雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

蛍は無理ではないようです。

2007-09-30 20:20:32 | みっきぃふるさとふれあい公園
このブログでは、簡単にしか書かなかったが、

私の5つのブログ、2つのSNSを使って一斉に私の今の情報収集力の全力を上げて、
「ここで蛍を飛ばすのは無理でしょうか?」とお聞きした。

gooよりは、現地の写真が貼付し易かったので、exciteを中心に流したのである。
いろんな方から、情報や応援のコメントを頂いた。本当に有難うございました。



その中で、いつもコメントを下さる kj さん から、昨日の昼、
加東市にこんな専門家がおられますよという情報を頂いた。
日曜日だったが電話をしてみると、その西山さんが出られた。

大体の話をして、「今日でも現地を見て頂けませんか」と、頼んだらOKと言うことなので3時半に現地でお会いした。

西山さんはこんな蛍の専門家である。



現地を見てもらってのご意見は、

「200%大丈夫です。今からやれば来年の夏は間違いなく飛びます。」と心強い回答である。
さらに、「全国に行っているが、久々に見るいい立地である。間違いなくこのあたりでトップの名所になる」と言って頂いた。


どんなところがいいかと言うと、

1.こんなに長い流れは少ない。何年もすると何千匹の蛍が群れ飛んでも大丈夫な環境である。
2.林があるのがいい。源氏ボタルは高く飛ぶので、このような高い木のあるところでは、美しく映える。
3.明るい光がない。最近はどうしても光があちこちにある。光があるところは蛍はダメで、そんな立地では電気を消して貰っている。
4.水質は十分である。あんまり綺麗な水はむしろダメで丁度いい。

答えは極めて明快であった。
このあたりのことから200%大丈夫と言われているようである。
蛍の実績20年、明日からも九州に行くので、4日以降ならまた、ということで別れた。



コメントを頂いた方々から
「わくわくします」「子供を連れて手伝いに行きます」などの、応援メッセージを頂いている。

折りしも、三木市の総合計画素案が発表された。
「蛍の飛び交うまちに」と書かれている。

みっきいふるさとふれあい公園でも、夏は蛍と詠っている。

場所は、駐車場なども完備していて、何人来ても大丈夫な立地である。


私はいいと思うのだが、担当の方や行政がどのように判断されるのか?
その辺のところを詰めていきたいと思っている。

是非皆さん方の応援を期待します。

場所はこんななところです。kjさんとのコメントのやり取りもどうぞ。

kjさんは、お会いしたことはありませんが,いつもコメントを下さいます。
博学です。カワサキのモーターサイクルで最初繋がりました。二輪もレースも詳しい。多分、35才位、今は関東にお住まいですが。

一番最初は、「何故呑吐ダムか?」 それはそこに  「呑吐の滝」があったからです。と言うコメントでスタートしています。
その頃は、神戸に、そして明石にも居られたとか。

kjさん本当に有難うございました。

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モトGP世界選手権第15戦、日本GP

2007-09-30 06:06:18 | M/Cレース
先週の日曜日、「ツインリンクもてぎ」で、モトGPが行われた。

もう現役から離れてしまうと、レースの話も解からなくなってしまう。

今年の8耐にはカワサキはファクトリーが参加しなかったので、カワサキファンの方からこのブログにもお叱りを受けたりした。

相信会の会合のとき田崎さんにも会ったので、その辺のことも頼んだりしたが、
その時今年はモトGPに力を入れているので、という話であった。

「もてぎには応援に行く」と言っていた。


そんなことも忘れていたら、doppyさんから
「おめでとうございました。2位と7位に入賞でした。カワサキレーシングの素晴らしい采配が実ったレースでした。そして何よりも会長さん自身が応援に駆けつけられたようで、kawasakiの底力が発揮されたと思います。」との最高のお褒めのコメントを頂いてはじめて知ったようなことであった。

もてぎの建設中はまだ現役で、カワサキも松井田にサーキットを造ろうとその直接担当もしていたので、もてぎは完成前からコースレイアウトなどよく知っているのだが、実際のレースは見たことも無い。


忘れかけていたら、

今日、家に二輪車新聞の日本GP特集号が届いた。
特集だから、全て日本GPの記事である。

オートバイ誌の記者もしている衛藤さんとは50年のお付き合いだが、彼がまだ現役なので、二輪車新聞を今でも送ってくれるのである。

レース経過も結果も詳細に書いている。

カワサキのホームページも、その結果が載っている。

途中カワサキがトップを走っていたこともあったようである。
優勝はドゥカテイで2位カワサキ3位ホンダと入っているので、ホンダに勝ったのは大健闘である。


いまは誰がレース担当で、監督をしているのか知らないが、担当の方には心からお目でとうと申し上げたい。

直接担当した人でないと解からぬ、嬉しさである。
ほっとしたことだろう。


みんなどのチームも優勝を狙って、やってくるので優勝は勿論、表彰台もなかなか難しいのである。

2位に入ったピュニエは 「いい1日だった。すごく厳しいレースだったのでとてもハッピーだ。ハードに働いてくれたチームにも感謝している。」
といいコメントである。

来年は、優勝を目標にやれるだろう。

だが、ホンダもヤマハもスズキもカワサキにやられて、ハッパが架かっているはずだ。
だからレースは難しく、また面白いのである。
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旗を振るのは簡単だが

2007-09-29 05:47:09 | カワサキ単車の昔話
一般的な話であるが、世の中のいろんなことは、「アレは誰がやった」と言われることが多い。

その誰は、その時のトップの名前で言われることが多い。
そういう風に言われる立場にあることは至極心地よいことではある。

サラリーマン時代、カワサキの二輪事業に永く携わったが、事業がカワサキにとって新しかったこともあって、新しいこともいろいろやった。
その意味では「私がやった」と通常言われるような事柄も多かったのは事実である。


然し、現実には「旗を振ったのと」「現実に造り上げた」のとは全然異なる話で、

「旗を振るのは」意外に簡単で、狼煙を上げるのはモット簡単なのだが、
「現実に造り上げる」のは、それをやってくれる仲間の努力なしには出来ないのである。

何故「仲間と言うのか」
上司と部下の関係だけでは、出来ないのではと思っている。
ここで言う仲間とは「コンセプトを共有する人たち」を指している。


特に仕組みは本当に難しい。
その仕組みシステムを作り上げるのは、「その方向に旗を振る」何倍もの努力が必要である。
それが出来たのは、それに専念してくれた 「仲間」 があって始めて出来るのだと思っている。
組織の中ではたとえ部下であっても、部下ではなく 「仲間だ」 という認識でないと難しい話は、実現しないのである。
部下だけではなく、部外者も仲間に引き込むことも必要だ。そんな協力者を得てはじめて達成できるのである。

特約店制度での  藤田君、鍋島君,古石君、竹内君、船場さん衛藤さんなど。
仕切り制度での  当時西日本の山辺、谷沢君以下の皆さん。
JJSBAの     鶴谷君、藤田君、宇田川君、永野君など、それに苧野さん、友光さんなど。
KAZEの      南君、渡部君、森君、西川君、など。
二輪専門学校の  谷沢君,渡部君、阪神ライデングの有馬さんなど。
チームグリーンの 重本君、野村君などなど。勿論ライダー、メカニック。

その時々に、いい仲間と一緒にいい仕事が出来た。

これらの仕組みは、今でもちゃんと残って後輩たちが引き継いでくれている。
あのときの仲間たちが、確りと造ってくれたからである。

仕組み、システムが残り、今でも機能していることは非常に嬉しいことである。



少し変わるが建物とか構造物。
これもその時トップだった人の名前で言われることが多い。
これは予算というお金の問題があるので、確かにトップの人の力は発揮されるのである。
然し、これは部下が確りしなくとも、仲間意識を持たなくても簡単に出来る。

だからみんな、やりたがるのだと思う。

建物とか構造物は、目に見えて残るし、「私がやった」といい易いから、みんな一生懸命やるのだと思う。


一番簡単なのが、組織人事である。
これは間違いなく、「私がやったのである。」

直ぐ出来るし、権限さえ貰えば誰にでも出来るのだが、出来ても直ぐ潰される。

組織がそのままで、延々と残っているという話を聞いたことがない。
私の造った組織も、いまは消えてしまって影形も残っていないのである。


先日、自動車学校に関するこんなブログをアップしたのだが
私が作ったような表現をしたので、その反省もこめて、
思ったことを述べてみた。

いい仲間に恵まれたと思う。沢山いて書ききれない。

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蛍を飛ばすのは無理ですか

2007-09-28 05:58:10 | みっきぃふるさとふれあい公園
伽耶院は蛍が飛んで、有名になったのに人が来過ぎて、渋滞でダメになってしまった。

何とか蛍を飛ばしたい。
いい場所を見つけてきたと思ったが、無理という判断である。

どなたか詳しい方はいませんか?

ここは場所としては最高だと思います。
兵庫県は蛍の飛ぶ公園いっぱいです。

美嚢川を鮎が泳ぐ川に、そのためには上流の水の浄化はMUSTです。
そのためにも蛍はいいと思っています。

そんな夢みたいな話ですが、「さるとる」さんどうですか?

提案の場所はこんなところです。
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ワンセグ主役に

2007-09-27 05:33:52 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram
いつだったか朝日に、ケータイ夏商戦「ワンセグ主役に」
1000万台突破、シャープ牽引と出ている。

携帯電話の話だということまでは直ぐ解かった。

mixiをやっているとブログにアップしたら、何人かの方から「何でもやってるんですね」と言われたが、
この頃なら誰でもやっている携帯とは残念ながら無縁で、「ワンセグ」という言葉は何度か聞いたことはあるのだが、「ワンギリ」とは違うようだし、何のことか検討もつかずにいた。

新聞の見出しにこんなに大きく出ている言葉が、「見当もつかないではいかんな」と思って、検索してみた。



「ワンセグ Wikipedia」である。

一般の人たちが作り上げる百科事典というが、立派なものである。
誰が書き込むのか、世の中には詳しい人もいるものだ。

詳しすぎて、読んでも技術オンチの私には半分も理解できない。


それでも、「ワンギリ」のような和製造語ではなく「ワンセグ」は「1seg」であること、
2006年4月1日より29都道府県で12月1日よりは、全都道府県で実施されたとか、
正式名称は「携帯電話移動体端末向けの1セグメント部分受信サービス」であること、

少し観点は異なるが、
このワンセグ対応電話は、ユーザーがいつ、どのチャンネルを、どのくらいの頻度で視聴したかを詳細に知ることが技術的に可能である。
そんなことで、ユーザーが意図しない形でのプライバシー問題もあるとか、

この辺りのことだけは、理解できた。


これだけでも、忘れそうなのでブログにアップすることでこれくらいの知識だけは身につけようとアップしているのである。

先日、どこかで触れたが、島田しんすけが雑談で私に言った「知識は人に喋ることで身につく」という。
ホントにそうだと思うし、学校の先生がなんでも知っているのはずっと人に喋っているので、自然に身についているのだと思っている。

「ワンセグ」についても、Wikipediaに書いてあるようなことは、トテモ覚えられないが、これくらいなことは身についたと自分自身で納得しているのである。


それにしても、Wikipediaの書き込みは凄いなと思う。
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ひょこむ

2007-09-26 05:22:55 | 発想$感想
つい、2,3日前、「ひょこむ」に入りました。

「ひょこむ」とは
兵庫県を舞台とした、信頼と連携の
「コミユニィティ活動支援型地域SNSサイト」です。



1ヶ月ほど前に、「村ぶろ」にも入りました。

どちらも、まだこじんまりしたSNSですが、その親しみ度は抜群です。
システムの機能の高さは、新しいだけに驚くほどの水準です。

特に、兵庫県にお住まいの方、兵庫県に関心のある方にお奨めです。



どんなコンセプトか、纏ったものがありましたので、少し長いですが、ご関心のある方はどうぞ。


私は、新たに日記を書くというよりは、今までの日記の中から「ひょこむ)のコンセプトに合うものを、紹介してゆくようにしたいと思っています。

私のプロフィールは、少し詳しく書きました。


知事さんかも、ジョインされています。
知事さんも、メンバーのどなたでも、上下のないヨコ一線というSNSの仕組みが気に入っています。


スタート直後の読売新聞
神戸新聞の記事です。
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カワサキ単車の昔話-76

2007-09-25 07:03:23 | カワサキ単車の昔話
青野ヶ原モトクロス

日時は明確に解からないが、1963年、昭和38年のことだと思う。
まだ、単車事業がふらふらしていた頃である。

私は、発動機の営業部門にいて管理を担当していた。
青野ヶ原のモトクロスには、直接関係はしていないが、いろいろとウラの事情は承知していた。

このプロジェクトというか計画は非公式なもので、
中村治道さんが音頭をとり高橋鉄郎さんや川崎芳夫さんが参加して、マシンは松尾勇さんたちの手作り、ライダーは飯原、加藤、秋原君などテストライダーたちである。

技術部ではなくて生産現場が主体のものであった。

会社が正式に認めたものではなく、残業時間帯にみんなボランテイアで計画は進められた。
そんなことを、苦々しく思っていたモット上の方たちが居たのも事実である。


何故、私が知っているのかというと、
上司の「おのすけ」さんが、残業料も出ないし、金もないので営業で管理していた金の中から「幾らか面倒見てやれ」と言われて私の管理していた中から、このプロジェクトの手伝いをしていた営業の川合寿一さんにそんなお金を渡したからである。


そんな状況の中で行われたモトクロスで、カワサキは優勝から4位、5位?までを独占する快挙で優勝を飾ったのである。マシンはB8。

決して、マシンが速かった訳でもないし、ライダーが速かった訳でもない。
当日は雨で、コースはいたるところに水溜りがあった。
当日のレースにその時はヤマハで出た山本隆君の話では、ヤマハやスズキのマシンはみんな水を被って止まってしまった。実用車に最も近かったカワサキだけが防水対策も完全でみんな完走したというのである。

神様が助けて下さったのだと思う。
私などその時のレースの写真を見て、モトクロスとはこんな水の中をしぶきを上げて走る競技だと本当にそう思った。


この快挙で、単車事業部は一挙にムードが上がった。
文句を散々言われていた上の方たちも、玄関前での記念撮影には最前列に並んで写っていた。

丁度、単車をどうするか、調査をしていた日本能率協会も、
事業部にはこの事業を続けたいと言う熱意があると、幾つかの条件をつけて、
単車再建を提言する結果になったのである。


そういう意味で、この青野ヶ原のモトクロスは、カワサキの単車事業の命運を分けたものだった。

カワサキワールドの単車のコマの最初にこのときの写真が飾られている。



このあと、単車事業再建の歴史が始まるのだが、その辺からは「カワサキ単車の昔話ー1」からアップしているので、私が入社して単車を本格的に担当するまでの当時の川崎航空機の様子を連続して纏めてみたものである。
(カワサキ単車の昔話73~76)

多分青野ヶ原について、そんなにに詳しくご存知の方も少なくなってしまったと思う。

(Z1会でもご一緒している川崎芳夫さんが一番詳しいのではないかとと思う。Z11会のメンバーには、このときのライダーの飯原君もいる。
先日高橋さんに、この写真に何故、治道さんが写っていないのかお聞きしたら、当日調子が悪くなって急遽高橋さんが指揮を取られたとか、確かそんな風に言われたと思う。これなどもはっきり覚えていない。つい、最近のことなのに。)

私もそんな年になってしまっているのである。
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カワサキ単車の昔話-75

2007-09-24 05:59:27 | カワサキ単車の昔話
カワサキはメイハツ工業に単車のエンジンを供給していたのだが、60年頃から明石工場での一貫生産を目指して単車準備室などが組織の中にあってその準備を進めてきた。

私が単車に移籍した61年末ごろには、ようやく明石に営業部門のようなものが設置されたのである。

125ccのニューエースが名前と違って全然駄目で、次のB7もフレームが折れる欠陥でどんどん工場に返却されていたそんな真っ最中に、営業部門に配属されたのである。

当時の国内営業部門はカワサキ自動車販売というメイハツの営業部門の人たちで組織された販売会社があって、明石は営業と言ってもそこへ出荷さえすればいいそんな機能であった。

配属されたら直ぐ小野助治さんと言う通称「おのすけさん」がいて、
(この方は佐賀出身のいい方だったが、面倒見がよくて当時単車の関係には小野助さんのコネで佐賀出身がいっぱい居た。後私の仲人もして頂いた)
「お前な、物品税をやってくれるか」が指示の第一声であった。



当時、贅沢税であった物品税は125cc以上のオートバイには掛けられていた。
納入は至って簡単なのだが、戻入は非常に手続きも難しく、税務署の立会い検査もあって、手間が掛かるのである。

B7の返品が出荷する以上にあったりする状況だったので、めちゃめちゃ忙しくどうやら私はそのために異動されたようである。

そんな時代であった。
カワサキのM50というモペットも造っていたし、井関農機が農協を通じて販売する、空水冷のモペット、タフ50なども扱っていた。

余り、経営状況など関心もなく、解かりもしなかったが、いい訳はなくて、単車はやるのかやめるのかそれもはっきりしない状況であった。
発動機部門に吸収されてその一部で単車が扱われていた時代である。

当時はまだ、高橋鉄郎さんや田崎雅元さんらはジェットで単車とは関係がなかったのである。
そんなことで、1年ほどだが単車は私のほうが先輩なのである。



B7の次に出たB8が何となく売れて、
単車をやるかということのなってジェットから第一陣の移動の中に、苧野豊秋さんや高橋哲郎、田崎さんらが居た。
苧野さんは営業の企画を担当された。
私の上は小野さんだった。

おのさんが、二人になって苧野さんはみんな「いものおのさん」と言って、区別し
ていた。

B8が調子よく売れ出した頃、「青野ヶ原のモトクロス」があったのである。
これが単車を本格的にやるきっかけとなったのである。

この話は次に。
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カワサキ単車の昔話-74

2007-09-23 05:52:50 | カワサキ単車の昔話
入社当時のカワサキー2


何にも整備されていなかった当時の川崎航空機ではあったが、
ジェットのオーバーホールは東洋でこの明石工場だけで、米軍が駐留しており、社内にカフテリィアなどというしゃれた喫茶室やIBM室があったりして、そこにはエアコン完備で夏も涼しいという当時では考えられない環境のところもあった。


私の担当は、工具器具備品で机や椅子、車両運搬具で自転車などがあり、この修理や新品の配布なども担当した。

みんな、それを今の世では考えられぬほど欲しがるのである。
昭和32年当時は貧しかったのである。
新人といえども一応配分の権利は持っていたので、課長さんなどが頼みに来たりするのである。

木の椅子がよく壊れるのでネコスのスチール製の椅子や机に変えることにした。
そんな判断も、変更も1年生で意見を述べたら大丈夫出来たのである。
そういう意味では、自由でいい会社であった。
基準や規定が余りきつくなかったのである。戦後の中断がそうさせたのだと思う。

いいものになると、余計に欲しがるのだが、
一斉に変える訳にはいかずその基準の設定や判断も任してくれたので、
新人といえども大きな権限を持って、あんまり頭を下げずにむしろ頼まれる立場で過ごせたのである。



ただ、別の面では苦労した。
財産台帳を整備せよと課長に指示されて、数を数えたりしていたのだが、会社に職制変更や異動などあるのが解からなかった。

折角苦労して数えていた椅子や机が、一斉の職制変更でどこに行ったのか解からなくなってしまったのである。

仕方がないのでその後は、プレートをつくり番号を打ち、釘と金槌を持って、これは数えましたという証拠を残す作業をほぼ1年やっていった。

「お前はいつ見ても釘と金槌を持って歩いている」と言われた時期である。



償却計算も大変であった。
工具器具備品は単価は安いのだが数がべらぼうに多い。
単価は安くても高くても、計算に掛かる工数は同じである。
私独りが休日出勤して片付けねばならなかった。
こんなことを1年やったが、どうしても納得いかず、機械化を考えたのである。

それも、日本の事務機もいろいろ当たったが機能がもう一つである。
「そうだ。ジェットのIBMを頼もう。」とIBM室に頼み込んだのである。

これも手伝ってやろうというIBM室の若手の久森君が現れて、
償却計算の仕組みとコードなどの設定を約1年掛けて完了した。
IBMの威力は物凄く、10人ほどいた財産課の計算要員の人たちはみんな要らなくなってしまったのである。

そんなことで私は単車営業に転籍することになった。
私と単車とのご縁は、自らやった償却計算のIBM化で、お払い箱になった結果のことである。



ずっと後に、IBMの研修でIBMに関係した自己紹介をというので、このことを話したら、
先生が「10年ほど違っていませんか。
日本でIBMが導入されたのはオリンピック以後のことですよ」と仰った。
「間違いなく、1958,9年の話です。米軍が使っていたIBMのコンプユーターです。」と答えたらビックリされていた。

日本にコンユーターなどなく電気計算機の時代の話である。
機械の仕組みはみんな久森君がやってくれて、
私はコードの設定などを担当したのだが、ついでに岐阜も本社も巻き込んでのコード統一が出来た。
給与形態などもまだ完全に統一されていない時代で、財産のコードが一番先に統一できたと褒めてもらったりした。



こんな新人時代だったので、
殆ど上から指示を受けたり教えてもらったりすることはなかった。

そして、新しく転籍した単車も、上の人が経験をしたことのない分野であった。

サラリーマン生活を長くやったが、上から目標の指示は受けたが仕事を教えて貰ったことは、あまり記憶にないのである。


そんなことが、「何でもやりたいことをやる」
「何をやりたいか」と目標を定めてやる面白さを覚えて、この年までずっとそのスタイルが続いている。
しんどいこともあるが、そのほうが間違いなく楽しい。


これは私だけでなく、同年代を生きたカワサキの単車の人たちは「同類項」がいっぱい居た面白い集団であった。
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カワサキ単車の昔話-73

2007-09-21 16:08:57 | カワサキ単車の昔話
入社当時のカワサキ

ずうっと遡って私が会社に入社した頃、
昭和32年、何故か前年までの不景気が吹き飛んで、神武景気に世の中が沸き入社も意外に簡単なそんな年であった。

まだ西暦の年号など誰も使わなかったが、西暦で言うと1957年である。
実は、前年の卒業であったが、不景気で会社が人を採らないので、ゼミだけを残して1年間野球部の監督をしていたのである。

ツイテいたというべきだろう、前年に会社に入った人たちは余り大手には就職出来ていなかった。



就職したのは川崎航空機である。

軍事会社ということで、一時休眠していたのが再開された。
そんなこともあって、あんまり年寄りのいない若い空気の会社であったが、業績がどうだったのか余りそんなことは解からなかった。

給料が12000円ということだったが、入社してみると1時間残業をして12000円でその支払いは月2回だったから、業績が良かったはずはない。

ジェットエンジンのオーバーホールや発動機のエンジン、ミッションなどを作っていた。
オートバイのエンジンはメイハツ工業のものを供給していたのだと思う。



配属は財産課であった。
何をする課かというと、会社の財産の管理である。
入社して直ぐ、担当分けがあった。

先輩が「君、機械はわかるか」「?」「工具器具備品は」「車両運搬具は」と聞かれて、それは机や椅子や自転車だというので「それは解かります」と答えたら、その担当になった。


土地や建物など、或いはいろんな所有権のような管理もあるのだが、それはみんな
先輩たちが担当をした。

戦前の川崎航空機は非常に大きかったので土地は広いし、戦前の機械は山ほどあった。戦時中の空襲で工場は全焼していたので、その鉄骨などもあった。

そんな財産物件を売りながらの経営で、営業収入より財産課の財産処分益で食っていたような時代であった。



新入社員にはそんな大事な仕事は廻ってこずに、毎日がタイガー計算機を回しての償却計算に明け暮れていた。

当時の財産物件の基準は、取得価格1万円以上であったのだが、
ジェットエンジン工場は新設で、300円以上が財産に計上されていたので、バケツやすだれまでが財産物件、勿論机椅子の類もそうだった。

そんな訳で無茶苦茶数が多いのである。
これは今思うと先輩たちにハメラレタのかも知れない。数が多いということは、それだけ計算の工数が掛かるのである。


さらに、財産台帳が工具器具備品だけがちゃんと揃っていないのである。

課長に台帳の整備を命じられて、就職1年目がスタートしたのである。
まあ、大変な会社であった。今の人たちに言っても信じて貰えないと思う。



然し、1年目から思いのほか束縛されずに自由であった。
先輩で、誰もそれをやった人がいなかったからである。

1年目から私の流儀で仕事をすることが出来たのである。


この続きはまた。

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敬老会とGABBAのCD

2007-09-20 05:49:00 | 樋渡啓祐さんのこと
今日の武雄市長物語、
敬老会とGABBAのCD」と題してアップされています

まあ、楽しいというのか、ほほえましいのか、
とにかく、元気です。

市政にもこんな市政があったのかと思ったりします。
半分以上が樋渡さんのリーダーシップでしょうが、最近の動きを見ると市民の力も相当なものです。


昨年の9月のブログ、がばいばあちゃんの討ち入り式がありました。


1年前に、1年後がこんなになると予想していたのでしょうか?

多分、こうなるとは思わなかったと思います。

来年の今頃は、どうなっているのでしょうか?


なかなか、予想するのは難しいのですが、
6ヶ月というのは、何かするのに、十分な時間と思っています。
1年あれば、大体の方向は掴めるし、結果も出ると思っています。

今の世の中は、私たちが現役のときもそうでした。
1年では全然だが、3年経てばと思うのは幻想です。
1年で変わらぬものは3年経っても、何も変わりません。


3年計画、5年計画、みんな好みますが、3年前、5年前を振り返ってその時代がどんな時代であったか。

殆ど時代が変わっています。それくらい世の中は変わります。


どの時代にも変わらぬ目標、
「ミッション、ビジョン、そのコンセプト。」

これは大事に考えるべきだと思っています。

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村ぶろ、日経MJ大賞 受賞

2007-09-19 06:18:48 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram
朝日新聞の記事を読んで、そのコンセプトに共感して即座にジョインしたのは、
8月29日のことである。まだ1ヶ月も経っていない。

今日の村長さんのブログで日経MJ賞の受賞を知った。

ITを利用して地域活性化に取り組んでいる事例を表彰しているもので今年で5回目であるとか。

地域情報化大賞である。

まだ、1ヶ月にもならぬが、
村ぶろの居心地は、他のブログとは差別化された、ほんわかとした良さが実感できる。

この3月にプレオープンし、6月にグランドオープンした新しさがそうさせるのか、

私が今やっている4つのブログ、
gooの親しみ易さは持っているし、
Yahoo,excite,よりは新しいだけに優れていると思われるし、
新進のFC2に比べても機能的に遜色はないし、むしろ操作の簡単なことでその上を行くかも知れぬ。

今のところ一番親しみも持てるし、何よりも記事のアップがし易いというのが感想である。


将来、このブログエンジンを全国の自治体に提供するという大きな夢があるようだ。
所謂ソフトの販売である。それを500人の小さな村が発想しているのである。
もし仮に、どこかの自治体に「どうですか?」と訊ねられたら即座に「いいですよ」と応えられる。


これは、本当に凄いことだと思っている。
表彰を受けたことが凄いと言っているのではなく、このような取り組みを500人の小さな村が大きな夢を持って展開しているその姿勢が凄いと思うのである。

受賞は当然である。
もし日経がこれを見逃すようなことがあれば、そのほうがおかしいと思う。

もし、関心がおありなら、「小さな村の大きな心意気」を買って、ジョインされてみては。

それと、この村ぶろには、村長さんも、担当者もジョインしているのですが、
担当者の方は「この受賞でアクセスが伸びることを期待」と書いています。
是非、一度覗いて見て下さい。

ホントに居心地いいですよ。


最後に、担当者のブログにあった、「村ぶろ」のコンセプト。
確りしています。
何万人もいる市もこの意気込みを見習って欲しいと思います。
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私の mixi

2007-09-18 06:06:45 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram
いつ頃からか、もう1ヶ月にもなるか、mixi に加入した。

mixiという言葉に出会い、その存在を知ったのはもう1年以上も前である。
簡単に、自分で入れるのなら多分直ぐ入っていたと思う。

然し、ご存知の通り mixi は誰か既に入っている人の紹介みたいなのが要って勝手に入るわけにはいかないのである。

一番最初はどうしたのだろうというのが、疑問だが。
それはともかく、米田和彦さんが入りませんかと声をかけて下さったのである。
三木市の28才の市会議員の方で、ブログで繋がった。

入会したものの、なかなか仕組みも解からず、今のところブログのようにはいっていない。

こちらが何もしないので、外からの反応も少ない。
ここでも、情報発信しないと情報収集は難しいという原則通りである。

そんな数少ない情報の中で、
ブログで繋がった、大阪の「かめまん」さんからメッセージを頂いた。
ホントに幾つかしかないメッセージの中の一つだから、誠に貴重である。
直ぐご返事だけはした。


メッセージではなく、多分覗くだけだと思うが、「足あと」も記録される。
その「足あと」の中に、「ねえやん」があった。
かって、JJSBAで何年も続けてジェットスキーチャンピオンの座にいた松口久美子さんである。

ソウルのオリンピックのデモンストレーションのときもご一緒したし、先日KMJのOB会の写真をアップしたら何人かは知っていますとコメントをくれた。

ブログのほうは殆どアップされていない。mixiのほうをやってるのだろうか。
mixiでメッセージを送った積りなのだが届いたかどうかが解からない。



と昨晩原稿に書いたのだが、今朝その「ねえやん」こと松口久美子さんから、メッセージとマイミク要請が届いていた。

メッセージには、
「mixiされているのでビックリしました。トップページの画面右側にあるニュースにコメントをつけたり、日記に日記キーワードランキングの上位に表示されているキーワードを使って日記を書くと1分間に100件くらいのアクセスがあります。
流石1300万人のコミユニテイサイトです。
是非、活用してください。」 とあった。

いいタイミングで、メッセージが届いた。少し勉強してみるか。
マイミクシーに追加した。「よねさん」と「ねえやん」マイミクが2人になった。
昨年、600万といわれていたのだが、上場などしてさらに倍増している。

「ねえやん」は mixi が忙し過ぎて、ブログは手が廻らないのだろう。
mixi を見たらいろいろやっておられるようである。

とにかく、ご連絡有難うございました。






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さるとるファイト

2007-09-17 07:14:45 | みっきぃふるさとふれあい公園
「さるとるファイト」というブログがある。

三木市の職員で「みっきぃふるさとふれあい公園」を推進するチームのメンバーが発信している。
先日のタウンミーテングで発表者になったがまだ若い。役職はないが、発想が柔軟で前向きで面白い。

その人が個人の立場で立ち上げたブログである。
少し、面識もあるし、そして気も合うので応援をしてあげたいと思っている。



昨日のブログで「ビーンズドーム」、今日のブログで「無料駐車場」がアップされている。
「ビーンズドーム」では「ここに松岡修造を招びましょう」と言っているのだが、
それに対して、市民のnmwcg423からコメントが寄せられて、そのやり取りが面白い。

「書類は紙切れです」「行動はスピードです」という言葉も出てくる。

ブログの「双方向の情報発信機能」が発揮されている。
この通りに役所のなかも動けばいいのだが。

いろんなやり方もあるのだろうが、
「さるとる」は「多くのブロガーのネットワーク力でこの企画をやりましょう」と提案している。
今、その片棒を担いでいるのである。

nmwcg423さんは、私のブログにも何回かコメントを下さる。
R175さんなども、みんなブログをお持ちになればいいのにと思っている。
いろんな人のブログの輪は「みきの力」になると思う。



実は、ビーンズドームでの日本代表の公開練習を観に行った時の雑談で、「松岡修造」も「無料駐車場」も出た話である。
3人での雑談が、ブログにアップされると、何人かに共有される。

口コミにもなる。たとえ直ぐ実現されなくても、そんな考えが現存するということだけは解かる。

あとは、上に立つ上司やその上の方たちの、感性の問題である。
本来、上に立つ人たちは、そんな小さな末端の声、やり取りを見逃さずに頭の中にちゃんと覚えておくべきである。


別に、タウンミーテングやデスクを開かなくても、今の世の中情報は満ち溢れているのである。
私は、今朝5時半に起きて、このブログやnmwcg423さんのコメントを読んだ。

別に準備していた原稿を急遽変更して「拙速で」今一本指でキーを打っている。
「拙速」は私のブログに寄せられたnmwcg423さんのコメントにある言葉である。



今朝のブログは「無料駐車場」である。
これは、私のとってはある意味感無量である。
私の意見が、はじめて役所の人が認めてくれて、言及してくれた。

これは、三木のセールスポイントの一番に上げるべきことだと思っている。
私の100回以上続けた公式の「市長メール」の第1回にこれも書いている。
書いても、読んでも見逃してしまう。

私は意外に我慢強く決して諦めない。
昨日も「村ぶろ」で「無料駐車場」をアップした。
同じ20万人が集まる三木の「金物まつり」と鈴鹿の「8時間耐久」のときの駐車場のことに触れた。
直ぐ三重県の方がその通りです。三木はいいですねとコメントを下さった。


三木の人たちは恵まれすぎて、何にも感じなくなってしまっているのだと、
私は思っている。
金物祭りのときに、駐車場の話は改めて、市長メールしている。

やっと、陽の目をみた。 「さるとる」さん有難う。





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「ずっと思っている」こと

2007-09-16 05:37:17 | 発想$感想
先週から、このブログも2年目に入っている。

日記は今まで54年間もずっと続けて書いてきた。今でも、書いている。
このブログも自分の想いを正直に書いてはいるが、手で書く日記とは少しスタンスが違う。

外に発表する。人が読むということは無意識のなかにも自然に意識している。
そういう意味では、本当に自分の意見かなと、思いながら、反省しながら書いている。

まあ、それでもホンネに近いし、ホンネだと思って自分自身書いているのである。



先週、議会を1年ぶりに傍聴した。
議論は殆どなく、質問意見の型通りの発表の場であった。
その時に思った発言ではなく、何度も練習し修正をしたものが読まれている、国語の時間のような「議論」であった。

樋渡さんが「ブログ1周年おめでとうございます」とコメントを下さった。
「議会の一般質問が終りました。突き上げられたり、自らの答弁で墓穴を掘って、議員の皆さんや職員に迷惑をかけたり散々でした。ともあれ、これからもストレートに言っていくつもりです。」とあった。

こんな議会は、傍聴していても面白いだろうと思う。
三木もいつになったら、こんなことになるのだろうか?永久にならないのだろうか?



コスト意識というのがある。何事にもコストが掛かる。
特に掛かるのが、人件費である。1時間に幾ら掛かるかが時給である。

議会の間も、それを検討する間も、みんなコストが掛かっているのである。
そんなに安い時給ではない方たちのコストである。
そんなコスト意識があるのだろうか?

ホントに無駄を省くのなら、こんなところからはじめるのが一番である。

若し、本当にちゃんと仕事をしていたら、
あの程度の議員の質問など「ぶっつけ本番」でも大丈夫だと思った。



私自身も、サラリーマンをやったので、幾つもの公式の会議や300人も集める大会議など何回も経験したが、殆ど「ぶっつけ本番」だった。原稿など用意したこともない。
練習などしなくても、自分以下にはならないし、幾ら練習などしても自分以上にはならないのである。

その時、ちょっと練習したから上手く行くと思うのは錯覚である。
日頃、どのように考えどのように仕事をするかが大事なのである。

議会はより公式の神聖な場だから、そんな訳にはいかないと言われそうだが、
そんな立派な場所だからこそ「ホンネの議論」が欲しいのである。

議員の皆さんにも、役所の方々にもそれをお願いしたい。
あの質問に「ぶっつけ本番で応えても」多分そんなに問題は出なかっただろう。



若しそうだとしたら、いろいろと費やした時間に掛かったコストは無駄である。
私は余り好きな言葉ではないが、よく言われる、「市民の血税のムダ遣いである。」

議会だけの話ではない、詰まらぬことに報告書を書かすなど民間でもよくあることだが、これらも人件費というコストが、「一番高いコスト」が掛かっているのである。


これらを止めるのは、改善するのは至って簡単である。

一番偉い人が、「そうする」 と決めたら、それで出来るのである。


「そうだ、そうだ」と賛成をされた方に、 
「そうする」と自分で決められたら、少なくともあなた方の周囲は、それで出来るのである。

「コスト低減」を指示される立場の方が、一番「コスト増加」の後押しをしているのが、一般の世の中でよくある話なのである。



樋渡さんのような人は「例外」なのである。
「周囲の方に迷惑をかけた」と仰っているが、多分、「周囲の方は迷惑をかけられても」喜んでおられるのではないかと思う。

何故、こんなに簡単なことなのに出来ないのかと 「ずっと思っている」
コメント (4)
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