雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

Woodbridge in Irvine

2011-07-31 05:01:52 | 発想$感想

 ★娘の一家は、いまアメリカのカリフォルニア、アーヴァインに住んでいる。

多分、今日、同じアーヴァインの中だが、

『Woodbridge in Irvine』と言うところに引っ越すらしい。

そんなことが、簡単に解る便利な世の中である

 

 

 引っ越し荷物は、こんな状況のようである。荷づくりなどせずに持っていくのだろうか?

 

★そんなこと、思っていたら、昨日の午後、

ツイッターにこんなつぶやきが流れた。

 DANTHREE AMERICADanthreeA Moving to Woodbridge in Irvine! Nice place! I like it!

 ウッドブリッジは小売(商業の、そして、制度上の開発)の広い片によって北部湖と南部湖と呼ばれる2つの住宅のセグメントに両断されます。
Each half of Woodbridge has a lake at its center.
半分の各ウッドブリッジはセンターに湖を持っています。
The lakes are between three and six feet deep and each is crossed by a large wooden footbridge, owing the village its name.
湖は深さ3~6フィートです、そして、それぞれが大きい木造の歩道橋によって交差されます、村に名前を負っていて。
A four-lane circular loop road, Yale Loop, runs around the interior of Woodbridge, connecting all its housing blocks and major streets.
4車線の円形ループ道路(エール大学Loop)はウッドブリッジの内陸部を走り回ります、そのすべてのハウジングブロックと幹線街路をつなげて。
The village is walled off from the rest of Irvine by a row of pine trees and a continuous, 20-foot (6.1 m)-high Privet hedge.
村は松並木、および連続して、20フィート(6.1m)の高いPrivet生垣によってアーバインの残りから壁で仕切られます。
Woodbridge, for the most part, is uniformly designed in a New England Cape Cod style.
ウッドブリッジはニューイングランドケープコッドスタイルでだいたい一様に設計されています。

などと書かれている。

 こんな木製の橋があるらしい。

こんなアメリカらしい風景の新興住宅地のようである。

 

最近は行ったことがないのだが、KawsakiのKMCのオフイスのすぐ近くらしくて、孫のトモダチにはKawasakiの子弟も多い。

だから、大体の感じは解っている。

 

アーヴァインは、アメリカでも一番治安のいいまちだとか

 

Money Magazine Ranks Irvine as One of the Best Places to Live in America.

などと表現している。

 

★引っ越しは今日で 、3人兄弟の孫の長男が8月3日には夏休みで日本にやってくる。

そして8月19日に家内を連れてアメリカに戻っていく毎年のパターンである。

それから約1ヶ月ちょっと、家内はアメリカで夏休み、私は独り留守番の三木での夏休みが始まる。

『Nice place! I like it! 』

と言っているから、いいところなのだろう。

 

アメリカの娘のや孫の生活ぶりが、毎日解るのも、

ネットのお陰である。

ちなみに、『Danthree in California]』 というブログのネーミングは、当初は『だんご三兄弟』だったのだが。

60おじさん、山本隆君が、『もうちょっとカッコいい名前にしたら』 と言って、Danthree となったのである。

●山本隆君にリンクした、 CUSTUM INFECTION は、今度新たにNPO The Good Times に加わったかっこいい仲間です。

 

 

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部下のいない生活

2011-07-30 06:35:31 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★会社の現役生活の時は、1年目から何らかの形で部下らしき人はいた。

2年目以降は、退職するまで、部下は間違いなくいて、そんな人たちにいろいろと手伝って貰っての生活であった。

『部下にやらせる』と言うことは、自分でも勿論部下よりも上手く出来るかも知れぬことを、『部下にさせる』場合にそう言うのであって、

『部下はやれる』が自分では出来ないことは、『やらせている』のではなくて、『やって貰っている』と認識しなければいけないと常々そう思っていた。

 

昔は会社の仕事も単純で、上司は部下よりも経験豊富で、部下よりも上手くやれる経験豊かな人が多かったのだが、

だんだん世の中が複雑になってくると、特に専門的な分野では、『部下だけが出来る』、所謂『部下にやって貰っている』分野も多くなってきたのである。

特に、コンピューターなどの若い人が総じて得意な分野では、上司は取り残されている場合が多かった。

私などは、現役時代は、一切パソコンなど触らなかったし、携帯電話も持ったことがなかったので、この分野にかけては、すべて部下にやって貰っていたのである。

 

★退職して、年金生活になり、時間は余裕があるし、自分の好きなことだけ好きなようにやればいい、何をやってもやらなくても、ちゃんと給料ではないが年金が入ってくる。

これは素晴らしいことではあるが、部下は勿論、周囲に聞く人もあまりいない生活は、なかなか大変なこともあるのである。

つい先日、ブログにも書いたが、

『ESTA』   Electoronic System for Travel Authorization   アメリカへの入国申請だが、

現役の人たちは、アメリカに出張するときに、この申請を自分でやっているのだろうか?

多分何処かの旅行代理店など、出入り業者がやってくれるのでは、と思うのである。

 

こんな事を、今は自分でやらねばならないのである。

そしてつい3日前に、上手く申請できたと思ったのだが、確か72時間以内に許可になるとか書いてあったのだが、その通知がどんな形で来るのかが解らないのである。

昨日はちょうど3日目で、この連絡がメールで来たので、『メールで来るもの』とばかり思っていたのに、それが来ないのである。

そうなると、気になって心配なのだが、確かめる術がない。 仕方がないので、また有料でESTAをやっているところに、厚かましく電話して聞いてみたら、先日申請した画面に多分通知が来ているという。

その画面は先日の申請番号の16桁の数値や、パスポートNOなどを打ちこまねばならないのだが、全部入れて『クリック』してみると『認可』とちゃんと大きく出ているのである。

ほっとした。

やってみると何も難しくないし、こんなことは、毎日作業で繰り返しやっていれば、何のことはないのである。

然し、もし電話をかけてきかなければ、先日申請した場所にその許可が表示されていることなど思いもつかないのである。

 

★昨日は、アメリカから夏休みに遊びに来る孫のために、デジカメを買ってきた。

来てから買いにいけばいいようなものだが、空港に着いた時からの写真が撮りたいという希望のようである。

最近の取り扱い説明書は、なぜこんなに難しいのだろう。

沢山の機能が付いているのは解るのだが、そんなものは使わぬ人も多いのだから、最小限やらねばならぬことから、順次書けばいいのに、その順番がどうもおかしい。充電をするのにパソコンと繋いで、CD-ROMと云々と出て来るのである。 パソコンを持っていない人はどうするのかと思ったが、兎に角充電をスタートさせた。3時間以内と書いているので、2時間ちょっとでとりだしたら全然動かないのである。

解らなくて、買った電気屋さんに電話してみたら、充電はそんなに難しいことしなくても、コンセントに繋げばそれでいいと仰る。

そんなこと、どこに書いてあるのかと思ったらその次のページに出てくるのである。それなら書く順番を逆にしておいて欲しいのである。

部下がいないと言うべきか、聞く人が周囲にいない年金者の生活は、大したことではないが、いろいろ大変なのである。

 

★私のような同類項が、世の中にいっぱい増えたので、

『お客様相談室』と言うメーカーの持っているセクションが、部下の代わりをしてくれているようなものである。

昨日も、充電できているのかもよく解らなくて、お客様相談室に電話をしてみたら、すぐ解った。

こんなことなら、取扱説明書を開いて読む前に、電話をすればいいのである。

買った店の店員さんよりは数倍要領よく説明をしてくれる。慣れているから説明書のページなどもよく解っていて、日付設定ほか全て完了した。

 

★兎に角、つまらぬことがよく解らないのである。

ホントに『百聞は一見に如かず』とは言うが、

その百聞すら難しいのである。

 

聞くことが出来る人は幸せと思うべきである。

 

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相信会 と The Good Times

2011-07-29 07:09:40 | NPO The Good Times

★昨日は、『相信会』という川崎重工のOB会が夕方から、神戸の川重本社であったのだが、

その前に2時から、今回相談役から、名誉顧問になり、『孫中山記念会』の理事長を引き受けた、田崎雅元さんを訪ねた。

逆光と写真の技術がダメで、ちゃんと写っていないが、カワサキワールドやメリケンパークが見下ろせる神戸のいい眺めである。

(お顔が解らなくて失礼なので、今年3月のNPO The Good Times の「カワサキのい想い出そして未来」でのご挨拶の時の写真を。)

話は、『孫中山記念会』の ともの会の活動をNPO The Good Times でお手伝いしようという そんな今後の具体的な展開についてだった。

 孫文記念館は舞子公園のこんないい景観のところにある。

NPO The Good Times の新しいプロジェクトとして、具体的に進めることになるだろう、

 

今は神戸市の観光局に移られた『ぼっけもんの修さん』が

『今年は辛亥革命100年ですから、僕のほうでも、東アジアからのマスコミ取材では、必ずといっていいほど紹介していますよ。先日もマスコミではありませんが、香港の財界人も行かれたようです。ただ、マスコミや旅行会社の視察旅行では、短時間に沢山の観光地を視察して、本国で記事や旅行商品にしないとなりませんから、三宮からのアクセスがネックになっているようですね。』

と、先日書いたブログに、コメントを頂いた。 

ぼっけもんんの修さんは、神戸フルーツパークのミニSLフェスタの時以来のお付き合いで、NPO The Good Times の会員さんでもある。

このイベントも田崎さんと二人で神戸市にお願いして始まった。ご縁があるので、今後もいろいろとお世話になることだろう。

 

★相信会では、久しぶりに松岡京平君にあった。

君づけで呼んでいるが今は川重の代表取締役常務である。単車再建時代本社財務からアメリカのKMCに出向して手伝ってくれた仲間である。当時のKMCの社長が田崎さんだった。 孫中山会の話をして、NPO The Good Times に誘って入会してくれた。 最近はホントに気心の知れた人にしかお誘いをしないのである。彼とはお互い、共通の想い出を幾つも持っている仲間なのである。 

そんなことから始まった相信会だが、今回は13年会長を務められた高橋鉄郎さんが引退されて、小野新会長にバトンタッチなのである。

本当に長い間、ご苦労様でした。 いいご挨拶をされた。単車のころから、幾度となく高橋さんのご挨拶を聞いているが、いつもいい話をされる。

そんな高橋さんの話も、なかなか聞く機会がなくなるかも知れない。私や田崎さんの一番長い上司なのである。

ちなみに高橋鉄郎さんには、設立時点からNPO The Good Times の相談役になって頂いている。

今回、孫中山会の話が具体的になったら、田崎さんにも相談役になって貰おうと思っている。

 

 新会長の小野さんは、昭和32年入社の同期で研修会などでも何回もご一緒してよく知っている。

川崎重工はいろんな部門があって、殆ど何の接触もなかった方も多いのだが、

新会長が小野さんなので、正直また親しみが持てるというものである。

 

★このような立食パ―テ―も、現役時代から何度も経験しているが、よほど上手に意識して動かないと、出席者にあの人も来ていると解っていても結局ご挨拶もせずに終わってしまうものである。

むしろ現役の主宰者の立場の場合は、それを意識して挨拶に回るので大勢の人と言葉を交わすのだが、フリーの立場になると、つい話しこんだりすると時間がなくなってしまうものである。

昨日も高橋さんとは、開会前にお話はさせて頂いたが、その時の話が、

『先程まで田崎さんのところで話してました』

『そうか君だったのか。田崎さんのところを訪ねたのだが、先客がいるということだったので、・・・君だったら一緒に入っていけばよかった』

というものだった。

秘書に『誰が入ってるんだ』と聞けばいいようなものだが、なかなかそうはいかないのが、大会社なのである。

現役のころから、3人で話す機会はホントに多かった。

高橋さんの相信会会長最後の日だったから、ご一緒に話が出来たらよかったなと残念に思っている。

 

 

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ESTA

2011-07-28 05:08:58 | 発想$感想

★突然、私宛にこんな英文のメールが届いた。

ATTENTION! The travel authorization submitted on August 25, 2009 via ESTA will expire within the next 30 days.  It is not possible to extend or renew a current ESTA.  You will need to apply for a new ESTA.  Please reapply at https://esta.cbp.dhs.gov if travel to the United States is intended in the near future.  If there are 30 or more days left on the old authorization you will receive a warning message during the application and be asked if you wish to proceed.』

メールの打ち間違いなどの不備か、迷惑メール以外英文のメールが届くことは滅多にない。 最初にATTENTION !から始まっている。最初の英文は何となく理解できた。

ESTAとは一体何か? 多分これはアメリカへの入国手続きが切れたということは解った。

ちょうど2年前のいまごろ、家内がアメリカの娘のところに遊びに行くので、この手続きが要って、何とか自分で申請することが出来て、息子が『自分でやったのか?』と褒めてくれたあの手続きに違いない。

文中のリンクをクリックすると、こんなページが現れた。

ESTAとは、Electoronic System for Travel Authorization の訳で、想定したものに間違いないのだが、これを再申請しなければならないが、

さてどうするべきか?

 

★こんなのは電話で詳しいのに効くのが一番である。 団体旅行でアメリカに行く場合は、旅行代理店がみんなやってくれるようである。当方は個人でのアメリカ行きなのだが、JTBに聞くことにした。最近のHPはなかなか電話番号が載っていない。104に聞くのが一番早い。『三の宮のJTBにお繋ぎします』とすぐ電話は繋がったが、詳しいことは『大阪の専門でやっている窓口に』と言うのでそこに掛けてみた。

オペレーターはそんなに詳しくはないのだが、最近はどこも親切である。この窓口は有料で手続き代行をやってくれるのが本業だが、『無料で』いろいろと教えてくれたのである。

前回出来たのだから、今回も出来るはずだと思ったのだが、今回は以前と違って申請そのものが14ドルの有料になっていて、支払い手続きだけが、余分に加わっているということだった。

大体、『いい加減な』性格であまり読みもせずに電話をしたのだが、最初に現れた英文のサイトは、20ヶ国語以上に訳されていて、勿論『日本語文』のものがあったのである

いろいろあったが、何とか書類の必要項目を埋めて『申請した』のである。 

 

★お役所の申請手続きや方式はいろいろあるのだが、このアメリカの入国手続きは一切例外を認めず、『ネットでの申請』以外は受け付けないのである。

日本も早く、このようなアメリカ式を見習うべきだと思うのだが、例えば電気製品のエコポイント申請など、ネット申請もあるが、手書きの申請もある。ネット申請をしているのにあらためて領収書だったか、何かもう一度郵送しなけれなならない。全くシステムになっていないのである。

世の中は、ネットの方向に進むことは間違いないのだから、こんなのは全てネット申請に統一すれば、お金は安くて済むはずである。

直ぐ、『お年寄りが・・・』などと言うが、お年寄りもアメリカに何人も入国しているはずである。 例外を認めないから、JTBも有料の代行システムを作って対応しているのである。

アメリカは『進んでいるレベル』に、日本は『遅れているレベル』に合わそうとするのである。  『進んでいるレベル』に合わす事を・・・・とか言っていたが忘れてしまった。

確か、武雄の樋渡さんが、市のホームページをFacebook の方に統一する方向のことをヨコ文字で言っておられた気がする。

ヨコ文字はともかく、そんな姿勢が行政にも、企業にも必要なのだと思うのだが。

 

★あっち、こっちにお世話になったが、兎に角申請は出来た。

こんな小さなことでも『達成感』はあるものである。

ただ、まだOKの返事は届いていない。

 

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なでしこジャパンの国民民栄誉賞

2011-07-27 05:19:17 | 発想$感想

★『なでしこジャパンに国民栄誉賞』

こんなニュースが流れたとき、率直によかったなと思った。

特に、いろいろ考えたわけではない。

 

昨日の昼のワイドショ―のような番組で、

『なでしこジャパン、国民栄誉賞を辞退?』などと言っていた。

世界の野球を2度制した野球が受賞していないこと、

直ぐ続いてある北京でのオリンピック予選への精神的な重圧などと尤もらしい理由を言っていた。

『それもそうだな』と思ったりした。

 

★『なでしこジャパン』は、あらためて国民栄誉賞などの賞を貰わなくても、世界の人々から『ワールドカップ優勝』の本来の表彰を受けているのである。

今更、国民栄誉など貰わなくても、日本国民がみんな元気を貰ったし、素直にみんなが喜んだのである。

どなたが渡すのか知らぬが、それがもし菅さんなら貰わない方が、いいのかも知れない。

いろいろとまた賛否両論があって、私も含めて人はいろいろ言いたがるのである。

 

そんなのややこしいなと思ったら、イチローのように貰わない方がいいのかなと思う。

今現在は『国民栄誉賞』で検索するとこんなニュースが並んでいる

まだ辞退のニュースは流れていない。(7月26日午後2時現在)

結果はどんなことになるのだろうか?

 今朝になってもそんなニュースは流れていないので、辞退などしないのかな?

 

★あらためて考えてみると、政府でも、県でも、市でも確かに素直な気持ちもあるのだろうが、

『表彰をする』こと自体が、上から目線であることは間違いないような気がする。

必ず何処かに呼びつけての表彰である。

サッカーグランドに菅さんが出向いて渡すようなことには決してならないのである。

まあ、どちらでもいいようなことか。

 

なでしこジャパンが世界一を獲得したのは、世界の人が認める間違いない事実なのである。

もうすでに国民はその栄誉を称えている。

 

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昭和60年(1985) みんなエラクなった、最高の年? 52歳

2011-07-26 05:16:28 | 自分史

 ★57年の10月に、どうなるかも解らない単車事業部の再建の中枢企画部を任されてトータルプランを練り上げて、その実戦の旗振りをやってきたが、当時の本部長大庭さんや、ずっと以前からの上司高橋鉄郎さんに援けられて、そして当時の主力市場のアメリカを担当していた田崎さんとの協働で、3年目を迎えた年だった。

前年度には世界の販売会社は全て黒字転換を果たしたし、この年度の3月期は念願の事業部の黒字化12億円が目標で、大庭さんはそれに非常に拘っておられたのである。

ところがこの年の幕開けは、設計変更などの要因もあって、資材費のコスト関係で5億円悪化するということから始まったのである。

新年早々、大庭さんの激怒から年がスタートした。 大庭さんも怒りだしたら無茶苦茶恐いのである。この悪化は単に資材が悪いのではなくて、コストに関係するトータルを見ている部門がなく、設計変更などの要因も絡んでいるので、単に資材部長に怒ってみてもどうにもならないところもある。今後企画にコスト担当を専任で置いて企画が責任を持つ体制にするということで、何とか収まったのである。この難しい問題を担当してくれたのが増田さんだった。

この3月末までには、前年計画したアメリカのKMCの新社屋建設問題も、監査役の『累損がある会社が新社屋を建てるのか?』と言う監査役としては尤もな発言も飛び出して、財務担当の松本さんもなかなか賛成し難い、難しい状況に追い込まれたりしたのである。

ただ社長からは、来年度の利益は50億と言う目標が出されたりして、ある意味全社的に二輪事業に懸ける期待も大きかったのである。

KMCの『累損消去』の問題は、監査役の指摘される前から、事業部の利益よりも優先する第一課題に上げていたので、この監査役の指摘を逆に利用して『あと2年』での消去計画を立案し、結果として新社屋問題もGOサインが出たのである。

この年の3月末の決算は、円安にも援けられて、結果は23億円の黒字となり、この年度に、二輪に関連する全ての事業の黒字化=再建が達成できたのである。

 

★その結果、大庭本部長の専務昇進も、高橋鉄郎さんの取締役も内定し、私自身も高橋さんの後を受けて、企画室長に昇進し、サラリーマンとしては待望の個室、部屋を頂く身分となったのである。

部屋と言っても、名ばかりの小さなものだったが・・・・

ちなみに、新しく建てるKMCの社長室などは、日本とアメリカとの違いで、川重本社の社長室よりも広いと思われる立派さだった。このとき計画した新社屋の予算は9Mドルで決まったので、当時の円ドルレートで云えば、20億を超える予算で、広大な敷地に、立派な社屋を計画したのである。

単車再建と言うプロジェクトは、ここで一応のけりがついて、『万事めでたし』で収まったのかと思ったのだが、現実はそう簡単には行かなかったのである。

 

   

 

 ★3月までは順風満帆であった。

このころ、260円であった円ドルレートは、月を追うごとに『円高の一途』をたどり、年末には200円になってしまうのである。

いろんな対策をして、200円なら、何とか事業部も黒字というところまでは頑張ったのだが、この翌年になると、200円を切ってしまい、二度と200円台には戻らなかったのである。

翌年の3月末は175円だったから、1年での上昇率は30%を超えて、それこそどうにもならぬ状況だったのである。

今、ちょうど円高だが100円が80円になって20%だから、30%を超えると大変だった。1円が2億円ぐらいだったから200億円近く利益に影響したのである。

 

★この時期に、二輪車とともに、ジェットスキーを事業のもう一つの柱にすべく動き出している。

8月にオーストラリアの社長から帰任した鶴谷君にこの新事業の担当をやって貰ったのである。帰国早々『ジェットスキーを』と言うと彼は憮然としたが、当然かもしれない。当時は単車事業部の中には、ジェットスキーを扱う部門は皆無で、担当者など一人もいなかったので、企画でやらざるを得なかったのである。

9月末には私と二人で、ヨーロッパの市場調査に出かけている。ドイツとスイスの国境のボーデン湖で開かれたボートショーに始まって、スイスからスペインのマドリッド、さらにはジブラルタル海峡の直ぐヨコの避暑地マラガなど、レンターカーを借りて自ら運転して二人の目で確かめてきた。 フランスも英国も訪ねたのだが、ドイツ語、スペイン語、フランス語圏は言葉がどうにもならないし、道路標識すら読めないのである。イギリスに入って、英語が通じてホントにほっとしたそんな旅だった。

スペインでは現地にいた藤元君との行動なので何とかなった。もう最盛期は終わっていたが、ヨーロッパの夏休みがどんな環境の中で行われるのか、海岸線を何百キロも走って確かめてきたのである。それがどんな壮大なものか、これは現地をこの目で見ないと解らない。

この担当になってからの鶴谷君は、本当に情熱を傾けた仕事ぶりで、彼がいなかったらカワサキのジェットスキーもアメリカ以外での展開などなかったかも知れない。アメリカ以外のジェットスキービジネスはこの年から始まっている記念すべき年だった。

スタートの時期にこのビジネスを担当してくれたのは、企画の武本一郎部長、鶴谷課長のほか福井昇君、国内では藤田孝明君、海外では藤元、田中君だった。

 

★この年の8月13日、御巣鷹山の日航ジャンボの事故があった。

お盆休みは海外販社は関係ないので、海外出張は例年お盆休みに行くことが恒例になっていて、事故の翌日、高橋鉄郎さんと日航ジャンボでアメリカ出張に行っているが、流石にガラガラだった。

宗兄弟が北京マラソンで、1,2位になっている。 そんな年だった。

息子は関学の4年生、サッカーは待望の1部に上がって、総理大臣杯の大会には運よく同志社に勝って大商大とともに出場できたりした。関西地区の決勝戦、大商大戦は、NHKがテレビ中継などしたものだから、そのおかげで我が家にビデオを買うことになったりしたのである。。

本番では、2回戦で早稲田に1-0で負けたのだが、多分、この大会のお陰で、全日空のサッカー部の人の目にとまり、8月に面接があり全日空への就職が決まっている。 

 

『人間運だな』、と思うのは息子のこんな就職の決まり方を見てもそう思う。それぞれ努力もあるのだろうが、周囲の人とのいろんな関係がないと自分一人ではどうにもならないのである。

周囲の人たちにも恵まれて、運がよくないと、なかなか物事は成功しない。

私自身は、人生いろいろあったが、『運がよかった』と思っているし、『運の良さ』は今もなお続いている。

『自分は運がいい』と信じていると、どんどん『運が転がり込んで来る』ような気がする。

 

★この年までは、4輪はホンダアコードに乗っていた。 『ホンダなどに乗りやがって』などと言う社内の声があったのも知っているが、あまり気にもならなかった。レース時代山本隆、歳森康師、星野一義が初めて買った車がS600だったし、むしろ同じ業界の車に乗るべきだとも思っていた。大ぴらにホンダに出入りが出来て、ホンダさんのやり方も解ったし、何よりも鈴鹿サーキットに行った時の待遇がいいのである。

ただ、もう何年も乗っていたし、企画室長になってやはりちょっと気になったのか、すぐビスタに買い替えたりしている。

ある意味、職位を考えた時期があったとしたら、この年だったのかも知れない。この年だけで、すぐ忘れてしまったが、自分が思う以上に、高橋鉄郎さんの後を継いだ企画室長は、自分でも重たかったように思う。

まあ、最高にいい回転であった、1年だったと思う。 翌年からまた苦労するのだが・・・

 

 

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日曜日の午後の感想

2011-07-25 05:11:20 | 発想$感想

★アナログテレビの放送が幕を閉じて、地デジの放送が始まった。

何度聞いても、解説を読んでみても、アナログとデジタルの意味がよく解らない。

あらためて、Wikipediaで、『デジタル』と『アナログ』を検索してみると、

『デジタルとは、アナログに対応する理論で、工業的には状態を示す量を数値化して処理(取得、蓄積、加工、伝送など)を行う方式のことである。デジタル処理、デジタル記録、デジタル伝送、デジタル制御などがある。』

アナログは、類似・相似を意味する。連続した量(例えば時間)を他の連続した量(例えば角度)で表示すること。デジタルが連続量をとびとびな値(離散的な数値)として表現(標本化量子化)することと対比される。時計や温度計などがその例である。』

と説明してある。 読んだら解るどころか余計に解らなくなってしまった。

みんなホントにちゃんと解っているのだろうか?

 

★そんなアナログ放送がなくなった日曜日の午後、3時間ほど続けてテレビを見ていた。

12時過ぎから、『囲碁アジア選手権』と1時半からは、『たかじんのそこまで言って委員会』

チャンネルをひねったら、オールスターはきょうもパが5-0でセを下した。セントラルは、アナログかな?

 

★囲碁は高校の頃から始めて、トモダチや、会社のへボ碁の連中と打っている限りは強い方なのだが、ちゃんと碁をやる人たちのレベルでは最低の所謂、初段や1級のレベルなのである。

遊びでやっているうちはいいのだが、真剣に難しい詰め碁を考えたり、1目を争うヨセを考えたりするのは、全く興味がない。逆に、大石を殺した快感みたいなのは大好きである。

負けたからと言って、命まで取られるわけではないし、1目かった負けたがどんな意味があるのかよく解らない。

ただ碁の布石から中盤にかけての構想、や攻め合いは至って興味があり好きなのである。

 

今パンダ碁と言う、囲碁ネットでずっと打っているが、「4320勝-4273敗」 今まで8500局も打っている。暇な日は1日に7局も打ったりする。碁席と違って何局打とうが月に2000円ほど払っておけば、世界中の人と碁が打てる。

そんないい加減な私の碁だが、日曜日のプロの囲碁番組は、必ず見ることにしている。

人間にはいろんな才能があるのだが、プロ棋士のアタマの中は、どんな構造になっているのだろうか? 一瞬のうちにいろんなことが解るのである。スポーツのプロのように、アマがとても出来ないことをしているのではなくて、アマと同じ手を打つことも勿論あるのだが、その解説を聞いていると、なぜそんなことが解るのかと思ってしまうのである。

何事でも、プロの世界はスゴイと思うのだが、世の中でプロと言うのはいろいろあるが、サラリーマンや、お役人はアマチュアかな、政治家は?プロかアマか?どうもこのあたりもプロが少ないように思う。

職人さんや、料理人の人たちはこれはプロなのかな? そんなプロとアマの世界のことを思っていた。

 

★そのあと見た、『たかじんのそこまで言って委員会』

昨日の出演者は、常連の人たちの他に、テレビの時代が新しくなるということで、『テレビへの想い』を語るということで、田原総一朗と池田信夫が出ていた。

田原総一朗は、何となくよく解っていたが、池田信夫をテレビで見たのは多分初めてである。

池田信夫といえば、私にとっては『ブログ、それも私と同じgooのブログ』で常にトップに近いアクセスを誇っていた。

今はライブドアに移ってしまったが、その最後のブログでは、こんな風に言っている。

・・・・ただgooブログは、javascriptが使えないなど使いにくく、システム管理者にいくら言っても改善してくれないので、・・・・・個人ブログもライブドアに引っ越すことにした。



 
★これが池田信夫のgooでの最後のブログだが、gooがダメだと言っている理由がよく解らない。

javascript とは、一体何のことか?

デジタルやアナログ以上に理解しがたいヨコ文字で、池田信夫のブログは、難し過ぎて解らない。なのにこんなに沢山アクセスがあるのは、世間はみんなそんなレベルか?などと思っていたのだが、昨日テレビで話しているのを聞いてみると、そんなに難しくもない普通の人である。

文章はなかなか、人それぞれ、特徴もあって、難しかったりするのだが、テレビなどの映像で見ると、何となく親しみを感じたりするものである。

昨日は池田信夫を直に見れて、今度からブログももう少し気安く読めるかも知れない。

と思って、昨日のブログを読んでみたが、やはり難しい。

テレビの池田信夫の方が、数段親しみ安いのである。 これがテレビの効用か?

 

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孫中山記念館と田崎雅元さん

2011-07-24 05:21:16 | カワサキワールド

★昨日は3ヶ月に1度の眼の検査の日で病院に出かけた。

待合室で神戸新聞を読んでいたら、『田崎雅元さんと孫中山記念会の囲みの記事』に出会ったのである。

 

『6月までは、川崎重工業の相談役をしていた田崎さんだが、今回孫中山記念会の理事長を引き受けるらしい。

舞子公園に、孫文記念館があるのは知っていたが、孫文とは、川重の初代社長松方幸次郎とも関係があったような記事の書き方であった。』

孫文記念館』で検索するとこんなサイトが現れる。

明石の直ぐ隣の舞子公園にある通称『六角堂』は、子供の頃からよく知っているのだが、それが孫文とどんな繋がりがあるのか?

サイトの中の説明(概略)では

『この建物は、もともと神戸で活躍していた中国人実業家・呉錦堂(1855~1926)の別荘が前身、外観が六角に見えるところから、地元では長らく「舞子の六角堂」として親しまれてきた。
孫文との関わりは、孫文が1913(大正2)年に来神した際、神戸の中国人や政・財界有志が開いた歓迎の昼食会の会場になったときに始まる。

1983(昭和58)年11月、兵庫県が神戸華僑総会から寄贈をうけ、改修を行った。
1984(昭和59)年11月「孫中山記念館」として一般公開を開始、1993(平成5)年12月には「兵庫県指定重要文化財」に指定された。
2001(平成13)年11月、移情閣は、文部科学省より国の重要文化財に指定された。
2005(平成17)年10月、孫中山記念館は、「孫文記念館」と改称された。
この記念館には、日本と孫文、神戸と孫文の関わりを中心に、呉錦堂の生涯や移情閣の変遷などについての詳細な展示が行われている。』

私などは、孫文よりは、『呉錦堂』と言う名の方をよく覚えている。

『孫文』についてのWikipediaの書き出しは、

孫 文(そん ぶん)は、中国生まれ・アメリカ国籍の政治家革命家。初代中華民国臨時大総統。辛亥革命を起こし、「中国革命の父」と呼ばれる。 中山逸仙。中国では前者で知られる。中華民国では国父国家の父)と呼ばれる。また、中華人民共和国でも「近代革命先行者(近代革命の先人)」として近年「国父」と呼ばれる。海峡両岸で尊敬される数少ない人物である。中国では孫文よりも孫中山の名称が一般的であり、尊敬の念をこめて「孫中山先生」と呼ばれている。』 と書かれている。

 

★この『孫中山記念会』の理事長を引き受けた、田崎さんは、

『孫文記念館を全国区にしたい、若い人たちに対しては、インターネットかな・・・』などと記者に語っているのである。

これは間違いなく、『私と繋がる』と思って、このブログを書いている。

現役の頃から、『レース仲間時代』も。苦しかった『単車事業再建の時代』も、つい何年か前はメリケンパークのミニ鉄道フェスタでも、極く最近の今年の春の『カワサキの想い出、そして未来』でも、

田崎さんとはいつも繋がって、『コンビ』で、いろいろやってきた。

これは今年の3月、NPO The Good Times 後援の『カワサキの想い出、そして未来』にかってのレース仲間の一人として参加してくれた時の写真である。

勿論、NPO The Good Times の会員でもあるし、広報援助がメインのこのNPOは、『孫文記念館』を全国区にするには、これ以上ない格好のツールなのである。

 

★『孫中山記念会』の理事長は、満州生まれの田崎さんには、また格好の役だと思う。

私は韓国が子供の頃の故郷だが、田崎さんは中国がその故郷なのである。 中国人にもファンが多いという孫中山だから、NPO The Good Times はつい先日から、アメリカ進出も果たしたので、次は中国との国際親善に協力するのも素晴らしいことである。

昨日の神戸新聞の記事で、また一歩、NPO The Good Times の『新しい公共』としての繋ぎの役割が見えてきたような気がする。

このプロジェクトは、『ひょこむ』では、オトモダチの兵庫県井戸知事や、元知事の貝原さんも、関わっておられて、兵庫県そのものの情報発信にも一役買えると思っている。

NPO の公式ツイッターの情報発信力は、現在17万人、もうすぐ20万人なのである。 

毎日、会員さんの情報発信のお手伝いをしているが、瞬時に世界に発信されるその威力を実感している。最近では、フォロワーの増加も、また1日500人のペースに戻しているので、1ヶ月に1万人づつ増えてゆく、20万人も秋までには到達するだろう。

 

孫中山記念会と田崎さんの記事で、何となく今後の進展を、勝手に夢見ているのである。

 

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60年前の高校野球

2011-07-23 05:12:43 | スポーツ

★昨日、高校時代の球友、溝畑のことを書いたものだから、急に高校時代の頃を思い出した。

折しも、夏の予選最中である。

1950年と言えば60年も前の話である。そのころの話を今の若い人たちは、どのような感じでお聞きになるのだろうか?

私が小学校の時に、戦争が始まった。日本国中大変で、野球どころではなかったのである。

小学校時代、野球をした覚えはない。当時の中学校野球大会も5年間ほど中断されていた。

昭和21年に再開されて、そのころは中学1年生だったが、兵庫県は芦屋が有本のスローボールで優勝した。明石球場での予選だったので見に行ったしよく覚えている。キャッチャがギッチョだったが、左のキャッチャを―を見たのはこのときだけである。

戦後の子供のスポーツは野球中心だった。 原っぱの三角ベースの野球など、まず野球をしなかった子はいなかったぐらい盛んであった。

 

★私は、旧制中学の最後の年次で中学は神戸一中、高校は学区制が実施されて明石高校なのだが、戦後の野球は公立校が何故か強かったし両校とも在籍中に甲子園に出場していて、当時の兵庫県で強かったのは、芦屋、明石、神戸一中、神戸ニ中、滝川などが甲子園の常連組で中でも、芦屋が圧倒的に何度も甲子園に出場しているし、全国制覇もした時代だった。

神戸一中の時にも春、夏2度甲子園に出たのだが、このときは、ベンチに入れないスタンド組だったが、中学、高校の6年間で、3回甲子園に出たチームにいたことになる。大学の野球部時代は神戸ニ中の先輩方がいっぱいいて、甲子園経験者はいっぱいいたのだが、そんなに際立って強くもなかったのは、ピッチャがよければ勝てるということかと思う。野手は大したことはないのである。

今とは、全然レベルが違うのだが、まだ私立校がメンバーを集めていなかったのかも知れない。

明石高校の時は、私の1年下ぐらいから、選手集めが始まって、姫路や飾磨あたりから、いっぱい入部してきた。

 

まだ、『名門明石』と言うことで、通っていた時代である。『名門明石』は昭和8年の中京―明石の25回戦で一躍有名になり、そのおかげで『名門』などと冠を付けられていたのだと思う。

ちなみに、私は昭和8年生まれだから、その後夏の甲子園には17年間も、出ていないのに、25回戦の印象が強烈だったのだと思う。

 

★確かに、そのころは強かったようである。楠本、中田という両エースがいて、記録を見ても完封ばかりである。やはり野球はピッチャーなのかもしれない。

私が明石の現役のころは、その25回戦当時の先輩がお元気なころで、横内さん、嘉藤さん、峯本さんなどしょっちゅうグランドに来られたし当時の野球部長竹山九一先生もずっと顔を出されて、野球の技術面よりもむしろ精神的に厳しい躾が身に付いたように思う。

兎に角、私の年次旧制中学最後の学年は、2年になっても下級生は入部してこないのである。中学1年から高校1年生までの4年間、『最下級生の補欠生活』を体験したのである。

小学校の頃までは、結構やんちゃで、ガキ大将だったのだが、この4年間で、『辛抱する』ことがホントに身に付いたのである。

今と違って、ボールは糸が切れたらもう一度縫い合わせていて、それが仕事みたいな野球部生活だった。授業中にもボールを縫っていたりした。

 

★あのころは暑くなかったのだろうか?

練習中は『水を飲むな』が当たり前だった。 水も飲まずに、夏は真っ暗になるまで、練習だった。まだ食料事情も悪く、栄養状態もダメだったのに、熱中症でなぜ倒れなかったのだろう。

高校1年生の年昭和24年は、確かサマータイム制であった。うす暗くボールが見えにくくなるころまで、ノック、暗くなってランニング、球場整備して着替えるころは、1年生は10時になっていたて、毎晩家で晩飯を食うのは12時近くになっていた。

昭和25年にサマータイムはなくなって、ほっとしたのである。

『水は飲むな』『肩が冷えるから泳ぐな』『練習は暗くなるまで』全く科学的ではなかったのである。

 

★兵庫県は、予選は西宮球場か甲子園球場で行われていたから、甲子園が特別な球場だともあまり思わなかった。甲子園の土など持って帰るなど考えもしなかった。

明石時代は、後援会組織がしっかりしていて、金もあったのか、夏の前の練習は、ずっと明石球場だった。

当時の明石球場は春にはジャイアンツがずっとキャンプに来ていた球場で、甲子園も明石球場も、広すぎて(と言っても今と同じだが)当時はラッキーゾーンがあったのである。今と違って木のバットだったからというより、技術的にダメで、ラッキーゾーンでもホームランは練習でもとても打てなかった。

ジャイアンツがキャンプに来ても、旧フェンス越えのホームランなど滅多に見られなかったのである。川上、千葉、別所、宇野などの時代、プロレスのジャイアント馬場がいた。

現役のころは金属バットも、ヘルメットもなかったから、ヘルメットはごく最近の大学のOB総会の時の野球で始めてかぶった。

ちなみに長嶋茂雄は2年後輩だから、たぶん彼の時代も大学ではヘルメットはなかったのではないだろうか?

そんな時代なのに、デッドボールをよけたら『怒られたり』した。

 

 ★60年経って、もう野球の質が全然違うのである。

まず基礎体力が違うし、バッテングも、守備のグローブさばきも、スタイリングも、スローィングも・・・今の選手と同じくらいのレベルで、間違いなく出来ると思うのは、『送りバント』ぐらいだろう。

そんな時代の野球だが、野球をしていてよかったな、とホントにそう思っている。

 

同時代のプロの選手で、試合をしたことがあるのは、

阪神の吉田義男さん、昨日も書いたが、甲子園出場後の豊岡市の招待試合で、京都山城高の3番を打っていた。

同じく阪神の小山投手、高砂高校で一つ下である。 高校の時は有名でもなかった。同じ地区だから当たっているだろうと思っているだけである。

確かタイガ―スには練習生か何かで入ったのではないか? 大学のリーグ戦が甲子園球場だったので、まだ2軍の頃の有名でない小山投手よく知っている。

野村さんも、3年ほど下だから・・・『おじん』だということである。

 

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78歳「イチロー」白球に懸ける想い、溝畑圭一郎

2011-07-22 04:58:23 | 発想$感想

★昨日突然、『溝』から電話があった。

久しぶり、昔の仲間、球友『溝畑圭一郎くん』からである。 

『 日経新聞電子版 の中の「ライフ 暮らしの知恵」と言うサイトがあって・・・・』と話しだしたのである。

 

同期の野球仲間だが、何故か野球だけは抜群に上手いのである。

運動神経があるのだから、ゴルフも上手いのかと思ったら、ゴルフは下手くそなので、『野球だけは』と言っているのだが、、

聞いてみると、要は、

日経新聞の電子版に、『78歳「イチロー」白球に懸ける想い』 と言う溝畑圭一郎の特集記事が出ているので、

『それを広報しろ』と言うことなのである。

ゴルフもダメだが、パソコンもダメらしいのである。

私が何となく、ブログなどやっているのは知っていて、それで電話してきたのである。

 

 ★早速ブログでアップしている。

7ページに亘る特集、流石である。

読んでみたが、これはなかなかのものである。 

出来れば、ページごとにご覧になって頂きたい。

私と同い年の彼は、まだ『グリーン神戸という』シニアソフトボールのチームの現役でまだ頑張っているのである。

日経の写真が使えないので、『グリーン神戸からの写真』を何枚か。

 

7ページに亘る特集記事の一つ一つである。

 纏めて『78歳「イチロー」白球に懸ける想い』 と名付けられている。

 ● ライトを守る4割打者

まず最初のページでは、勿論チーム最年長だが4割を超える打率で、チーム第3位だとか。元々ピッチャーなのだが、昔からよく打っていた。

実業団のエース、まさかの引退勧告

明石高校から神戸製鋼の野球部で活躍していたのだが、28歳でまさかの引退。個人の事情ではなくて会社の事情。

 ●冷める情熱、さまよい続けた30年

神戸製鋼の野球部を止めてからも、何処かでずっとやっていた。その当時は草野球でもみんな30歳前に辞めるのが当たり前のような時期だった。

● 新たな仲間と再出発 自主トレに熱

還暦の年から、新たに、ソフトボールをやりだしたらしい。

 ●いちずな夫、妻の思いはいつも空振り

奥さんとはお会いしたことはないが、溝の野球に振り回されたのは容易に想像できる。

頼れるベテラン、チームの宝

ただ、参加しているのではなくて、主力として頼られているのがいい。

野球こそ人生、きょうも現役

で締めくくられている。

 

★こんな球友の記事を紹介出来るのは、私にとっても自慢なのである。

確かに、今の78歳の『溝』もスゴイのだが、

10代や20代の高校時代や神戸製鋼のエース時代のパリパリの『溝』も、スゴかったのである。

左腕のピッチャーで、そんなに背丈は大きくもなく、剛速球を投げるわけではないのだが、兎に角点を取られないのである。

明石高の2年の夏は兵庫県で優勝して、夏の甲子園も経験しているが、

その予選では高校生では珍しい完全試合を達成している。 予選で完全試合の参考記録はあるのだが、みんな5回や7回のコールドゲームでのものが殆どで、9回フルイニングの完全試合は滅多にないのである。灘高を5-0で下してのパーフェクトゲームなのである。

高校を卒業してからも、明石のOB連中が内外ゴムなどのチームに雇われて、準硬球の野球で兵庫県野球で優勝などしているが、この時も溝がピッチャーをやってくれたからである。

今のプロ野球で言えば、ヤクルトの石川のようなピッチャーなのである。

神戸製鋼のエースとして10年ほど君臨したが、その時期ほとんど夏の後楽園の都市対抗の舞台を踏んでいる。 どこのチームが優勝しても、補強選手として選ばれて参加していたのである。

 

 ★昭和25年夏の甲子園の時の写真である。

3年生5人、2年生8人、1年生1人、当時は14人のチーム構成だった。(川重の方はご存じの方も多いと思う。後列一番右は1年大塚健哉君である)

3年生の中には後、ノンプロ日生の主力で活躍した西村さんや国賀さんなど全日本クラスの人もいた。鳴門には負けてしまったが、その鳴門が決勝戦まで駒を進めたのである。

当時のスポーツ紙では明石を買っていて、優勝戦は「瑞稜と明石か」などと予想されたりしたのである。当時は優勝戦まで最初から組み合わせは決まっていたのである。

翌年も兵庫県予選で準決勝で育英に負けたのだが、決勝戦で当たるであろう芦屋のことばかりを言っていた。 当時は育英よりは明石が名門であったし、負けるとは思わなかったのである。

芦屋は植村投手(2年生)がいて全国制覇を成し遂げたそんな年であった。(当時は公立が強かった。兵庫県では鳴尾、県高、兵庫など)

 

特にわれわれの3年の時のチームは、溝が点をあまりとられないから常に勝っていただけで、別にスター選手がいたわけでもない。

溝畑圭一郎一人で持っていたようなものである。 野球はピッチャーとはよく言ったものだと思っている。

ちなみに、昭和25年夏の甲子園には、タイガースの吉田義男さんが同じく2年生で京都山城高校から出場していて、夏の大会後、豊岡市の市制何周年記念の野球大会に招待されて、城崎温泉の超一流の西村屋に米子東、山城と一緒に泊めて頂いているのもいい思い出である。

 

★こんなことが書けるのも、『溝』のお陰だから、喜んでブログをアップさせていただいた。

彼はこのブログも自分では読めないので、娘さんに開けて貰って眺めるだけだそうである。

そんなことなのでこのブログはともかく、

ぜひ、日経の電子版 『ライフ 暮らしの知恵』の方もよろしく、お願いいたします。

 

残念ながら、上の14人のチームメ―トのうち、いま残っているのは7人だけである。

もうみんな、そんな年なのである。 こんな年で現役は、確かに特集される値打ちアリだと思う。

 

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NPO The Good Times 3年目順調発進 !

2011-07-21 05:11:11 | NPO The Good Times

NPO The Good Times というNPO法人を立ち上げて、2年を経過した。

今3年目の1ヶ月目を迎えている。

カワサキの昔の仲間と、三木で新しく知りあった仲間たちのコラボで立ち上げたのだが、その骨格は独りで創ったようなものである。 

NPO法人と言うのは、10人の会員がいないと成立しないのである。会員が10人から一人でも欠けた時点で消滅してしまうのである。

三木市のNPO講習会に人数集めで狩りだされて、初めは三木のNPOのたち上げを手伝う積りで講義を聞きに行ったのだが、急に自分で立ち上げる決心をしたのである。

『日本のNPOは数だけは、コンビニを追う勢いだが、アメリカのように、トヨタや川崎重工のような大きなNPOはない』と講師の先生は仰るのである。

例に出されたトヨタはともかく、川崎重工とはなぜ?と一瞬思ったが、あとで聞いてみると講師の先生は、神戸の川重本社ビルに入っている兵庫県の『ボランタリープラザ』から来られていたのである。

そんなことで、私自身は、

『トヨタや川崎と同じくらい大きくなる可能性のあるNPO法人を創ろう』 と思い立ったのである。

『トヨタより大きくなる』と言うことと  『トヨタより大きくなる可能性』とは、同じようで、ちょっと違う。

『可能性のあるシステム』なら創れる ととっさに判断したのである。

 

★そのために、

『インターネットのシステムを徹底的に利用すること』

『幾ら大きくしても、経費が大きくならないこと』

『ソフト、アタマで考える「ソフト会社の仕組みシステム」にすること』

『それを考える仲間と、大きくなってもきっちり抑える管理システムが出来ること』

『そして対象は、世界中の人たち=ネットの対象は常に世界の人たち』などの

●『トータルシステムが実現するか』  の1点で考えた。

 

決心をしたのは、

かって20年前に、ソフト会社を一緒にやってくれた『タッチャン』、(まだその時は現役だったが、)が一緒にやってくれると言うことと

30年ほど前に、カワサキの単車事業再建を一緒にやってくれた、今はお坊さんのjhojinさんが、監査役を引き受けてくれたからである。

そんなことで、12人ほどのカワサキと三木のメンバーとでスタートしたのである。

 

★2年が経過して、3年目はちょっと大きく、目標を『新しい公共』と掲げた。

このNPOの収入は、団体会員1万円、個人会員1000円の入会金以外一切ないのである。

そんなことでやっていけるのか?  それがイケルのである。月の経費が5000円しか掛らないのである。

この2年間で、個人会員だけでも3000人が入会して頂いた=これだけでも300万円である。

NPOは幾ら利益が溜まっても山分けなど出来ない「非営利活動法人」だから、余っても仕方がないので集めてくれた人に活動費として支援している『新しい公共』のようなシステムになっているのである。 去年も200万円ほど集めて、110万円ほど支援した実績で決算をした。

いろんな活動をなさっている方は、よくお分かりだと思うが、行政からの支援を受けたりするのは申請や報告が大変で、例え頂くお金が5万円であっても、手元に入るのは1年後と言うようなシステムである。

『どこ竹の竹とんぼを飛ばそう会』の時に5万円の支援を三木市に頂いた経験から、こんなシステムのNPOを考えたのである。 どんどん活動する方にはどんどん支援できるシステムなのである。

 

年会費を取らないと言うことは、管理の手数がなくなること、会員の数は減ることなく増え続けるのである。イチローのヒットでも積み重ねたら5000本になるのだから、百万人ぐらいは別に夢でもないのである。

そして、月5000円の経費でやれると言うことは、別に集まらなくても法人が潰れたりはしないのである。会員さんがよくシステムを理解されて上手に使われたらお互いどんどんよくなるのである。

 

★3年目に入って、末端の集める会員の目標を1000人から、2000人、5000人へと引き上げたのである。

 

(と同時に1000人でも多いと言われる方もいるので

300人(40%)、 500人(50%)、1000人(60%)、 2000人(70%)、5000人以上(80%)を1000円の個人入会金のうち支援すると言う規定にしたのである。

仮に300人=30万円集めると計画されたら、40%、12万円は支援しようというシステムなのである。  5000人=500万円、このレベルでは、80%、400万円支援である。 いずれの場合もカード代は、NPO本体が負担する。支払いは後払いなどではない相殺なのである。それも会員が集まった後の分割払いでOKというシステムである。

ただし、NPO The Good Times の団体会員であること、ただし事前に計画書を提出し、理事会の承認を受けることが必要なのである。)

 

特に、目途があったわけではないが、そうしたらそういう風が、この1ヶ月の間に続いて吹いてきたのである。

アメリカのロスでDANTHREE がソフト会社を立ち上げた。小さいけど法人だから、ちゃんと専門的にやらねばならない。まだ1ヶ月も経っていないが順調である。

関東の仲間たちのアメリカ進出のお手伝いも、絵の中に入っている。ロスの都ホテルも仲間入りのようである。

●同じ時期三木出身のご兄弟のshirokuro が入会された。 これもまたオモシロそうである。

●カバン屋さんは、ネットでアメリカのハーレーをかき集め、日本で売るシステムを兵庫メグロとの協働でスタートする。

みんなNPO The Good Times のシステムの中での動きである。

●関東では、これとは別に、大和屋嘉平さんを中心に雷神マッハさん、まっしまさんなどが、専任者を付けて『バイク関係のの何か』をやろうと言うことで動き始めている。動きが具体的になったら、関君にも・・・その他いっぱい仲間はいる。

 

こんなにちょっと動きが大きくなっても、

NPO The Good Times の通常経費は5000円で、

一切変わらないのが自慢のシステム、ネットのよさなのである。

 

★そんな動きに、今年も何とかオモシロくなりそうだと思っていたら、一昨日の夜、

『放射能ウオッチャー』という団体が、突然参加されたのである。

将来、NPO法人も設立されようとしているグループで、責任者の岩田さんと電話で話をしたのだが、なかなかスケールが大きくていい。

ウオッチャーの数はまだ少ないが、近い将来1万人、出来れば10万人ということも言っっておられた。

 

 

 『放射能ウオッチャー』 こんな ホームページで、スタートしたばかり、

Facebook  も ツイッターも みんな出来たてのホヤホヤである。

そんな時期に、NPO The Good Times に参加頂いたのは、非常に嬉しいことである。

 放射能ウオッチャー

R_Watchers  放射能ウオッチャーのサイトを公開しました!日本各地の放射線を測定して頂ける会員様募集中です!宜しくお願い致します。┏○ペコッ radiationwatchers.org
ゆいまあるダーマホワイトたこりこじろーtamamiEmi ShimadaARTNOWSTOMMY#138くみs.makotoぽぽM水曜日の隊長営業出身のディレクター管 公平喜助
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フォロワー16万人の公式ツイッターでリツイートしたら、途端に、20人もの人がリツイートするのは、『原発、放射能』への関心の高さと情報発信力だろう。

 

NPO The Good Times は、『システムそのもの』なのである。

上手に使われる方は、どんどんよくなる。 見逃してしまう方には『グッドタイムは』逃げてしまうのである。

どんな大きなところでも、システムは同じように、使えるのは、ツイッターでもブログでも同じである。

天下のトヨタだからと言って特別扱いはしないところが、ネットシステムのいいところだと思っている。

 

『異種、異質、異地域をみんな繋いで楽しい時を過ごそう』 が基本コンセプトなのである。

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なでしこジャパンの快挙と 国会審議

2011-07-20 04:58:33 | 発想$感想

★この一両日、『なでしこjジャパンの世界一』の快挙に湧いた。

もう一つのブログでは、二日続けて、なでしこジャパンを取り上げた

 

 

澤穂希の神がガリのような同点シュートも凄かったし、

 海堀のセーブも素晴らしかった。

そしてこの写真の彼女たちの表情からは、『やり遂げた達成感』が自然に伝わってくる。

 

 

 

 

 一夜明けて、

成田空港での凱旋は、大勢のフアンが出迎えて、

『なでしこ凱旋 写真で見る』 と20枚近くの。写真が用意されている

いい写真ばっかり、が揃っているので、ぜひご覧になってみて下さい。

 

 

 

その中には、総理官邸に菅総理に報告に訪れた選手たちの写真もある。

菅さんの久しぶりの笑顔を見たような気がする。

 

★『なでしこジャパンパン』は、テレビでも、新聞でも、日本国中を明るくした話題であった。

昨日は、国会の衆議院予算委員会の審議状況のテレビ実況があったので、それを見ていた。

質問者は、野党が殆どで、政府を追及する姿勢であることは当然である。

然し、どうもテレビ中継のある日は特別なのだろうか?

 政府の政策や対応を追求すると言うよりも、テレビを見ている国民に対して自らを売っているような、選挙対策のような質疑のやり方のように思えてならないのである。必要以上に大袈裟な表現で勇ましく追及し、答弁する方は、言質を取られないように簡単に応える。

普通一般の、議論とはちょっとかけ離れた、不思議な議論になっている。

 

全般を通じての印象は、やはり民主党、菅さんの総理の民主党では、ダメなのかなと思ってしまっている。

昨年までは、私自身も自民党に飽き飽きして、民主党に期待していたのだが、今となっては、まだ自民党の方が、マシだったのかと思ってしまったりする。

今回の東日本大震災の対応は、どう考えても、遅すぎるし、国としてのリーダーシップが発揮されていない。

 

東日本対策は、一種の戦争なのである。 

普通の政治課題には対応できたのかも知れぬが、今の姿勢は戦う体をなしていない。

 

★ワールドカップを戦って、『なでしこジャパン』は、見事に世界一の栄冠を勝ちとって凱旋した。

今の政府に、あるいは野党にも、『なでしこジャパン』のような一途さが感じられないのである。

国会議員は、国をどうするかを国民は付託したのである。

今は国難の時期である。

民主党も、自民党も、東日本の国民のために、自らを捨ててがんばると言う姿勢を見せて欲しいものである。

『どうすれば、東日本の人たちのために力になれるのか』 その1点に絞って、もっと前向きな議論が出来ないのか?

政府を困らせて見ても、現地の人たちは喜んだりはしないのである。

 

★福島の牛の問題一つにしても、誰か独りで旗を振っていれば、対応できたのではないかと思う。

独裁的でもいい、タテ型の諸官庁の枠を超えて、誰かが独りで考え続けたら、避けられた問題だったと思う。

今のような、みんなが力を合わせて頑張るではダメだろう。

 

今回は阪神大震災とは、全く異なる。

『福島原発問題対策』 と 『地震被害復興』をきっちり分けて、対策しないからどちらもおかしくなっているように思えてならない。

二つの戦争が存在しているのだから、一つづつ専門的にやるべきだ。

より難しく、より独裁的な権限が要るのは『福島原発問題』で、なぜ責任者として総理が旗を振らなかったのだろうか?

サッカーとラグビーのワールドカップを、混成チームで戦っているような感じなのである。

より難しい問題は、一番権限がある人が自ら担当すべき問題だと思う。

地震被害復旧対策は、極端に言えば、現地に任して、その金は『100%国が負担する』と言えば、もっと早く片づくのではと思う。

今必要なのは国の『認可権からの解放』が一番だと思われる。

国か、地方かは、別にして、どちらがやっても金は掛るのである。

 

肉は国産の黒毛和牛と言っていたが、そのうちアメリカ産やオ―ストラリア産なら安心と言う時代になってしまうのは残念なことである。

 

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雑感

2011-07-19 05:19:48 | 発想$感想

★このブログのタイトルが『雑感日記』です。

日々の出来事の、それ自体よりはそれに対する私自身の想いを書き連ねているのですが、

このところ、身の回りにいろんな出来事が起こって、なかなか、気ぜわしいと言うか、何から手をつけようかと結構忙しいのです。  

と言っても、別にそれをしなければならないと言う、義務もも責任もないのですが、・・・・

 

★何はともあれ、『なでしこジャパン世界一』は嬉しいニュースです。

こんな写真や、ブログをアップできるだけで幸せです。

彼女たちの顔、 物事を達成した時の満足感に溢れています。

こんな顔、経験は幾度かありますが、。 今後一度でもいい、経験してみたいものだと思っています。

 

『達成感』  これは一番だと思っています。

『想いのある人』にだけ、神様が与えて下さる『贈りもの』だと思っています。

 

★人の人生、いろいろと転機があります。

大きい出来事も、小さな出来事も、ちゃんと確りととらえて、ちゃんと適応するのと『いい加減』にするのとでは、その先『天と地の開き』が出ると思っています。

『小さなこと』でも見逃さずに、対応すれば間違いなく、花開くのですが・・・・

私の周りで、いろいろとそんな『転機=チャンス』を迎えた人たちが、何故かこのところいっぱいいます。

私自身の『転機』にもなるかも知れないので、確り対応してみようと思っています。

 

 

 古谷錬太郎

rfuruya1  78才にもなって、人生もほぼ終り、『自分史』でも書くかと始めたのだが、今からまた『新しい自分史』が書けるかも知れない。最近そんな動きでオモシロイ。http://rfuruya2.exblog.jp/16608564/
SadamiRyooooooootaはっぴいえんどプロジェクトEMI YOSHIDAvivitora

 

昨日、ツイッターでこんなことを呟いきました。 別に自分で先頭を走っているのではないのですが、私の周辺が騒がしいのです。

いろいろ、一度に沢山動き出しました。  どんなことになるのでしょうか?

ただ、みんなNPO The Good Times 関連なのです。

 

● まずは、アメリカカリフォルニアのDANTHREE.    NPO 関連の『ネットソフト会社』を立ち上げました。

 

 既に、ツイッターは立ち上げたばかりですが、既に2000の壁はクリアしました。今そのホームページの制作に着手しています。まっしまさんが担当してくれました。 DANTHREEファンクラブの会員カードはもう出来ましたし、アメリカでの体制はどんどん整備されるでしょう。日本側でもNPOの仲間たちとの協働作業がもう始まっています。

大和屋嘉平さん雷神マッハさんまっしまさん、、それにDENICOさんたちと、国際化も、国内の対策も、新しくより積極的に立ち上げようとしています。来月6日は東京でお会いすることになっています。

●カバン屋さんが、『ハーレーをやる』ことになりました。 兵庫メグロがハ―レ―の名門だったなどとは、知りませんでしたが、兵庫メグロも協働ですし、ネット関連では、bunCさんが協力して、そのFacebook も、ハ―レ―のブログも、新しく立ち上がっています。

それに呼応して、兵庫メグロのFacebookも、ブログも。ツイッターも動き出しました。

 

●『ぼっけもんの修さん』と言うNPOの会員さんがいます。 

神戸フルーツフラワーパークでお世話になった神戸市の職員さんですが、この4月から、新しい職場で頑張っておられます。 

東日本大震災以来、止まっていたブログ、『てげてげ日記』が再開さました

ハーレーにもお乗りなので、再開のブログのスタートには、「ハーレーのこと」、「カバン屋さんのハ―レのこと、『私の雑感日記の「自分史」のこと』などが書かれていますが、

私が一番注目したのは、

『そんな、自分のできる取組みの第1段階が無事おわり、次のステップに入りました。日の目を見るのは9月でしょう。また後日書きますが、面白い仕組みです、ご覧いただいている方々、またご協力お願いします。』 というくだりです。

『ご覧頂いている方々』の一人として、『オモシロイ仕組み』に注目したいと思っています。

 

●アメリカも、関東も、神戸でも動きはあるのですが、地元三木でも何か動くかも知れません。

e-音楽@みき は順調ですし、

新しく『shirokuro』 と 『h-music』 

の伊藤英寿、伊藤智寿のご兄弟に出会いました。20代の青年ですからまた元気が貰えるかも知れまん。

明日は、ブルボンビーンズドームのヘッドコーチの山本和希さんが、NPO The Good Times の仲間入りをされると言うので会いに行きます。

 

●入会と言えば、近く『放射能ウオッチャー』というこんな組織が、参加されるかも知れません。

 

『異種、異質、異地域をみんな繋いで楽しい時を過ごそう』

そんな動きに、なりつつあります。

みんな上手くいけばいいなと思っています。

 

 

★NPO  The Good Times のホ―ムページです。(会員さんの のブログもツイッターもFacebookも見られます)

★Facebookのファンページです。

 

 

 

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みっきぃふるさとふれあい公園

2011-07-18 04:48:06 | みっきぃふるさとふれあい公園

★このブログには 『みっきぃふるさとふれあい公園』と言うカテゴリーがあって、

私の住んでいる三木のまちのいいところを広報しようと思って、頑張っています。

三木は本当に『適度にいいまち』だと思っています。

 

物事、『適度にいい』と言うのが一番いいと思っています。。

8万人ちょっとという人口もいいし、

自然の環境も、山も川も、湖も、田んぼもあるし、

伝統の酒米、山田錦も、食用イチゴも、

伝統の神社仏閣も、最も先進的なブルボンビーンズドームも、

西日本で一番多いと言われるゴルフ場は25もあって、毎年プロのゴルフトーナメントは幾つか見られるし、昔からの伝統のお祭りも、いっぱいです。

 

不思議なほど、三木が好きだとか、三木に一生住みますとか、公に宣言する人が多いのも特徴的です

兎に角、いいまちなのです。

 

★そんな三木のまちを、『ホントにこの人、市の職員なのか?』 と思うほどの熱心さで、

ブログde みっきぃ』 と言う 三木市の広報の公式ブログを、発信し続けているのが JJさんです。。

 

そのJJさんに、ツイッターをお誘いしていたのですが、

つい先日、個人の資格で参加されました。

ブログde みっきぃ をリンクされることが多いので、極力『リツイート』するようにしたいと思っています。

『リツイート』するのは、NPO The Good Times の会員さんの中からの『ツイート』の中から選んでいます

JJさんは、NPO The Good Times のスタート時点からの個人会員さんで、いろいろお世話になっています。

 みっきぃ

mikkyj  400種類の蓮の花を育てている善祥寺(兵庫県三木市口吉川町善祥寺)の蓮が見ごろをむかえています。7月17日(日)、はすまつりが開催されます。観蓮会:早朝~午前中(自由散策)、花供養:午前10時~、ハス茶・象鼻杯の接待もあります。 oniwabann.exblog.jp/14102049/
のん紅杏フィリエ返事がない屍の楊だ@クロスロード/く15はるかかじゅまるソフィア鏑木・T・桜花@本気dietなう志村 俊朗kaz古谷錬太郎

 

★昨日の呟きをリツイートしたら、沢山の方が、さらに『リツイート』されました。

情報の質の高さがうかがわれます。

ブログの内容も、写真も素晴らしいので、写真だけ以下に並べてみます。

文章の方はブログで、どうぞ

 

 

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南鮮合同電気の検索で、祖父の写真に初めて出会った

2011-07-17 09:58:35 | 自分史

★東京電力も、関西電力もそして九州電力も、昨今どうもそのイメージはよろしくない。

利権企業の性格丸出しで、電力と言う公共性の強い商品を扱っているのだから、その社会的責任はより高いものを求められるべきである。

原発の利権にしがみつく様は、少々みっともないと思ってしまうのである。

電力会社はケシカランと思う反面、私自身電力会社には、少しだけだが関係はあるのである。

 

昨日は暇にまかせて、『南鮮合同電気』を検索してみたら、こんなサイトが現れた

古谷修一と言う伯父の名前も載っていたし、

太田電気と言う会社の名前も出ていて、

私は、会ったこともない『おじいさんの写真』も載っていたのである。

兵庫県 明石水力電気の重役だった古谷虎雄は
渡鮮してすぐ忠清南道の江景で江景電気株式会社
(創設:西島寅吉)の設立に動きました。

江景電気の社長になった古谷虎雄は忠清道の中心
都市である大田の将来が有望であると考え大田電気
会社の株を買い取り、大正9年 社長に就任しました。

 

江景電気はその後 南朝鮮電気に譲渡

大正13年 社長の古谷虎雄が亡くなると息子の
古谷脩一が後を継ぎました。

本社:大田府本町2丁目
写真:大田電気沿革史から

 

と書かれていた。

明石で電気会社をやっていたことは聞いていたが、その名前が『明石水力電気』だったことも初めて知ったし、

『江景電気』なども初めて聞く名前である。

大体、祖父の写真を見たのは、初めてである。銅像ではずっと見ていたので、大体面影は解っていたが、写真を見るのも初めてだし、

大正13年に亡くなったと言うことを知ったのも初めてである。そんなことをまさかネットの検索で解るとは思いもよらなかった。

 

★さらに、こんな記述に続いていた。

『新社長を専務:川島由三郎、常務:青柳八百造、支配人:竹内清次郎が支えて大田電気は順調に発展していきました。

昭和12年 戦時体制をつくり、電気事業を統制するため朝鮮総督府は南朝鮮のすべての会社の合併を命じました。 大田電気株式会社と傍系の電気会社はすべて 南鮮合同電気株式会社に吸収され消えることになりました。 』

聞いていた話では、祖父がなくなった時、伯父も、父も早稲田の学生か卒業したばかりで、番頭さんたちが会社を支えたのだと、ここに名前のある川島さんも、青柳さんも、私は知らないのだが、支配人の竹内清次郎さんは太田で直ぐ隣の社宅に住んでおられたし、コドモだったがよく覚えているのである。

 

★このブログで自分史を書き始めたのは昨年のことだが、

その最初のころ、何回目に、

私の人生川の中で始まった?』と言う私の4歳ぐらいの想い出、竹内さんのお兄ちゃんと一緒に川の中で魚を追っかけていたことから、人生の記憶は始まっている。

● 私の記憶で一番旧く一番鮮明に覚えているのは、
『私の人生の始まり』とも言える記憶は、
今の韓国のちょうど真ん中辺りに位置する、『大田の川の中』から始まっている。

お隣の竹内さんのお兄ちゃんと、家の直ぐ近くの川の中にいた。
鯉か鮒か、何かよく解らぬが魚を捕ったのか、捕ってもらったのか?

と書きだしている。

 

その竹内さんのお兄ちゃんが、番頭さん竹内さんの息子さんで、阪大の教授になられたと言うことは、伯母などから聞いて知っていたのだが、そのごお会いしたこともない。

人生で1回、太田の川の中に一緒にいただけだが、想い出だけは鮮明なのである。

こんな記述も見つかったので、間違いなく阪大の教授になられているのである。   そして・・・

 

望郷の韓国大田(テジョン)・・・・・と言うサイトに、大久保 舜司さんが、

『…電力会社の重役であった竹内さんと言う方の息子さんが、阪大天体物理学の教授となり奥様に京都の任天堂の社長の娘さんを迎えられたのですが・・・・・などの記述も見つかったのである。 

 

昨今のネットの検索は、ホントにスゴイと思う。

●(実は最初の自分史を書いた時に『太田電気』が検索で出てますよ、とわざわざ教えてくれたのは、東京の大和屋嘉平さんなのである。昨日たまたま、そのメールを見つけて、一度調べてみるかと、検索をしてみたのである。大和屋嘉平さん有難うございました。)

 

★小学校に入る前に、何故か太田から京城(今のソウル)に移っている。

昭和12年に総督府の命により『南鮮合同電気』に合併になって、その本社が京城にあったこともその理由かも知れぬが、母方の実家がやはり朝鮮で事業をしていてその事務所が京城にあったからかも知れない。

ただ、父は南鮮合同の株ぐらいは持っていたのかも知れぬが、直接は関係ないし、特に何処かに勤めたりしていたわけでもない。家で絵を書いたりしていたが、母方の事業を手伝ったりしていたのかも知れない。

伯父は、南鮮合同電気の副社長をしていて、定位置は明石だったのだが、年に何度も京城には来ていた。子供がいなかったので馬鹿みたいに私を可愛がってくれた。新聞に自分の人事往来の記事が出ているだろうと、小学生の私に自慢で見せたりしていた。

記録を見ても、株は沢山持っていて、『これはお前にやる』が口癖だったのである。

 

 

★その南鮮合同電気の株券の写真も見つかったから、ホントに驚きである。

終戦後、会社がどうなってしまったのか?株がどのように処置されたのかは知らぬが、

『株券とは紙屑になるもの』と言う印象が、抜けきらずにずっと株などには近づかなかったのである。

 

『南鮮合同電気株式会社』 朝鮮では一番の電力会社だったし、ひょっとしたら日本でも大きかったのかも知れぬ。確かガスも扱っていたはずである。

そんなことで、海流発電のノヴァエネルギーの広報のお手伝いを、やりだしたころも、

『電力には、ご縁があるのかな?』と思ったりしたのだが、、

そのころにも、電力会社の原発一筋、『要らぬことは言ううな』のスタンスを見て、

『これはダメだな』と思ったりしたのである。』

最近は、大会社の社長さんだと言っても、サラリーマンからの出世で、ご自身で事業を立ち上げたわけでもない。

そう言う意味では、明治生まれの人たちは、みんな事業家なのである。

伯父はともかく、『おじいちゃんは偉かった』らしい。 生前伯母がしょっちゅうそんなことを言っていた。

 

ひょんなことから、昨日は、写真の『おじいちゃん』にも初めて会えたし、

『南鮮合同電気の幻の株券』にもお目に掛ったのである。

太田で隣に住んでおられた、竹内さんのお兄ちゃん、元気にしておられるのだろうか?

 

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