雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

川崎重工業 雑感

2015-06-30 06:42:32 | カワサキワールド

★ご存じの方も多いが、私は川崎重工業に40年以上お世話になった。 故郷みたいな会社である。

その川重が、このところ非常に調子がいいようである。私が現役時代はそんなにいい経営状況でもなかったし、むしろ苦しい時代も長かったような気がする。

 

つい先日、神戸ベンチャー研究会に出席したら、神戸市の課長さんがスピーカーを務められて、医療関連での川重のロボット技術が素晴らしいと、お褒め頂いたこともあって、あとの立食パーテイーでは川崎重工の技術水準の話になって、『三菱や石播に比べて川重の技術水準が一番だ』と仰るのである。技術オンチの私としては、本当のところよく解ってはいないのだが、仰ってる方が大学の先生や技術がよく解っている方たちの会話だったのだが、悪い気はしなかったのである。

その理由が、本当にそうなのかどうか、川重は各部門間の技術交流というか技術移転が現実に行われていて、それがないタテ型の三菱や石播との差だとか、技術屋さんが自由な発想をしているなどと仰るのである。

私は、この件は聞き役だったが、ひょっとしたら『最近は』そうなったのかも知れないと思ったりした

 

★ちょうど決算期で『かわさき』の社内報は、前期の決算内容の解説をしていた。

 

 

  

 

 

確かに売上高も経常利益なども過去最高を連続して記録している。

バランスシート重視の ROIC などという管理方式を現実に取り入れて、単なる売上高や利益の伸びだけではなくて、質的に大きな向上をみているのである。

30年ほど前の二輪事業が危機的状態で、本体の川重も無配に陥った時代のことを良く知っている私としては、こんなに川重の経営がよくなったのは、極端に、誤解を恐れずに言ってしまうと、『二輪事業のソフト・ノウハウ』が川崎重工業の中に取り入れられたからだと私自身は思っている。

 

それを具体的に列挙すると

●二輪事業も危機的で、川重も無配になったその時期に再建屋として来られた大庭浩さんが、単車事業をよく理解され愛情を持たれて再建の実績と同時に、二輪事業のソフト・ノウハウを 、次期社長含みの副社長として川重本社に持ち帰られたことである

●当時、単車が再建されたのちも大きな問題事業であった建機と車両の両部門を再建したのは単車のメンバーがそのトップに立ち多くの人材が建機と車両の再建を実現したのである。

●そんな実績が、単車からまず高橋鉄郎副社長が実現して、大庭社長を支えたし、その後単車から田崎雅元社長、佐伯副社長コンビが生まれたりしたのである。

●単車流のやり方は、従来の川重スタイルとは完全に差別化されていて、その方向が必ずしもみんなに受け入れられたとも思わないが、現実に川崎重工業の財務体質がよくなったのは、田崎社長のころなのである。彼は技術屋さんだが、アメリカのKMCを担当したりしていて、資金繰りもバランスシートも、営業外損益の重要性を事務屋以上によく理解していて、『柔工業』だとか『質重視』の経営を川崎重工業の中で初めて取り入れたのである。

●そのあと他事業部の社長さんが続いたが、前期あたりの川重の経営の仕組み、例えば、ROIC 経営などの仕組みを創ったのは、30年前の二輪の危機時代にアメリカのKMCに出向して、悪い時の現場を経験した松岡京平副社長と本社企画を担当していた富田くんなど、今までの川重のトップにはいなかった事務屋の人たちが経営体質を改善したと云っていいと思っている。

 

★それはともかく三菱との比較が出ている。

 

   

 

 ROICでの比較では、川重が三菱や石播を圧倒しているのである。

ここに書かれていることの本質は、多分技術屋さんにはお分かりにならないと思うが、事業経営を引っ張るのは技術力だけではないのだとも思っている。

 

 

   

 

 そしてこれが、事業部別損益だが、川崎重工業は昭和44年(1969)に川崎重工業、川崎車両、川崎航空機の3社が合併して現在の川崎重工業になったのだが、合併以降の10年間をは支えたのは、独り『造船部門』だったのである。 造船の利益がなければ、二輪事業も、車両も今あるかどうかは疑問である。

然しそれから40年以上も経って、今川崎重工を支えているのは、当時の川崎航空機の事業であることは、川崎航空機出身とすれば非常にうれしいことである。

ご存じだとは思うが、今大きな比重のガスタービンは、あのZIの開発責任者の大槻幸雄さんがいなければ、多分川重の中で事業として育っていないのだろう。

 

この項のトップに紹介した、『ロボット事業』も川崎航空機の明石工場から生まれている。

昭和32年、私が入社したその時にはすでにロボットの開発研究はスタートしていた。ひょっとしたら日本初だったのかも知れないのである。

当時の川崎航空機は戦後軍事産業ということで昭和27年までの中断があって、航空機のエンジン工場であった明石工場の技術屋さんは、発動機や二輪のエンジンやその部品の歯車製造などを主力の事業展開であった。

幾らかでも先進的な発想になったのは当時米軍のジェットエンジンのオーバーホールをやっていて、その生産管理方式はすべてアメリカ的であり、IBM室があったり、その部屋はエアーコンがあったりしたのである。ちなみに日本にIBMが普及したのはオリンピック後、このころから10年もあとの話なのである。当時は日本にIBM社すら、なかった時代である。

そのジェット部門から多くの人たちがカワサキの二輪部門にやってきたので、最初から単車の生産管理方式は、アメリカ的だったのである。高橋鉄郎さんも、田崎雅元さんも、伝説の人田村一郎さんもみんなジェットからやってきたのである。

そんな環境から育った人たちが多かったので、二輪部門出身者のの発想はちょっと変わっていたのかも知れない。

それは今、なんとなく川崎重工業の中枢の経営に受け継がれているような気がするのである

 

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私と携帯電話

2015-06-29 06:30:20 | 発想$感想

★携帯電話なるものが普及しだしたのは1980年代の後半ではなかろうか?

Wikipedia には、こんな記述が載っている。

1990年代になると普及が進み、本体に液晶ディスプレイが搭載され始めた。1990年代半ばには通信方式がアナログからデジタルへと移行し、着信音に好みの音楽が設定できる着信メロディや、ポケットベルと連帯したメッセージサービスを利用できるようになった。

 

私の周りで一番最初に携帯を持ってたのは、藤田孝明くんで、確か1980年代後半のことである。彼以外には誰も持っていなかったと記憶している。

それが10年後の1990年後半には、周りのほとんどの人が持っているようになった。私自身は、現役時代は徹底したアナログに徹して携帯も、パソコンすらも一切触ることなく2000年に現役生活を終わったのである

その最終の2年間は北海道川重建機にいて、携帯を持ってほしいと言われていたのだが、持つことを断って現役生活を終了したのである。

なぜ?

と言われても困るが、会社の仕事で携帯電話を持ち歩かないと困るような緊急事態などないと思っていたし、当時周囲で携帯で話している内容を聞いていると、大した話ではなくて、極端にいえば仕事をデイスターブさせているだけである。

そんな発想は、今も変わっていなくて、携帯は持ってはいるが持ち歩かない、家の電話はいつも『留守電の状態』になっている。自分が電話に出てもいい時だけ、電話に出ることにしているのである。それで十分事足りていて問題など一切起こらないのである。

 

★今私は、下のようなスマートフォンなるものを持っている。

然し、殆ど使ったこともないし、この電話番号を知っている人は息子と娘家族だけで、これを使うのは東京に行ったときの空港での息子との待ち合わせ連絡ぐらいで年に5回も使ったりはしないのである。

では、なぜこんなものを持っているのか?

以前、息子の嫁のノンちゃんが、母の日だったかのプレゼントで、ドコモの携帯電話を家内に贈ってくれて携帯はあったのだがその時も私も家内もほとんど使ったことがなかったのである。

2年前アメリカの娘の長男が、日本の大学の入学試験の受験のため戻ってきて、東京近郊の地図が解るスマートフォンが欲しいというのである。

それを購入するためにはドコモからauに乗り換えることが安く買える条件だったのである。

ただし購入してから、2年間という限度があって、ぼちぼちその期限が近づくので、昨日はその対策をしていたのである。

 

          

対策の方向は、auから、他社へ乗り換えることが、やはり一番いいようで、『ドコモに乗り換える』ことにしたのである。

 下の動画は、そのために訪れた au と ドコモの様子である。

 

 

 ● 新しいドコモのスマホにする

 ● ドコモのガラ携 にする

 ● 携帯をやめる

 

の3つの選択肢があったのだが、結果は真ん中の『ドコモのガラ携』にした。

これで携帯は元通り家内の管理になる。 もともと母の日のプレゼントで我が家に携帯が出現したのだから、その原点に戻るのが一番いい。

こうすることによって毎月5000円ほど掛かっていたのが1500円ぐらいになるのである。

どうせ電話としては使うことは少ないので、今後スマートフォンも、ガラ携も カメラ機能が一番クローズアップするのではなかろうか?

7月1日、明日新しい契約にドコモを訪れることになる。一件落着なのである。

 

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ポジティブ 雑感

2015-06-28 05:16:44 | 発想$感想

 

ちょっと以前のことだが、『ポジティブ入門Sky is the limit!!』  http://jinjinjinjinjinjin.blog.fc2.com/blog-entry-1.html

というブログを孫の 古谷仁 が書いている。

ポジティブは解ったが、Sky is the limit とは何のことかと検索してみたら

 

Sky is the limit」とは、空には制限が無いことから、 『制限なしだ』ということですが、もっとわかり易く訳すと、 『可能性は無限だ』)という意味です。 限界や制限というは、人間が、自分自身の心の中で勝手に決めてしまうものです。 可能性というの ...

ということらしい。

孫が、なぜこんなことを書いたのか、聞いてみたいとは思っているのだが、まだ実際には聞いてはいない。

彼は『ポジティブ』なのかどうか、それすらよく解ってはいないのだが、下の文章を読む限り『ポジティブ』に生きようと思っていることだけは確かである。

振り返ってみて、私自身は間違いなく『ポジティブ思考』である。

私の場合は、努力など一切していないし『マイナス思考』など元々、考えられないのである

これは努力ではなくて性格なのだと思う。

ある時会社でやった性格テストで、『反省をしない』と出て自分でもびっくりしたが、確かに『反省』などしたことはないのである。

そんな性格が、どんな場合でも『いいように考え』『いい加減』に過ごしてしまえるのだと思う。大体『大変だ』と思ったことがない。世の中に『大変なこと』など殆どないと思っている。

それをみんな『大変だ』と云いたがるのだと思っている。

孫が書いてる『ポジティブ論』 オモシロかったが、努力してそれを求めるのは難しいのかも知れない。

一見、『いい加減には見えない』『なんでも反省する』ようにも見えるが、私のDNAも幾らかでも入っているので『ポジティブ』なのかも知れない。

そんな感想も添えて、『ポジティブ入門Sky is the limit!!』 を読んでやってください。

入門』と書いてあるから、根っからの『ポジティブ』ではないのかも・・・・

 

 

 

「ポジティブ入門 Sky is the limit!!」

■ポジティブの普及
現代の日本において(世界も相当すると思うが)、ポジティブという言葉や考えが存在し目立つようになっています。これは、経済不安による失業者の増大や新卒就職先の削減による自殺者数の増大などが1つの背景でありましょう。そこでポジティブという概念を用いて、人は前向きに歩こうとするのです。
しかし、僕の意見なのですが、ポジティブというスキルは単なる考え方を変えるという意識では育ちません。ポジティブという考えを都合の良い時に用いる、というような間違った使い方をしている人が多いと思います。では、ポジティブという考え方はどういうものなのでしょう。僕の考えを述べていこうと思います。

■ポジティブな人とは
1. プラスの方向の反応
2. (病気などの発症・汚染の状況などにおける)検出結果としての陽性反応。。
3. 写真でいう「陽画」(一般的に我々が見る、明るさと暗さが現実のそれと一致している画像)⇔ネガティブ
4. 考えや態度が「前向き」であること
などと辞書には、書かれています。ここでいうポジティブは1や4でしょうか。僕の意見も同じです。物事を「-」に見るのではなく、「+」に見るということだと思います。別名、プラス思考とも言われることがあります。プラス思考 (プラスしこう)とは、物事を肯定的な方向に傾斜した考え方を行う傾向のこと。

トランプにも表裏があるように、全ての物事にも基本的に2つの側面があるのです。たとえば、テストで0点をとってしまった。そこであと100点分自分は伸びるのだ、と考えるスキル(つまりポジティブパワー)が身についていて、実践することができれば、この人はポジティブと言えます。一方で0点をとってしまって、「親に叱られる」「自分は出来の悪い人間」としか考えられない人は、ポジティブではないでしょう。すなわち、1つの自分の出来事に関して、2つの側面を理解し、「+」の方を選択するまたは作り出すスキルがあれば、ポジティブ人なのだと思います。

Happiness.jpg

■真なるポジティブ 
現実的に世間でしばしば目に見かけるのは、このようなポジティブパワーを一時的に使おうとする人であるわけです。しかしながら、一時的な「ポジティブ」は真なるポジティブではないと僕は思うわけです。なぜなら、ポジティブというのは一時的な力ではなく、普遍的な力であるからです。「あぁ~雨が降っている…。鬱だ。」と発言している人が、次の日に「暑-い!けど夏日和でルンルンだぜ!」と発言しても決してポジティブ力があると断言はできません。一時的ではなく、いつでもどこでもいかなる場合でも「-」を「+」に変えることのできる人がポジティブな人だと僕は思います。もちろんここでの、「いつでもどこでもいかなる場合」というのは、気分が楽観的な際に加えて、ムードは最悪で辛く悲しみに暮れている際も含みます。

■ポジティブ力養成とその効果
単に考え方を変えるだけではポジティブ力は増大しません。経験と努力によってのみポジティブになれるのです。たしかに、物事の見方を変えるという思考回路は重要です。しかし、平時の状況だけでなく、最悪な危機的な状況でも物事の見方を「+」に変える力を養成するには、そのような思考回路だけではなく、十分な経験と努力が必要不可欠なのであります。
 
つまり、ポジティブ力という概念は意識をして生きていくことで成長していくものであり、上限のないパワーなのです。都合よくポジティブに生きようとするから、本当に辛い時にポジティブになれず、メンタル的に弱くなるのだと思います。社会問題である、若者を含める自殺者の増大は世界・日本経済も一因ではありますが、以上のようなポジティブ力を養成できない教育も遠因ともいえるでしょう。ポジティブ力を養成するこにより、日本社会・世界全体が良い方向に発展すると僕は考えているわけであります。

 以上の議論は、僕の思うポジティブの概念です。このブログでは、大学における様々な生活や友人、社会問題、大学受験とポジティブを絡めて僕なりに考えて、語っていこうと思います。
一時的に友達との遊びの内容が連続したり、大学受験に関することなどが連続したり、長い期間放置状態になる時期もありますが、よろしくお願いします。
Sky is the limit!
 
 
 
彼のブログです。 
  http://jinjinjinjinjinjin.blog.fc2.com/
 
 
  
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私のツイッター 雑感

2015-06-27 07:49:05 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram

★ツイッターを始めたのが2009年12月だから、それから6年半

『フォロワーを増やそう』と思い立ったのが、確か2010年の5月ごろだったから、それから丁度6年になる

私個人のためにやっているのではなく、NPO The Good Times の情報発信力の向上のために毎日努力してここまで来た。

昨日現在の フォロワーはちょうど484000人になった。 50万人まではぜひ頑張ってみたいと思っているのである。

     https://twitter.com/rfuruya1

ツイッターの情報発信力はたった140字だが、英語ならともかく日本語の140字は結構な内容になるし、リンクも貼れるし、写真動画も紹介できるから、使い方を工夫すれば なかなかの情報発信のツールなのである。

自分の発信する情報のほかに、人の呟きでも『リツイート』することにより、その人のフォロワーの数に関係なく、私が『リツイート』すれば、それは48万人に向かって情報発信されるのである。

そんなことで、もっぱらNPOの会員さんのツイートの「リツイート」も毎日行っている NPO The Good Times の公式ツイッターと位置付けているのである。

 

★6年間で48万人ということは、1年に8万人のペースで増やしてきたのだが、このところなぜか、増え方が鈍化してちょっと悩んでいるところなのである。

そんなことで、昨日は半日掛かって、自分のツイッターの分析などをやったのだが、折角なのでそんな調査分析の結果を、このブログに纏めておきたいと思っているのである。

毎日継続して努力さえすればどなたでも、これくらいの数にはなるはずなのである

 

どんな風にして増やしているのかと言うと、それは非常に単純でこんなことを繰り返しているだけなのである

● 毎日、ツイッターの限度いっぱいの数だけフォローする。その数は約1000弱である。

● 粗っぽく言うと、フォローした半分の500人の方からフォロー返しがある

● 現実に実績がそうだったが、当初は毎月1万人を超えるペースで増え続けて1年もかからずに10万人に達した。

● ただし、ツイッターは フォロー数 > フォロワー数 の差に限度の規定があって フォロー数が増えすぎると、それを消去しないとフローできないのである。従って、フォローはしたが相手の方がフォローしてくれてない人は『削除』してその差を減らしていく作業も必要なのである。

これを毎日欠かさず継続して、現在の48万人が実現しているのである。暇だからできるとも云える。

 

★ここまでが大雑把な私のツイッターなのだが以下データーを示しながら分析してみる。

そんなデーターが、こんなに揃っているところが、現在のネット社会なのである。

 現在のツイッターの状況である。

https://twitter.com/rfuruya1

 

 

Twilog というサイトがあっていろんな分析を、勝手にしてくれている。

  http://twilog.org/rfuruya1

 

   

 

こんなに詳しい分析データーが出ている。

その中で『フォロワー数の推移』を 全期間で表示するとこんなになる。

 

   

 

  最初のころに比べて、増加のカーブが僅かだが寝てきているのがお分かりいただけると思う。

このグラフで見る限り、50万人に達するのは時間の問題なのである。

ただ、ごく最近は寝てしまって、なかなか増えないのでその分析を行って今対策を検討中なのである。

 

 

★少し、観点を変えて、このフォロワー数は、全日本でどのくらいの位置にいるのかは、これもちゃんと調べて表示してくれるサイトがある。

  http://meyou.jp/ranking/follower_allcat

 

  

 

 そのTop 5 は こんな人たちが並んでいる。有名人ばかりで、フォロー数は少ないのに勝手にみんながフォローしてくれるのである。この人たちは、ツイッターをやっているだけで、特別の努力などしてはいない。

私は、今現在、日本でどのくらいの位置にいるかというと、165位に位置している。

  

 

このあたりの何人かの方は、フォロー数とフォロワー数が並んでいるのは、フォローすることによりフォロワーを努力で増やしている人たちで、特に有名人というわけではない。

165位という位置だが有名人を除いた、フォローをしてフォロワーを集める努力型の中では、驚くなかれ全国25位に位置している

ちなみに兵庫県では全体の3位で、あの村上春樹さん(6位)よりは上にいるのである。 

兵庫県の1位は全国でもダントツのトップのこんな方である。 Facebook のトモダチだが、繋がっている方も多いだろう。

 

 

  

最近、なぜ伸びが悪いのか?

その分析をいろいろやって、その対策通りにやり直したらこの1週間でちょっといい傾向になってきているのである。

私の分析というか、私の仮説は以下の通りである。

 

●50万人にもなると、0.5%でも250人になる。0.5%ぐらいの方が、毎日フォローもしてくれるし、逆にフォロワーから減っていくということは1年ほど前から、なんとなく解っていた。

● なぜか勝手に私をフォローしてくれている人たちが、毎日200人以上もいてそのま放っておいたら、増える一方だと思っていたのだが、『これが間違っていた』のではないかと思っている。

● この善意の人たちを放っておくと、その人たちが自分のフォロワーを増やそうとする場合、自分はフォローしているのに、相手はフォローしてくれていない範疇に入ってしまうのである。

●私が有名人なら、消されたりはしないのだが、https://web.crowdfireapp.com/#/grow/94749234-tw/nonFollowers  こんなUnfollowers を旧い順に消していくツールもあって、これで消されてしまっているのではないかと気づいたのである。

この仮説は、まず間違いないと思う。 

●2000人を越えてフォロワーを増やそうと意図する人たちは、フォローとフォロワーをほぼ同数に保つことがMUST条件なのである。 最初のころは2000人を超えてフォロワーを持っている人たちも少なかったので問題にはならなかったが、50万人にも近づくと、フォロワーを増やそうとする人たちも増えているので、私がフォローしないと、自動削除システムで、削除されてしまうのである。

 

従って次のような対策を行い始めている。

●私のツイッターにフォローしてくれた人たちへの『フォロー返し』から始めているが、その数が約200人ほどである。 そして残りの800人近くを限度いっぱいまで『フォローする』ことに改めたのである。

 

このブログに書いたこと特に後半の部分は、『私が立てた仮説』が当たっているかどうか?

自分のためにここに残しておきたいと思っているのである

今からでも、フォロワーを増やそうと目論む方には『相互フォロー』を原則でおやりなさいと云っておこう

あとは、自らの努力、継続が結果を生むのだと思っている。

 

★燦々Sun Sun スタートしました。

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オールスター戦

2015-06-26 18:18:49 | 発想$感想

★今シーズンも早いもので、もうオールスター戦の時期になった。

セ・パ 両軍のファン選出メンバーが発表された。  

こんな顔ぶれである。

 

  

 

 このところ。プロ野球をあまり見てないこともあり、この23人の中で、何とかわかった選手は14名しかいなかった。

それだけ野球も若返っているのだと思う。

巨人、阪神から一人づつしか選ばれてないのも不思議な気がする。

黒田がトップに来たのは、選ぶ人はやはり日本人だなという感想である。

新井は広島に戻ってよかったなと思う。

 

大谷は、今回は投手部門トップで選ばれたのは、実績から言っても当然だと思う。

中田は、今やトップスターに成長した。

 

この二人は別格かなと思ったりする。

 

 

   

 DHで選ばれた森、 高校時代からのスターだが、あんな小さい体で大丈夫かと思っていたら、ホームランバッターに成長して、これは、まさにプロという感じの選手になってきた。

今年の交流戦も、パシフィックが制したが、この顔触れを見てもパが一歩リードしているように思う。

 

★サッカーに比べて、野球はどうも、いろんな意味で保守的で遅れているように思う

地域のチームから4チームぐらいを引き上げて、8チーム、8チームの一部、2部ぐらいにして毎年入れ替え戦でもすればいい。そんな方式のほうが引き締まるかも知れない。

幾らやっても勝てないセントラルが、パシフィックといつまでも同等で試合をすること自体失礼で、おかしいのではと思うようになってきた。

こんなことはとても出来ないのだろうが、そんなことでは段々野球もファンが離れていくのでは・・・・

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1億円とはどんな価値なのか?

2015-06-26 07:16:07 | 発想$感想

★昨日、ニュースを見ていると、こんなのに出くわした。

トヨタ自動車も社長のボーナスが3億円を越えたというのでびっくりしていたら、オリックスの宮内さんへ払われる功労金が55億円だというのである。

 

     

 

 

 ★日本の社会もだんだんとアメリカ的になってきた。

確かに、経営の規模が大きくなるとそこから得られる利益は、加速度的に大きくなることはよく理解できる。

然し、日本のサラリーマンの給与体系というか、報酬はその経営に貢献したかどうかではなく、勤続年数や大学卒、高校卒などの資格で規定され、現場の作業員も部課長も、そんなに大きな差のない年功序列型が長く続いているし、今でもほとんどそんな体系が主流になっているのではなかろうか?

そんな、給与体系が徐々にではあるが、経営に如何に貢献したかの評価が、特に企業トップに近いところで変わってきているのかも知れない。

 

どちらの方式が正しいのか?

そんなことよく解らないが、年収が200万円~500万円ぐらいが一般的な世の中で、1億円というのはどんな金額なのだろうか?

大きな単位の経営利益額では、10億円は誤差の範囲だし100億円の単位で経営の結果が変わるのはよく理解できるし、私などが歩いたレベルでも、そんな単位の経営改善は、経験値として実感できるのである。

トヨタに至っては、利益額が兆の単位なのである。その時の3億円など確かに大した額ではない。

それを貢献のあった人に配分すると云うルールなどはなかったのだが、だんだんと世の中は変わっているらしい。

ソフトバンクの孫さんや、オリックスの宮内さんは、経営者というより事業のオーナーだからなんとなくわかるのだが、日産自動車のゴーンさんや、トヨタの豊田さんなどの報酬については、近年報酬の考え方がだんだんと変わってきているのだと思う。

 

★こんな発想はアメリカ的というか、少なくとも日本の発想ではなかったのだが、こんな金額については慣れてしまうと5億も10億も同じように思ってしまうものである。

これがいい悪いという論議をするつもりはない

然し、この金額は個人に支払われるものである。

受け取った人は、それを『どのように処理されるのであろうか?』

仮に1億円が今、手元にあったらどんなことをするのだろうか?

歳をとったから、そうなのかも知れぬが1億円あったとしても多分困ってしまうだろう。使い道がにわかには思い当たらないのである。 

ましてやゴーンさんや豊田さんはもともとお金などに困ってないだろうし、そこにどんどんお金が積まれたら、実際どのようにされているのだろうか?

余計なお世話であることは間違いないのだが、このニュースを見て率直に思ったのはこんなことである

 

   

 

お金があったらいいことばかりではない

http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20150625-00000045-jnn-soci#contents-body

ランボルギーニ で暴走したというお金持ちの馬鹿どものニュースが並んで載っていた。

お金があるからこんなバカな行動に走ってしまう。

 

一生懸命働いて生きている人のほうが、ホントは幸せなのかもしれない。

1億円は要らないが、お金がないと、これは困ってしまうのである。

 

今日は自分でも何を言いたいのか解らなくなってしまったが、こんなニュースが昨日流れたことだけは、間違いない事実なのである。

 

★燦々Sun Sun スタートしました。

★NPO  The Good Times のホ―ムページです

★会員さんのブログです。更新されるとすぐ載ります。

★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。

★48万人フォロワーのいる公式ツイッターです。

 雑感日記のEnglish Version です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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三木緑が丘のまちの活性化

2015-06-25 07:08:35 |  燦々 Sun Sun

 

★ 今年になって、三木市緑が丘の商店街がオモシロそうである

  http://miki-sunroad.com/

   https://www.facebook.com/snuroad.miki

こんなホームページや、Facebookサイトが立ち上がっている。

その情報発信の頻度は、半端ではない。

その中心を担っているのが、サンロード商店街の事務局をやってる殿界寿子さんである。

 

そのホームページに彼女のこんな記事が載っている。

 

サンロード商店街 事務局です。

こんにちは、サンロード商店街振興組合事務局の殿界寿子です。

ツバメが飛び交う時期になりましたね。地方が危ないと叫べられる昨今、緑が丘サンロード商店街も他人事ではありません。少子高齢化に加えて三木から人の減少が止まりません。それにストップをかけようと、また三木に市外から人を呼び寄せようと必死に取り組む人たちがドンドンあらわれています。

サンロード事務局に長年勤務する私も何かしないと・・「三木緑が丘サンロードを愛する人のカイ!」を作りました。こちらでは緑が丘を中心に活動するグループや団体をつないていきます。それ以外、三木市を飛び出そうとする活動を行っていく団体としては母体である「燦々SunSun」が大きく活躍しています。

ぜひ、サンロードを中心に、緑が丘を中心に町をつないで元気にしていきませんか。「三木緑が丘サンロードを愛する人のカイ!」はただ今会員募集中です。

私、殿界寿子、サンロード理事長 田原さん、宝寿司 山田さんにお声をかけてくださいね。

下の、写真は先ごろ行われました三木ハピネスプロジェクトとのコラボです。三木deランチ会です。心理学のお勉強も一緒にしました。フェイスブック初心者講座など、たくさん行っていますのでどうぞご利用ください。

 

 

 

   

★ 殿界寿子さん、ここに紹介されている 地域活性化プロジェクト燦々SunSun の世話人の一人でもある。

従来のような単にまちの組織が動くのではなくて、やる気のある人たちだけを集めて、その人たちを中心に具体的に動いている。

三木緑が丘が今は中心になっているが、日本国中どこでもいい。『琵琶湖からGood Times 』も動きかけてきた。

NPO The Good Times のトータルシステムで応援しているし、燦々SunSu の世話人代表、関西国際大学の教授で神戸ベンチャー研究会も主宰されている松本茂樹先生も、一緒に応援して頂いている。

サンロード商店街の理事長で、昔市会議員もされたタハラブングの田原さんも燦々Officeを提供して頂いたり、その人脈を通じていろいろ協働頂いているのである。

 

 

異種、異質、異地域をみんな繋いでいい時を過ごそう』という基本コンセプト通りになってきた。

年末には、三木市から『マルシェ』をぜひと声を掛けて頂いているのだが、これには燦々SunSun のメンバーの向山信吾くんが実行委員長を務めることまでは決まっている。

 

 

 

 これは先日の有志のミーテングの時に、田原さんが配布された資料の1枚だが、今緑が丘は、なんとなくこんな感じになってきた。

人が集まり、賑わいを見せる緑が丘になればいい。

 

12月に予定されている『マルシェ』もその日1日だけの従来型のマルシェでは面白くないし、まちの活性化にもならないと思ったので、『毎週でもやれよ』と言ってみたら、『土森水庵』のオーナーでもある向山信吾くんが、すぐ『水曜マルシェ』をスタートさせたのである。

昨日は、その第3回目の『水曜マルシェ』だった。

なかなかいい感じなのである。

 

 

水曜マルシェ 検索してみたら、函館などでも存在していて、ホームページなども作られている。

『緑が丘 水曜マルシェ』も出てくるが、トップ記事になるように頑張ってみたい。

https://www.google.co.jp/?gws_rd=ssl#q=%E6%B0%B4%E6%9B%9C%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%A7

 

 

★7月から8月にかけて、いろんな具体的な計画がいっぱいである。

空家の目立つ緑が丘だが、今年になって新しく進出したところもあるし、3店舗が動き出しそうである。

未だ、公表はできないが、そんな流れができればいい方向に進むだろう。

 

三木緑が丘水曜マルシェ で検索するとこんなところだが、それでもこのくらいの情報発信がなされているということである。

そのうちにもっと賑やかになるだろう。

 

 

 

★燦々Sun Sun スタートしました。

★NPO  The Good Times のホ―ムページです

★会員さんのブログです。更新されるとすぐ載ります。

★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。

★48万人フォロワーのいる公式ツイッターです。

 雑感日記のEnglish Version です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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三木山森林公園

2015-06-24 06:16:02 | 発想$感想

 

★ 三木にあるが兵庫県の管轄である。

三木山森林公園』のホームページは こちらである。

  http://www.mikiyama.net/

立派に作られたホームページだが、 三木山森林公園の 本当の良さがこのホームページからはなかなか感じ取れない面もある。

やはり、そこに実際に立ってその雰囲気を感じとることが一番だろう。

 

昨日はその三木山森林公園を40分ばかり、散歩してその動画を撮ってきた。

写真などよりは、動画のほうが雰囲気は感じられるのではないか? そんな気がして最近動画に凝っている。

動画を撮り編集をする。 それ以前に『何を伝えたいのか?』そのコンセプトを明確に、自分なりに設定する。

何となく映画監督になっやような感じがいい。

 

3分弱に纏めているが、私がお勧めの『三木山森林公園』の雰囲気はよく出ていると思っている

人工のものが多い中で、自然が残されていること自体が素晴らしいことである

 

 

 もみじ谷のアジサイの風情も、一種独特である。

Facebook に記した、この動画の説明である。

  

三木山森林公園、三木に数ある公園の中でも、私の一番のお気に入りである。
ゴルフ場が一つすっぽり入る広大な敷地に、表は人工の綺麗な公園になりその周囲は自然がそのまま残されて散歩道が手入れされている。

今日は泳ぐ前に40分散歩がてらにこんな動画を撮ってきた。広いだけに手入れは大変だと思う。そんな芝刈りの状況からである。
ちょっと来ないうちに、池のスイレンは満開である。
水鳥が子供と一緒に遊んでいたが、コレは天然のどこからやってきた鳥だろうか?
下の池には鯉が泳いでいる。魚は好きなので、じっと見つめていたが、ブルーギルやメダカも肉眼ではいっぱい見えるのだが・・・
もみじ谷を下のほうから逆にのぼってみた。 小鳥の鳴き声と一緒の散歩である
新緑が綺麗だ。山の中も結構ちゃんと手入れされていて気持ちがいい、先日の雨で崖が崩れて通れなくなっていた場所は新しく補修されていた。
山道を登ってくると景色は変わって芝生の広場や、子供の遊園地もある
駐車場は結構満杯なのに、殆ど人とは出会わない。それだけの広さなのである

 

 

 

 

 

 

 

 これらの写真も動画を撮りながら、撮ってきたものである。

人それぞれだと思うが、写真だけではなかなか雰囲気は解らないような気がする

最後の1枚は、先日の雨がけ崩れで、通れなくなっていたところをこのように修理中なのである。

セメントなど使わずに仕上げているのがいい。

少し歳月が経つと、また元のような感じになるのだろう。

 

 

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父の日

2015-06-23 06:19:15 | 発想$感想

 

 ★6月の第3日曜日が『父の日』だそうである。

最近は、父の日だからと特別なこともないのだが、

昨日は『私のお父さんではないのだけれど』と一言余計なことを云いながら、家内が夕食に和牛のステーキを作ってくれた。

何にもないよりはmuch betterである。

 

明けて1日遅れでアメリカは『父の日』であったらしい。

アメリカにも『父の日』があるのかと思ったら、アメリカが発祥の地であるらしい。

検索すると、こんな文章が現れた。

 

6月第3日曜日

1909年にアメリカ・ワシントン州スポケーンのソノラ・スマート・ドッドが、男手1つで自分を育ててくれた父を讃えて、教会の牧師にお願いして父の誕生月である6月に礼拝をしてもらったことがきっかけと言われている。最初の父の日の祝典は、その翌年の1910年6月19日にスポケーンで行われた。当時すでに母の日が始まっていたため、彼女は父の日もあるべきだと考え、「母の日のように父に感謝する日を」と牧師協会へ嘆願して始まった。

1916年、アメリカ合衆国第28代大統領ウッドロー・ウィルソンは、スポケーンを訪れて父の日の演説を行い、これにより父の日が認知されるようになる。

1966年、アメリカ合衆国第36代大統領リンドン・ジョンソンは、父の日を称賛する大統領告示を発し、6月の第3日曜日を父の日に定めた。1972年になり、アメリカでは正式に国の記念日に制定される。

母の日の花がカーネーションなのに対し、父の日の花はバラ。

 

そんなアメリカの娘から、Facebookでこんなメッセージが届いた。

 

  

 

帽子を後ろに冠って歩いてるのは、昨年だったかアメリカに行った時の私である。

タルトを作ったとあるが、『タルト』などどんなものかも知らぬし食ったことがない。

 

そんなアメリカのお父さんは、これを食ったらしい。 『ウマいと云っている』

『ウマかったから』また頑張るそうである。

 

  

 

日本に留学中の長男から、『父の日のメッセージ』が届いたようである。

普段は、何も言ってこない長男だが、メッセージしたのは珍しいことである。

 

 

 

次男はFacebookで、こちらは英語のメッセージである。

写真は、昨年多分長男が日本に旅立つ時の空港での写真である。

背の低い順に、長男、次男、末弟が一番背が高い。

 

娘の家族は、みんなFacebook などやってるから、なんとなくどうなってるのかわかるのだが、

息子のほうは、家内に似たのか、一切Facebookなど、アップしたりはしない。

こちらは6月初め、鎌倉まで孫のダンスを観に行って、十分『父の日』らしきことをしてくれた。

 

  

 

 その時の、息子一家との記念写真。

 

 

 

その前夜祭。

 

  このアジサイは、息子の嫁のノンちゃんが、何年か前に正真正銘 『父の日のプレゼント』に贈ってくれた小さな鉢植えのアジサイである。

直植えしたらこんなに大きくなっている。

 

     

 

薔薇の横に植えたので、多分肥料が効きすぎだと思う。葉ばかりになってしまった。

母の日はカーネーション、父の日は、バラだとか。 バラは頂かなくても、いくらでもある。

元気で過ごしているので、何よりである。

 

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韓国はなぜ反日なのか?

2015-06-22 06:29:29 | 発想$感想

 ★昨日の午後の『そこまで言って委員会』は、『韓国はなぜ反日なのか?』というテーマでやっていた。

少々右寄りの番組だから、全体のトーンは韓国の対応に対して厳しいのだが、戦後70年も経っているのに、いまだにその当時以前の問題について取り上げて議論すること自体が異様と云えば異様だと思う

今、殆どの人が当時の朝鮮の状況など知らないのに、ましてや今の若い人たちまでが、何かの資料に基づいていろんな議論がなされているのである。

従軍慰安婦の問題などは、朝日新聞の誤報記事がさらに事態をおかしくしてしまっているのは、不幸極まりない出来事なのである。

 

私自身は、中学生までの時期を、当時の朝鮮で育ったので、当時覚えている太田の川も、今のソウル(当時の京城)の三越も、市電も、漢江(はんがん)の風景も、みんな故郷の風景として脳裏に残っている。

当時の朝鮮の人たちは、当時はみんな日本人で日本語が喋れたし、そんなに反日感情などもなかったように思うのである。

8月15日、終戦になってからも、治安など何の問題もなかったし普通の生活が続いたのである。

 

引き揚げてきて、日本のほうが、日本人と朝鮮人との対立みたいなものがあって、朝鮮の人たちを意識したのは、むしろ日本に戻ってからのほうが多かったのである。

 

これがその『そこまで言って委員会』の動画だが、こんなマスコミが、結果的に『反日感情』をあおっているのではなかろうか?

 

★ もう少し日韓関係で大人の対応が出ないものかと思っていたら、夕方のニュースで ちょっといいニュースが流れたのである。

 

   

 

 こんな写真が流れ、続いてこんな記事が流れたのである。

 

    

 

そしてそのあと流れたニュースでは、今日の日本での韓国主催の『国交正常化50周年の記念式典』には安倍総理の出席が決まったことを報じていた。

韓国で行われる日本主催の記念式典には朴大統領が出席することになったとか。

日韓、世界遺産登録にもお互い協力するという

 

是非、日韓友好で動いてほしいものである。

お互いいがみあっていても、何のプラスもなくて、マイナス面ばかりなのである。

もういい加減に、すっきりした関係になって欲しい。

ホントに心から、そう願ってい人もいることを知って欲しいと思っている

 

 

 

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地域活性化とは?

2015-06-21 06:39:03 | 発想$感想

地域活性化とはどんなことを云うのだろうか?

どんな形になればいいのだろう?

そんなことも解らずに、地域活性化のプロジェクトとして、燦々SunSun http://www.thegoodtimes.jp/sunsun/ を立ち上げたのは、今年の1月のことである。

 

それからちょうど半年が経とうとしているが、結構三木緑が丘の さんさん広場 など、なんとなく形が整ってきたような気もする。

兎に角、人が繋がらないとダメである。それも元気な、やる気のある人が、自分のやりたいことをやれたらそれは多分活性化に繋がっていくのだろう。

 

半年前何にもなかったところに、燦々SunSun と名付けて、『太陽のように光輝くような活動をしている。あるいはしようというグループ』とお経のように何度も唱えていたら、こんなブログもアップされて 

http://ameblo.jp/este-salon-n-love/entry-12033567719.html     どんどん動き出し始めたのである。

 

    

 

 このブログの中に登場する『三木サンロードを愛する人のカイ』 https://www.facebook.com/ganbarou.midorigaoka  

は、こんなグループだが、毎日毎日、これでもか というぐらいの情報が流れるのである。

 

 

★これくらいになれば、これは間違いなく『動き出すな』という感触があるのだが、

やはり周囲も、こんな動きを見逃すわけはなく、

『三木さんさんまつり』 や、 三木市が主宰する『三木マルシェ』 にぜひ燦々SunSun のメンバーをと、先方からお声が掛かってくるようにまでなってきた。

年末にたった1回の『マルシェ』など、お金をかけてやってみても、そんなのは地域の活性化にはならないから、

緑が丘でやる『イベント』らしきものにはみんな絡んだら、1年中イベントが続くことになる。

その一番底辺の小さなマルシェを毎週やろうと云ってみたら、ホントにそれが実現しかかっているのである。

商店街が定休日でまちが寂しくなる水曜日に、『さんさん広場』を舞台に毎週『水曜マルシェ』をやろうということになった。

今後もずっと続くかどうかは解らぬが、少なくとも2回は続いた。今週水曜日も雨は降らない。多分大丈夫開催される。

7月になって子供たちが夏休みになったら、『キッズ・サポート』の新井謙次さんが子供たちを集めてくれると云ってるし、その子供たちに『紙芝居』を河田明彦さんがやってくれるという。メンバーから『ビヤガーデン』もやろうという声も上がってこれも間違いなく実現しそうである。

 

★こんな活動を静かに、応援してくれてるのが、緑が丘商店街の理事長タハラブングの田原さんである。

2階の事務所を綺麗にして、テーブルを新調して、エアコンもつけて頂いた。

 

今日は、ここで10時からNPO The Good Times の理事会を開催する。

その部屋のネーミングは、『燦々Office』と名付けて頂いたので、燦々SunSunからはホワイトボードを寄贈した。

 

   

 

      

 

 

 燦々SunSun 太陽のように輝いているかどうかは別にして、『輝き始めている』ことは間違いない。

 

  

 

半年でここまで来た。  今2グループが手続中である。

積極的に、『自分でやりたいことを持っている』仲間たち、『自分のやりたいことが出来る=Good Times』 なのである。

 

そんな想いのある方は、ご参加ください。

別に三木緑が丘に限りません。世界中どこでも大丈夫です。

NPO The Good Times の活動はネットがベースです。

ネットは神戸も、東京も、カリフォルニアもみんな同じ、隣町です。

 

『琵琶湖からGood Times』の小原隆史さんの活動は、昨日NHK大津局で取り上げられ放映されたりしています。

    http://www.nhk.or.jp/otsu/shiga_ouen/corner/video12.html

    https://www.facebook.com/groups/biwako.goodtimes/

 

 

 

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アメリカの娘一家

2015-06-20 05:34:50 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★昨日はFacebookにアメリカの娘一家の写真がいっぱい載った。

  https://www.facebook.com/tad.kadono?fref=ts

3人兄弟の長男は今は日本の大学だが、下二人が高校と中学の卒業式だったらしい。

 

  

 

まずこちらは、次男高校を卒業して、いよいよ大学である。 

アメリカの名門 University of California, Berkeley に行くらしい。サッカーでの推薦入学だそうである。

 

  

 

 こちらは末弟、中学生のくせになぜかどんどん背が伸びて185cmもあるらしい。

 こちらはサッカーでも、キーパーをしている。

 

 卒業式の後、インデイアナアナまでサッカー遠征に行ったようだが、アメリカ人と比べてもこんなに大きい。

 

     

      

 

  

 

  なぜか飛行機が嫌いだったのにチームメートとの遠征ならこんなにご機嫌である。

 それを見て、娘は一安心でこんな記事をアップしていた。

     https://www.facebook.com/noriko.kadono?fref=ts

 

 

       

 

 

     いつもは、 めったに写真には登場しないお父さん、今回は特別なのか一家4人の写真があった。

 

    

 

   お父さんも結構大きいのだが、末っ子と並ぶとみんな小さく見える。

   横幅だけは、負けていない。

   10年ほど前、 子供のころの写真で見る限り『ただのデブ兄弟』なのだが、トレーニングで見違えるようになってしまった。

   

   

 

   三木ホースランドパークでの写真である。

   7月には、お父さんを残して3人で三木に遊びにやってくる。娘の免許証の書き換えだとか云っていた。

   どんな2週間になるのか楽しみである。

   鎌倉にいる長男もその時には、何日か三木に来るらしい。

 

   食費だけでも、結構なモノ入りになるのだろう。

    

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人と繋がり、人を育てる

2015-06-19 06:14:24 |  燦々 Sun Sun

★昨日は 燦々SunSun のプロジェクトリーダーに新しく森下大作くんがまた加わった。

    

      

 

こんな写真に以下のようなコメントを添えてFacebook にアップした。

 

   ついさっきまで、森下大作くんと話してました。
   https://www.facebook.com/daisaku.sonylife?fref=ts

   燦々SunSunのプロジェクトリーダーに殿界寿子さんが推薦されました。
   姫路で、ライフプランナーをされています。...
   https://www.facebook.com/notes/577161705761948

   また一人、有望な若手が加わりました。
   Facebook めちゃ詳しいようです。

   ツイッターにも今日、参加されてます。
   https://twitter.com/94046971d2d7466

 

上の写真は昼食を取っているところだが、それから5時まで延々と雑談をしていたのである。

そして、殿界寿子さんが燦々SunSunのプロジェクトリーダーに推薦したようである

燦々SunSunのプロジェクトリーダー とは独特なもので燦々の発起人とも云うべき世話人が推薦さえすれば、何の問題もなく誰でもなることはできる。

ただし6ヶ月間何もしなければそれは自動的に解任されても文句は言えないシステムなのである。

 

https://www.facebook.com/notes/577161705761948

 

   

 

 今年の1月にスタートした燦々SunSunだが、すでにこんなプロジェクトリーダーが誕生している。14名のうち5名の方はもう何年ものお付き合いなのだが、その他の方は今年の1月以降に初めてお会いした人たちばかりなのである。

いま三木、緑が丘はめちゃオモシロくなりそうである。 三木さんさんまつりも、三木市が絡む三木マルシェにも、先方から燦々メンバーへのお誘いが掛かって、ある意味その中枢での活動が期待されているのである。

もともとNPO The Good Times は、川崎重工の中に1990年代にあった『遊びのソフト会社=ケイ・スポーツ・システム』のソフト・ノウハウを受け継いでいる『遊びのプロ集団』だし、社会におけるいい人間関係創り=Public Relations=PR=広報活動、本当の意味での広報活動ができる集団であり、そのトータルシステムを有している。

単に『おまつり』を繰り返して満足している世間一般のイベントなどとは完全に差別化したレベルでの展開を企図しているのである。

多分、こんなことを言っても『言ってることがちゃんと理解できる人は殆どいない』だろう。

そういう意味では、広報活動も、イベントの展開も、世間一般には、みんなアマチュアレベルでの展開にしかなっていないのである。

いろんなイベントはスタート当初は、『何のために始められたのか』その目標はちゃんとあったはずなのである。

今何年か経って、その当初の目標はどの程度達成されたのであろうか? 

今はその当初の目標は忘れられて、『イベントを開催すること』そのものが目標になっていないか?

三木金物祭り   三木の金物業界は今活性化されているのだろうか?

三木さんさんまつり、三木緑が丘の まちの活性化にどの程度繋がっているのか?

 

燦々SunSun は、地域活性化のプロジェクトだから、具体的な地域活性化の活動の具現を目指している。

いまわれわれは、緑が丘で真にまちの活性化を願っておられる Bungu Taharaさんなどと組んでの活動をスタートさせたばかりである。三木市が絡む三木緑が丘マルシェはこの年末にたった1日だけである。 たった1日で『まちの活性化』など出来るはずがない

毎年毎年同じことを繰り返す『おまつり』ならそれでいい。お祭りが進化してしまったら、それはもうお祭りではなくなる。お祭りは同じことを繰り返すところに伝統の良さが生まれるのである。

ある目的を持って開催される『イベントはお祭りであってはならない』三木マルシェを一つの目標に、『水曜マルシェ』がスタートし、毎週水曜日に継続して、それをやろうとしている。その中心としてやっている向山信吾くんは、燦々SunSun のプロジェクトリーダーに私が推薦をした。彼は本番の『三木緑が丘マルシェの実行委員長』も務めることになっている。

水曜マルシェはまだ始まったばかり2回目だが、夏休みに入れば子供たちも参加するし、昼だけでなくビヤーガーデンも毎週やろうとしている。そんな継続があって、初めて12月の『三木マルシェ』がオモシロくなるのだが、そんな方向に果たして動くのであろうか?

 

★こんなにちゃんと話したわけではない。昨日は上の3人のメンバーに、上野真哉さんも加わって、彼が進めようとする『三木から起業を!』(試案)を燦々のプロジェクトとして進めることなども含めて、延々と雑談は続いたのである。

私は企画マンだが、計画は大嫌いである。計画など組んでそれを追っかけたりするから全然オモシロいことができないのである。

コンセプトさえ確りしていれば、計画などなくてもどんどん進む。昨年秋初めて殿界さんと出会ってスタートした燦々SunSunだが、半年経って完全にその形は見えてきた。半年掛かってできないものが10年掛かってできる保証などないのである。

これは燦々SunSunのプロジェクトリーダーたちや、共感して頂ける仲間に向かって書いている。みんなに解ってもらう必要などないのだが、せめて燦々SunSunのプロジェクトリーダーの人たちには分かって欲しいと思っている。

森下大作くん、昨日初めてお話ししたのだが、多分間違いなく『オピニオンリーダー』になってくれると思っている。

 

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父 古谷錬二 のこと

2015-06-18 07:09:34 | 私の生き方、考え方&意見

 

 ★母は103歳まで長生きしたのに、父は52歳で、私が高校3年の1月2日に亡くなってしまった。

明治32年生まれ、 登記上の名前は、古谷錬二、当時は名前を変えるのが流行っていたのか、古谷錬介で通していた。

 

兵庫県の名門といわれる柏原中学を出て、早稲田に行き、卒業後は祖父が朝鮮で起こしていた電力会社太田電気に伯父とともに籍を置いていたのだろうが、祖父が早く亡くなって、二人ともまだ若かったので肩書だけで、実際は周りの人たちに援けられての経営だったのだと思う。

http://nekonote.jp/korea/old/fukei/tejon/denki.html

電力会社太田電気 についてはネットの中にこんな記述がある。その中に出てくる竹内清次郎さんの息子さんと太田の川の中にいたというのが私が覚えている自分の人生の最初なのである。

http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/0eb1fe9ca92e259185492739fdc97367

『私の人生 川の中で始まった』

 

私は明石の上ノ丸で生まれたのだが、気が付いた3歳のころには既に太田の社宅にいた。そして南鮮合同電力という会社になって、父もその時に京城に移ったのだと思う。なぜ移ったのかなどはよく解らない。

今どきの父と子供の関係のような楽しさや笑いなどは殆どなくて、父に遊びに連れて行ってもらったり、ましてや遊んでもらったことなど皆無であった。妹たちに言わすと『トモダチばかりと遊んでいて、家で食事に行こうと云っても、私だけが参加してなかった』ようである。

そんなことで、特に父との想い出みたいなものはないのだが、単純に『好きか嫌いか?』と聞かれたら『母よりは父のほうが好き』だったと思う。

何故か?と云うと、親戚や周囲の人たち、特に伯母などの父の評判が非常によかったので、『いい人』なんだろうと、勝手にそう思っていた節があり、自分もそう言われるようになりたいと思ったりした。

 

その父が、私が小学生時代に絵を描いていたのは鮮明に残っている。

書は橋本海関に、絵は橋本関雪に習ったというのが自慢で、自らの号を『素雪』と称し、暇があれば絵を描いていたように思う。

日本画だが、それも結構大きな絵を本格的に描いたりして展示会に出展していたりした。

橋本海関、関雪が明石の出身で、遠い姻戚だったとか、関雪さんの絵は家にいっぱいあって、それと同じ構図の絵もいっぱい描いていたのを思いだす。

 

   

 

この色紙の絵は、妹がくれたのだが、多分戦後引き揚げてからのモノだと思うが、その構図は橋本関雪の絵からのモノだと思う。

いま、父のモノと云えばこの1枚の絵だけが残っているのと、持っていた鰐皮の財布があるだけである。

 

★父が私に残してくれたもの、と云ったら『何なんだろう?』

 

       

 

この1枚の写真。

伯父と父(右)明石の錦江ホテルの中庭で写した写真である。昭和15年(1940年)ごろの写真であろうから、父はまだ30代後半のころだと思う。

伯父、古谷脩一、通称古谷脩輔  と 父、この二人の影響を強く受けて、今の私があると思う。

二人とも50代の若さでこの世を去ったが、私が大学に行けたのも、川崎航空機に入社できたのも、伯父のお蔭と云っていい。自分の実力だけで大学に入学したり、川崎航空機に入社したわけではないことはよく解っている。

大学はちゃんと試験は受けたのだが、3年の1月2日に父が亡くなって、『もう金も要らなくなったから大学に行け』と伯父に言われて受験した大学なのである。碌に受験勉強もせずに、16.5倍もの難関を突破できたのは、不思議と自分でも思っていて、卒業間際に、野球部長の先生にちょっと話したら『君は県会議長が頼みに来た』と仰るのである。 それだけで入学できたわけでもないのだろうが、そんなこともあったのも間違いのない事実のようである

私が神戸一中に行ったのは伯父と親交のあった砂野仁さんが、ご自身の息子さんが神戸一中に入っておられたので、そこに行くことになったのである。ただ私は入学試験も受けずに入学していて、父からは『お前は無試験で入ったのだから、ちゃんと勉強するように』と云われたのである。

父の云うことは、ちゃんと聞くこと、なんとなくそのように育てられていた。そんなことを云われたのは1回だけだが、猛烈に勉強をした。神戸一中で50番以内を『』というのだが、県一女と共学になる2年生までずっと『特』で通したし、10番以内に入ったこともあった。

これは人生で、私の自信に繋がっている出来事なのである。3年生以降男女共学になって後は、殆ど勉強らしいことをする必要もなく、全く勉強などはしていないし、成績もダメなのだが、中学2年間の成績が『やればできる』というおかしな自信になっているのである。

もう一つ、父に言われたこと『男は言ったことに責任を持て』 これはずっと守っている。

自分が言ったことに責任を持つために、現役時代、自分の言ったことはすべて『文字にして、文章にして残している

あとで、『あの時言ったことは・・・』などという言い訳はダメだと思ったからである。この習慣は今でもちゃんと続いている

間違ったら、素直に謝ればいい と思っているのである。  

 

私の人生は、いろんな方の援けは受けたが、影響は受けずに『自分の力』で切り開いてきたような気もする。

教えて貰えるような環境になかったことが、そんな生き方をせざるを得なかったのかも知れない。

そういう意味で、伯父のお蔭で生きる環境を整えて貰ったと思っているし、その中で生きた、『生き方』は父の教えを頑なに守ってきたと思っている。

贅沢を云えば、そんな好きな父に『甘えた思い出』が一つでもあればいいのだが、それが一つもないのである。

 

    

 

私は幼稚園には行っていない。これは小学校前多分6歳のころなのだが、父と二人だけの写真はこれしかない

私が覚えている父は、いつもこんな感じで、最近の父親が見せるような、子供に甘い父親の影は微塵もなかったのだが、

でも私は、『父が好きだった』 そんな結果か、息子とは小学生時代から大学生の頃も、普通の人よりは多くの会話を交わしている   のだと思っている。

 

 そんな私の人生に、大きな影響を与えてくれた人、伯父と父のこと、書き残しておきたいと思って書いている。

 

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zed-cafe と向笠暁彦さん

2015-06-17 08:41:13 | NPO The Good Times
 
 
 
 
 
 
はじめてお会いしたには、いつだったのだろう?
いろんなところで、ご一緒している。
バイクがあるところには、どこでも現れる、そんな感じである。
 
バイクに乗るだけではない。文章も書かれて、雑誌に投稿もされる。
写真は、完全にアマチュアのレベルを超えている。
 
NPO The Good Times 関係で、いろんなところでお世話になっている。
 
World  Good Riders Association 関東支部では発起人に当たる世話人にもなって頂いているし、
地域活性化のプロジェクト、燦々SunSun http://www.thegoodtimes.jp/sunsun/  のプロジェクトリーダーもお願いしている。
 
 
そんな向笠暁彦さんが、今回 Facebookの中に 『zed-cafe』
https://www.facebook.com/groups/865386833510390/?fref=ts    というグループを立ち上げられた。
 
何かの、お手伝いでもできるかなと、仲間に入れて頂いた。
 
そのページに書かれている、基本的なコンセプトと、ちょっとした取り決めのようなものだが、ご紹介しておきたい。
 
その中に出てくる『サイバースペース』とは
 
サイバースペース (英:Cyber-space) は、コンピュータネットワークの中に広がるデータ領域を、多数の利用者が自由に情報を流したり情報を得たりすることが出来る仮想的な空間のことを指す。
 
 
 
 
 
 
 
バイク旅やキャンプ、そして写真のことをちょっと深く語り合ってみませんか?
zed-cafeはサイバースペース上の談話室。行きつけのカフェでゆったり歓談するイメージで旅気分に浸ったり、旅情報や写...真のあれこれで盛り上がりましょう。
素敵な旅話や写真をお持ちの方はぜひご披露ください。

★Menu★
・ツーリング(ロング、ショート)
・キャンプ
・旅の記録法
・旅の思い出
・旅の道具
・各地の祭り、名所旧跡、グルメ、ロケ地巡り、街道・廃道・鉄道
・写真の基本
など

zed-cafeは WGRA(*1)傘下のグループで運営方針や規約等はWGRAに準じますが、参加者が皆気持ちよく過ごせるよう以下の規約を設けます。
また、他のWGRAグループと同様に会員カードを導入しますが加入は任意とします。zed-cafeを気に入っていただけたら、ぜひご加入ください。

★zed-cafeご利用の規約★
1.旅も写真も個人的なもの、絶対ということはありません。お互いの意思や経験を尊重し誹謗中傷は禁止です。
2.各地のイベントやお買い得情報等の投稿を歓迎しますが、特定の個人や企業の商行為、宣伝につながる投稿はご遠慮ください。zed-cafe法人会員はこの限りではありません。
3.フェイスブックの投稿はすぐに流れてしまいますので、有用な情報はzed-cafeのブログに転載いたします。また、投稿写真をアルバムに編纂する場合があります。
4.当グループの運営方針、公序良俗にそぐわない投稿はグループ管理者の判断で削除する場合があります。
5.本規約は修正する場合があります。

*1 WORLD GOODRIDERS ASSOCIATIONは NPO法人The Good Times(http://www.thegoodtimes.jp/)を母体とし、バイクを楽しみ世間での地位向上、すなわち一般社会からの好感度認知を高めることを目的としたグループです。
 
“Let the good times roll”の考え方を世界で展開していきます!
 
 
出来たばかりで、今後どのような展開になるのか解りませんが、応援したいと思っています。
Good Riderの皆さん、バイクに少しでも関心のある皆さんが、応援して下さることを祈念します。
 
向笠暁彦さんが、主宰をされますので、間違いなくいい方向に グッドタイムな世界に向かうものと思っています。

 

 
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