雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキアーカイブス  私が入社したころの川﨑航空機工業という会社  その4

2019-06-30 07:07:58 | カワサキワールド
 

★ 私は昭和32年(1957)に川崎航空機工業に入社したのだが、新しく明石に単車の一貫生産工場が出来て、オートバイの生産が始まったのが昭和35年、私が初めてできた単車営業に異動したのが昭和36年11月なのである、
 
 それまで会社としても全く未経験分野の民需商品の末端販売は、『上の人たち』先輩たちも未経験の分野だったから、それを担当したのはその当時に入社した若い人たちが殆どだったのである。

 私より上の人たちで言うと、アメリカ市場を開拓した浜脇洋二さん、後Z1を開発した大槻幸雄さん、レースも担当しF21Mのエンジン開発の安藤佶郎さん生産関係を推進された中村治道、髙橋鐵郎、川崎芳夫さんなどだが、
むしろ、私より後の33年度入社の田崎雅元・稲村暁一、34年の北村敏、35年は百合草・武本・種子島、上月くんなど名前が書ききれないほど多数、36年は野田浩志、佐伯武彦、37年は前田、小池くんなど、38年の井川くんと続くのである。

カワサキの創生期の時代を引っ張った人たちとはこんな入社早々の若手だったのである。

 特に昭和38年(1963)頃からの海外市場の現地に赴いたのは、すべてと言ってもいい『若手諸君』だったのである。
 そんな若手に任さねばならなかったのは、事業の事情から言って『仕方がなかった』のだと思うが、任された若手もよくやったものである。


 当時の川崎航空機工業自体が若い会社で、全軍の指揮をとられた岩城良三本部長も今で言うなら部長クラスの年齢だし、技術の山田熈明、営業の苧野豊秋さんなども新人課長であった時代なのである。

 そんな経験をしたものだから、私自身は『人間は年と共に成長する』などはウソだと思っていて、人間20歳になれば既に何でもできる判断力も実行力も身についているのだと思っている。
昔の戦国武将の活躍がそうだし、川崎航空機時代の若手も、それに負けない活躍をしたのである。


  
★当時はカワサキも4輪の開発も手掛けていて、もう殆どできていたのに、当時の川崎重工や川崎製鉄の『グループのトップ層の反対』で陽の目を見なかったのだが、これが昭和35年頃の話で『4輪がダメなら二輪』ということになったのかも知れない。この4輪の4サイクルエンジン開発を担当したのが昭和33年入社の稲村暁一さんなのである。


  



★山田淳一さんが纏めてくれた記事には、このほかにこんな源平芸能合戦や、当時のレース関連のことも入っているので、ご関心のある方はご一読を。
こんな感じのオモシロい自由な雰囲気の会社で、こんなことを担当してたのが、入社して間もない私だったのである。












★ それにしても『よくやったな』と思う。
 当時は二輪メーカーは100社以上もあって、大企業の三菱・富士重・トーハツ・BSなどもいたのだが、浜松のホンダ・スズキ・ヤマハの特に営業面でのスピードに大企業はついて行けずにみんな脱落して結局『カワサキ』だけが残ったのである。
カワサキが残れたのは『第1線の営業を川崎航空機の人がやらなかったからだ』と私は思っていて、それはほぼ『間違いない』のである。

 最初は国内市場だけで『カワサキ自販』が担当したが、その時のトップは川航の専務さんだったが、『従業員は全てメイハツ・メグロの人』でスタートしたのである。

 海外のアメリカ市場は、濱脇洋二さんが旗を振られたのだが、徹底した現地主義で実際の経営をやったのは『二輪知識の豊富なのアメリカ人たち』なのである。

今回のアーカイブスも今は12人の日本人が語っているが、次は二人のアメリカ人が『アメリカ市場でのカワサキの歴史』を語るようである。

 そしてヨーロッパ市場の開拓に乗り出したのは10年もあとのことだが、ヨーロッパを開拓したのは、メグロ出身の私より幾つか下の『内田道男』さんなのである。




  


 これは1988年10月に『カワサキファクトリーチーム25周年を記念』して私が主宰したOB会なのだが、当時の現役たちも参加しているのである。

25年前と言えば1963年・昭和38年のことだから、二輪事業がスタートしてすぐの時代なのである。

この1列目に座られている方が、『カワサキの二輪事業の推進者』だと言っていい。
 真ん中に西海義治さんを挟んで左に山田熙明、右に髙橋鐵郎・苧野豊秋・中村治道・大槻幸雄さんと続いていて、左側にはメグロから来られた糠谷さん松尾勇さん、
さらに第二列目には私の横が田崎雅元さん、平井稔男さんもいるし、3列目には北村敏さんも武本さんもいる。

 『カワサキアーカイブス』を創るのが少し遅かった。
 この方たちがご存命の頃に創ればいろんなお話が聞けたはずである。
 でも今回のアーカイブスでも、いま12名の方が語られているというのだが、この写真の中からも大槻・糠谷・田崎・私と4人の方が語られているし、この会には欠席の百合草三佐雄さんも12人の中に入っているようなので、当時のレース関係者は、その後のカワサキの二輪事業の中枢を担ったと言ってもいいのである。

 この写真、ライダーたちも、安良岡健・山本隆・歳森康師・金谷秀夫・星野一義・清原明彦などなど有名人がいっぱいなのである。
 
 みんな川崎航空機工業時代を生きた人たちなのである。

川崎航空機工業という会社、その後の川崎重工業とはちょっと違った自由な雰囲気のあった『オモシロい懐かしい会社』だったし、そこで働けたこと、仲間たちに出会えたことが、今の私に繋がっていると思っている。
 
 『私が入社したころの川﨑航空機工業という会社
 4回続けての掲載だったが、コレで一応終わりにしようと思っている。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 






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カワサキアーカイブス 私が入社したころの川崎航空機工業という会社  その3

2019-06-29 05:34:05 | カワサキワールド


★昭和36年当時、カワサキに初めて単車営業課が出来て、私が異動したころの話である。
 それまではエンジンだけを造っていたカワサキが明石に一貫生産工場を造ってオートバイの生産を始めたのである。
 当時の川崎航空機工業でも初めてのことで、『造る』のは兎も角、『末端に完成品売る』という経験など全くない時代のことなのである。

 当時はトヨタもトヨタ自販とトヨタ自工があって、それを真似たのかカワサキも『カワサキ自販』を造ってその社長は川崎航空機の専務が兼務したりしていたのだが、従業員は旧メイハツやメグロの人ばかりで、その会社に単車を売る営業を私が担当していたのである。
 次項でちょっと紹介するが、その頃カワサキも4輪車の開発をやっていて、Zのエンジンを担当した稲村暁一さんは、そんな4輪のエンジン開発を担当していたのである。

 まずはこの時期の話、読んでみてください。




 
 







★当時のカワサキ自販の総務課長兼広告宣伝課長をしていた『小野田滋郎』さんは私が現役時代出会った人の中で『最高に凄い人』だった。 
 旧い私のブログの一文に小野田さんのこと、こんな風に書いている。

  




カワサキのレース活動は『青野ヶ原モトクロス』のB8で始まったというのが定説だが、実はもっと前のB7の時代にカワサキ自販で小野田滋郎さんがヤマハから三橋実を引っこ抜いて始めているのである。
 三橋実は、日本でのはじめての鈴鹿サーキットであった本格的なロードレースの250㏄のチャンピオン(ヤマハ)なのである。
 彼が厚木に創った『カワサキコンバット』には安良岡健なども参加したし、あの星野一義もそこからレースを始めているのである。

こんな話を知ってる人は、カワサキの中でも今ではホントに少ない。
明石のカワサキの中では、井出哲哉さんがこのB7のモトクロスには個人的に絡んでおられるのである。
 このB7に乗ったライダーが三吉一行、不思議なことに若い頃の本橋さん(ヤマハ)も乗ったことがあるとか、これはご本人から聞いた話である。

                 (つづく)

 
 
 
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カワサキアーカイブス 私が入社したころの川﨑航空機工業という会社  その2

2019-06-28 05:49:27 | カワサキワールド


★続きもモノの 『私が入社したころの川﨑航空工業という会社』 第2話である。

 3ページ、4ページ目は文章ばかりだが、ここにご紹介するので、まずその文章をお読みになってみてください。

  
 




★ざっと、こんな話なのである。
 私は昭和32年(1957)入社なのだが、最初は財産課に配属されて昭和36年11月に新しくできた単車営業課に異動するまでの約4年間の話なのである。

 私が入社した時の給料は12000円で、考えられないほど安いのだが、日本のその当時はそんなレベルだったのである。
まだまだ貧しくて、会社の机や椅子や自転車なども、今では考えられないほど皆さん『欲しがる』ので、新人ながらその分配権を持っていた私は、明石工場全体に結構『顔を売っていた』オモシロい時代だったのである。

ここでは、私が入社してすぐ配属された『財産課の償却計算』の話が主題になっている。まだこのころには日本にはIBMという会社もない時代なのである。

私自身は財産課で大量の工具器具備品の償却計算を担当していて、その償却計算に掛かる時間が『大変』だったのである。
なぜ、私が工具器具備品の担当になったのかというと、これは財産課の先輩たちに『はめられた』かも知れないのである。 
新人社員が入ってきたということで、担当分けをしようと仰って、財産課には土地建物から機械器具などいろいろムツカシイ分野もあるのだが、土地の所有権の問題や機械の処分など専門知識がいるムツカシイ分野よりは『机や椅子や自転車なら解るだろう』と言われて、私の担当は『工具器具備品と車輌運搬具』となったのである。
確かに、その分野はそんなにムツカシクはないのだが、償却計算だけは、その数が何倍もあって、1年中計算機を回し続けないとできないほどの量なのである。
 そんなことから『償却計算の機械化』をそれもIBMを使ってやろうというような『それたこと』に挑戦したのだが、新人でも好きなことを自由にやれる『会社の雰囲』があって、新人の私が『IBMでの償却計算の機械化』に取り組んだのが入社2年目のことなのである。

そのための『品名のコード化』などを本社も岐阜工場も含めて大掛かりでやったので2年程掛かったのだが、なんとか完成したのである。
そんな償却計算の機械化が完成すると財産課に計算する人間など不要になったので、私は新しく事業化された『単車事業』の新設された『単車営業課』に異動することになったのである。 

★従来は明石工場ではジェットエンジンと発動機の小型エンジンを扱っていたのだが、昭和35年度(1960)に明石工場に単車の一貫生産の工場を建設して『カワサキの単車事業』がスタートするのである。

 その生産工場に移ってきた人たちはその殆どがジェットエンジン工場からで、私がその後関係の深かった苧野豊秋髙橋鐵郎・大槻幸雄・田崎雅元さんたちはみんなジェットエンジンから来た人たちで、カワサキの生産管理システムなどは当時のアメリカの新しいシステムが採用されたりして、部品ナンバーの取り方一つにしても、当時の日本の最先端を行っていたのだが、オートバイを造ったり、それを売ったりするのは初めての経験で、それはなかなか大変だったのである。

 特に私が異動した新しい単車営業は、先任者など誰もいなくて新人の私が新しいシステムをそれこそゼロから創っていったのだが、性格的に『太平楽』だったので務まったのだと思うのである。

 いよいよ次回から『カワサキの二輪事業』の創生期の話がスタートするのである。
            
                         (つづく)
     
 
 
 
 
                       





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トランプさん、伊丹空港に

2019-06-27 20:12:05 | 発想$感想

★G20に日本を訪れたトランプさん、特別待遇か、一人だけ伊丹空港に降り立った。

 その到着の瞬間をテレビ画面から写真で追っかけた。

    

  大阪上空を飛ぶ 大統領専用機

 


 7時少し前に伊丹空港に着陸




 先に同乗してたスタッフなどは後部のタラップから降りてきて、
 トランプさんは、前方から
 大統領専用車も2台 用意された。
 
 


 雨は殆ど降ってなかったが、傘を指して独りで降りてきた。


 


 出迎えたのは河野外相。





 続いて夫人も、

 


 一瞬、記者たちに挨拶。
 


 専用車2台を含む、長い車列で大阪市内のホテルに向かった。
 G20 の中でも、やはり主役、伊丹空港着はトランプさんだけの特別待遇なのか。

 因みに、安倍さんも伊丹空港着だった。
 大阪市内のホテルまでの距離が、関空よりはだいぶ短い。

 いよいよ明日開幕である。

 
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カワサキアーカイブス 私が入社したころの川崎航空機工業という会社  その1

2019-06-27 05:36:55 | カワサキワールド


★今年の2月にインタビューを受けて、私の『カワサキのアーカイブス』は始まっているのである。
膨大な当時の資料をお渡ししたものだから、それを纏めるのに4ヶ月も掛かっているのだが、その内容は見事に纏まっているのである。

 そんなデイスクの1枚に『古谷錬太郎 関連データー』というのがあって、その中には、私が提供した膨大な資料などが全て収められているのだが、

 
           

 
 
その中の一つに『私の入社したころの川崎航空機工業という会社』 という項目がある。
これは、このプロジェクトの一員としてインタビューアとして活躍された山田淳一さんが、私のブログの中から、『川崎航空機時代』を纏めて集約された労作なのである。
  一番下の資料がそれである。

      
 

★私も読んでみて、これは間違いなく私が書いたものなのだが、こんなに延々と纏めて書いた記憶もなかったので、山田さんにお聞きしたら、私のブログの幾つかの『川崎航空機時代の話』を繋ぎ合わされたようなのである。

 それが結果的には、『川崎航空機工業』という会社がどんな会社だったのか、当時をよく表しているのである。

 私は昭和32年(1957)に川崎航空機に入社したのだが、なかなかオモシロいと思うので、ちょっと連載で、私なりの感想を改めて加えながら纏めてみたいと思っている。

 『カワサキはオモシロい』と感じる方がもしおられたら、川崎航空機という会社がオモシロかったから、そうなったのだと私は思っている。
 
川崎航空機は、戦前からあった歴史のある会社なのだが、戦後軍事産業であったことから中断されてしまって、昭和27年(1952)に再開したのである。
その後、昭和44年(1969)の3社合併で川崎重工業となるまでの17年間存続した会社なのだが『カワサキの単車事業の創生期』は、川崎航空機工業籍の人たちで創り上げられたのである。

 それはどんな人たちで、どんなことをしていたのか?
 どんな会社だったのか? 

 この資料はそう言う意味では『アーカイブス』そのものなのである。

 山田淳一さんが纏めてくれた資料は16ページに亘っているのだが、それらを順次ご紹介しながら、改めて私の感想を加えていきたいと思うのである。
 まずは冒頭の2ページである。


   

★ まず、こんな書き出しで始まっているのである。
この工場は明石の西、『西明石』にあるのだが、私は元々が明石の生まれだし、小学生の頃に、伯父がやってたホテルが当時の川崎航空機の軍人たちの宿舎に徴収されたこともあって、個人的にも関係があったし、当時の川崎航空機のことも聞かされたりはしていたのである。

 どこまで確かなのかはよく解らぬが、多くの明石市民が徴用されていたし、その従業員は10万人などと言われていて、工場の道が広いのはそれくらいの巾がないと通勤に歩けなかったそうである。
 私たちが現役の頃、事務所になっていた建物を通称『二更衣』などと言っていたのだが、これは戦前の『第2更衣室』の呼び名の略で、その一事を見ても、何となく解る気がするのである。

私は財産課に配属されたので入社早々課長に連れられて会社の土地を見て回ったことがあるのだが、間違いなく今の2倍以上あったと思うし、西のほうでは当時の戦後の食糧難で、近くの住民が畑などにしていたりしてたのである。

当時の会社の経営は非常に苦しかったようで、爆撃でやられた工場の鉄骨や、土地や機械などの『売り食い』で繋いでいたりしたのである。

 こちらが2ページ目である。


 
 
 

この記事の写真にあるように工場の中の道幅はこんなに広いのである。
そして、再開された川崎航空機が定期採用者を多く採りだしたのは、私が入社した昭和32年からで、それまでの採用者はそんなに数は多くはなかったのである。

 後、アメリカ市場を開拓された浜脇洋二さんやZ1の開発責任者の大槻幸雄さんや、私と長くレースで一緒だった安藤佶郎さんなどは3年程先輩なのである。

 3年程と頼りないのは、当時のそのレベルの人たちは、旧制や新制大学とややこしかったし、長く私の上司だった髙橋鐵郎さんなどは海軍兵学校から、また大学に行かれたりしていて、上の方の歳はよく解らなかったのである。

 そんな方たちはみんな航空機に憧れて入社された方も多く、私も含めて二輪車など担当するとは全く思っていなかったのである。
 カワサキが少なくとも二輪事業をやってると認識して入社されたのは、昭和35年度以降の方たちだと思ったほうがいい。

 まずはそんな時代で当時は『ジェットエンジン』 と 『発動機の主として小型エンジン』を開発・生産していて、井関農機や、東洋工業やいすゞなどと関係があって、歯車・ミッションの納入などが主だったのである。
 二輪車のエンジンも作ってはいたが、エンジンだけを『メイハツ工業』に出荷していたのである。                   
                            (続く)

 
 
 
 
 
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総合病院 と 健康保険 雑感

2019-06-26 03:38:27 | 発想$感想

★家内の体調の症状について主治医の先生から、北播磨総合医療センターを紹介されて、その検査に先週火曜日に行ってきたのだが、昨日はその結果が解るというので、午後の予約の時間に行ってきた。

 午前中は外来の診察や検査で、午後からは空いているのかと思ったが、そうでもなくて広い駐車場はほぼ満車の状況なのである。

       

 
 少子高齢化の世の中を反映してか、沢山の方が来院されてはいるのだが、多分殆どが検査で、入院治療が必要なような患者さんは少ないように見受けられたのである。

 先週の検査では、血液検査や尿検査などで約2時間ほど掛かって約2000円ちょっとだったから、実質2万円を超えているのである。
 日本の健康保険は高齢者は10%負担だから、これはホントに助かるのだが、逆に言うと安いので安易に病院に行ってしまうキライガある。アメリカで生活している娘一家など見ていると、医療費はめちゃくちゃ高いから、簡単には病院などにはいけないようである。

 そして昨日、1週間後の検査結果を聞きに行ったら、先生の診断だけで、その支払いは70円(実質700円)だったのである。 
これはまたビックリするような安さである。

 
★私の住んでいる三木の近くには、大きな病院がホントに多くて、近いのは5分ほどだし、神戸の西神医療センターでも20分ほど、昨日行った北播磨総合医療センターは時間は30分と一番遠い病院なのである。

利用する側の便利さから言えば、他の病院もあるのだが、近くの町医者が紹介してくださる総合病院は何故かそれぞれ決まっていて、整形外科やあるまち医者は山陽病院だし、皮膚科は西神医療センターで、今の私たち夫婦が掛かっている主治医は北播磨総合医療センター推薦で、夫々繋がりがあるようなのである。

その仕組みは『医療機関』主導で『本人の意思』よりは、どちらかというとお医者さんの言いなりに患者は動いていることは間違いない。

『立派な総合病院』は経費も相当掛かるだろうし、その経営もある意味大変なのかも知れない。その支払い明細を見ても、備え付けの医療器具の検査は結構高くて、お医者さんの診断はめちゃくちゃ安いので、どう考えても総合病院の経営は『検査』で維持されているように思うし、そんな器具を持てない町医者が系列の総合病院を紹介するような『業界ぐるみのシステム』になっているように思うのである。

 実は今回も、さらにあと三つ検査を受けるような指示があったのだが、その中の一つの眼科は『要らない』とお断りしたのである。
 家内の身体の話だから、受けるに越したことはないという考え方もあるのだろうが、若し眼科なら近くの私も掛かったことのある山陽病院のほうが便利だと思ったっだけである。
 今回の検査も、近くの山陽病院がいいと一応は言ったのだが、『総合的な検査をしたいので山陽病院にはすべては揃っていない』と仰るので、そうしたのだが、眼科なら山陽病院にもあるし、症状から言って『素人判断』だが眼科はそんなに急がないと思って言ったのだが、私の申し出を先生は素直に受け入れて下さったのである。

どうしてもその検査がいま必要だというのなら、そんな素人の判断を跳ね返して、『断じて検査を』と仰るはずだから、受けておくほうがbetterだというぐらいのことかなと思ったりするのである。

★日本の健康保険制度はよくできていて、私たちのような高齢者夫婦は10%負担だからホントに助かるのだが、その負担の安さが『自らの判断』をしないようになっていて、うがった見方をすると病院側は簡単で利益の上がる『器具での検査』を勧めるようになっているのでは? と思ったりするのである。

 実は今朝も今から残っている二つの検査を受けるために、北播磨医療総合センターに行くのだが、いずれにしても10%負担の日本の健康保険は大助かりなのだが、少子高齢化で日本の医療費の税金での負担部分の額も増える一方なので、高齢者もそれなりの自己判断が少しは必要ではと思ったりするのである。

 

 
 
 
 
 
 
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関西は今年は梅雨がないのかな

2019-06-25 06:42:54 | 発想$感想


★全国各地では水害なども出ているというのに、

 6月24日、月曜日 今日も関西・特に私の住んでいる三木は青空である。

 今年の梅雨はいつ来るのだろう?

 神戸新聞には、こんな記事が載っていた。
 
  『近畿の梅雨入り、いつ?  「なし」なら56年ぶり』


 

 
   忘れてしまっているが、1963年(昭和38年)には梅雨がなかったようである。

 果たしてどんな状況だったら、『梅雨がなかった』と言えるのか?
 その年、どれくらい雨は降ったのか?
 調べてみたら、最近のネットはなんでも解るのである。

 『1963年・6月の天気』と検索したらこんなのが並んだのである。


 
  6月の前半15日までは、ちょっと雨は降ったようだが、
  

 


 所謂、梅雨入りと言われる時期の6月後半は全く雨は降っていないし、
 



  

   7月にちょっと降っているだけなのである。







★ 確かに、今年はこれに近い。

 これから10日間の天気予報はこんな風に出ているが、『しとしとと降る』鬱陶しい梅雨の雨のような感じでもない。

  

 

いつもは7月になって、大雨になることが多いような気がするのだが、果たしてどんなことになるのだろう。

 いずれにしても、昨今は世界的に『異常気象』のような気がするのだが・・・
 このままでは、水不足になりそうである。


  
 
 
 
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バランス感覚  雑感

2019-06-24 05:32:27 | 発想$感想


★ 人それぞれいろいろだが、知能や体力などの他にそれらを総合した『バランス感覚』みたいなものが、結構大事だなと思っている。

 会社の経営などでも、一番大事なのは『経営のバランス』で短期間の損益結果などよりも『バランスシート』に現れる内容が一番、その会社のいまを表しているのだろう。

 私自身は特に大学では、『いっさい』と言っていいほど勉強はしなかった。
 なぜ? と言われても困るが、勉強する気分になれなかったのである。
 当時はホントに就職難で、大学は『いい会社に就職する』ための手段で、そのためには『優の数』を一つでも多く取るという風潮が強く、どうもそれがイヤで逆に反発したキライがある。

 商科大学なのに『簿記』も採らずに卒業したので『バランスシート』など一切解らなくて、会社に入ってから岩城本部長などに『お前は商大出なのに簿記も解らぬのか』と冷やかされたりしたのである。
最初の営業が東北で、当時は未だ自前の代理店時代だったが、その状況を見ていると『カワサキに協力的で沢山数を売る代理店ほど、その経営が悪化してしまう』のである。

 これは、背伸びして沢山売ると資金繰りが苦しくなり、銀行へのメーカー保証やメーカー借入が発生したりして、『営業内』は黒字でも『営業外の赤字』が大きくて、結局ダメになりメーカーの傘下に入ってしまうことになるのである。
 代理店に限らず、カワサキのメーカーでも『力以上に頑張ったら』すぐ事業部の経営はおかしくなってしまうのである。

 そんなことから『バランスシート』には至極関心があって、私なりに勉強するようになったのである。
 その後も直接、世界の販売会社の経営に関与する機会も多かったのだが、一生懸命努力して沢山売るという営業内よりも、遊んでいても自然に売れる『仕組み・システムの構築』ばかりをやっていて、私の現役時代は一言で言うと『カワサキのブランドイメージ』と『総合的な仕組みの創造』だったのである。

 そんな私自身の独自の『経営のバランスシート』がこれである。

 
 
バランスシート』などややこしくて解らん、という人が多いのだが、それは『貸し方や借り方』などとムツカシイことを言うから解らなくなってしまうので、『単純に右と左』で、それが同じ数字でバランスするようにできていると思えばいいのである。

 私流の説明を技術屋さんの髙橋鐵郎さんや田崎雅元さんらに説明したらすぐ理解されて、田崎さんなど技術屋さんは関心が出来ると勉強するものだから、めちゃ詳しくなってしまうのである。

 左に資産が来て、右にはそれを調達する資金となっていて、『流動資産』は1年の間に現金化されるものが、現金から順番に売掛金や在庫などと並んでいて、1年以内には通常現金化はしない財産物件や土地・建物などは『固定資産』とされているのである。

 右の方の『流動負債』は同じように買掛金や銀行の短期借入金など1年以内に返却しなければならないものから並んでいて『流動資産>流動負債』でないと返済が苦しい即ち資金繰りが悪いということなのである。
 
 そして、右の下の方には、資本金やそれまでの経営で貯まった利益剰余金などの額が表示されていているのである。

 それを図にして表すと上図のようになり、『流動資産の額』が『流動負債の額』の2倍ぐらいあると健全企業だと言われているのだが、日本の企業はなかなかそうはなっていないのである。



★ 普通のバランスシートはそんな説明でいいのだが、『私独自のバランスシート』は、その下に『企業イメージやソフト』の部分をつけていて『いい企業』ほどその部分が大きくて、それはその企業の人の成長とバランスしていると思っているのである。
 
そのために『人を育成』し『カワサキイメージの創造』こそが、数値以上に大事だと思っていたのである。

             

                    

 

私の現役最後の国内のカワサキ販社が具体的にどんな数値だったかというと、

 ● 売上高は年間400億円
 ● バランスシートの総資産は100億円で、年4回転
 ● 資本金は1億2000万円だが・剰余金との合計の自己資本額は35億円
 ● 当時の企業としては珍しく、銀行借入金はゼロ円
 
まあ、ちょっと世の中には珍しいほどの超優良企業だったと言っていいのである。


             

 そんな国内グループの運営はこんな活動方針で、『ケイ・スポーツ・システム』という『遊びのソフト会社』を創って、そこを中心の活動だったのである。
 その結果が台数で言うと7万台を売り、400億円という結構大きな売上高になっていたのである。
  

★こんな当時の話を『カワサキアーカイブス』の中でも語っているのだが、この二つの資料も、今回頂いたカワサキアーカイブスの資料編のなかにあって、当時の川重の大庭浩社長の指示で、川重の関係会社社長会の席上で、川重の全役員と関係会社の社長さんたちに1時間ほど説明した時の資料の一部なのである。

  

 
 世の中にはいろんな業種があるのだが、二輪車ほど『末端のユーザー』と密接に繋がっている、業種は少ないのである。
 
それ故に、ホントに『末端のユーザーの気持ち』を理解する、理屈ではない『想いみたいなバランス感覚』が経営者には必要だなと思っている。 

 『カワサキアーカイブス』の中に、『私独自のバランスシート』を見つけての私自身の『バランス感覚・雑感』なのである。 


 
 
 
 
 

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今年はバラが上手く育った

2019-06-23 07:00:24 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚


★今年のばらのシーズンはもう終わりに近づいているのだが、今年は久しぶりに我が家のバラがちゃんと咲いた。

 


 

 
 冬の時期から、ちゃんと肥料をやって世話をしたので、薔薇は裏切らないのである。

 そして、この秋も、来年も確り育つ保証のような、『シュート』がいま殆どの株に見られるのである。

 『シュート』とは 薔薇の根元から勢いよく伸びるこんな枝のことを言う。


   

 これは蔓バラのシュートだが、どんどん伸びて、伸びるものは5メートルにもなり、来年はその枝に花をいっぱい咲かせるのである。

  10日ほどでこんなに延びた。

   

  こんな枝をヨコに寝かせて好きなように誘引したら、いっぱいの花を咲かせるのである。

  木ばらも根元から、こんなシュート出てきている。
 こちらは、適当に伸びたところで、先を指で切ってやると、秋にはいっぱいの枝を出して、秋バラを咲かせるし、来年の主枝となるのである。
  
  
 
 放っておくと、こんな『シュート』などは現れず、花は咲かせるけれど、枝が上にばかり伸びてしまうのである。

 薔薇をやり出してもう10年以上にもなるのだが、薔薇は立派な枝を育てたら、立派な花が自然に咲くということが解ってきた。

 一番大事なのは枝で、その元になる元気な『シュート』が出ることが一番で、放っておくと『シュート』など絶対に現れないのである。

 今年の秋も、来年も叉楽しみなことである。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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私のアーカイブス  雑感

2019-06-22 06:17:08 | 自分史


★ いま、カワサキで『カワサキアーカイブス』の製作が進んでいることは昨日のブログでもアップした。


    

 
そんな中に私にインタビューと共に、こんな『関連データのデイスク』も送られてきたのである。

    
    

 
私はデイスクなど使ったりするのは初めてみたいなもので、送られてきたデイスクの中身を見てびっくり仰天してしまったのである。
この1枚のデイスクの中に私が持っていたこんな10数冊のファイルの関連データーすべてが入っているのである。
 


今の世の中はやはりすごいなと思った。 
こんな大量のデーターがたった1枚のデイスクの中に納まるのである。
 それも、こんな風にきっちりと整理をされて納まっているのである。

  

 平成5年以降は省略しているが、それは平成9年まで続いているのである。
 

そんなこととは知らずに、昨日は思い切って、ファイルの中の書類の殆どを破棄してこんな3冊に纏めてしまったのだが、このデイスクには、すべてのファイルのデーターがいまも残されているのである。

 
 


★これらのファイルは、昭和50年に国内カワ販から10年ぶりに川崎重工業に復帰して以降の資料が全て時系列に整理されて残っていると言っていい。
それも結構詳しく具体的に残っていて、例えばすぐに担当した『開発途上国プロジェクト』だけでこれくらいあって、それがどのように進められたのか具体的に解るようになっている。

  

 
さらにそれらの各月の動向が解るように、このように纏められていて、ここには『昭和50年10月の1ヶ月』が記録されているのでこの表を見ればその月の大体の動きは解るのである。

  
     

 
どんな資料が入っているのか、ご紹介すると、これは、その小型車プロジェクトの蹴りだしの『私の自筆の計画書』で、当時の塚本本部長に提出し即認可を頂いたものなのである。
 こんな項目で22ページに纏められ、

 


 こんな書き出しで、始まっている。
 この内容は今でもはっきり覚えている私の労作と言っていい。
 これがカワサキのCKD事業の本格的なスタートとなるのである。

  
  


★ 私は書類の整理などは結構得意分野で、いろんな資料を2段のファイリングキャビネットに入る範囲で、常に大事なものから整理をして持っていたのだが、それを川崎重工業を退任する最後の5ヶ月ほどは、特にすることもなかったので、その期間にこのように纏めて、さらに昭和32年の入社以来、昭和50年までの資料を持っていない期間は、自分の日記から時系列に纏めているので、結果的には入社以来退職までの記録が、年・月日ごとに解るようになっているのである。

 今回、会社がこのように1枚のデイスクに集約して頂いたので、カワサキの二輪事業の全般がほぼ40年の間、解るようになっていると言ってもいい。
 こんな記録は川崎重工業のどなたも多分お持ちでないので、カワサキにとっても『私自身』にとっても、非常に貴重で、今回こんなデイスクの纏め上げて頂いた、『アーカイブ担当の現役諸君』に感謝なのである。
 結構な量だったので、2月から約4ヶ月の作業だったようである。


★ざっとは目を通したのだが、
私自身のマーケッテング最後の課題、当時国内市場に与えられていた『7万台達成目標』が実現した平成3年6月の様子がどんなことだったのか?

  この数値はコンピューターに入ってる販売台数を『年間移動値』で追っかけていて、この記録によると平成3年6月1日・11時55分に達成しているのである。


  

 
この大目標達成に対して、当時の国内責任者として即刻、全軍に達成の報告とその努力のお礼を申し上げている。

   

 

この成果に対して当時のカワ販従業員全員に夏のボーナスに4万円を上積みする許可を当時の髙橋鐵郎社長に申請し、認可されたし、こんな記念のマグカップを創ってカワ販は勿論川重関係各位にもお配りしたのである。

      

 
当時川崎重工業社長になられていた前単車事業本部長大庭浩社長にもこんな一文と共に『記念のマグカップ』をお贈りしているのである。
 実は、これは覚えてはいなかったのだが、今回の資料を見ていたら、こんな大庭さん宛のレターが出てきたのである。

    

★ この纏めの資料は、 『DIARY・会議・方針・備考』などに分かれているのだが、『DIARY』にはちょっとだけ個人的なことも記録されていて、 このころの体重は76キロだったとか、 23日には長男の大治が『9月28日の自分の誕生日に結婚する』などと言ってきているのである。 
 当時は家や子供のことは、任せきりだったから、何にも口をはさんだりはしていないのである。 息子は仲人も立てないというし、実は9月28日は仏滅だったのだが、本人は自分の誕生日だからというので、何も言わずにOKしているのである。
 仲人もいない仏滅の結婚式は、当然ながら一つだけでホテルのサービスは抜群だったし、今となっては誕生日なので、みんなよく覚えていて、『よかったな』と思っている。

 こんな小さなことも、こんな記録があるから、思い出したりするのである。 
最近つくづく思うのだが、『人間の記憶』など全くアテにならなくて、その殆どをちゃんとは覚えていないのである。
 その点、日記とかこんな記録が残っていれば、自分の人生の想い出になっていいなと思っている。
 折角、立派に纏めて頂いたので、暇に任せて『アーカイブの資料編』読み返してみたいと思っている。
  
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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万年筆 雑感

2019-06-21 05:16:30 | 発想$感想

★ 今どき万年筆で字を書かれる人はあまりいないのかも知れない。
 かくいう私も、そんなにしょっちゅう使っている訳ではないのだが、毎日書く日記は万年筆で書いている。

 そんな日記も20歳の頃から60年以上も書き続けているので、結構な字数を書いていることになるので、万年筆も沢山持っていて、今は3本を使い分けていたのだが、ふともう一本『新しいものを』と衝動買いで購入したのである。

   

  
    一番手前が新しく買ったもので、『細字』となっていた。
 今までは『太字』か『中字』のものばかりで『細字』は初めてなのである。

 書いてみるとこんな感じで、細字は当たり前だがやはり細い。
 一番左が新しい万年筆での文字である。


   
 

 細字は手紙やサインなどには向かないかと思うが、日記に書くにはそんなに悪くはないと思ったのと、何となく今まで使っている万年筆のペン先が痛んでいるように感じたから『新しいモノ』をと思ったのである。

 多分間違いなく万年筆を買うのはこれが最後になるだろう。


★今までは、デパートの万年筆売り場で、ちゃんと確かめて買っていたのだが、今回はネットで見て、適当な値段のものを選んで Amazonで購入したのである。

 万年筆を購入しようと思ってから気が付いたのだが、ネットの中には結構『万年筆の広告』が意外に沢山目につくのである。

 こんなネットのニュースの中に、こんな風に広告されているのを見ると、未だ需要はあるのかなと思ったりした。



             
  
  
  


 ホントに不思議なほど、『万年筆の広告』が載っているのである。


       



 ところで、あなたは万年筆お使いですか?



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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カワサキアーカイブス と 私のアーカイブス

2019-06-20 16:48:11 | カワサキ単車の昔話

★ いまカワサキでカワサキの二輪事業のアーカイブスを作成中で、私もその一人に選ばれて、今年の2月にインタビューを受けたのだが、この度編集完成して、家まで届けて頂いたのである。


   
 
 2時間ほどのインタビューだったが、それを1時間10分ほどに纏められていて、なかなかオモシロい内容に出来上がっている。

 私自身は昭和36年(1966)の単車事業スタートから平成9年(1997)までの31年間を一貫してカワサキ二輪事業に従事していたので、自分史みたいなところもあるのである。

 その間、結構事業の真ん中にいたこともあって、この30年間のカワサキの出来事をこんな資料に纏めて持っていて、このインタビューもこんな資料に基づいたものになっているのである。

   


 今回のアーカイブスの担当部門の方が、『この資料』を貸して欲しいと言われたので、2月からお貸ししていたのだが、それも昨日戻ってきたのである。
 こんな資料は多分どなたもお持ちでないので、貴重なのである。 今回、その中から必要なものは会社として残されたようなので、実はホッとしているのである。

 これは勿論私にとっても貴重なのだが、量が多すぎて今後多分処理に困るだろうとも思っていたので、この際整理して、3冊に纏めてしまったのである。
 現役の時からずっと思っているのだが、『整理ができない』人は資料を持ちすぎて『捨てない』から、結局は『整理ができない』のである。

 今回、アーカイブズも出来たので、この3冊に整理してしまった。

  


 従来の資料の現物ももちろんあるのだが、このように年度ごと、月毎、日付ごとに既に整理してあったので、それだけに纏めたら、ちょうど3冊のファイルに納まったのである。
 コレで昭和32年4月1日の入社当日から平成9年の現役最後の日までの31年間が、日単位で見ることが出来るので、これはカワサキの二輪事業の歴史であると同時に、私の『自分史』の一部だと思っている。

 こんな資料に纏めることが出来たのは、20歳の大学2回生の時にスタートした日記が、86歳の今も続いているので、この資料も日記をベースにチェックしてあるので、まず間違いはないはずだと思っている。

★ ところで『カワサキアーカイブス』の製作は昨年スタートして未だ途中のようで、今のところ田崎雅元さん・大槻幸雄さん・稲村暁一さん・川崎芳夫さん、百合草三佐雄さんなど私が今でも親しくお付き合いのある方の他、10人ちょっとのインタビューが終わってはいるようだが、まだまだ続いて行くのだと思う。
 
 それぞれの方たちがそれぞれの想いで『カワサキを語られる』ので非常にユニークなものに仕上がるだろう。インタビューの時間も1時間近くに編集されているようで、それなりの独特なものに仕上がっていくはずである。

 非常にユニークな取り組みで、インタビューをされている方の人選を見ても、別に職位には拘っていないようである。
 如何にもカワサキらしい取り組み方で、なかなかいいなと思っているのである。
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慶応大学SFCのAO入試  雑感

2019-06-20 04:53:11 | 発想$感想
★『慶応SFCのAO入試』という記事が載っていた。

 『慶応SFC』とは慶応大学湘南藤沢キャンパスのことで、
 『AO入試』とは「アドミッションズ・オフィス入試」の略であり、本来であれば、学力テストを基に合否を判断するのだが、AO入試制度では、「面接」+「論文」などを基に合否の判断材料としているのだという。

   

 
そんなことは一切知らなかったが、息子の長男、古谷仁も、娘の長男、門野力也も二人とも『慶応SFCの卒業』なのである。
二人とも、ちょっと変わっていて、『自分の好きなこと』ばかりやっている個性派だが、AO入試だったのか、普通の入試だったのかは、聞いていないのだが、記事の『AO入試』にも興味を持ったのである。


★ 結構長い詳しい記事なのだが、抜粋するとこんなことが書かれている。

・・・・・学力試験がなく書類選考と面接のみで合否を決める「AO入試」。日本の大学で初めて導入したのは、慶應義塾湘南藤沢キャンパスだ。同大の村井純教授は、「導入から30年がたち、“上澄みの優秀な人材”をかなり獲得できている」と胸を張る。
・・・・「AO入試の子はやりたいことがあって入ってきているので、一般入試生や内部生よりも早くから自分のテーマに向かって動けるし、得意分野も明確です。・・・・」
・・・・・・「ハーバード大学を蹴って、SFCに来るような子がいます。そんなわけないって思うでしょう。でも、いるんです。」
「本当はね、すべてをAOでとりたいくらいなんです」

 と言われているので、すべてが『AO入試』ではないのかも知れないが、
そのAO入試で重視するのは『志願書』と、そして何よりも面接だという。
話していれば好奇心の有無、意欲が本物なのかが解るし、「コミュニケーション能力」も見られている。

★確かに中学・高校などで習う学力も必要だが、人間もっと必要なものは幾らでもほかにあるような気がする。

私自身の学生時代を振り返ってみると、中学生までは猛烈に勉強したし、成績もよかったが、高校以上では全く勉強はしなかったのである。専門的な知識などいつでも学べると思ったし、それよりも青春時代にしかできない『野球』のほうが大事だと思っていたりした。
そんあことなので、今のムツカシイ大学入試は全く通る自信はないのだが、こんな『AO入試』なら、今受けても『100%合格』するだろうと思ったりするので、この『AO入試』に関心を持ったりしたのである。

 『コミユニケーション能力』 などは特に自信のある分野で、これなどは人が持って生まれた天性のようなものだと思っている。

 孫たちの長男二人は、どちらも個性豊かで、特にストリート・ダンスをやっている古谷仁などの生き方を見ていると、まさに慶応SFCの卒業生らしいなと思ったりするのである。

      
 

果たして、そんな大学の教育方針がよかったのかどうかは、今後の本人の成長に掛かっているのだが『大学の教育方針』に沿っているようなので何となく安心したような次第なのである。


 
 










 
 
                  
 
           



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北播磨総合医療センター  雑感

2019-06-19 07:04:26 | 発想$感想
★昨日は家内が北播磨総合医療センターで幾つかの検査をするというので行ってきた。
 近くの内科で夫婦とも血圧の薬など貰っているのだが、特にどうということはないと思うのだが、家内が最近の症状をいろいろ言ったら主治医の先生が『一度検査を』と紹介状を書いて下さって、行くことになったのである。

 北播磨総合医療センターは私も一度検査をして貰ったことはあるのだが、家内は初診で、今回は付き添いみたいなものだから、いろいろ病院のシステムなど見せて貰って来たのである。

 大きな病院は『時間がかかる』ということになっているが、今回は10時の予約で、『9時半に来てください』と言われていたので、その時間に到着し、11時には病院を出たので、初診の手続きなどを含めて、ちょうど1時間半で終わったのである。

 

 
小野市の高台にこんな立派な病院が建っていて、周囲は見渡す限りの駐車場である。 この写真をご覧になったらどれくらい広いかがお解り頂けると思うが、この駐車場が満杯になるほどのお客が訪れているので、それは相当な数である。
  

 
最近の病院だから、こんなに沢山の客もスムースに捌けるようなシステムが採られていて、ホントにスムースなのである。

 まずは受付で初診のカードなどと共に、今回の診察のための小さな器具を持たされて、その番号が188番、呼び出しや指示が全てその器具を通じて出されるのである。


まずは9番の外来診療受付に行き、そこ体重・血圧などを図るように指示されて、担当の女性の方の問診がある。
   

 
暫く待っていると、すぐ横にあるこんな部屋に入るように指示がある。
その部屋には幾つもの小部屋があってそこにここの科の医師が部屋の数だけおられるようで、そこで担当医の診察なのである。
  


家内の担当の先生の部屋はコレで、診察はものの5分で終わったのである。



 診察の結果の指示は、尿と血液検査をするように言われて、これはちょうど対面に各科の診察を受けた人たちが全てここで検査を受けるようである。
 その時間が30分ほど掛かるというので、その間全体を見て回ったのである。

 外来の診察室は各科に分かれていて1番から29番まで、1階と2階に分かれているが、システムは全て一緒のようである。

  


 大きな病院だから、担当科が29もあるということのようだが、それでも産婦人科はなかったように思う。

 そして最後の支払いも、持たされた188番の器具に指示が来て、計算の結果を支払うように指示が出て、器械で支払って終わりである。





★一連の作業を見ていてキーは、最初の『外来診療受付』だと思った。ここで女性の担当の方が、診察前の前処理をすべて終わらせてしまうので、先生の診断は非常に短時間で終わるのだと思う。
 そういう意味では工場のような流れ作業なのである。
 
そのベースになっているのは、患者各自に手渡されている『小さな器具』で、そこにすべての指示が出されているのである。
 病院も、工場のような総合システムの上に成り立ってるなと思った。
今回は、付き添いだったので、こんな仕組みばかりに関心があったのである。

 肝心の家内の診断の結果は来週火曜日の午後に聞きに行くことになっているのだが、そんなに『大したこと』にはならないだろうと、タカをくくっているのだが、果たしてどうなるのだろうか?

周囲に来られていた高齢者の患者さんたちと比べたら、見た目だけは『充分大丈夫』なので、返ってそれで自信を持って戻ってきた次第である。

 いずれにしても二人とも80台だし、何があってもおかしくない年だから、何かがあっても、それは『運次第』だと私は割り切っているそんな『太平楽な性分』なのである。


 
 

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五葉の松の根

2019-06-18 06:40:59 | 発想$感想
★『五葉の松が枯れたので』というブログをアップしたのは5月の末のことだった。

こんな結構立派な松だったのだが、


   

 

 その根っこはこんな感じで、原因は白アリだったのである。

   

   
   
  

 
その根っこを半月掛かって皮をむき、ペーパーを何度も掛けて、水性ウレタンニスで仕上げたら、『こんな置物風』に変身した。

 時間は掛かったが、思った以上に立派に見える。

  

  
  
 

庭を作ってくれた庭師の藤本さんに、請求額にちょっとお礼を包んだら、それ以上に立派な五葉の松を贈ってくれたのである。


  

 

★家に来た時も既に立派な盆栽風の松だったが、家に来てからも40年経つので、ひょっとしたら樹齢は百年ぐらいだったかも知れない。

 シロアリにやられて残念だったが、こんな風にしておけば、いつまでも眺めていることは出来るのである。

 いろんな方向から、いろんな形に見えてオモシロい。
 さて、どこに置けばいいのかな?


 
 
 
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