雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

野球が始まった

2019-03-31 05:56:33 | スポーツ

★学生時代を含めて若い頃は10年以上野球漬けの生活をしていたのだが、どうも野球は観るよりも『自分がするスポーツ』のような気がして、『観るなら』息子や孫たちのやってるサッカーのほうが動きがあってオモシロいと思うようになった。

 そんなこともあって、野球観戦からはちょっとご無沙汰だったのだが、昨秋『大谷の大リーグ登場』があってその大谷をエンゼルス球場で生で観たりしたものだから、また何となく『野球もいいな』と思ったりしているのである。

 

    

 

   

 

 

今年は春からイチローの引退などの野球の話題もいっぱいで、昨日は開幕したプロ野球も阪神が2連勝したり、マリナースは日本の第2戦に続いて、アメリカでも菊地雄星がレッドソックス戦に登板して、勝利投手間違いないと思ったのに、まさかの9回スリーラン逆転ホームランで、初勝利が消えてしまったのである。

 

 

   

 

  菊地は強豪レッドソックスを相手に好投していただけに惜しまれる。

 

 

     

 

 巨人ー広島戦では、このオフの話題の移籍であった丸が5連続三振を喫するなどなかなか話題豊富なプロ野球の幕開けである。

 

      

 

★甲子園では春の選抜真っ盛りである。

 明石商業が8強に残った。

 私は明石高校の野球部OBなのだが、私たちの時代は明石高校の中に商業科があったのだが、それが後、分かれて独立したのが明石商業なのである。

 そういう意味では、今では明石には幾つも高校はあるのだが、明石商業には何となく愛着もあるのである。

 

  

 

 我々の時代の明石高校は『名門明石』と言われていて、公立校ながら春夏の甲子園にも出場していたのだが、特に私の学年の年次には溝畑・藤原というチームの主軸が商業科だったのである。二人とも卒業後は兵庫県の実業団の名門神戸製鋼で活躍するのだが、特に溝畑圭一郎はそんなに大きくはなかったが、名投手で鳴らしていて、高校時代には完全試合もやったし、都市対抗戦には神戸製鋼が出る場合は勿論だが、兵庫県のどのチームが出ても『補強選手』として出場しているのである。

 そんなこともあって、明石商業もさらに頑張って欲しいなと思っている。

 そんな同期の旧友たちもみんな逝ってしまって、いま残っているのは溝畑と私だけになってしまった。

 

 昨日は1日、テレビで野球を観て過ごしていた。

 

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京都大学が東大を抜いた

2019-03-30 06:08:37 | 発想$感想

★世界の大学のランキングがあったりする。

 どのようにして点をつけるのかよく解らないが、世界の大学のランキングが毎年発表されるようである。

 そんななかで、日本の東大も京大も世界ではトップクラスには来ないのだが、『京大が東大を抜いた』というのは日本人にとってはオモシロいニュースではある。

 

     

 

   3位は阪大かと思ったら東北大だそうである。

 

   この頃は検索すると何でも出てくるので、検索してみたら、こんな順番なのである。

 

    

 

 大学の順番など、別にそんなに関心はないが、東北や九州が上に来るとは思わなかったし、国際教養大学とか国際基督教大学が早稲田や慶応、一橋大学より上位に来るとは、私としては『想定外』の出来事なのである。

 

 国際教養大学などその名前も聞いたことはなかったのだが

国際教養大学Akita International University)は、秋田県秋田市雄和椿川字奥椿岱193-2に本部を置く日本の公立大学である。2004年に設置された。大学の略称はAIU、教養大、国教大。 とある。

 秋田にあるなどは全く知らなかったし、2004年の設置とあるから新しい大学なのである。そんな新しい大学が早稲田や慶応の上を行くとはビックリだが、どんな採点内容なのかは解らぬが、『京大が東大を抜いた』というのは、これはニュースである。

 

 

  世界大学ランキングは以下の様になっていて、スイスが1校だけ入っているが、あとは英国とアメリカで上位を占めている。

 

   

 

聞いたことのある大学もあるが、知らない大学もある。

アメリカが圧倒的に多いが、アメリカには2000近い大学があるそうである。

 スタンフォード大学が3位で、孫がいたカリフォルニア大学のバークレーが15位でその2校はごく最近何回か現地に行っているのだが、それはサッカーの試合を観に行ったのである。

 2校ともサンフランシスコのすぐ近くで、シリコンバレーに近いのだが、両校とも大学のキャンパスは公園の様に綺麗である。

 スタンフォード大学はサッカーも強くて、3年連続アメリカチャンピオンだが、昨秋は孫がキャプテンをしていたバークレーが1-0でこの数年で初めて勝利したのである。

 世界ランキングもいいが、サッカーの順位争いのほうに興味関心があったのである。

 

 そんな、東大よりもずっと格上のスタンフォードやバークレーだが、サッカーの推薦選手としては、入学は可能なのだが、日本の大学と違って卒業するのは、ちゃんと勉強しないと大変なようである。

 それでも、何とかちゃんと卒業出来たので、東大よりも格上の大学を卒業したと言えるのがいい。

 それにしても、なぜ東京大学のレベルがそんなに低いのだろうか?

 

  こんな大学の世界ランキングなど、もう一つよく解らないのである。

 

 

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金井紫朗さんと 『浅間GOOD RIDES CLUB』

2019-03-29 06:14:40 | NPO The Good Times

★ 群馬県の安中市で来る5月18・19日も両日こんなバイクのイベントが行われる。

 このイベントを主宰されてるのが『金井紫朗』さんである。  https://www.facebook.com/shiro.kanai

 予定参加団体の中に、カワサキZ1ファンクラブもあるし、日本二輪車文化協会レデイースクラブなども入っている。

 

   

 

 これはバイクの業界誌『ベタータイムス』の中に掲載された広告なのである。

 この業界誌、吉田純一さんを支えている森田伊活さんがやっておられて、今でも我が家に送られてくるので解ったのである。

 

 このお話は2月に金井紫朗さんが三木まで来られて、こんなメンバーで検討し、NPO The Good Times日本二輪車文化協会も後援する形で進めようかということにはなっていたのである。

 

      

  

  

 それが突然、ベタータイムスの広告欄に載ったので、日本二輪車文化協会さんとはより具体的に話が進んだのかなと思っていたのだが、昨日ご本人に聞くと、いつの間にか広告の形で載っていたようで、これはベタータイムすの森田伊活さんのご好意かなと思っているのである。

 3月7日に開催された吉田純一さんの『旭日小綬章記念祝賀会』に出席した時に村島政彦さんや森田伊活さんも来られていて、この話をしたのは確かなのだが、それ以降こんな形で取り上げて頂いているのである。

 

★金井紫朗さんからは、NPO The Good Times の団体会員としての正式申し込みもあり、団体名も『浅間GOOD RIDERS CLUB』と決まったので、昨日いろんな具体的な打ち合わせをした中で解ったのである。

 金井さんは、この5月18、19日のイベントだけでなく、将来も定期的に二輪のレース発祥の聖地とも言える『浅間』を舞台に定期的にイベントを開催される予定で、その仕組みの一環としてNPO The Good Times の会員カードシステムを利用されようとしているのである。

 

        

 

 そんなこともあって、5月の当日にはNPO The Good Times 理事長の山本隆さん以下数名での参加も予定していて、ひょっとしたら田崎雅元さん(元川重社長)もご一緒することになるかも解らないのである。

 要は末端における日本の二輪文化の育成を、日本二輪車文化協会と共に支えていこうという取り組みなのである。

 

 これは先週あった本瀧寺でのバイク寺での祈祷の催しだが、ここにも日本二輪車文化協会会長の吉田純一さんは顔を見せてるし、

 

          

    

 遠く豊岡からも青木隆さんも参加されて、吉田純一さんとの2ショットをわざわざ私まで送って下さっているのである。

 

     

 

  そんなバイクの末端での活動はなかなか盛んで、こんな動きをさらに盛り上げられたらいいなと思っているのである。

 

★ 群馬の金井紫朗さん、5月のイベントは未だ終わってもいないのに、秋には次のこんなイベントを企画されていて、これはバイクだけではなくてカワサキに大いに関係のある鉄道車両も絡んだイベントになりそうなのである。

 こんな風にその抱負を語られているのである。

 
すでに秋の交通安全啓発活動でのイベントに備えて、安中市の観光機構でのカード販売も視野に入れて話をしています。
おぎのやの前にある鉄道文化村にはカワサキ車両が結構あります。 勿論現役で鉄道文化村から峠の湯まで走っている車両もあります。鉄道文化村内にバイクを入れてミーティング&車両と自車の撮影を可能とした カワサキミーティングもNPOカードをメインに仕掛けようと思います。・・・・食品衛生協会の活動としても市内の飲食のサービスを浅間GOOD RIDERS CLUB カードで活用致します。

 

     

 

   こんな列車の中の食堂もあるようだし、

 

             

 

  こんな施設もあるようで、バイクファンだけでなく『鉄道ファン』にも楽しみなイベントになりそうなのである。

 

 

     

 

★こんな金井紫朗さんなのだが、何年か前からお付き合いが始まって、NPO The Good Times のカードシステムの利用も3年も前から言っておられたのだが、ようやくここに具体的に実現することになったのである。

 金井さん、バイクは勿論だが、ジェットスキーにもお乗りになるのである。

 地元では結構お顔が広いようだし、ごく最近、群馬県知事に出られるとか言う山本一太さんとのツーショットの写真を私に送ってこられたのである。

 

     

 

 というのも、私が現役最後の頃、山本一太さんのお父さんの山本富雄さんと関係があって群馬県の霧積高原に二輪のサーキットを造ろうとした時期があったのだが、その当時山本一太さんとも一度だけだがお会いしたことがあるのをご存じなのである。

 ひょっとしたら、山本一太さんにも30年ぶりにお会いできるかも知れぬし、ホントにひょっとしたら霧積湖でのジェットスキーイベントも実現するかも知れないのである。

実は昨日は、三木のNPO The Good Times の事務局で、本瀧寺のご住職ともお会いできたし、一度一緒に大阪の『船場(モータース)』に行きましょうということにもなっているのである。

 もう現役を離れて、30年も経とうとしているのだが、まだまだ『ご縁が続く』のが二輪の世界の良さかも知れないのである。

 

 ★5月はどんなことになるのだろう?

 そして、秋にはまたどんなことが待っているのだろう?

 この歳になっても、期待のできる物事が待ってくれてるというのはなかなかイイものなのである。

 

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選挙と市会議員さんと私

2019-03-28 07:18:51 | 発想$感想
★4月に入ると選挙が始まる。
 
 この15年ぐらいは、欠かさず選挙に行っている。
 
それ以前、現役の頃は忙しいこともあったが、それ以上に選挙に関心がなくて殆ど投票に行ったことはなかったのだが、その後、明石から仙台そして高槻と10年以上転々と異動があって、仙台でも高槻でも地元とは馴染みがないものだから、誰に投票していいか解らなかったのが、棄権をしていた理由かも知れない。
 
 その後、三木に移ってもう40年以上になるのだが、最初の頃は異国のような感じで『三木は眠るために戻ってくる町』そのものだったから、投票にも行かなかったし、市長さんの名前すら解らなかった、そんな状況だったのである。
 
 何となく市政や選挙などに関心を持ちだしたのは、三木市長に薮本さんがなられてからで、ひょんなことで三木市とも繋がったし、遠く佐賀県の樋渡啓祐市長とも繋がったりして、選挙の投票に行きだしたのもそれ以降のことなのである。
 
 
 なぜそんなことになったのか? そのきっかけを作ってくれたのは、同じ町内の市会議員の方からの声掛けがあったからで、選挙にも行くようになったし、パソコンを使うようになったりして、ネットで情報発信することを覚えて、選挙どころか『私の生活』自体が変わってしまったのである。
 
 ブログを始めてその後ツイッター・Facebookと拡がって、いろんな人と繋がったし、三木市役所の方から『NPO法人の講習会』にも誘われて、自分自身が NPO The Good Times というNPO法人を立ち上げることになったりして、それ以降はそれこそ日本全国、大げさに言うと世界と繋がって『今がある』のである。
 
 ホントに、人間の運命など、ひょんなことでひょんなことになるもので、あの時近所の市会議員の方が私に声を掛けて下さらなければ、今の生活があったかどうかも解らないのである。
 
 
 
★そんなことで、市会議員選挙も近いので、『三木市の選挙』と写真検索したら、こんな写真が現われて、我ながらビックリしているのである。
これは、もう10年以上前の私が三木の選挙に関心を持ちだしたころの選挙候補者で、このメンバーを見るとそれが10年も前のことだと解るのである。
 
当時は前述の近所のお一人を除いては、この方たちを全く知らなかったのだが、この看板の下の欄の一番左は米田和彦さんだが、確か彼はこの1回しか立候補していないし、28歳の若さでその時当選したのである。若かったし小野高校のサッカー部出身ということで、その当時私は関心をもって観ていたので覚えているのである。
 
そんなご縁で、米田さんとは今でもサッカーで繋がっているし、現在はこのうちの10人の方とは結構親しくして頂いて、殆どがNPO The Good Times の会員さんだし、副理事長も理事もおられるのである。
 
  
   
 
 

 ★なぜ突然選挙や、市会議員のことなど書きだしたのかというと、昨日ジムに行く道の四つ角に『一人の方』が立って通る車に手を振り続けているのである。 

未だ選挙は始まっていないので、タスキも掛けていないし、名前の連呼なども勿論ないのだが、ただ黙って手を振り続けているのである。『議員さんになるのも大変だな』と思ったし、この方も存じ上げてる方なので、『こんな努力をされてる方には1票を』と思ったりもするのだが、そういう訳にもいかないのである。

今では、ホントに親しくさせて頂いている方が何人もおられて、今回の選挙にも皆さん立候補されるのだが、私の持っている投票権は『たったの1票』だからホントに困ってしまうのである。

 ずっと昔、明石の市会議員選挙にはいろんな方から『いろんな人』を頼まれて、誰に投票すべきか困っていたのだが、いまは三木で『同じような状況』に追い込まれているのである。

 そんなムツカシイ市会議員選挙が4月には始まるのである。棄権はせずに必ず投票はするのだが、どなたに1票を投じるのか?

 これがなかなかムツカシイのである。

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春が来る

2019-03-27 05:28:23 | 発想$感想

★春は待ち遠しいものである。

 桜が咲いたら『春が来た』という感じになる。

 福寿草が咲いたら『もう春も近いな』と思う。

 『もう春はすぐそこ』と私が毎年感じる花が『こぶし』である。

 この辺りでは、間違いなく桜よりはちょっと前に咲く。

 

 千昌夫の北国の春の『白樺 青空 南風 こぶし咲くあの丘北国の・・』のこぶしと同じなのかなと思うが、

 この辺りでも、こぶしで春の訪れを感じている。

 

      

 

 

      

 

  家のすぐ近くの、毎朝ジムに行く道筋にある『こぶしの花』やっとこんな感じになった。

 

     こぶしによく似た花を咲かすが、こちらはこぶしではなくて『もくれん』 今は未だ蕾である。

          

               

 

   妹に貰ってきたちょっと変わった『あじさい』は今こんな感じ、

 

      

 

   福寿草の中に芽を動かし始めたのは『牡丹』である。

 

 

      

 

   3月25日、もう『春が来る』と言える季節になった。

 

  この辺りは、桜の開花は、多分来週になるのだろう。

 

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白鵬全勝優勝・貴景勝大関に

2019-03-26 06:06:49 | 発想$感想

★大相撲春場所が終わって、夕方の時間が手持ち無沙汰である。

 現役の頃は観ることができなかった大相撲だが、見始めるとなかなかオモシロい。

 この春場所は、特に上位陣も頑張ったし、最後まで優勝の行方も解らなくて緊張して見れた最終日だった。

 

 

    

 

 この相撲、白鵬は強くて全勝優勝を飾ったのだが、鶴竜も流石横綱の意地を見せた好一番だった。

 

 

   

 

 貴景勝の大関を掛けた一番だったが、大関カド番の栃の心に勝って、めでたく大関昇進を確実にしたのだが、この一番で栃の心は関脇に降格である。

 勝負の世界だとは言え厳しいものである。

 5月場所には是非10勝して大関に返り咲いて欲しいものである。

 

 貴景勝は体重は170キロと相当だが、背は175cmしかない小柄で、歴代大関の中でも一番小さいとか。

 それも群を抜いて小柄なのである。

 今の押し相撲を貫いて、是非 横綱を狙って欲しいものである。

 

     

 

  

  今場所の三賞受賞者、並んでみるとホントに小さい。

 逸の城 が大きすぎるのか?

 それにしても今場所の 逸の城は 人が変わったような頑張りだった。

   私が 逸の城 に抱いていたイメージは『大きいが弱い』だったのだが、今場所はホントに様変わりした 逸の城を観ることが出来た。

 5月場所が待ち遠しい。

 

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人間の記憶力???

2019-03-25 05:12:23 | 発想$感想

★昨日、日記を書きだした昭和28年の11月のことを書いたのだが、日記を書きだしたきっかけなどはちゃんと覚えていたのである。 

 そういう意味では人の記憶力もある程度確かなのかなと思っていたのだが、昭和29年(1954)の日記帳を1年間ざっと目を通してみたのだが、『記憶に全く覚えがない』こともいっぱいだったり、大学の3回生時代がどうだったのか? 

今まで自分で思っていたことと全く違っているので、『人間の記憶力???』など全くアテにならないなと思ってしまったのである。

 昭和28年の11月に医者に『肺浸潤』と診断されて、家で休養などしていたのだが『野球は止めずにそのまま続けていた』と思っていたのだが、流石に『春のリーグ戦』には出場せずに休養しているのである。

 それに、『学校では殆ど授業など出席してなかった』と思っていたのに、この年の前半は結構教室にも出ているのである。

 これなどは私にとって『全くの再発見』で、日記を若し読み返さなかったら、『野球は続けていたし、教室にも全く出なかった』ことになっているのだと思う。人間の『思い込み』が事実を曲げてしまうのである。

 人間の記憶などそれくらい、頼りないものだということを実感したのである。

 

★ 日記を読み返してみて、『肺浸潤』と診断されて医者に療養を言われてから半年は、結構ちゃんと養生しているのである。この間煙草も止めているし、医者にも通っている。

 肝心の野球部の春のリーグ戦は前年度までの最上級生が卒業してしまって、4回生は1人だけで我々の年次の3回生以下で対応しているのだが、春のリーグ戦は何とか最下位を免れたようなことで最悪の状況だったのである。そんなことすら覚えていなかったのだが、秋のリーグに備えて8月から野球を復帰しているのである。

 春の成績が悪くて、マネージャーにも復帰を頼まれたし、4回生の竹下さんからも、キャプテンは私に譲るからなどと言われて、秋のリーグからは3回生ながらキャプテンとなり、練習も試合の監督もやったりすることになっているのである。今まではそれが春のシーズンからだとばかり思いこんでいたのである。

 そんな責任を負わされたので、それ以降はそれこそ大学の授業など放たらかしで『野球一筋』だったし、部の練習も従来とは『様変わりした』徹底したものに変わっていったのである。

 

★日記帳に貼ってあった9月の新聞記事を見ても、春に最下位を争っていたのに、この記事にはこのように書かれている。

大工大から1勝を奪ってから一躍クローズアップされた。田中投手の安定と遊撃古谷のカムバックで内野陣がまとまり打力も一試合ごとに急カーブで上昇し、チャンスに強い5番大村が長打を放ち自軍を盛り上げている。このコンデイションを如何に持続していくかが今後に残された上位進出のカギであろう。』と書かれている。

こんな新聞記事があったことすら全く覚えていないのである。

   

 

 この近畿6大学のリーグ戦は、この時期は未だ甲子園球場で開催されていたのである。 今の人たちには考えらえないかも知れないが、兵庫県の夏の予選も、甲子園と西宮球場で行われていたのである。

 さらに甲子園球場と言えば、その当時新春の正月に開催されていた兵庫県の高校のOB戦も、甲子園球場で行われていて、明石高校は常に優勝候補の筆頭だったし何度も優勝しているのである。

 この年の12月末の記事には『優勝候補の第1』に明石高校が挙げられていて、これはホントに強かったのである。

 中京ー明石の25回戦の遊撃手だった峰本さんが監督のこのチームは、その当時の実業団野球の全国大会に出ても、多分優勝候補に挙げられるようなそんな豪華な陣容だったのである。

   

  

 

ピッチャーには慶応当時朝日スポーツ賞を取り鐘化のエースだった山本治さん、私と同期で神戸製鋼のエースで毎年都市対抗の全国大会に出場していた溝畑圭一郎、川重でもピッチャーをした1年下の大塚健哉、野手では日生でも、当時の全日本でも4番を打ち、後、阪神に入った大津淳さん、当時は関学で後、日生の4番を打った国賀さんなどメンバーの殆どが、高校時代明石で甲子園の春夏を経験したメンバーが揃っていて、一応は私もその中に入れて貰っていたのである。

そんなこともあって、私が『一番多く野球のプレーをした球場は甲子園球場』という考えられないような野球人生だったのである。

何故か、この高校野球のOB戦だけはよく覚えているし、当時内外ゴムでも中京―明石の時の二塁手嘉藤さんが監督の準硬式のチームがあってそこにも明石のOBたちが集まってチームを造っていたのだが、兵庫県で優勝などしていたことなどはシッカリと覚えているのである。

 

★ この年の前半は『肺浸潤』の治療に医者にも通っていたからだとは思うが、9月のレントゲンでも回復という診断になっており、12月も『結果良し』の評価なのだが、これも全く記憶にないのである。 私の『肺浸潤』はその後『肺結核』になり、そのうち『空洞』が出来てしまったことは間違いないのだが、この年の年末には、一応『回復』していることになるのである。

 この翌年、最上級生の4回生の時は間違いなく『野球漬け』の1年だったし、5回生の時には1年卒業を伸ばして『監督に専念』するほど、野球に熱心だったので、この時代のことで学生時代全体を錯覚してしまっていたのである。

 人間の記憶とは『印象が強い』ものは覚えているのだが、日常のことは全く正確には覚えていないものなんだということが、日記を読み返してよく解ったのである。

 そんなこともあって『人間の記憶力???』という題にしているのだが、日記を読み返してみるのもなかなかイイので、若い頃の日記をもう一度読み返してみたいと思っている。

 

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私の日記から  雑感-1

2019-03-24 06:26:18 | 自分史

★日記を書きだしてから、もう66年にもなろうとしている。 よく続いたものである。

なぜ、突然日記を書きだしたのかは、何回かはこのブログの中でも述べているのだが、最初にどんなことを書いたのか、ふと思って最初の『大学ノート』を引っ張りだしてきた。

 スタートしたのは、昭和28年(1953)11月8日、大学2回生の時に、突然書き出しているのである。

 

    

 

 『思い立ったらすぐやる』というのが私の性格で、この時もふと日記を書き出したし、今回もこのブログにすぐにアップしているのである。

 そのノートの第1ページ目に、こんな書き出しの感想というか想いを綴っている。

 昭和28年11月9日の朝 とある。

    

 

 何を書いているのか、ここに書き写してみたい。

 『平安の昔より十六夜・かげろう・紫式部日記と上の部類では文学として1000年の年代を経て現在に残っている。そのようなものにしようとは毛頭考えないのであるが、ただ単なる青春の想い出として、後のちには自分の脳裏から消え失せてしまうであろう些細な日々出来事をまた考え、大げさに言えば思想というものをつたない筆ではあるが記していこうと思うのである。

 日記というものを書こうと思い立ったのはこれが初めてである。そしてその生まれて初めての日記の書き出しが肺浸潤とかなんとかという病気の日々であることは、思っても不幸なことである。

 日記とは読んで字のごとく日々の記である。このようなものは少なくとも後に自分の考えなり行動なりを残そうとする意思表示であると考えなければならないだろう。体の健康な時には日記なんて見向きもしなかった代物である。10日間ほど寝ただけで日記を書こうという気持ちになるというのはどういう意味を持つのだろうか?人生50年というその短いとされている期間をさらに短縮されるかも知れないという人の弱い気持ちから出てくるのであろうか?いや一日の手持ち無沙汰からかも知れない。

 まあとにもかくにも、悪いことではなさそうである。世に名の聞こえた人々も多く記していることではあるし、いつまで続くかが問題である。これから先一生続いたら大したものである。2,3日で止まってしまっても叉それもよいであろう。身分相応にあきしょうの自分に最適な大学ノートによってその一頁を始めることにする。

 いつまでも続くことを祈るや切である。』

 

 と書いている。

 確かにこのちょっと前に肺浸潤と医者に宣告され、当時は未だ『結核』が大きな病気であった時代だから、自分の人生も長くないかも知れないと思ったのは事実だろう。

 でも、なぜ具体的に『日記』という行動に走ったのか?

 そのことについて、上記の1日前の日記にはこのように書いているのである。

 

   

 

 『昭和28年も早いもので今日は霜月8日、この1年もこの月と師走を残すのみである。今日の新聞で蒋介石主席が30年間日記をつけているとかの記事を読んだので自分も真似事ながら日々のよしなしごとを記してみようかという気になったのである。

 先月の28日、胸が悪いと医者に宣告されてからはや10日間の養生生活が続ている。家で寝ているだけのことではあるが、その間にはスケートなんかも行っている。いやはや大した病人ではある。大体、生まれてこの方医者の手を借りることなしにこの年まで育ってきただけに自分の健康に自信を持ちすぎたのが悪かったのである。好きな野球でこうなったのではどこに文句を持って行き処もない、まあ運命とあきらめるほかはあるまい。

 だが病人とはかくもつらいものであろうか?毎日寝て暮らすというのは傍目ではうらやましい限りの様に思うだろうが、並大抵ことではない。運動は勿論、酒、煙草、映画の類が一切禁止されている身であればこの苦痛限りない悲嘆尽きない果てしないのである。

 折しも今日は日曜、堀尾さんにマイシンの注射がてらヤンチの家に寄ってみた。フリコにも逢った。彼の就職のこと気にはなるがどうしようにもない。本当にかわいそうだとは思うのだが。ヤンチと藁を売りに行き帰りに関宅に寄る。彼は昨日の運動会で1万メートルに優勝したとのこと、万年筆を貰って得意満面の面持ちだった。ワラ代百六拾円也、二人でお好みを食って全部パー。

 昼からは例によって例のごとく家で寝んね、幾ら考えても悲しい身の上ではある。そのうえ全セーNYGの野球試合も停電でオジャン、気はむしゃくしゃするし熱は7度に上がる。全く泣き面に蜂である。10時からのS盤アワーも聞かずに寝てしまった』

 

★こんな1日目の日記である。

 ヤンチや、フリコや関とは、明石高校時代の野球仲間なのである。

 大学2回生、夏の合宿で風邪をひいて熱があったのだが、そのまま練習して体調を崩したまま、秋のリーグ戦に入った。最後の方には試合に出ているだけで『しんどくて』リーグ戦が終わってから、生まれて初めて自分から医者を訪ねたら「肺浸潤」の宣告を受けて、大ショックだった頃なのである。

 医者に脅かされて、この時期は大人しく寝ているのだが、それは1ヶ月も続かずに、『何とかなるだろう』と普通の生活に戻り、野球部生活にも復帰しているのである。4回生の頃には肺浸潤が肺結核になり、胸に空洞ができてしまって、肺結核も最悪の状況になったのだが、それでも野球は止めずに、5回生では野球の監督などもやっているのである。

 担当のお医者さんは元軍医で粗っぽい方だったので、会社の身体検査は『息を止めて』という所を静かに吸ったりしたら「全体がぼける」から『多分大丈夫だろう』と仰るのである。その通りにしたら川崎航空機の身体検査も通って入社できたのである。

 どう考えても『いい加減な性格』だとは思うが元々体は強かったし、何よりも『運がよかった』のだろう。

 会社でも野球をやってたら、今度は診療所のお医者さんに見つかって、療養所に放り込まれてしまったのだが、1年で空洞も消えて出所しその時スタートした二輪事業営業の担当となるのである。

 

 日記を始めたきっかけは、間違いなく『蒋介石主席』である。『30年日記を書いているのエライ』と新聞にあったので、日記を書くぐらいなら『自分にもできるだろう』とスタートしたのだが、その頃、ひょっとしたら『自分の人生も短いな』と思ったのも事実なのである。

 1ヶ月ぐらいは多分大人しくしていたのだと思う。『肺結核』という病気が特に自覚症状もあまりない病気だから、その後の野球も続けられたのだと思う。86歳まで生きて日記も『蒋介石の2倍』になったから、大いに満足なのである。

 考えてみたら、『自分のやりたいように生きた』人生だったが、その背後にあったのは、間違いなく『運の良さ』なのである。多分、今からの人生も好運が続くと信じている。手相の運命線は真っすぐに濃く中指に向かって伸びているのである。

 ネアカに、いい加減に生きれた人生に乾杯である。

 そのきっかけを創ってくれた『蒋介石』にも『朝日新聞』にも感謝なのである。

 

 

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淡河疎水と三木総合防災公園

2019-03-23 06:32:51 | 発想$感想

★昨日はジムが休みだったので、三木総合防災公園を1時間ちょっと2キロほど走って3キロほど歩いてきた。

スマホの記録は『歩いた距離5キロ、歩数7000歩、上った階段9階』と出た。2キロほど走った後は野球場の周りなど歩き回ったので、階段を9階も上ったような記録になっているのである。

 写真をいっぱい撮ってきたのでお見せしましょう。

   これが野球場、向うに見えるのは神戸の山、丹生山である。

   

 

  野球場の手前の山から逆を観た方向、この下の周回路をいつも走っているのである。

   

 

  向うに見える建物が、広域防災センター(右)、テレビによく出る『E-ディフェンス』(左)手前は陸上競技場である。

 

   

 

   こんな近代的な施設がいっぱいだが、山の上はこんなに自然いっぱいなのである。

 

   

 

★ところで、この三木や播磨地域に水を引っ張る『淡河疎水』という施設があるのをご存知だろうか?

 『淡河疎水』の説明の中のほんの一部の抜粋だがこのように書かれていて、その一部はこの『三木総合防災公園』の中を通っているのである。

淡河疎水は、兵庫県神戸市北区から加古郡稲美町を通る疏水である。山田川疎水と合わせて淡山疏水とも呼ばれ疏水百選に選ばれている。印南野台地への農業用水確保の目的で築造された。

  • 1888年 - 着工。
  • 1891年 - 完成。
  • 1892年 - 疏水・隧道工事終了。
  • 長さ:約26.3km
  • 始点:兵庫県神戸市北区木津川
  • 終点:兵庫県加古郡稲美町

米作への転換の目的で新たな農業用水が必要となり、明治21年に淡河村木津から淡河川疏水工事に着手、3年4ヶ月を費やして明治24年4月に完成する。建設者であるイギリス人ヘンリー・S・パーマーが担当した。神戸市北区の木津川から、稲美町の印南野台地まで通す疏水で、隧道は28か所あり、総延長は約5200mにもおよぶ。

流路はから取水され御坂サイフォン橋を経て兵庫県立三木総合防災公園内を抜け、分岐した支流の一部は三木市緑が丘町と志染町自由が丘で地表に現れとして住宅街の生活環境や緑化景観を形成し、細目川として志染川に還流する。

 と書かれている。

その三木総合防災公園内の写真を撮ってきた。

 こんな説明板が立てられていて

   

 詳しく説明がされているのである。

 

   

 

 そのすぐ横から撮ってきた写真で、これが向うの山からこちらまで水を引っ張ってくる菅である。

 

     

 そしてこんな隧道を通り、さらに我が町『緑が丘』にも繋がっているのである。

 

     

 明治時代だというが、大きな工事をしたものである。

 

  これは、防災公園内ではないが、すぐ近くの志染川に掛かる『御坂サイフォン橋』で、こちらの方が有名である。

 

    

 

この淡河疎水・御坂サイフォン・防災公園・緑が丘などの位置関係はこんな感じで、この『御坂サイフォン橋』を通って防災公園まで登ってくるのである。

     

     

 防災公園によく来られる方でも、この場所をご存知の方は、少ないかも知れない。公園のホントに東の端あたりなのである。

 この東の方の周回路を私はいつも走っているのである。

 それにしても広大な公園なのである。

 

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春分の日 お彼岸

2019-03-22 06:21:12 | 発想$感想

★昨日は『春分の日、お彼岸』だった

 曇り空ではあったが、雨は降らなかった。 

 庭の馬酔木(あせび)の花が一斉に開いた。 もう春である。

 

    

 

 そんなお彼岸の1日、明石と社まで一回りした墓参り。

  10時半に家を出て175号線を明石まで下り、墓参りをしてから今度は175号線を一路北上して加東市まで。

  遠いようだが、途中昼食にちょっと贅沢な回転すしを食って、13時半には家に戻ったから、ちょうど3時間

  帰りは社から殆ど信号のない田舎道を、ほぼ1直線に家に戻ったので、快適なドライブだった。

  因みに我が家は神戸電鉄粟生線と書いてある『』の字あたりなのである。

  

    

 

 いつものことだが、昼は明石のちょっとだけ高級な回転すしやで寿しを食ってきた。

 

    

 

    

 

  寿しを食うのが楽しみの『墓参り』なのである。

 彼岸が過ぎれば、直ぐに桜の季節、4月ももうすぐそこまで来ている。

 

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錦江ホテル  雑感

2019-03-21 06:18:07 | 発想$感想

★ ネットの世界は思わぬ繋がり方をするものである。

明石市長のことをブログにアップして、ツイッターにも流したら、こんな方からこんなメッセージが送られてきた。

https://twitter.com/crystal37909793/followers  

今年の1月にツイッターを始められたばかりの方だが、何故か『私の旧いブログ』もお読みになっていて『錦江ホテル』のことが書かれていたので、どのようにしてそんなブログにたどり着かれたのか? 非常に興味があったのである。

 

crystal boy @crystal37909793

返信先: さん

鋭い考察ですね。私もそのとおりだと思います。 ただ、市職員は担当案件を放置していた訳でもなく何もしていなかったのではないという事はご理解下さい。 錦江ホテルの件、ブログで初めて知りました。今の現地周辺は時折通りかかりますので非常に興味深いです。

 

 文面から見ると、明石にお住まいの方なのである。

『錦江ホテル』は、私のこどもの頃の一番の想い出の場所で、特に夏休みはここを基地にして当時の中崎海岸で遊び回っていたのである。旧い写真にある明石公園もよく覚えている。

このホテルがなかったら、私は川崎航空機などには入社していないのである。

そのブログ、読み返しても非常に細かく正確に書かれているので、もう一度そのまま再掲してみたい。

 

★明石のお城は確か錦江城だった。

子どもの頃、夏冬の休みに、朝鮮ソウルから毎年戻ってきていたが、その時毎日のように行っていたのが錦江ホテルである。

そのオーナーは伯父で、支配人は叔父がしていた。 別に伯父の本業ではなくて半ば趣味のようなホテルで、その庭園も調度品などもなかなか立派だった。

この頃の検索は何でも出てくるものである。

『錦江ホテル 明石』 と検索したら、ずらーっと懐かしい写真が並んだ。

  

    

 前に止まってる車は、伯父の乗用車で、オールズモビル か パッカードのはずである。

子どもの頃から、車には至極興味があって、よく乗せて貰った。

今なら、当たり前の話だが、ラジオがついいているのが珍しかったのである。

勿論、運転手さん付きで、伯父が運転していたわけではナイ。

 

 

 

英語の表記があるのは、外人客も珍しくなかったからである。

明石川で取ってきたウナギの稚魚をいっぱいこの池に離したのを覚えている。

夏は、この前が明石海岸だし、私の遊びの基地だったのである。

 

 

戦前の明石の写真がいっぱい出てきた。

 

 

 

            

 

             

 

             

 

            

      

 

このホテルのお陰で、私の人生の進路が決まったと言ってもいい

戦争が激しくなった頃、当時の西明石の川崎航空機に来る軍人の宿舎としてこのホテルが接収されたのである。

その当時の総務部長が砂野仁(後、川崎重工業社長)さんで、伯父と川崎航空機との間で、100万円ちょっとで売買契約書が交わされているのである。

私は川崎航空機の財産課に配属されたので、その契約書を目にしたので、その売買金額など知っているのである。

 

戦後になっても、伯父と砂野さんは親交があったので、

私は砂野さんの薦めで神戸1中にも行ったし、卒業後砂野さんのコネで川崎航空機に就職することにもなったのである。

 

 

★伯父は戦時中は、朝鮮の南鮮合同電気のオーナー経営者だったのだが、その基盤は祖父が創った大田電機という会社からだろう。

 

   

 

これがネットに載っている祖父の記述だが、私は祖父古谷虎雄を知らない。

伯父も父も、若いころ祖父を亡くし(大正13年)  新社長にはなったが、川島、青柳、竹内さんなどが実際には支えていたのだと思う。

私は明石で生まれたのだが、人生の最初の記憶は大田で、隣のお家が竹内さんで、そのお兄さんには遊んで頂いた記憶が、人生の始まりなのである。

 

 

 

朝鮮総督府の政策で6社合同の電力会社になり、本社も京城に新しく創られて、多分それで大田から父も京城に居を移したのだと思う。

ちょうど私が小学校に入学する1年前ぐらいだったと思う。

幼稚園には行かなかったが、京城桜が丘国民学校に入学したのである。

この南鮮合同電力株式会社は朝鮮でも最大と書かれているが、当時は日本でも最大の電力会社だったように思う。

京城の半島ホテルの立派なビルにその事務所があって、伯父は年に何回か京城を訪れていただけで、勤務などしていたわけではナイ。

そんな片手間に、明石で錦江ホテルを持っていたのだと思う。

 

 

★こんな戦前の境遇だったが、 明石の錦江ホテルも、朝鮮の電力会社も、戦争のために消え失せてしまって戦後になるのだが、伯父や父のその後を見ていると、結局何もすることなく一生を終わってしまった感がある

大学卒業後、直ぐ社長、副社長などの地位にも付き、その後合併してからは、多分株の配当などで暮らしていたのだと思うが、

終戦という環境の大転換の中では、元々が立派な会社であったために余計に何も出来なかったのかも知れない。

そんな伯父を見ていて、伯母が 『おじいさんは偉かった』というのを何度も聞かされたが、なかなか人の生き方はそう簡単に変えられないのかも知れない。

 

そんな『巡り合わせ』みたいなものを、私に与えてくれたのは間違いなく、『古谷脩一』 伯父なので、伯父には感謝している

ちなみに、祖父がつけた名は、 伯父が『古谷脩一』 父が『古谷錬ニ』 だったのに、

なぜか、二人とも通称を 『古谷脩輔』 『古谷錬介』 と改名して使っていた。

祖父の付けた名前のままにしていたら、もう少しいい運が巡ってきたのでは、などと思ったりしている。

 

 

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三木山総合防災公園  雑感

2019-03-20 07:06:58 | みっきぃふるさとふれあい公園

★三木に住んで、45年にもなるので生涯で一番長く暮らしたまちになった。

 三木市は隣町の神戸と一番長く境界線で接している、神戸の隣町なのだが、神戸の知名度に比べると、何故か『田舎町』というイメージが強すぎるのである。

 実際はそうではなくて、私自身は『アメリカのような新しい街』だと独り勝手に思っていて、その理由は?と聞かれたら

  ● ゴルフ場が25もあって、自然が豊かで、兎に角広々としている。

  ● 広いからだと思うが、駐車場は殆ど全て無料である。

  ● 高速道路が二本も走っていて1時間も走れば京都・大阪・神戸は勿論、徳島・岡山・日本海にも行ける立地の良さ

  ● 廣野ゴルフ倶楽部・ビーンズドーム・酒米「山田錦」と世界一・日本一がいっぱい

  ● そして三木総合防災公園・三木山森林公園・三木山総合公園と、ゴルフ場よりも広い公園や施設がいっぱい

  ● 旧い三木の歴史の中に、新興住宅地がいっぱいできて、アメリカのような移民のまち?でもある

などと幾つも列挙できるのだが、三木の人たちはそんな意識は全くなくて『田舎町』だと思っているのである。

 

★そんな三木のまちの『三木山総合公園』にこんなのぼり旗が立ったのである。

 

     

 

     

 

東京オリンピックでは、『フランスチーム』が、パラリンピックでは『ネパールチーム』がそれぞれ合宿地に三木を選んだようである。

 三木は『スポーツ施設』は非常に充実していて、三木総合防災公園にもサッカーコートが5つもあるし、陸上競技場も、野球場も、テニスコートも、ゴルフ場も、多分間違いなく『日本一』かも知れないのである。

 三木にスポーツで訪れるゴルフ・ファンも多いのだが、一番多く訪れるスポーツ客はテニス・ファンなのである。

それくらい三木には立派な世界一のテニスことや、国体のテニス会場にもなった吉川のテニスコートなどがいっぱいなのだが、こんなことをちゃんと知ってるのは、ひょっとしたら『私だけ』かも知れないのである。

 

★ 兎に角、もう少し、三木市の広報は戦略的な広報活動を行えばいいのにと、いつも思ってしまうのである。

 この『のぼり旗』が立てられた『三木山総合公園』には最近は訪問客も多く、広大な無料駐車場が休日には満車になるぐらいの人気なので、もっと『三木市』が広報すればいいのにとおもっている。

 『一度、どこかにアップした』『のぼり旗』を作ったぐらいの単発活動で満足してしまうから、ダメなのである。

 『三木のブランド・イメージ創造』のためには、テレビコマーシャルのように『しつこく・何べんも広範囲に、戦略的に』他人のアタマに焼き付くまでやらないと『ブランドイメージの創造』など出来ないのである。

 『ブランド』とは自らの評価ではなく『他人の評価』なのである。

 『カワサキブランド』を創り上げるために、どれだけ長い年月と広報活動がそこにあったのか? それは単に一機種が売れたりしただけではダメなのである。

レース活動・販売・販売網対策・営業活動・広報活動・ファン対策、施設対策、安全運転活動』これらの総合活動トップが意識して継続して行わない限り、簡単に生まれたりはしないのである。

 

★一昨年の末以来、私は三木山総合公園の『三木総合体育館』のジムや、体育館や、プールを使わして貰っている。

 この施設も、その運営内容も、これは間違いなく『日本でトップレベル』のものであることは間違いないのだが、『三木市自体がそれに気付いていない』のである。

 

   

 フランスチームが合宿する競技場はこんないい環境の中にある。

  ネパールのテコンドウチームは多分こんな体育館のどこかの施設でやるのだろう。

   

 

 そんな中にあるジムは『アシックス』がその運営を担当しているのだが、今週こんなチラシを創られたので、ご紹介しておこう。

   

      

 1ヶ月何回使っても1000円は安い。

 私などは『ジムと体育館とプール』の三つの施設を総合して、1ヶ月何回使っても『3000円』という格安高齢者割を利用しているのである。こんな価格体系はおそらく日本でも珍しいと思う。

 

    

 

       

 

  そのプールのレベルもこのように広く綺麗で、広大な庭園付きなのである。

  そして、この三木総合体育館の施設が、三木市民以外のにも開放されているのがいい。

  三木市以外からも、他府県からも訪れる方が多いので『三木市のブランド』を意識づけるには最高の環境なのである。

 

 少し前の記事だが、『フランス陸上競技連盟の関係者が現地視察し、事前合宿地に決まった。選手やスタッフら約100人が来県を予定している。同競技場は日本陸上競技連盟の第1種公認競技場で、全日本高校女子サッカー選手権などでも使用されている。フランス陸上競技連盟からは「自然豊かで落ち着いた環境。リラックスして調整できる」「施設や器具の管理状況が良い」などと高評価を得たという。』

 などと、いい評価を頂いているのである。

 

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明石市長再選

2019-03-18 07:43:44 | 発想$感想

★明石は私の生まれ故郷である。そんなこともあって、明石の話はそれなりの関心があるのだが、今回の『明石市長辞任問題』は一挙に全国区の話題になって、当日の『辞任会見』は実況で流れたし、その後も民放各局はこの問題をいろんな形で取り上げているのである。

 という書き出しで、『明石市長の話』というブログをアップしたのは2月3日のことだった。

  https://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/098c4ddcbded1aa25063fa641cf1b2da

  

その時、いろいろ書いているが、『これはなかなかヨミが深い』『間違いなく選挙に出る』『いろんな行動は選挙対策』であると思ったのである。こんな風にその時書いている。

 

 最初の会見では『暴言は認めたが、辞職は否定、4月の市長選挙には出馬する』と明言しているのである。

 それがなぜ『突然の辞任表明』になったのだろう?そして、『市長選挙の出馬』については明言を避けているのである。

 これは『間違いなく選挙対策』だし『今頃、突如録音テープを公開』した人に対する挑戦ではなかろうか?元々、優秀なだけに『読みも深いし、ちゃんとした仮説』が建てられる人なのだと思う。

 『この辺りのヨミはしたたかである。 泉さんだけが公然と、もうすでに市長選挙を始めているようなものである。』

 

★それはさておき、今回の明石市長選は、泉さんの圧勝だったようである。   

 

   

 

  明石市政そのものに対しては、相当の実績を上げている実力政治家であることは間違いない。

 問題は、4月末にまたもう一度『市長選挙』だが、この実績では次回は対抗馬も立たないのではと思ってしまう。

 もし、そんなことになれば、ホントにこれは泉市長の『ヨミ勝ち=仮説の勝利』なのである。

 生まれ育った明石のまちだけに、『さらに注目される立派な明石』になって欲しいなと思うのである。

 それにしても、この一連の騒動は『マスコミが誘導した』とも言えるし、マスコミを上手く利用したとも言える。

 地方都市『明石』の問題をテレビ各局が話題にしたし、『泣いて謝った泉市長』が今回の圧勝に繋がったのである。はじめは出ると言ってた市長選には、沈黙を守り通して、市民に推されての立候補の形を取ったのは、最初からの『想定内の行動』だったのだと、私は思う。

 

★これが一番最初の記事で、『辞職は否定し、選挙に出馬』という泉さんの『ホンネ』が出ている記事である。

 あとはこの『本音』がどうやれば実現するのかという『読み』の問題で、それを『読み切った勝利』のように思う。

 

    

 

 いろいろあった『明石市長選』だが、大体私の思っていた通りの推移にはなったのだが、こんなに圧勝するとは『想定外』である。

世の中の流れ』というのは一度できてしまうと、『ものすごい力を発揮するものだな』と改めて、ちょっとビックリしているのである。

 

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大阪ダブル選挙と橋下徹さん

2019-03-18 06:10:27 | 大阪維新の会、橋下徹氏

★このブロブのカテゴリーの中に『大阪維新の会、橋下徹氏』というのがあって、今までに93回も投稿していて、これが94回目なのである。

 早く言えば、私が べたべたの橋下徹ファンだということである。

 そんな橋下徹さんが、今回の大阪のダブル選挙に対して、こんなことを言っていた。

 維新の必死さを他の政党は持っているか?

今、国会議員、特に野党の国会議員が一斉に、この大阪ダブル・クロス選を批判しているが、なぜ国政の野党が有権者の支持を集めることができないのかさっぱり分かっていないようだ。こういう大阪維新の会の必死さが国政の野党には足りないからなんだよ。大阪維新の会は公約を実現するために、とにかく必死に階段を上ってきた。その姿勢が有権者に強く支持されているということを野党は理解できないのか。

そして大阪維新の会は選挙では全力で戦う。野党の国会議員は、国会では激しく政府与党に対して批判を繰り広げているのに、大阪においては大阪維新の会をやっつけるために、自民党から共産党までが手を組むという。政府与党の自民党もだらしないが、野党も単独で維新を潰すことができないのか。

大阪に限らず、地方の首長選挙になると、安易に与野党相乗りになる。そんな生ぬるい選挙をやっているから、地域を大きく動かすエネルギーを発することができず、有権者からも強い支持を受けないんだよ。大阪維新の会の政策に全て賛同しろと言っているわけではない。大阪維新の会の政治姿勢を一定評価することもできないのか、と言いたいんだ。

ケンカをするにも、相手に一定敬意を示した上でケンカをするのと、相手を徹底的にバカにして、虚仮にした上でケンカをするのとでは大きく異なる。国政の野党は、いまのところ安倍自民党に全く歯が立たない。ところが大阪においては、自民党は単独では大阪維新の会に歯が立たない。なぜ大阪維新の会が強いのか冷静に分析できない国政野党は、永久に政権奪取などできないだろう。

 橋下さんの意見は、いつも歯切れがよくて、独特で説得力がある。

 番組の中で、

 

★ 昨日の昼のテレビ番組にも、橋下さんは出演していて、いろんな見解を述べていた。

 

   

 

 賛成・反対、いろんな立場のコメンテーターが、いろんなことを言っていたが、橋下さんの意見は、やはり一番オモシロかったように思う。

 『大阪ダブル選挙』のことも『安倍4選もアリ』だと自説を述べていた。

 

   

 

★ 大阪ダブル選の知事候補には、かって橋下さんの時も、松井さんの時にもその下にいて、大阪都構想の推進にも関わった、大阪府の元副知事の小西禎一さんが出馬するのだが、この『小西禎一』さんについての論評が如何にも橋下さんらしく、非常に評価したものであったことは、これは『なかなか言えない』ことだしこの辺りがまさに橋下さんらしいなと思ったのである。

 永年、日本の中で取り残されていた大阪に、万博もやってくるし、日本の話題の中に大阪が生き返ったのは、橋下さんが知事になって『大阪都構想』をぶち上げてからなのである。

 今は、政治の世界からは引退しているが、国の中枢の安倍・菅さんなどに対して、大阪がある程度の発言権を有しているのも、バックに、維新がいて、引退したとはいえ「橋下徹」さんがいるからなのだろう。

  今回の『大阪ダブル選』に大阪の人たちは、どのような評価を下すのだろうか?

 日本のためにも、関西のためにも、勿論大阪のためにも、『大阪都構想』は大きな意味を持っていると私は思っている。

 また、昔の何の刺激もない『大阪』に逆戻りすることは避けて欲しいと思っているのだが・・・・

 

★いつも自民党のことをボロカスに言う朝日や毎日も、今回はこの大阪ダブル選には批判的である。

 どう考えても、大阪に二重行政は無駄だと思うのだが、それを『党利党略』にすり替えているのではないか、産経の主張のように『建設的な議論』をすべきだと思っている。

 

     

 

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カワサキZのシリンダーヘッド再生産  雑感

2019-03-17 06:47:09 | カワサキワールド

 ★『カワサキZのシリンダー・ヘッド再生産』 こんなニュースが流れた。

 Zのユーザーたちの喜ぶ顔が目に浮かぶ。

 Z2が国内市場に販売されたのは、昭和48年(1973)のことで、当時は私も大阪地区の営業担当をしていたのである。

 当時の新車の販売価格は42万円ぐらいだったのだがそれから40年近く経っていまZ2の中古車の価格は200万円を超える人気なのである。

 三木が本拠のKAWASAKI Z1 FAN CLUB       の人たちとは密接に関係しているので、Zに関する情報は細かく耳にすることが出来るのである。 ホントにその熱心さと詳しさにはびっくりしてしまうのである

 

          

 

  http://z1fc.com/     ちょっとクリックしてみてください。

 KAWASAKI  Z1 FAN CLUB はこんなに確りとしたファンクラブなのである。

 

このニュースも非常に早く流れて、先日3月7日に大阪であった『吉田純一さんの旭日小綬章綬章記念パーテー』の席上でも話題になっていたのである。

 

    

 

ニュースはこのように伝えている。

川崎重工業は3月1日、大型2輪車「Z1」「Z2」シリーズのシリンダーヘッドを愛好家向けに再生産すると発表した。2019年秋より同社特設サイトで注文を受け付ける。初回生産個数は1000個で、価格は未定。注文状況に応じて増産を検討するとしている。

 Z1とZ2は、国外向け輸出仕様として1972年に発売された「900 super4」の型式「Z1」、1973年に発売された「750RS」の型式「Z2」として呼ばれるモデル。Z2は国内で累計2万台以上を販売、Z1は世界で累計十数万台以上を販売して、ともにカワサキのモーターサイクルを象徴する歴史的なモデルとなった。

 発売から約半世紀が経ち旧車と呼ばれるモデルとなっているが、同社では、現在でも世界中のライダーから愛されていることや、レストアにより実際の走行が可能な車両が数多く現存していることから、両モデルのオーナーのニーズに応えてシリンダーヘッドの再生産を決定した。

 

★このZ1・Z2の開発責任者をされたのは大槻幸雄さんで、そのエンジン担当が稲村暁一さんなのである。 

 このお二人がZを世に送り出したのだが、アレから40年近くも経って、『このZのシリンダー・ヘッド』を世に出すことになったきっかけも、このお二人が密接に絡んでいるのである

 もう3年も前の話だが2016年の『山口Zミーテング』がその年の4月に開催されて、そのミーテングに出席されたお二人に、Zユーザーたちから『シリンダー・ヘッド再生産』の要望が強く出されたのである。

 

     

 

その話を受けて、大槻・稲村のご両人が、当時のカワサキの二輪事業トップの方たちに『何とか再生産が出来ないか』と要望されたのが、2016年6月9日のことなのだが、それから3年何とか実現したのである

 簡単なようで、このような部品を再生産することは大変なのである。その間、いろんなことがあったようだが、メーカーの努力もさることながら、大槻幸雄さんの熱意が通じたのだろうと思う。

 今年も『山口Zミーテング』は4月に開催されて、多分大槻さんも出席されるのだろうから、これはまさしく「いいニュース」で、ホントによかったなと思っているのである。

 

 今のところ価格も未定のようだが、Zのユーザーたちにとっては、最高のニュースであることは間違いないのである。

 大槻さんとは、それこそZ1会というゴルフ・コンペなどでずっとご一緒なので、こんな『Zのシリンダー・ヘッド話』も知っているのである。

 世のZファンにとって、新車が世に出て40年経とうとしている今も、開発者の大槻幸雄さんの恩恵をその再生産部品でも受けることになるとは、ホントに不思議なご縁ではあると思うのである。

 Kawasaki. Let the good times roll !

  まさに、カワサキの基本コンセプト 通りのことなのである。

 

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