雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキの二輪事業と私  そのー13 事業スタートの頃の昔話

2016-08-31 08:04:43 | 自分史

★ カワサキの二輪事業のスターの頃のこんな年表を見つけたのでその頃の昔話を・・・

 

 

私が 川崎航空機工業に入社したのは昭和32年(1957)で財産課に配属になったのである。

戦後、川崎航空機が軍事産業だということで休止していたころ、播州歯車工場ホンダさんのミッションの歯車などは生産していたし、高橋鐵郎さんがおられた高槻工場では二輪のエンジンの研究もされていたようである。昭和27年(1952)に川崎航空機が再開されてから、発動機の小型エンジンやジェットエンジンのオーバーホールなどと同時に、明発工業に二輪車のエンジン供給はしていたのである。

私が入社した昭和32年ごろは、会社の経営もなかなか苦しかったのだが、戦前の川崎航空機時代の機械などはそれこそ大量に残っていて、営業収入の不足した月は、財産課がそんな機械を売って繋いでいた売り食いの時代だったのである。

ただ、東洋で唯一の米軍のジェットエンジンオーバーホール工場があり、米軍が常駐しており、そんな時代にカフテリアがあってコーヒが飲めたし、IBM室があってその部屋は今で言うエアコンがあったりしたのである。そんなことで財産課での私の初仕事は、財産物件の償却計算のIBMでの機械化をやったりした。 日本にIBMの会社も未だなかった頃のことで、世の中よりは10年は進んでいたのである。

 

二輪車の一貫生産化方針を決定し単車準備室が出来たのが1959年の末で、その準備室の準備は資材購入や生産準備関係が主で、実際に営業部門に単車営業課が出来たのは、昭和36年(1961)12月のことで、私はその発足とともに異動になったのである。これは財産課での償却計算を機械化したら、手動計算機で年中償却計算していた10人ほどの課員が要らなくなったからかも知れないのである。

単車営業課には係が二つあって、一つはメイハツ関係、もう一つは井関農機のタフ50など空水冷のモペットの井関関連のだったのである。

私は、その中の『メイハツ関係』の係の配属になったのだが、係の中には『品質保証部門』の機能を担当するサービス3人も入れて、係長以下7人だけのこじんまりした形でスタートしたのである。この7人のうちずっと二輪に関係したのは、私とサービスにいた福田泰秀くんの二人だけで、彼は品証に移り、さらにカワ販にもいたので、ご存じの方も多いと思う。

 

当時の国内販売は、メイハツ工業から社名変更し、東京の神田岩本町に本社のあった『カワサキ自動車販売(株)』が全国を担当していて明石の営業部門はそこに繋ぐ管理部門のような役割だったのである。

現在の事業部の機能で言えば、企画・営業・品証などの機能を『7人で担当』していたのである。

 

兎に角、川崎航空機は、メーカーで生産工場が主たる機能だったのに、自分の造ったものを自分で販売してそのアフターサービスも担当するなど、今まで誰もやったことのない『経験のない』仕事だったのである。

私は入社4年目の未だ若手だったが、上司の課長も次長も、こんな事業は初めて経験する初心者ばかりで、何も教えてはくれないので、勝手にいろいろとやらなければいけない環境だったのである。

 

  

 

 

★ この新しい課に異動した第1日に小野助治次長に呼ばれて、最初に指示されたのは『物品税をよく調べてくれ』だったのである。

いきなり『物品税』と言われて何事かと思ったのだが、当時はこの年表にもあるように125ccB7の生産を1月から、6月からは50ccモペットM5の生産をスタートしていたのである。

そして、当時は125㏄以上のオートバイには、贅沢品に掛けられる物品税が掛けられていたのである。

物品税は工場出荷時に掛けられるのだが、納入する場合は至極簡単で、出荷台数に対して台数分を掛けるとそれでいいのだが、工場にそのバイクが返却された場合は、『物品税の戻入』が認められるのだが、これは出荷時と違って1台、1台、税務署員の立ち合い検査があるし、その手続きも大変なのである。基本的に工場を出荷したままの状況でないと、走行距離が出てたりしたら『戻入』は認められないのである。

 

ところが、この125㏄B7フレームに欠陥があって、毎日、毎日全国各地から、欠陥車が戻ってくるのである。営業はモノを出荷するところだと思っていたら、毎日、明石税務署とのお付き合いで、返却されるバイクの立ち合い検査や、その戻入手続きで大変だったのである。

明石工場は結構広いのだが、返却されたB7の置き場に困るぐらい大量に戻ってきて、私が営業2ヶ月目の昭和37年1月度の明石工場の生産台数は16台のマイナスになったのである。 出荷した台数よりも戻ってきた台数のほうが多かったと言うのだから、その数は大変な数だったのである。

物品税の戻入は出荷した状況のままが条件だから、ちょっとした走行距離でもダメなのだが、中にはメーターが回っているのもあって、生産技術のメンバーが『メーターの巻き戻し』など、その辺の中古車屋さんのようなこともやったりしていたのである。

 

 

   

 

 いずれにしても、B7には『いい想い出』は一つもない。

兎に角、フレームが割れるとか、折れるとかそんな話ばかりなのである。

大体、川崎航空機の明石工場は、元々飛行機のエンジン工場で、岐阜が機体の工場なのである。それが戦後飛行機が作れなくなって、明石は小型エンジンや、歯車ミッションを、岐阜はバスボディなどを造っていたので、明石工場の技術屋さんは、エンジンはともかく、フレームは経験がなかったのだと思う。

このままでは、この事業も終わりなのだが、2年目からの2代目の125ccB8は、特に登坂力など抜群で好評で、ご存じモトクロスでの活躍もあって、何とかカワサキの二輪事業の希望が見えてきたのである。

 

 

  

   

 

 

★ 当時は日本には、オートバイメーカーは幾つあったか解らないほどあって、100社以上あったことは間違いないのである。

三菱重工業も、富士重も、新明和も、東発もブリジストンなどの大企業も二輪事業をやっていたし、メグロや、ライラックなど所謂二輪専門メーカーもいたのだが、名前も解らぬような中小企業もいっぱいで、浜松のホンダ・スズキ・ヤマハも当時はまだ所謂『ベンチャー企業』で、その将来が万全であったとは言えなかった群雄割拠の時代だったのである。

そんな中で、一番先に抜け出したのが、カブを発売した本田技研なのである。今の鈴鹿サーキットをホンダが完成させたのは昭和37年で、その年の11月に開催された日本初の本格的ロードレースをバスを仕立てて見学して、それが翌年6月の青野ヶ原モトクロスへの出場に繋がり、本格的なカワサキの二輪事業への進出の決心をするきっかけともなるのである

 

そして、日本の二輪事業は浜松のホンダ・スズキ・ヤマハが、海外進出や、GPレースへの参加など世界を視野に事業展開を行う方向としたこともあって、中小メーカーは脱落したし、三菱以下の大企業も二輪業界から撤退してしまうのである。

 端的に云えば、ホンダ・スズキ・ヤマハとの市場競争に、各社は付いていけなかったのである。中でも、本田宗一郎さんが引っ張ったホンダの身軽さやスピードに、既存の重工業の重い体質では無理だったのか?それとも二輪事業に魅力がなかったのか?

そんな中で、ひとりカワサキだけが、浜松3社と一緒に生き残ったのは、いろんな理由があるのだろうが、

● カワサキの初期の営業と言うかマーケッテングは、国内ではメイハツや、メグロの人が担当して、川崎航空機のメーカー体質の人がやらなかったので、何とかホンダ・スズキ・ヤマハに付いていけたのだと私は思っている。そんな中に私や、より若い人たちも参入をしたのだが、当時のマーケッテングのメインは、『カワサキ自動車販売』のメンバーだったのである。

●このカワサキ自販の主力は、旧メイハツやメグロの人たちだったのだが、社長は川崎航空機の土崎専務取締役が兼務されていて、メーカーの『明石工場』に対しても、圧倒的にその発言権は強かったのである。所謂、『末端の声』に対して『メーカーは部下』と言う関係だったので、これは今の事業本部体制と全く逆で、末端の声が『神の声』だったのである。

さらにその時代は地域の代理店の発言権が、カワサキ自販よりもさらに強く、『販売会社はメーカーの部下』と言う関係しか知らない現役諸君には、当時の状況は想像もできないと思うのだが、ある意味、なかなかよかったと思っているのである。

● その時代からは何年か後だが、昭和44年の川重・川車・川航の3社合併時に、小型50ccのモペットの生産を打ち切り、中大型車スポーツ車に絞り、海外市場主力の展開としたこと。その中心となったアメリカは、二輪に詳しいアメリカ人を中心にした徹底した『現地主義』を貫いたこと。

● 中大型スポーツ車のエンジンに関しては、技術部門に所謂『エンジンのプロ』がいたこと、製造部門については、当時の東洋で唯一のジェットエンジン部門からの技術屋さんが多数異動して来て、非常に進んでいたアメリカ流の生産管理ノウハウが、二輪生産部門に適用されたこと。

●兎に角、事業展開の『中枢』を若い人が担って展開したこと

などなどだろう。

 

一言で云うなら、当時の川崎航空機は、エンジンメーカーではあったが、『二輪事業の経験』など皆無だったのである。

私なども入社数年目の所謂若手だったし、海外販社に出向いた人たちもその殆どが、私よりもさらに若い人たちで、指示を受ける上司などいない環境だったのがよかったのだと思っている。

当時の川崎航空機の技術屋さんも、エンジンに関しては、間違いなくプロなのだが、『オートバイは解っていなかった』と言ったほうがいいと私は思っている。

私は1966年までの創成期のレースのファクトリーチームのマネージメントを担当したのだが、当時のモトクロス車の制作は、エンジン開発は技術部だが、マシンに仕立てるのは製造部のモトクロス職場の、兵庫メグロからやってきた松尾勇さんが全部創り上げたのである。モトクロス車が技術部ですべて担当されたのは、それからさらに数年後、モトクロス車にKXのネーミングが付けられてからである。

 

誤解を恐れずに極言すると、当時の技術屋さんは、川崎航空機に飛行機のエンジンがやりたくて入ってきた人が多くて、二輪車のエンジンなどやるのは、もう一つオモシロくないと思っていた節がある

Zの開発責任者をされた大槻幸雄さんも、ずっとレースなど担当されていて、最初に市販車の開発を担当をされたのは、あのH2で、途方もない2サイクル3気筒エンジンだったし、そのあとは世界の名車Z900,さらにそのあとは1300、6気筒エンジンなど、常に世界で一番を目指すなど、『二輪のエンジンをやるのなら・・・』と言った感じだったように思う。

250A1以降のスポーツ車のエンジンは、確かにカワサキ独特のものがあって、そのスタイルの新鮮さは、川崎航空機のデザインルームの努力もあるのだろうが、発想の原点は、オートバイに関しては詳しいアメリカ人の発想がその原点なのだろうと思っている。世界の名車と言われたZのエンジン開発担当は稲村暁一さんだが、フレーム担当はメグロから来られた富樫俊雄さんである。

 初期の段階のカワサキは、二輪事業の経験がなかっただけに、販売でも車種開発でも、川崎航空機以外の人の知恵を上手に取り込んで、当時の『カワサキ』が出来上がったのだと思っている。

 

 

★ その後カワサキの技術陣も、二輪のプロたちが育って、今はそんな末端の力を得なくても独自に開発も生産も、川崎重工業の二輪事業部の中だけで出来る環境と実力を備えているのだと思うのだが、

カワサキのブランドイメージ』を創り上げたそのベースは末端のアイデアや力に負うところ大だったと思っている。

末端の市場に近いところにいる人たちの発想は、世の中の進歩の中で発想されるので貴重なのである。

そんな末端の人たちの発想が事業の先頭を走った『現地主義』華やかだったカワサキの創世期の時代だったのである。

カワサキだけでなく二輪業界本田宗一郎さんが引っ張って、みんながそれに追随した二輪業界の元気な時代が懐かしいなと思う今日この頃なのである。

 

     

 

  マシンだけは、確かにこんなに素晴らしいものが完成するのだが、

 『そのトータルの物語』が真面目すぎてもう一つオモシロくないな と思ってしまうのである。

 

 

 

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秋の気配

2016-08-30 06:27:12 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

 

★ 昨日は、ほぼ終日雨だった。

連日の夏の太陽が姿を消して、久しぶりにエアコンのお世話にならずに過ごした。

 

もう秋の気配である。 朝早く太陽の登る前に毎朝、走りに行っているが、お盆過ぎから蝉に変わっって、虫の声になった。

『朝夕は涼しくなりました』と言える今日この頃である。

 

   

 

 立秋とは、このように書かれているが、今年は8月7日だったらしい。

何となく、こんな写真から秋を感じるのだろう。

 

     

 

 この写真も、『立秋』と検索すると現れた。

 

 

  1ヶ月が早いなと思う。

 

 昨日、こんな KAZEの機関誌が届いたが、鈴鹿8時間耐久は、ちょうど1ヶ月前だった。

 

    

 

   1ヶ月前と比べると、特に雨だったので、秋を感じた1日だった。

 

 

★私自身は、『ばらの秋剪定』で毎年、秋の訪れを意識する。

 枝を切るころから、秋は始まる。

 

       

 

 

    昨日は朝から、ばらの枝を切り落とした。

   葉も落として枝だけになっているが、ここから新しい枝が出て、つぼみが付くころには本格的な秋がやってくる。

 

      

 

  

  地面が雨で、濡れているのがいい。

 

   

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産経新聞 と 小池百合子

2016-08-29 06:38:43 | 政治

★ 東京都知事選では、投票権などないのだが、小池百合子さんをネットのレベルで応援した。

 

● 東京都議会がどうも利権がらみで胡散臭いと思ったこと

● 自民党の東京都連の発想が、前時代的でお話にならなかったこと

● 小池百合子さんは、オートバイ議連で、二輪車に理解があると思ったこと

● 小池百合子さんの『崖から飛び降りる』覚悟も、ネットベースのトータル戦略もよかったこと

などなどがその理由だが、

この選挙戦の最初の段階から、マスコミの中では、産経新聞が非常に熱心で、最初の段階から『小池百合子応援スタンス』だったような気がする。

 

http://www.sankei.com/premium/news/160828/prm1608280018-n1.html

 

そのスタンスは、選挙のすんだ今も続いていて、

小池百合子都知事vs“都議会のドン”内田茂都議…文春が続報でゼネコンとドンの関係を 

などの記事を読むと、築地の移転は、オリンピックのための道路工事のためなどと指摘されている。

 

 

 

都議会のドンこと内田茂都議と小池百合子新都知事の闘いだ。

『文春』はその点、さすがで、先週に続いてトップの右柱は『築地→豊洲移転』これが急所だ! 都議会ドン内田茂と4000億円『五輪道路』。

なぜそんなに築地市場豊洲移転を急ぐのか。

「築地市場の敷地内が、環状二号線の道路予定地になっているからです。二号線は晴海の選手村と新国立競技場を結ぶ東京五輪のメインストリート。言うなれば“オリンピック道路”なのです」虎ノ門-豊洲間(約五キロ)の総事業費は四千億円(中略)単純計算で一キロ八百億円かかる超高額の公共工事です」(都庁幹部)

 

公共投資が、全部ダメだとは言わぬが、ちょっと日本の税金の使い方は、土建屋さんに偏り過ぎている

それが日本経済の底を支えていることも認めるが、そこに『利権族』が存在する構造がダメだと思う。

日本の場合は、この構造が中央官庁から末端まで、組織化されていて半ば出来上がってしまっているように思う。

国も、県も、市も、みんな国民が払った税金の取り合いをしているような感じで、地方の市でさえ国の補助金は、『タダで使える金だから使わな損』と思っているようだし、そんな市が出す『補助金』の使われ方を見ていても、一部の人たちの『小さな利権』が現実にまかり通っているのである。

 

★小池さんは『もったいない』をキーワードにして、東京のこんな疑惑にチャレンジするという。

勿論、その抵抗勢力もいるだろうし、そんな構造を打破することは、なかなかムツカシイのだろうが、小池百合子さんが、自民党にも、民進党にも、圧倒的に勝利したのは、『末端の都民の力』であったことは間違いない。

そんな都民の末端の力を産経新聞や、文春が応援しているのは、これは新しい政治の流れ のように思う。

 

そのベースに、SNS 民衆のネットの力もある。私のこんな意見も、ブログだけでも何千人の目に触れるし、ツイッターで流せば55万人に向けて情報発信されるのである。そんなベースになる『正しい情報』を産経新聞は頑張って流し続けて欲しいなと思っている。

 

★小池さんの情報発信も、

Facebook では

 https://www.facebook.com/koike.governor.tokyo/?fref=nf  活動レポート

  https://www.facebook.com/yuriko.koike.96    こちらはFacebook ページ

Twitter も発信が続いていて、その『リツイート』も多い      https://twitter.com/ecoyuri

https://www.yuriko.or.jp/    こちらは普通のオフシャルサイト である。

 

今までの政治家にない新しい仕組みである

さらに都庁内にはいろんな『情報開示』の組織システムが創られるようでそんな政治の流れが、東京・名古屋・大阪と繋がればオモシロいなと思っている。

もうそろそろ、日本の政治の方向も、ホントの末端を視野に置くスタンスに変わってもいい時期だと思うのである。

今後も、産経新聞の動きに期待したいと思っている

   

 

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神戸甲南サカヱ屋  海崎孝一さん

2016-08-28 07:00:14 | 発想$感想

 ★昨日は神戸ベンチャー研究会だった。

メインスピーカーは、神戸甲南サカヱ屋 のオーナー 海崎孝一さん。

 

   

 

 

 

 話の中身は、なかなかオモシロくて、そのあとにパネルデイスカッションもあって、私も殿界寿子さんも、パネラーとして参加させて頂いたのだが、

ざっと、こんな感じの神戸ベンチャー研究会だったのである。

 

 

 

 You Tube の中からの写真だが、話してる殿界寿子さんである。

 

  

 

  海崎さんの話が、勿論メインだったのだが、昨日のテーマが『地域活性化』だったので、三木の緑が丘の取り組みなども、話に登ったのである。

 

熱弁中の 海崎孝一さん、

 『たった1日のイベントなどでは、まちの活性化などには繋がらない。日頃の人の繋がりこそがキー

 同感である。

 

   

 

 

神戸ベンチャー研究会は、いつもの通りの楽しい、懇親会で幕を閉じた。

なかなか『いい時』が過ごせた5時間だった。

 

 

 

 ★神戸甲南サカヱ屋の 海崎孝一さん

 肉やさんだが、ただの肉屋さんではなくて、こんな肉屋さんである。    http://www.kobe-sakaeya.jp/

オモシロいいろんな仕組みで、店の活性化と、まちの活性化を試みていて、その成果は、お国や兵庫県も認めている レベルなのである。

 

 

若い頃は、バイクにも乗っておられたようで、カワサキのバイクファンだったとか、なかなかのユニークさは、こんな軽4にも表れている。

 

    

 

 広報の基本『差別化』をよく理解されていて既に実践されている。

 

 

 

情報発信も ちゃんと出来てるなと思うのは、『神戸甲南サカヱ屋』と画像検索するとこんな写真が並ぶのである。

 https://www.google.co.jp/search?q=%E7%A5%9E%E6%88%B8%E7%94%B2%E5%8D%97%E3%82%B5%E3%82%AB%E3%82%A8%E5%B1%8B&biw=1264&bih=764&source=lnms&tbm=isch&sa=X&sqi=2&ved=0ahUKEwjE-buPu-HOAhXFi5QKHR69DEYQ_AUIBygC

 

早速、Facebook で繋がった。   https://www.facebook.com/kouichi.kaizaki?fref=ts

 ご縁があれば、お手伝いが出来るかも知れない。

 

 

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地域活性化 と 三木の行政の対応

2016-08-27 06:33:31 |  燦々 Sun Sun

★今日は午後から、『神戸ベンチャー研究会http://kobeventure.jp/  である。

今日のテーマは『地域活性化』で、海﨑孝一さんのお話があって、その次の『パネルデイスカッション』では、

私も殿界寿子さんもパネラーを頼まれているのである

 

   

 

 

.「地域活性化の原点は、飲み食いだ!」                                   甲南サカヱ屋精肉店 店主 海崎 孝一 氏

. 商店街・地域活性化等についてのパネルディスカッション
       

 

昨年、『燦々SunSun』というNPO The Good Times の『地域活性化』をテーマにしたプロジェクトで、三木の緑が丘でも『緑が丘さんさんマルシェ』が開催されて、われわれの仲間が色濃く参画したのである。

結構な情報発信量だから、『緑が丘さんさんマルシェ』と 画像検索するとこんな画面が現れて、その殆どが燦々SunSun の仲間たちなのである。

 

 

  

 

 

★今年も 来月9月18日に同じ場所で開催されるのだが、

今年は『燦々SunSun』としては一切関係がないというか、お手伝いを遠慮しているのである。

 その理由は、端的に云って

● 行政の『三木市』が企画するこの種のイベントの『基本コンセプト』が明確でないこと

● 補助金などのお金が結構大きな100万円と言うレベルなのだが、そのお金の処理がもう一つ不明確で、よく解らない

● 最終的に誰が責任を持っているのかが、曖昧である

 

この辺りは、東京都政で言われている日本の政治の構造的な問題と、本質的に同じだと思っている。

行政の目的は、『地域活性化』を理由に、期初に勝手に決めた100万円と言う予算が、余すことなく使われたらいいのである。予算を節約しようというような姿勢は微塵も見られなかったのである。

 

★燦々SunSun の事務局長をしてくれている殿界寿子さんは、緑が丘の『サンロード商店街』の事務局や広報担当をされているので、今年も無関係とは言えないのだが、

『とのさま日記なるもの☆』 http://blog.goo.ne.jp/mikisanro-do0501

と言うブログも発信されていて、そこには、率直にこのように記述されている。

 

   

三木市ってなに?市職員 大丈夫?   2016-08-25 13:28:26 | 考える

 
 しかし、酷い!

今度、三木市緑が丘でさんさんマルシェをするのです。
9月18日日曜日



この予告看板の上の文字    緑が丘さんさんマルシェ
これは私の友人のイラストレータ小塩ちゃんが前年度に幟に縦にかいたもの。
それを無断でデザインかえて 予告看板に使ってました❗

三木市が100パーセントお金を出して頼まれてサンロード商店街振興組合が2回目やります。
支払いなどもサンロード商店街振興組合は通さずに三木市が業者から直接請求されて三木市が支払います。
と、いうことは‥……全責任は三木市

看板の著作権はどうなるんですか?
せめて、彼女に使用して良いか、デザインに手をいれて良いか尋ねるべきでしょう
不思議に感じた彼女が三木市に尋ねたら お金を出すのは三木市ですが他の事は関係ないって
ちゃんと著作権を確認するのが当たり前❗

金さえ払えば良いのか?
それも看板屋に。

その役職の担当者は名前も名乗らなかったそうです
事務局員の私に言うようにと私の名前を出したそうです❗
行政のお粗末さにはゾッとします

これで全国二番目に職員の年間所得が多いのですから❗
たまったもんじゃない(*`Д´)ノ!!!

 

 

小塩雅子さんは、『まっく・でざいん工房 雅楽舎』を主宰されているフリーのイラストレーターで、アマチュアではないのです。

  http://www.miki-maco.com/

 

 

 このようなデザインの版権は、きっちりと守られねばならないのは至極当然で、『三木市』と言う公共機関がそれを無視して『タダで使う』とか『勝手にデザインを変えるとか』と言うのは、まるで『中国のようなやり方』で見逃すわけにはいかないと思う。

この辺りの責任の所在が曖昧なので、そんなイベントには、例え地域活性化と言われても、参画するわけにはいかないと思っているのである。

 緑が丘さんさんマルシェの出店者募集は、『豊かな暮らし部商工観光課』がこのように広報しているので、三木市が絡んでいることは明らかなのである。

 

 

デザインの版権の問題も、逃げずにちゃんとした対応をすべきである。

 

  

 ★ そんなこともあって、『地域活性化』と言う取り組みも、行政などとやる場合は、『補助金というお金』の行先も何となく『小さな利権』と繋がっているように思うし、どうもすっきりとしないのである。東京都の問題もそうであるように、日本の行政を取り巻く環境は、『小さな利権の塊』かも知れないのである。

三木市の場合は、今市長以下の『倫理問題』が問われている最中なので、担当部門もより気を遣った対応があって然るべきだと思うのだが、こんなことがまさか、表ざたになるとは担当部門の方は思ってもいないのだろう。

 

私たちが1年間主催した同じ場所で開催した『水曜マルシェ』は毎週水曜日に1年間も続けたのだが、補助金など1円も頂いていないのだが、『三木市』が絡むとたった1日で、100万円の補助金が動くのである

地域活性化などの活動は、やはり末端の純粋な想いを持った人たちが動くべきで行政などが絡むからおかしくなるのだと思う。

燦々SunSun のメンバーの一人である『オオムギのこなやhttp://www3.hp-ez.com/hp/konaya3/page1 さんの三木・戸田地区でのプロジェクトも、『補助金は一切貰わない』と言う前提が明確なので、みんな純粋に手伝っているのである。

 

 

★★前述した殿界寿子さんの 『地域活性化のご意見』である。

  http://blog.goo.ne.jp/mikisanro-do0501/e/655c4e1174792ded5f22075d37a72cbd

  



















 ★ 補助金が全部ダメだとは言わないが、これは税金なのである。

それは、ややこしい『利権』などのに繋がらない、ホントに『地域活性化』のためのものでありたいと思うだけである。

今日の午後の 『神戸ベンチャー研究会』の『地域活性化のパネルデイスカッション』には、こんなテーマも取り上げてみたいなと思っているのである。

 

 

昨今のSNSはよくできていて、

このブログは、私の手元だけでも1000を超す方がご覧になるし、

Twitterでは、55万人の方たちに向かって流れるし、

Facebook でも、いろんな方たちの目にも止まるだろうと思う。

 

 

是非、三木市役所の『豊かなくらし部商工観光課』の担当者の方、小塩雅子さんの『デザインの使用権』ぐらいは、ここは中国ではないのだから、ちゃんとした対応をお願いしたいものである

 

 

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今年の猛暑

2016-08-26 07:20:35 | 発想$感想

★ 毎日暑い日が続いている。

 今年は例年に比べて、暑いのだろうか?

 暑いけど、時間もあったのでいろいろ調べてみたら、

 

 

8月10日発表の気象庁の見通し が出ていて、

 

● エルニーニョ現象も ラニーニャ現象も 発生していない平常の状況が続いていると見られる。

● 今年の秋の終わりまでに ラニーニャ現象が発生する可能性が高い。(70%)

と発表されているのである。平常の状況で、この暑さかなと思ってしまうのである。

 

 

   

 

 

★ 気象庁は 平常と仰っているのである。

 ・・・・・現象とは、どんなことなのか? 

調べてみたら、こんな解説分に出食わした。 その一部を抜粋してみる。

 

 

ラニーニャ現象とは

エルニーニョ現象は結構聞くことが多いですよね。
でもあまりラニーニャ現象は聞きません。

2015年から2016年の冬までエルニーニョ現象が話題になりました。
史上最大のエルニーニョ現象ではと言われていましたからね。さらにエルニーニョ現象の影響で暖冬になると騒がれました。

エルニーニョ現象は南米ペルー沖の海水の温度が平年より高くなる現象です。
エルニーニョ現象が発生すると世界各地で異常気象が発生する可能性があります。
2015年から2016年の冬は暖冬と言われましたからね。

ではラニーニャ現象とはどういう現象なのか。
ラニーニャ現象はエルニーニョ現象とは逆に海水の温度が平年より低くなる現象です。
エルニーニョ現象と同じようにラニーニャ現象は異常気象を発生させる可能性があるんです。

エルニーニョ現象が終息していつもどおりの気候に戻るはずだったのですが、ラニーニャ現象が発生するとまた異常気象になる可能性が出てくるんです。

 

★もう一つ、よく解らぬが、ペルー沖の水温が今度は低くなるらしい。

今年の冬は寒くなるのかも知れない。

いずれにしても『異常気象』のような気がする。

 

   

 

 台風10号の進路など、今までの台風と逆だと思っていたら、今度はまた戻るなどと言っている。

まさに、異常気象だと言わざるを得ない。

異常気象の原因は、『地球温暖化』なのだろうか?

 

何千年生きてきた、人間の生活態度が、急激に変わり過ぎてるのが問題なのだろう。

 

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ツイッター 雑感

2016-08-25 07:34:10 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram

★ツイッターのフォロワーが昨日2度目の55万人に達した。

  この6年間毎日1000人ぐらいフォローしてそのフォロー返しで積み上がっていったのである。

 

最近のネット社会は何でもいろいろと勝手に分析してくれる。

ツイッター関係もいろいろと纏めて分析している『ツイログ』と言うサイトがある。

  http://twilog.org/rfuruya1

 

 

★ これが私のツイッターの分析である。

ツイッターに登録したのは2009年12月5日とあるが、いろんな分析が始まっているのは、翌年2010年2月2日となっていて、3ヶ月は登録だけはしたのだが、やり方が解らなくて『何もせずに放置』されていたのだと思う。確かに、そんな記憶がある。

こんな分析は、個人ではとても出来ない。

 

 

 

 

 

 

 

★現在そのフオロワーは55万人に達したのだが、『フォロワーを増やそう』と思い立ったのは、2010年の5月からで、これは NPO The Good Times の情報発信力の強化という目標を明確に定めてからスタートしているのである。

その方法は『毎日限度いっぱいのフォローをして、そのフォロー返しでフォロワーを増やす』と言う単純なやり方で、6年目にして55万人、平均すると1日233人の増加となっている。

下のグラフの通りその増え方は最初の10万人までは、あっと言うまで段々とそのカーブは寝ているのである。

これはフォロワーが増えてくると、その中にはフォローを止める人が 毎日 0.05%位はいて それが50万人にもなると250人にもなるので、最近でも毎日500人近くの新しいフォロワーがいるのだがカーブは寝てしまうのである。

 

   

 

グラフをご覧になるとお分かりのように、今年になってちょっと異変が起きている。

1ヶ月ちょっと前の7月10日頃には、550,670人までは達していたのに、何が原因かよく解らぬが、

ツイッターを突然止められて、それは何とは復活したのだが、フォロワーの数が一日だけで、1万人も減って54万人まで逆戻りしたのである。このグラフの線だけで見ると、それは1万人どころか、5万人ぐらい一挙に減っている。

そんな出来事があったのだが、気を取り直して昨日2度目の55万人を達成したのである。

 

 

ツイッターのフォロワーの多いベストテンはこんな人たちである。

 トップは600万人に達する勢いである。

 

  

 

有名人ばかりだが、私の知らない人もいっぱいいる。 この人たちは、特に何もしなくても、勝手にフォロワーが集まってくるのである

 私は今、全国で226位と出ているが、有名人を除く所謂一般人の中だけなら、全国20位以内に入っているので相当なものだと自分では思っている。

 

   

 

 

 

いろんな分析があるのだが、県別分析では兵庫県では3位だが、そのトップ『だからこそ神戸』さんはは全国でもトップで100万人のフォロワーがいる。 詩を書いておられて、Facebook では、トモダチで繋がっている。

 

    

 

 

何でもすぐ分類できるのがネット社会のオモシロさで、『NPO The Good Times の公式ツイッター』と自己紹介しているからだろう私のツイッターは『自治体・公共機関・NPO』という分類の中に入っていて、

首相官邸の次に入り、『陸上自衛隊』や『厚生労働省』より上に来て、全国ベスト10の中にいるのは気分がいい。

 

 

 

 

 

今朝は、こんな状況になっている。  https://twitter.com/rfuruya1 

 

 フォロワーの数のほうは、55万人と一応の目標としていた『神戸新聞の発行部数』と肩を並べるところまで来たので、今後は、情報発信の方法を少し考えようかなとも思っている。

ツイッターはMAX140字で、日本語の場合は140字でも結構な内容が書けるのだが、橋下徹さんがやってるようにTwilog』を使えば、140字をどんどん書いても、その順番は並べ替えられて、普通のブログのようになるのである。

  橋下徹さんの Twilog はこんな感じである。  http://twilog.org/t_ishin/asc

  

今の私のツイッターを Twilog にしてみても、今の状況では変わり映えはしない のだが、  http://twilog.org/rfuruya1

私流に『新方式』を考えてチャレンジしてみようかな? 

と思っているのである。

 

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カワサキの二輪事業と私 そのー12  ジェットスキープロジェクト

2016-08-24 07:09:53 | 発想$感想

★前回 ジェットスキーの本格的な事業化 ということでアップしたのだが、

  http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/1c9054d9f38219c730c3b108d67e4ba3

 今回は、その続きである。 前回お読みでなかった方は、是非お読みになってみて下さい。

 

★ ジェットスキーのプロジェクトを本格的にスタートさせるキッカケは、苧野豊秋さんから国内にもレース協会JJSBAを立ち上げるべく、一緒にアメリカに出張した1984年の12月だと言っていい。

川崎重工業の単車事業本部では、ジェットスキーは正規事業にはなっていない時代で、西武自動車が逆輸入したものをカワサキの部品会社の子会社KATが年間200台ほどを販売していたのである。

苧野豊明さんは、部品会社の社長とその子会社のKATの社長も兼務されていたのだが、KATは川重から見ると孫会社で、当時はそんなレベルでの小さな事業だった。

渡米の目的はアメリカのジェットスキーのレースの協会 IJSBA(インターナショナル)から正規の認定を受けて JJSBA(ジャパン)を日本にも立ち上げようといううもので、当時のKMC社長の田崎雅元さんにその仲介を頼んだのである。

苧野豊明さんは私のかっての直接の上司だったし、田崎さんもジェットエンジン時代に苧野さんの下にいたので、この渡米の目的はホントにスムースに何の問題もなく認定されて、JJSBAは苧野豊明さんの初代会長で85年の春からスタートするのことになるのである。

このころのジェットスキー関連は、輸入元の西武自動車関係の方たちが中心で動いていて、JJSBAがスタートしたが従来の西部関連の上田、日高さんなどを中心とした運営で、特にカワサキとしての正規の動きはなかったのである。

 

★カワサキとしての検討が始まったのは1986年からだと言っていい。

1986年の6月には JJSBAの山中湖でのレースが開催され、私も初めてジェットスキーレースなるものを見たのだが、その前夜祭に出席して、びっくりしたのは出席者がタキシードなど着用していたり、女性たちも華やかなドレスの正装なのである。二輪のレースとはちょっと違った雰囲気で、まさにお金持ちのスポーツそのものの雰囲気だったのである。

このジェットスキープロジェクトを川崎重工業の正規の事業として育てるべく検討に入っていた矢先、7月にオーストラリアの販売会社社長の任を終えて帰国した鶴谷将俊くんをジェットスキー専任に指名し福井昇くんとのコンビで具体的に動きだすのである。

この鶴谷・福井コンビの動きは非常に素早くて、9月にはヨーロッパ市場が動き出し、86年末には国内販売体制の具体的な検討に入るのだが、独特のレースを中心にしたジェットスキーという遊びの商品の販売は、『専門店でないと将来の発展はない』と最初の段階から専門店での展開としたのである。

然し、現実には未だ年間200台そこそこの販売なので、簡単には専門店は成り立たないので、87年の1月に神戸の灘に大型のジェットスキー店舗をほぼ直営に近い形全国で1店だけオープンさせたのである。

その店舗とは、現在AJの会長をしている吉田純一さんに借り受けて、実質大阪の二輪の販売店のスポーツ・インが動いてくれて、店舗は大きかったし構えも立派だったので、新規事業の立ち上げとしての広報力は相当なものだったのである。

そして3月には福井昇くんが、川崎重工を退社して、実質ジェットスキープラザ第1号店を明石にオープンさせたのである。

JJSBAのレース活動そのモノが、専門店を創る営業活動のような機能を果たして、たった1店からスタートしたカワサキのジェットスキー専門店網だったのだが、東京・大阪・名古屋・福岡など大都会を中心に結構スムースな立ち上がりを見せたのである。

 

★さらに、Jet Skyヨーロッパを設立し、国内もKATの機能をジェットスキー専門販売会社として整備し直して、鶴谷将俊くんが実質旗を振る体制としたのである。

その間、JS400/500のJS440/550へのボアアップなどもあって、ジェットスキーは世界的に好調に推移するのである。

この立ち上がりの数年間、素晴らしいテンポでジェットスキープロジェクトは進展してゆくのだが、カワサキ内部としては『古谷・武本・鶴谷・藤田・福井』のメンバーが主力で動いたのだが、カワサキ以外のいろんな方たちがその核になって頂いたのである。

大阪の大南勝也さんや松口久美子さんなどの協力が大きかったなと思っている。大南さんはジェットスキーに不思議なほど入れ込んでいたし業界の顔も広かったので、いろんな意味で大いに援けて貰ったのである。また松口さんは当時の女子のジェットスキーヤーとしては誰もが認める日本で一番のダントツのトッププレイヤーだったし、当時のジェットスキーのプロジェクトはこんな社外のメンバーたちの協力で進行したのである。

 

★それに今は世界チャンピオンにもなって超有名な金森稔君は、当時はまだカワサキの二輪のテストライダーだったのだが、それがジェットスキーのテストライダーに転身することで、めきめき頭角を現し、日本チャンピオンとなるのである。

金森君は大阪の月木モータースの出身だということご存じだろうか? 月木で二輪レースなどをやっていたのをカワサキの二輪のテストライダーに推薦して放り込んだのは平井稔男さんなのである。

何かのご縁で、ひょんなことで人の人生は変わるものである

 

     

 

88年9月のソウルオリンピック開会式当日のハンガンのデモンストレーションには、この初期の貢献者たちがみんな参加したし、それから30年近くたった今も、大南勝也さんも、松口久美子さんも、弟さんの松口博文さんなど、当時のメンバーたちとFacebookではトモダチで繋がっているのである。

 

★その後金森稔君はアメリカに渡って、今はアメリカのKMCの技術部門にいるのだが、3年ほど前アメリカに遊びに行ったとき、月木さんの娘婿さんがやってたかっこいい『お鮨屋』さんでこんなメンバーで旧交を温めたのである

http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/a8488b6d3ed5982eb43ba3b11ed68f2b

 

   

 

 

1987までが、カワサキのジェットスキー事業創成期と言える期間だが、

1988年10月からは,私自身が川崎重工から国内市場に3回目の出向となり、カワサキオートバイ販売グループの統括責任者としての立場に変わるのである。

89年1月からはジェットスキー専門販社としてKATからKJSに名称変更した販社の社長も兼務するのだが、この時点では未だ部品会社の子会社で川重からみると孫会社の位置づけは変わっていないのである。

この販社は常務として統括してくれた藤田孝明くんが実質運営してくれて、それを潤井、渡部くんたちが支え、彼独特のやり方で年間200台だった販売会社を最高年間7000台を売る販売会社に成長させるのである。

全国を明石と東京の2拠点だけで統括し、全国ジェットスキープラザと言う専門店を設置し、7000台を売り切ったのである。年間200台の販売でもペイしていた販社が7000台も売るとどんなことになるか想像してみて欲しい。KJSもその販売店も折れて曲がるほど儲かって、私の長い販社経験でもこんなことは初めてだったのである。

この当時のKJSの利益額(売上高ではありません)は孫会社ながら10億円に手が届きそうな利益額で、こんな会社を孫会社のまま放置するのもおかしいので子会社に格上げしようとすると、そのあたりはよく解らないのだが、利益が多すぎて、その額を減らすためにまずは親会社の部品会社に配当し、さらに川崎重工に配当して適正な利益額に修正したとういう、世にも不思議な対策をしたのである。

 

その成果もあって高橋鐵郎本部長に約束した二輪と合わせて7万台の目標も達成出来たのである。ただ7000台もジェットスキーが売れるとカワサキオートバイ販売会社と言う社名が合わなくなって『カワサキ・モータース・ジャパンKMJという現在の社名に変更することにもなるのである。

 

★余談だが、今は二輪などの部品関係の インターナショナルトレーデイング・ムラシマ http://www.j-bike.com/murashima/ を経営し、NPO The Good Times の関東地区統括をやってくれている村島邦彦さんもジェットスキー関連でカワサキとのお付き合いは始まっており、89年5月RPM の村島兄弟に初めてお会いしているのである。

90年には、ヤマハさんと共同で2月にPW安全協会設立総会を開催しているし、7月には川崎重工内にJS専門部門が出来て、鶴谷将俊くんが担当することになり、自ら JSBAの会長にも就任することになるのである。

91年には、鶴谷くんがJJSBA会長に就任したことに依り、カワサキが主導するJJSBAの運営方針への刷新を図り、KMJからも宇田川勇、永野、望月くんらがJJSBAに出向して、新しいJJSBAを創り上げたのである。その成果は11月にはサイパンで、大々的にJet Sky KAZE Water ForumJet Sky ARK (Authorized Riliable shop of Kawasaki)たちと開催するまでになったのである。

84年に新しいジェットスキープロジェクトを立ち上げて以来、約6年で新事業は完全に軌道に乗ったと言ってもいいのである

 

★1990年代は、カワサキの二輪もジェットスキーも絶頂期で、ジェットスキーはJJSBAのレースをそのベースとしての展開になるのだが、そのレース規模も年を追うごとに大きくなり、

93年11月には 琵琶湖の近江舞子でJJSBA10周年記念のWorld Cup を大々的に開催。

96年には 石川県羽咋市千里浜での10周年記念レースにはエントリー台数1000台を記録。

するなど世界最大のエントリー台数となるなど、ジェットスキー最盛期を迎えたのである。

 

 

二輪も、ジェットスキーも『遊び道具』なのだから

私の国内担当時代は徹底的に遊んで、『遊んでいたら自然に売れる仕組み』で勝負したのだが、一般に真面目な人が多すぎて、遊んでいてもあれだけ売れるのなら『真面目に一生懸命売ったらもっと売れる』と錯覚して、真面目に販売をやり出したら、逆にマーケットは縮小して台数は減ってしまっているのである

 

もう一度、

二輪業界は、本田宗一郎さん時代のサーキットやレースなどの『遊び心』を取り戻してほしいものである

バイクも、ジェットスキーも、楽しい乗り物である。

若し、一生懸命やるのなら、それは販売ではなくて『安全運転活動だと思っている。

 

  

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私と台風

2016-08-23 07:15:13 | 発想$感想

★関東から東北・北海道ㇸ進路をとっている台風9号は、11号に続いての襲来なので、大きな被害が出ないかと心配である。

   

 

もう三木に来て40数年になるのがが、この40年間台風に出会っていない、と言うか台風が来たという感覚がない。

戦後70年、明石ー仙台ー高槻ー三木ー札幌と住んだのだが、明石以外で台風に出会ったことはないと感じている。

明石にいたのは、昭和41年(1966年)までなのだが、その当時は毎年台風に見舞われていたような気がするのである。

特に印象に残っているのは、昭和25年、高校2年生の時に出会った『ジェーン台風』である。

ジェーン台風』と検索すると、こんな写真と説明文が現れる。

 

   

 

 

1950年8月30日、硫黄島南西海上で台風第28号が発生。当時の日本はアメリカの占領下にあり、気象業務も米軍と共同で行われていたため、番号ではなく、アメリカ式に「ジェーン台風」と名前が付けられていた。

台風は、9月3日10時に、徳島県日和佐町付近に上陸した。その後、台風は淡路島付近を通過し、12時頃神戸市垂水区付近に再上陸した。その後、若狭湾へ抜け、日本海へ進み・・・・・台風による影響は、降水による影響よりも、強風による影響の方が大きかった。四国・紀伊半島沿岸では35m/sの暴風が吹いた。また、近畿・北陸・東海では30m/sの暴風が吹いた。神戸海洋気象台でも、最大瞬間風速40m/s以上となったが、計測器の破損により、一時欠測となった。大阪湾では、台風の強風による吹き寄せで高潮が発生し、船舶に被害が出たり、多くの家屋が浸水したりした

 

そのジェーン台風の真っただ中で、半日ほど過ごしたのである

この日は、京都で野球部の練習試合があり、明石から京都に電車に乗って出かけたのである。

台風が来るのは『解っていた』と思うのに出発をしたのは、明石高校は昭和23年の夏の予選、兵庫県の優勝候補と言われていたのだが、明石では雨が降ってて予選は中止だろうと行かなかったら、西宮球場付近は晴れていて棄権になってしまったのである。それ以来はどんな状況でも現地までは行くというのが伝統になっていたのである。

京都に向かった電車は、大阪駅を出て次の駅あたりで止まってしまうのである。台風の中心は神戸を通ったのだが、より右側の東側のほうがきついので、一番ひどかった地域で何時間も止まっていたのである。目の前にあった消防署の建物が一瞬風で浮き上がったと思ったら、次の瞬間倒壊してしまった。

電車は揺れはしたが、ひっくり返ることはなかったが、台風が通り過ぎるまで何時間も車中に閉じ込められたのである。

 

これが私の台風の一番ひどい経験だが、1960年代も毎年のように明石には台風かきたような気がする。

関東からレースライダーたちが明石に来てた時にも台風が襲来し、当時は関東には台風は来なかったようで、みんな初めての経験でビックリしてたのを思いだすのである。

 

★台風と言えば、9月以降九州に来るものと思っていたのだが、それが最近は関東方面に行くことが多いような気がしている。今年は特に、関東がいろんな被害にあっているようだが、なぜこのような進路になってしまうのだろう?

素人考えでは、温暖化現象で海面の温度が上がり、台風発生の地点が、従来より北に寄ったのではなかろうか?

いずれにしても、自然災害は基本的に防ぎようがないので、災害が少ない地域に住むことが第一でそういう意味では安全な地域に住んでいるとも云えるのである。私自身が勝手に思っていることだが、昔から人が住んでいた旧いまちは、基本的に安全である。

仙台に住んでいた時に地震があったのだが、仙台の旧市内は何ともなかったのに、新しく開拓された地域の被害は大きかったし、東北の昔からの旧いまちは、冬雪の降り方も少ないのである。永年の経験から来た『人の知恵』だと思っている。

三木は旧いまちだから、何となく『安全だ』と思っているのである。神戸の隣町なのに、阪神大震災の時も大丈夫だったのである。

今住んでいる緑が丘は新興住宅地だが、なだらかな丘なので幾らか斜めになっているので水に浸かったりは絶対にしないのである。浸水も怖いし、山の近くの土砂災害も恐ろしい。

日本は山国だから、山裾にはいっぱい住宅が建っているから大雨のあとの土砂崩れが恐ろしい。

台風は今日も北海道を縦断中である。札幌に2年住んでいた時は、梅雨も台風とも無縁でいいところだと思っていたのだが、そんは北海道に台風が続いて襲来している。

大きな被害にならなければいいのだが・・・・・

 

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リオ五輪 の感想

2016-08-22 07:03:55 | スポーツ

★始まる前までは、リオ五輪に正直そんなに関心も持っていなかったのだが、もう明日は閉会式である。

日本が『こんなに活躍するとは思ってもいなかった

この五輪をずっと見ていて、一番の感想は、『人間の能力はスゴイなと言う一言』である。

 

いろんな競技で40以上ものメダルを獲得しているのだが、簡単に 金・銀・銅 と言うけれど、それは世界3番目までの中に入っているのである。

それははホントに凄いことである

そして、いろんな競技の演技など見ていると、『とても人間技とは思えないそんなレベルなのである。

あのレベルに達するには、それなりの日々の練習の積み重ねがあるのだが、どうしたらあんなことになるのか?

ただただ、驚いているばかりなのである。

 

 

★ 数あるいろんな競技の中で敢えて印象に残った二つを挙げるなら、

その一つ目は男子の体操競技の団体の金メダルである。

 

  

 

 これは、金メダルが予想されていた競技である。

予想通りに金を獲った。 そのプレッシャーは想像以上のものだっただろう。

内村の最後の鉄棒での逆転、あれは圧巻だった

あんなことが、どうしたら出来るのか? それもあの最後の着地が微動だにしなかった。

演技力もさることながら、あの精神力に脱帽である。

 

 

★もう一つは、400メートルリレーの銅。

一人一人は、9秒台を出したことのない4人が、見事アメリカより早い銀メダルの獲得を誰が、予想しただろうか?

 

 

 

 日本らしい、細部の研究・対策による、まさにチームとしての勝利である。

 

 

 

この写真、一瞬トップを最終走者が走ったのではなかろうか?

BOLT の表情は、何を意味しているのか?

これは『予想外の出来事』であったに違いないのである。

日本独特のバトンタッチ、下でバトンを受けるのは日本だけと言うが、確か小学校の運動会のリレーのバトンタッチは下からである。

こんな経験は、運動会のある日本では、私でも経験だけした、その延長上にある方式なのである。

そんなバトンリレーの成功が『』の原動力であったようである。

 

 

★ 4年後の東京オリンピックに、いろんな期待が出来る、そんなリオ五輪になったような気がする。

ちょっと違った面での感想を言うなら、サッカーのブラジルードイツの決勝を見ていて、ネイマールの活躍や、ドイツのオーバーエイジの選手たちの活躍を見て、日本のチームはオーバーエイジの二人をなぜ全日本の誰が見てもトップ選手を選ばなかったのだろうと思った。

監督の考え方であることは、よく解っているし初めからそう思ったわけではないのだが、昨日の決勝戦を見ていて、両チームともオーバーエイジの4人が、大活躍だったのである。

監督が選んだ二人がダメだったとは言わぬが、なぜ岡崎とか本田とか香川など、誰もが納得できる選手を選ばなかったのかな? と思ったりした。

そんなことはない、と言う監督の考え方は、尊重しなくてはならないのだが、素人としては『日本の最強チームではなかった』と思ってしまうのである。

 

体操や、リレーの選手たちは間違いなく、今の日本の最高の選手を選んでいるのである。

文句を言っているわけではないのだが、結果から見ての正直な素人の感想である。

 

 

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野田浩志くん と 産業人OBネット

2016-08-21 05:21:36 | 発想$感想

 ★ 野田浩志くん、川崎航空機の昭和36年入社で私の4年、後輩である。

彼の新入社員時代の36年に、私は当時スタートしたばかりの単車営業部に異動したのだが、野田くん(ノンちゃん)はその営業部の小型エンジン部門にいて、机の並びはすぐヨコの列だったし、その発動機営業のノンちゃんの上司が私が個人的にもずっとお世話になった三浪正さんだったので、私はその入社当時からよく知っているのである。

その後、昭和38年に川崎航空機は単車事業を本格的に取り組むべく、単車事業部を立ち上げ事務屋の精鋭たちを大量に集めて、当時のカワサキ自販の販売推進部販売推進課広告宣伝課を創って組織化したのである。

その販売推進課の一員として野田浩志くんもやってきて、それ以来カワサキの二輪事業関係では、密接な関係で続き、退職後のいまでも非常に密接なお付き合いが続いているのである。

 

★そんな関係なのだが、その性格は私とは全く異なっていて、彼は理論家だし常に取り組みは真面目、まともで

何事にも『いい加減に、大雑把に取り組む』私とは全く違った生き方なのである。

 

ただ、野田浩志くんとは、カワサキの二輪事業の中でも、結構いろいろと関係があって、列挙してみると

● まずはカワサキが1970年代に国内市場でスタートさせた『特約店制度』の基本的な発想者、起案者はノンちゃんなのである。 ただ、彼らしくきっちりと細部まで決めつけているので、取締役会を通ったにも拘わらず、第1線の営業は2年経っても誰も取り組んだりしなかったのである

それを昭和45年、大阪万博の年に東北から大阪に私は異動して初めての第1線を経験するのだが、会社で決定されたことが実行されないのはダメだと、私が最初に取り組んだのが『特約店制度』で、私流に『間違いなく実現するように』仕組んで取り組んだのだが、やり方はノンちゃん方式とはちょっと違った方向だったのである。然し、その後約5年で『特約店制度』は全国展開できることになったのである。

● その当時、二輪業界でも初めての販売店の海外視察全国カワサキ会で主宰し、アメリカKMC見学を行ったのだが、カワ販側の事務局として、北村、野田両くんが参加されたのである。この時は東京・大阪・名古屋を中心に主力店約100店が参加したのだが、当時の販売店は『サブ殿さまのデーラー乞食』と言われていた時代で、うるさいのが揃っていて、真面目な北村・野田事務局では具体的対応がムツカシクて、全国カワサキ会の副会長としてで参加していた私が殆ど『事務局的対応』などしてお手伝いしたのである。

● そんなアメリカ行きの経験もあって、ホントに早い時期に彼はKMCに出向し、その後確か4回ほどアメリカ市場に出向していて、明石に戻った時は企画サイドでいろんな起案をしているのだが、ハーレーダンピング対策としてのカワ販構造改革の『営研発想』は野田くんの発想で、それを現実に実現できるように修正し本社承認を取り付けたのは私なのである。学者肌とも云える野田くんの発想は、常にまともで間違いはないのだが、具体的な運営はもう少し柔軟にやられたらいいのにと私は横で常にそんな目で見ているのだが・・・

 

★そんな野田浩志くんが、理事長として立ち上げた『NPO法人 産業人OBネット』が創立10周年を迎えて、その『設立10周年記念誌』も発行され、井戸知事を招いての『記念講演会』を開催されるようである。

私のところに、その冊子と講演会への出席のご案内を頂いたのだが、9月中旬はアメリカに遊びに行く予定なので、出席できないので、せめてその広報だけでもと、このブログも書いているし、ツイッターでも、Facebook でもお手伝いしておこうと思っているのである。

NPO法人 産業人OBネット』については、横からずっと関心を持ってみているのだが、基本コンセプトが確りしているし、集まっておられる方たちが、川崎重工業の真面目で固い方が中心なので、これは非常にウマく動いているように思っている。そこに参加されているメンバーの方とも何人かは、私も繋がっているのである。

私自身も野田さんの後を追っかけて、『NPO 法人 The Good Times』 を立ち上げて7年になるのだが、その監事をしてくれていた小川優さんは、産業人OBネットにも、当初関係していたのだが、『野田さんのところの理事会は、きっちりしてるから・・・なかなか大変』といつも言ってたし、野田さんらしいなと思っているのである。

 

 

 ★ こちらが『設立10周年記念誌』で、

 

   

 

 その冒頭に書かれている 野田浩志さんの冒頭の挨拶文 である。

その基本コンセプトは、非常に確りとしているのである。

 

 

   

 

 9月16日には、兵庫県井戸知事を招いての、こんな特別講演会が開催される。

 

 

 

 

  その参加申込書である。

  

 

そして、そのホームページである。

      http://www.sanobnet.jp/

 

   

       

 

★まだ、野田さんには、一度も言ったことはないのだが、

産業人OBネット』 は非常に『いい活動』をされているのに、その『情報発信力』をもう少し充実され、その仕組みにもっと『インターネット』を活用されたら、『無料でより効率的な活動になり、そのブランドイメージも上がるのにな』と常々思っているのである。

具体的には、『NPO The Good Times 』の団体会員に入会されて、その『団体会員プロジェクト』を利用されるだけで、殆ど、問題は解決できるのである。

私が起案している『NPO The Good Times 』は、『仕組みそのもの』で別にお金も掛からないし、その仕組みを動かしているだけで、『異種・異質・異地域をみんな繋いでいい時を過ごそう』と言う基本コンセプトが実現していくという、ちょっと世の中にはない、遊び心満点のNPO法人で、世の中一般のNPO法人との差別化を図っているのである。

これは、一度『ノンちゃん』に言ってあげないといけないかな? と思っている。

産業人OBネット』10周年記念に、そんな新しい方向で歩まれたらどうかな、と率直にそう思っているのである。

今日は、このブログにアップするので、自動的にツイターにも、Facebook にも広報出来るのだが、若し会員になられたら、いろんな形で毎日でも、『情報発信のお手伝い』が出来るのである。

 

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昨日の1日

2016-08-20 06:57:06 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★1年にはいろんな1日があるが、昨日は多分、忘れられない1日になるだろう。

何があった??

普通の人には、大したことではないと思うが、池の金魚がコドモを産んでいたのである。

これは大発見だった。 生まれてから1ヶ月以上は経っているはずなのだが今まで気づかなかったのである。

 

最近は、家にいて車も出さない日があるのだが、車庫の下が池になっているので、外出しないと池を見るチャンスがないのである。

 

                               

 

 

 昨日は朝、家内と家から15分ほどの 栄の駅前の『皮膚科』に行ってきた。

我が家が写真の左上、 皮膚科は 写真の右下にある。

 

 

   

 

  栄の周りは、結構な住宅地がいっぱいなのだが、この『いでい皮膚科』の周りは、お医者さんが整形外科も、内科も、歯科などもいっぱいあって、気軽な総合病院のような状況になっていて、予約なしではなかなか難しいほど流行っている。

駐車場も、薬屋さんもみんな共同になっていて、なかなか『いいシステム』だと思っている。

 

   

 

    そこで撮ってきた動画である。

 

 

久しぶりに『いでい皮膚科』に行き、ちょうど昼時になったので、ちょっと行った先の『餃子の王将』にでも行こうかと言うことになったのである。

 

餃子の王将』は、こんな位置関係、車で5分は掛からない。

ここも、昼時で満席で、ちょっとだけ待ったりした、

 

   

 

 

 

ここで、『冷麺』と『餃子』を食って帰ってきたのである。

久しぶりで、『旨かった

別に、そんなに高いものでなくても、何でも『旨い』と感じる戦後食糧難時代育ちの『いいところ』だと思っている。

事実、高級料亭や有名店などの料理も『旨いと云えば旨いのだが・・・』形や理屈などが表に出過ぎて、どちらかと言うと あまり好きではない。  それに、値打ち以上に高すぎる

『食』は単純に『食える』のが一番である

 

  

   

 

 ★ 家には、1時過ぎに戻ってきた。

池の金魚やメダカに、餌をやってみていたら、金魚のコドモが何匹かいるのである

この池には金魚も、メダカも3種類。エビもいるし、田螺もいる。

鮒やドジョウもいたのだが、いつの間にかいなくなってしまった。

エビは多分、1000匹以上いるだろう。今年もコドモをいっぱい産んでいる。

何故か、メダカの仔を産まないというのか、今年はメダカの仔を見ることが出来ない。

金魚が仔を産むなどとは思わなかったが、昨年1匹だけ仔を産んだので、金魚でもコドモを産むのだと思っていた。

 

この動画を、ちょっとご覧になってください。

間違いなく、金魚のコドモでしょう。

ヨコにいるメダカと比べてみて下さい。メダカよりちょっと大きい程度に育っています。

 

 

以下は、動画から撮った写真である。

 

  

 

 

  

 

 

  そんなことで、昨日はめちゃめちゃ『よかった日』になったのである。

 ホントに池の一部を見ているだけなので、ここだけでも5匹はいたのだが、もっとたくさんいるのかも知れない。

それに、真っ赤ではなくて、まだら模様なのだが、この動画には現れないが、ちょっと違った形との金魚との交配なのかも知れない。

果たしてどんな風に育つのか楽しみである。

 

 

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カワサキ二輪事業と私 そのー11  ジェットスキーの事業化

2016-08-19 08:07:59 | 自分史

★ 『ジェットスキーの本格的な事業化

元々ジェットスキーはアメリカ人のアイデアの特許を発動機事業部が買い取って、発動機のエンジンを使い、アメリカのリンカーン工場で生産アメリカ市場でだけ販売していた商品なのである。

従って単車事業本部の明石工場のメンバーたちは、誰一人関与していなかったと言うよりは、製造者は川崎重工業ではなくてリンカーン工場と言う不思議な『継子事業』のような感じの事業だったのである。

それを正規の事業として本格的に「取り組むべし」と提案してくれたのは、私の企画室長時代企画部長として援けてくれていた武本一郎さんである。

その発想も意見もまともなのだが、1985年当時は単車事業本部内にそれを担当するセクションなど皆無で、具体的に展開するには『新しい何かを』創らなければどうしようもなかったのである。

 

さて、どのように展開するかと考え始めたそんな時、オーストラリアの販社の社長をしていた鶴谷将俊くんが85年9月に帰任したので、彼こそが一番の適任だと思ったのである。

一国の販社の社長をしてきた彼に部下もいない、正規のセクションもないプロジェクトを担当させるのは、ちょっと気が引けたのだが『新しい事業』こそ実力者がやらないと実ったりはしないのである。

武本部長の企画部の中に、勝手に『ジェットスキー担当部門』を作ってスタートしたのだが、明石の単車事業本部の中にはジェットスキーに乗れる人すらいないのである。

発動機に趣味でジェットスキーのレースをやっている福井昇くんと言うのが居るというのを聞きつけて、たまたま彼が私と同期の藤川哲三さんの下にいるというので強引に貰い受けて、鶴谷、福井のコンビでスタ―トすることになったのである。藤川さんは、若い頃ジェットスキーのエンジン開発を担当していたので、それを本格的な事業に展開したいという私の話に乗ってくれたのだと思う。

 

★このプロジェクトは、企画室内で勝手に立ち上げたもので、当初のメンバーは『古谷・武本・鶴谷・藤田・福井』の5人でスタートし、徐々に広げた形なのだが、いま思うとこれは最強のメンバーであったと思う。

 

古谷錬太郎

私が総合的に旗を振り、主として販売面の仕組みの構築を起案したり、国内のレース組織JJSBAの設立をアメリカのIJSBAに当時の田崎雅元KMC社長に仲介を頼んだりもしたのである。

軌道に乗ってからも国内のジェットスキー販売会社の社長や業界のPWSA会長なども引き受けてお手伝いはさせて頂いたのである。

 

武本一郎

 昭和35年入社の東大卒の英才である。私が最初に企画部企画課担当時代の係長で東南アジアのCKD事業を始めたとき陰で手伝ってくれたご縁などあって、二輪事業の再建に二度目の企画担当を仰せつかった時、その企画課長に真っ先に指名したのが武本一郎くんだったのである。昭和35年入社は英才が揃っていて、百合草三佐雄、大前太、種子島経くんなどみんな35年組なのである。

大庭浩本部長時代の大庭さんのムツカシイ宿題をすべて処理してくれたのは武本一郎くんであり、先述したように『本格的なジェットスキー事業の展開』を提案してくれたのも武本一郎くんなのである。早く逝ってしまって本当に残念なのである。

当時のジェットスキーは JS400/500の2機種で、アメリカ市場だけでコンスタントに8000台ぐらいの販売だったのだが、これを440/550ccにボアアップしたら、突然アメリカ市場だけでも2万台も売れだしたりしたのである。

このボアアップするための開発費などは、正規の事業になっていないので、とても貰える訳もなく、武本一郎さんが『忍術を使って』生産関係の予算から捻出したはずなのである。それを技術本部で引き受けてくれたのが百合草三佐雄くんで、私はそのあたりのことはすべて武本くんに任していたので詳細はよく知らないのだが、このボアアップしたジェットスキーが売れに売れて、当時の二輪事業の危機を救った一つの商品になったことは間違いないのである。

 

鶴谷将俊

彼とは、開発途上国市場をスタートさせたとき、岩崎茂樹くんとのコンビでイランを担当してくれた時に初めて出会った。山登りが好きで、会社を1年間休んで山に登っていたという豪傑である。

CKD市場担当の後、オーストラリアの販社の初代社長として出向して、その任を終えて帰任して、ジェットスキー事業を担当してくれたのである。スタート以来約10年間、彼が カワサキのジェットスキービジネスを育てた と言っていい。

ずっと川重の営業部の籍のままではあったがJJSBAのジェットスキーレースも、国内のKJSと言うジェットスキー専門の販売会社も鶴谷くんが旗を振ってくれた。当時のJJSBAの国内レースは琵琶湖や福井県千里浜海岸で開催され1000台のエントリーがあった最盛期なのである。

末端市場を見ることに興味・関心があって、私を誘って二度二人で末端状況視察の海外出張をしている。

ヨーロッパでは、ドイツのボートショーを皮切りに、ボーデン湖ースイスースペインのジブラルタル海峡からの海岸線ーフランスイギリス を殆どレンタカーで移動したり、オーストラリアでは、彼の元担当国なので、小型飛行機で中央部まで飛びそこからはレンタカーで、普通の人は知らないオーストラリアを経験したのである。

 

ヨーロッパに J/Sヨーロッパ と言う新会社を設立したのも鶴谷くんである。多分現在のKawasaki ヨーロッパは、このJ/Sヨーロッパがスタートで、鶴谷くんはその後アメリカのKMC社長や、Kawasakiヨーロッパの社長などを歴任するのだが、最後は川重商事の社長をされたのである。

個人的には、カワサキ二輪事業本部長を若し彼がやっていたら、また変わった『カワサキ』が見れたのではないかと思っているのである。

     

   

 

  これは1988年ソウルオリンピック開会式の当日、オリンピック組織委員会からの要請を受けて、競技場のすぐ前のハンガン(漢江)でジェットスキーのデモンストレーションの依頼があって、オリンピックということで日本・アメリカ・欧州・オーストラリアから男女のチャンピオンを集めたチームを構成し、私がその団長を務めはしたのだが、このプロジェクトを実際に進めてくれたのは鶴谷将俊くんなのである。

このメンバーには初代JJSBAの苧野豊明会長・鶴谷将俊・藤田孝明・福井昇くんや大南勝也・金森稔・松口久美子さんなどの黎明期を支えたメンバーたちが参加したのである。

 

 

 ●藤田孝明

彼とは会社では本当に長いお付き合いで、私が最も信頼していた一人である。昭和32年の川崎航空機の同期入社である。

入社当時は野球部のチームメイトで、私と三遊間を組んで、1,2番を打っていた仲間なのである。

1973年カワサキが特約店制度に踏み切った当時は、京都営業所長だった。大阪・京都・名古屋で特約店制度はスタートしたのだが、京都が一番徹底して立派に創り上げたのである。

その後名古屋の統括所長も彼に頼んだし、一番問題の多かった東京都対策も藤田くんに任したのである。さらに西日本地区を担当したりしたのだが、彼の行くところ販売店との関係はみんな抜群だったのである。川崎重工籍なのだが、川重での役職などには一切興味を示さなかった珍しい存在だったのである。

このジェットスキーの販売網を国内で一からスタートさせるとき、私は躊躇なく藤田孝明を二輪の東京市場の責任者から引っこ抜いてたった一人で最初はスタートしたのである。

ジェットスキーは、国内の新商品で従来西部自動車が逆輸入してボート屋のネットワークで年間200台ほど販売していたのだが、この商品のレースを中心とする独特の遊びの分野は、それなりに専門店に育てなければ将来はないと思ったので、たった200台しか売っていなかったのに、専門店を創る方向を採ったのである。

全くの白紙の状態からカワサキのジェットスキー販売網は全国に見事に展開されて数年後、最高では7000台の販売を記録し販売会社もその販売店も、折れて曲がるほどの利益が出たのである。

藤田くんは、口数の少ない地味な存在なのだが、彼のことを悪く言う販売店を見たことがないのである。彼が私に紹介してくれた店の一つが『月木モータース』のあの月木さんである。

 

福井昇

若し、カワサキがジェットスキーの本格的な進出を展開しなかったら、福井昇くんは、川崎重工業の発動機事業本部の中で普通一般のサラリーマンで終わったに違いないのである。

ジェットスキーに乗れる奴がいる』ということを聞いて、発動機に彼を貰いに行ったことから彼の人生は変わったと思う。

最初は、ヨーロッパ市場の開拓などをやっていたのだが、いろいろあって国内のジェットスキー販売店網を創ると言った時、彼は手を上げて、川重を退社し、ジェットスキー専門店国内第1号店を立ち上げたのである。この面倒を徹底的に観たのが藤田孝明くんである。

ジェットスキープラザ明石』  http://jsp-akashi.com/ 

が彼の店である。もう30年にもなるのだが、その間彼は大成功で、巨万の富とは言わぬが、趣味のミニトレインの線路を庭に設置して楽しむほどには成功したのである。

余談だが、福井昇くんとは最近でもいろいろとお付き合いがあり、カワサキワールドの恒例行事となった神戸のメリケンパークの『ミニ鉄道フェスタ』の起案者は福井昇くんで、それを田崎雅元さんに私が頼んで実現したのである。

 

     

 ちなみに彼はNPO The Good Times の理事もやってくれていて、30年変わらぬお付き合いが続いているのである。この週末21日の理事会でお会いできるのが楽しみである。

 

 

★ この間、成功話ばかりではなくて、今なら考えられない失敗話もあるのである。

先述したように、ジェットスキーは発動機事業部の商品でありそのエンジンも発動機事業部のエンジニアの開発によるものなのである。

当時の技術本部長は安藤佶郎さんで単車独自の300cc小型高性能のエンジンを積んだ小型のジェットスキーを創って『もっと数を売ろう』というコンセプトの JS300 の開発を考えたのである。

二輪車の場合は、一番数が売れるのは50ccの小型モペットで、それは小型で初心者の入門車として量販できるので、単純にジェットスキーでも『手軽な小型のモペット』を創ろうとしたのである。

この機種の開発段階のテストランに、一般のテストライダーと共に福井昇くんも参加したのだが、その商品評価会議で、福井君くんが『これはダメだ。走っていたら突如転倒してしまう』と発言したらしい。

これは二輪の常識で発想した技術部の『間違いだったのである』 二輪車と違ってジェットスキーのような水の上の乗り物は、小さいと安定しないのである。小さな車体に高性能のエンジン積んでアクセル吹かしたら『不安定』になって、福井くんでも転倒してしまうのである。

このマシンは、福井くんの意見を聞かずに、そのまま開発され上市されたのだが、殆ど売れずに失敗作になってしまったのである。

こんな話は冷静に考えると私でも理解できる話なのだが『小型のジェットスキーを大量に』と言うと二輪関係者は、モペットのイメージで錯覚してしまうのである。

 

 

★ ところで『ジェットスキー』と言うのはカワサキ独自の商品名であることをご存じだろうか?

ヤマハさんがこの分野に参入されたのは、1986年で、86年の1月にヤマハの小宮常務がわざわざ明石まで参入のご挨拶に来られているのである。 

そして1990年に業界としての安全協会を立ち上げたのである。

それがPW安全協会で、PWとは『パーソナル・ウオータークラフト』なのである。

   http://www.pwsa-jp.com/company/activity/

 

  

  

   業界の先駆者ということで当時のPWSAの会長職は、カワサキで私も会長職をお引き受けしたりしたのだが、そんなこともあって、当時ヤマハさんとは、本当に仲良くさせて頂いた。

その業界の会合も所謂私が議長をさせて頂いたのだが、一般の業界の会議とは違って、ヤマハの方から『社内会議』みたいだと言われてホンネの討議がなされたのである。年に1回の総会には中央官庁のお役人が出席されて、課長の祝辞代読などされるので、出席される方にそんな形式的なことではなく、あなたのご挨拶を是非とお願いしたら、2年目からは、ご自身の言葉で本当にいいお話をされたのが印象に残っているのである。

どうも、日本の特に業界の常識は、おかしなことが多すぎるのである。逆に中央官庁に新年のご挨拶に伺うと、メーカーではそっけない対応だが、業界代表となると それなりに対応が変わるのも不思議だなと思ったが・・・

 

80年代後半から、90年代にかけて、ジェットスキー黄金時代が続いたのである。

そして、ジェットスキービジネスは30年経った今、こんな300馬力の1台自動車並みの価格の商品が並んでいるのである。

ある意味、JS300も小型ジェットスキーを発想した時代が懐かしい気もするのである。

 

  

 

 

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消費者庁の担当者の方もご覧になってるホームページ  ビックリです

2016-08-18 06:26:04 | NPO The Good Times

お役所のお役人も、職務ではしょうが、なかなか大変だなと言う話です。

 

★ NPO The Good Times のホームページ  

     http://www.thegoodtimes.jp/   の中に、

 

  

 

   こんな 『特典一覧』というサイトがあります。

このホームページも、もう直ぐ来場者が10万人になろうとしているのですが、つい先日、お国の『消費者庁の担当者の方』がお越しになったようです。

 

 そして、その『特典一覧』をチェックされたようです

  「特典一覧」とこんなサイトです。

    http://www.thegoodtimes.jp/tokuten/

 

  

   

  団体会員さんが、提供される『特典』が並んで紹介されています。

 

● その中の団体会員さんが出しておられる特典の表現に、『消費税分をサービスします』と言うのがあったのですが、『これはちょっと問題なので、文言を修正してください』との指摘を頂きました。 

別に8%でも、10% でも問題はないのですが、『消費税分』と言う表示は問題のようです。

 

すぐに『修正』しましたが、 『消費者庁の担当』の方も、こんなホームページの特典欄までチェックするのは大変だなと思いました。

それにしても、そんな中央官庁の方に訪ねて頂いて光栄です。

多分、『修正しました』と連絡をされたのだとは思いますが、ホントに『直っているのか』もう一度チェックされるでしょうから、消費者庁の担当者の方は、間違いなく2回訪れて頂くことになるのかと思います。

 

  

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墓参 と 国際免許

2016-08-17 06:29:47 | 発想$感想

 ★ 今年の秋、9月からは多分アメリカの娘のところに遊びに行くことになるだろうと思っている。

1ヶ月近くの滞在になるので、車の運転が出来る様に、国際免許をとっていこうかなと思ったりしていたのである。

私の場合は、『・・・しようかな?』と思ったことは、GOが掛かることが殆どなのである。そんなことで8月中に免許をとりに行かねばと思っていた。

現役のころから、海外出張はいろんなところに結構出かけているのだが、当時はずっと国際免許を持っていたので、殆どの国でレンターカーを借りて自分で移動することが多かった。

アメリカは、いつも空港でレンタカーを借りての移動だったし、ヨーロッパでもレンタカーを借りてアウトバーンを走って、ドイツからオランダに行ったり、ドイツからボーデン湖さらにスイスへも自分の運転だった。スペインの海岸線のドライブも快適であった。

ひょっとしたらアメリカ行きも今回が最後になるかも知れぬし、免許さえ持っていれば何かと自由が利くだろうと思っているのである。

 

    

 

 

★それはともかく、今年のお盆は、孫が遊びに来ていたので、栗林公園に行ったりして、墓参りに行くことが出来なかった。

お盆は過ぎてしまったのだが、国際免許をとるなら、一緒に墓参りもしようと昨日明石まで行くことにした。

 

       

 

先に、国際免許の申請をするために免許センターに行き、30分ほどで、問題なく取得できたので、その足で、長寿院まで出かけたのである。

 

 

 

 お盆に墓参りをするぐらいは解っていて、毎年15日までには行っているのだが、16日などは果たしてどうなのか?

チェックしてみたのである。

まず、こんな記述が現れた。

 

お盆というのはご先祖様の魂が家に帰って来る時期とされているので、その間はお墓はお留守になります。

そのためお盆期間中は、13日頃にお墓にご先祖様の魂を迎えに行くか、お盆が終わった後の16日にお墓まで送り届ける意味合いでお墓参りをします。

このお留守になったお墓にお参りするのは意味が無いように思われますが、地域によってする・しないに分かれるようです。

 

などと書かれている。 16日でも大丈夫なのだが、昨日お墓に来ているのは私だけで、殆どのお墓の供花はしおれていたので、お盆前に来られた方が多いのだろう。

私は墓参りなど、あまり形などには拘らぬほうなので、16日でも『行かぬよりはいいか』と出かけたのだが、16日でもいいということでちょっと安心はしたのである。

服装は半パンツにポロシャツで出かけたのだが、ポロシャツは国際免許の写真が要るのでそれは襟付きのほうがいいだろうと思ったからである。普通なら多分 Tシャツで出かけているだろう。

ついでに、服装について、チェックしてみたら、このように書かれていた。

お盆のお墓参りの服装は半袖短パンみたいにラフでいい?


真夏の猛暑のなかでのお盆のお墓参りは服装をどうしたらいいのか迷いますよね?

秋や冬ならあまりラフな格好にならずいいと思いますが、真夏となると普段着はいつも短パンやTシャツにサンダル履きですから。でもネットでみなさんの意見をうかがっても、ほとんどの人が普段着のままお墓参りに行くようです。

きっちりと礼服を着て行かないといけないのは新盆(初盆)のときです。
新盆(初盆)とは亡くなった方が初めて迎えるお盆のことで、このときばかりは丁寧な供養が必要なため、礼服を切るのが通例みたいです。

 

      

 

★昨日は、 国際免許にいったついでの墓参なのか、墓参ついでの国際免許申請か よく解らぬところだが、兎に角そんなに問題でもなかったようで、よかったと思っているのである。

 

 

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