているのだが、悲しい結末だったので、ブログにアップするのも・・・と思っていたのだが、この写真を見て藤井敏雄さんのことと共に1996年の出来事を振り返ってみたい。

 

★ この年の1月5日、初出の日藤井敏雄はやってきた。
 日記にはこのように書いている。

  
        


前年あたりからカワサキもGPレースに参加しようということになって、
ロードレースライダーの契約なども検討されていたのだが、藤井敏雄との契約交渉は技術部がやっていて私は詳しくは知らなかった。
 具体的な契約内容のみ、他のライダーと共に私が担当していたのである。

そんなことで初出の日に出社すると、藤井敏雄さんが既に来ていて、びっくりした。
『古谷さんに会って具体的な契約をするように』技術部から言われたのでやってきたと仰るのである。
たまたまだが、前年のモータショーの時に久保和夫さんと一緒にカワサキのブースにやってきたので、知ってはいたのだが初対面みたいなものだった。
契約交渉が、なかなかムツカシかったのは、彼は『ライダー契約ではなくてマシンの貸与契約』にして欲しいという希望で、その貸与マシンでヨーロッパを転戦するので、その結果を見て日本GP前に『ライダー契約』をして欲しいという、ライダー契約としては異例の内容となったのである。


★初出の日にこんな藤井敏雄さんとの異例の契約で始まった1年だったのだが、
いろんなことがあったが8月末までは至極順調に推移していたのである。

 ● 日記にも書いているように、藤井と契約する代わりに安良岡を切れと言うのが上の指示だったのだが、金谷秀夫が鈴鹿から帰りの車の中で『何時壊れるかもわからないようなマシンの危険なテストをやらしておいて、それはない』というのである。そんなことで私の独断で安良岡健さんとの契約だけは秘かに繋いでおいたのである。 これは藤井・三橋・金谷で鈴鹿テストをした1週間後のことだが、これはその後安良岡にとってもカワサキにとっても良かったと思っている。

● 2月末には山本隆が結婚し、私はその仲人を引き受けたりしているし、4月にはちょっと問題があった金谷秀夫のことも、片山義美さんに頼まれて、いろいろやったら上手くいったし、

●5月末には、西ドイツGPで初出場したのだが、他メーカーとのマシンと遜色なく走れたという報告を受けたし、

●7月にはモトクロスのニューマシンF21Mが世に出て、連戦連勝を重ねたし250A1のレーサーも開発されることになって、この辺りまでは順風満帆だったのである。

 
★それが8月27日、レース出場のためFISCOにいた私のところに明石から電話が入ったのである。
 『マン島で藤井敏雄が転倒して死亡した』と、それからすぐレースの総責任者であった山田熙明部長(後川重副社長)から『藤井宅に報告に行くように』と指示があり、赤羽の自宅まで報告に伺ったのである。

8月29日には『緊急事故対策会議』が開催され、会社としても初めての経験だったし、『レース』に関しても解る方は限られていて、『マシン貸与契約』ということで、事後対策についても補償についてもいろんな意見が出たのだが、
契約担当者としては、『マシン貸与契約』だと言っても、『そこらの市販車を貸した』のとは訳が違うと頑張って、事後対策も、補償も会社側がやるという結論にはなったのである。

 マン島からの『ご遺体』は、現地でスズキの方々のお世話にもなり、たまたまドイツ留学中の大槻幸雄さんがマン島に行かれていて、大槻さんが送りだし、私が羽田でお迎えしたのが、9月1日で、2日にお通夜、3日にご葬儀と続いたのである。


★そんな中で9月5日にはデグナーとライダー契約する方針が決まり山田熙明部長と私とで担当することになるのだが、外人ライダーとの契約は初めてのことだし、社内には聞ける人もいなくて、MFJの運営委員をしておられたホンダの前川さんに9月10日に、鈴鹿まで出向いていろいろお聞きし、日本語の原案は私が創ってその英訳は山田部長が全ておやりになったのである。

 そのデグナーは9月26日に来日し、9月29日にはFISCOでのマシンテスト走行をしたのだが、チェン切れで転倒し頭を打って入院してしまうのである。マン島で藤井敏雄さんを亡くして1か月後のことで、心配したし大変だったのだが、本番には出場は出来ずに『カワサキのデグナー』は実現しなかったのである。

10月16日にFISCOで開催された日本GPはカワサキは安良岡が7位に入賞し、同時に行われたジュニア250では、ガリー・ニクソンと金谷秀夫が同じベストラップタイムを記録するという大接戦となったのだが、惜しくも2位になってしまった。
 このレースで歳森康師が転倒し『鎖骨骨折』するのだが、私が歳森に掛けた言葉は『よかったな』だったのである。
 これはいま思っても、その時の私の正直な気持ちだったのだと思う。

★このレースの後、大槻幸雄さんは、技術部の市販車の開発担当に戻られたし、安藤佶郎さんはアメリカのリンカーン工場に、私は東北6県の代理店担当で、仙台に異動することになるのである。

 いろんなことがあったが、最後の1年は大変な1年だったと言っていい。

 

 
    
     






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ずっと昔、Team Green にいた和田斎くんが 訪ねて来てくれた

2019-12-05 06:54:33 | M/Cレース

★ まさにこのブログの標題通りの出来事なのである。

 『ずっと昔、カワサキのレースチームにいたメカニックの方』が
わざわざ『私に会いたいと』三木まで訪ねて来てくれたのである。

 『和田斎さん』 ちょっと名前の売れたカワサキのレースメカニックの方で、
勿論名前も知っているのだが、『直接二人で話などしたことのない方』なのである。

実は、KAWASAKI Z1 FAN CLUB 登山道夫さんと、先日垂水にある『和田さんの弟さん』がおられるバイクショップに立ち寄って、その際記念スナップを撮ったりしたのだが、

どうも事の始まりは、弟さんから『登山さんと私の写真』を見せて貰って、突然登山さんにこんな連絡をされたようである。

 登山さんのところに『メール』が入っていて、
そこには『KMJ時代に古谷専務に良くしてもらったのに、何のご挨拶もせずに川重戻り・・・』などとあって、


     


登山さんから私に『和田さんが会いたいと言われてますが・・』ということで、
昨日お会いすることになったのである。


★こんなかっこいいポルシェに乗ってやってきた。

突然なぜ『来られたのか』と聞いてみると、
KMJのTeam Green 入り』を希望された和田さんを『私が面倒見て実現した
と仰るのだが、全く記憶にないのである。

当時和田さんの直接の上司だったTeam Green 重本修次郎さんあたりがそうしたのだと思う。
Team Green のことは120%重本君に任していたので、多分彼の裁量でそうなったのだろう。


    

 
 

 延々3時間半も、途切れることなく、昔話に夢中になった。
 ホントに彼と直接話をしたのは、昨日が初めてなのである
 そんな方が、わざわざ三木まで訪ねて頂けるということは、なかなか世の中にはないことなので、私にとってはこの上ない喜びでもある。


 昨日の話の中で出た方々の名前を順不同に申し上げると、こんな方たちで、
レース界では、みんな結構な有名人で、なかなかレベルの高い『レースの話』になったのである。

野口種晴・片山義美・小島松久・三橋実・藤井敏雄・デグナー・シモンズ・谷口尚巳・安良岡健・ガリーニクソン・金谷秀夫・山本隆・歳森康師・星野一義・加藤文博・従野孝・宗和孝宏・北川圭一・塚本昭一・多田喜代一・飯原武志・梁明さん  

このライダーたちの名前を見て『解る』方は相当の『レース通』だと言っていい。

 
カワサキ関係者も、ここに名前の出た方は、川重の社長や副社長などが並んでいるのだが、みんな若い頃はレース部門の担当経験があって、『レース』に対しての理解が深かったので、和田さんとの会話の中でも、名前がいっぱい出てきたのである。

山田煕明・苧野豊秋・髙橋鐵郎・大槻幸雄・安藤佶郎・松尾勇・田崎雅元・岩崎茂樹・重本修次郎・野村純一・石川薫・大津信・大庭浩さんなど

 

   
 


★ 私自身もカワサキの『レース関係』には若い頃から長く関係したし、当時の日本の二輪のレース界の方々ともいろんな形で繋がっていたのだが、こんな『レースの世界』は、ちょっと以上に独特な世界だし、その中にいないと理解できないことも多いのだが、そんな独特の世界の話について行けるのは『私の特』みたいなものである。

和田斎さん』も、そんな独特の世界に生きられた方だから、3時間半も懐かしい話が途切れることなく続いたのである。
先日、同じくここに来られた『カワサキの安井隆志さん』とも、よく存じ上げてはいたのだが、二人で直接話をしたのは、初めてだった。
会社の中では『職位』などが邪魔をして、なかなか現実に直接話をする機会を持てないのだが、退職後10年以上も経って、わざわざ『話をする』ために三木の田舎まで足を運んで頂けるのは、ホントにありがたいことだと思う。


★ 独特の『レース界』の中にいた人たちでの『レース話』はまた独特で、初めて『二人で話した和田斎さん』とも延々3時間半、昼飯も食わずに続いたのだが、
勿論、カワサキのレース話には欠かせない方『平井稔男さん』の話も出て、 

家に戻って、平井さんの旧いブログを見ていたら、
多田喜代一・塚本昭一・宗和孝宏の日本人トリオが、
1989年のフランス、ル・マン24時間耐久に参戦し、見事3位入賞を果たしたのだが、そのメカニックメンバーの中に中に『和田斎』さんの名前もあった。

Team Kawasaki
 総監督    武本晃 
 監 督     野田忠世
  ライダー   宗和孝宏 多田喜代一 塚本昭一 前田忠士
 メカニック  渡辺芳男 釈迦堂利郎 前田和広 藤本延彦 中村浩三 
       戎 俊 和田斎 渡辺嘉雄 田村嘉隆
                    総勢15名のつわもの達である。


★私の家はすぐ近くなので歩いてきたのだが、
 帰りは、和田斎さんの ポルシェに乗せて貰って、
 家のすぐ近くまで送って貰ったのである。

 

 
和田斎さん、 昨日行った綾部に古民家をお持ちのようなので、
ひょっとしたら来年4月の『綾部プロジェクト』でも、何か繋がるかも知れない。

 兎に角、なかなか楽しい3時間半だったのである。


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カワサキのレースの歴史 の創生期

2019-09-26 07:46:31 | M/Cレース
★『LEAN,MEAN AND RIMEGREEN!』というカワサキのアメリカでのレースの本が出版されたので、今英文の300ページを読んでいるところだが、アメリカのレースが始まる前に、国内のレースがあって、当時は『赤タンクのカワサキ』と言われていたのである。

この機会に『日本も含めたカワサキのレース』の話を私なりに時系列に纏めておきたいと思っている。

     




★カワサキの2輪事業は昭和35年(1960)『単車準備室』と共にスタートし、翌昭和36年度から国内市場に125B7などをカワサキ自動車販売を通じて販売することからスタートするのだが、そのB7の時代に、カワサキ自販の小野田滋郎さんや川崎航空機の井出哲也さんによってMCFAJ全日本への参加をしているのである。
ライダーは三吉一行だったと思われる。
これがカワサキの最初のレースだと言っていい。
 

★昭和37年度(1962)にはB7の不具合で車両の返却が相次ぎ、レースどころではなかったのだが、
この年11月に『鈴鹿サーキットがオープン』し、日本で初めての本格的ロードレースが開催され、カワサキの生産部門の人たちがその観戦をして、カワサキにもレース熱が非公式だが秘かに湧き出すことになるのである。
このレースの250㏄優勝者が三橋実、350cc優勝者が片山義美で、のちカワサキのレースは三橋実主宰の『カワサキコンバット』、片山義美の『神戸木の実クラブ』のライダーたちと共に活動することになったのも何かのご縁かなと思うのである。

 
★その結果昭和38年(1963)5月に生産部門が独自に創り上げたB8モトクロスで出場し、1位から6位までを独占するのだが、これは当日雨が降って他メーカーのマシンはみんな止まってしまったのにカワサキだけは『防水対策』が完全であったので、車が止まらなかったという結果なのである。
 カワサキの長いレースの歴史の中でも1位から6位までを独占したのはこのレースだけで、運がよかったと言わざるを得ないのである。

    


それは兎も角、B7の不振で単車事業をこのまま進めるべきかどうかを検討していた最中の出来事で、非公式なレース参戦ではあったが、現場は大いに意気上がって、市場調査に入っていた日本能率協会は『単車事業やるべし』との判断を下すのである。
 青野ヶ原レースまでは、生産部門の中村・髙橋・川崎・松尾さんなどで進められていたしライダーも社内ライダーだったのだが、この年の末あたりから広告宣伝課でレース予算も取り、川合寿一さんがライダー契約をスタートさせたし、関東ではカワサキ自販の小野田滋郎さんが厚木に三橋実を中心にしたカワサキコンバットを立ち上げることになるのである。



★昭和39年(1964)度がカワサキの公式なレーススタートの年だと言っていい。
この年から昭和41年(1966)までの3年間がカワサキが国内だけでレースを展開していた『赤タンクのカワサキ』の時代で、アメリカはA1が発売された1966年からレースがスタートすることになるのである。

 ただ、この時代は川崎航空機の人たちはエンジンについてはプロがいっぱいいたのだが、単車事業の経験などは一切なくて、民需大量生産品の販売も初めてだったし、ましてやレースなど何の経験もなかったのだが、みんな手探りでスタートしていったのである。

この年の1月に『単車再建宣言』がなされ単車事業本部が独立し、広告宣伝課がレース運営を担当することになるのである。
この年関西では神戸木の実クラブの歳森康師・山本隆と
関東ではカワサキコンバットの三橋実・安良岡健・梅津次郎・岡部能夫
の契約ライダーでスタートした。

 レースに関しては、当時はエンジンのチューンアップは技術部、マシンに仕上げるのは生産部門のレース職場で兵庫メグロからカワサキに移籍した松尾勇さん以下が担当し、レース現場ではライダーたちの先輩格の三橋実が指揮をとっていたような状況だった。
 レース職場の管理を田崎雅元さん、レース運営の管理をが担当していた『寄せ集めチーム』だったのである。

それでも、4月に朝霧高原であったMCFAJ 全日本MXのオープン部門で山本隆が優勝し、10月の丸の山高原の全日本では4種目中3種目を制して、カワサキはモトクロスでの地位を確立することになったのである。


★翌昭和40年(1965)は星野一義がノービスクラスでデビューし優勝を飾り、
5月には山本隆が非公式に鈴鹿ジュニアロードレースに出場しホンダに次いで3位に入賞し、一気にロードレース分野への参入も正式に決まったのである。

6月には鈴鹿アマチュアロードレースに3台を出場させ、カワサキで初めて大槻幸雄監督・田崎雅元助監督のレース布陣がお目見えした。
このレースに初めて金谷秀夫が歳森康師とのコンビで初のレース登場となるのだが、それは4月のレースで山本隆がジュニアの資格を取ったために出場できなかったので歳森康師が神戸木の実の同僚の金谷秀夫を連れてきたのである。

この年あたりからカワサキでもGP125の開発が進められ鈴鹿サーキットなどで安良岡健・金谷秀夫などがテストを重ねていたのだが、2分50秒がなかなか切れないような状況だったのである。
アメリカ市場への進出も始まって、この年の8月には、一緒にレース活動をやっていた田崎雅元さんが明石サイドから初めて、アメリカシカゴに出向くことになるのである。
 
同じころ一般車両の250A1の開発がスタートし、このテストには名神高速道路で歳森・金谷なども手伝ったりしたのだが、アメリカ市場には百合草三佐雄さんが単身乗り込んで、アメリ人ライダーと共にテストしたのもこの年だし、当時アメリカにいた杉沼さんや田崎さんも手伝ったようである。

レースがモトクロス・ロードレースと拡がって、この年の10月に岩城本部長の命で『レース運営委員会』が設立されたのだが、そのメンバーは山田熙明・苧野豊秋・中村治道・髙橋鐵郎・大槻幸雄・安藤佶郎というその後の単車事業を背負ったメンバーだったのである。
その事務局を私が担当することになったのである。


★このようにカワサキにも本格的な250A1というスポーツモデルが市販され、
昭和41年(1966)から、GPレースもロードレースも、モトクロスも『本格的なレース仕様車での取り組み』がスタートするのである。

1月には藤井敏雄との契約締結でスタートした。 スズキからの移籍なのだが、その交渉は技術部で行われ、私はその契約だけを担当したのである。
本格的なGPレース参加を目指しての契約なのだが、1月の時点ではマシンの貸与契約で9月までその貸与マシンでヨーロッパGPを転戦し、10月の日本GP前に『規のライダー契約を』というのがご本人の強い意志だったのである。


     

この年モトクロッサーでは、本格的なクロモリのパイプフレームによるF21Mが完成した。 カワサキの単車のレースの世界に当初から参画してくれた松尾勇さんの傑作と言っていい。
 
このF21M以降、カワサキのモトクロスは、山本・歳森・梅津・岡部・星野とライダーも揃って連戦連勝の最盛期を迎えるのである。

         


カワサキが初めてロードレースの世界で優勝を飾ったのが9月のFISCOのロードレースで、A1Rの金谷・三橋が他を寄せ付けなかったのである。

 こんな『いいニュース』もあった傍ら、この年は大変な年でもあった。
8月末にマン島のプラクテスで藤井敏雄が転倒事故死することが起こったし、
その1か月後の9月末には、10月の日本GPのライダーとして契約していたデグナーが練習中に転倒し頭を打って入院してしまったのである。


   


本番の日本GPは、急遽シモンズ・谷口と契約して繋いだのだが、これがカワサキとしては初めてのGP参加ではあったが安良岡健が7位に入ったのが最高だったのである。

ただ、同時に行われたジュニアロードレースでは、カワサキの250A1と対抗するためにヤマハが急遽アメリカからAMA の1967年、1968年チャンピオンゲーリー・ニクソンを、ジュニアのレースに登場させたのだが、
このレースで金谷とニクソンは『同じベストラップを記録』するなどの大接戦だったのである。

         
 
G・ニクソンはその後アメリカのカワサキでも大活躍することになるのだが、この年のFISCOのレースでは、全てのライダーが真っ黒のつなぎの中で、G・ニクソンだけが『真っ赤なつなぎ』で観衆をビックリさせたのである。



★この年までの何年間かが『カワサキのレースの創生期』だと言っていい。

この時期、カワサキのレースを支えたメンバーは『レース運営委員会』のメンバーだったのである。
 ずっと後、カワサキのレース25周年のOB会を私が主宰して行っているのだが、そこにはこんなメンバーと当時の現役たちが集まっている。

   

 前列左から 糠谷・松尾・山田・西海・髙橋・苧野・中村・大槻
 2列目   岡部・金谷・平井・田崎・古谷・安良岡・和田・山本・清原・大西
 3列目右  歳森・岩崎
 4列目右  梅津・星野
 が所謂OBで、その他の方は当時のレース現役なのである。
 現役諸君には宗和・多田・杉本など顔も見えるが、OBでは星野・清原が一番若手だったのである。


★この年で当時の創生期のメンバーはレース担当を終わり
私は東北仙台に、
モトクロス監督の安藤さんは、田崎さんと入れ替わってアメリカに、
ロードの監督の大槻さんは技術部の量産開発部門に異動になって、
糠谷監督・岩崎茂樹マネージャーの体制に移ることになるのだが、この時代も未だカワサキは『赤タンクのカワサキ』だったのだと思う。

一方海の向こうのアメリカでもようやく、A1Rから、本格的なレース活動が展開されるようになって、『LIME GREENの時代』がスタートすることになるのである。

マシン開発も技術部の手に戻って、本格的なレース活動がスタートするのは、糠谷さんの後を継いだ百合草三佐雄監督からで、モトクロッサーの名称も『KX』に統一される時代になり、
技術部の量産品開発担当に戻られた、大槻幸雄さんが市販品ではマッハⅢ・900Z1と2サイクルから4サイクルへ転換し、GPレースでは栄光のKR時代を迎えることになるのである。

私自身のことを言うなら、
1967年から1988年までの20年間は、販売網政策・東南アジア市場開拓・国内販社担当・事業本部再建計画と全くレースとは無関係で、この間のレースのことは殆ど解っていないのだが、1989年に再び国内市場担当になる直前から、岩崎茂樹と二人で直入サーキットを創り、その後の国内市場担当でも、本格的なレース展開中心のマーケッテングを展開しているのである。

そのスタートの旗揚げが、1988・10・15の『カワサキファクトリー25周年OB会』で、
この会合で当時の先輩諸氏に、『国内販社でのレース活動復活宣言』をした積りなのである。


★この会合からさらに20年の歳月が流れて、お亡くなりになった方も多いのだが、
いまでもZ1会などで顔を合わせるほか、大槻幸雄さん・田崎雅元さん・百合草三佐雄さん・山本隆さん・平井稔男さんなどと親しくお付き合いさせて頂いている。

 昨日も田崎さんから当時のこと、こんなメールを頂いた。

 『1965年、田崎さんは8月20日に日本を発って、シカゴに行き9月に本社企画の渡邊さんと二人出張所を設け、全米をカバーするサービス体制を強化するには、まず部品センターが必要と、翌年の1966年3月に、現地法人の部品センターを設立した。その株券発行は1966年3月9日、American Kawasaki Corporation(AKM)で、資本金5万ドルの株券には発起人として私がサインした。』 とある。

 この会社が後のKMCとなっていくスタートなのである。

 
 

A1のテストは、百合草さんの手伝いはしたが、主務ではなかったようでこんな写真もある。

 

 
同じころのW1の走行テストは、当時の現地の日本人のメンバーでは、バイクに乗れたのは田崎さんだけだったようで、ハイウエイも走られたとか。

 

   
 
 田崎さんは1967年2月には帰国されているので、
 Randy Hall は、ご存じないそうである。

 

 







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LEAN, MEAN AND LIME GREEN!   創成期のレースの話  1

2019-09-21 07:16:57 | M/Cレース
★カワサキの創生期には私もレースには色濃く関わってはいたのだが、
それは一言で言ってまさに『創成期のレース活動』だったのである。

世界的なレベルでの活動展開となったのは、
モトクロッサーで言えば『KX』というネーミングが出来た時期、
それまでの赤タンクのカワサキがライムグリーンに変わってからではなかろうか?

この時からレースは本格的に技術部の管轄となり、そのリーダーを務めたのが『百合草三佐雄』さんなのである。
 
百合草さん』は昭和35年(1960)年、カワサキが本格的に単車事業に取り組んだ年の入社なのである。

私自身も、その年から新しくできた『単車営業部』に異動したので、カワサキの単車事業のスタート時点から、その営業部門の担当はしたのだが、これら営業部門はメグロ・メイハツの方たちが、その主力だったのである。

二輪開発に関しては技術部が車体関係も含めて、初めて『二輪車という完成商品』の開発挑戦をスタートさせたのである。
会社としても初めての経験だったので、大量に入社した『昭和35年組(1960)』は、入社当時から主力だったし、その後も単車事業の中枢として活躍するのである。


★私自身は創成期のレース活動のマネージメントを担当したので、当時の技術部門の先輩たち山田熙明・中村治道・髙橋鐵郎・大槻幸雄・安藤佶郎さんたちとも密接に繋がったし、田崎雅元さんとも一緒にレース活動をしたのだが、
大槻ー安藤ー糠谷と続いたレース監督の後を引き継いでくれたのが『百合草三佐雄』さんなのである。

レース関係では、ちょうど私とは入れ違いで、ご一緒した時期はないのだが、その後いろんなことで繋がって、私が一番密接に具体的に『技術屋さんと一緒に仕事をした』仲間は『百合草三佐雄』さんかも知れないのである。
 
それは『レースの世界』ではなくて、カワサキの単車事業存亡の時期にその焦点であったアメリカ市場のKMCの社長として、明石の企画部門を担当していた私と一緒に『事業再建』に取り組んでくれて、技術屋さんながら見事に成功に導いてくれたのである。
 
そんなこともあって個人的にも親しくして頂いているのだが、
その百合草三佐雄さんから
KMCで永年レース関係を担当していた Randy Hallが今回Kawasakiのレースの歴史を本に纏めたのでお送りする
というメールを突然頂いたのである。


★送られてきたその本はこんな表紙で

LEAN,MEAN AND LIMEGREEN!』 というのが本の題名である。

  
  

 こんな裏表紙の344ページもある分厚い力作なのである。

 


 
勿論、すべてが英語なのだが、素晴らしい写真がいっぱいだし、内容はレースに関することだし、結構読むと『理解できる』のである。

この裏表紙に書かれているようにRandyは1971年からKMCに参加されて、1968~78年あたりの2ストローク全盛時代が中心に書かれているのだが、


   

こんな懐かしい『赤タンクのカワサキ』時代の話も出てきて、
藤井敏雄金谷秀夫などの私にとって懐かしい名前も出てくるのである。
 

   


 見開きのページには、こんな直筆のサインもあって

 To Huruya from Randy と書かれている。


 

   
ひょっとしたら、私もRandyさんにお会いしたことがあるのかも知れないが、覚えてはいないのである。


★昨日送られてきたばかりの本なのだが、一応は300ページ以上もある英文の文章を斜めに目を通してみたのである。

 一言で言って、これは労作である。

その中味については、じっくり読ましていただいてから、何回かに分けてご紹介したいと思うのだが、
今回は Randy Hall さんの直接の上司でもあった『百合草三佐雄』さんについて、ご紹介をしておきたい。

前述したが、百合草さんとは1980年代後半に彼がKMC社長になってから、密接に繋がって、同じ目標に向かって仕事をさせて頂いた仲間『百合ちゃん』なのである。
昭和35年川崎航空機工業入社だから私より3年後輩なのである。

Googleで『百合草三佐雄』と検索したら、このように結構並ぶ有名人である。


 

松本博之さんと一緒のこんな雑誌の対談記事が現われた。

松本博之さんは、カワサキの2サイクルエンジンは、すべて手掛けたと言ってもいい人なのである。 B8・B1・J1などのの時代を経て、A1サムライ・マッハⅢなどこの本でも紹介されているレースのきっかけとなった車も松本さんの開発だった。

 その後4サイクルの時代に入ったが、1977年東南アジアのCKDマシンとして開発された120GTOも松本さんの作である。


 
この車は私の唯一の開発に関係した車なのだが、CKD専用車であるために一般には余りよく知られていないが、歴史に残る大ヒット商品であった。
78年2月3日の日記にこのように書いている。

夕方から技術部の会議に呼ばれる。大槻部長以下課長以上全員が揃っていた。
方針が明確でない限り、技術部としては開発はやらないと大槻さんにまくしたてられたが、大槻さんとはレース時代からのお付き合いで気心もよく解っていたので、営業代表としてねばって言い分を通してもらった。」
と書いてある。

何とか開発をやってみようと「助け舟」を出してくれたのが、松本博之さんだった






私も初めて見る記事だが、百合ちゃんの誕生日が私と同じ3月2日とあってびっくりした。

 入社当時のことをこのように語っている。
 

 
川崎航空機に飛行機のエンジンがやりたくて入ってきたのに『バイクのエンジンなどやらされて・・・』というエンジニアは、意外に多かったのである。

私の頭の中にある『百合ちゃんの若い頃』は、あのA1の開発テストのために、単身アメリカに渡って、そのテストに携わっていたことである。
 
 その頃のことをこのように語っている。

 
  

 未だカワサキがシカゴに田崎雅元さんが事務所を創ってた頃のことである。
 
 そんなアメリカ市場には若い頃からご縁のあった百合草さんだが、その後1976年にはKMCに中に創られたR&Dの責任者としてKMCに出向し、ここでレースにも関係したし、Randyとも直接の関係になったのだと思う。
 
81年に一度帰国するのだが、1986年にアメリカ市場のKMCが大変なことになった時期に、その再建に田崎さんの後を引き継いでの社長となるのだが、その頃私は事業本部の企画室長をしていて、KMCの社長に『百合草三佐雄』を推したのは私なのである。

 当時のKMCの問題点は、『資金営業外損益』など財務上の問題が主体であったのだが、そんな個別の問題は解らなくても、構造改革の先頭に立って旗が振れる『強力なリーダーシップ』のある人材がMUSTで、それが技術屋さんであってもいいと思ったのである。

   


話はちょっと変わるが、アメリカに出向する日本人は、みんなニックネームをつけられるのだが、
 百合草さんのニックネームは『Misao Lyndon Yurikusa』 なのである。
 この『Lyndon』はどうやら アメリカの36代大統領『Lyndon Bainesから来ているようである。
 Randyさんがこのように語っているのである。
 

 英語がちゃんと読める方ならいいのだが、私でも何となくアメリカ大統領にちなんだニックネームは、それなりの評価かなと思うのである。

そんな百合草さんが、わざわざ私に送って頂いた本なので、
じっくり読んでまたその感想など、述べてみたい。


★実はこの本、Randyの自費出版のようだが、
LEAN, MEAN AND LIME GREEN! をGoogleで検索するとこんなページが現われる。



 アメリカでは、相当話題になっていることは確かである。
 
 
 ご関心のある方は、調べてみてください。

 まずは「第1報』です。

 
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 Kawasaki の耐久レース   雑感

2019-08-05 06:36:35 | M/Cレース

★ 二輪車新聞は今回は鈴鹿8時間耐久特集号だった。
 一面のトップをKawasaki が飾っている。

  


 1993年の優勝から実に26年ぶりの鈴鹿8耐・優勝で何かやっとカワサキも耐久レースで『一人前』になったというような感じもあるのだが、

 今年も世界耐久レースでは『カワサキフランス』が2018-2019の年間王者に輝いていて、ずっと以前から耐久レースの世界では、カワサキは確固たる地位を築いていたのだが、何故か鈴鹿だけが勝てなかったのである。



 1990年代から、『ル・マン24時間耐久常勝チーム』であった『カワサキ・フランス』だったのだが、何故か『高速耐久の鈴鹿』だけは制覇できなかったのである。
 
 カワサキ・フランス・チームを立ち上げた当時カワサキフランス社長だった遠藤治さんは、今回のカワサキの8耐優勝の私のFBの記事にこんなコメントを寄せて下さっているのである。

kawasaki Franceが、耐久世界チャンプになっても、スズカで勝てないばかりに、日本では、オールカワサキとして、盛り上がらなかつたこと、欲求不満の世界チャンプだつたこと、些か苦い思い出でした

 確かに、ホントに無敵を誇ったカワサキ・フランスをしても、鈴鹿を制することは出来なかったし、周囲が期待するので、当事者としては余計に『苦い想い出』になるのかも知れない。

 同じ耐久レースでも、8時間と24時間では全然その性格は異なるのだろう。


★振り返ってみると、カワサキは元来『耐久レース』にはいろいろご縁があり、
 カワサキが正規にロードレースに進出し、カワサキとして大槻幸雄さんが監督、田崎雅元助監督という初めての監督を指定してレースに臨んだのは、1965年6月の鈴鹿アマチュア6時間耐久レースだし、このレースで初めて金谷秀夫が歳森康師とのコンビでレースデビューしているのである。

 1990年代の鈴鹿も、4時間・6時間耐久はカワサキが常勝と言ってもいいほど優勝しているのだが、8耐は93年にラッセル/スライト組での優勝はあったが、それ以降は26年間も優勝できなかったのである。

 そういう意味で、今年の優勝はホントによかったと思っている。

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