雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

東大出の人たちと私

2020-06-30 08:09:01 | 発想$感想

★ 『東京大学出身』というと何となく一目置くのだが、
 私の人生振り返ってみて、
 何故か世の中の『どの大学出の方たち』よりも
 『東大出』の方たちとのご縁が圧倒的に多いのである。

 川崎航空機の入社試験の面接で、
 人事課長をされていた塚本碩春さんも東大出なのだが、
 その第一声は『君は成績悪いね』だったのである。
 それが私が社会に出て聞いたはじめての言葉だったのだが、
 全然悪びれることもなく、
 『会社の仕事ぐらいなら他人に負けずにちゃんとやれます。』と答えたのである。

 
   その後入社15年目には、私は当時企画室課長だったのだが、
 塚本碩春本部長、青野格副本部長、堀川運平企画室長 すべてが東大出で、
 私の下にいた武本一郎係長まで東大出身で
 『東大出身』の方たちに囲まれて仕事をしていたのである。

 塚本本部長にはその2年後、
 どうにもならずに行き詰まっていた『国内販社対策』を創るように指示されて、
 その計画の通りに、国内販社改革は進んだのである。 

 面接の時に塚本さんに応えた通りのことが出来てよかったと思ったし、
 塚本さんは多分忘れておられたかと思うが
 私は現役時代『最初に言った言葉』はひとときも忘れたことはないのである。
 
 その計画を本社に説明に上がった時の財務本部長が堀川運平さんで、
 『古谷くんが2ヶ月も掛って創った計画ならそれに乗りましょう』と言って頂いて、
 殆ど説明も聞かずに承認頂いたので、それなりの信用はあったのだろう。



★私が最初にペアで仕事をした東大出の方と言えば、
神戸一中の先輩でその後川重の副社長もされた山田熙明さんだが、
レース関係でのデグナーの契約だったのである。
そんな外人との契約書の作り方など社内では解かる人はいなかったので、
ホンダの前川さん』のところまで教えて貰いに鈴鹿まで出かけたのである。
その原文は私が創って、それを英訳されたのは、山田熙明さんなのである。

そんな山田さんとはその後もいろいろあって専務をされていた頃、
アメリカのKMCの経営危機という大問題が起こって
山田さんは全社挙げての『対策本部長』をされるのだが、
当時販社の経営を実際にやった経験者が少なくて、私に相談があったのだが、
すぐ解決します』と言ったものだから、
当時はカワ販に出向中だったのだが、企画に呼び戻されたのである。

その時の企画当時、私の下にいたのが武本一郎さんで、
彼は本当によくやってくれたのである。
さらに言えば当時の本社財務サイドは堀川運平・松本新さん体制で、
このお二人も東大出なのだが、本当に後押しをして頂いたのである。

なかなか本社を通すのは普通では難しかったのだが、川重全体の問題になっていたこともあって、常に『フォロー体制』だったのである。



★なぜ、そんな方々に『信用があったのかな』と思うのだが
私は世の中の職位とか学歴などには『全く物怖じしない』性格で、
どんな方にでも、『同じようにしか話せない』のが返っていいのかも知れない。

それにしても『東大出』の方とはご縁があるのである。

こんなブログを書きだしたのも、Facebook で、
山田浩平くんからこんなコメントを頂いたのである。


お元気でお過ごしとうかがい安堵しております。
カナダ時代に末端顧客について「先端的な顧客研究(マーケティングリサーチ)」を行い、そこから出た事実に基づく「顧客戦略(セグメンテーション)」を立てることをやろうとしました。
値付け、販売チャンネル、広告宣伝をその「顧客戦略」の上に組み立てようとしたわけですが、時間切れでした。今となっては懐かしい昔話です。
今の時代はAIもあり、昔ではとうていできなかったような量的リサーチが色々と可能になっていて、さぞかし面白いだろうなあと思います。
カナダのチャンスを与えてくださり、ありがとうございます。御礼申し上げます。


如何にも技術屋さんらしいコメントだなと思った。
このNinjaのエンジン設計を担当したのは、若き日の山田浩平くんである。

     



私が彼と出会ったのは、Ninja 900が世に出た1982年からずっと後の90年代、
カワサキでX-11というサーキット走行マシンの開発をやっていたころ、
この時の担当が山田浩平くんで、その時初めて彼と出会ったのである。
 
こんなかっこいいマシンなのである。
KAZEというマークがあるように、この開発については 
国内販社カワ販がサーキット走行など大いに面倒を見たのである。



 


 最近出たマシン Ninja H2 山田浩平くんの最後の作だと言っていい。

 彼はその後カナダ・アメリカKMCなどの販社を経て、
品証から技術本部長に戻った時、
私にくれた手紙に書いてあったマシンは多分間違いなく 
Ninja H2のことだったのだと思う。

約束通り彼はこのマシンを仕上げ、世に出してカワサキを去ったのである。
 

 
 



   山田浩平くんは、変わっていると言えば変わっている。
 『優秀な技術屋さん』なのに
 なぜか『マーケッテング』に興味があって、海外の販社をやりたいというので、
 その時、カナダでもと、紹介したことがあったかなと思う。
 そんなことで、こんなコメントを頂いているのだが、
  
 カナダのチャンスを与えてくださり、ありがとうございます。御礼申し上げます。


 彼もまさしく、『東京大学』 出身なのである。



★ そんなことで現役時代は東京大学出身者と数多くの関連もあったのだが、
 定年後ネットの世界でも、何となく『東大出』の方たちと繋がっているのである。

 一番密接だったのは『樋渡啓祐』さんだと思うし、
 最近もFacebook でお会いすることも多いのである。

         
        



     鉄道マニアの藤原廣三さんも東大だし


      
 

 極々最近、こんなコメントで繋がった『野本浩一』さんも
 東大ご出身なのである。


   


野本 浩一 ぶれないで現在に至る・・・これは、参考になります。 多くの人にとっての有難い人生の指針になったのだと思います。 読んでいて、楽しく振り返る人がおおいのではないでしょうか。  何故、こんな風に感じるのか・・・・それは、これから暫く続けさせて頂くであろう、メール交換のお楽しみにさせてください。 本当に今日の文章は 素晴しいものだと思います。

 
とお褒めの言葉を頂いたりするのである。


★日本の最高学府であると言ってもいい東京大学出身の方に、
 『認めて頂ける』のは、正直嬉しいのだが、

 私の心の底には、東大や京大などと言うが
 『中学時代私より下の成績の人がいっぱい行っている。』
 という負け惜しみの想いがあるのは間違いないのだが、
 
 私自身は、アタマがいい悪いは兎も角、
 どこの国立大学でも『通る』のはムツカシイのは事実なのである。

 数学は『対数』以降は、現実離れしていて勉強する気にはなれなかったし、
 理科や技術の話は、全く受付けないのである。

 国立大学はどの大学でも数学と理科の試験科目があるので、
 『入学するのは無理』だと思っている。

 然し、同時に東京大学出身の方たちと対等にお付き合いが出来たのは
 『よかったな』と思っているのである。

   私自身も結構『変わっている』のだが、
 その私とお付き合いをされる『東大出』の方たちも
 『変わっている』のかも知れない。


 
 
  
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私のコロナ騒動

2020-06-29 06:46:03 | 発想$感想

★ 昨日は日曜日だった。
  なぜか昨夜は眠れなくて、夜中に何度も起きたし、
  寒気がしたりしたのである。

  朝、ちょっとおかしいので体温を図ったら『7度8分』もあって、
  『コロナではないか?』 と思ったのである。


  日曜日だしどうしようかなと思ったが、
  9時きっかりに、兵庫県の『コロナ担当窓口』に電話をしてみたのである。
  担当者はいろいろと丁寧に対応はしてくれるが、
  病状を一応は聞いてはくれるが、具体的な指示は出さないようで、

  明日になると『加東健康福祉事務所』にでも聞いてみたら、と仰るのである。
  ここは日曜日はお休みなのである。
  電話口の私の声を聞いて、
  『87歳ですか?元気ですね』などと言われていたので、
  1日ぐらい『大丈夫』と思われたのかも知れない。


★ 私は『せっかちな性分』で、すぐ動かないと気に入らないのである。

  それで北播磨総合医療センターに電話をしてみたのである。


  



       日曜日だが、ER窓口(緊急窓口)で対応するから来てください。
  と言われるのですぐに出かけたのである。
  付き添いが必要とは言うのだが、
  家内を連れて行っても『役にたつ』とは思えないので、
  私一人で出かけたのである。

       『PCR検査』とか『抗体検査』をして貰えないかと思ったのだが、
  『胸のレントゲン』を撮って、肺は綺麗だし、
  『先生の診断』では、この状態では『検査は出来ない』と仰るのである。


  要は『大丈夫だ』と仰るのである。
  この3ヶ月、『コロナに罹る』ような状態もなかったし、
  熱も「解熱剤」を飲んだら、平熱に戻ったので、大丈夫なようである。

  昨夜の『発熱』は何だったのだろう?
  流石に日曜日は、スロージョッギングも止めて、
  家で『大人しく』過ごしたのである。


★  それにしても『PCR検査』とか『抗体検査』とかは、
  希望するだけではやって貰えないのだとは初めて知った、
  『先生の判断』で必要な時だけに出来るようである。

  『スポーツ選手などが団体で検査するじゃないですか』と言ったら、
  あれは『特殊です』 と言われていた。

  まあ、兎に角『大丈夫』なようなので、一安心なのである。
  月曜日の朝、特にどうということはない。
  

 
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販売網とは 誰のモノなんだろう?

2020-06-28 06:49:55 | カワサキワールド

★昨日、かってのカワサキの販売店政策,
委託制度から仕切り制度』への改革をアップしたら、
吉田純一さんからFacebook でこんなコメントを頂いた。



 


 カワサキの二輪事業に関係したOBとして
 現役諸君がやっている政策に論評をするのは、何となくイヤなのだが、
 吉田純一さんもカワサキのOBだし、かっての仲間で
 今は日本二輪車文化協会の会長も務めておられる二輪車業界の重鎮なのである。


 いまカワサキが進めている『プラザ政策』とは
 その基本コンセプトがもう一つよく解らない。

 特に、吉田さんがご指摘のように『ユーザー目線』が感じられないし、
 かって、何十年も掛って作り上げてきた『カワサキ販売網の仲間たち』を
 どのように考えているのか?


 カワサキのホームページにはこのように書かれているのだが、
 もう一つその目的などが明確ではないように思う。

     
  


 
 


★ネットを見ていたら、カワサキバイクマガジン
こんなカワサキの創生期から支えた人たちのことが出ていた。
よく存じ上げている人たちばかりである。


  



 特に仙台の服部謙治くん や

  


 堺の伊藤彰さん などは私とも密接に関係があるのだが、


  

 
 
 私と一緒に店を立ち上げた服部カワサキも、プラザに参加しないようだし、

 特に伊藤彰さんは、
 このカワサキプラザ構想に対して、
   『カワサキ一筋に尽くしてきた、私の50年は何だったのだろう?』
 と言われるのである。

 文字通り純粋な一徹な人で、
 カワサキバイクマガジンでもこのように紹介されている。


カワサキバイクマガジン     vol.92掲載記事(2011年10月1日発売)

当時を知っているからこそわかることがある。
混沌とした時代にこそ、我々は忘れ去られつつあるカワサキ創成期のあらゆるエピソードを今に伝え、
その想いを受け止めるべきではないだろうか

今回は、カワサキが販売網拡大に動き出したころ、異業種から転身し、販売店を開業した伊藤 彰氏が、その過程を語る。



現在大阪府に店舗を構えるカワサキ正規取扱店の忍者も、昭和40年前半に販売店を開業し、カワサキ車を取り扱うようになった一店舗だ。
とはいえ同店代表の伊藤 彰は、まったく畑違いの職から二輪業界に転身してきたのである。・・・・・・・

大阪のカワサキ販売会社に勤務する営業担当者が伊藤モータースに訪れた。
伊藤、24歳のころだった。
「私のバイクショップから離れた場所に、大型のバイクショップがあったんですけど、そのショップに営業マンが500SSを納車する際に立ち寄ってくれたんです。
竹内 優さんという方で、クルマに積んだ500SSを私に見せてくれたんです。
その竹内さんとの出会いが、私がカワサキ車を取り扱うようになったキッカケです」


「私は竹内さんにほれて、『カワサキのバイクをもっと私に売らせて下さい』と頼んだんです。
すると、まず3ヶ月間でカワサキのバイクを6台売ってほしいと言われたんです。
あくまでも竹内さんからの提案にすぎなかったんですけどね。
その後1台、また1台と売れていって、もうすぐ3ヶ月めが終わるというときに、売った台数が5台だったんです。1台足らないわけですよね。
だから仕方ないのでW1を自分で買ったんです」

3ヶ月間で販売台数6台というのは、カワサキ車を取り扱うための条件ではなかったものの、伊藤氏はその販売台数をクリアし、この出来事を機に、
伊藤モータースではカワサキ車を本格的に販売するようになる。

「当時、私の店は立派なテントもない小屋のような建物だったので、カワサキに、カワサキのテントがほしいと伝えたんです。すると、当時カワサキと業務提携していたテント屋がなく、私に探してほしいと頼まれたんです。そこで自分でテント屋を探して、やっとカワサキのテントを掲げることができたんです」



   



(伊藤さんは竹内優さんを恩人と言って憚らない。 
こんな具体的な話は、私も読むのは初めてなのである。

これがその時の写真だが、当時の大阪のカワサキ販売店で、『テントの看板』だったのは伊藤モータースだけなのである。
これは伊藤さんご存じないのかも知れぬが、
看板屋に看板を付けるように頼んだら、
『あの店には看板は付けられないというので、
仕方なく『テントの看板』になったのが経緯なのである。
これは私自身がよく覚えている。)



・・・・・・

伊藤がカワサキのバイクを本格的に取り扱うようになったのは、カワサキの営業担当者にほれてのこと。そしてお客とのつながりも大切にしていく。
このように伊藤は人と人のつながりを大切にしながらバイクショップを営んできた

「私がまだバイクショップを始めたころ、竹内さんをはじめとしたカワサキの方に、
いろいろ教えていただきました。私のカワサキ人生を語る上で大切な方たちです。
もうその方たちはカワサキを定年退職されてますが、今でもお付き合いさせていただいています」

カワサキのバイクショップを営んできた伊藤が、
今に活かされていることについて挙げたのは、
人とのつながりを重んじることだった



  



★ このように建て増ししたのはスタートして1年後ぐらいのことなのである。
 それからいろいろと店名も変わって、
 今の『忍者』に繋がっているのだが、

 服部君も、伊藤さんも、吉田純一さんも、
 『カワサキプラザ』には、参加しないようである。
 
 従来の正規販売店800店の殆どが参加しないというか
 『参加できないような条件提示』なのである。

 伊藤さんの言う
 人と人のつながりを大切にしながらバイクショップを営んできた
 
 そんなことを、どのように考えているのだろうか?
 『販売網とは 誰のモノなんだろう?』
 販売会社だけのものではないようにも想うのだが・・・・・




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7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代 15

2020-06-27 05:48:52 | 私の生き方、考え方&意見

★ 『ARK』という名前を覚えておられるだろうか?
 カワサキの正規販売店を

    『ARK=Authorized and Reliable shop of Kawasaki
 と呼んで新しい販売ネットワークを創ったのは、1989年10月のことである。

 88年10月に国内販売を担当して『7万台を目指した』のだが
 ちょうど1年掛かって、新構想で創り上げたのである。
 

     



 懐かしいその看板なのだが、
 この6月で店舗を閉める三木のGood Times Plaza
 登山道夫さんがお持ちなので写真を撮ってきたのである。

 もっと古い時代の『GREEN SHOP』の看板もあった。

  



★ カワサキの販売網に関しては、昭和48年(1973)の特約店制度に始まって、
 色濃く私自身も関係してきたのだが、
 常に日本の二輪業界の一歩先を歩いていて、
 ずっと『日本初』が続いていたのは、
 他メーカーは50ccのモペットが主体の時代が長く続いて、
 中大型車が主力なのはカワサキ1社だけだったからである。

 昭和30年代から、ホンダがトップを走ったのだが、
 二輪業界の取引は全国に何万店もある『自転車屋さん』を主体にした
 『委託制度』の取引形態がずっと続いていて、
 カワサキも『中大型車主体』の『二輪車専門店制度』にはしたのだが、

 この『委託制度』だけは80年代までずっと続いていたのである。



★ そんな二輪業界の『取引形態改革』にチャレンジしたのが、
  1989年度からで、それは『ARK制度』と共にスタートしたのである。

  当時の記録を見ると以下のようになっていて、
  新しく担当した国内販売の1年目に実施に移す決心をしているのである。



 



★ 20年以上も続いていた『二輪業界独特の委託制度からの脱却』は、
 世の中の注目も浴びて、
 日経ロジステックスが、
 3ページにも亘った特集記事で紹介してくれているので、 
 3ページ全部をご紹介することにしたい。

   このシリーズは 『私の生き方、考え方&意見』 ということで纏めているのだが、
 この日経の記事の中には、そんな『私のやり方』が集約されている。

 じっくり読んでみてください。
 今も現役にいる若手の名前なども登場するのである。


     


 
 


★この記事の中にもいろんな若手が登場するのだが、
 当時は、入社早々の若手が結構頑張っていたのである。

 ZEPHYRというヒット商品名を付けたのも新人諸君だったし、
 この 『ARK』 というネーミングも若手の諸君のが名付け親なのである。

 そんな解ったようなムツカシイ名前が『通るか?』と正直私も思ったのだが、
 それは『杞憂』に終わったのである。
 『ARK』 という名前を二輪業界で通用させてくれたのは、
 カワサキのメンバーではなくて、『他社のセールス』の話題になり、
 二輪業界の中にスムースに浸透していったのである。


★この時代いろんなことを次々にやってはいるのだが、
 これは、当時の特約店も面食らったと思ったが、
 1年目に80%近い店が契約してくれて一挙に流れとなったのである。

 常に『すべてを実施しない』納得したところで進めて行くのは『私流のやり方』で、
 『全国一律実施』などはしたことがないのだが、
 周りの状況は『常に読んでいる』ので、そんなに長くは掛からないのである。


 この記事の出る92年8月には、先進3社も、追随してくれて、
 『受注制度』は委託に代わる新しい制度として定着したのである。

 

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札幌での想い出いろいろ

2020-06-26 05:56:02 | 発想$感想

★『回想法・・・昔を振り返ると脳が活性化して、認知症予防にもなる。』

 とあるブログに書かれていたので、
 20年程前の現役最後のお勤めだった『札幌時代』のことを思いだしてみたい。



 昨日、札幌の大滝幹夫さんから突然の電話を頂いた。
 特に大した用件でもなく、カワサキのバイクに乗る女性の話だったのだが、
 懐かしかったので、20分以上も『昔話に華を咲かせた』のである。

 私の現役時代は、
 昭和32年(1957年)に川崎航空機に入社以来、
 1960年に新しく単車事業が始まってからは単車一筋だったのだが、
 1997年の5月からちょうど2年間、北海道川重建機の社長を務めていた。

 当時は川重でも建機事業をやっていて、そんな関係もあったのだが、
 私は『建機事業』など何の関係もなかったのである。

 今は北海道川崎建機と名称は変わっているようだが、
 この会社は川崎重工とは密接に関係はあるのだが、
 所謂『子会社』ではなくて、『自前資本の優良会社』なのである。


         

 
 
   この会社に川崎重工から社長を出すのは初めてのことだったのだが、
 子会社なら兎も角、自前の優良会社への社長派遣の人選は迷ったらしい。
 
 私が選ばれたのは、若い頃東北の『自前の代理店担当』などしていて、
 子会社ではない代理店の扱いの経験があったこと、
 何でも『新しいこと』なら、
 任しておけば『何とかするだろう』ということだったようである。


 そんなことで、行ってみたら、
 そこには川重の建機事業部からの出向者もいて、
 それが大学の野球部の後輩であったり、
 その時の常務で営業部長だったのが『大滝幹夫』さんで、
 なかなかオモシロかったのである。


 これは1.2年前のようだが、こんな会社で、
 社屋はその頃も同じような造りだった。
 丹野司さんがオーナー株主で、丹野さんのお父さんが設立されたのだが、
 私のいたころも非常勤の取締役でおられた、そんな会社のなのである。


  
 
 
  

★ そんな会社で、2年間何をしてたのか?
 というと、具体的には何もしていないのだが、

  
    
 
 
 
 道内にこんなに沢山の支店があり、当時も200名近い従業員がいたのだが、

 そんな結構大きな組織のいろんな人たちを『ちゃんと纏めた』だけである。
 
 私は、『はじめての方』でも、どなたでも、
 同じようにしかお付き合いできないので、
 『単車時代の販売店』と同じように接しただけなのである。

 結構仲良くお付き合いをさせて頂いたのである。
 そんなこともあってか、20年経った今も年賀状を頂いたり、
 大滝さんのように、突然電話など頂くこともあるのである。


 今更、建機のことなど覚えてもどうしようもないので、製品のこととか、
 営業問題などは一切関与しなかったし、名前すら覚えなかった。

 やったと言えば、『経営管理の数値の纏め方』と
 『従業員の給与の水準を上げた』ぐらいなのである。

 特に、『給与問題』は、この会社の役員の方は殆どが株主で、
 当時の専務の給料なども、川重の私などより良かったのだが、
 社長が専務より低いのではと、ちょっとだけ専務より上にして頂いたのである。

 ただ、このような自前の会社の従業員の給与水準は、そんなに良くなかったので、
 私の独自の判断でそのレベルを上げたので、受けが良かったのかも知れない。
 勿論、取締役会には上程しているが特に反対も出なかったのである。
 
 殆どが株主が集まる取締役会を仕切るのはなかなかムツカシかったが、
 この辺りは『私の得意分野』だと言っていい。
 
 当時丹野さんには気に入って頂いて、
 『何年でもいてください』などと言われたのだが、
 お約束通り2年で一応、『川重の関係会社らしく仕上げて』戻ってきたのである。
 その後2年も『顧問』をさせて頂いたので、4年間お世話になったのである。


 『運転手をつけましょうか』というお申し出もあったのだがお断りして、
 『クラウンの四駆』の新車を買って頂いて、
 自分で運転して支店廻りをしていたので、北海道の道は、殆ど走ったことがある。
 そういう意味では、たった2年間だが北海道は隅々まで解っているのである。


★ 昨日は大滝幹夫さんといろいろお話ししていたが、
 20年も経つと大滝さんも73歳で、今年で会社を退職し顧問をされているとか。
 
 当時の方たちの懐かしいお名前もいっぱい出たのだが、
 やはり皆さんお歳で、いろいろとあるようで、
 私が『元気なのに』ビックリされていたようである。

 大滝さんのお嬢さんがネットをやっておられて、
 『私のこと』をご存知だとか、
 大滝さんにもFacebook をお勧めしたのだが、
 果たしておやりになるだろうか?

 実は、私が北海道川重建機時代は、
 私だけがパソコンも携帯電話も持っていない旧い人間だったので、
 大滝さんはそれを覚えておられて
 『パソコンはいつからですか?』と仰るのである。
 パソコンを始めたのは70歳を過ぎてからだが、
 それでももう20年近くになる。

 
 北海道川重建機の2年目の春3月に、
 私は警察の本庁で怒っていたら、アタマに血が上って
 突如、『くも膜下出血』になったのだが、
 場所が良くて15分後には
 こんな 『中村記念病院と言う脳外科専門病院』 に運ばれたのである。


  

  
  脳外科の先生が30人近くいる『脳外科専門病院』で
  私は手術などせずに、『1ヶ月の入院』だけで退院できたのである。

  担当された先生曰く
  『ムツカシイところが切れたので』 手術もあったが、
  『会議で何もしないことに決めた』 と仰るのである。

  専門医が2,3名の病院なら『間違いなく手術をされた』はずなのである。

  特に脳がおかしかった訳ではなくて、突然怒ってアタマに血が上って、
  『くも膜下』になったので、皆さんもあまり怒ったりはされない方がいい。
  『血が上る』というがホントにそんな感じで、
  胸のあたりまで登ってきたのは覚えているのだが
  その後は、気を失ってしまったのだが、15分後には病院にいたのである。
  
  脳外科の先生が仰るのに、田中角栄さんも小渕さんも、長嶋も、
  病院に来るまで時間が掛かり過ぎていると仰るのである。


 そんなこともあって、札幌の2年間は、
 二輪車時代とは全く違った『いい経験』をさせて頂いたのである。
 大滝さんとの電話の話も、最後はこの『くも膜下』の話になって、
 それにしても『お元気で』ということで終わったのである。

 
 いつも言ってるが『人間運がいい』のが何よりなのである。
 

  
 
 
 
 
 
 

  
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コロナウイルス対策  雑感

2020-06-25 05:55:32 | 私の生き方、考え方&意見

★ 昨日は東京で55人もの感染者が発生した。

 
 コロナ問題の数値の内容等は、いろいろあってめちゃ詳しいのだが、
 『見る方』から見たら『解り難い数値が多すぎる』ように思えてならない。

 

    『コロナ対策』など考える立場にないことは100も承知しているのだが、
 この『コロナ対策』は少なくともあと半年、1年は続きそうだから、
 もう少し『見る人たちに解り易い集計の仕方』にすればいいのにと思ってしまう。

 


★私が毎日見ているのは、NHKが纏めているこのサイトだが、


  こんな表示になっている。
  基本は勿論、これでもいいのだが、


 



 
 18746人というような累計数値は正しいのだが、
 半年後はこの数値が大きくなるだけで、
 見ても、その意味がよく解らなくなってしまうはずである。

 累計数値など、一般大衆にはあまり意味がない。
 
 
 現在の全国の『感染者数』は一時は1万人を超えていたが
 今は898人で、もうそんなに少なくなってしまったのである。
 この人たちは病院にいるか、少なくともその所在は把握されている。

 感染確認累計死亡累計退院累計 = 現在の感染者数

 18746-978-16870 = 898人 
 
 今の感染者数は全国で約900人のレベルなのである。
 そしてその殆どの人は3週間後には社会に復帰するのである。
 ここまでは、自分でノートに記録して その推移を毎日眺めている。




 今後今のような毎日50人ちょっとの新規感染者が出るとして、
 入院期間は約3週間ぐらいだとすると、
 大体同じ人数前後の退院者数が出るので、
 大体700~900人ぐらいで推移するのではなかろうか?

 全国でこれくらいの数値で推移すると、そんなに問題でもないように思う。
 これくらいのレベルに落ち着いてきたので、あまり一喜一憂することなく、

 上記の感染者などの数値を『3週間の移動値』で表わすようにすればいいと思う。

 
 コロナ対策だけでなく、経済対策も大事なので、
 今後『上手にコロナと付き合っていく』 心構えが必要で、
 数値もそれに対応した『趨勢が解る』表示がいいと思う。
 


★ 3週間の移動値で表示すると、
 全国で20県ほどは『感染者数=0人』と出るのである。
 
 これなども全県調べてみたのだが、累計では岩手だけが0人なのだが、
 3週間にすると0人の県が20県もあるのはびっくりだった。
 

 私の住んでいる三木市がいまどうなっているのかが関心事なのだが、
 兵庫県はこんな詳細なデーターを出していて、
 いま累計で700人ちょっとだが、700人のデーターが全て解るのである。



 だが、三木市はこのような『加東健康福祉事務所管内』に入っているので、
 三木市で感染者がいるのかいないのかよく解らないのである。

  

 『加東健康福祉事務所管内』では3月に1人、4月に4人出ているが、
 それ以来は0人なので、『3週間移動値』にすると『0人』になるので。
 いま三木には感染者はいないはずである。


★東京・大阪などの大都会でも『3週間移動値』にして、
 各県ごとにその『安全域・危険域』を設定して表示したら、
 見る方は解りやすいのにと思ったりしている。


  



 世界が『ミステリーと評価』している日本のコロナ対応なのだが、
 その表示方式でも独自のモノを創ればいい。

 これからずっと続いていくであろう『コロナとのお付き合い』
 どのようなスタンスで、一般国民に示していくべきか?

 もうそろそろ、国やら都道府県の対応だけではなくて、
 末端の人たちに目を向けた、
 『末端の人たちが解りやすい分析数値』を 出せばいいのにと思っている。

 コロナの死亡率は5%で、95%の人たちは約3週間で回復するのだから、
 過去の旧い累計などよりは
 実情に合わせた『3週間移動値』は、解り易くていいのにと思ったりしている。


★ 私の現役時代の『データー』というか判断のベースになっていたのは、
 すべて『年間移動値』だったのである。
 
 お付き合いで『事業計画』は作ったが、
 実際の経営判断には、あんまり役に立たないのである。
 
 季節変動なども、包含される『年間移動値の趨勢』を見る方が
 より実戦的なのである。

 そんな現役時代を思い出しての『コロナ対策3週間移動値』なのである。

 もうスタートからは、十分なデーターがあるので、すぐ実行できる。
 別に『1ヶ月移動値』でもいいのだが、
 『3週間』の方がより実態に合うのかな思ったりしている。

 
 
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ネットの世界   雑感

2020-06-24 05:57:34 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram

★昨日のブログは、先日来写真は撮ってはきたのだが、
 名前が解らない『大きな木』のことを『何という木かな?』
 とアップしたのだが、



 



 いつも沢山のコメントが来るFacebook は兎も角、
 コメントが来るのは珍しいgooのブログ本体にも
 このようにいっぱいのコメントが並んだのである。


  
  

  
 その名前は『合歓の木』だった。

 『合歓の木か?』 言われてみたら
 これを『ネムの木』とちゃんと読めるし、何度もどこかで聞いている。
 そんな『ネムの木』も知らなかったのかと思った。

 でも、皆さん優しいのである。
 『合歓の木も知らないのですか?』などと言うコメントは皆無なのである。

 コメントの返事の書きように困ってしまって、
 一括してこのように、ご返事した。
 ひとつひとつご返事できずにゴメンナサイ。


  ネムの木 (rfuruya) 2020-06-23 09:52:52
  皆さん、ありがとうございます。
  これが『ネムノキ』ですか。  名前はよく聞きますね。
  何にも知らない87歳です。




★ Facebook でも、このような丁寧な、親切なコメントをいっぱい頂いた。
  


  
 

   
  
 

★ ネットのコメントやシェアなどは、ホントにいいなと思う。
 これはごく最近、ブログのコメントでご紹介頂いた、
 『82歳からブログをスタートされた93歳のおっばちゃんのブログ』である。
 このように書かれている。


この歳になって今想うこと、薄れゆく過去の情景など思いつくままに書いておき たくなりました。 82歳でこのブログを書き始めて11年が過ぎ93歳になりました。
 


  


 
 ご紹介のコメントを頂いた『プルートパパさん』ありがとうございました。






 こちらは先日アップした『樋渡啓祐さん
 めちゃお忙しい中を、
   わざわざFacebook にアップして頂いて、
 シュアまでして頂いた。

 朝日新聞の記事になったりするかも知れない。




 
  


 
   まさに SNS の世界だなと思っている。


 
 
 
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何という木かな?

2020-06-23 06:28:03 | 発想$感想

★ 最近、毎朝三木総合防災公園をスロージョッギングしているのだが、

 周りにある木や花が気になるのだが、殆どと言っていいほどその名前が解らない。




 この木の名前をご存知だろうか?

 何十メートルもある大きな木だが、
 こんな花を咲かせている。


 



 結構高い橋の下から生えていて、
 その頂上は、橋の上さらに10メートルぐらいまで伸びている。





 こんな感じなのである。





 大きな木だが、公園の中に4本ほどあるが、
 同じようなところに、同じような大きさで生えている。







 周囲に小さな木はないから、不思議だなと思っている。

    ずっと昔、まだこの山が公園などにはなっていない頃、
 同じ時期に、自生したのかなと思ったりしている。
 
 こんなに沢山の花が咲いて、種もあるのだろうに、
 なぜ小さな木が生えないのかな?


 特に『どうということはない』のだが、
 気になりかけると『ずっと気になっている』のである。





コメント (6)
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『反省しない』 いろいろ  雑感

2020-06-22 06:02:46 | 樋渡啓祐さんのこと

★現役時代、会社で新入社員が受ける『性格テスト』を私も受けたことがある。
 『性格テスト』だから、その評価が『いい、悪い』ではないのだが、
 それを担当した当時の総務部長曰く、
 
古谷さんの、性格はめちゃいいと思うのですが、「反省しない」というところの評価はめちゃ低いというか最高というか…』 
などとからかわれたことがある。

反省しない』 確かにあまり済んでしまったことを、いろいろ考えたりはしないし、
もっと極端に言えば『失敗などしていない』などと『ネアカ』に思ってしまうのである。

野球をしていたからエラーしたこともあるし、チャンスに打てなかったことも、勿論あるのだが『それは普通にあること』と都合のいいように思ってしまうのである。

会社の仕事』などはほんとに『失敗などしたことがない』と勝手に自己評価するような厚かましいところがある。

そんな『反省しない』、
常に前を向いて『新しいことにチャレンジ』するほうが楽しい
と思ってしまうのだと思う。

 

★かっての武雄市長・樋渡啓祐さんは今は超有名人である。

 その樋渡さんが『反省しない』という題名の本を書いておられる。



  


樋渡さんはよく存じ上げているのだが、
本の題名が『反省しない』となっていて、
樋渡さんも『反省しないのかな』と
その辺りが気になって、Amazon に注文していたのである。


樋渡啓祐さんと初めて繋がったのは2006年の頃だが、
総務省から高槻市役所の『市長公室長に出向されていた樋渡さん』を、
高槻市のホームページで見つけて、
私が勝手に追いかけだしたのである。


これは、2006年11月20日に私が書いたブログである。


市長公室長樋渡啓祐氏のこと
2006-11-20 
  
樋渡啓祐氏
面識もないし、勿論話もしたこともなく、私とは直接は何の関係もない
総務省から出向して、高槻市長公室長を平成15年4月より17年12月まで2年半ほど務められ、また総務省に戻られた。
1969年佐賀県生まれだから、まだ40才前の若さである。

高槻市のホームページ「こちら部長室」で62回に及ぶ、彼のコメントを読んだだけである。
その意見や仕事の進め方にこれほど共感を覚えたのは、先日ご紹介をした小野田滋郎さん以来といってもいい。
三木市のホームページのお手伝いのために、いろいろ調べていたら高槻市に出合ったのである。

樋渡さんの「こちら部長室」の第1回は「全国一のホームページを目指して」で始まり第62回「さよなら部長室」で終わっている。2年半ではあるが、高槻市は今年のホームページコンクールで、見事全国一になり目標を達成している。

62回のコメントはそれぞれ面白いのだが、次の二つをご紹介したい。

第55回BLOG,BLOG,BLOG
ブログについての、コメントである。
「この4月まで、この言葉を知りませんでした。」とある。
そして、いろいろ本などで勉強した結果のブログについての感想を次のように述べている。

「ブログのメリット」
「メールさえ打てれば、そんなに知識がなくても、HPが簡単に作れる。
情報発信が容易である。同時にトラックバックなどで情報の入手も容易になる。
デジカメの画像が簡単に、且つ沢山採り入れられる。」
更に続けて、「アメリカではブログの誕生により、ホワイトハウスの会見にブログの記者の出入りが認められたり、わが国でもこの動きは加速すると思います。」

ご自分でも、ブログに挑戦され、高槻市のホームページにブログの採用を起案されている。そして、「高槻市が全国に先駆けてブログ化に挑戦し、その成果がでることを楽しみにしたい。」

私は、上述のようなちゃんとした分析は出来なかったが、「カン」だけで、これはイケルと思ったので、自分でも試してみるとともに、三木市の市長メールでも、推薦をした。間違いなく時代の流れだと思うのである。

ホームページやメルマガを実施している政治家は沢山いるが、ブログをやっているのは、世耕弘成と石原慎太郎の二番目の息子など、まだ極わずかでスタートしたばかりである。



第36回 求む 奇人、変人

これも、私には非常に面白かったし、100%共感する。
世の中の人の教育は、まともなことが多すぎて、面白い人、本当に仕事ができる人を殺してしまっていると思っている。
自分自身がどちらかといえば、奇人、変人に近い人たちに親しみが持てたし、事実そんな仲間も多いので、樋渡さんのような総務省のエリートがこのようなコメントを書いてくれたのは、「わが意を得た」と思ったのである。

組織には必ず、奇人、変人が少なからず存在している。それが許容されているのがいいのだ。」と言っている。

高槻市に「着任して1年経って思うのは、潜在的な奇人、変人の人たちが「普通、一般化」していないか、もっと奇人、変人をそのまま伸ばす方向を採るべき」といっておられます。まったく同感です。更に「いい企画、いい仕事をするためにも、知的好奇心いっぱいの奇人、変人が是非とも必要です。」
「私自身も勇気をもって奇人、変人の類になるように頑張ります。まだまだ、潜在的に埋もれている奇人、変人は沢山いると思います。」

と続けて、奇人、変人のいい素質を持ちながら、「普通一般化」している、高槻市のAさん、Bさん、Cさんに呼びかけているのである。
奇人、変人は、多ければ多いほどいいと思うのだが。

コメント (1)


ホームページに書かれた幾つかの文章の中で、
そしてコメント(1)とあるのが『武雄市長の樋渡啓祐です。』
という樋渡さんご自身のコメントなのである。
ビックリしてしまって、コメントの返事も差し上げていないのである。

このブログを書きだしたのも、
樋渡さんの『Blog Blog Blog』という文章を読んでからである。 


このブログには、『素浪人&樋渡啓祐氏』というカテゴリーがあって、
今回は102回目の投稿なのである。



★武雄市長の最初の頃は、しょっちゅうコメントも頂いて、
樋渡さんのブログにも『雑感日記』はしょっちゅう登場していたのである。

これは三木市と武雄市を繋いで、
三木市長の薮本さんが武雄市を訪問した時の、樋渡さんのブログからだが、
このように書かれているのである。







そんな樋渡さんの『日本で一番若い市長』時代のお付き合いなのだが、
三木にお越しになって初めてお会いした時の写真である。
もう何年の前のことだが、
 『日本一若い市長の樋渡啓祐さん』は流石にお若いのである。

  

 
★『反省しない』は、昨日届いたのだが早速読んでみた。
 
 私の本の読み方は、まず『はじめに』を読んで、
 次に『終わりに』を読むことにしている。

 そしてこの本の終わりには、付いていたDVDを是非ご覧になって下さい
 とあったのでそのDVDを観ることから始めたのである。


  
  

 1時間9分35秒の講演会のビデオだが、なかなかオモシロかった。

 確かに『反省しない』と仰っていて、
 済んでしまったことを『反省しても仕方がない』と言われていて、
 『我が意を得た』心境なのである。

 でも、東大出のエリートとしては、
 やはり『奇人・変人の部類』に入るのかなと思うし、
 『奇人・変人のすすめ』を書かれるだけのことはある。


★ 樋渡さんとの繋がりのきっかけとなった、『こちら部長室』はもう高槻市のホームページにも残っていない。
樋渡さんの本は何冊か読んでいるのだが、本もいいのだが『こちら部長室』などの文章も、『武雄市長物語』時代のブログもよかったなと思っている。

いま樋渡さんは『』が付くほどの有名人におなりになって、50歳だとか、
未だ30代のお若いそんなには『有名人』でもなかった樋渡啓祐さんを、
勝手に見つけて追いかけだしたのは
先見性』があったと自慢してもいいような気がする。
 
そういう意味では『私自身』も相当に『奇人・変人の部類』なのだろう。

反省をしない』からの雑感いろいろ」なのである。

 
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7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代 14

2020-06-21 06:08:17 | 私の生き方、考え方&意見

★ この『7万台への挑戦』の時代だけではないのだが、
 総じて40年間の会社生活は『オモシロかった』と言っていい。

 単車事業という今まで会社の歴史の中で
    『やったことがない量産事業』で、
 それも『最終消費者に販売』する
    『世界展開の事業』など初体験だったのである。

 
    従って、上司というか先輩たちも経験がなくて、
 その販売の仕事に従事したのは、『私が初めて』と言ってもいいのである。
 『見よう見真似』での展開だったが、『オモシロかった』ことは間違いない。

 20代後半だったのだが、それ以来退職するまで、
 『上の人』は勿論おられたのだが、
 『上の人』から具体的な指示を受けて『仕事をした』ことは全くなくて、
 すべて『自分の思う通り』のことが出来たのである。
 
    30代からずっと『リーダー』という形での仕事がやれたと言っていい。



★私の最後の仕事となった90年代の国内市場担当の時代も、
 カワサキモータースグループ全体のリーダーで、
 こんな組織展開だったのである。



  


 全体で400人の規模のグループで、
 総売上高が400億円だったから、
 『一人当たり売上高=1億円』という
 結構な優良企業だったのである。


 このグループを運営するに当たって、
 従業員にとっても、『会社はオモシロく楽しくないといけない』と常に思っていた。
 
 1日の内の3分の1の時間を会社で過ごしているのだから、
 『そこが楽しくなかったら、その人の人生は楽しくない』筈なのである。
 これはもっと若い頃から、ずっと『そう思っていて
 一緒に仕事をした人たちと『楽しい運営』をやってきた積りなのである。
 そういう意味では、部下というよりは『仲間』と思っていたのである。

 
 少なくとも、私と直接接する方たちに『具体的な指示』など与えたことは殆どない。
 ホントに自由に動けたはずなのである。

 そのためには『グループ運営の基本コンセプト』だけは明確に提示し、
 それを『全体の仕組みでの運営』とし、
 その『基本の仕組み創り』だけは『私自身』が担当して、
 創り上げたものなのである。

 それが上の図なのである。

     

  ★   幾つものグループがあって、そこにはそれぞれ『リーダー』がいる。
 その人たちに『100%の権限』を与えていたと言えるし、
 『100%の権限を与え得るような人』を選ぶのは『私の仕事』なのである。
 そこから先は、『選ばれたリーダーたちの仕事』なのである。

 そして『権限とは、その人に与えられた誤りの量である』 
 と私は常に思っていて、
 仮に、少々違っていたと思っても、文句など言ったりはしなかったのである。
 心配などしなくても『任したら人は誰でもちゃんとやる』ものなのである。

 私自身が『上から指示』など貰わなくても、ちゃんとやれたように、
 誰でも『自由に任したら』それなりに『ちゃんとやってくれる』のである。 


    
     

★ 私自身、若い頃からお付き合いのあった人たち、
 部下でも、販売店でも、みんな信じてのお付き合いだったのである。
 
 そういう意味では、バカみたいな『性善説者』なのだが、
 『信じる者はもうかる』 などと言ったりしたのだが、
 『儲かる』 という字は 『信者』と書かれているのである。
 少なくとも、信じないよりは『信じる』ほうが上手くいくことは間違いない。


 そんなこと言って『騙されないか』と思われる方がおられると思うのだが、
 87年生きてきて、幸いなことに『騙された』ことは今のところなくて済んでいる。

 そんな発想と態度だから、定年後もネットの世界で沢山の方とお会いしたが、
 みんな『いい方』ばかりなのである。
 人間関係は『双方向』だから、まずこちらが相手を信じることが第1なのである。
 

 今シリーズは『私の生き方、考え方&意見』というカテゴリーで書いている。
 
 今回は、
 『私の生き方、考え方』のベースのようなところのお話しなのである。
 



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昭和20年(1945)8月、終戦当時の想い出 幾つか

2020-06-20 05:40:26 | 発想$感想

★ 朝鮮半島の北と南の対立が激しい。
 このままではどのような事態になるのか、心配である。

   


 
突如として、世の中の状況は変わったりするのを体験してきただけに、
今回の事態についても心配するのである。

1945年8月15日、所謂『終戦の日』には私は中学1年生で、京城(今のソウル』にいた。
終戦の勅諭を中学校の校庭で直立不動の姿勢で聞いたのだが、
よく聞こえなかったのだが『日本が戦争に負けた』ということだけは解ったのである。

当時の朝鮮は日本だったし、南北などには分かれていなかったのである。
内地(日本のことをそう呼んでいた)では空襲がひどく、
本籍の明石なども爆撃でやられていたのは知っていたが、
当時の朝鮮には空襲もなく、食料事情なども何の問題もなくて、
戦争の実感はあまり感じてはいなかったのである。

この年中学校に入学したのだが、
4月からは殆ど学校には行かずに『学徒動』に駆り出され、
近くの山で松根油をとるために松の根を掘っている日の方が多かったのである。

日本の本土が爆撃を受けるようになってからは、
この戦争に勝ち目はないなどとは思っていたが、
8月になって状況は激変したのである。

広島・長崎の原爆投下があって、
確か8月8日だと思ったが、ロシヤが満州で参戦したのである。

そして8月15日、突然の終戦となったのである。


このニュースは朝鮮の人はひょっとしたら知っていたのかも知れない。
私が『終戦の勅諭』を聞いたのは12時なのだが、
そのまま家に戻ろうとすると、
京城の市電は朝鮮人に占拠されて、所謂韓国の旗がいっぱいで、
日本人は市電に乗ることも出来ずに家まで歩いて帰ったのである。


いま南北が対立している『38度線』も8月15日に即座に引かれて、
朝鮮半島は南北に分かれ、
北はロシア、南はアメリカの統治となったのである。

私の京城の家の斜め前のおうちのご主人は、
8月15日の直前に北の方に出張されたのだが、
8月15日に南北に分断されてしまって、家に戻れなかったのだが、
どうなってしまったのだろうか?

幸い、南はアメリカの統治だったので、
特に大きな問題も起こらずに、平穏無事ではあったのだが、
日本への引き上げの際は、
ひとり当時の金で1000円だけを持ってその他は背中に担いだ荷物だけで、
家も家財道具もそのままに日本に戻ってきたのである。
 
あの当時の日本人の財産は一体どうなってしまったのかと思うのである。
 

当時、自転車が100円ほどだったから、
1000円はそれなりの価値があったのかも知れぬが、
日本に戻ったら『闇米』が一升100円もしたので、
殆ど生活の足しにはならなかった額なのである。
因みに朝鮮では米1斗が100円だったと覚えている。



★ 朝鮮の人たちにとってみれば、
この南北分割は世界の大国の意志でそうなっただけで、
朝鮮民族が望んだわけではないのだが、
まさに『不幸な出来事』であったことは確かなのである。

それから5年後、昭和25年(1950)6月25日に突然朝鮮戦争が勃発して、
これは今でも終わったわけではなくて『一時中断』の状況なのである。
 
この戦争は突然始まって、
北が圧倒的に攻めて、9月には殆ど南の釜山あたりまで攻め込んでいたのだが、
国連軍が仁川に上陸して、押し戻し、元の38度線に納まっているのである。


     


 
そんないろいろあった『朝鮮半島』なのだが、
なかなか無事に、民族統一で一国となるのはムツカシそうである。

長い歴史の中で、いろいろとあった朝鮮民族なのだが、政治体制が異なるし、
そのバックにいる中国・ソ連とアメリカという世界の大国の思惑の中で、
今後も大変だとは思うが、
今回の問題は、どんな決着になるのだろうか?


 


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午後からは本格的な雨になったが・・・

2020-06-19 06:45:09 | 発想$感想

★ 天気予報は雨だったが、
    朝のうちは殆ど降っていないような小降りの雨だった。
 どうしようかと思ったが、三木総合防災公園に走りに行った。

 午後からは本格的な雨になった。
    この辺りは高い山がないからなのだろう、
    播磨地域は雨が少ないので、
 平野に『溜池』がいっぱいあるし、水利事業も大掛かりになされている。

  これはその事業の一環で、有名な『御坂のサイフォン』だが、
  この管の中を水を通しているのだが上から下ではなくて、
  下から上に吸い上げている。

  その水は遠く北の方から引っ張ってきているのである 

  それがちょうど、三木総合防災公園の中を通っている。




 


  そして、この水が大きな溜池に蓄えられて、田植えの水に使われるのである。



★最近は天気図が時間ごとに出るようになっている。

 この地域で雨がひどい『黄色く表示』されることは滅多にないのだが、
 いま 15時30分だが、こんな状況である。

 三木は x印 のところだが、今は降ってはいるがそんなにひどくはない。

 
 雨が降ってるし、閑なので『天気図を追ってみる』ことにした。
 以下、時間ごとの『実況中継』である。


 



 
 これは40分後、『16時5分の予報』である。
 
 珍しくこの辺りも『ひどい降り』の予報になっているのだが、
 ホントにそうなるのだろうか?





 
 
 それなのに、16時になったら
 この程度に、雨雲は消えてしまった。
 これが16時現在の状況である。


 


 

16時5分』になったら、さらに薄くなってしまった。
やはり、ひどくは降らなかった。


 




★ ひょっとしたら『土砂降り』になるかと、思ったのだが
 そんなに大した雨にはならなかった。

    夜中から大雨になったようである。
 朝の天気予報で、雲の流れを見たが、この辺りを通っている。
 庭に置いていたバケツに6分ほど水が溜まっていた。


 私が住んでいる、この辺りはかっての山というか台地を開拓していて、
 かっての山があった当時に水が流れた通りに、水が流れるように、
 『土地を削っている』のである。

 ホントに緩やかな勾配なのだが、
 当然のことながらちょっとでも勾配があれば、
 水は貯まりようがなく、上から下に流れていくのである。
 
 それは農家の『水利権』の関係で、
 かっての山があった通りに水が流れるのだとか。

 ひょっとしたら、これも『雨の少ない』この地域の特色なのかも知れない。


 こんな呑気なことを言っているが、
 『水の危険』があるところにお住まいの方は、大変だと思う。
 平地で、水が溜まったら、どうしようもないのはよく解る。

 この土地を買ったのは、もう50年も前になるのだが、
 その時 『水のことなど』これっぽちも考えたりはしていないのだが、
 運が良かったと、考えるべきかも知れない。




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世の中のニュースいろいろ    雑感

2020-06-18 06:14:30 | 発想$感想

★北朝鮮が開城にあった『南北共同連絡事務所』を予告通り爆破した。

 今は南にいる脱北者が飛ばしたビラに対する反応だと言うが、
 本当のところはよく解らないし、
 これから南北関係がどのようになるのかも読みにくい。

 




 
 北朝鮮の金正恩、金与正が今後どのような動きに出るのか?
 評論家はいろいろ言ってるがよく解らない。


  


 
 6月25日も、もう近い。
 1950年6月25日朝鮮戦争は突如始まったのである。
 
 私は明石高校2年生、西宮球場で盈進高との練習試合をやってたら、
 『朝鮮半島で戦争が始まりました』と場内放送があってびっくりした。

 そんなことにならぬといいが、
 それにしても、北朝鮮は『どんなヨミ』でこんなことをしたのだろう?


 
★ これも 北朝鮮と関係があるのだが、

北朝鮮の核ミサイルを迎撃する目的で配備される弾道ミサイル防衛システムの
イージスアショア計画』 が突如停止されることになった。






 その理由が
 『ブースター落下問題』なのだが、
 これは『残骸の落下と核爆発の被害を同列に論じる違和感』とあるが
 本当にこれを理由に『計画全体の停止理由とする違和感』は感じる。
 
 推進剤を使い切って爆発もしないブースターの落下被害は、仮にどこに落ちたとしてもそんなに大したことではない。

北朝鮮の核ミサイルでも、広島の何倍もの強烈なものだから、それを封じようとしている計画が、残骸の落下と同列に論じられる違和感は、秋田や山口の方には申し訳ないが、不思議な決定だと思う。

残骸は基地内に落ちると言ってたのが、『そうならなかった』から計画中止になったのだろうか?

 大体最初から、『残骸の落下地点』などと言う本来のコンセプトとは全く関係ないことを論じたりするからおかしいのだと思う。
 こんなことを言ってたら、攻めてきた敵国の飛行機も日本の領土内では撃墜することも出来なくなる。

 この辺りは、日本も『平和ボケ』してきたような気がする。
 


★ これは戦争ではないが、『新型コロナ問題

 ちょっと東京での感染者が2日ばかり増えたので、いろいろと騒がしい。

 第2波感染が恐れられているが、
 既に全国で『今把握されているコロナ感染者は1000人』になった。
 殆どの県が『把握されている感染者=0人』なのである。

 日本は、そこまで抑え込んで来たので、仮に第2波が来たとしても、
 従来の経験値があるから、その対策は大丈夫だと思う。

 フランスの大統領など、胸を張って『コロナに勝った』と言ってるが、
 そういう意味では 『日本はどのように言うレベル』なのだろう。


★ どうもマスコミや、評論家の方たちが細部に拘って、『言い過ぎる』ように思う。
 世の中の政治家は、そんなことなど気にせずに、
 堂々と自らの信じる道を歩かれたらいいと思う。


 『北朝鮮の今後の動き』を政治家はどのように、思っておられるのだろうか?
 韓国の文大統領の発想はもう一つだと思うし、
 アメリカのトランプさんは、どう思っているのだろう。

 
 子どもの頃、育った朝鮮のことだから、私は結構気になるのである。
 当時は、勿論南北などには分かれていなかった。
 先の戦争で一番被害を受けたのは
 本当に突然、南北に分割されてしまった朝鮮の人たちだと
 私は気の毒に思っているのである。
 
 

 
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1日24時間  私の1日の生活

2020-06-17 06:13:12 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 誰にとっても『1日は等しく 24時間』 なのである。

 一体、その24時間をどのように過ごしているのか?
 こんなことを時間単位で、真剣に? 考えてみたのは初めてのことである。
 それだけ『ひまがある』ということだろうか?

 昨日は結構ちゃんと、こんなことを考えていたのである。

 まずは、間違いなく毎日『やる事』から順番に並べてみた。
 



1.睡眠   私の場合は最低『7時間』は寝ている。
  
 因みにこの3ヶ月の平均では『7時間32分』と記録されている。




 
 夜、『眠れない』というようなことは全くないが、
 最近は夜中に1,2回 トイレに行くようになっている。



2.日常生活  食事・入浴・洗顔・トイレなど
  最近は外食は殆どなくなって家で3食とることが殆どである。
  家の中のことはそれこそ文字通り『家内』がやってくれるので一切やらない。
  敢えて言えば、洗濯物を階段の下から2階へ運ぶだけと言っていい。

  睡眠と日常生活の二つで約10時間で、 残りは 『14時間』 である。
  
  ということは『自由に使える時間』は14時間だということである。


3. 毎日必ずやらねばならぬこと
  
  その1番は、もう67年続いている『日記』の記入だが、
  これはそんなに時間は掛からない。
  
  それと2006年以来だから、もう14年続いているこの『ブログ』である。
  ブログを書くのは前日、それをアップするのは翌朝である。

  文章を書くのは現役時代のレポートなどもよく書いたし、
  半ば趣味みたいなところもあって、結構時間をとっている。
  昔のことなど書くときは、調べたりする時間も結構掛かかるので、
  『3時間』としておこう。 実際にもっとかかっている日もある。

  
  日記は手書きだが、ブログはパソコンなので、
  必然的に毎日パソコンの前に座る時間が多くなる

  朝目を覚ますと真っ先にやることは『パソコンの電源』を入れることである。
  パソコンをやり出したのは定年後で、すべて『独学』だが、
  生活の中で『パソコン』の占める比率は高い。
  『ニュース』なども仕入れ先は新聞よりは『パソコンから』が殆どである。

  メールのチェック・ブログのアップとFacebook ,Twitter への投稿などは
  毎日朝飯前に済ませてしまう。
  そんな一連の『パソコン操作の定番』の時間が『2時間』は最低あるだろう。

  この二つで『5時間』だからこれで残り 9時間 
  こんな時間配分を改めてチェックしてみて、『有り余る時間』があると思ったが、
  ホントに 自由になる時間は 『9時間』 ほどなのである。

 

★ ここまでが1日の内で 『やることのMUST項目』 だとすれば
 ここから先は、自分が勝手に好きなようにやっているので、
 仮に『誰か誘われたり』、『ゴルフがあったり』したら
 それが優先されることになる。

 然し、最近は『新型コロナ問題』で、出来る限り独りで過ごしているので、
 残りが『自由な時間』なのだが、半ば日課のようになっている。


 まずは3月以来続いている 三木総合防災公園での運動である。
 朝7時半ごろに家を出て、『約2時間』 相当ハードに動いている。

 その内容はスロージョッギングと体幹運動&ストレッチ
 そして 仕上げに50メートルダッシュを休み休みだが10本

 
   

   
          その中で スロージョッギングとダッシュ の時間だけで、
   今週は70分近くになっている。
   これで歩数にすると約8000歩、7キロぐらいの距離になる。

  
  
趣味の時間  
 
 カッコよく言えば趣味の時間だが、毎日好きなように自由にやっているが
    
  ●  薔薇の手入れや植木の剪定、草抜きなどの庭仕事

  ●  メダカや金魚に餌をやり眺めている

  ●  パンダ碁 をパソコンで打つ

  ●  パソコンでの検索その他やりたいこと

  時間が決まっている訳ではないのだが、殆ど毎日の日課である。
  合わせて 5時間以上 は掛かるのだろう。

  そうすると 残り2時間となって、残り時間はあまりないのである。



★ テレビは本当に観なくなった。 お笑い番組など全く見ない。
  NHK のニュース関係や、自然や生き物のテレビなどを夜観ることにしている。
  
  昼間はパソコンをやりながら、報道番組などテレビを付けていることもあるが、
  確り、見ている訳ではない。


  今回初めてこんな1日の時間配分をチェックしてみたが、
  毎日時間を持て余すこともないのだが、それがよく解った。


  私の生活の中で結構多いネット関係は、すべて『パソコン』だと言っていい。
  
  『スマホ』も持ってはいるのだが、
  電話機能はあるのだが、年数回、こちらから息子などに掛ける時に使うだけで、
  日常は一切『電話を掛けたりはしない

  『写真を撮ること
  『Fitbitの記録
  『Instagram への投稿
  それと外出先で、『Facebookなどを見る
  などだけだから、ホントは電話機能などなくてもいい。
  
  以前は、孫の旧い下取りに出した電話機能のないスマホを使っていたのだが、
  壊れてしまったので、新しくしただけのことである。



★こんな『私の24時間』なのだが、
 こんな生活は、87歳の年寄りとしては、一般的には異常なのかも知れない。

 健康でなければ成り立たないし、
 70歳以降に、パソコンというか『ネットの世界』に出会わなかったら、
 こんな生活はなかったと思う。

 そういう意味では『運がよかった』のである。
 健康もだと思うし、ネットの世界に出会ったのもなのである。
 
 『努力もしている』が、 それは運の上に成り立っていると思っている。


  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

  

     
コメント (2)
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ジョークサロン 野本浩一 さん

2020-06-16 05:45:30 | 発想$感想

★ Facebook で私に繋がっている方は、
 野本浩一さんの 突然のこんな投稿をご覧になって、
 ちょっとビックリされたのかも知れない。

 『新井道夫・新井謙次さん』お二人だけから『いいね』を頂いているのである。



   





私自身も、ごく最近のことなのだが、ちゃんと覚えていなくて、

確か『野本浩一さん』から、突然Facebook の『トモダチ申請』が来たのだ思う。

トモダチ申請』が来ると、
私のどんな『トモダチ』と繋がっているのかを確かめて、        
沢山の『トモダチ』と繋がってたら、まずはOKするのだが、
野本浩一』さんはどなたとも繋がっていないのである。



どんな方なのかチェックしたら、こんな画面が現れて、
出身校 東京大学』 とあったので
東大出のトモダチ』もいいかと
承認させて頂いたのである。



 




そこから先が、どうなったのか?よく思い出さないのだが、
こんなメッセージが Facebook のコメントに寄せられているのである。

これはブログの中に書いた、ユーザークラブKAZEのことなのだと思うが、


 KAZE が 出していた レポートは KAZEの便り で皆さんの頼りになったのでしょうね。 いいですね。  
EVERYBODY というのがいいですね、という文章を読んでいて、 ドリス・デイも歌った EVERYBODY LOVES A LOVER という曲を思い出します。 良い気分になりますので、是非 聞いてみて下さい。 一番 人気があるのは 誰? ・・・と聞いてまして  「やっぱり、 私かも知れない」と続きます。 
古谷さん世代が かつて お聴きになったのではないでしょうか?  
今回、友達申請を快く承認頂きまして ありがとうございます。 
笑いは明日のエネルギー。 「笑いは和来」です。

 
この文章だけではお解り難いと思うが、
アメリカで流行った Good Times roll ! の歌に関して仰っていたのだが、
そのやりとりの部分がFacebook のメッセージであったのでは、と思うのだが、
それが見つからないのである。


Facebook のコメント欄には続いてこんなコメントも寄せられて、


古谷さんの書かれた雑感日記には、古谷さんが会った方たち、周りにいた方たちのことが溢れていますね。 その記述が事細かいので、それが他のブログと異なる特色のひとつのような気もします。  
そんな点も見習いながら、小生も取組んでみようかなと思っています。 goo blogの先輩としてご教示頂けることがありましたら、是非ご教示をお願い致します。  
本当に 昨日 メッセージを送り、フェイスブックで友達申請も承認して頂き、充実のブログを拝読しまして・・・何よりの道標を頂いたように思います。  
これからもどうぞよろしくお願いします。


こんなことが続いた後、冒頭の『この投稿』が送られてきたのである。

 




★『解らない』とすぐ調べ出すのが私の性格で、
 Google で『野本浩一』と検索すると、
 
 『ジョークサロン 野本浩一』 と現れて、
 
 そのジョークサロンとは、創立30周年を迎えるグループで、
 マスコミにもこのように大きく取り上げられている格式高いサロンのようで、



 

 
 

  さらに『ジョークサロン』 を検索すると、そのホームページも現れて、
  


   

  
 
 野本浩一さんは、その変集長(叉の名は編集長)となっていて、
 ちょっと、ビックリなのである。

 


 

冒頭にご紹介した投稿には

全くの部外者の小生が書くのはおこがましいのですが、古谷さんの筆力に脱帽しています。 エネルギーが溢れているのを感じます。』
 

と書かれていて、これは間違いなく褒めて頂いているのである。

それも由緒のありそうな『ジョークサロン』の
東大出の 『野本浩一変集長』に褒めて頂いているので、
私も、単純に喜んだらいいのだと思っている。

Kawasaki . Let the Good Times roll !
のアメリカでの歌の話が結んでくれた『ご縁』なので大事にしたいと思っている。

それにしてもGoogle 検索はいろいろと解るものである。




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