雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

明石公園で確かめてきた

2022-01-31 06:52:13 | 発想$感想


★明石公園の大きな樹を1600本も伐採したというニュースを見て、
 「それは・・?」とちょっと批判的なブログをアップしたのだが、


 この2枚の写真について山本隆さんから、





山本 隆
私はレーシングライダー時代に、盆栽に興味を持ちました。
それからすると手入れの行われた樹木が美しくく、この場合石垣が半分露出し素晴らしい景観になったと思います!

 という率直なコメントを頂いたので、明石公園まで行って確かめてきたのである。
 世の中にはいろんな意見があって、どちらが正しいのかはよく解らない場合が多いのだが、
 そんな時には単なる想定から物事を判断するのではなくて、
 『現場に行って確かめてみる』のが私流のやり方
  早速、明石まで車で30分ほどなのだが、
 昨日、明石公園の中を歩いてみて、現場の状況を見てきたのである。



★ 『1600本もの大きな樹を伐採』という記事を読んで、
 「これはダメだ」という私の感想に繋がているのだが、
 昨日は広い明石公園のお城の周りを、こんな経路で歩いて
 いろんな現場を見て写真を撮ってきたのである。

  



 なぜ、1600本もの大きな樹を切ったのか?
 これは2019年が築城400周年に当たるので、
 「明石城築城400周年記念事業」として、
 明石城の更なる知名度向上と、明石城による地域振興の機会と捉え実施されたもので、
 そのテーマの一つは『明石城とその石垣を確りと見せる』ということであったようである。
  

 写真をいっぱい撮ってきたので、ご覧になってみて下さい。

 














 「明石公園にこんなに石垣があったのか?」と改めて思ったので、
 そういう意味では、基本コンセプト通りになっているのである。


 1600本も伐採したというのだが、
 確かにその周辺一帯の樹をすべて切ってしまっているところもあって、

 



 こんな石垣の横の樹や




 通路にかかっている大きな樹が切られていたが、

 



 
 全部が枯れてしまったわけではなくて、
 新芽が現れているのもあった。

 



  私と同じように、あちこちで写真を撮っている人に出会ったが、
 『この切り方はひどすぎる』と怒っておられた方もおられた。
 
 私は改めて現場を見て、
んなにひどくはないな」と思ったのが率直な感想なのである。





★お陰様で、懐かしい「薬研堀」も





 様変わりはしているが、
 「生まれ故郷」も見ることが出来て、よかったなと思っている。





 改めて明石公園はその広さだけではなくて、
 樹木も大きいし、その管理も確りと出来ていて
 新しくできた三木の公園などとは違った『その歴史』を感じたのである。




 




 確かに『史跡・明石城跡』なのである。


 
 
 
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悩みごとのなかった人生だが・・・

2022-01-30 06:30:16 | 私の生き方、考え方&意見

★人間生きていく上でいろんな悩みがあるものだという。
 然し、自分の人生を振り返ってみて
悩みごと」など全くなかったような気がする。

 自分自身のことについては、子供のころから、
 「何になりたい」というような欲が全くなかったように思う。
 進学についても、就職についても、
 何となく周囲の人が決めてくれた道を歩んできたし、
 社会に出てからも、自分の進む道は周囲の人が決めてくれたようなところがあった。
 
 別に高い給料を貰っていたわけでもないが、
 「給料が安い」などと思ったこともないし、「金を貯めよう」と思ったこともない。
 逆に「金で苦労した」こともない。
 
 20歳代後半からずっとリーダー役だったが「出世欲」などは皆無で、
 お金に対しても地位に対しても何故か「欲がなかった」のである。

 振り返ってみると、「自分のために」というよりも、
 「周囲の人」や「二輪の末端ユーザー」を視野に、動いてきたようなところがあって、
 現役時代は二輪の販売関係が主だったのだが、
 販売台数利益の追求なども勿論やったのだが、
 むしろ、販売店自体の強化販売網のあり方などの「仕組み構築」などに専念していて、
 それらは「自分自身のこと」ではなかったので「自分の悩みごと」にはならなかったのだと思う。

 何事も現状よりは「よくなる方向」を目指したので、
 常に何事に対しても楽観的に「大丈夫」と思ってしまう性格と、
 仮にできなくても、それは「現状維持」なのだから、
 困ることは全くないと割り切っていたのだと思う。

 
   
 

家庭的にも子供の教育など家事を含めて、家内が殆どやってくれたし
 子供の進学就職結婚問題もすべて
 私は横から見ていただけで、相談などには乗っていないのである。

 一言でいえば「恵まれていた」というか「運がよかった」のだと思っている。
 ただ、考えようでは「運が悪かった」とも言えるのである。
 子供の頃は、結構な資産があったし、朝鮮での電力事業などに関わっていたのだが、あの敗戦ですべてを失ってしまっているのである。
 若し、戦争がなかったら全然違った人生になったことは間違いないが、
 どちらがよかったかは、よく解らない。





★いろいろと変化のあった時代を生きてきたので、それなりの多くの経験が出来たし、
 一生懸命生きてきて「悩む暇」などなかったのである。
 現役時代は結構ムツカシイ難題に直面することが多かったのだが、
 なんでも「大丈夫」という「太平楽な性格」なので悩みに繋がったりしなかったのだと思う。


 あと1か月で89歳になる。
 いまはお陰様で家内も元気でいて「悩みごと」など全くないのだが、
 ひょっとすると今からの人生で「悩みごと」が生じる可能性はあるような気もする。
 「年金生活」だが、金銭的には多分問題はないだろうが、
 いまから「悩みが出来る」としたら、健康問題かなと思っている。
 
 なんでも「大丈夫」というのが口癖だが、
 家内とどちらかに「健康問題」が出たら「大丈夫」とは言っておれないだろうから、
 それは「悩み」に繋がりそうである。

 勿論健康には留意していろいろやってはいるが、
 いつかは限界も来るのかなと
 最近は何となくそんなことを思うようにもなった。

 いつまで『大丈夫』と言い続けられるのだろう?
 
 
 
 
 
 

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明石公園と明石の想い出    雑感

2022-01-29 06:48:05 | 自分史

★ 明石公園樹木が伐採されているというニュースが流れた。

 1600本以上の大きな樹の伐採を進めているらしい。






  これが伐採前と伐採後の写真だが、






 市民団体が見直しの要望書を出したようだが、
 作業はそのまま進められるようである。

 
私にも沢山の想い出のある明石公園なので、ちょっと惜しい気がする。
 









★突然、明石のことを書いているが、
 私の本籍は「明石市上ノ丸2丁目720番地」で生まれ故郷なのである。
 いまはそんな住所は残っていない。

 これは祖父の別荘時代で伯父も父もまだ学生時代の写真なのだが、
 爆撃で家も焼失してしまったし、
 写真も焼失してしまって、残っているのはこの1枚だけなのである。

  
 

 この明石公園に隣接した右の赤い部分なのだが、
 いまはこんなに沢山の家が建っていて、それぞれの番地になっている。
 
 かってはその一画が文字通り公園に隣接していて、
 いま競輪場になっているところも城の外堀だったのである。
 時代とともにいろいろな変遷はあるのだが、
 思い出だけは変わらずに残っている
 
  
 

     
 公園の外堀を望んだ風景だが、
 この池でよく魚釣りなどしたものである。
   
 





 明石公園の明石球場は、戦前からある歴史のある球場で、
 戦後も王・長嶋の時代までは巨人が春のキャンプをやっていたし、
 私の明石高校時代はこの球場で練習をしていたので、想い出いっぱいなのである。
 当時は結構強くて甲子園にも出たのもいい思い出の一つである。

  
  


 子供の頃の明石公園もよく覚えているが、
 戦時中の空襲でこんな背の高い松はみんななくなってしまっていたのだが、




 それから70年経って、樹もそれなりに大きくなっていたものを、
 また伐採するのは惜しい気もする。

 この写真も、戦前の明石公園で「園公石明」と右から左に書かれている。

 



 これはお城のほうから明石の町を望んでいるのだが、
 昭和25年(1950)の 昭和天皇の行幸の時には
 この場所から下の広場に集まった市民に手を振られたのである。

 私の高校2年生のことだった。

 
 
 

★ そんな明石城主は築城以来いろんなお殿様が変わっているのだが、
 越前福井藩から移って来た松平城主が明治まで10代続いたとか。
 わが祖先も福井からお殿様の家来としてやって来たと、子供の頃にはよく聞かされたものである。 
 
 戦時中のことだが伯父は明石で「錦江ホテル」というこんなホテルも持っていたのだが、
 このホテルが当時の川崎航空機に来る軍の人たちの宿舎に接収されることになって 川崎航空機工業との関係もできたのである。
 
     

  
 そんなご縁から、私は川崎航空機工業明石工場に勤めることになったのである。

 今ではこの三木が一番長く住んだ土地にはなったが、
 いろんな想い出はやはり『生まれ故郷の明石』が一番多いのである。
 
 そんないろんなご縁のあった明石や明石公園なのだが、
 明石公園の樹々は伐採されると消えてなくなってしまうのだが、
 『想い出』だけは確りと残り続けるのだろうと思っている。

 でも、明石のことも何度かブログにもアップしているのだが、
 ひょっとしたら、これが最後になるかも知れないのである。


 
 

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サッカー日本代表、男女とも好調

2022-01-28 06:12:37 | スポーツ

★昨夜はワールドカップアジア予選の中国戦だった。
 出足にまさかの敗退ヵらスタートしたこのシリーズだが、
 オーストラリアと引き分けた中国に大丈夫かなと思ったが、
 危なげなく2-0で完勝した。





 吉田麻也・冨安健洋の主力2人のDF陣が欠場で、
 板倉滉谷口彰悟が最終ラインに入ったが、
 特に問題もなく安定感を見せたように思う。

 日本のサッカーの第一線級の実力の高さなのかも知れない。
 日本はこれで5勝2敗、勝ち点15とし、
 次戦は2月1日にホームでサウジアラビアと対戦することになっている。


★なでしこジャパンもグループ首位突破をかけて韓国と対戦したが、試合は1-1のドロー決着し、グループステージで首位通過を果たしたようである。





 日本のサッカーも強くなったものである。


★だが、森保ジャパンに対しては批判が多いのはなぜだろう?
 日本代表監督の勝率ランキングを見ても、
 歴代監督を抑えてトップなのだが、常に批判にさらされている。

 

 
日本人で初めて日本代表監督と五輪代表監督を兼任し、上々の結果を残していると言えるだろう。

しかし世間からは「戦術が不明確」「選手を固定し過ぎる」などの批判も多い。
ただ逆に選手たちからは絶大な信頼を得ているようだが、
なかなか「サッカー監督も難しい」ものである。
大迫・長友の起用に批判が集まっているが・・・・

次は2月1日首位のサウジアラビア戦である。
果たして、どんなスタメンになるのだろう。
ホームの試合だからこの試合もぜひ勝って結果を残し、
正当に評価されることを期待したい。

 
 
 
 


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庭の地面が見えないようにしよう

2022-01-27 07:32:36 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ コロナで家にいることが多くなって、
 1日の時間の過ごし方が、パソコンの前に座って囲碁など打つ時間が増えている。
 朝はスロー・ジョッギングに1時間半は掛かるので、
 別に退屈などはしていないのだが、
 ふと「苔を育てよう」などと思ったものだから、
 「水やり」もいるし、「庭仕事」にもう少し時間を掛けてみるかと思ったりしている。


 いま、1月の末1年一番花の少ない季節かも知れない。

 いま咲いてるものと言えば、
 クリスマス・ローズ

  

 
 
 獅子頭ぐらいである。


 



  木の春と書く「椿」も





 早春の花、もまだである。






 万両の実もきれいだし、

 


  こんな実をつけている小さな植物もあるのだが、
  庭としては全体に寂しい



        
        
        



 そんな庭だが、
 こんな小さな一角を草を抜いて
 「りゅのひげ」を植えたりしたら、30分ほど掛った。

 


 「苔を植えたり」したので、
 一言でいえば「地面の土が見えないようにしよう」と思っているのである。
 植物とその間は、リュウのひげなど下草の種類で埋めようと思っている。

 これは簡単なようだが、結構時間が掛かりそうである。

 今年1年掛ったら、果たしてどんなことになっているのだろうか。


 
 
 
 

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スロー・ジョッギング   雑感

2022-01-26 06:07:21 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★昨年11月に右膝を痛めてから止めていたスロー・ジョッギングだが、
 今年1月4日から再開して20日が経った。

 このスロー・ジョッギングやり始めたのがいつ頃だったか?
 もう3年にもなるかも知れない。
 少々長く走っても「息が上がらない」のがいい。
 
 福岡大学スポーツ科学部名誉教授で医学博士の故田中宏暁氏が40年以上に わたり研究された運動で、
 2009年にNHKの番組で紹介されたことで注目を集め、
 現在では世界に向けても発信されているという。
 
 


 
スロージョギングの特徴としては、
  • 有酸素運動と筋力トレーニングを兼ね備えていて、
  • いつでも、どこでも、道具も必要なく始めることができる
  • スロージョギングのエネルギー消費量はウォーキングの約2倍なので、理想の体型を手に入れる為の早道です。
1日30分、週三回が最初の目標です。連続した30分間ではなく、
1分を30回や5分を6回と小分けでも同じ効果が得られます。

 などと言われている。
 今年になって再開したのだが、1か月半ほど休んでいたので、
 ぼつぼつ歩数を増やして、10日過ぎからは1万歩ペースに戻している。
 
   

   


 毎朝、1時間半ほど走っていて、この寒さでも汗ばむのだが、
 私の場合は一向に体重が落ちたりはしない。
 エネルギー消費以上に食う「口卑しさ」がダメなのだが、
 3月の89才の誕生日までに86キロを82キロに戻すのが目標である。


★ それは兎も角、このスロー・ジョッギング
 歩幅を小さく足を小刻みに動かすのがコツで、
 私のような年寄りでも、毎朝走れているのだが、
 果たして何歳まで続けられるだろうか?

 あと1年89歳までは間違いなく大丈夫で、
 若し生きてたら90歳前半は大丈夫のような気がしている。

 いまのところアクテイブタイムも70分を超えてるし、 
 ひょっとしたら「太ももの太さ」は生涯で今が一番太いかも知れない。

 
 


  
 「ただ生きてる」のではなく「元気に」毎日を過ごしたいと思っていて、
 その一番の目安がスロー・ジョッギングだと言ってもいい。

 ホントに何歳まで続けられるだろうか?
 
 
 
 
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苔を庭に植えてみた

2022-01-25 06:49:08 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★なぜそう思ったのかも解らないのだが、
 「庭に苔を植えてみるか」と思ったのである。

 苔庭と言っても、こんな立派なのは無理なのだが、
 苔を張る場所など探せばあると思ったのである。





 
 思うと直ぐ行動に移すのだが、
 Amazon で「」とクリックしてみると
 こんな「」が現れたのである。
 約4000円と結構高価だが、
 Amazon は何でも売っている。

 

 

 注文すると翌日、こんな形で届いたのである。

 



 Amazonの苔は、いい種類だと思うが、
 「」など三木総合防災公園の林間広場の横の山にもいっぱい自生しているので、
 バケツにいっぱい採ってきた。

 Amazon の苔と比べると、ちょっと芽が荒い感じがするが、
 庭のあちこちに植えてみようと思っている。

 

 

★植える場所はここにした。
 いまはいろんなものが植わっているが、
 それを抜いて周りの石が現れるように土を整理して、

 

 
 Amazonの苔を植えてみたら、こんなになった。

 全部が苔になったら、何とか「観られる」ようになるかも知れない。






 こちらが防災公園で採ってきた苔で、





 
こちらがAmazonの苔だが、
あまり「変わらない」ようにも思う。
成長すると、その差が現れるのかも知れない。





★ ところで、苔は簡単に育つのか?
 調べてみたら、「そんなにムツカシクはない」ようである。

「苔は日陰でなければ育たない、なんてことはありません。
 苔の種類によっては、日当たりのよい場所で育つものもあります。
「水はけがいいこと」を基準にして場所を選んでください。
 苔庭は初心者でも比較的カンタンに作れますし、育て方も難しくありません。
 苔の手入れは肥料を必要とせず、水やりも最初だけ必要ですが、
 ある程度育ってしまえば自然に任せることもできます。
 苔を張ってから2カ月間は、週に3回程度の水やりを欠かさず行ってください。
 自然のまま、成長するのをゆっくりと楽しみましょう。」

 とあるので、何とかなるだろうと思っている。
 上手くいきそうだったら、防災公園の山には幾らでもあるので、
 庭のあちこちに「苔を植えてみたい」と思っている。

 だんだんと「歳相応の趣味」になって来た。



 
 







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御嶽海 優勝おめでとう

2022-01-24 07:08:45 | 発想$感想

★相撲をじっくり見だしたのは極く最近のことだが
 今年の初場所の千秋楽の取組は、結びに横綱照ノ富士-関脇御嶽海
 幕内前半に阿炎-琴ノ若の3敗対決となった。

 優勝争いは、14日目を終えて2敗の御嶽海が単独トップで、
 1差で照ノ富士、 阿炎、琴ノ若の3人が追いかける展開となっている。
 御嶽海が照ノ富士に勝てば、19年秋場所以来3度目となる御嶽海の優勝が決まる。
 照ノ富士が勝てば、照ノ富士、御嶽海、阿炎-琴ノ若の勝者による3人の優勝  決定ともえ戦にもつれ込む。

 という面白い展開になった。


★別に特に応援する力士もいないのだが、
 阿炎は四股が抜群に脚が伸びて綺麗なのでファンだとも言える。

 御嶽海も照ノ富士もなかなかいいと思っている。
 モンゴルの力士が多いが、海外から日本にやって来て大相撲を支えている
 外人力士には、むしろ日本人以上に応援していているのだが、

 今場所の御嶽海は一味違った強さがあったように思う。

 横綱照ノ富士に対しても、
 今までの対戦成績からは勝ち目はないのだが、
 今回は危なげなく

 
 

 勝ち切って、優勝し
 大関の座も間違いないものにした。

 


 御嶽海、優勝おめでとう。




 
 こんな結果だが
 春場所はどんな番付になるのだろう?
 栃ノ心もファンだが、
 来場所幕内に残れるのだろうか?
 栃の心が優勝したのはいつだったのか?
 あの頃から相撲をちゃんと見だしたと言っていい。







 ただ、幕内力士でも半分ほどしか
 名前と顔が一致しないのである。

 そんな大相撲だが3月の春場所が待ち遠しい。


 
 
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人を点数で評価する方式    雑感

2022-01-23 06:54:41 | 私の生き方、考え方&意見


大学入学共通テストの問題をちょっと見たが
 どれも難しくて、とてもできるとは思えない。

 


ただ、難しくなりすぎて「6科目で平均点過去最低」だという報道も流れた。
そんなに試験のレベルを上げてどのような効果があるというのだろうか?
入学試験とは今から育てる人材を選ぶだけのもので、
入学してからの大学の在り方のほうがより大きな課題だと思うのだが。

 私たちの時代にも「進学適正検査」というのがあったのだが、
 これも「問題がある」ということで無くなってしまった。
 大体「人を点数で評価する」ところに問題があるのではと思ったりする。

★ 私自身のことを振り返ってみると、
 小学校時代は、卒業時に知事賞にあたる府伊賞を頂いたりした。
 中学校も秀才が集まると言われた誉れ高い神戸一中だったが、
 2年生までは10番以内にいたが、成績が良かったのはそこまでである。
 それから先の数学でもほかの科目でも専門的知識のレベルになると、
 全く興味を失って、全然勉強をしなくなってしまった。
 そんな現実とはかけ離れた専門家の世界などには何の魅力も感じなかったのである。
 
 従って私は「専門的知識」は皆無だが
 現役時代は専門家と思われる方々にはいろいろお世話にはなったが、
 結構、大きな課題に取り組むことが出来て、
 89年になろうとする『自分の人生』に悔いなど全くなく満足している。

 一応は大学まで卒業したが、大学の成績は「」ばかりで、
 川崎航空機の入社試験の面接では「君は成績悪いね」で始まった。

 ただ、私は運転免許試験なども含めて、「試験に落ちたことはない
 そういう意味では「」だけはよかったのだと思うし、
 逆に言うと「運を呼び込む」人生の歩き方をしたようにも思う。


★社会に出てからの会社での評価は、
 自分でも不思議に思うほど「最高のトップ評価」を頂いたが、
 二輪業界というオートバイ屋さんがお客の業界だったから、
 「学校での知識」など全く要らなかったのが幸いしたとも思う。
 一体社会での「評価」と「学業成績」とはどんな関係があるのだろう?

 ところで、日本とアメリカでは大学入試の形態が全く違っていて、 

 日本 にお け る入学 試験の 形式は学力 テス ト中心だが、
 アメリカで は適性 テス トが大 学 入試 に取 り入れ られ てい て、
 高 校 の課 外活動 な ども加味 して、 大学 ご との基準 に よって選抜 して いる。
 アメリカの大学入試 は正 に 多様性 を志 向 して いる と言 え るのである。

 娘のほうの孫の門野真也は、
 世界的な大学のレベルでは東大よりはずっと格上のアメリカのバークレー大学卒業だが、
 日本にいたら東大には多分入れなかっただろう。
 勉強もしなかったわけではないだろうが、サッカー中心の高校生活だった。
 バークレー大学にはサッカーでの推薦入学だが、
 入学後はサッカーだけだはなく厳しい授業にも通って、無事卒業している。

★私などは間違いなく、アメリカ方式がいいと思うが、
 日本がこのように変わるのはなかなかムツカシイような気がするのだが、
 学生にこんな訓示をしている大学の学長さんもおられるのである。

大学で学ぶ意義とは、結論から言えば、将来、自分の夢を実現するための力を養うことだと言えます。
ただ、夢を実現するには、単に学問を修めて知識や技術だけではなく、
人間的な成長、社会で生きていくための社会人としての基礎力を養うことが欠かせないのです。
1.国際的な教養を身につけること。
2.批判的思考ができるようになること。
3.創造力を身につけることです。
 また、人間的な成長の中には、柔軟な思考を持つことも含まれています。
グローバル化が進む現代では、多くの企業が国際的に通用する人材の育成を、大学に強く求めています。』

  
   


 そういう意味も含めて
 「人を点数で評価する方式」もいい加減にやめないのかなと思ったりしているのである。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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コロナはどのようにしてうつるのか?

2022-01-22 06:31:18 | 発想$感想
★昨年の11月22日には、全国での感染者は50人で、
 兵庫県は0人だったので、
 「もう終わりかな」と思っていたら、
 

 

 
 
 オミクロン株なる新種が現れて、
 年末から増えだして、




 

 年が明けた、1月9日には8480人にまで増えた。


 



 とうとう昨日は「49854人」まで増えてしまった。





 一体、何人にまで増えるのだろうか?



★ 「どのようにしてうつるのか?」と検索したら
 ちゃんとネットは答えてくれるのである。

 もっと詳しく書かれているが抜粋すると以下のようになる。
 
感染症を予防するには「どうやってうつるのか=感染経路」を知ることが欠かせません。
主な感染経路は①空気感染、②飛沫感染、③接触感染、④経口感染——の4つ
①「空気感染」とは?
空気の流れに乗って拡散した感染菌を吸い込むことで感染する。
②「飛沫感染」とは?
咳やくしゃみ、会話によって飛び散った飛沫を吸い込むことで感染する。
③「接触感染」とは?
病原体がついた物に触れたりした手で、自分の鼻や口を触れることで感染する。
④「経口感染」とは?
病原体に汚染された水や食べ物を口にすることで感染する。


★私の毎日の生活は、朝公園に走りに行く以外は家にいるのが殆どで、
 他人と接触することも、話すこともないので、
 まず「大丈夫」だと思うが
 「うつる」とすれば病院か、買い物のスーパーである。

 2月2日に3回目のワクチン接種をするのだが、
 30日には三木山陽病院での「膝の検査」の予定が入っているのだが、
 もう膝は大丈夫だと思うので、病院に行くのは止めておこうかと思ている。

 オミクロン株はうつっても病状は軽いので
 「インフルエンザ並みの対応」などと維新の会などは言ってるが、
 政府としては「そんなに簡単」には決められないだろう。

 こんな対策が出ていたが、
  


  

 私の場合は、すべて大丈夫と思うから、
 3回目の「ワクチン接種」まであと「10日間
 確り注意して「頑張ってみようと」思っている。


 
 
 
 
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三木市とテニス      雑感

2022-01-21 06:50:39 | 発想$感想

★ 毎朝スロー・ジョッギングしている三木綜合防災公園には、
 日本最大と言われている屋内テニスコートの「ブルボンビーンズドーム」がある。
 日本は勿論、世界でも例がないのではと思ったりする。

 こんな屋内テニスコートが「総合防災公園」に造られている理由は
 あの阪神・淡路大震災の時に、全国から送られてきた救援物資の貯蔵場所に困ったようで、
 
 東日本大震災では実際に兵庫県における救援物資の集積・仕分作業の拠点として災害支援活動に貢献した実績がある。


 こんな外観で、

  
 
 
 中はこんなメインコートの周囲に、8面のテニスコートがあって、 
 そこに災害などの場合は救援物資の貯蔵に充てようというのである。

 そんな災害時には物資が簡単に入れられるように、
 トラックが入れるように設計されている。






 ちょうど今はテニスの「日本リーグ」開催中なのである。






★ 三木市は旧くから「金物の町」などで知られているが、
 ここ50年ぐらいの間に、広大な山地が住宅街に開拓され
 その周辺にはいくつもの公園がつくられて
 そのいずれにも沢山のテニスコートがある。

 三木はゴルフ場西日本一で25もあって、
 「ゴルフの町・三木」として年間100万人もの人たちが来られるのだが、
 実は「三木に来る方」で一番多いのは「テニス人口」で、
 年間130万人もの方が訪れるのである。

 このことは意外に知られていないのだが、
 テニスコートも結構広い平面の場所が必要なので、
 それを造れる場所は意外に限られていて、
 広大な平地の面積を有する三木にテニスコートは集中しているのである。
 こんなことを知ってるのは、ひょっとしたら私だけかも知れない。

 10年ほど前に、ちょっと関心があったので、
 市役所の直接担当のお嬢さんに聞いた数値なので間違いないのである。

 兵庫県のテニスコートを見ても、三木に集中しているし、

 
 
 

 三木市内には20ものテニスコートがあって、
 そのいずれもがコート数の多い大きな施設が多く、
 吉川総合公園のコートは、国体のテニス大会の会場にもなったのである。

 


 特に私が住んでいる「緑ヶ丘周辺」はテニスコートが集中していて、
 休日などはテニスをする人でいっぱいなのである。


★ゴルフに関しては、三木市もゴルフの町としての活動を
 いろいろとやっているのだが、
 「テニス」のほうの底辺のほうが「こどもから大人まで
 「男女を問わず」大きな広がりがあるように思うので、
 もう少し積極的に取り上げたらと思ったりしている。

 その頂点に、世界一ともいえる「ビーンズ・ドーム」があることが、
 ほかの都市にない「大きな要素」だと思っている。

 「日本一の」さらには「世界一」と言える「テニスの町」は、
 結構「かっこいい」と思うので、
 三木市あたりがもう少し、積極的に動けばと、思ったりしている。
 「ビーンズ・ドーム」の存在価値を再認識されてはと思ったりする。
 
 




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初めての耳鼻科

2022-01-20 06:18:10 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

耳鼻科に行ったのは初めてのことだと思う。
 
 私は電話機はずっと右耳で聞いていたのだが、
 先日、左耳にあててみると聞こえ方が違うのである。
 右耳が聞こえないというわけではないのだが、明らかに違うので、
 気になっていたのだが、
 だんだんと差が広がるような気もして
 「一度耳鼻科にでも行ってみるか」ということになったのである。

 何事も「気にしだすと」気になるものである。

 耳鼻科ではいろいろと耳の検査をしてもらった。
 その結果である。

 上が左耳で、下が右耳である。
 若い時の正常値はゼロの位置だというから、
 右も左も聞こえにくくなっているのは間違いない。
 


 

 
 年を取ると「耳が遠くなる」というが、
 それを「老人性難聴」といって、
 内耳の感覚細胞は、加齢とともに徐々に数が減っていくそうである。
 これが高齢になると聞こえにくくなるのが老人性難聴だから、
 88才では仕方がないのかも知れない。

 ただ「補聴器を付ける」段階ではないということで一安心だった。


 ネットで調べてみると、
 80代は一番下の線だが、
 こんなに聴力は落ちるのである。

 


 少々、右耳がおかしいぐらいは仕方がないのかも知れない。


★ 初めての病院だったが、
 看護婦さんに「歩き方が若い」と言って頂いて、
 気分をよくして帰って来た。


 
 

 

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1957年(63年前)の1月19日

2022-01-19 06:58:55 | 自分史

★今から63年前の今日1957年の1月19日は、
 神戸国際会館でのダンスパーテイーの日だったのである。

 神戸商大硬式野球部主催で、当時私は神戸商大5回生だったが、
 チームの監督をやっていたのである。

 生涯いろいろなイベントに関わってきたのだが、
 それはいずれも派手に大規模に行うのが常だったが、
 このダンスパーテイー起案者も実質的なかじ取りも私で、
 人生で初めての大規模イベントの主催だったのだが、
 その結果大成功で、今でもよく覚えている出来事だったのである。

 
 そのパーテイー券がこちらである。
 1枚100円は当時の相場で、今でいえば1000円ほどにあたると思う。






 日記の1月19日のページに挟まれていて、
 表は結構かっこいい、こんなデザインなのである。

 



★ なぜこんなダンスパーテイーを主催することになったのか?

 当時の関西の大学リーグは、関西6大学西宮球場で、
 近畿6大学甲子園球場で行われていたのである。

 神戸商大は近畿6大学だったので、
 大学3回生まではリーグ戦は甲子園球場であり、
 そんなこともあって私が一番多くプレーした球場甲子園球場なのである。

 高校時代の夏の予選も甲子園球場だったし、
 当時正月に行われていた兵庫県のOB戦も甲子園だったから、
 いまと違って甲子園がそんなに特別な球場でもなかったのである。

 当時の神戸商大は結構強くて、リーグに近大がいて常に優勝していたのだが、
 神戸商大も近大に次いでリーグ2,3位の位置にいた時代である。

 ちょっと脱線するが、
 当時の阪神の2軍にはあの小山正明がいたのだが、
 彼は私と同じ年次で、兵庫県の高砂高校出身で、
 明石高とは同じ東播地区なので何回か対戦しているが、
 正直、そんなに印象には残っていないのである。

 当然明石が勝っていたし、印象に残るような投手ではなかったのだが、
 その小山は1953年に(私が大学1年の時)阪神に、
 契約金なしの月給5,000円打撃投手も兼ねたテスト生として入団していたのである。
 小山は阪神の野田球団オーナーの遠縁にあたることから、
 お情け採用だった可能性もあるとかの記事もあったのだが、
 当時は、あんな大投手になるとは夢にも思わなかったのである。
 

★ 私は大学では勉強はしなかったが、
 野球だけは一生懸命で3,4回生で主将を務め、 
 大学を1年延ばして5回生の時には監督をしていたのである。

 そんなこともあって、大学ではよく練習もしたのだが、
 バットやボール代や、明石球場の使用料などが嵩んで、
 運動具店などに結構大きな10万円ほどの借金が残っていたのである。

 10万円かと思われるかも知れぬが、
 当時の大学卒の初任給が1万円の時代だから、
 今でいうと100万円相当の額なのである。

 この借金を何とかしなければと思い立ったのがダンスパーテイーなのである。
 当時は大学主催のパーテイーも数多くあったが、
 それらは2~300名規模のものが普通で、
 そんな規模では10万円の借金などとても返せないのである。

 そんなことで起案したのが、普通のパーテイーの10倍ぐらいの規模
 2000名ぐらいの大規模なものを考えたのである。

 それは普通では無理なので
 その会場は、スタートしたばかりの「神戸国際会館の大ホール」とし、
 当初から部員全員で2000枚を売る目標を立てたのである。

 「神戸国際会館」は1956年に、進駐軍イーストキャンプ跡の遊休地に、
 当時最新鋭の設備をそなえたコンサートホールとして開館し、
 神戸国際会館大ホール、映画館、神戸国際ホテルなどでオープンしたばかりで、
 そのネームバリューだけでも非常に高かったのである。

   
      
     

 
 1995年の阪神・淡路大震災で全壊したので、
 現在はこんな形になっているが、
 旧・神戸国際会館もオープン当時は時代の最先端を行くものだったのである。

 

 

★そんなこともあって、2000枚のパーテイー券はほぼ売り切ったのだが、
 2000名も集めると、大ホールだけでは1坪20名にもなってしまうので、
 隣接する別のホールも借り増ししたりしたのである。

 日記のページにはこんな当日の「収支報告」もあったが、
 収入が204000円、 支出が 103000円
 見事目標通りの 10万円の利益となっているのである。
 


 

 
  そして、ここにあるように各運動具店などの借金
  何とか支払うことが出来て、
  無事、卒業することが出来たのである。


    



★ このことは、その後の私の人生にとって、
 「大きな自信」に繋がっているのである。

 「大きな目標」を達成するするためには、
 努力ももちろん大事なのだが、
 それ以上に、それを可能にする「仕組み」こそが、
 成功のMUST条件なのである。

 この時、新装なった「新神戸国際会館」という舞台がなかったら
 こんなことにはなっていないのである。
 あの時「新国際会館」がオープンしていなかったら、
 野球部の借金は、そのまま後輩たちに引き継いで卒業したかも知れないのである。
 そういう意味では「幸運に恵まれていた」と言っていい。

 
 いずれにしても、「よかったな」と思っている
 私にとってもこの経験が自信に繋がった大きな出来事」だったのである。
 
  
 
 




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阪神・淡路大震災   雑感

2022-01-18 06:22:38 | 発想$感想

★ あの阪神大震災から27年、当時はまだ現役だった。

 


 あれからもう27年にもなるのだ。

 当日の地震のことはよく覚えている。
 その日の日記にこのように書いている。

 「6時少し前、大地震、約1分ほど。家が倒れるのか?これは凄い。
  これは本当に地震なのか?地震とは別の何か別のものではないかと、
  短い時間の間に思った。・・・
 などと書いている。
本当に何か爆発でも起こったのではないかと思ったのだが、
幸い三木は神戸の隣町なのだが、家の倒壊など被害は出なかった。

 停電になってしまったので、何の情報も解らなかったのである。
 家も大丈夫だったので、いつもと同じように犬の散歩をして、
 出社している。
 途中、信号が停電でついていなかったが、明石までの道はいつもと同じだった。
 会社にも何人か出社していたが、情報は全く解らないままだった。

 10時ごろ電気が通じてテレビを観てびっくり仰天した
 神戸・西宮あたりの被害が凄まじい。
 火災もひどい。

 そんなことで、会社にいても仕方がないので、みんな帰宅させた。
 人間、情報がないと、
 あの大地震の日でもこんな普通の行動になってしまうのである。

 朝、家を出る時に停電になてしまったので、
 当時飼っていた「熱帯魚の水槽の温度」が下がったら湯を足してくれと
 家内に頼んだりしたのだが、
 テレビで大災害を知るまでは、それが私の一番の関心事だったのである。

     



★2日目も、3日目も会社に出ている。
 神戸の被害が大変で、車も思うように走れない状況だったので、
 にオートバイの寄贈を申し入れたら
 「申請書を書いてください」と仰るのである。
 これにはびっくりして明石署の署長さんに電話して、
 直接、30台のバイクをお渡ししたのである。
 これは非常に役に立ったと喜んで頂いたのである。

 日記を見ると、その後もずっと出社しているが、
 阪神間の道路は大変で一般の車は市内に入れない状態が続いていたのだが、
 バイクを寄付したお礼に、車の通行証を頂いたので重宝したのである。

 2月に入って東京出張があったのだが、
 伊丹空港まで行くのが大変で、タクシーで三田まで行き、
 そこから伊丹まで電車に乗ったりしている。

 新幹線も神戸ー明石間の陸橋が崩れて直通はなかった状態だった。

 この時期、一般道は特に阪神簡に出るのはどこも大渋滞で、
 兵庫県の車は黄色の信号でもどんどん交差点に入るようになってしまったのは、
 この時からだと思っている。

★いろんなことで大変ではあったが、
 いろんな人たちの助けあいもあって、
 日本人の素晴らしさを感じたのもこの阪神大震災だったのである。

 あれからもう27年も経ったのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
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私のアーカイブス・定年後  その12

2022-01-17 06:55:12 | 自分史

★ 私のアーカイブス・定年後も12回目になった。
 2012年は79才である。
 70歳代の最後の年なのでこのシリーズも一応ここで区切りをつけて、
 80歳代のことはまた何年かのちに纏めてみることにしたい。


 この年も結構いろいろとやっている。
 ほぼ10年前のことなのだが、そういう意味ではやはり10年若かったし、
 いまのコロナ時代と違って自由に動けた時代なのである。

 2009年に立ち上げたNPO The Good Times の活動も
 一番頑張った時期かも知れない。
 いまも活動を続けている
 「二輪文化を語る会」「粟生線の未来を考える市民の会』や
 「KAWASAKI Z1 FAN CLUB 」などがスタートしたのがこの年なのである。

    これらの活動が、みんなFacebook を舞台に活動を開始したもので、
 個人的にも吉田純一さんを誘ったら5月にFacebook に登場しているのである。


★ いろんなイベントもいろいろやってるが
  特に5月10日、三木綜合防災公園で開催した
  「笑って遊ぼう三木ランド」は盛りだくさんのイベントで、
  大成功だった。

   
  

 
  こんな自転車の曲乗りを披露してるのは 山本隆さんである。

 


 あちこちで開催していた「ミニSL」はここでも大人気だった。

 



★ この年が「Kawasaki Z1発売40周年 Reunion」で

  
 

アメリカのKMCを舞台に、浜脇洋二さん以下当時の従業員たちが集まったのだが、
 そんな会合に私も誘われて久しぶりのアメリカだった。


 



    年末には 「カワサキZの源流と軌跡」という本も発売され、
 当時のカワサキのZに関わった人たちが
 それぞれ、その思い出を語っている。

 私もその販売網構築などについて語っている。


 

 

★ この年、母はまだ元気で103歳を迎えているし、
 私たち夫婦は結婚50周年で、
 アメリカの娘一家のところに遊びに行ってるし、

  


 日本でもこんなお祝を頂いている。

 

 
 
 早いもので、今年の12月には
 「結婚60周年」になるのだが、何とかそこまでは大丈夫かも知れない


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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