雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

デートは北播磨総合医療センター

2021-11-30 06:34:29 | 発想$感想

★ 家内は年に3回の北播磨総合医療センターでの定期検査がある。
 昨日は採血して、今日はその結果の先生の診断なのである。

 こんなに立派な大きな総合病院だが

 


 これがその駐車場である。

 病院も大きいのだが、その駐車場たるやこんな広さで
 それがほぼ満杯になるのだから、
 ここへの交通手段は殆どの人が車だと言えるのである。

 昨今の病院のシステムは流れ作業になっていて、
 ほんとに「スムース」なのである。





 11時半に家を出て20分ちょっとで到着、
 病院に来る人もこんなに多くて、

  



  受付ロビーはこんなに沢山の人なのだが、
  病院の流れ作業は徹底していて、ほんとにスムースなのである。





 採血をして、支払いを済ませて病院をでたのが12時半だから、
 家を出てから約1時間で病院は終了なのである。

 病院の紅葉も見事だった。

  
 


★ 昨今、家内と一緒に出掛けることなどスーパーの買い物以外にはない。
 
  病院の定期診断なのだが、家内の服装はスーパーでの買い物の時とはまた違って
 幾らかちゃんとしているので「ちょっとしたデート気分」なのである。
 帰りには半年ぶりの外食だったが、
 それは「丸亀製麺の釜揚げうどん」だったから、

 このデート2時間ほどで、病院代も含めて2000円にはならなかったのである。

 
 
 
 蛇足だが、この店も店よりも駐車場のほうが
 数倍の広さで、この辺りはまさに車社会なのである。






★ 今日は「先生の診断」で、もう一度北播磨総合医療センターに行くのだが、
 その結果がまずまずであって欲しいと願うばかりなのである。

 車で行けば家から30分はかからない立地なのだが、
 若し車でなかったら、どのようにして行くのだろうか?
 電車やバスを乗り継いだら多分半日仕事だろう。

 家内は車の免許など持っていないので、
 若し独りで2日も続けて病院に通うとなるとそれはまた大変なことなのである。
 だから「家内のため」にも私が元気であることがMUST条件なので、
 簡単に死ぬわけにもいかないのである。

 たとえそれが病院であっても「二人で出かけること」などなくなってしまったので、
 その時間を大事にしたいと思っているのである。

 そんな昨日と今日、2日続けてのデートなのである。
 私は2日続けて「同じ格好」かも知れぬが、
 家内は多分間違いなく、今日は昨日とは違った服装であるに違いないのである。

 今日は10時の予約なので、9時には家を出ることになる。

  
 
 
 
 
 

 
  
 
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ヤクルト優勝  おめでとう

2021-11-29 06:13:08 | スポーツ

★ オリックスとの激戦を制して、
 ヤクルト・スワローズが20年ぶりに優勝した。

 プロ野球球団で好きなチームはあるが、
 熱狂的に応援しているチームは特にないのだが、
 ヤクルトもオリックスも好きなチームの一つではある。

 そういう意味では、どちらが優勝してもいいと気楽に見ていたのだが、
 初戦以降どのゲームも「好ゲーム」だった。





 このシリーズ印象に残ったのは高津臣吾監督である。

守護神マクガフは第1戦、2点リードの9回に登板して打たれ、チームは痛恨のサヨナラ負けを喫した。
2戦目の練習前に、指揮官は右腕の肩をたたいて「全く僕は気にしていない。あなたに任せている」と励ましたという。
2戦以降も迷うことなくマクガフを使い続けた監督の判断は素晴らしかったと思う。
その言葉に守護神も応えたし、そんな監督の采配がチーム全体の結束に繋がったと思う。


以下はCS、日本シリーズ前の高津臣吾監督の手記の一部である。

何となく空気が重かった9月7日。阪神戦前にミーティングで「絶対、大丈夫。何かあったら僕が出て行く」と伝えた。
結果的にその直後だったけど、9月13日の中日戦で判定に抗議した。
どうやっても覆らないけど、抗議できるのは監督だけ。引き下がれなかった。
僕が言わないと、選手も“明日頑張ろう”と終われないと思った。
選手を前向きな気持ちで戦わせてあげたい、とずっと思っていた。
今年のチームは停滞、後退がなかった。ずっと前進している。
ノーシードの高校が甲子園に行って勝ち進むのって、こういう状態なんだろうなと、シーズン中に何回か思った。
ヤス(奥川)やムネ(村上)が成長するのは分かる。
でも、石川や青木、川端が成長するのは、なかなかない。
CS、日本シリーズでもさらに成長した姿を見せてくれると信じている。

★昨シーズン最下位であったヤクルトが
 7月ごろには阪神の独走で届かないと思われたリーグ戦に後半追いつき、追い越して、日本一の座に就いた。

 ヤクルトスワローズ 日本一おめでとう!


 
 
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かっては「給料は上がるもの」だったのに   雑感

2021-11-28 06:22:34 | 私の生き方、考え方&意見

★ 「日本の給与水準はなぜ上がらないのか?
 
 「韓国にも抜かれた」とこんなグラフが載っていた。

 
  


 岸田総理も新資本主義とかで「成長と分配」問題に取り組んでいるようだが、
 何故こんな状態になってしまったのか?
 

 
 
 何が問題なのか?
 ムツカシイことはよく解らないが、
 私自身は「給料がどんどん上がった時代」を生きてきたので不思議に思うのである。
 
 
★ 私が社会に出て初めて貰った給料は12000円で、それも月2回払いだった、そんな時代だったのである。
 当時の川崎航空機工業の経営の実態はそんなに良くはなかったが、
 世の中の水準もそんな状態だったのである。
 昭和32年(1957)年、64年も前のことだが、
 それ以降退職するまでの40年間「給料は兎に角上がり続けた」のである。

 入社して10年後には10万円の台に乗りざっと10倍になった。
 1970年代後半から4年間は、毎年20%も上がった年が4年ほど続いて、
 その4年間では15万円ほどだった給料が30万円に倍増したのである。
 ちょうど土地を買って家を建てた時で、借入金の返済が始まったのだが、
 その返済に大いに助かったことを思い出す。
 ただ、物価も同じように上がったから、生活が楽になった訳ではないが、気分的には悪くはなかったのである。

 そのあと50万円になるのにもそんなに長くは掛からなかったし、
 40年間勤めた退職時には「初任給の100倍」にもなっていた。
 今の時代からみると「ウソのような時代」だったのである。


★ そんなにどんどん上がった給料だが、
 二人の子供たちが大学を卒業するまでは貯金など出来る状況ではなかった。
 サラリーマン生活の最後の10年間だけが、何とか余裕が出来たのである。
 1990年代の10年間である。
 
 こんなグラフが載っていた。
 その1990年代の所得水準よりも現在は下がっているというから、
 ほんとに考えられないのである。
 



 
★ それにしても「かっては給料は上がるものだったのに
  なぜこんなことになっているのだろう?

  いろんな解説が載っているが、その一つにこんなのがあった。
  こんな5つの理由を挙げていた。
  1.労働組合の弱体化
  2.非正規雇用者の増加
  3.少子高齢化の影響
  4.内部留保を貯めこんで賃金を上げない経営者
  5.規制緩和の遅れがもたらした賃金低迷
  

   


 確かに私たちの時代とは違った環境であることは解る。
 詳しい解説を簡単に纏めてみると以下のようになる。

1労働組合の弱体化
日本はバブル崩壊によっての景気後退を人員カットで対応するのではなく、
クビにされるよりも給料を下げることに同意した日本特有の労使関係があり、
「企業内組合」が一般的な労働組合の構造的な問題がある。

2.非正規雇用者の増加
「労働者派遣法の改正」によって、企業は非正規雇用者を雇いやすくなったことは、
実質賃金低迷の原因の1つとして、見逃すことはできない。
これには人件費を削減して、業績悪化から企業を守った面はある。

3.日本の少子高齢化
人口減少に対応するために非正規雇用や女性のパートタイマーや、外国人労働者など、
かってはリタイアしていた高齢者が格安の賃金でいまだに働き続けているという現実や、
自営業や中小企業の従業員は、実質賃金の伸びが抑えられている。

内部留保を貯め込んで賃金を上げない経営者
バブル崩壊以前は、社員こそ最大の資源として、会社も賃上げに積極的だったが、
崩壊以後は労働組合が弱体化したこともあって、企業は内部留保を貯め込んだ。
いまや日本の企業が持つ利益剰余金は金融、保険業を含めれば507兆円となり1年分のGDPに匹敵する余剰金がある。

5.規制緩和の遅れがもたらした賃金低迷
通信や交通などの公共料金分野は、規制緩和の遅れで新規参入を阻害した結果、適正な価格競争が起こらなかった。
スーパーやコンビニ、スマホ、宅配便、外食産業といった業種では、価格が低く抑えられてきたために、賃金がいつまでたっても上昇しない。

 
確かにこのようなことがあるのは確かである。
ただ、一般国民の賃金の「低位安定」の状況を問題視しなかった政府や経営者に問題があるのだろうが、
この筆者は最後にこのように纏めている。

日本国民は極めて素直で、従順な民族だから、
政府が一定の方向性を示すと素直に従う習慣がある。
賃金より雇用という大きな流れの中で、我慢し続けている国民がいるわけだ。」

 
★ 私自身は極めて優遇された時代環境の中で、自らの給与は上がり続けたのだが、
 サラリーマンの最後の時期には経営者の端くれみたいなこともやったが、
 2度「従業員の給与水準の引き上げ」をやっている。
 
●その1回目は90年代半ばカワサキの国内販社担当の時期、
 7万台の販売目標を達成して、会社の業績は売上高400億円総資産100億円自己資本35億円という絶頂期ではあったが、
 当時のカワサキモータースジャパンの従業員の給与水準を上げている。
 川重籍の従業員との給与水準の格差があったので、それを幾らかでも縮めようとした。
 
●2回目は、最後に担当した北海道川重建機でも一般従業員の給与水準を上げている。

どちらの会社も労働組合などないので、TOPが判断して実行しない限り、
賃上げ」などは実現しないのである。
従業員の賃上げ」などおやりになった方は珍しいとは思うが、
 そんなことが出来る機会に巡り合えて「よかったな」と思っている。


 
 
 



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私のアーカイブス・定年後  その4

2021-11-27 06:51:28 | 自分史

2003年に70歳になった。
 わが家系は祖母は101歳、母は103歳まで長生きしたのだが、
 祖父は私が生まれたときにはもうこの世にはいなかったし、
 父も伯父も50歳代で亡くなって「男は早く死ぬ」と思っていたので、
 70歳になったときは、「不思議だな」と思ったのである。

 それが今88歳でも元気なので、これは祖母と母のDNAのお陰だと思っている。
 そんな70歳代の始まりである。


★この年には孫の門野真也が小学校に入学している。
魚や昆虫が好きで、魚とりやカブトムシ採りにしょっちゅう付き合わされているのである。

 「好きこそものの上手なれ」とはよく言ったもので
 カブトムシなどこんなに沢山採ってきていたのである。

  

 
  
 カブトムシは或る公園のある1本の樹に、なぜか群がっているのである。
 そんな樹さえ見つければ、行くたびに何匹でも取れるものである。
 
 そんな孫たちの遊び相手にも時間を割いているのだが、
 長男の力也と真也がサッカー教室に入っているのだが、
 力也は兎も角、「真也は運動はダメ」と日記に書いている。
 サッカーよりは虫取りに興味があったようだし、こんなに太っていて

 


 リフテイングも「5回出来た」と喜んでた時代である。


★この年よく覚えている出来事があった。
 私は今は、ブログなど毎日世に発信をしているのだが、
 若いころから日記も書き、現役時代は基本方針などみんな文章にして書いて残していたのだが、世の中一般の外に向かっては投書などは勿論一切自分の意見など言ったことはなかったである。

 廣野ゴルフ倶楽部はこんな立地で神鉄緑ヶ丘駅のすぐ前で、
 公道にこんなに長く接しているのである。
 私はこの横を通って毎日明石まで車で通っていたのである。




 廣野ゴルフ場は何度かプレーもさして頂いていて、それは見事というほど綺麗なのだが、
 当時はこの道に面した部分は草茫々で、お世辞にも綺麗とはいえる状況ではなかったのである。
 会社に通っている時代からずっと「何とか綺麗にならないかな」と思ってはいたのだが、それは言い出せないままに何十年も経っていたのである。

 外に対して意見など言ったこともなかったし、
運動部育ちは、年上の人に例え正論であろうとも意見するなどは考えなれなかったのである。
永年の思いをやっとこの年に「70歳になったし、思い切って言ってみるか」と
この年の5月に廣野ゴルフ倶楽部の理事長さんあてに1通の手紙を書いたのである。

公道に面している部分は、社会と繋がっていると言えます。
 社会的地位の高い方がメンバーの廣野ゴルフ倶楽部ですから、
 そこに接する社会の人たちに嫌な思いをさせるべきではないと思います。」と思い切って書いてみたのだが、
 理事長さんからは非常にご丁寧なご返事を頂いて、即刻草は刈られたのである。

 以来20年の月日が流れているのだが、毎年何回か整備をされて、
 今のような状態が保たれているのである。

 この一件は「外には意見を言わない」態度を変えさせたのである。
 ちゃんと発信すればちゃんと対応して頂けるということが解って、
 大げさに言えば、その後の「私の人生が変わった」そんな出来事だったのである。
 そういう意味で、廣野の理事長さんに感謝なのである。


★ そんなこともあった「私の70歳」ではあるが、
 パソコンでの「パンダ碁」を始めたのもこの年だし、
 今も続いている「薔薇」に興味・関心を持ち出したのもこの頃なのである。

 日記を読み返してみると
 飼っていた犬のトム・ラブのトムのほうがちょっと調子が悪くなってる。
 息子と沼島に鱧釣りにも出かけたりもしている。
 この年阪神タイガース星野監督優勝をしている。
 野手では、今岡・赤星・金本・桧山・矢野・藤本など。
 井川がエースで、下柳藤川など懐かしい名前が並んでいる

 娘婿が勤めていたノーリツのアメリカ市場進出が決まって、
 12月には娘婿はアメリカに出張しているし、
 年末の12月30日には単身アメリカに滞在が始まっているのである。

 70歳、ある意味定年後の新しい生活スタイルが始まった年だとも言える。


 


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軍歌  雑感

2021-11-26 06:52:21 | 発想$感想
★私の小学生の時代は「太平洋戦争」の最中で、軍歌とともに育ったようなところがある。

 戦時中で音楽の時間などはなかったのでは? と思うのだが、
 所謂「こどもの歌」など習った記憶はなくて、
 「ドレミファソラシド」は敵国の言葉だからと、
 「はにほへといろは」と教えられた記憶はあるそんな時代なのである。

 日本の軍歌の歴史は明治以降、戦争とともに生まれていて、
 1894年に日清戦争が勃発すると新聞社が軍歌を公募するなど、
 1904年日露戦争開戦直後から楽曲発表が相次いだのだという。

 太平洋戦争開戦とともにさらに数多くの軍歌・戦時歌謡が作られて、
 こんなに沢山の軍歌があったようだが、
 全部を知っている訳ではないが、多くの歌が記憶に残っている。


 


中でも「海行かば」は「国民の歌」に指定されたこともあって
 
 海行かば 水漬く屍
 山行かば 草生す屍
 大君の 辺にこそ死なめのである
 かへり見はせじ 

 これは確か1番だけの歌だから、今でも鮮明に歌詞を覚えているのである。
 

★小学生の頃の旧い時代のことなのだが、
 今でも1番くらいの歌詞は覚えているから不思議である。

 ●加藤隼戦闘隊
  エンジンの音轟々と
  隼は征く雲の果て
  翼に輝く日の丸と
  胸に描きし赤鷲の
  印はわれらが戦闘機

  これはまだ勝ち戦が続いたころだったと思う。

 ●轟沈
  可愛い魚雷と 一緒に積んだ
  青いバナナも黄色く熟れた
  男世帯は 気ままなものよ
  髭も生えます
  髭も生えます 無精髭

  この歌には思い出があって、父と一緒に風呂に入っている時に唄ったら
  「子供はそんな歌は歌うな」と言うのである。
  何故かなと不思議に思ったのだが、父は多分初めて聞く歌だったのだろう。
  その歌詞を文字で見たわけでもなく、聞いただけだから
  「青いバナナも黄色く熟れた、男女体は気ままなものよ・・」
  と思ったのだと思うが、
  それを聞く機会はその後もなかったままなのである。
  早く逝ってしまった父との数少ない思い出の一つなのである。

 ●ラバウル小唄
  さらばラバウルよ又来るまでは
  しばし別れの涙がにじむ
  恋し懐かしあの島見れば
  椰子の木陰に十字星

  この戦争は開戦以来ずっと「勝ち戦」だったのだが、
  この歌を契機に「負け戦」に転じ、敗戦へとつながるのである。


 ●戦友
  これは満州事変の時の歌だが、
 1番から4番あたりまでは覚えているのだが、
 14番まで続く長い歌なのでそこから先は覚えていない。

 ここはお国を何百里離れて遠き満洲の
 赤い夕日に照らされて友は野末の石の下

 思えばかなし昨日まで真先かけて突進し
 敵を散々懲らしたる勇士はここに眠れるか

 ああ戦の最中に隣りに居ったこの友の
 俄かにはたと倒れしを我はおもわず駈け寄って

 軍律きびしい中なれどこれが見捨てて置かりょうか
「しっかりせよ」と抱き起し仮繃帯も弾丸の中

 このように物語風なので4番位までは覚えられたのだと思っている。
 それにしても、子供の頃の記憶はなぜ忘れないのだろうか?

 

★ 終戦後は軍歌など全く作られてはいないのだが、
 世界の国歌を見ると、軍歌に近いものも多いようである。


 



 フランス国家などが有名で、
 この歌は出征する部隊を鼓舞するために作られて、
 そのタイトルは最初は『ライン軍のための軍歌』だったのだが、 
 市民の間で流行したので、元々の題名ではなく『ラ・マルセイエーズ』という形で定着し、
 後に国歌として採用されたというのである。


★突然、軍歌などの話だが、
 昨日「紅白歌合戦」のことを書いたので、
 子供時代に唄っていた歌は殆どが軍歌だったので「軍歌」を思い出したのである。

 
 
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紅白歌合戦  今昔  雑感

2021-11-25 07:39:20 | 発想$感想

★ 今年の紅白は「2年ぶりで有観客で・・」というニュースが流れた。
 昨年の紅白が「無観客で行われた」ということも全然知らなかった。
 全く関心などなくなってしまっているのである。


 紅白歌合戦は、私が高校生の頃に始まった。 
 戦後と言われた時期が何となく終わって、
 日本社会の中にようやく「娯楽ムード」が現れ始めた頃だったと思う。
 
 紅白歌合戦は1951年にラジオでスタートし、
 テレビ放送が始まったのは、第4回の1953年からだとか。  
 第3回までは新年が明けてからの放送で、
 1953年の第4回からはいよいよ大晦日の放送になり、テレビ放映がスタートしたとある。

  
これが第4回の紅白歌合戦、テレビで放映された最初の紅白なのである。
まだ一般家庭にはテレビなどもない時代だったが、
歌声喫茶」などもあって、喫茶店などにテレビを観に行ってたころである。
当時の「流行歌」は娯楽の中心であったのかも知れない。
 
 
   
 
 その時の、紅白出場歌手とその曲目だが、
 歌手も曲目も殆ど想いだすし、歌える曲が殆どなのである。
 
  
  

かってあれほど日本国中が沸いた紅白歌合戦も今は全然様変わりのようである。
 その視聴率の推移をみると

 


一時大晦日はどの家庭も『紅白歌合戦』で、大晦日の民放は、半ば諦めていた時代もあったし、
歌手たちも紅白に登場することが「一流」の証明でもあったのだが、
昨今は全然「様変わり」のようでらる。

 
★ 今年の紅白の出場歌手を調べてみたら
紅組」で名前の解るのは4人だけだし、

  
 
 「白組」に至っては、歌手として解るのは2人だけで、
 福山雅治が歌手だとは解らなかったのである。
 
  
   
 最初の紅白を見て、テレビ時代を紅白と共に過ごした世代としては、
 ここでも『昭和は遠くなったな』と思うのである。
 「昭和」は兎も角、世は「平成」を終わって
 「令和」の時代なのである。

 多分、今どきの若い人たちは
 私が若いころに「浪曲」を「なんだこれは?」と思ったと同じように、
 「昭和の歌謡曲」を見ているのではなかろうか?
 最近放送される「歌番組」で「昭和の演歌」を聞いてみると
 全く「違った曲」のような歌いぶりなのである。

 まあ、時代はどんどん新しくなっていくのである。


 
 
 





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私のアーカイブス・定年後  その3

2021-11-24 06:47:40 | 自分史

★2001年が定年後3年目なのだが、68歳でもう60歳台も最後の2年間である。
北海道川重建機の顧問期間も5月末で終わって、
6月からは「年金」だけの「定年後の生活」が始まっている。

7月8日に突然娘婿の門野匡秀がやってきて「パソコンを買ってくれ」というのである。
何か会社で一括して買ったようだが余ったのでということだったと思う。
富士通のパソコンだったのだが、どんな形だったのかも定かには覚えていない。価格は18万円だったのだが、安かったのかどうかもよく解らない。

それまではパソコンなど全く「無縁の存在」だったのである。
パソコンも携帯電話も普通に使われていた時代なのだが、
私は現役時代は一切関係なく過ごしてきたので、これがパソコンとの全く初めての出会いだったのである。

パソコンに堪能な方と二人でやってきて、セッテングなど全部してくれたのである。
Nifty が何なのか、未だによく解らないが、
ユーザー名もメールアドレスもその時設定してくれたままで、
私のメールアドレスは「・・・・nifty.com」なのである。
パスワードは結構ムツカシイのだが、その時その方が作ってくれたものを今でもそのまま使っている。




 
 どんなパソコンだったのかも記憶にないのだが、
 1998年代のパソコンの写真はこんな感じなので、
 この写真の左のものに近かったのではと思っている。

 そんなことから、突然私の「パソコン生活」が始まるのだが、
 独学で、本など買ってきて結構一生懸命勉強していて、
 「パソコン漬け」の生活が始まっているのである。
 1か月後の日記には「パソコンだんだん解ってきた」とあるし、
 10月にはExciteの表も作っているが、今はそんな表は作ることもないので、
 その作り方などはすっかり忘れてしまっている。

 然し、このパソコンの出現はその後の私の生活の基盤になっていて、
 若し、あの時娘婿がパソコンを持ってこなかったら、多分自分でパソコンなどの世界には入っていなかっただろうと思うし、
 そういう意味では娘婿に感謝なのである。

 だからこの時期の最大の話題は「パソコン」なのである。


★2001年には「アメリカ同時多発テロ事件」が発生している。
 それはこの年の9月11日のことなのである。

 

 
 これは今でも鮮明に覚えている。

    そんな大事件のあった年ではあるが、
 私の当時の生活はまことにのんびりしていて、
 水泳に行ったり、犬の散歩をしたり、庭木の剪定など静かに始まっている。

 なぜか鋏を使うのは好きで、庭木の剪定などは自分でやろうと思っていた。
 だから、将来高い梯子に上らなくても剪定ができるようにと、
 立派な背の高い木の天を思い切って切ってしまったりしているのである。
 このあたりが私らしくて、「思ったらすぐ実行」なのだが、
 今思うと「よく思い切って切ったな」と思う。
 背が高く立派に育っていたのだが、その3分の1ほどを切ってしまったのである。

 そんな判断のお陰で、それから約20年経って今はこんな状態で
 何とか「見られる」ようにはなっているし、
 高い梯子に上らなくても剪定ができるので「正解だった」と思っている。

 尤も、プロに頼んで剪定をしてもらえば、庭の木はもっと立派に育ったのだろうが、
 それでは自分でする「選定の楽しみ」がなくなるので、
 どちらがいいのかは、大げさに言えば「生き方の問題」だろう。

 


 高い梯子は必要ないので、88歳の今も庭木の剪定は大丈夫なのである。


★家もずっと永年手入れもせずに放っておいたので、トイレも直したし、床の張替えなどもやって何とかきれいになったのである。
台所のキッチンユニットなども100万円の単位の出費ではあったが、
思い切って新調しているのである。
そんな「今後の新い生活への備え」みたいなものをやった年だったのかも知れないが、
まだ現役時代の最後のほうの、子供たちへの出費もなくなって「裕福な時代」の生活態度が抜け切れてなくて、
 今思うと「結構な出費」をあまり気にせずにやっている。

大したものではないが玄関にこんな椅子を買ったのもこの時期で、
何度か塗装をやり替えたが、もう20年も経っているのである。

 
 

 なんでも「欲しいものはすぐ買った」そんな時代だったようである。
 それから20年も経った昨今は、全く生活態度が変わってしまって、
 「大きな出費など全くしない生活」が続いている。
 不思議なほど「何も欲しくないのである」のである。

 こんなのが所謂「老後の生活」で、
 まだこの時代は「老後の生活の準備」の時代だったのかも知れない。
 

★この当時は娘の家族もまだ西神にいて、
 孫たち3人がまだ小さかったので、結構いろいろと「遊んでやっている
 水泳は殆ど孫たちと一緒だったし、
 いまよく散歩に行く三木山森林公園に虫取りの付き合いなどしたのもこの頃である。

 1月には74キロだった体重が80キロに増えてしまった年でもある。
 まだ整形外科のお世話にもなっているのだが、
 ゴルフはまだ40台の前半で回れている、そんな60歳台の終わりの2年間である。


 
 
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コロナ新感染者全国で50人・もう終わった?

2021-11-23 06:32:27 | 私の生き方、考え方&意見

★「私の生き方・考え方&意見」というカテゴリーで書いている。

 昨日の全国コロナの新感染者は50人。
 こんなレベルになると、「もうコロナは終わった」と言ってもいいような気がする。
 

 全国で33県がゼロ人なのである。


 

 

 誰もあんまり言わないが、
 私は「菅総理のワクチン接種方針」が正解だったと思っている。
 徹底的な「ワクチン接種」が機能して、こんな数値になったのだと思う。


  

 
 所謂、専門家先生方は兎に角「ムツカシイこと」ばかりを仰るが、
 全国で50人という数値は、ゼロに等しいのではなかろうか?
 マスコミも煽ることばかりだが、
 ずっと、ずっと以前から、
 世界の先進国の中で、日本のコロナ感染者数は桁が全然違っていて、
 「コロナ対策の失敗」などなかったのでは?と思ったりしたのだが、
 マスコミの論調は「コロナ対策の失敗」と煽ったようなところがある。

 確かに、世界全体ではまだまだ終わっていないのだとは思うが、
 日本の場合はよほど間違いを起こさない限り「大丈夫」なのではないかと思うのだが、
 専門家先生などは危ない危ないと仰るのである。
 「よほどテレビの出演料」が欲しいのかなと思ったりする。

 コロナに限らず、世の中の「カシコイ」とかエリートと言われる人達は
 「危ない」「問題だ」などと悲観的なことばかり仰るのである。
 そんなことを言うばかりで、具体的な対策は示さない。
 そんな「エリート」と言われる人たちはどうも好きになれない。

 私自身はまさに「太平楽」で「超楽観的な性格」で
 世の中に「大変なこと」はあまりというか、殆どないと思って生きてきた。
 別に「大した事」もしなかったが、対処した事柄は殆どいい結果に終わったのである。

★ 私の88年の人生で「大変だ」と思ったのは「昭和20年の終戦の時」だけである。
 確かに、あの8月15日を境に世の中は一変したのである。
 それに比べたら「コロナ」などそんなに大したことではないのではなかろうか?

大変だ」と悲観的に言ったら賢く見えて、
大丈夫」と楽観的に言ったらバカにする。
 そんな発想は、もういい加減にやめて欲しいのだが、ダメかな?


 
 
 
 
 
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大谷ボブルヘッド人形     雑感

2021-11-22 07:26:36 | 発想$感想

★ こんな「大谷翔平ボブルヘッド人形」があるのをご存じだろうか?
 実はこの二つの人形は我が家にあるものなのである。







 連日「大谷人気」で盛り上がっていて、
 世の中はこんなに沢山の「大谷グッズ」が存在しているようだが、


 


 そんな中の一つに「大谷ボブルヘッド人形」もあって、
 結構な人気のようで、検索するとこんなに沢山の人形が並ぶし、
 それがどれも結構高価なのである。


  



 そんな中の一つに「JAEの大谷人形」もあるのだが
 それは59、820円とべらぼーに高価なのに驚いたのである。

 前述したように、この大谷ボブルヘッド人形は二つとも我が家にあって、
 このように飾られているのだが、
 こんなに高価なものだとは実は今日まで知らなかったのである。


 

   

ボブルヘッド」とは何かなと改めて調べてみたら、ヘッドが回ることのようで、
そのことも初めて知ったし、触ってみると確かに首が回るのである。

 59,820円が二つもあるから10万円以上の値打ちなのにはほんとにびっくりなのである。



★ JAEという会社は「日本航空電子」というのだが、
 そのアメリカ支社が大谷翔平が所属するエンゼルスのスポンサーをしていて
 こんな広告がテレビに映るのをご覧になった方も多いと思う。

 


 そのJAEのアメリカ支社娘婿が勤めている関係で、
 何年か前にアメリカに遊びに行ってた時にエンゼルス球場にご招待いただいて、

  
      

 
 大谷翔平をナマで見たし、確かその時に人形の一つを頂いたのである。


  


★そして、これは今年の4月のことなのだが、
大谷翔平日米通算100号ホーマーの記念」にと
 我が家にこんな『SHOHEI OHTANI 人形』が届いたのである。

 通算100号、今年の22号ホームランと記されている。

   

 
 突然のことでびっくりしたが、JAEの顧問の方がわざわざお送り頂いたのである。
 JAE・日本航空電子は川崎重工業ともいろいろ関係があって、
 元、川重社長の田崎雅元さんとJAEの方が懇意になさっていて、
 私のことや娘婿のことが話題になったことがあったとか。

 そんなことで届いた「大谷人形」なのだが、
 今回の「大谷翔平MVP」で、こんな高価格になったのだろうか?


 JAEさんにはエンゼルス球場のこんな特等席で野球を観戦させていただいたし、
 
 


 
 こんな「大谷翔平ボブルヘッド人形」も頂いて、
 まさに「感謝・感謝」なのである。
 末永く大事にしたいと思っている。

    こんな「大谷翔平人形」を毎日見つめながら、
 私も野球一途に明け暮れた青春時代を思い出し、
 残りの人生を頑張って、走り続けたいものだと改めて想っているのである。

 
 
 
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最近のネットのニュース

2021-11-21 06:08:29 | 発想$感想
★最近は「ネットのニュース」ばかりでさっぱり新聞を読まなくなった。
 「ネットのニュース」は早いけど、新聞になると1日遅れで旧聞に近いからでもある。

 特に最近人気の女子ゴルフなどはその途中経過なども報じられる。
 昨日など「女子プロゴルフツアー 大王製紙エリエールレディス 第3日」の様子はなぜかテレビはなかったのだが、ネットではこのように流れた。

賞金ランク1位の稲見萌寧、渋野日向子、西郷真央の注目組が前半9ホールを終了し、ともに7アンダー
4ホールを終えた三ケ島かなが13アンダーで単独首位。3つ伸ばした原英莉花が1打差の12アンダーの2位で続き、柏原明日架が11アンダーの3位につける。
賞金ランク2位の古江彩佳は10番から出て前半にスコアを5つ伸ばし、7アンダーの6位に順位を上げている。」
 と報道されてこんな写真が載っている。




★人気の女子ゴルファー「渋野日向子」には「渋野日向子速報」という項目があって、
 いつのゴルフでもそのスタートからスコアを追っかけている。
 昨日は前半は確かに7アンダーなのだが、
 後半一つ落として最終日の今朝は、6アンダーでスタートである。

 このニュースが報じられたのは昨日の14時5分だから、即刻報じられていると思っていい。



 

★さらに詳しいこんな1ホールごとの写真も写されていて、
これは18番なのだが、





 1番ホールからすべてのホールの写真が載っている。
 写した人の名前も載っていて、同じ方だから朝からずっと渋野日向子を追っかけていることになる。


  


 こんな人気選手などの情報は渋野日向子に限らず、
 阪神タイガースでも大相撲でもみんな速報がある。
 そのスピードはとても新聞などでは追っかけられない。
 まさにニュースの世界なのである。


 
 

  
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大谷翔平の「南部の国の人の良さ」    雑感

2021-11-20 06:42:37 | 発想$感想

大谷翔平が大リーグのアメリカンリーグのMVPを満票で獲得した。
 昨日はどのテレビも「大谷翔平」ばかりだった。

  


 野球の本場アメリカ大リーグでのMVPである。

 選手間投票による年間最優秀選手
 7年ぶりの選出となったコミッショナー表彰  
 米誌「ベースボール・アメリカ」の年間最優秀選手
 米メディア「スポーティング・ニュース」の年間最優秀選手
 などなど、それぞれ選出されて、今オフはこれで“8冠”となったという。

 さらにはギネス世界記録にも次の二つで認定されたとか。
 その1つは「投手として100投球回、100奪三振をマークし打者として安打、打点、得点で100超えをマークした初の選手
 もう1つが「オールスター戦で投打の二刀流で先発出場した初の選手」としてということのようである。


★これは凄いことである。
 今後、大谷翔平はどんな選手になっていくのだろうか?
 よくベーブルースと比較されるが、既にベーブルースを超えているように思う。

 そんな大選手に、既になっているのに「あの謙虚さ」がいいし、
 目標を一筋に追い続け、「お金」などには拘らない「純粋さ」みたいなのがいい。

 「大谷翔平」は岩手県かっての水沢(今の奥州)の出身だという。
  岩手県は東西100キロ、南北200キロの広さだが、
  200キロと言えば神戸から名古屋まで
  そこには兵庫・大阪・京都・滋賀・愛知の5県があるので、
  その広さはお分かり頂けると思う。
  ただ、県の人口は120万人という、「まさに田舎大県」なのである。

 


 私は若いころ東北6県を担当していたのだが、
 当時の「実用車時代のカワサキ」では
 岩手県が毎年最大の販売台数を上げて「金賞」に輝き続けたのである。

 「田舎なれども南部の国はよ 西も東も金の山」と唄われる
 「南部牛追い唄」の岩手県の人たちは
  幾らトップに立ち続けても、
  純粋に素朴で実直で、威張ったりはしないのである。
 
  そんな南部の国の人たちに、私は自然な愛着を持っていて
  「岩手県」は日本で一番好きな県かも知れないのだが、

  「岩手出身の大谷翔平」にこの「南部の国」の人たちの伝統を感じるのである。
 

★ 大谷が育った「花巻東」はまさに「南部の国」なのである。
  
   

 
  高校生時代に160キロを記録し、
  卒業時に大リーグを目指していたのを
  日ハムが独り指名をしてからの経緯やその後の大谷を見ても、

  人生に対して非常に素直だし、
  ただひたすら目標に向かって前進し
  何よりも「お金に拘らない」ところがいい。

  そんな岩手の人南部の人らしい「大谷翔平の良さ」に
  日本人だけでなく、アメリカの人たちも自然に惹かれるのだと思う。

★ いろんな野球の先人たちに、いろいろと言われた大谷だが、
  既にその人たちの一歩上に位置するところに来たのだと思う。

  これからも岩手県人・南部の国の人の良さを受け継いで
  さらに前進を続ける「大谷翔平」を来シーズンも見たいものだと思っている。
  まさにそれは「前人未踏の世界」なのだと思うのである。


 
 











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私のアーカイブス・定年後  その2

2021-11-19 06:46:52 | 自分史

★1999年の6月まで札幌の北海道川重建機の社長を務めていたが、
 お約束通り2年間でその職を辞して三木に戻ってきた。
 
 そんなことでこの年の6月以降が私の定年以降の生活が始まったのである。
 
 これは娘のほうの次男・門野真也今はサッカーのプロ選手だが、
 まだこんなに小さかったし、家には柴犬トム・ラブがいて、
 犬の散歩が日課の一つであった。

   振り返ってみると我が家にはずっと犬がいたのだが、
 2匹いたのはこのトムとラブの時代だけである。

 

  

 それ以前には、近所に捨てられていた子犬を娘と私が拾ってきて、
 可愛がっていたのだが、ある日突然車にひかれて死んでしまったのである。
 

 これがそのコロだが、犬も若いが娘も若い。確かまだ大学生のころである。

 


 ちょうど娘の長男・門野力也が生まれた直後のことで、
 娘が悲しむものだから、産後に悪いとまずラブを買ってきたのである。
 その3日後ぐらいに、西神のそごうの犬の売り場にトムがいて可愛いいと思って、
 私が衝動買いしてきたものだから、つがいの柴犬がいたのである。

 何年かのちこんなかわいい子犬も産まれたのだが、
   これは流石に飼えなくて知人に差し上げたりしたのだが、
 血統証をつけるのに8万円ほどかかってびっくりした。

 

 
そんなことで、このトム・ラブは孫・力也と同い年で15年ほどいたのだが、
この頃は8歳ぐらいのころである。

 札幌に2年間いっていた時に三木に戻ってきたときの喜びようは、めちゃ可愛かったのである。
 そんなことで定年後の生活の中で「トム・ラブ」は結構大きなウエイトを占めていた。
 

★ このまさに定年後の始まりの時期は、私もまだ66歳で、20年以上も前のことなのだが、日記を読み返してみると
 体重は75kgで、今の体重の83kgより8kgも軽いのだが、
 運動不足で足腰が痛くて、整形外科にずっと通っている。
 整形外科の先生に「時間が出来たのだから、ストレッチでもされたほうがいい。筋肉は何歳になっても付きますよ。」
と言われてストレッチを始めたのが2000年の2月67のころである。

 毎朝の「ストレッチ」は今も続いていて、22年続いていることになる。
 お陰様で、現在は体も柔らかいし筋肉も結構ついているのだが、
 この時期はストレッチの効果はすぐには現れずに、その後も3年ほどはずっと整形外科にも通っているのだが、
 いつの間にか日記に「整形外科」が出てこなくなって、それ以来筋肉が張ることはあるのだが、ひざや腰痛とは無縁の状態が続いている。
 「ストレッチ」が効いているのだと思う。


★ 定年後と言っても、2年間は顧問料を頂いていたので、
 経済的にはこの頃が一番余裕があったのだろう。
 何にもしなくても毎月結構な額が入ってくるのである。

 そんなことで2000年にはBMWの新車を買ったりしているし、
 家内とも国内だがあちこち小旅行を楽しんでいる。

 それ以前から、私は魚が好きで、庭に池を造って鯉を買っていたのだが、
 札幌から戻って、さらに鯉に凝っている。
 日記に「鯉2匹5万円」などの記述がある。

 池にかけた費用も結構な額だったし、水を循環するポンプの電気料だけでも
 相当な額で、電気代の集金に来るおばさんがいつもびっくりしていたのである。

 

                    



 そんな鯉も2008年までいたのだが、
 この年に「鯉ヘルプス」に罹って全滅してしまったので、
 そこで諦めて池も埋めてしまったし、きれいさっぱり「」とは惜別したのである。

 


 池を埋めてしまった直後の庭はまさに埋めてしまったのだが、
 今はこんな形になっている。




 
 こんな庭の様子の変遷を見ても、生活の様変わりがよく解る。
 今でも魚は好きなので、小さな池に金魚やメダカを飼っているが、
 その出費額は鯉の時代と比べると「カワイイ」ものである。

 そんなことで、私の定年後の2年間は結構豊かな生活から始まっているのである。


★ そのころから20年以上も経って、今は88歳ということもあるのだが、
 コロナということもあって、私は殆ど金など使わない。
 毎月出ていく現金は、ジム代1000円と金魚の餌代、たまに植木を買ったりするぐらいなのだが、
 今月は、今年はじめてのゴルフもしたし、新しいパソコンも買ったので、
 結構な出費だった。

 よく考えてみるとそのほかにも毎月車のガソリン代や、ネット関連の支出もあるのだが、それらは自動引き去りされるものだから、
 「自分で使った」という意識がないのである。
 
 然し定額の年金の中で賄えているので、年金生活は悪くはないのである。
そんな「年金」だけの「年金生活」は2001年68歳から始まったのである。

 
 
 
 
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カワサキZ1/Z2が「日本自動車殿堂の歴史遺産車に認定」

2021-11-18 05:35:41 | カワサキワールド

★カワサキZ1/Z2が「日本自動車殿堂の歴史遺産車に認定」されたという嬉しいニュースが流れた。

 昭和47年(1972)に発売され、来年は記念すべき50周年を迎えるのだが、50年経った今もなお多くのバイクファンに愛され、走り続けている名車である。

「大排気量のスーパースポーツバイクとして開発され、海外市場で高く評価され、日本仕様のZ2と合わせて空前の販売台数を記録し、カワサキのブランド構築の源流となる歴史的名車である」
ことがその選考理由となっている。






この10月1日に新しくスタートしたカワサキモータースの代表取締役社長の伊藤浩さん(写真左)が、表彰式に出席し、
「Z1は1972年に製造を開始し、来年には50周年の節目の年を迎えたいま、素晴らしい賞を頂けたことをこのうえなく誇りに思います」とコメントしている。






★このZ1が開発された時代は、カワサキが二輪車生産を開始した昭和35年(1970)からほぼ10年を経過し、
 新しくアメリカ市場への進出が250A1やマッハⅢのスポーツ車によりようやく軌道に乗り始めた時期で、
 このZ1によりアメリカ市場で確固たる地位を築き得た車なのである。
 
 その開発責任者は大槻幸雄さんなのだが
「Z1の開発計画書には手書きで“能世界一”」と大槻さんらしい「思いがこもった一節」が書かれてあったという。

その大槻さんは、2019年に自動車殿堂入りされているし、
当時のアメリカのKMCは、同じく2014年に自動車殿堂入りされた濱脇洋二さんで、日本の開発本部の大槻さんとの二人三脚での開発だったのである。

 大槻幸雄さんは1966年、初めての富士スピードウエイでの日本GP までは、カワサキのレース監督をされていて、
私はチームのマネージャーをしていたのだが、この年のレースを最後に技術本部の市販車開発分野に戻られたのである。
 私もこの年でレースから離れ、東北6県の営業担当となるのだが、
 1967年の春に東北の代理店会議に来られた大槻さんが私に、「世界一のバイクを創る」と言われたのだが、
 この時大槻さんのアタマにあったのが「Z1」だったことは間違いないのである。

 その開発当初は750ccで開発されていたのだが、
 1969年にホンダがCB750FOURを発売したので、急遽900ccに変更され、あくまでも「世界一」を目指されたのだと思うが、
 国内市場は750ccまでという規制があったので、国内市場のみ「750Z2」ということになったのである。

 当時私は大阪市場を担当していて、業界に先駆けて「二輪車専門販売網=カワサキ特約店制度」を推進していたのだが、
 この「特約店制度」がスムースに軌道に乗ったのも「750Z2」があったからだとも言えるのである。

 今回新しくスタートした新会社カワサキモータースのミッションは、
 Kawasaki.Let the good times roll なのだが、
 このフレーズも、Z1発表1年後の米国で使われ始めたものなのである。

 このミッションも20年ほどの空間があったのだが、1990年代に国内市場で復活し、
 今回改めて「新会社カワサキモータース」のミッションとされたことは、
 50年ほど前の「カワサキのZ時代の企業風土」が今に生きているということなのである。


★これはごく最近、11月10日に開催された大槻幸雄さんが会長を務められる「Z1会」の写真である。
 「第78回」とあるように延々と続いているコンペで、92歳の大槻幸雄さんはまだ現役でプレされている。
 濱脇洋二さんも、エンジン担当の稲村さんもデザイン担当の多田さんもかってはプレーされていたのである。
 
 この「Z1会」はスタートは技術部のメンバーだけであったのだが、
 製造部も営業関係もレースライダー諸君もさらにはZ1ファンたちもメンバーに加わって、このように盛大に行われているのである。

 


 
 これはこのコンペの表彰式での大槻幸雄会長である。
 今年はコロナでこの1回だけだったが、
 来年は通常に戻って「年4回」のコンペになることを願っているのである。

  


 
 78回も続いているコンペなのだが、
 私はその第11回に優勝させて頂いて、家にはこんな盾が残っている



 いろんな意味で、私にとってもいろいろと想い出多いZ1なのである。

 そのZ1/Z2が 日本自動車殿堂の歴史遺産車に認定されたことは、
 本当におめでたい喜ばしい出来事なのである。

 
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松本新さんのこと

2021-11-17 07:02:40 | カワサキワールド

★ 「当社元副社長・松本 新 あらた 様(享年92歳)におかれ ましては11月7日にご逝去されました。 ここに謹んでお知らせいたします。」
という訃報が届いた。

本当にお世話になった松本新さんだっただけに、
一度改めて当時のお礼をと思っていたのだが、その機会もなく逝ってしまわれたのである。

 KMCの経営危機で当時の単車事業本部は勿論、本体の川崎重工業まで、その影響で無配になってしまった当時、
 松本新さんは本社の財務担当常務だったのである。

 川重本社はこのKMC対策のために2年間で500億円の資金を投入し、
 その再建にあたったのだが、本社でその先頭に立たれたのが松本新さんなのである。
 松本さんは第一勧銀から川重に来られたのだが、単車事業に非常に強い関心と愛情を持たれていて、
 いろんな面で援けて頂いたのだが、当時単車に関わられたのは、財務対策・資金調達の面だったので、表に出ることは少なかったので、
 当時の事業本部の殆どの方は松本さんのことはご存じないのだと思うのである。

 若しあの当時、本社の財務対策がなかったら「カワサキの二輪事業は終わってしまっていた」であろう、それほどの経営危機だったのである。

 当時は大庭浩本部長・高橋鐵郎副本部長の時代で私は企画室長だったので、
 松本さんと直接関係があった窓口を務めたのである。

 手元に田崎さんが送ってくれたこんな写真があるが、
 一番右が松本新さんである。
 真ん中が高橋鐵郎さん、左は当時のKMC社長の田崎雅元さんである。

 



★ 当時の川崎重工業の取締役会では「KMC報告」なるものが
 毎月議題にあり、その報告者は大庭本部長ではなく「松本常務」だったのである。
 それは財務本部が500億円もの資金を投入した先のKMCの経営状況経過を毎月の取締役会に定例的に報告されるほど、
KMCの経営健全化」は川重本体にとっても大きな課題だったのである。

 この毎月の「KMCの経営報告」はKMCから企画室に送らた資料を
 私が川重取締役会用に纏めて、松本さんに報告しそれを松本さんが財務担当報告者として取締役会に報告されていたのである。

 私はそんな担当をしていたので取締役会にも陪席していたし、
 松本新さんとは親しくお話する機会も多かったのだが、
 絶大の信頼を頂いて、いろんな面でお世話になったのである。 

★こんな経営健全化を進めている時期に、KMCの4か所にも分散していた社屋を本社を売却することで1か所に統合しようという案を提出した時には、
 「赤字会社が」と監査役が反対されて、松本さんも立場上最初は反対されたのだが、
 その内容をつぶさに説明すると理解を示されて、こんな立派なKMC社屋が建ったのである。



 
 
 それは今のIrvine がまだ開拓途上のころでサンタナの本社を売却することで
 こんな広大な土地が買えたのである。
 これは工場などではなくて「事務所」なのである。
 日本では考えられないような広さだが、
 土地はサンタナの本社売却代で買えたし、本社建築費は18億円でできたのである。
   
 


 たまたまNinja 900などの新車も出たし、
 ジェットスキーの急激な拡販などもあって、
 KMCの経営健全化は順調に進み、カワサキの二輪事業も安定期に入って行くのである。

 そんな一番のきっかけは何と言っても本社財務の500億円の資金投入であったことは間違いなく、
 その大きな決断をされた「松本新さん」には、本当に感謝なのである。

 92歳のご高齢であったので、
 天寿を全うされたというべきであろうが、
 ここに改めて感謝の念を表したいと思うのである。
 有難うございました。安らかにお眠りください。

  
 
 


 
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いつまで続くのだろう?

2021-11-16 07:22:40 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★   最近は「毎日1万歩」を目標というか目途にしているのだが、
 なんとかそれくらいはスロー・ジョッギングが出来ている。
 歩数にして1万歩は大体7kmぐらいで、途中で休んだりもするので大体時間半は掛かる。

 今朝も1万歩を目途に三木総合防災公園に行ってきた。
 Fitbitをつけてるのであちこちと毎日コースを変えても大丈夫なのである。
 11月になっての歩数はこんなところで、
   歩数の少ない日は、雨かジムに行って筋トレをやってるのである。

 一言でいえば「至って元気な88歳」なのである。
 


       
           

 
★ 公園やジムまでは車で行くので、
 街の中を歩いたり、走ったりはしない。
 こんないい環境の、空気のいいところでやってるので、
  
 こんないい環境があることも、あと押しになっていることは間違いない。
  
  



★ あとはパソコンに向かって毎日のブログを発信したり、
 Facebook のコメントに返事をしたりしていると、
 何となく午前中は過ぎてしまうのでのである。

 午後はブログを書いたり、パソコンでニュース検索をしたり、
 昼寝も大体1時間ぐらいする日も多いので、退屈などせずに大体過ぎてしまう。
 今週からは大相撲の九州場所が始まったので、夕方は相撲を観ている。
 夜は、興味のある番組があるとテレビも見るのだが、
 最近は「お笑い番組」など全然興味がなくなってしまった。
 時間があればパソコンで「パンダ碁」を打つので全く退屈な時間などはないのである。


★ コロナ禍でも、こんな退屈しない毎日が続いているのだが、
  最近思うようになったのは、
 「こんな生活がいつまで続くのだろうか?」ということである。

 88歳だが、確かに結構元気なのだが、
 家内が「私はだんだん弱って死んでいくが、あなたは死ぬとしたら突然死ぬだろう」と言うのである
 
 実は、2度死にかけた前科があるので、それは否定できないのである。
 1回目は札幌の2年目で、駐車違反をして車をレッカーで持っていかれてしまって、
 警察署の本署で「駐車違反はしたが、なぜレッカーで車を持って行ったの」と文句を言ってたらだんだん頭に血が上って「くも膜下」で意識を失ってしまったのである。
 「頭に血が上る」というがほんとに血が上ってくる。
 胸を過ぎて喉元あたりまでは覚えているが、そこから失神してしまった。
 皆さんも「頭に血が上る」ほど怒らないようにされたほうがいい。

 この時は倒れた場所が警察の本署だったので10分後には脳外科専門のこんないい病院にいたのである。
 「中村記念病院」は日本で最初の「脳外科専門病院」で
 この病院すべてが「脳外科」だけの「専門医が30人」もいるまさに専門病院なのである。
  

  
 

その時の先生曰く「脳の病気はすぐ治療すると大したことにはならない」と仰るのである。
 田中角栄さんも、小渕さんも、長嶋茂雄も病院に来るまでに「時間が経ち過ぎている」と仰るのである。
 確かに私は1か月半は入院したが、特に手術などせずに治ってしまったのである。
 非常にムツカシイところが切れたので、「手術をしない」ことは会議で決めたと仰るのである。もし手術をしてたら、どんな結果になっていたのかは解らない。
 

 これが一度目だが、2度目は一昨年の夏、風呂に長く入っていたら、いつの間にか湯船の中で失神していたのである。
 その時は、アメリカから娘と孫が来ていて、湯船から引き揚げてくれて、
 救急車が来た時にはちゃんと意識はあって、一応は病院までは行ったがすぐ戻ってきたのである。

 そんなことで「突然死にかけた前科」があるのだが「運がいい」のだと思う。もし手術などしていたら、今のように元気にはなっていないかも知れない。
 単身赴任であった札幌で「くも膜下」で倒れたりしたら危なかったし、
 二度目の風呂の時も、アメリカから娘と孫が来てたのでよかったのである。

 二度「失神」を経験したが、これはホントに何にも解らない世界である。
 ひょっとしたら「」とはあんな状態かもしれない。


★何か訳の分からぬことを書いているが、
 実際にそんな風にいろいろ思うようになった昨今なのである。

 今の生活に不満があるわけではない。
 家内も84歳になって、昔のように水泳に行ったりする元気はないのだが、
 何とか家事一切、私は家のことは何にもしない何十年続いた生活の通りなのである。
 毎日着る服もすべて家内任せで、ちゃんと揃えて出してくれるものを着ているだけだし、食事の手伝いなども一切しない。
 洗濯物を2階に持っていくことだけが、家の中で私がしている唯一の仕事なのである。

 でもこんな生活は、よく続いてあと5年かなと思っている。
 私はあと5年は大丈夫だとは思うが、突然3度目の失神があるかも知れぬし、
 5年経ったら家内も89歳なのである。

 そんな5年先ではなくて、あと1年半で90歳なのだが、
 もし90歳になったらどんな風に考えるようになるのだろう?
 
 ほんとに今の生活が「いつまで続くのだろう?」と思う昨今なのである。


 
 
 
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