雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

私のサラリーマン生活の故郷

2006-11-30 06:55:53 | カワサキ単車の昔話
永いカワサキでのサラリーマン生活であったが、面白く過ごさせて頂いた。

その殆どの期間が二輪車に関係したのだが、カワサキの単車事業スタート直後からの担当であり、上司や先輩に経験者がいなかったこともあって、仕事を教えて貰った記憶は殆どない。

自分で試行錯誤しながら、何とかこなしていった。

IBM機械化(昭和33年)、広告宣伝、レース関係、仙台事務所設立、特約店制度、CKD市場開発、販社再建、KAZE、ソフト会社、国内ジェットスキー販売、JJSBAサーキット開発二輪専門自動車学校設立などカワサキにとってははじめての仕事ばかりが多かった。

若い頃から、旗振りの役が多かったのだが、これらの仕事を一緒に造り上げていってくれた人たち、そんな仲間がいなければ実現しなかった。
私にとってこれらの人たちは、会社の同僚、後輩というよりは、一緒の仕事をやり遂げた仲間という意識が強い。

これは、何も私だけの特別なことではなく、カワサキの同じ時代を生きた人たちは、同じようにはじめての経験を沢山持っていると思う。

単車事業がカワサキにとってはじめての事業であったこともあるのだが、ホンダ、スズキ、ヤマハの競合他社、特にホンダさんがどんどん走ったので、それらを追っかけるだけでも大変だったのである。
遅れないように必死に走った、走り続けたように思う。

二輪業界は、世界の市場を対象に単なる輸出ではなく、現地に事業を展開する方向であったので、それをはじめて自分で体験する仕事が普通であった。

自分の判断で「何をやるべきかを決定し」それに向かって邁進するスタイルが多かった。
決して成功ばかりではなく、その逆も多かったのだが、その経験やノウハウは蓄積され後々の力になっていったと思う。

同時に、少々のことには物怖じしない、厚かましい「奇人、変人」を沢山造っていった。

単車事業部は、「奇人変人の故郷」と言ってもいい、そんな「何か」があった。
勿論、数の上では「一般、普通人」が圧倒的ではあるが、「奇人、変人」が潜在化せずにすむ、自由な雰囲気があったと思う。 

それが楽しかった。
少なくとも、川崎重工業の中では異色の存在であった。

先日、樋渡啓祐さん(現、武雄市長)の「奇人、変人」のほうが仕事ができる。
「求む。奇人、変人」とのコメントを見て、「我が意を得た」のである。


人生いろいろな生き方がある。

「何になりたいか」 「何をやりたいか」

目標の立て方としては、後者のほうが断然面白い人生が歩めると思う。


常に、「何をやりたいか」を模索し挑戦出来た、「そんなサラリーマン生活」に感謝したい。


今年も残り少ない。やりたいことの幾つかは出来たと思う。

今後も、「やりたいことに向かって進む」、そんな人生を歩みたいと思う。

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平井稔男さんのこと 昔話ー7

2006-11-29 06:26:49 | カワサキ単車の昔話
「平井稔男さんのこと」

カワサキの赤タンクのことを書いたら、#142ハラさんから、いろいろタンクのこと教えて頂いた。
詳しい人がいるものである。#142ハラさん有難うございました。

そのコメントの最後に、「メイハツ~Team Greenの平井稔男さんはお元気なのでしょうか?」とあったので平井さんを思い出しながら、昔話をと思う。


平井さんとは、この1~2年お会いしたことはないが、今でも兵庫県の二輪関係の何かを手伝って居られて、お元気とお聞きしている。

私と同い年である。
メイハツにいて、その事務所が明石工場の4研にあったころからのお付き合いである。
永いカワサキの勤めではあったが、その殆どを兵庫で過ごしたと思う。

レース関係でも、カワサキの国内ジュニア以下の面倒をよくみてくれた。
モトクロスの竹沢君が名古屋から明石に来ていた頃である。
Team Greenもそのころスタートしたのかな、と思う。

竹沢君と言えば、彼の結婚式の司会を平井さんが務めていた。
仲人は百合草さんだったかと思う。
同じ会場で、私は北村君のの仲人を引き受けていたのだが、それが終わったあと、竹沢君の結婚式が始まりかけていた。

「入れ入れ」と、突如誘われて、竹沢君の結婚式に飛び入りで出席したのを思い出す。
吉村太一君も来ていて、いいスピーチをした。
平井さんの司会、抜群と当時の日記に書いている。(1973-2-11)


平井さんと言えば、勇ましいイメージが強いのだが、別の一面を二つ、ご紹介する。

安全運転を担当していた時期がある。
暴走族が華やかな時代、暴走族=大型バイク=カワサキと言われ、安全運動活動に注力した時代である。

この時期、平井さんの二輪車の運転技術は、ものすごく進歩した。
淡路でのツーリングで「こけた」というのが平井さんのレベルと思っていたから、その進歩は驚きであった。

安全運転の担当期間、彼は自分の四輪を売ってしまった。
若し持っていたら、ひょっとして酒を飲んで乗るかもしれないからと,言っていたのが印象に残っている。


もう一つ、ずっと後の話だが、「お客様相談室」を新設した。
本当に、信頼される「お客様相談室」にすべく、車も技術も営業も歴史も、カワサキのすべてをを知り尽くした、平井さんが担当した。

苦情が殆どで、その対応が仕事であったが、難しい神経をすり減らすような仕事も、彼がやると楽しそうに見えるから不思議である。

カワサキのお客様相談室は、平井さんの時代、日本一だったかも知れない。
苦情を言ってきた人たちから、感謝されて、お中元が届いたり、チケットが贈られたりした。


カワサキの名物男、平井さんの一面である。

尊敬できる、仲間であった。
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高橋鉄郎さん 昔話ー6

2006-11-28 06:59:00 | カワサキ単車の昔話
「カワサキ単車の昔話」に登場させたい方は、沢山いるのだが、それに一番似合う人は、やはり高橋鉄郎さんだろう。

私の個人の日記帳にも他を圧倒して登場する数が多い。
それだけ一緒に仕事をした機会も多く、お世話になった期間も長い、単車の大先輩である。

私に限らず、高橋さんと関係のあった人は多いのである。
それは高橋さんが歩かれた部門が多岐にわたっているからだと思う。

単車には、航空機のJET部門から単車再建の時期に移ってきた人が多いのだが、高橋さんもそうだった。

まず製造部門,そして販社出向、技術開発部門、CKD市場開発、営業部門、海外販社出向、企画部門とメーカーの殆ど全部門を歩かれた。
このような経験をされた方は珍しい。皆無と言ってもいい。

その人柄から、特に下の人たち、(一番末端の人たちにも)優しかったし気軽に話しをされたので、高橋さんにまつわる昔話も多いのである。
末端の人、ユーザーやライダー、販売店の人たちと話をする機会も多かったし、何よりもそれを好まれた。


本来、技術屋さんで、営業に出向されるまでは、ご自分でも認めておられるが大の「営業不信」で通っていた。

私のような営業屋は大いに困惑していたのである。
それがほんの2~3年の販売会社出向ではあったが、高橋さんの営業への態度は、180度変わって、「マーケット指向」が高橋さんの信条になったのである。

市場開発室長や販社社長を兼務されマーケット、コンシューマーへの目線は更に「ホンモノ」になっていかれたと言っていい。

このことは単に高橋さんが変わったというだけに止まらず、特に単車の技術屋さんに与えた影響は大きかった。
どちらかと言えば、所謂メーカー体質であったカワサキの単車事業が「マーケット指向」への転換をするきっかけになり、月日を経ると共に、常にマーケットを意識する体質になって行ったと思う。

高橋さんの個別の昔話は、今後沢山登場すると思う。

乞うご期待である。


             
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ブログの楽しみ

2006-11-27 08:48:10 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram
ブログをはじめて2ヶ月ちょっとになった。
毎日の暮らしのなかの日課の一つに定着したと言っていい。

老後は、「きょうようがなければならぬ。」
「教養がなければならぬ。」ではなく「今日用がなければならぬ。」
そんな日常の暮らし方がいいとTVのコメンテーターが言っていたが、このところ、「今日の用」のなかにブログが仲間入りした。

ブログの良さは、発信するためには、少なくとも頭を使う、考える、ボケかけている脳のトレー二ングになる。

一番の楽しみは、昔の仲間との接点が出来たことである。
堅苦しい接点ではなく、気楽な昔通りのレベルであるのがいい。

今まで面識のなかったはじめての方からも、ブログの中味を通じてのコメント、トラックバックなどで、双方向の情報発信がなされ繋がっていくことが実感されるのもいい。


昨日も、三つあった。

田崎さんからメールが入った。
先日ブログで触れた多分二人にとって、はじめてのモトクロス実戦現場、山梨モトクロス。その時の、田崎さんのつな着姿の写真をコメント付きで送ってくれた。

今は川崎重工業会長という重い肩書きだが、話好きで決して重くはない性格である。
彼が常に言っている「柔工業」のように肩肘はらぬ昔のままの「田崎」がそこにいた。
仲間である。


服部カワサキの番頭さんだろう、武田賢一さんからも、丁寧なメールを頂いた。

服部謙治君は糖尿病で少し目が不自由である。ブログを奥さんに読んで貰って喜んでくれたとか。
武田さんとは作並温泉での服部カワサキ10周年の会合でお会いしたらしいが、覚えていない。
服部カワサキのHPにブログをリンクしますとあった。
11月18日より日記、書き出しましたともあった。
服部カワサキのますますのご発展を祈念したい。


関西のオトキチさん。
この方のコメントがきっかけで思わぬ広がりに繋がった。
三木市のアネックス三木パークで、ビンテージモトクロスなどを主催されている方である。
山本隆君とも連絡するきっかけになり、更に昔の仲間に広がっていった。
今、山本とオトキチさんとも、繋がったようである。
山本が走るのなら、直ぐ近くだし是非観に行って、昔を思い出してみたいと思っている。
そのオトキチさんからも昨日コメントが入った。


「仲間たち」に関しては、特に若い方から感想を頂いた。
「自分もいい仲間を持ちたい」というコメントである。

誰にでも、同級生や同僚は存在する。そのときの縁で、たまたま一緒だった人たちである。

その中で、一生懸命生きないと「仲間」は造れない。
一生懸命、誠意をもって生きることで、自然に「仲間」は出来ていく。

毎日を一生懸命生きることだと思う。

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赤タンクのカワサキ 昔話ー5

2006-11-27 06:06:28 | カワサキ単車の昔話
「赤タンクのカワサキ」

カワサキのレースカラーは、「ライムグリーン」である。

「グリーンモンスター」とか「チームグリーン」とか、マシンやチームの名前にも使われ、既に一般に浸透しきっているカラーである。

レース場では「ライムグリーン」は特に映え、見た目にも美しいし目立つ色であると思う。

カワサキがモトクロス界にデビューした頃、そのタンクに塗られた色は赤だった。
誰言うとなく、「赤タンクのカワサキ」と呼ばれていた。

当時、レース以外では他メーカーに勝てるものは何一つなかったので、モトクロスレースは販売促進の手段として代理店の人たちに人気があった。
地方回りに特に力を入れていた関係もあって、地方での「赤タンク」の人気は相当なものだった。

F21Mがデビューした頃はまだ「赤タンク」であった。


「ライムグリーン」はその頃アメリカのロードレースに進出した際に新たに使われたカラーではないかと思う。

ぼんやりとした記憶だが、当時ホンダはモトクロスには出場していなかったが、ロードレースのマシンのタンクのカラーは赤ではなかったかと思う。

そんなことで、アメリカで「ライムグリーン」を使い、いい色だったので、すべてのレースマシンに使われ、カワサキのレースカラーになったのではないかと、推測している。

カワサキがレースを始めた青野ヶ原のモトクロスのころから関係されていた、中村治道さんか川崎芳夫さんならその経緯もご存知ではないかと思うが。

どなたか、経緯をよくご存知の方が居られたら教えて欲しい。

ずっとそんなことを思っていたが、確かめぬまま現在に至っている。

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チームグリーン、レースメカニック募集

2006-11-25 18:32:20 | M/Cレース
11月に入ってからだが、カワサキモータースジャパンからメールマガジンが入るようになった。
申し込んだ覚えはないのだが、どなたかが私に代わって申し込んでくれたようである。

今日届いたNO183に、「チームグリーン、メカニック募集」のニュースが載っている。

「チームグリーン。」
カワサキモータースジャパンに所属する、準ファクトリーと言っていい輝かしい実績のある名門チームである。
ファクトリーのマシン開発にも、若手ライダーの育成にも大いに貢献をした。

平井稔男、重本修次郎と続いた歴代名物監督の後、今は野村純一君がチームを纏めている。


野村監督は学生時代から、レース一筋に、もう30年以上この世界にいる。
歴代のライダーたちにも、レース界の誰にでも、信頼の厚い人である。

レース界での顔も広い。
レースの世界で顔が広いということは、この世界で仲間として認めてもらっているということである。

昔はそんな人が多かったのだが、最近はどのメーカーも技術屋さんのレースチーム運営が主体になって、ヨコの連携は薄れた感じである。

野村君はそんな意味で、カワサキにとって貴重なレース人材だと思う。
そんな野村君が監督を務めるチームグリーンだから、レースを志す人にとってはこの上なくいい環境だと思う。

モトクロスでもロードでも、本格的なメカニックを希望される方には、お奨めである。

若干名、20~28才、学歴不問、経験者優遇、待遇は面談の上、勤務地明石、来年1,2月より勤務、期日2007-2-7まで、などとある。
(TEL 078-921-2493 孫崎さん担当)

私が勝手に、メルマガの内容をお知らせしているのだが。
若し、ご希望の方があれば、一度電話をされて詳しい内容を聞かれればと思う。

自信をもってお奨めできるいい話だと思っている。


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佐賀県武雄市長からコメントがきた

2006-11-25 09:32:11 | 樋渡啓祐さんのこと

今朝、ブログを見たらコメントが入っていた。ブログの楽しみの一つである。

先日「市長公室長樋渡啓祐氏のこと」というブログを書いた。
内容は「ブログ」と「奇人、変人」についてである。
樋渡さんが高槻市に居られたときのコメントのなかから、私見を述べさせて頂いた。

コメントを頂いたのは、一面識もないご本人の樋渡さんからである。
びっくりした。
総務省に戻っておられるとばかり思っていたら、今年から故郷、佐賀県の武雄市長になって居られるのである。
二度びっくりであった。

早速、武雄市のホームページを見てみた。どんな市政をやっておられるのか、興味があった。

流石である。広報的な展開は見事であった。

ほんのちょっと、1時間あまりのマーケッテングなので、間違っているかも知れないが、全国の市政の中で、最も進んだ実践的な広報がなされていると思う。

私の住んでいる三木市も、広報展開できるネタはヤマほどあるので、何とかいい展開ができぬものかと、全国の各市の市政のやり方などを調べたので、今の全国各市のレベルは大体解っている。
樋渡さんとも、そんなことで高槻市の「こちら部長室」で出会ったのである。


二つだけご紹介する。

一つは毎日発信されている「市長ブログ」である。
内容も面白いし、市民などから沢山のコメントが入り輪が広がっている。

「全国最年少市長」というテーマには特に多くのコメントが寄せられていた。
36才の樋渡さんが、総務省の後輩の新潟県三条市長34才に抜かれ、2位になったとか。
ちなみに三木市長も兵庫県から総務省に出向されていた。34才ではないが、まだまだ若い市長さんである。

ブログは市政展開に大いに機能すると思っているが、それを現実に使っている市は殆どない。


もう一つは来年1月より放送予定の、今話題になっている島田洋七の「佐賀のがばいばあちゃん」の広報戦略である。

このような展開を、戦略的広報展開というのだろう。
手の内にあるいろんなツールを駆使して、ネットワークというかヨコ展開が図られている。
「年賀状PR大作戦」が時期もいいし、幾つものツールの繋ぎは傑作である。

詳しく書けないので、興味のある方は、武雄市のホームページを見てみて下さい。

ただ、多分タテ割りがきつい市役所の組織のなかで、誰が具体的に発想されたのか、そこが私の最も大きな関心事である。

「創造力の源泉はアイデアであり、思考ステップの特徴は絞り込んで考え続けることである。」と言われている。
若し、市役所の職員のかたの発想ならそれは驚きに値する。

「一人でも多くの市民が広告塔に」と言われているが、私も片棒を担がせて頂いた。


今朝、ブログのコメントを頂いての、私の感想である。

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船場モータース岡田博さんの思い出

2006-11-24 06:45:41 | カワサキ単車の昔話
1970年ごろ、カワサキは、時代を先取りする販売網を模索していた。

カワサキが企図した特約店制度の推進でお世話になった販売店と言えば、躊躇なく「船場さん」と岡田博さんの名前を挙げるだろう。

みんな、その頃岡田さんではなく「船場さん」と呼んでいた。大阪の老舗船場モータースの社長岡田博さんのことである。

丁度、大型スポーツ車に移行しようとする時代で、カワサキではマッハやW1のブレーキ、チェンジが左右入れ替わったころである。

販売網も今までの小型実用車向けのものから、時代を先取りした大型スポーツ車の販売にマッチするものに、ドラスチックな転換を図ろうとしていた。

所謂、カワサキの特約店制度を目指していたのだが、それ以前の大阪のカワサキ共栄会を組織するころから、お世話になった。

当時の共栄会の会員は20数名であったが、若しこの会員で大阪の販売の60%を売って頂いたら、当時600店ぐらいとの取引であったが、この600店を共栄会の会員20数店に絞ると約束して、お互い頑張ったのである。

当時の、売れさえすればどこにでも売るという、メーカーの政策では、高度な技術サービスを必要とする大型車の販売に合わないし、店自体の力もつかない、ツーリングや遊びなど、実用車とは違った乗り方をするユーザーのニーズに対応出来ないと考えたのである。

事実、当時の販売網の殆どは自転車屋さんだった。
大型のスポーツ車を主力に販売しようという店は、そんなに多くはなかったのだが、600店を20数店に絞るのもまた勇気のいる決断ではあった。

社内の意思統一も大変だったが、何ヶ月も掛けてようやく近畿、中部地区の気持ちが一つになっていった。

販売店サイドも、このコンセプトに共感して集まってくれた人たちとの協力で、カワサキの特約店制度は、大阪、京都、名古屋で産声を上げたのである。

1973年1月30日、新阪急ホテルで大阪特約店の発会式があった。

近畿や中部地区は前後して、すべての地区で特約店制度に移行し、Z2の発売もあったりして、特約店自体も順調に推移したのだが、全国展開にはいろいろと苦労した。

船場さんには各地の特約店説明会に同行して頂き、特約店の立場からの説得スピーチをお願いしたが、これがカワサキの特約店制度の推進、実現の大きな要因になったと言っていい。

私には、カワサキが「船場さんと一緒に造った特約店制度」という想いが強い。

カワサキの販売網政策は、「特約店」から「ARK]そして現在の「正規取扱店」へ名前は変遷するが、

Kawasaki Let the Good Times Roll 

カワサキに出会う人たちすべてが(ユーザーも、販売店も、道行く人たちも )ハッピーにという、基本コンセプトだけは変わらず受け継がれて、現在に至っている。

特約店制度は、この基本コンセプト実現のために、当初は大きなリスクを覚悟して踏み切ったのだが、これに共感して協力して頂いた船場さんをはじめとする、販売店の仲間たちに感謝したい。

そして、当時の未だ若かったが、勇気をもって改革に立ち向かったカワサキの仲間たちにも感謝したい。

仲間は沢山いるのだが、「船場さん」の思い出は強烈に残っている。








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山本隆からコメントが来た

2006-11-23 09:56:36 | M/Cレース
今朝、ブログのページを開いたら、2通のメールが届いていた。
2通とも、懐かしい山本隆君からだった。

1通は昨日の「四国の星」に対して、「懐かしい話すべて読みました」という表題で、今,町内会長や「峠池を考える会」会長をしていて、仕事がおろそかになっているとか。
店を持ってからも、MFJのトライアル委員長などを務めて、仕事をおろそかにするのは、今に始まったことではない。

2通目は、「カワサキMXを確固たらしめたマシンと人」に付けられたものである。
「懐かしい話ばかりです。」の書き出しで、F21Mのサイレンサー無しの音聞いてみたい。「サイレンサー無しの」と言うところが、如何にも山本らしい。
PC国内Bですからという記述もあったが、何のことか私には解らなかった。

2通とも山本らしいコメントである。「OB会楽しみにしてます」と結びにあった。



今まで山本隆君について少しだけ、何回も触れたが、少し纏めて「彼とカワサキの」「彼とわたしの」ことに触れたい。

山本隆君。
1964年から1971年まで約8年間、カワサキのモトクロスの文字通り中心選手として活躍した。

歳森康師とともに神戸木の実に所属したが、このクラブを主宰する片山義美がスズキの契約で、ロードレースであったことなどから、殆どカワサキとの直接契約のような関係だった。
マシンや技術に関心があり、レースのない時も毎日のようにモトクロス職場に出勤?していた。

レースでの活躍はあらためて話す必要もない。素晴らしい結果を残している。
当時カワサキにいた星野一義の兄貴分として、随分と星野を可愛がっていた。
MFJからのご褒美のヨーロッパ旅行も、山本、星野の2人で行った。何故2人だったのか、定かに覚えていないが、セニアとジュニアの最優秀選手ではなかったか。
(やはり間違っていた。山本がコメントで正確に訂正してくれた。)

65年2月13日に山本、歳森の2人から突然辞表が出てBSに行くという騒ぎがあった。
当時直接レースを担当していた川合寿一さんから相談があり、この問題にタッチしたのが、私のレース担当への直接のきっかけとなったのである。

片山義美に、はじめて会い相談した。
片山からはカワサキのレースに対するいろいろな事柄に対し厳しい注文を付けられたが、「もっとも」と思うことが多かった。
レースをはじめて間もないカワサキの経験不足で、レースの世界の理解に乏しかったのが原因の騒動だった。

「これから、ちゃんとやる」と言わされて、レースの世界に首を突っ込む派目になった。

「私とレース」の仲人のひとりが山本であるが、後、私は頼まれて山本君の仲人をつとめた。私の始めての仲人経験である。66年2月27日のことである。


67年から私は東北の営業に転勤したが、毎月のようにライダーたちが東北を訪れた。
当時一番レースが盛んであった東北では毎月どこかでレースが開催されていた。

勿論、レースでも東北に来たのだが、67,68,69年の3年間、山本には東北の各県警の白バイ隊員の講習と実技指導に来てもらった。

宮城、岩手、青森、秋田などでライデング技術の実技指導は当然のことながら、講義でも彼の知識と「講釈師」と言われていた話術は大好評だった。
何故カワサキが白バイのと思う方も多いと思うが、当時はまだメグロの白バイが主力の県警が多かったのである。
こんなことでも、山本にはお世話になった。

1971年で彼の契約は終わるのだが、71年12月13日、彼の引退慰労会が開かれた。
当時の事業部長の山田さん、高橋さんという事業部の幹部と、北村、岩崎、水町の当時のレース担当、私も出席した。
その席で山田さんから、永年の功績に対し20万円が特に手渡された。

こんなことをして貰ったライダーは山本隆君だけだと思う。
自他共に認める、カワサキのレース創生期の功労者であったと思う。

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代理店 昔話ー4

2006-11-22 12:56:33 | カワサキ単車の昔話
「実用車のカワサキ」であった時代、県毎に代理店があった。

カワサキでも「鹿児島の金谷さん」、「新潟の鍋谷さん」、などの呼び名で呼ばれ、「こわい、うるさい」代理店の代表として有名であった。

今この話をしても、通じる人は居なくなってしまったと思うが、このような自前の代理店との関係があった時代の経験は、私にとっては大きな財産である。

現在のように、メーカーの100%資本系列で販売チャンネルが形成されていると、それはそれで、メーカーの思いが直接反映できて合理的ではあるのだが、「上から下へ」の流ればかり、指示伝達が主になって、「下から上へ」の意見が通り難くなりがちである。

仮に「下からの意見」を述べるにしても、聞くにしても、「上が恐れおののくような」種類のものには決してならないのである。

そんな率直な意見なり、文句を聞けた時代を短期間ではあったが経験出来たことは非常によかったと思っている。

レースを担当して後、仙台で代理店制の東北を4年間担当した。
このような流れを汲む、東北6県の代理店の社長さんとのやりとりは、今となっては懐かしい思い出である。

福島の中西さん、宮城の門伝さん、岩手の久保さん、秋田の佐藤さんなど、教えて貰ったことは多い。

この人たちの意見は、痛烈であった。
こんな人たちに鍛えられたお陰で、次の大阪で、船場の岡田さんや、堺の伊藤さんといった「ウルサイが真っ直ぐな人たち」とも、問題なく対応できたのだと思っている。

社内の上司で「ウルサイこわい」と言われていた方たちも、自前の代理店の社長さんに比べたら、随分とやさしく紳士であったと、私には思えた。

その後、メーカーの系列化の度合いに比例して、同じ方の意見も徐々に本音は消えて、やさしくなっていった。本音の意見は聞けない時代になった。

そんな経験から、率直でストレートな意見が聞けない環境にある今、「上の立場にいる」人たちの判断は、ある意味むつかしいのかも知れない。

懐かしい、もう経験できない時代の話である。

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四国の星、夢の扉

2006-11-22 11:08:16 | 発想$感想
今朝の朝日、久しぶりにすがすがしいニュースである。

松坂の大リーグ60億円移籍など、ビックリするようなニュースが続いたが、

「四国の町で、若者の夢がはじけた。2人の選手が、巨人とロッテからドラフト指名を受けた。初のドラフト選手の誕生。あこがれ続けてた舞台への扉が開いた。」と四国リーグからのはじめてのドラフトを報じている。

深沢投手,角中外野手、本当におめでとう。
苦労してリーグを立ち上げた、往年の名選手石毛さんにも心からお祝いを申し上げたい。

選手はドラフト指名された場合、契約金と年俸の合計額の2割をリーグに支払う契約になっているとか。
仕組みとしてはいいと思う。

この独立リーグの赤字は、今年半減したとは言え、1億5千万円になるという。
日本のプロ野球の底辺を拡大する仕組みとして、こんな独立リーグが大きな役割を果たすようになって欲しいと思う。

今の日本のプロ野球の経営システムは、関係のない他人とも言える学校や実業団が育てた選手を、金にあかしてかき集めるものである。
それもいいが、もっと底辺の埋もれた素材を発掘して育てる、このようなシステムに目を向けるべきである。

松坂や井川などの大リーグ移籍で各球団に入る金額の10%とは言わない、せめて1%でも、こんな底辺を支えようと頑張るリーグに寄付する気にでもなればと、ふと思った。

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FISCOの思い出、1966年

2006-11-22 09:18:22 | M/Cレース
FISCOに明けFISCOで終わった。1966年はそんな年だった。

1966年、レースを担当した最後の年である。
前年から、MFJの運営委員の末席をけがしていた。
H前川、S岡野、Y内藤さんという経験豊かな方々の中で、会議のなかでただ座って、傍聴しているレベルの頼りない委員であった。

GP準備委員会が設立され、FISCOでの日本GPについての、難しい議題の検討が65年末から続けられた。

Hは第1コーナーが余りにも危険という理由で終始反対だったが、S,Yは鈴鹿から新しいFISCOということで、賛成だった。
議論の焦点は第1コーナーに集中した。私など、議論に入る見識も持ち合わせず、ただ黙って議論の流れをみていただけである。

66年1月に実際に、現場の視察走行を委員たちで行うことになり、FISCOの第1コーナー,「須走り落とし」を四輪で体験走行した。

ものすごいコーナーだった。すり鉢の底に突っ込んでいく、そんな感じであった。
意見を言うというよりも、カワサキの誰よりも先に自分が走れたというか、経験したということのほうが印象に残っている。

その後、いろいろあったが、Hは6月にその年のGP不参加を表明した。
後年、第1コーナーは、問題視され改修された。
今思えば、Hの主張は正しかったのだと思う。

GPの前に、幾つかのレースもあった。
W1のレーサーで金谷秀夫が走ったりした。直線は無茶苦茶早かったが、裏のカーブで抜き返された。左ブレーキ、右チェンジのレーサーだった。

9月18日のレースでは、90ccで村上、250cc金谷と、カワサキがはじめてロードレースでの優勝を果たした。

GP前には、マシンのセッテングによく出かけた。
9月29日にはデグナーが練習中、切れたチェーンが後輪に巻きつき転倒、入院することになり、カワサキでのデグナーの走行は見られないまま終わるのである。

そして、本番の日本GP(10月16日)では、GP125では、7位にしか入れなかったが、ジュニア250での、A1Rに乗った金谷とガリーニクソン(Y)の手に汗にぎる一騎打ちは見ごたえのあるいいレースであった。

更に、翌週FISCOのモトクロスレース場で行われた、MCFAJ全日本では、ノービス90cc星野,セニア250山本、オープン山本と優勝、山本隆君が最優秀選手に選ばれた。

250のマシンは、この年の7月のデビューしたF21Mであった。

FISCOに明けFISCOに終わったと言えるこの年の、私のレース担当、最後のレースであった。



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㈱忍者 伊藤彰さんのこと

2006-11-21 11:03:09 | カワサキ単車の昔話
http://jns.ixla.jp/users/ninjajhp385/

大阪の所長をしていた頃、万博のあった年(1970年)、はじめて伊藤さんに出会った。

まだ伊藤モータースという名前で弟さんと二人、中古車を中心にした小さな店だった。

今は、堺の㈱忍者の社長、大成功である。
今までに店の名も何度も変えたし、経営形態も時代とともに変遷を重ねた。
時代をよむ変わり身の早さは、まさに忍者のようである。

口は悪く、河内弁というのであろう早口である。話す中味は鋭く本音以外のことは言わぬ。
私とは親しくして頂いたが、今まで話をした時間の半分は、伊藤さんの文句を聞く時間であった。然し、彼の話は、殆どが正論である。
流石に最近は私も仕事を離れたので、話の内容も至極おだやかだが、それでも時々昔のクセが出る。

普通一般の営業マンにとっては極めてヤッカイナ存在であるが、彼に認めて貰える営業マンは本物であると思う。
その伊藤さんが頭の上がらぬ営業マンも中にはいる。竹内優さんがその筆頭であろう。

先日夜遅く、突然酒場から電話があった。
「細谷君と飲んでるんです。」今のカワサキの担当者である。多分,気に入って貰っているのだと思う。
突然、電話をかけてくるところなどは、如何にも伊藤さんらしい。昔のままである。

伊藤さんの仲間は、先日も少し触れたが、船場モータースの岡田博さん、彼は仲間と言うより伊藤さんが尊敬する先輩である。
鈴鹿ツインサーキットの経営もやっている、ミスターバイクの斉藤さん、モトクロスで有名な吉村太一さん。もう故人になられたが吉永さん、野崎さん。
みんな夫々個性はあるが、誠意のある,真っ直ぐな人ばかりである。

カワサキの販売店は、伊藤さんに代表されるような「奇人、変人」が多い。
私はいいことだと思っている。

昨日「求む。奇人、変人」という高槻市の樋渡市長公室長の文章に触れたのは、「奇人、変人」を推奨する方に出会えて、その考え方を紹介しておくほうが、伊藤さんのことなども書きやすくなると思ったからである。

1971年、カワサキは特約店制度を実施しようとしていた。
大阪の600店もあった取引先の販売店を、担保、保証金などという厳しい条件ではあったが、主旨に賛同する販売店との共栄を目標に、20数店に絞るドラスチックな改革であった。

それが推進できたのは、船場モータースの岡田さんや、伊藤さんの力や協力があったからだと思う。
当時の人たちはみな仲間だと思っている。
須川さん、大本さん、吉永さんの息子さんなど、今も尚、変らぬお付き合いが続いている。

これからもずっと、仲間としての付き合いが続けばいい。

今の㈱忍者の店は、非常に立派なものだが、
「いつかもっともっと立派な店を持ちたい。」という夢を伊藤さんは持っているようだ。
気持ちはまだまだ若いのである。

若し、そんな時が来たら,「開店祝いのパーテイには必ず寄せて貰って、ご挨拶をさして頂ける」ことになっている。

そんな風になればいいなと思っている。







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市長公室長樋渡啓祐氏のこと

2006-11-20 10:30:11 | 樋渡啓祐さんのこと

http://www.city.takeo.lg.jp/樋渡啓祐氏。面識もないし、勿論話もしたこともなく、私とは直接は何の関係もない。

総務省から出向して、高槻市長公室長を平成15年4月より17年12月まで2年半ほど務められ、また総務省に戻られた。
1969年佐賀県生まれだから、まだ40才前の若さである。

高槻市のホームページ「こちら部長室」で62回に及ぶ、彼のコメントを読んだだけである。
その意見や仕事の進め方にこれほど共感を覚えたのは、
先日ご紹介をした小野田滋郎さん以来といってもいい。三木市のホームページのお手伝いのために、いろいろ調べていたら高槻市に出合ったのである。

樋渡さんの「こちら部長室」の第1回は「全国一のホームページを目指して」で始まり第62回「さよなら部長室」で終わっている。
2年半ではあるが、高槻市は今年のホームページコンクールで、見事全国一になり目標を達成している。

62回のコメントはそれぞれ面白いのだが、次の二つをご紹介したい。


第55回BLOG,BLOG,BLOG

ブログについての、コメントである
「この4月まで、この言葉を知りませんでした。」とある。
そして、いろいろ本などで勉強した結果のブログについての感想を次のように述べている。

「ブログのメリット」
「メールさえ打てれば、そんなに知識がなくても、HPが簡単に作れる。
情報発信が容易である。同時にトラックバックなどで情報の入手も容易になる。
デジカメの画像が簡単に、且つ沢山採り入れられる。」

更に続けて、「アメリカではブログの誕生により、ホワイトハウスの会見にブログの記者の出入りが認められたり、わが国でもこの動きは加速すると思います。」

ご自分でも、ブログに挑戦され、高槻市のホームページにブログの採用を起案されている。
そして、「高槻市が全国に先駆けてブログ化に挑戦し、その成果がでることを楽しみにしたい。」

私は、上述のようなちゃんとした分析は出来なかったが、「カン」だけで、これはイケルと思ったので、自分でも試してみるとともに、三木市の市長メールでも、推薦をした。
間違いなく時代の流れだと思うのである。

ホームページやメルマガを実施している政治家は沢山いるが、ブログをやっているのは、世耕弘成と石原慎太郎の二番目の息子など、まだ極わずかでスタートしたばかりである。

高槻市でのブログは今、「芥川図鑑」ほか、うまくスタートだけは切られた状況である。

三木市もまだまだ「追いつき追い越すチャンス大」と思っている。


第36回 求む 奇人、変人

これも、私には非常に面白かったし、100%共感する。
世の中の人の教育は、まともなことが多すぎて、面白い人、本当に仕事ができる人を殺してしまっていると思っている。

自分自身がどちらかといえば、奇人、変人に近い人たちに親しみが持てたし、事実そんな仲間も多いので、樋渡さんのような総務省のエリートがこのようなコメントを書いてくれたのは、「わが意を得た」と思ったのである。

「組織には必ず、奇人、変人が少なからず存在している。それが許容されているのがいいのだ。」と言っている。

高槻市に「着任して1年経って思うのは、潜在的な奇人、変人の人たちが「普通、一般化」していないか、もっと奇人、変人をそのまま伸ばす方向を採るべき」といっておられます。まったく同感です。

更に「いい企画、いい仕事をするためにも、知的好奇心いっぱいの奇人、変人が是非とも必要です。」
「私自身も勇気をもって奇人、変人の類になるように頑張ります。まだまだ、潜在的に埋もれている奇人、変人は沢山いると思います。」

と続けて、奇人、変人のいい素質を持ちながら、「普通一般化」している、高槻市のAさん、Bさん、Cさんに呼びかけているのである。


これは何も高槻市に限らない。一般の民間企業でも油断をすると、直ぐこの風潮は体質となる。
全ての組織体にとって、「求む、奇人、変人」は通用すると思う。

私が永くお世話になった「カワサキモータースジャパンは、今どうですか。」

奇人、変人は、多ければ多いほどいいと思うのだが。






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野球部OB総会

2006-11-19 09:50:41 | スポーツ
野球部のOB総会は、今年も楽しくいい雰囲気であった。

OB総会と称しているが、

一次会。三々五々、食堂でのおでん、おにぎり、缶ビールつきの簡単バイキングの昼食で始まる。母校グランドでの現役対OBの硬式による対抗戦。と年配OBのソフトボール対抗戦。

二次会。母校食堂での総会、懇親会、オークション。

三次会。OGの経営する三の宮のクラブでの飲み放題パーテイ。

総会と称してはいるが、総会の時間は15分程度で、後は現役、若いOB,若くないOB.更にマネージャー役の女子、OGの、それぞれが主役で活躍できる場がうまく提供されていて、かっこよく言えば、目線がちゃんと全体というか末端を見ている、いい企画だと思う。

昔、全日本のメンバーでもあった久留島さん、60数回連続無失点記録の小山君など、過去素晴らしい栄光をもつOBもいるが、殆どは普通一般レベルかそれ以下の野球部員である。

現会長は私より5期ほど後輩で、カワサキでも一緒で関係の深かった、原田紀男君が3年ほど前から務めている。

ご存知の方も居られると思うが、ざっくばらんを通り越した、ずけずけ本音でものを言う。
柄がいいとは決して言えないが、妙に原田を悪くいう奴はいない。
会長のこの性格がこの会の楽しい雰囲気の大きな要素になっている。
仕事もでき、野球も上手く、カラオケは抜群なのだが、ゴルフは不思議にめちゃめちゃ下手である。
昨日聞いたら、パソコンは持っていないということなので、安心して悪口が言える。

昨日の参加者のなかには、北海道から松浦君ほか千葉、浜松、高松、名古屋、広島など遠くからの参加もOGの参加もあった。

野球部の年間活動費の約半分はOBからの援助になっているのだが、この総会の参加費および、参加できないOBからも提供された物品のオークションによる金額も経費差し引き後50万円にも達する勢いで、現役の後押しに大いに役立っている。

オークションの品物はいろいろ工夫されて、今年は経済界の東西対抗戦に出場し、MVPを獲るなど活躍した、小谷,安井君などの写真を真ん中に入れて来年のカレンダーに仕上げたものなども出品された。

私もソフトボール対抗戦で、一番ファーストでフル出場し4打数3安打で賞を頂いた。出来過ぎであった。

今年の特徴は、現役卒業直後の若手諸君が多数参加されたことである。

このようなスタイルのOB会がスタートしたのは、前会長太田武郎さん時代からである。
もう10年にもなるのだが、ようやく若手諸君の理解も得て、素晴らしいOB総会に育ってきた。
頭を使った企画の勝利だと思う。

若し、コンクールがあったら、優勝はともかく入賞は間違いない。

後は、現役諸君の優勝、または入賞を祈るのみである。

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