雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

Team Green 監督重本修次郎くんのこと

2014-08-13 05:42:05 | 7万台の挑戦の時代

★1990年代 カワサキの長いレースの中でも、

Team Green の実績が燦然と輝いた時期のTeam Green 監督重本修次郎くんがこの8日に亡くなったという悲しい知らせを受けた。

 

 昨日重本くんの訃報を聞いてFBにこんな動画をアップした。

 

 

 

★1990年代当時のカワサキは、『7万台への挑戦、 新しいカワサキのイメージ創造』に向かってグループ全体が邁進していた時期である。

その主たる役割を担ってくれたのが、Team Green を中心とするレース活動であり、イメージ創造活動を担う広報活動だったのである。

そしてそれらを纏めて『遊び半分ではいい遊びは出来ない』と遊びのソフト会社『ケイ・スポーツ・システム』が当時のカワサキグループのトータル活動を支えてきたのである。

 

7万台の目標がほぼ達成されようとする時期に、川重工の幹部職員250名を前に、国内グループ活動状況の話をしたのは、企画部門でも、営業部門でない3つの部門の責任者、KSSの南常務レース担当の重本部長広報担当の小林課長と私の4人で担当し、打ち合わせなど一切なしのぶっつけ本番での喋りだった。

その中の重本くんが話した一部をご紹介してみたい。  

当時のカワサキのレース活動の基本コンセプトが語られている。

それは非常に高い目標であったと同時に、レースの世界でカワサキが輝いていた時代でもあったのである。

 

           

             

 

               

 

                

 

  ここで重本くんが述べているように、

単にレースに勝つと言うだけではなく、広い視点でのレースの位置づけが出来ていたと思うし、その実績でもカワサキのレースの歴史の中で、非常に大きな実績を残しているのである。

 

     

重さんは、生前ゴルフはまさにシングルだった。

彼にゴルフを勧めて、初めてラウンドしたのが、SPA直入のすぐ近くのコースだったのである。

教え子に直ぐ抜かれてしまった。

 

       

 

生前の写真を探したが、こんなZ1会でのレース関係者との小さな写真しか見つけられなかった。

最近、なぜ顔を出さないのか? 病気だとも聞いていなかったので、突然の訃報は驚きなのである。

今年からTeam Green は、ファクトリ―のような感じに生まれ変わったが、

重本監督時代、野村くんが支え、技術担当としては、今のマイスターの森田優治くんの3本柱で、本当に確りとした活動だった

その実績からも、その時代Team Green 関係で育った塚本、宗和、鶴田、北川、梁くんやサテライトの月木では多田くんや岩城一さん、BEET強かったし

      

 

 こんなサテライトチームを含んだ活動で、それは20年後の今にも生きているように思う。

 

当時の国内の責任者の私が、メーカーの幹部職員への報告会のレポーターとして選んだ3人は、当時のカワサキオートバイ販売グループの核だったのである。

重本くんにも、本当にいろいろと援けて貰った。

まさか私より先に逝ってしまうとは思いもしなかった

安らかにお眠りください。 心からのご冥福をお祈りいたします。

 

 

 重本修次郎氏  御逝去の弔電   
        2014.8.13
    
 あごひげの似会う重さん、あなたの訃報の入手が遅れ、告別式に参列できず    
ほんとに申し訳ありません。    
 重さんは仕事でもゴルフでも大先輩で、良く教えてもらいました。 Z-1会コンペ    
では数回優勝され、ベスグロの常連でした。あの小さな身体で、何であんなにボールが    
飛ぶんだろうと不思議でなりませんでした。 ほんとに練習の賜物だったのですね。    
人一倍練習されていたのですね。    
 また、川柳や木工細工もお上手で、ほんとに多芸多才で、人生を謳歌されたと思います。    
町内会の仕事が一段落したら、またZ-1会に復帰してもらえるものと信じていましたのに    
残念でなりません。 御冥福をお祈り致します。    
 ご遺族の皆様 どうぞご自愛下さいませ。    
                                     Z-1会一同    

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私の目標、7万台への挑戦 と 10万人のフォロワーなど

2010-09-09 05:37:24 | 7万台の挑戦の時代
★カワサキの現役のころ 『7万台への挑戦』という旗を上げて、バイクとジェットスキーを合わせて7万台を達成しようと、全員でその目標達成を追っかけた時代がある。
ぜファーも最盛期であったし、ジェットスキーも年間300台から一挙に8000台も売れて、この目標は見事に達成されたのである。

カワサキの国内市場が史上最高に輝いた時期で、懐かしく思いだされる。
このブログの中にも『7万台の挑戦の時代』とカテゴリーを作って、その時代のことを纏めている。

当時、業界や経済界でも 『堅い会社の柔らかい動き』 は注目されて、日経ビジネスには長谷川直樹記者の4ページ特集記事で
『名門復活の牽引車になるか』と紹介されたりした。



★目標の建て方にはいろいろあるが

●この7万台は、『年間移動値』での7万台である。

この目標は当時の上司高橋鉄郎さんにハッパをかけられて、年間実績は4万台に満たない時点で立てられた、まことに粗っぽい目標なのである。
先日もちょっと書いたが、二輪やジェットスキーなどの台数は元々市場などと呼ぶような規模ではないのである。
ちょっと視点を変えて頑張れば、倍増などそんなに難しいものではないと思っている。
事実、このときのジェットスキーは30倍近くにはなったが、買ってくれたのは『たったの8000人』だけなのである。

7万台と言っても、1年間で全国で7万台なのである。
人口1億の日本の中ではとるに足らぬ数字なのである。
目標の数字は出来る限り大きい方がいいと思っている。

●野球のイチローの『年間200本』はいい目標だと思っている。
『打率』は、シェア(市場占拠率)と一緒で、とれても一瞬で簡単に下がってしまう。
『年間200本』の安打数は増えても減ることはない。
どんどん増える一方だから、歳をとって年間本数は仮に減っても、通産生涯本数は増え続けるのである。



★私ももう77歳になった『オジン』だから、そんなに頑張ってみても知れている。

然し、何かやる限りは、
目標は大きい方がいい。
そして実現の可能性のある方がいい。
そして実現できたら、『どうだ』と気分よく威張れるものがいい。

そんなことで今取り組んでいる、幾つかの目標は『歳寄り』なりに頑張ったものになっているし、仮に実現しなくても失望しないように仕組んでいるのである。

●まず、NPO法人 The Good Times の活動だが

NPO法人とネットで仕組んでいるので、月間経費ゼロに近い法人である。人件費ゼロだし、電話もない法人である。
収入は団体会員1万円、個人会員1000円の入会金だけで、年会費はない。
イチローのヒットと同じで『増える一方』減ったりはしないのである。
現在、団体会員40グループ、個人会員約1000人だが、毎月カバン屋さんだけでも100人以上増え続けている。
仕組みで勝負しているので、遊んでいても会員さんが頑張れば、会員さんもプラスになるようなシステム。
『異種、異質、異地域をみんな繋いで楽しくいい時を過ごそう』が基本コンセプトである。

個人会員でも1000人参加したら100万円が入るのだが、経費はゼロだから殆ど余ってしまう。
NPOなので利益分配は出来ないので、いろんな形で、いろんな活動に援助費として配っているのである。
こんないいシステムを見逃さずに上手に利用する人には、間違いなくGood Time が訪れるだろう。
ブログも、ツイッターも、システムだが、使う人によってその差は歴然なのである。


●このNPOと密接に関係があるのが、『ツイッターのフォロワーの増加』である。

今、注目のツイッターだが、NPO The Good Timesの公式ツイッターと、位置づけている。
このフォロワーの増加=各会員さんのフォロワーの増加  が 『リツイート』 という機能で実現するのである。
たった100人のフォロワーしか持っていない会員さんでも、『リツイート』すれば7万人に向かってその情報は発信されるのである。
そのフォロワーは、昨日7万人を超えた。毎月15000人増えるペースで5月にスタートして4カ月で達成できたのである。

今全国で110位近くで、100位以内ももうすぐである
もう河野太郎さんなどの有名人も抜き去ったし、このままのペースでいけば、小池百合子さんも、兵庫県トップの村上春樹さんも、自民党総裁の谷垣さんの上に行くこともほぼ間違いないのである。
とにかく目標10万人まで、あと2カ月頑張ってみたいと思っている。
10万人と言えば、今までの人生で目標とした最高である。

●体力年齢は41歳です。

先週の日曜日体力測定を受けてきた。

ちょっと数字が見えにくいが、体力年齢は昨年の44,8歳から3歳も若返って41歳になった。
柔軟性と敏捷性は20歳代だった。
これも年1回だが、目標にして頑張っている。
体重は80キロ腹囲は103センチで完全なメタボなのだが、血の検査は最高にいい数値なのである。

体力年齢は体重など関係ないのがいい。柔軟性と敏捷性にはストレッチと短距離ダッシュが効いていると思う。
じゃ年並みに悪いところがないのかと言えば、動体視力は全然ダメでで、ゴルフの自分の打ったボールがどこに飛んだのか見えないのである。
まあそれでも、体力年齢41歳は『気分のいい結果』なのである。


★それぞれっみんな目標をお持ちだろうが、
どんな目標にでも、『継続は力なり』 は通用すると思っている。
単純なのだが、なかなか実行できないといわれるが、これだけは自信がある。



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カワサキの4輪スポーツ車、X-11

2008-07-23 04:48:52 | 7万台の挑戦の時代
現役の最後のころ、こんな面白いプロジェクトばかりやっていた。
かっこよく言えば 『ソフトの事業化』
平たく言えば 『遊びの事業化』

バイクもジェットスキーも、 遊び道具である。
モノを造るだけの時代は、 もう旧いと思っていた。

今でも、そう信じている。
一生懸命やったら売れたりは決してしないのである。
商品が受け入れられたら、遊んでいても売れるのである。

今、250が遊んでいても売れているこの時期に、一度考えてみてはと思っている。
 



1991年前後、今から思うと一番活気があって面白かった時代である。
7万台の挑戦もその目標を達成したし、いろんなことをカワサキの国内グループは手がけていた。

91年、いろんなことがあったが、カワサキのサーキット走行専用の4輪スポーツ車の開発とその対策は結局は実現しなかったがその最右翼であったかも知れない。
この年の資料をひっくり返しているとX-11資料がいっぱい出てくるのである。
それだけ力が入っていたのだろう。

このことは一度ブログにも取り上げたことはあるのだが、
自分のためにも一度整理しておこうと思う。

このプロジェクトは、90年4月23日に事業本部の高橋本部長以下の会議で、
『015』という開発コードでスタートされている。

単車のエンジンを使ったサーキット専用のスポーツ走行マシンで、開発が進められることになった。
スポーツ走行、サーキットに関係があることなどから当初から、ケイスポーツシステムが深く関連をすることになった。
約1年の開発期間を経て翌年4月には試作車の完成を見ている。

このプロジェクトに携わった人たちは、エンジン関係はもちろんカワサキのエンジニアたちだが、シャーシーは鈴鹿のウエストレーシングの神谷社長が当初から担当をしてくれた。
ウエストレーシングの神谷さんはJ1600の創始者でもあり会社としても高い技術実績を有していた。
そんな関係もあってマシンテストは元F3チャンピオンの佐々木さんが勤めてくれるなど本格的なメンバーで構成されていた。

試走したサーキットは岡山に出来たばかりのTIサーキットで、ホンダから来られたMFJ関係で面識のあった千々岩さんや国井さんが開発当初からマシンにも非常に情味を持っておられた。
星野インパルの金子豊君やダンロップの京極さんなど日本レース界の錚々たる人たちが相談に乗ってくれたのである。


開発開始から1年半後の91年9月に、TIサーキットの月例会でX-11という名称で発表された。
カーグラフィックの熊谷さんたちも乗られて音も走りも素晴らしいとの評価を受け雑誌にもインプレッション記事が発表されたりしたのである。

そして翌月の10月17日には川崎重工業の最高意思決定機関である経営会議に上程されているのである。
その資料のなかにある仕様の数値は次のようなものである。

ZX1100ccのエンジンを使用、排気量1052cc、最高出力160PS/10500rpm、
全長8000、全巾1640、全高1057、車重409kg
元F3チャンピオン佐々木氏は『限りなくF3に近い性能』と評価している。
コストは490万円ぐらいで、販売価格はまだ未定であったが、翌年当初からの販売を予定していた。


そこまでの記録はあるのだが、それから先あまり記録がないのである。
当時は面白いことがいっぱいあって、このプロジェクトもその『one of them』であったためか、そのあとどうなってしまったのか。
カタログまで作ったのになぜ販売まで至らなかったのか、よく解らないのである。

最近よく思うのだが、『記憶にございません』 というのも満更ウソではないと思うこともしばしばなのである。

日記があるから何とかなっているのである。


その後、92年3月7日の日記に、
『TIで中江先生にX-11を乗せる』と書いている。
そしてそのとき始めて自分でもサーキットをX-11で走っている。
『10000回転のエンジンを私の技量では持て余してしまう。とてもそこまで使い切れない。かって乗ったFJ1600のほうが乗りやすかった。』とエラそうに感想を述べたりしている。

中江先生とは、当時『好感企業の時代』という本を出版されていて、
当時のカワサキの企業活動に興味を持たれて、先方から取材を申し込んでこられたことのある、中央大学教授の中江剛毅先生のことでである。

先生は4輪の国内A級ライセンスも持たれて、世界のサーキットを飛び回っているという面白い方なので、これはこちらから声をかけたのだと思う。
 


プロジェクトは潰れてしまったが、そのころお付き合いした人とは今でも関係がある。
ハンドルネーム『胡蝶さん』はこのプロジェクトのメンバーの一人である。
彼はまだ現役で昨年賞に輝いたジェットスキーの開発責任者でもある
『胡蝶さん』またいいもの造って下さい。
 



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JJSBAの昔話

2008-07-18 04:53:00 | 7万台の挑戦の時代
JJSBAジェットスキーの日本のレース協会である。
ジェットスキーはカワサキの商品名であるから。このレースはカワサキのワンメークのレースである。
カワサキが主体的にリードしてゆかねばならないのである。


これは91年の話である。
平成3年3月25日に『JJSBA運営方針の変更について』というレポートがカワサキ社内で出されている。

新しく初めてのことに挑戦すると、いろんな問題も出てくるのである。
ジェットスキーのレースは、もともとカワサキのメーカーが始めたものではない。
もともとは好きな人が集まって、輸入元であった西部自動車やごく一部の販売店やユーザー、それにカワサキの孫会社などが協力したりしてスタートしていたのである。


JJSBAを設立したのは84年で、そのころからカワサキも関係を持ち始めたのである。
私はまだメーカーの企画にいて、JJSBAの設立のためにKMCに苧野さんとご一緒したりはした。当時のKMCは今川重の会長の田崎さんだった。
鶴谷君がオーストラリアから戻って、福井君らとジェットスキーの専門担当を始めたころである。
明石のカワサキ単車部門には企画部門以外にジェットスキーを担当する部門などまだなかった時期である。

ジェットスキーは発動機部門でエンジンを作り、リンカーン工場で組み立て、KMCがアメリカ市場だけに正規に販売をしていたのである。
輸入元は日本では西部自動車さんでどこからか輸入されていた。

そんな時代から、国内販売を起案し年間2~300台であった販売も、新しい販売ネットを作ったりして、91年ごろには5000台を超える水準になっていたのである。



当然JJSBAのレースも本格的な規模へと推移して、
当初の愛好者の集まりの組織体制では矛盾もいっぱい生じていたのである。

資料から抜粋すると、
組織の現状は次のようなものでいろんな人たちの集まりであった。

特別会員  カワサキジェットスキー販売、西部自販     2社

法人会員  KJSと西部の関係会社             2社
      KJSの販売店                 38社
      西部の販売店                 11社
      会則に合わない法人会員            33社

個人会員                        約1000人




この運営方針の変更は、当時の担当責任者の鶴谷君(現川重商事社長)が策定しているのだが、
西部自動車、販売店、協会実務担当者などなど過去の歴史を引っ張ってきているものを適当に整理しすっきりとしたものに再編成するためのものではあるが、
微妙に個人の利害関係や立場の想いなどもあって非常にその整理は難しいものだったのである。

幾ら案を立てて見ても、社内決済で解決できるものではなく、総会の議決で決まるものであった。
その議決権も運営費のほとんどを負担しているカワサキもその他の人たちも同じ議決権数なので、それを可能にするためには高度の政治的な配慮みたいなものがいったのである。

具体的な問題はいろいろあったが、結果それらを解決してJJSBAは今日に繋がっているのである。
端的に言って、当時の会長を勤められた故苧野豊明さん(初代JJSBA会長)と後JJSBAの会長も勤めた鶴谷君の精力的な努力がなかったら問題は解決しなかったと思っている。



この11月中旬に、神戸のメリケンパークでミニSLのフェスタを開催することになっている。
この6月には神戸フルーツフラワーパークで開催したのだが、初めてではあったが何とかなったのである。

次回の開催は神戸市のメリケンパークという公園で『神戸海洋博物館』『カワサキワールド』主催でおこなうことになる。場所が公園だしいろんな問題もありそうである。
主催といっても実務は愛好者グループを中心にまわしていく必要がある。
お盆前までには案を纏めて今度は神戸市と調整に入らねばならない。
華やかなイベントも裏ではいろんなことがあるものだ。


そんなことで創成期のJJSBAを思い出したのである。
そのころ一緒に苦労した仲間の福井君がいるにも何かのご縁である。






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7万台への挑戦の思い出

2008-07-07 04:56:45 | 7万台の挑戦の時代
7万台への挑戦の時代のカテゴリーでブログに纏めてきた。
この時代商品にも恵まれて少なくとも私の永いカワサキの歴史の中で最高の時代であったと思っている。

もう60才に近かったし、3度目の国内担当でこれが仕上げだと思っていた。
国内の販社は常に単車の最高責任者が社長を兼務する慣わしで、
大庭社長から、単車創生期の時代からこの事業を支えてきた高橋鉄郎さんに社長は引き継がれていた。

最初のレース時代も、カワ販が苦しかった時代も、CKDの市場開発プロジェクトも、カワ販の危機に時代も、そして事業部の存亡の危機であった時代も、
何故かご縁があって、一緒に仕事が出来た。そして何とかなったのである。



昭和63年10月(89年10月)国内fグループを引き受けるとき、
その高橋さんと、45000台の実績の台数を7万台まで、売上高400億円、事業部への限界利益100億円という、途方もないお約束をしたのである。
高橋さんとのコンビならひょっとしたら出来るかも知れないと思った。

正直、高橋さんとだから出来た約束であったと思う。
出来るかどうかの自信などはあったわけではないが、
定期入社の一期生の富永君や2期生の山田、南、古石、竹内君などの連中がようやくグループのトップレベルにあったし、この機会にチャレンジしないと永遠に出来ないと思ったのである。


その具体的な対策の課題は『新しいカワサキのイメージの創造』
この1点に絞って対策のスタートを切ったのである。

ゼファーと言う商品にも恵まれ、国内市場に新商品として持ち込んだジェットスキーも軌道に乗って、幸運にも恵まれたが、
これが達成できたのは、全て業界の常識を越えた新しい次元へのチャレンジであったことと、それに果敢に挑んでくれた人たちの努力だと思う。

特に、ケイスポーツシステムを中心にしたソフトの事業化やKAZE活動、販売網対策など時代を先取りして業界の先頭を走った。モペットを持たぬカワサキだから遣り易かったと思う。

視点をバイクに関心を持つ全ての人たちを視野に入れての活動であったと思っている。
競争相手は他メーカーではなくて、二輪業界以外の他業種だと思っていた。
何時の時代もそうなのに、つまらぬシェア競争に走って業界がやせ細ってしまうことも事実多いのである。

カワサキOBの特約店の人たちの応援も大きかった。
永年積み上げてきたカワサキのグループの力が実力以上に発揮できた時代であったと思う。



昭和の年号で言えば、昭和63年10月に掲げた7万台の目標は、
年号が変わった平成3年6月1日に2年と8ヶ月の歳月で達成しているのである。


最近また思い出したようにいろんな人といろんなことをやる機会が多いのだが、
みんなこの時代に身についたソフト、ノウハウが基本になっている。
こんな難しいことも出来たので、大概のことは出来るのではないかと思ってしまう。

それとつくづく思うのは今のネット社会はホントにいい時代である。
こんなシステムが使えたらもっともっと簡単にもっと面白く出来たのにと思ってしまうのである。


70才を越えて初めてパソコンに触れた。
メールなど打つことが出来るようになって、丁度2年。
ブログをはじめて、1年10ヶ月。
SNSをはじめて、1年近い。
このネットの社会は使いようで、素晴らしいものになると実感している。


来年の今頃、果たしてどんなことになっているだろうか。


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7万台への挑戦、イメージ戦略

2008-07-04 04:52:27 | 7万台の挑戦の時代
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7万台への挑戦も3年目を迎えようとしていた91年、一番グループが充実しきっていた時期だろう。

1月29日に当時のCP事業本部の部課長研修会で250人の部課長さんを前にこの2年間の国内のマーケッテング活動の発表をした。
故岩崎茂樹広報部長がそれを一冊の冊子にまとめてくれて手元に残っている。
英文にも翻訳されて全世界のディストリビューターに紹介されたりした。

当時業界でも注目されていた面白い活動であった。
この冊子は高橋本部長が川重の全役員に配ったりしたので結構話題になった。

全体のテーマは『7万台への挑戦、新しいカワサキのイメージ戦略』であった。

基本的な考え方を私が話し
KSSとKAZE活動を南常務
スポーツとレース活動を重本部長
広宣活動を小林課長

打ち合わせなど一切なし、ぶっつけ本番で望んだ。
2時間ちょっと、内容は技術や生産を担当している人たちばかりなので、新鮮であったと思う。

販売会社は営業でモノを売っているとばかり思っている人たちに、イメージ戦略や遊びやイベントの話が大部分でビックリした面もあったのだと思う。


4万台を5万台にするのなら兎も角、7万台と言うべらぼうな目標への挑戦であったから、
今までのカワサキのイメージをそっくり一変するようなことでないと達成できないと思っていた。

レースに弱く、宣伝のセンスがなくて、大衆的でない、常に挑戦しない、海外に強く、個性的なデザインで、玄人受けがする   
最初の調査のイメージは、こんな大変なものでイメージ総量も小さかった。
海外は兎も角国内のイメージがないに等しいのである。
こんな博報堂の市場調査からスタートしている。

2年が経過しての調査では、まずイメージ総量が4倍ぐらいになった。
一般がカワサキを意識したということである。
特に宣伝のセンスもよく、常にチャレンジするという評価に変わった。
これが成果であった。この研修会の発表者を営業ではなしに、イメージ担当者ばかりにしたのもそこに全力投球していたのである。
台数もゼファーの好調とジェットスキーで大きく伸びたが、イメージは完全にいい方向に動き出したのである。


ゼファーが売れて、KAZEが一世を風靡し、レースもそこそこ勝って、面白いイメージ広告が並んだ90年代初頭、当時のカワサキのイメージ覚えておられる方も多いと思っている。


この時期、博報堂のマーケッテング部門と付き合った。
少々金は掛かったが、広告代理店も本社スタッフは本当に確りしている。
世の中の流れを読む目は正確であった。


新時代の予測事態   90年代のジレンマ

1.自分の快適、他人の迷惑
2.日本の快適、世界の迷惑
3.人間の快適、地球の迷惑
4.昔納得、今不満
5.造り手満足、使い手不満

90年は『社会性消費』 広がる生活 かかわる社会

こんな時代になるとの予測だった。
台数などもことは、あまり一生懸命にならずに、こんな対策を大真面目でやっていた。

二輪の営業はシステム販売である。いい商品をいい時期に流せば自然に売れる。
一番売りたいのは販売店自身であって、売れないときは何かの理由で売れないのである。

時代を読み、時代の要請にあった動きをすることが、一番大事だと思っている。
時代の流れにあった販売網構築が販社の社会的責任の一つだと思っている。
これを間違うと、販売網自体の力が失われるということだと思う。

2008年、今の時代の要請にあった販売政策であって欲しい。


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20年前の仲間たち

2008-06-30 04:40:38 | 7万台の挑戦の時代
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昨日、20年ほど前のKAZEの話など書いた。
懐かしいいい時代であった。
それから20年当たり前の話だがそれぞれ20才年を取る。

当時若かった働き盛りの人たちももうOBになってしまったり、定年近い人もいる。
まだ現役パりパリもいる。



昨日のKAZEの機関紙の原稿は誰が書いたのだろう。
あの時代をこれだけ詳しく正確に知っている人はそんなにいない。
やはり「やたおさん」かなと思っている。

当時のKAZEはケイスポーツシステムと言うソフト会社で専門的に事業として運営されていた。
遊びの金も結構使ったが、基本的にそれは稼ぎの中から使ったものである。
遊びを経営として事業としてやってくれたのは南昌吾君を中心にしたホンの数人のメンバーである。

今までに経験のないことへの挑戦であったが、失敗を恐れずにどんどんやった。
そんな感じであった。やったことは殆ど世の中ではじめてのことばかりであった。




この写真、
土曜日にあったカワサキモータースジャパンのゴルフコンペの表彰式である。
それこそ20年近く続いている。
立ってスピーチしているのは『じゅこう』さん。前回のコンペ優勝者今回ブービーのスピーチである。
彼は当時のKAZEを支えた仲間の一人である。まだ、現役である。

そして、そのヨコ、髭を蓄えているのは、元チームグリーン監督『重さん』である。
野村君や「モリチャン」とともに、当時のレースを支えてくれたKSSのメンバーである。
もう69歳のOBだが、この会はOBも呼んで貰えるので私も参加している。
ちなみに彼のハンデイは0である。SPA直入がスタートした頃、ゴルフを始めた。
私が一応先生なのだが、あっという間に抜きさられて、昨日もベストグロスであった。

もう一人キーパーソンと言えば、渡部『タッチャン』つい先日まで九州のオートーポリスの責任者であった。
『鈴鹿を抜いて、観客動員数では日本一』と関係者から言ってもらえるまでに成長したオートポリスだが、
『タッチャン』も7月からは明石のショールームに戻ってくるらしい。次回ぐらいからはまた参加するだろうから、賑やかになるに違いない。
彼は南君を助けて、何でもこなした。
自動車学校なども軌道に乗ったのは彼の功績だろう。
KSSの前は日本でのジェットスキーの販売網の構築を藤田孝明君と担当してくれた。

そしてKSSではなかったが、
ユーザー管理システムなどソフト面を支えてくれた谷沢君、
広報の小林君などが中心に当時の広報活動は展開されたのではなかったかなと思っている。

そして、こんな猛者たちの相手をずっとしてくれて、いろんな遊びの展開を具体的に起案してくれたのが『やたおさん』である。
こんな人たちの努力に支えられて、
当時のカワサキの活動は「遊び半分」ではなくて、仕事としてそのノウハウやソフトを蓄積していったのである。


私もお相伴で、いろいろ付き合ってきたので、
このスタンスは今も続いて、
『どこ竹の竹とんぼ』や『ミニSLフェア』などいろいろと役立っている。

『ひょこむ』の中には、いっぱい面白い仲間がいる。
「たっちゃん」もそうだし、X-11のスポーツ4輪を手がけた「胡蝶」さんも、「thirai」さんや「モリチャン」やライダーの塚本君など当時の仲間はいっぱいいる。
新しい現役の仲間も加わり始めた。

もっと何か面白いことはないかと、今、探している最中である。
そんな意味で、「ブログ」も「ひょこむ」も大いに機能してくれているのである。


この写真で、追加してコメントを。
『じゅこう』さんの右隣がカワサキモータースジャパンの河野社長である。
ちなみに、昨日のゴルフは、取締役の『大江ちゃん』と西村君とご一緒だった。
西村君、優勝である。おめでとうございました。




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KAZEも20年になりました

2008-06-29 05:15:59 | 7万台の挑戦の時代
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KAZE193号が送られてきた。
「ありがとうお陰様で20年」と題して1988年から1995年まで各年次の出来事を振り返ったいる。

丁度私のカワサキでの最後の7年間の時期である。
一つ一つの事柄が懐かしい。私のために纏めて頂いたのではと思ったりするような内容である。

こんな記事です。
こんな時代こんなことをしてきました。
無茶苦茶楽しい時期でした。いい仲間がいっぱいいましたし、ほとんどを社内、社外のそんな仲間たちがやってくれました。
旗を振っていただけです。




1988年
『カワサキのユーザークラブとして発足!今日まで唯一続いているメンバーズクラブです。』
「KAZEネットワークニュース発刊、VOL1はパンフレットの集合体のようなスタイルでスタート。』とあります。
雑誌を編集する時間も能力もありませんでした。パンフレット何枚かを封筒に入れて発送しました。
ソフト会社KSSもまだ設立されていなかったと思います。
「KAZE海外ツーリングがスタート」KAZE発足と同時にスタートしました。
「第1回はニュージーランド10日間の旅。語学が出来なくても、バイクを持ってゆかなくても手軽に海外ツーリングが楽しめるとあって大好評でした。」

1989年
『当時はバイクマーケットも大きく拡大。その中で遊びの渦も大きく拡大しました』

「KAZEの提携施設がじっくりと成熟ー。」
「KAZEカードがJCBとジョイント」
「KAZEギャル1期生が誕生!」
琵琶湖と本栖湖でサンバカー二バル、鈴鹿8耐にもブースを。そうでしたね。
ルマンに宗和、多田で参戦日本人ライダーとして初入賞した年です。

1990年
『KAZEのシンボル「風太」クン登場!耳の大きな奇妙な生き物ーーその姿に当時の若い人たちの「気分」を象徴しました。』
KAZEのイベントカーが出来レース場やイベント会場で活躍しました。
中に入っていたのは、社員だったと思います。
異様な形が人気で8耐のテレビ中継にも登場したりしました。
KAZEグリーンカップレースが始まったのもこの頃です。
そんな中心に「風太」クンがいました。
4月にはSPA直入オープン。2000人の町に4000人のライダーが集まりました。

1991年
『とっても凄いことをやりました!でっかいゲームイベントや何と四輪自動車までーー?』
ゼファーが売れて絶好調の頃です。
ソフト会社「ケイスポーツシステム」も本格的に動き出しました。
サーキットを走る本格的な四輪を単車の軽量高回転高馬力エンジンを積んでTIサーキットなどで走りました。「X-11」です。
話題が尽きないビッグ企画が目白おしの時代でした。
バリオスが発売されたのもこの年です。
6月には当時の目標『7万台を達成』しています。

1992年
『KAZEギャルもとっても充実!ギャルならやっぱりカワサキだねって言われました』
KAZEのイメージギャル「KAZEシンデレラ」を一般公募して鮎川ひかるさんが当選。KAZEネットワークでの通販を開始しています。
全日本ロードレース選手権でカワサキが1,2位を制覇、塚本、北川の時代でした。
7月には東京のど真ん中新宿にショールーム開設。

1993年
『忙しい方でも効率よく楽しめる北海道モニターツーリングがスタート』
九州のモニターツーリングもスタートしています。
鈴鹿8耐には伊藤ハムレーシングカワサキが優勝。カワサキが鈴鹿8耐にかったのはまだこの一勝だけです。
レース関係では岩城洸一が月木と組んでいろいろ手伝ってくれていた時期でした。

1994年
機関紙には記述がありませんが、新宿のショウルームに続いて、博多のIMSでもショウルームを展開。
自動車学校の設立準備。実現しませんでしたが関東のサーキット松井田の開設に努力した時期でした。
5月8日の筑波サーキットでのサンクスフェアには12000人のカワサキファンで埋まりました。

1995年
『カード時代に突入JCBに加えてオリコカードも』
JCBカードに加えてJCB、オリコカードが出来た年です。
KAZEに対する注目度はカード業界からも非常に高いものがありました。
既にセグメントされた若いスポーツ好きのメンバーばかりが集約されているカードで、何万人もいるのはそんなにないのです。
その価値は特別評価に値するものでした。

私はこの年の10月までカワサキモータースジャパンに専任し、1996年以降は自動車学校の設立や、業界でのNMCAの設立などホンダさんなどと取り組んだりしていました。

KAZEの機関紙がこんな風に纏めてくれたので、ご紹介をしました。
いろんなことを思い出しました。
明日でも、この頃の仲間たちとの話を思い出してみたいと思っています。


カワサキのゼファーが最高に売れた最高の時代であったかも知れません。






コメント (2)
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7万台への挑戦、益子町のサーキット

2008-06-24 04:37:11 | 7万台の挑戦の時代
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1990年4月に直入町に新しいサーキットを完成させスタートした。
このプロジェクトはもともと川重がテストコース用地として土地を所有していテ、その極く一部を使っての小規模なものであった。
そのため計画から2年の歳月で工事も完成しスタートが切れたのである。

同じコンセプトで従来のレースだけのものではなくむしろ会員制の一般ユーザーが気軽に走れるスポーツジムのような中規模のサーキットを関東にも造ろうと検討を開始した。



そんな話が伝わるだけで、幾つもの候補地が上がったのだが、その中でも益子町のサーキット候補地は殆ど着工寸前まで進んだのである。
グループ企業の川重商事と一緒に進めたプロジェクトであった。

この年の初めから話が持ち上がり、10月には中間構想として『株式会社益子スポーツパーク定款案』まで出来上がっている。

発起人としては益子町町長、カワ販社長、川重商事社長など、土地は国有林の借地で国有林の再活用などが言われだした頃で、その許可もそんなに難しくなく降りていて、ほぼスタート寸前まで行っていたのが、突如として町側から断りが入って実現しなかったのである。

人間の記憶は不思議なものでこのプロジェクトなどは人の任せずに殆ど主務担当のような動きをしていたのだが、何故町側が断わってきたのか、あまりはっきり思い出さないのである。



手元に残っている構想書によると、第三セクターによる運営とし、町の要望によりサーキット以外テニスコートなども併設することになっている。
場所は益子ccの直ぐ近くの国有林、水戸と宇都宮のほぼ中間、ホンダの茂木の少し南に位置していた。
当時既にホンダも茂木を計画中であったが、サーキットのコンセプトが異なるので近くにあっても問題ないとの認識であった。

このようなサーキット建設など、みんな未経験の分野であったが、
『環境アセスメント』では哺乳類、鳥類、昆虫など生き物の四季に亘っての調査や、音量問題、交通量などいろんな面からの検討が必要で、これらは殆どクリアした段階までいっていたのである。


益子町も町のイメージや知名度の向上や経済効果なども含め町長以下議員さんなどみんな乗り気であったのだが、最後住民の反対か何かでどうしてもムリだったようである。

このプロジェクトは年が明けて91年の春に中止を決定している。


この時代は、候補地はいろんなところから、幾らでも出来た。
そんな時代であった。
益子が潰れて直ぐ次に出てきたのが、松井田町のサーキット構想である。
これも、カワサキよりは地元の町のほうが熱心であった。

この話は平成3年、91年にスタートしてその後何年も掛かるのだが。これも結局実現をしなかったプロジェクトである。

関東のサーキットはいずれもカワサキにとっては「幻のサーキット」に終わったのだが、松井田は私にとっては特に懐かしい思い出である。



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7万台への挑戦、SPA直入と

2008-06-09 07:31:45 | 7万台の挑戦の時代
今朝、アクセス解析を見てビックリした。
PV=ページビューの数が4743ページである。
4743ページ読まれたということである。いつもの5倍以上である。

アクセスURLは『にほんブログ村』からのものが多くあった。
この雑感日記はカワサキやバイクネタもあるのだが、そればかりではない。
他の『カワサキ』ブログとは異質である。だから、昨日はやめようと思った。
貼ってあったバナーもみんな消してしまった。

今朝のPVを見て考えた。『カワサキ』について書きたい想いもあるし今後も書くだろう。
カワサキとバイクネタの時だけ、『カワサキ』のバナーを貼って参加することにしようと思った。
沢山の人に読んで頂けることは、単純に嬉しいことである。



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7万台への挑戦の2年目90年、前年に続いてゼファーは売れ続けた。
年間移動値での販売台数は4月には6万台を記録し6月には更に伸びて62000台を記録した。
自動2輪の登録台数も当然伸びて、シェアはホンダを抜いてトップとなったのである。

その間ジェットスキーARKの展開など販売網の整理や、従来孫会社での販売活動であったものを新会社としてカワサキグループとして統一的な活動を展開するよう改めた。

二輪車は受注取引制度を業界で初めて採用したりして話題を呼んだが、これもゼファーの好調などの背景があってこそ実行できたものと思っている。
今も残っている岡山ショップや広島営業所の改装など、イメージ戦略として捉えて従来とは一線を画した店舗政策なども行なったのである。

何にも挑戦しないカワサキから、積極的に『挑戦する新しいカワサキ』へのイメージ造りが当時の基本テーマで、
新会社ケイスポーツシステムが専門的に展開したKAZE活動、レース活動なども大きく寄与したのである。

90年前半、最も力を入れて推進したのは、何よりもSPA直入の正式オープンとその対策であったと言っていいだろう。



ほぼ1年の工期で建設は順調に進んだ、
SPA直入のオープンフェスタは4月15日に行なわれたのである。

テープカットは武田直入町町長や阪神ライデングスクールの有馬さん、まだヤマハの籍であったのにわざわざ駆けつけてくれた金谷秀夫君など、お世話になった人たちの手で行なわれた。

サーキットを自分のバイクで走れるとあって、九州地区を中心に4000人を越えるライダーたちが集まったのである。
開会式の祝辞で直入町長は『この直入の地に、有史以来最大の人たちが集まった』と挨拶された。
ちなみに当時の直入町の総人口は2000人だった。
確かに有史以来最大であったろう。ひょっとしたら今後も出ない記録かも知れない。

4000台のバイクがコースを埋めて走る様は、マラソンのスタートの光景に似てまさに壮観であった
清原や金谷や宗和たちが先導役を務めてくれて走りきったが、事故なくてほっと胸をなでおろしたのを、よく覚えている。

サーキットを普通一般のバイクが走った、日本で始めての記念すべき日であったのである。

『SPA直入』
ベルギーの有名なサーキットSPAフランコルシェンと長湯温泉のSPAとを関連付けて、物識りの故岩崎茂樹君が名付け親である。
サーキットのアールも勾配もみんな彼が一人で考えた。
若しゴルフ場のようにーー設計監修などと言うなら直入は間違いなく『岩崎茂樹設計監修』である。

関東にも同じコンセプトのサーキットをつくろうと、この時期は益子町といろいろと計画を進めていた。
候補地が国有林で林野庁などといろんな折衝を進めていた。
益子町もその後の候補地松井田町も結局実現せずに『幻のサーキット』で終わってしまうのだが、こんなプロジェクトは予想もしないようなことが突如として起こったりして難しいものである。

このほか札幌の新営業所の土地の候補地などが出てきたのもこの時期である。
好調な販売に支えられて、販売以外のはじめての経験にみんな忙しかった。
KAZEの会員も順調に増え続けたし、新会社ケイスポーツシステムも新しい未経験な分野をどんどんこなしていった。

ソフトと言うのはあるレベルに達すると更に進化するものだということを実感した。
素人は所詮素人である。専門家になって四六時中考え続けること『創造力』とはそんな環境の中だけで生まれることが解りかけた、そんな時代であった。


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7万台への挑戦、90年代幕開け

2008-05-25 06:55:46 | 7万台の挑戦の時代
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1990年1月、愈々90年代に入った。
平成2年、56歳である。自分で思っているより若かったのである。
二人の子供たちもまだ独身であった。
当然まだ孫もいない。サラリーマンとしての仕上げの時期であった。


7万台への挑戦は、2年目を迎えていた。
台数実績は1月末55072台。
この1年間で約1万台の増販であったが、目標7万台にはまだ1万5000台足りないそんな時期だった。

この間、ZERHREはずっとバックオーダーが続いて快調に売れた。
2年前にスタートして年間500台であったジェットスキーはこの年のスタート時点で10倍の6000台の売上を記録し、販売会社が同じ陣容で売上高が伸びるとこんなにも儲かるものかと思うほど、利益で満ち溢れていた。
損益分岐点は1000台ほどだから、それを越えた5000台分が丸々利益として残ったのである。

新しい販売網政策、ARK(Authorized & Reriable shop of Kawasaki)を立ち上げ、20年近く続いた従来の特約店契約を破棄して新しくARK契約を締結して再スタートしたのである。
1月24日には新宿ヒルトンホテルで、その政策発表会をM/c、ARK300店を集めて開催した。
川崎重工の大庭社長にも出席頂いて、盛大なパーテーであった。


この年から二輪業界ではじめて、先輩3社に先んじて委託から『受注契約』をスタートさせて業界の注目を浴びたのである。
二輪業界はカブなどモペットの販売が自転車屋さんを中心に売られており、その資金力からずっと委託販売が続いていた。
受注して買い取って、それを販売することはあるにはあったが、それを制度としてMUST化したのは、初めての試みであった。



ジェットスキーは、ヤマハがこの業界に新しく参入した時期であった。
この商品は日本で始めて売られる商品であったので、販売システムも最新のものを造り上げた。

販売会社の従業員は10人ほどにして、拠点も神戸に1店だけ、勿論受注仕切制度、全く新しい商品であったので、ボート屋で売りたいと言うのを全部断わってJJSBAのレース中心の『遊びを売る』というコンセプトの販売網であった。
二輪の販売店からの販売希望もあったが、別店舗の別契約、単に売ることでは契約をしなかった。

こんな効率化された、日本では珍しい販売システムでよく売れたので、
会社もARKも無茶苦茶儲かった懐かしい時期だったと思う。

カワサキとしては珍しくトップメーカであり、ヤマハさんとの協力体制を敷いたが、安全運転活動など率先して会長会社にならざるを得なかった。
カワサキとしては経験のない分野だったのである。

あくまでもボート業界のなかに入らずに、別にPWC(パーソナルウォータークラフト)という新しい業界を形造ることを意図したのである。




大分県直入町のSPA直入は建設中であったが、関東地区に何とか直入と同じコンセプトの一般ユーザーを視野に置いた新しいコンセプトのサーキットを造りたくて、候補地の物色をしていた。
益子町が是非やりたいと手を上げて、この計画の検討に入っている。
関東のサーキットは、この先もずっと続けて建設を計画したが、結局実現はしなったのである。
既に当時ホンダの「もてき」は計画中であった。


90年の幕開け1月頃はこんな時代であった。
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7万台への挑戦、89年10月~

2008-05-19 18:17:53 | 7万台の挑戦の時代
88年10月、3度目の国内担当になって1年が経過した。

この1年、レース部門の強化、ユーザー対策としてのKAZE活動、それを専門的に対応するソフト会社の設立などどちらかと言うと従来の販売対策とは少しはなれた周辺ソフト分野の対策が中心であった。

9月には有馬さんと出会って安全運転や自動車学校などの構想も視野に入ってきた。

これらのベースにあったのは、7万台と言う夢のような販売台数を実現するためには、カワサキを強烈に支持する熱烈なカワサキファンを中心にもう少し範囲を広げた一般ユーザーへの視点を持つべきである。
そして何よりも従来のカワサキイメージの枠を越えた『新しいカワサキイメージの創造』こそがMUSTと思ったからである。

幸いにして、新発売のゼファーは従来のカワサキの走りのイメージからはちょっとはなれた『新しいスタイルのバイク』であった。
『ZEPHRE』ー西からの風 というネーミングも、受け容れられて発売以来ずっとバックオーダーが続いたのである。


人気機種を象徴する言葉が『バックオーダー』である。
W1、Z2、FX400カワサキを代表するヒット商品であった。
勿論、いずれも永くバックオーダーが続いた。
然し、ZEPHREのバックオーダーは桁外れに永くその量も大きかったのである。

私は、このいずれの機種の時期も、運よく国内担当で販売を担当していた。
運がよかったのである。
商品がいい時は、努力などしなくても放っておいても売れるのである。

そんなことで、販売台数も2年後7万台と言う目標台数のトレンドに対して、一直線に乗っていた。
このままの形を継続すれば間違いなく達成できるという、自信みたいなものもグループ全体に出来かけた頃だったと思う。



ちょっと脱線するが、今カワサキはNINJA250が人気でバックオーダーのようである。
入荷の見込みも立たないと、販売店が怒っていたが、
売れぬ在庫を抱えて四苦八苦するよりは余程いい。
後のなるとバックオーダーのあった時期は懐かしく思い出されるのである。
是非今回の250のバックオーダーも解決せずに永く続くことを祈りたい。


この秋、初めてモーターショーは晴海から千葉の幕張に移して、大々的に行なわれた。
カワサキはゼファーの好調もあって大人気であった。
このままでは勿体ないと、11月中旬には『オータムフェスタin AKASHI』と銘打って、明石のショールームと安全運転コースで2日間、ミニモーターショウを開催したりした。



そして、この頃から新販売網体制の検討の入っていた。
カワサキの特約店制も1970年から20年近く経って、新しく再スタートする時期でもあった。

世の中も変わって、ネーミングなども一種の流行りであった。KAZEもZEPHREもそんな流れの中で生まれていたのである。
永く続いた『カワサキ特約店』という呼称を、その内容とともにネーミングも変えようと言うことになったのである。

当時の若手の提案で、(当時若手は結構積極的であった。今はもうエライサンになっているがーーー)
Authorized & Reliable shop of Kawasakiの頭文字をとった『ARK』は生まれたのである。


ただ、心配もいろいろとあった。
まだ、当時は自転車屋からスタートした『オートバイ屋』と言う呼称がまだ似合うそんな店も多い中で、
『ARK』などと言うハイカラな名前が似合うだろうか。
世の中や業界が受け容れるであろうか。
ちゃんとそのように、口にして呼ぶであろうか。

そんな心配事もあったのだが、それは杞憂に終わった。
業界の話題になったし、『ARK』を一番口にして宣伝してくれたのは結果的には他社のセールスたちであった。

そして翌年、1月カワサキの新販売網政策として『ARK制度』はスタートしたのである。


今はまた昔のような正規販売店と言う呼称になっているが、
ジェットスキーの販売店だけはそのままのARKで残っているようである。
もうこれも20年近く前の話になった。


ご存知の方も当然おられると思うが、
『ARK』には旧約聖書に出てくる『ノアの方舟』と言う意味もあるのです。
これは考えた当時の若手たちの頭の中にあったのかどうか、それは不明です。



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7万台への挑戦、新しい人新しい話

2008-05-12 04:52:57 | 7万台の挑戦の時代
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89年夏から秋にかけて、販売台数はゼファーなどが堅調に売れて何の心配もなかった。

8月に移動値で50000台を記録し、その後毎月1000台ずつ伸ばして(前年同期を毎月1000台上回って)12月には54200台を記録しているが、目標の7万台にはまだ程遠い実績であった。


それでも、新しいことが周囲にいっぱいだったし、新しい人たちともいっぱい出会っている。
今も付き合いのある当時まだRPMの村島さん(インタナショナルトレーデイング)と出会ったのもこの頃である。

大分ではSPA直入が進行中だったし、関東でもサーキット候補地がいっぱいあって川重商事の松本さんたちと対応に忙しかった。
今はカワサキの所有となっているオートポリスの建設もこの頃で、二輪車新聞の衛さんと一緒に見に行っったりしている。

札幌でオートランド札幌の山崎さんや、札幌二輪館なども始めて訪ねている。


販売関係では当時ではこの業界では夢のまた夢であった『完全仕切制』について西日本で谷沢君たちと検討に入っている。
やりたくてもやれなかった構造改革であったが、西日本がその嚆矢となった。

これは後翌年2月カワサキ西日本独自で、業界初めて『完全受注制度』として中国地区広島1拠点とし物流改革や今も残っている岡山のショップ体制などと絡めての実施に踏み切ることになるのである。


この動きの全国展開を図るべく、
9月25日にはカワサキOBの吉田(明)、島津、吉田(純)、吉永さんら近畿のOB主力と検討会をもっている。

『本当に出来るだろうか?悪くなってからでは、もう遅い。今だからこそやれる。』 その日の日記にそう書いている。


ただ、全てが順調だったわけでもなくて、9月23日のJJSBAの熱海のジェットスキーレースでは、レース中に死亡事故が発生した。
レースには事故はつきものではあるが、一端起これば大変なのである。

ジェットスキー自体が新しい商品で、レースでも初めての死亡事故であったが、それにめげることなく、その後関係者の努力でいろいろと運営方法などの改善が行なわれていった。
そんな先人たちの努力の上に、今のJJSBAやウオータークラフトのレースの世界があるのである。



何事にもチャレンジした、そんな時期であった。
そして、10月からは新販売網構想の『ARK構想』を翌年1月スタートを目標に検討開始したのである。
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7万台への挑戦、お世話になった有馬さん

2008-05-08 04:34:40 | 7万台の挑戦の時代
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阪神ライデングスクールの有馬さんにお会いしたのは89年の夏、鈴鹿の全国二輪車安全運転大会のパーテイの席上であった。

ちょっとした挨拶だけだったのだが、何となく気になっていて8月30日にぷらっと独りで訪ねた。
その日の日記にこう記している。

『---ほんの1,2分の挨拶だけであったが、普通のM/C屋との大きな差みたいなものを感じて見に行くことにした。行ってよかったと思う。
ひょっとしたらこの出会いが、いつの日か大きな実りになることを期待したい』


ホントにそうなったのである。
この日から何年間か、密接なお付き合いが始まった。
有馬さんと会っていなかったら、カワサキライディングスクールなど絶対に出来たりしなかったのである。


私の記憶に誤りがなければ、こんな話をお聞きしたと思う。

有馬さんのお父さんは鹿児島で自動車学校を経営されている。
有馬さんは全国二輪車安全大会の鹿児島県チームの監督をして全国優勝を成し遂げた。
何とか、二輪専門の自動車学校の設立をと考えたが、鹿児島県では生徒の絶対数が足りない。それで阪神間でどこかと場所を探すことから始めた
最初は伊丹空港の滑走路の端辺りはどうかと空港に行ってみたが断わられた。
阪神電車の空き地があって、そこが今の教習場である
二輪専門の自動車学校の免許取得は難しいが何とかなった。
今はB-lineというオートバイ屋も阪神ライデングのレースチームも持っている。
カワサキさんも『二輪専門の自動車教習場』をやりませんかと言うようなことでなかったかと思う。


有馬さんの夢のある話に感動したし、何よりも阪神ライデングスクールの人たちの態度が素晴らしかった。
『ほんとに自動車教習場やってみようか』と思ったりしている。


いろんなことに挑戦をしたが、それぞれのプロジェクトでそれぞれ核になる人がいるものである。
この人が若しいなければ絶対に実現しなかったと言い切れるほど強烈なものは、そんなにない。核を造ればいいのである。

然し、このライデングスクールのプロジェクトは、有馬さんなしには実現しなかったのは間違いない。


有馬さんの、阪神ライデングスクールを訪ねたのは1989年8月30日。
それからいろいろとあって、長い年月が流れた。
自動車学校の認可が下りたのは、1995年4月28日
指定自動車学校の開校式は、1996年4月8日    である。


この間、カワサキでは南、谷沢、渡部君など、その実現のためにホントに難しい挑戦を続けた。
重本、野村君などが担当したレース分野では、サテライトチームの一つとして阪神ライデングスクールは8耐などで活躍をした。
有馬さんにはこのほかにも、カワサキ独特の安全運転教室運営も手伝って頂いた。


この頃、有馬さんにはずっとお世話になった。
最近はお会いしていないが、いまは関東にも進出されて、ニ推の委員もされているとか。
ふと出会ったのは、89年夏、8月の鈴鹿であった。

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7万台への挑戦、社内も社外も注目

2008-05-02 04:39:42 | 7万台の挑戦の時代
この年の7月に移動値で5万台を記録して以来、毎月台数のほうは1000台づつ上昇を続けた。
2年後7万台は可能なトレンドを示していた。

台数もさることながら、新しいいろんな取り組みが周囲の注目を浴びるようになってきた。



まず社内では、8月1日に関係会社社長会の席上 
『国内の販売戦略 イメージ戦略とユーザー対策』 と題して発表をさせられた。

させられたと言うより、大庭さんに命じられたのである。
大庭さんは単車から川重の社長になられた頃であったが、単車本部長の頃国内販社の社長も兼務されていてそんな会社が今絶好調なのが、ご自身の自慢でもあったのである。

大庭さんの期待を裏切らないような面白い発表をするように心掛けた。
89年 『時代は艶』
90年 『感動ホルモン 飽和社会の新活力』
など博報堂の生活総合研究所の発表内容などを交えて、ソフト会社や、ユーザー組織KAZE、レース、サーキット運営など販売の周辺のソフト分野の話を中心にした。

川崎重工の役員会や関係会社社長会での発表としては異色のものだったと思う。
後のパーテイでも圧倒的に『面白かった』と評して頂いて、私自身も大いに満足であった。




当時、業界や経済界でも 『堅い会社の柔らかい動き』 は注目されて、7月31日の日経ビジネスには長谷川直樹記者の4ページ特集で

『名門復活の牽引車になるか』

『二輪車下位メーカーの川崎重工業が一転積極策に出た。その元気な姿は3年前に人員整理を断行した暗さを感じさせない。

造船、産業機械など重々しいイメージの川重にあって、二輪車部門は唯一エンドユーザーに結びついている。川重全体が攻めの経営に転じるときの”切り込み隊長”なのだ。』

と紹介された。


川重には不似合いの、
「KAZE」、「ソフト会社」、「サーキット」、「JJSBAのジェットスキーレース」、「レーシングスポンサー」などの言葉が随所に溢れ、
大庭さん、高橋さんの顔写真入りの囲み記事などを挿入されている。

『何もしないと思われているところがするから』、注目されたのだと思う。
兎に角、元気ないい時代であった。

カワサキの周辺は、レースも販売店も従業員も、みんな元気であった。
カワサキに乗っているユーザーも大きく胸を張っていた時代の幕開けの時期であった。



丁度その頃、8月始めに鈴鹿の全国安全運転大会のパーテイで、阪神ライデングの有馬社長にお会いした。

ちょっとした挨拶だけだったのだが、
何となく気になって8月30日に尼崎の阪神ライデングスクールを独りで訪ねている。
そして、9月1日の日記に『二輪車教習場を本当にやろうか』などと書いている。

ホントにふとしたことで、物事は大きく動くのである。

有馬さんには以降3年間ほど本当にお世話になった。
その有馬さんとの話は次回に。

そんなこともあった、89年の夏であった。
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