雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

教育界と消費者金融

2006-10-31 09:35:10 | 発想$感想
高校必修科目の履修問題が大きな話題となっているが、今朝は、消費者金融の大幅赤字がニュースになっている。

この二つのニュースは、日本の社会の根底にある共通の体質の問題で、基本的には同じ問題だと思う。

どちらも決められたことを、「ちゃんと守らなかった」ために生じた問題である。
そして、表に問題として現れなかったら、いつまでも続けられたと思う。

高校の必修科目問題は、あえて説明する必要もないと思うが、消費者金融の話は、利息制限法の上限を超える「灰色金利」の今後の返還要求に備えて、引当金を積み増したため、各社が赤字になったというのである。

その積み増し額が、半端な額ではない。
アコム3600億円、アイフル2300億円、プロミス2100億円である。
こんなに大きな額を何年にも亘って、ごまかしてきたということである。

この二つの業界だけではなく、先日までは保険業界でも同質の問題が指摘された。

見つからなければ、法の網の目をくぐって不当な利益を得たい。横の誰もがやっている。みんなで渡れば怖くないの日本的な考え方である。

日本は決められたことを「ちゃんと守らない」のが常識?になっているが、例えばアメリカではこんなことが「ちゃんと守られていて」驚いたことがある。

アメリカでも、通勤時間帯の高速道路は渋滞する。その緩和対策として、二人以上での相乗りが推奨され、二人以上乗っている車だけが追い越しレーンを走ることが出来る。

どんなに混んでいても、一人の車は追い越しレーンには入れない。これは当然のこととして守られている。

二人以上乗っている車が追い越しレーンに入ることが出来るのは、どこからでもいいのではなく、入れる場所が決められている。
そこまでは、たとえ二人以上乗っていても渋滞したレーンを走るのである。

直ぐ横に空いている追い越しレーンがあり、障害物は何もなくても、「決められた入れる場所」を守る。

若し、日本で同じルールがあったとき、そのような光景はとても想像出来ない。

アメリカでは、フェアは生き方の基本である。
ゴマカシに対しては、べらぼうな罰則規定がある。

日本もゴマカシて得をする社会から、「決められたことはちゃんと守る」方向への転換を考え、実行に移す時期に来ていると思うのだが。
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町内バス旅行と修学旅行

2006-10-30 09:03:37 | 発想$感想
町内のバス旅行「世界文化遺産の旅」で秋の奈良を一日楽しんだ。

世界遺産に指定されている法隆寺、春日大社、東大寺、平城宮跡など、1000年以上も前に建てられた歴史的遺産を観て、あらためて昔の人たちの素晴らしさを実感した。

旧く歴史があるということは、それだけで素晴らしいことである。

沢山のアメリカからのツアー客にも出会ったが、アメリカがどうしても追いつけない歴史の重みが、日本にはあることを誇りに思いたいと、ふと思った。

昼食後、買い物の時間に、案内をして貰った人と雑談を楽しんだ。

「奈良の鹿は1500頭ぐらいいるんですよ。すべて、自然のままです。戦後は食糧難で、減ったときもありました。今は年に何十頭かは交通事故にあったりしますが、このところ1500頭で安定しています。」

修学旅行で沢山の修学旅行生が来ていた。
「最近は、修学旅行が少なくなりました。みんな、海外などに行くようになってね。」
「私は、修学旅行の経験はないんです。」「私もそうです。」「お幾つですか。」「昭和8年生まれです。」

私と一緒である。
小学校6年のときは、昭和20年戦時中で、修学旅行の発想すらなかった。
中学3年のときは、戦後の食糧難のころで、実施できる環境でなかった。
高校のときは、あったのだが、野球部の遠征で参加しなかった。

考えてみると、面白い激動の時代を生きてきたのだと思う。
有史以来、最も変った70年であったのかも知れない。
今の修学旅行に来ている子供たちは、どんな時代を生きるのだろうか。

1300年も変らぬ姿を保っている世界遺産の建物を見ながら、ふとそんなことを思った町内のバス旅行であった。
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よかたん家族風呂騒動

2006-10-29 09:09:18 | みっきぃふるさとふれあい公園
ブログをはじめて1ヶ月ちょっとになる。

その中で、この家族風呂騒動は一番興味を覚えたし、ブログの威力というか、ネットワークのもつ素晴らしさを実感した。

よかたん温泉の家族風呂に関して、よかたんのある三木市に対し、兵庫県が昭和39年に制定された6歳以上の混浴禁止の条例をたてに、問題を提起したことで、この問題は始まるのである。

新聞などでも報道されたので、ご存知の方も多いと思うが、ブログを通じてのやりとりが面白かった。

「よかたん 家族風呂」 で検索すると簡単にブログを見つけられるので、詳しく知りたい方は検索してみて下さい。


これらのブログやこの問題の中で、興味を覚えたこと、感想などを列挙します。


世の中の事柄は、殆どの場合、賛否が分かれるのが普通である。
ところがこの問題に対して、兵庫県の見解に賛同する意見が皆無なのである。
これは本当に珍しいことである。

ブログには、コメントとかトラックバックなるものがあることも、この1ヶ月の間で始めて知った、私にとっては新しい知識である。
まともな議論が展開され、取り上げ方も真面目であった。
このような展開が出来るブログのシステムに改めて関心を覚えた。

これらの中には、兵庫県は勿論、三木市長も一般の方々も自由に登場し、自由に意見を述べている。
今、こんな風に書いているのは、私も参加出来ているのかも知れない。
今後、週刊誌なども参加しそうな動きである。

家族風呂が駄目だと兵庫県がいうそもそもの根底には、混浴が風紀を乱すところからきているのだが。

混浴はある意味では、日本の文化であり、日本人は混浴に対し寛容というか一種のあこがれを持っている。
混浴ができる東北や北海道の温泉が今なお人気がある所以だと思う。

家族が一緒に風呂に入ることは、一般の日本人にとっては、普通、ほほえましく、美しい光景と映るのだと思う。

美しいという言葉には、景観などの外面的な美しさとともに、人の心の美しさなど内面的なことも意味している。
辞書にはそのように記述されている、日本的な言葉である。

ご存知の方は少ないと思うが、兵庫県がここ数年前から、県のビジョンとして、「美しい兵庫」を掲げ、目指しているのである。

また、よかたん温泉のある三木市は、「日本一美しいまち三木」をめざし、「スローライフなまちづくり」を提言している。
家族風呂は、そんな、めざす方向を後押ししているとも言える。

「美しい兵庫」を目指す県当局も、出来る限り早く、条例改正をおこなってはと思うのだが。

どちらのほうが「より美しい」のかは、既に決着がついているのである。




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新庄剛志の夢

2006-10-28 06:34:26 | 発想$感想

新庄剛志の夢は今回も実現した。

阪神の提示した複数年、10億円を越す契約をけって、たった2000万円の契約金で海を渡り大リーグでのプレイを選択した新庄を見たとき、このような行動を夢とよぶのだと思った。

普通の人には決して出来ない、難しい決断であったと思う。

大リーグでの何年間は、そんなに特筆できる成果ではなかったが、新庄らしいプレイを披露して、大リーグでプレイするという夢は100%以上実現して帰国した。

札幌に移動するパ、リーグの日ハムを選んだのも新庄らしいし、そのとき彼が宣言した夢は次のようなものであった。

日本一になる。
札幌ドームを満員にする。

特に、札幌ドームを満員にするという夢は、新庄の野球での努力だけでなく、チームメイトや球団経営スタッフの理解と協力がなくては実現しないものだと思う。

それは本当に難しい夢というより、ビジョンというべき高い目標と思う。

それを可能にしたのは新庄剛志のもつ独特のムードと人柄であろう。

人はみな夢を持って生きたいと思う。
夢が実現することは難しい。だから夢とよぶのだと思う

新庄はまた新しい夢に向かって進むだろう。
彼の夢は周囲の人たちも楽しくさせる。

新庄剛志の新しい夢にまた期待したい。

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札幌は変わった

2006-10-27 08:58:00 | スポーツ
札幌の皆さん、北海道の皆さん優勝おめでとう。

日ハムの44年ぶりの優勝であったが、日ハムの前に、北海道の人たちに真っ先に言ってあげたいと思うような、そんな優勝だった。

札幌は本当に変わったと思う。

2000年ごろ、2年間札幌で過ごした。
きれいでいい街であったが、人々は何となく大人しく控えめで、自信がないようにも思えた。

この5年間で、北海道は変わったと思う。

高校野球で全国制覇を成し遂げた。
観光でも、オーストラリアからの観光客の増加など、世界的になってきた。

札幌ドームの建設、Jリーグのスタート、ワールドカップ開催など追い風もあったが、何といっても一番貢献したのは日ハムであり、とりわけ新庄選手であったと思う。

そしてそれを支えたのは、あの大人しかった、ちょっとすました感じの北海道の、札幌のファンであった。

応援はスマートで如何にも札幌らしいが、若々しい熱気が感じられる。
球場が本当に揺れる感じである。

変革。
とりわけ人の意識を変えるのは本当に難しいことである筈である。
それをいとも簡単にやってのけた。

巨人ファン一色の札幌が、日ハムに変わった。
スマートだが熱気があり自信に満ち溢れた、新しい札幌のイメージを造り上げた。

日ハムの人気だけでなく、パ、リーグの人気、プロ野球のあり方、今後の方向にも大きな影響を与えそうである。

最近の世の中の変化には、もろ手を挙げて賛成しかねるものも多いなかで、この変わりようには、ほのぼのとしたいいものがある。

札幌のみなさん、北海道のみなさん。
そして日ハムのチームのみなさん。

本当に日本一おめでとう。ますますのご発展を祈念します。



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久しぶりの優勝

2006-10-26 08:08:38 | スポーツ
久しぶりの優勝でした。

昨日,硬式と軟式野球部の恒例対抗ゴルフコンペがあった。
対抗戦は負けたが個人では優勝できた。

ブログでスコアを発信すると、一昨日決めた効果だと思いたい。

前半トリプル,ダボと47だったので、今日も駄目かと思ったが,後半気を取り直して40で上がれた。
87は最近では好スコアであった。

欲を言えば最終ホールも2オンしたので、39と思ったのに3パットして大魚を逃がした感じである。

ショットはゴルフをやりだしてから、今が一番いいと思うのだが、どうもアプローチやパットがもう一つである。

歳を取ってからの一般の傾向と逆である。
ある意味では、未だ脈があるとも言えると自分では思っている。

そんな風なことを思い続けて、行ったり来たりしている。
開眼したと思ったのに、いつの間にか目をつぶってしまっている。

そんなところが、ゴルフの面白さでもあるのだろう。

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札幌の日本シリーズ

2006-10-25 06:23:30 | スポーツ
北の大地が赤く燃える。札幌の日本シリーズ第3戦を、新聞は一面で伝えている。

はじめての北海道での日本シリーズである。
4万人以上の大観衆を集めて、札幌ドームで行われた日ハムー中日戦は、本当にいい試合だった。

試合の内容もさることながら、日ハムを応援する球場を埋めたファンの熱狂ぶりと、整然とした応援が印象的であった。

2001年、札幌ドームが建設中の頃まで、2年間ほど札幌にいた。

その頃の札幌は、野球といえば毎年夏に訪れる巨人のファンばかりで、野球の話題とともに、夜の選手の行動などがニュースになった。

札幌ドームが出来て、日本ハムが本拠地を札幌に移した。
その後の、球団のいろいろなファンサービスが、今の日ハムファンを造り上げたのだと思う。

本当に様変わりとはこのようなことを言うのだろう。

5年も経つと世の中は変わるものだ。

何事も、いい方向にかえる努力を継続することが大事だと、昨夜の野球を見て思った。


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今年のゴルフ

2006-10-24 08:34:25 | スポーツ
明日、ゴルフである。今年のゴルフも明日をいれて後3~4回かなと思う。

大体90前後のスコアで、今年のベストは85である。ブログのカテゴリーをスポーツか趣味か迷った。自分の気持ちとしては趣味かなと思ったが、スポーツとした。

冬と夏はやらない、いいシーズンだけの、スポーツと呼ぶには少々おこがましい、趣味に近いゴルフである。

42,3歳の頃、ゴルフを始めたが、最初の頃はまさにスポーツと呼ぶにふさわしい練習もしたし、それなりの結果も出た。

始めて半年ほどで、メンバーコースを持ち、そのコースレートが高かったので公式競技のスコアがそのままハンデイになった。

最初に18のハンデイを貰い、3~4ヶ月で10になった。82で回れたということである。
その後、少し技量は上がったかなと思うが、月例などの公式競技では、82以下は出せなかった。

その後は、プライベートのコンペなどで、シングルのハンデイは頂いたが、オフィシャルは10が最高だった。

最近は、あまりスコアにこだわらない気楽なゴルフだが、自分では、ずっと続けているストレッチと最近のいい道具のお陰で、今が一番いいショットが打てていると思っている。

スコアにこだわらなくなった理由の一つに、仮にいいスコアを出しても、それを自慢する相手が居ないのである。仮に家内に言ったとしても無視されるだけである。

現役時代は、会社でゴルフのスコアは話題の一つであった。
自分が言わなくても人が言う。
特にスコアが悪かったりすると、必ずそれを人は知っている。

それが、励みにもなった。

最近、ブログをやりだした。
ブログにゴルフのスコアを書くようにしたら、ひょっとしたら、スコアにこだわるスポーツとしてのゴルフが出来るかも、と思ったりしている。

今、迷っている。明日の結果をみて決めようと思う。
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面白い仕事をしたい人に

2006-10-23 08:41:32 | 発想$感想
50年の会社の生活で、面白いことが沢山できた。
やりたいと思ったことは、殆ど出来た。

幸せなサラリーマン生活であったと思う。

何事もひとりでは難しい。仲間とかチームとしての行動が必要なのは当然である。

仲間とかチームを考えるとき、ピラミッド型のタテ割り組織の中だけで、考えるのが一般的である。
タテ割りの組織のなかの仕事は、仕事と言うよりむしろ作業に近い。
その中で繰り返される、毎日は退屈極まりない面白くないものだろう。

面白く、大きな仕事は、出来る限りネットワーク型の横断的な仲間とチームを組むべきである。
意識的にそれをしないと、面白い仕事は出来ないと思う。

スポーツの世界でも、チームとしての競技は、いろんな役割を高度に分担できる仲間がそろっていて、はじて強いチームになるのである。

部とか課の枠にとらわれずに、もう少し広い範囲で、仕事の仲間を求めるべきと思う。それを意識的に続けていけば、どんどん面白いことが、出来るようになる。
横の広がりは、会社などの枠にはまらずに、広ければ広いほど面白い。

日本の社会は大体タテ割りのピラミッド型が普通で、それも強力である。
面白く、大きい仕事は出来にくい仕組みになっている。

組織をぶち壊すのは難しいが、その中でも意識して、ネットワーク型の発想で仲間を集めていくことは可能である。

その気になって探せば、周囲に沢山出来ることがあるのに見逃していると思う。
一度の人生を、面白く過ごすために意識して、発想を変えてはどうですか。

誰にとっても、単純な作業よりは仕事のほうが面白いのは当然です。
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日記とブログ

2006-10-22 08:46:51 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram
毎日、日記とブログを書くのが日課の一つになりつつある。

同じようだが、だいぶ違う。
違いはいろいろあるが、その中の一つに字を書くのと、打つのとの違いがある。

文字を書くということは、なかなか難しい。

まず文字を覚えていて、それを自分の手で書かねばならぬ。
至極当然のことだが、文字を忘れることもあるし、読めるけど書けない字も意外に多い。書けない時は、書ける字に文章を変えてしまうこともある。
また、きれいに書くということは、非常に難しい。

ブログやメールは、文章を考えそれを打っていくと簡単に文字になる。
難しくて書けない文字でも、言葉さえ覚えていれば立派な文字に打ち出される。
文字もきれいだし、自分が偉くなったような錯覚にもなる。

先日、新聞に真田幸村の手紙が写真入りで掲載された。
まさに、見事な字で書かれていた。読めなかったが、美しいと思った。
その人の教養が感じられた。

筆で毎日文字を書いていると、このような立派な文字が書けるようになるのであろうか。
少なくとも昔の人のほうが間違いなく立派な美しい字を書いている。

後年になって、平成の人たちの手紙や文章を開示したら、すべて同じようなタイプの文字ばかりになってしまうのだろうか。

世の中はどんどん便利に合理的になっていくが、少し寂しい気もする。
人それぞれの個性とか、格差はあったほうが人間らしいように思う。

毎日、ブログを打つようになったが、日記はこれまでどうり続けていこうと思う。

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カワサキの二輪事業

2006-10-21 10:24:28 | カワサキ単車の昔話

1960年(昭和35年)ごろ、日本には100社を越す二輪メーカーが乱立していた。

三菱重工業、富士重工業、トーハツ、ブリジストンなど大企業もその中に名を連ねていた。

大企業を含む100を越す企業が、浜松出身のホンダ、スズキ、ヤマハとの競争について行けずに事業から撤退し、最後まで残ったのはカワサキだけで、今の四社体制になったのである。

何故、カワサキ一社だけが浜松勢とともに、生き残れたのか。
その理由はいろいろあると思うが、私なりに次の二つが大きかったと思う。

一つは、運が良かった。天が味方してくれたと思う。

1963年に出した、B-8が何となく売れ出して、ひょっとしたら脈があるかもと、日本能率協会に調査を依頼し、事業再建の見込み調査を始めた。

この年、兵庫県の青野ヶ原でモトクロスレースがあり、B-8の改造モトクロサーで出場した。
このレースで、優勝はもとより上位を独占したのである。

この結果で、事業部内は大いに盛り上がった。
能率協会の報告書の中でも、事業部内のやる気に触れ,再建を提言する大きな要素になったのである。

このレースで、なぜ初出場のカワサキが圧勝出来たのか。
マシンもライダーも、そんなに大したものではなかった筈である。

後になって、山本隆君(元日本モトクロスチャンピオン)に聞いた話だが、彼も当日ヤマハで出場していたが、当日は大雨のあとの水溜りばかりで、所謂高性能のレーサーは、水をかぶってみんな止まってしまったという。
カワサキは市販車に近かったから雨のなかも止まらずに完走したというのである。

まさしく、天が味方をしてくれたのである。


もう一つは、第一線の販売を川崎航空機の人がやらなかったことだと思っている。

若し川崎航空機の人がやっていたら、間違いなくギブアップしていたと思う。
第一線の雰囲気や発想は、そのスピードと共に、とてもメーカーの人たちには考えられない種類のものだった。

当時、国内の販売は、明発やメグロからきた人たちが担当してくれていた。
海外では、責任者はともかく、第一線はアメリカ人や現地の人たちであった。

社内の進級試験の論文にそんなことを書いたら、えらく怒られたが、今でもそれは正しかったと思っている。

第一線を自ら担当した他の大メーカーは次々に競争から脱落した。

逆に、ホンダ、スズキ、ヤマハの浜松勢はそれほど競争意識が強かったとも言える。
競争は激しかったが、面白かった。

そんな競争を経験できたことを誇りに思っているし、自信にもなっている。


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私のブログ

2006-10-20 09:41:40 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram
9月9日におそるおそるブログを始めた。

この間、30以上のブログを発信し、10月になってからは、毎日発信している。
何のためのブログかよく解らぬままスタートしたが、結構面白いし、はまってしまいそうである。

10月17日には、できるブログなるテキストを購入し、何のことか解らなかった、カテゴリーとジャンルも一応分類してみた。

今日、閲覧数111を記録し、はじめて100を超えた。
多いのか少ないのか判断がつかぬが、いろんな人がブログを見てくれているということは励みになる。

今後、73年間生きてきた経験のなかの、面白そうなこと、会社での記録、その時点、時点での発想などを、現在感じることに加えて紹介してみたい。

会社では、モーターサイクルを通じての、レース、遊び、国内&海外事業、広報、ジェットスキー、業界活動、安全運転活動、二輪車専門運転学校、ソフト会社、レース場開発&経営など、一般のサラリーマンが経験出来ない面白いこと、自分がやりたいと思ったことが出来た。

幸い、53年間の日記が手元にあるので、殆ど正確に記述できる。

個人のレベルでも、野球、ゴルフ、水泳、ダンス、ばら、庭木の剪定、囲碁、カラオケ、などいろんなことに興味をもって取り組んだ。

直ぐ、はまってしまう性格で、そこそこのレベルまでは一生懸命、夢中になる。
今、ブログにはまりそうである。

ただ全てのことが、極めるところまで行かないのが欠点である。

ゴルフもハンデイ10までは、直ぐなれたがシングルを狙うのはどうも性格に合わない。
シングルの人と対等にできることで十分満足で資格はむしろ意に反する。

ダンスも囲碁も、教師とか初段の免状という話が出たことを機会に止めた。
すべてのことがそうである。

そういう意味では、ハンデイ10の人生ともいえる。

ブログも、多分、ハンデイ10のレベルまでは、頑張るだろう。

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1965年頃のレース界

2006-10-19 09:46:29 | M/Cレース
1965年(昭和40年)ごろ、今から40年程前の話だが、二輪のレース界の中にいた。

1964年10月10日が東京オリンピックの開会式だから、その頃のことである。

オリンピック開会式の当日も、伊豆丸の山で開催されたMCFAJの全日本モトクロスの会場にいた。
当時のカワサキのレーシングチームのマネージメントを担当していた。

面白い想い出が沢山残されている、私にとっていい時代であった。

当時、4サイクルのホンダは、モトクロスには参加せず,スズキ、ヤマハ、ブリジストン、カワサキで争われた。
マシンも未だバックボーンフレームだった。
ツインエンジンのモトクロサーがあったりした。

メーカーとともに、各地の名門クラブチームが、日本のレース界を押さえていた。

東京の城北ライダース(S),神奈川のスポーツライダース(Y)、京都のマウンテンライダース(S)などである。

カワサキは、厚木で三橋実の率いるカワサキコンバット、関西では片山義美が主宰する神戸木の実クラブの選手でファクトリーチームを形成していた。

特に、城北は名門と言われ、後,4輪レースで亡くなった鈴木誠一が率いて,メンバーには当時最強といわれた久保和夫を始め、その後の日本のレース界をリードした、長谷見、菅谷,黒澤などがいたと記憶している。

カワサキコンバットは、安良岡健、梅津、岡部、若き日の星野一義、現在の星野インパルズの金子豊など多くのライダーを育てた。

神戸木の実も、当時のGPライダー第一人者の片山義美をはじめ、モトクロスの日本チャンピオンを何度も獲った山本隆や歳森康師、ロードレースで活躍した、金谷秀夫などが所属した名門クラブであった。

星野とほぼ同期で、永くモトクロス界に貢献した吉村太一は、小島松久が率いたマウンテンライダースにいた。

カワサキはレースを始めて2~3年だったが、結構強く、前述の丸の山の全日本でも、三橋,梅津、山本が優勝し4種目中、3種目を制覇した。

当時のカワサキは、二輪事業を本格的にスタートさせた頃で事業としては苦しい時代であったが、本社が二輪事業の開発費として、年1億円の特別広告予算をくれたので、レースもその予算の中で賄われた。

私の年収が50万円に満たない時代であったので、1億は相当の使いでがあった。
若いライダーの契約金が120万円、レーシングチームで、ヘリコプターを所有しレース場にヘリを持って行って、空からレースを見るような、今では考えられない経験をした。

レース場で、他メーカーのライダーたちにヘリに乗ることを、せがまれたりして、お陰で有名ライダーたちとも、仲良くなれた。

もうお互いにいい年だが、いい想い出が沢山ある。

ひとつづつ、日記の中から正確に記録をたどって、またご紹介します。

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携帯電話

2006-10-18 08:35:33 | 発想$感想
朝刊のトップに携帯電話の話が出ている。

私には関係のない話である。
我が家には電話はあるが携帯電話なるものはない。
今のところ不都合は感じていない。

現役の最後のころ、結構忙しい立場にいた。
周囲の人たちは既に携帯を持ち、私にも持つように、何度も勧められたが、結局最後まで持たずに過ごした。

世の中に寸刻を争うような、大事なことはめったにない。
電話というのは、当方の状況に関係なく、無遠慮に割り込んでくる。

私にとっては、そんなに歓迎出来るものではなかった。

当時、携帯を持っている人の、使い方、電話の内容を聞いて、その殆どが大したことではなく、今電話しなければならぬような、緊急のものではなかった。
電話を受けている人も慣れてしまって、何とも思っていないのだろうが、本当に忙しい人にとっては迷惑な話だと思った。

若し、受け手が私なら非常に迷惑だと思った。

今の時代は、そんな理屈ではなく、携帯は持つもののひとつになってしまっている。
我が家にはないが、小学生の孫も持っているのがいる。

携帯のメールも、絵文字など新しい文化を創りつつある。
孫からのメールも読めないところが増えてきた。
世の中もどんどん変わる。

私は多分、携帯電話は持たずに終わると思うが、10年後はどんな携帯の時代になっているのだろうか。

人間が生きて行くために、本当に必要なものは。
便利にはなったが、忘れられているものも多いと思う、今日この頃である。
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日記帳(5年連用)

2006-10-17 08:31:03 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚
日記を書き始めたのは、1953年11月8日からである。

前日の朝日新聞に蒋介石が30年日記を書いているのは立派、とあったのを見て、書き続ける位なら自分にも出来るはずと、翌日から大学ノートで私の日記は始まった。

それから53年経ったので、内容はともかく、長さでは蒋介石を抜き去ったことに十分満足している。

はじめは大学ノートでスタートしたが、その後は1年毎の当用日記を10数年続けた後、3年連用の日記に切り換えた。

去年の今日、何をしていたか、どんなことを考えていたかが解って,気に入った。
意外に毎年、同じことをしていることも解った。
季節は間違いなく、同じことを正確に繰り返している。

2002年から思い切って5年連用にした。

日記帳を書き始めるとき、最後まで書けるだろうかと本当にそう思った。
そんな歳なのである。

その日記帳も、2006年、今年で終わりである。
来年の日記が売り出される時期になった。

今年も、5年連用を買おうと思っている。

今度こそ、最後まで書けるだろうか。
これが終わるころは80歳に近づいている。
健康に留意したい。そして、書き終われることを願いたい。

どなたか私のこのブログを見て、日記を書いてみようという人はいませんか。

日記は意外に、いいものですよ。
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