雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

メイハツ&メグロとの想い出と 小野田滋郎さん

2024-04-23 06:24:23 | カワサキ単車の昔話

★ 1964年に目黒製作所を吸収合併とあるが明発工業とはそれよりずっと以前から提携し、その販売網をそのまま頂いてカワサキ自動車販売として、国内販売を行っていたのである。
 
  


 当時の川崎航空機の明石工場は戦前からエンジン工場であったことから、戦後も米軍のジェットエンジンのオーバーホールや、農業用の小型発動機エンジン生産などを行う傍ら、明発工業に二輪のエンジンを提供したことが本格的な二輪事業へのスタートとなるのである。

★ただ、エンジンについての専門家はいたのだが、民需・末端市場販売網を敷いて最終ユーザーと繋がるような『二輪販売』については、全く未知の世界で何のノウハウも持っていなかったのである。

そんなことから社長・専務は川崎航空機からだが、それ以下のメンバーはすべてメイハツ・メグロからの人達の『カワサキ自動車販売』販売関係は丸投げしてのスタートだったのである。
 
私自身は1961年に初めて出来た単車営業課の課員としてカワサキ自販への出荷販売を担当したので、当時神田岩本町にあったカワサキ自販の本社に出張することも多く、そこで、メグロや明発の人達と接する機会があったのである。
このカワサキ自販には高野専務が独り川崎航空機から出向で、あとはメイハツ・メグロの人達だったのである。
そこで高野専務を支えていたのが、総務課長兼広告宣伝課長の小野田滋郎さんだったのである。
 
小野田滋郎さんはあのフィリッピンの小野田寛郎さんの弟さんで、
陸軍士官学校卒の英才で、私が小野田さんから学んだことは本当に多かったのである。


  

 

★ 小野田滋郎さん
カワサキのレースの創生期にヤマハから三橋実を引っ張り、カワサキコンバットを事実上作った人である。
この人が自分に与えた影響は大きい。
思想的にも、仕事の実務的なやり方も、それに対する態度も。
この人にはとてもかなわぬと思った数少ない人の一人である。

陸士出身、文学を愛し、酒を好み、人間味あふれる人柄、
小野田滋郎の物事に向かうときの純朴さと一徹さを見習いたい。

箸袋 寛郎と今も 還らぬ子 

小野田さんのおふくろさんが、正月に詠んだという句。
このお母さんの話も、小野田さんの話によく出てきた。
人生には、いろいろ影響を受ける時期もあり、また人もいる。
本当に、小野田さんには影響を受けた、戦略論の基本も教わった。
年賀状の文章は、逆立ちしても真似の出来ない素晴らしいもので、いつも楽しみにしていた。
いつまで経っても、そんな文学青年みたいな小野田さんが、また魅力であった。
戦後、小野田滋郎さんは自衛隊にもおられたのだが、その後、メグロからカワサキ自販に来られたのである。

この時期の一番の想い出は『小野田滋郎さん』なのである。
私にとって小野田滋郎さんは『人生の宝物』であったといっていい。

 
 
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カワサキのレースのスタート時期のこと

2024-04-16 06:48:01 | カワサキ単車の昔話

★カワサキのレースのスタートは1963年5月の『青野ヶ原モトクロス』と言われている。
 このレースは製造部の有志で出場したいわば『プライベートチーム』で正規のメーカーのレース出場ではなかったのだが、
 このレースの結果がその後のカワサキの二輪事業に大きな影響を与えたのは間違いない。



 



 この『青野が原のモトクロス』のきっかけは、
 1962年11月に開催された鈴鹿サーキットのジュニアロードレースを製造部のメンバーが観戦し、カワサキもレースをと言うことになったのである。
 このレース観戦の仕掛け人兵庫メグロの西海義治社長で、青野ヶ原のモトクロスの開催を主宰したのも当時MFJ 兵庫支部長だった西海さんなのである。
 西海さんは子飼いの松尾勇さんをカワサキの製造部に入社させ、
青野ヶ原のマシンも、その後のF21Mまでの約10年間は、MXもロードレースも、松尾勇さんがマシン製作を主導したのである。
 カワサキのレースマシンの制作が技術部に移ったのは、マシンがKXと称される時期からなのである。
 エンジンは兎も角、フレームについては二輪の専門家が少なかった時代だったと言えるのだろう。

 因みに、西海義治社長が何故かくも熱心だったのかと言うと、
 西海さんは元プロのオートレーサーで、何としてもカワサキにレース部門を立ち上げようと思われたに違いないのである。


★このカワサキのレースのスタートのきっかけは、
 1962年11月鈴鹿サーキットで開催されたジュニアロードレースだったのだが、
 このレースの250ccの優勝者が三橋実350㏄が片山義美で、この二人のレーサーがその後カワサキのレースチームを支えることになるのである。
 当時はMCFAJ主催のレースが主体で、それに出場するためには選手はメーカではなくクラブチーム所属であることが必須だったのだが、
 カワサキコンバットを主宰したのが三橋実で、神戸木の実クラブ片山義美だったのである。

 この写真の左から岡部能夫、歳森康師、山本隆、三橋実、梅津次郎
 この5人がカワサキの最初に契約したライダーなのだが、
 三橋、岡部、梅津が三橋実が立ち上げたカワサキコンバット
 歳森、山本は片山義美が主宰した神戸木の実クラブ所属なのである。

  
  


 
 1962年に本田宗一郎さんが鈴鹿サーキット創っていなければ  
カワサキのレースチームもまた、変わった形になっていただろう。
 そういう意味では、本田宗一郎さんがカワサキのレースに陰ながら関係したとも言えるのかも知れない。
 

★ レースには私自身いろいろとご縁があって、 『青野ヶ原』以降のファクトリーチームを担当したのだが、
  1988年10月に『カワサキファクトリー25周年』と銘打って、立ち上がり時代のレース関係者と当時の現役レースチームを招いて、25周年記念パーテイを開催したのである。


  
  

 集まったライダー諸氏は、最初の契約ライダー歳森・山本・岡部・梅津をはじめ
 その後ファクトリーに参加した安良岡健・和田将宏・金谷秀夫・清原明彦・星野一義、
 現役ライダーでは宗和孝宏・多田喜代一・関本五十洋などもいる。

 川崎重工側の出席者としては、青野ヶ原を主宰した中村治道・高橋鐵郎(元川重副社長)さんも、当時のレーサー製作を仕切った松尾勇さんもおられるし、
 真ん中にお座りなのが兵庫メグロの西海義治社長なのである。
 初期のレース運営委員会会長の山田熙明(元川重副社長)、苧野豊秋さんなど錚々たるメンバーなのである。
 
 カワサキのロードレーススタート時の監督大槻幸雄(Z1開発総責任者・川重元常務)・副監督田崎雅元(元川重社長)さんも、
 さらにはカワサキの名物男・平井稔男さんなどが顔を揃えているのである。

 因みに、OBサイドでの末席星野一義・清原明彦と言うホントにウソみたいな話なのである。
 このメンバーを見る限り、レースだけではなくカワサキの二輪事業を支えた中枢メンバーが当初のレースに関わっておられたことがお解り頂けると思う。

★カワサキの初めてのレース『青野ヶ原モトクロス』で、1位から6位までを独占するという完全優勝はまさに運がよかったと言わざるを得ないのである。
 マシンは125B8で、ライダーはこのモトクロスが初めてという初心者ばかりだったのだが、
 当日は雨でいたるところに水溜りが出来て、他社のマシンはみんなエンジンが止まってしまったようなのである。
 後、カワサキのエースライダーになる山本隆も当時はヤマハで出場していたようだが、マシンが止まってリタイヤしたのである。
 カワサキのレースでその後も1位から6位まで独占などはこのレースだけで、まさに雨のお陰なのである。
 因みに、この青野ヶ原の優勝者が誰なのか?
 当時はカワサキが勝ったということだけで、優勝者が誰だったのか?解っていないのは不思議なことである。

 雨がカワサキに幸運をもたらした、まさに『恵みの雨』だったのである。
 ずっと後、山本隆がはじめて鈴鹿サーキットを走ったロードレースでも、当日雨になってモトクロスライダーの山本隆がホンダに次いで3位入賞と言うことになるのだが、
 雨がMXもロードもカワサキに幸運をもたらしたのである。

 
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カワサキの二輪車の歴史について    その2

2024-04-11 05:43:12 | カワサキ単車の昔話

★カワサキの二輪車の歴史・その2は
 1960年。神戸製作所で二輪車の一貫生産を開始とある。



  

 私は昭和32年4月(1957)に川崎航空機に入社したのだが、
 最初の配属先は業務部財産課だった。
 そこでも新しいことばかりやっていて、木製の椅子から金属製のネコスの椅子に変えたり、財産物件の償却計算を民需では初めてIBMを使ったりした。
 当時はアメリカ空軍のジェットエンジンのオーバーホールを明石工場でやっていて、明石工場にはIBMの器械装置があったのである。

 日本で一般にIBMが使われ出したのは昭和40年代だから、それより10年も早い時期のことなのである。
 そんな財産課にいたのだが、肺結核にかかって1年ほど入院していたのだが、その退院の時期が1961年12月で、たまたま新しく単車営業課が発足したのである。
 初めてのことだからそこには誰もいなかったのだが、
新しい仕事』なら古谷は出来るだろうと思われたのか、その単車営業課の所属になったのである。
 その部門の上司は業務部時代にもいろいろお世話になった小野助治さんで、その小野助さんに『私は引っ張って』頂いたのである。

 小野助治さんは、当時小野助さんと皆に呼ばれて、ホントに面倒見のいい上司だったのだが、私はその後、結婚するときは仲人をお願いしたりしたのである。

★これがきっかけで、私はその後、1999年に退職するまで、一貫して二輪事業を担当することになったのだが、
 一番最初の車はニューエースとあるが、それはほんの数か月のことで、私が営業課に異動した時の車は、125ccB7モペットM5が主力車種だったのである。


  
 
 
 そのほかにも、井関のタフ50なども委託生産していた時代なのである。


★ 私が営業課に配属されて小野部長に最初に言われた指示は物品税を研究してくれ』だったのである。
  この125B7は出荷もしていたが、フレームに欠陥があって多くの車が返却され、明石工場は返却車の山だったのである。
 私が配属されて2か月目の1962年1月の出荷台数は返却が出荷を上回って『マイナス17台の出荷』と言う信じられないことが起ったのである。

 当時125cc以上のバイクは贅沢品に掛けられる『物品税』が掛けられていて、この物品税の納入は至って簡単なのだが、
 返却されて治めた『物品税を戻入』して貰おうとするとこれが大変なのである。
 1台1台、明石税務署の署員の実地検査があって、そこで認可されないと戻して頂けないのだが、
 それは出荷当時のままと言うのが条件で、例えばメーターはゼロ出ないとダメなので、メーターの巻き戻しなどもやるという、大変な作業だったのである。
 さらにこの物品税は申告税だから、若し不正があると体刑になるというムツカシイ処理で、ホントに大変だったのである。

 そんな大変な時代が1年続いたのだが翌年には名車とも言われる25B8が出て、単車事業はやっと何とか軌道に乗り始めたのである。


  
 
 
 私の単車1年目はこんな大変な時代だったのである。
 いまは隆盛を極めるカワサキの単車事業だが、
 スタートから10年はずっと大変な時代が続いたのである。
 100社近くもあった単車の事業体がどんどん脱落して、
 いまの4社体制になるのだが、浜松の3社以外に生き残ったのはワサキだけなのである。
 そんな時代をずっと一緒に過ごせたのは今となっては貴重な体験だったと言えるだろう。


  

 
 私の入社当時の川崎航空機の明石工場はまだ単車工場もなくこんな状態だったのである。
 この広大な土地や戦前の機械の売り食いでやっと経営を繋いだ時代で、そう言う意味でも財産課は至って貴重な部門だったのである。



 
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カワサキの二輪車の歴史について    その1

2024-04-08 05:59:43 | カワサキ単車の昔話


★「カワサキモーターサイクルの歴史」としてこんな表が載っていた。
 1960年から2000年までの40年は丁度私が二輪車を担当してた現役時代なのである。
 40年間の歴史の中で1966年までのスタートの時期以降は抜けている年度もあるが、そんな年度のことも私なりに補って40年間の歴史としてみたい。 
 



川崎航空機工業が戦時中に生産してたのは飛燕などの戦闘機だったのだが、
そのために敗戦と同時にGHQから工場を差し押さえれ操業停止になった。
昭和28(1953)の生産再開までは播州滝野高槻に疎開工場があって、播州工場では歯車を高槻ではエンジン関係をやっていた。
カワサキの単車1号機も高槻工場で造られたものだった。





 この高槻工場には後に単車事業本部長もされた高橋鐵郎さんもおられたようである。
 昭和28年(1958)に明石工場が再開されたのだが、
 私は昭和32年入社なので、その頃のことは話として聞いているだけである。
 本格的にカワサキが一貫生産工場を造って単車事業をスタートさせたのは1959年のことで、
 目黒製作所と提携し、社内にも『単車営業部』がスタートしたのは、1960年なのだが、
 この年に私はその単車営業部に異動したので、カワサキの単車のスタート時期から、1999年に退社するまで、二輪事業に関わっていたのである。

★その殆どの項目が二輪車の機種なのだが、それについて私なりの感想や思い出などを纏めてみたいと思っている。
 閑に任せて40回、どんな記事になるか解らぬが、楽しみにしてください。
 

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FX400と私とカワサキ

2024-04-01 06:21:18 | カワサキ単車の昔話

★最近はネットのニュースにカワサキが登場する機会が多い。
 昨日もこんなFX400の柏秀樹さんの記事が載っていた。

空冷DOHC4気筒400ccバイクの中でもっとも威風堂々としていたバイク、といえば1979年登場のカワサキZ400FXです。
Z400FXは当時、最先端のデザイントレンドというべき角張ったカフェレーサースタイルを導入しながら、同時に見た目の大きさが際立っていたことです。
と柏秀樹さんに紹介されているFX400は、

  


 空冷4ストローク並列4気筒DOHC 399cc 、43ps/9500rpm で
 当時の販売価格は38万5000円でした。

★1979年当時は、実はカワサキにとっては大変な時期だったのである。
 1977年以降のアメリカ市場はHY戦争が日本からアメリカまで飛び火して、
 カワサキもその乱売合戦に巻き込まれてアメリカのKMCは毎年100億円を超える赤字の連続で、日本の事業本部も赤字になって、川崎重工業の本社財務部門が救済に当たっていたような時期だったのである。
 
 国内のカワサキオートバイ販売は、アメリカのダンピング問題もあって、
 そのままの体制ではカワサキだけがダンピングに引っかかるということで、
 従来の社長以下の大きな本社をなくして、ホントに小さな体制にしたのだが、
 そのTOPをまだ新米課長だった私が引き受けることになったのである。

★それが1979年なのだが、
 何も解らぬままカワサキオートバイの常務として全軍の旗を振っていたのだが、
 この年に登場したのがFX400で、何もしないのにどんどん売れるものだから、販売会社にあった10億近い赤字を消去して、
 カワサキオートバイ販売は優良会社に変身したのである。

 そう言う意味で、二輪事業は一つのヒット商品で様子が一変するのである。

  


 カワサキにとっての最初のヒット商品は、あのZ1/Z2と言っていいのだが、
 国内市場では750㏄の市場はそんなに大きくなかったのだが、
 この400ccの市場は750㏄とは違って、非常に大きかったから、
 カワサキの販売会社の状況が一変してしまったのである。

 
★ ただ抜群によかったのは国内市場だけで、
 アメリカ市場をはじめ海外市場は苦戦の連続だったのだが、
 国内市場の販売のノウハウをと私は単車事業本部の企画部に移籍することになるのだが、
 そんなことが私のその後の経歴にも大いにいい影響を与えてくれるのだが、そのきっかけを作ってくれたのがこのFX400なのである。

 この車がきっかけで、その後のNinjaに繋がり
 さらにはZEPHREに繋がっていくのだが、
 そのベースにあったのはFX400で、これは私にとってもカワサキの二輪事業にとっても多大の好影響を与えてくれた車だと言っていいのである。

 そんなFX400だが、確かに今見てもなかなかカッコいい。
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カワサキのZ1とNinja の想い出

2024-03-01 06:52:39 | カワサキ単車の昔話

★ 私自身はカワサキで二輪部門の企画や市場関係を担当していて、
 技術関係の車の開発などには殆ど関係しなかったのだが、
 この「Z1とNinja」にはカワサキの歴代のバイクの中で、
 私にとっても特別の想い出があるバイクなのである。

 カワサキがレースを始めた当時は『レース運営委員会』で運営されていて、
 そのメンバーは、山田熙明・苧野豊秋・中村治道・高橋鐵郎・大槻幸雄・藤佶郎・田崎雅元という
 当時の技術・生産・営業のメンバーで構成されていて、
 その事務局と当時のライダー契約などをが担当していたのである。

 当時はまだ各部の部課長や掛長の時代だったのだが、
 このメンバーの中から川崎重工業の社長副社長などが出ているのを見ても事業の中枢メンバーであったと言えるのだろう。


★このレース運営委員会はカワサキが初めてGPレースに参加した1966年まで存続したのだが、この年の秋を最後に解散したのである。
 大槻幸雄さんは技術部の市販車開発部門に、私も営業部門に配属されることになったのだが、
 その時大槻さんは私に『世界一のバイクを創る』と熱く語ったのだが、
 そのバイクがあのZ1に繋がったのだろうと思うのである。

  
 

 このZ1の開発当時は山田熙明さんが技術本部長時代で、
 大槻幸雄さんが課長時代だったと思うが、
 最初は750ccで開発が進められていたのだが、
 ホンダが750ccを市場に出したので、急遽900ccに変更されたのも、『世界一のバイクを』と言う大槻さんの想いの現れだと思っている。
 大槻幸雄さんとはZ1会のゴルフコンペなどで、ごく最近までお付き合いがあったのである。

 カワサキの初代のレース監督大槻幸雄さんで、助監督田崎雅元さんだったのである。


★ Ninja900が世に出たのは1984年だから、
  Z1が世に出てから12年もあとのことなのだが、
  大庭浩単車事業本部長の頃で技術本部長は安藤佶郎さんだったと思う。

  このバイクは「GPZ900R」として開発されたのだが、

  
当時のアメリカ市場から、Ninja』と言うネーミングが提案されたのである。
忍者』のイメージは暗いからと開発部門が猛反対で、
 大庭浩本部長が自ら当時のアメリカKMC社長だった田崎さんに、その意向を伝えるべく渡米されたのである。
 その席には大庭さん・田崎さんと私の3人だけだったのだが、
 大庭さんの伝達に対して田崎さんは猛烈に食い下がって「YES」と言わないのである。

当時はアメリカではNinjaが流行っていて、それは黒装束の忍者のイメージではなく、007のカッコいいイメージ』だというのである。

田崎さんはKMC社長ではあったが、川重では新部長の頃だったのだが、大庭本部長の説得を『よく頑張り通した』と思う。
事業本部長が説得すれば「Yes」と言うのが普通なのである。

そんなこともあって、最初の車はアメリカ市場だけが『Ninja』と言うネーミングで発売されるのだが、
その『Ninja』のネーミングが好評で、いろんなバイクのネーミングに使用され、今年はNinja40周年に当たるのである。

このNinja 900のエンジン担当開発者は若いころの山田浩平さんで、
山田さんとは今でもFacebookで毎日のように繋がっているのだが、
そのエンジン開発のコンセプトはZ1とは全く違ったものだったようである。
 
  

 
いずれにしてもZ1とNinja は『カワサキを代表する名車』であることは間違いない。
 そして、それは旧く『レース運営委員会のメンバー』が
 色濃く関係しているのは不思議だなと思っているのである。

 そして殆ど開発などには関係していなかった私も、
 懐かしい想い出を有しているのである。



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カワサキ単車の昔話   28    富士山登頂成功

2023-11-18 01:07:25 | カワサキ単車の昔話

★ この話は一度アップしたこともあるのだが、
 改めてもう一度まとめ治してみることにする。
 このプロジェクトは昭和40年(1965年)7月のことだが
 カワサキの品証部にいた福田泰秀君が当時広告宣伝を担当していた私のところにやって来て、
 「8月の休みに85J1で富士山に登ろうと思うのだが、その費用を持ってくれませんかという話から始まったのである。

 カワサキの二輪事業は昭和36年12月に初めて単車営業課が出来て、
 私はそこに異動したのだが、それ以前に営業課はなかったが、
メーカーとして技術を担当するサービス係が3人いてその一人が福田康秀君だったから、
 彼は本当にカワサキの単車のスタート時代から関わっていたのである。
 そんなこともあって福田君は単車営業に異動した私の下についたので昔馴染みで頼みやすかったのだと思う。

 別に会社の起案ではないし品証の連中のプライベートでの企画なのだが、
 「富士山の山頂での写真」を撮ってきたら費用の面倒をみようということでスタートした話なのである。

 いまの時代ならバイクで富士山に登るなど、許可されないだろうし、
 そんな写真を広告宣伝に使うことなど考えられないと思うのだが、
 その時代はこんな無茶な計画も世間は許してくれる時代だったのである。


★ 結果は大成功で当時のバイク雑誌にも掲載されたし
 広告宣伝課の広報としても「雑誌広告」に使ったりしたのである。
 



 そして「85J1の抜群の登坂力」などと正規の広告に使用したりしたのである。

  


  
 富士山頂でのこんな写真もあるし


 


 当時の品証の懐かしいメンバー達である。




 2台の85J1をレース職場で整備し
 モトクロスタイヤを装着したりしたのだが、
 登頂はなかなか大変だったようで、
 ロープで引っ張り上げることもあったとか。

 戻ってきた85J1のタイヤのヤマは殆どすり減っていたのである。






★ それにしても、よく登ろうと思ったと思うし、
 広告に使っても会社から文句を言われるようなことは全くなかったのである。
 この企画を私も上司には相談などしていない。
 そんな自由な雰囲気があった時代のことなのである。
 昭和40年8月3日のことだから、
 いまから58年も前の話なのである。

 お互い若かったなと思う。
 これは2013年だから10年前のことだが、
 ある催しで『バイクで富士登山』を語る福田康秀くんである。

 


  
 久しく会っていないが、元気にしているのだろうか?

  
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カワサキ単車の昔話   27   7万台への挑戦 3

2023-11-10 06:00:25 | カワサキ単車の昔話

1990年代の初頭のことなのだが、
 7万台販売というとてつもない目標に挑戦した時期がある。

 出来ると思っていた訳ではないのだが、何とか目標達成が見えてきたので、
 当時の二輪事業本部の部課長を集めての講演会が行われて、
 2時間以上に亘って話しているのだが、その集約をご紹介している。
 今回で3回目だがこれで締めくくりたいと思っている。
 カワサキにとっては国内7万台は夢のような目標だったが、
 何とか達成することが出来たのである。

 7万台というのは、
 二輪車は4万台を6万台
 ジェットスキーは3000台を1万台
 という少々粗っぽい目標なのだが、何とか達成できたのである。
 

 



 こんなべらぼーな目標は、普通の販売促進策では実現できないと思ったので、
 『カワサキの新しいイメージ創造』という大きなテーマに取り組んだのである。 

 簡単にそう言ってはいるが、『イメージ創造』とは一般社会というか
 他人がカワサキに抱く発想なので、なかなか口で言うほど簡単ではないのである。
 最初に取り組んだのは、その時点でのカワサキのイメージ調査報堂に頼んで行ったのがこれである。

 これが当時の二輪4社のイメージなのだが、
 カワサキのイメージというと個性的なデザイン玄人受けはするけれども、
 レースに弱く、宣伝のセンスがなく、常にチャレンジしないし、
 そのイメージ総量が小さくて、極端に言うと一般には知られていない。
 このイメージを変えない限り、7万台などは夢のまた夢だと思って
 7万台というよりも『新しいカワサキのイメージ創造』という目標に取り組んだのである。
 

 


  兎に角、1年間
  ● ケイ・スポーツ・システムというソフト会社を創って
  ● ユーザー組織KAZEに本格的に取り組み
  ● レースにも本格的に取り組んだら
 1年後にはカワサキのイメージはこれくらいには膨らんだのである。
 こんな変化にが自信になって、
 
   
 

  それ以降にさらに積極的に頑張ったのは
  ● 遊び会社ケイ・スポーツ・システム
  ● 具体的にはユーザークラブKAZEの本格化
  ● 一般ユーザーが走れる日本で初めてのサーキットSPA直入
  ● レース運営の積極化
  など販売対策などではなくて、

  総合営業活動として
  兎に角、新しいカワサキのイメージ創造に取り組んだのである。 
  
  
 
 
  
 この期間には、不思議なほど具体的な販売対策や販売促進策は行っていない。
 一番台数増に貢献したのはカワサキらしいバイクではなくて
 何の変哲もないZEPHREだったのである。

  
  


 この車が開発当時からこんなに売れるとは誰も思っていなくて、
 生産台数は極小だったからバックオーダーが出たのだが、
 生産台数を増やさずにそのままにしていたら、3年間バックオーダーが続いたのである。
 これは『私がそうした』のだが、
 過去に400FX3か月以上のバックオーダーになったので、生産を増やしたら、たちどころに消えてしまったのである。
 車が足りなくなると、ユーザーはあちこちの販売店に行くので、バックオーダーというのは過大な台数になるのである。
 そんな400FXの経験から、何もせずに放置したのだが、それがよかったのである。
 何の変哲もないZEPHREは、空前のヒット商品となり『7万台達成』に大いに貢献したのである。


★講演の最後に語ったのは私独特の経営のバランスシートである。
 線から上が一般のバランスシートだが、その経営にあたる人材は多様なソフトが蓄積されるほど高質人材が育つのだと思っている。
 そういう意味で特に販売会社の経営は多様なソフトの充実こそが、貸借対照表の内容の充実に繋がるのだと思っている。
 当時のカワ販グループは売上高400億円だが総資産は100億円、実に回転無借金経営自己資本比率35%というちょっと日本ではないような内容だったのである。
 それが出来たのはソフトであり、従業員の高質化だったと思っている。






★この時期ホントに力を入れたのは、
 カワサキの新しいイメージ創造だったから
 この講演会の講師もこんなメンバーだったし、
 話した内容も以下のようなものだったのである。

 

  


  そんな『ソフト対策』が7万台を実現したと言っていい。
  私の現役時代の総仕上げみたいなものだったが、
  私の生き方のベースは『差別化』でちょっと変わった生き方なのである。
  これは90歳になった今もちょっと変わっていて
  世の中には珍しい『90歳の生き方』になっていると思うのである。

 思わぬ大成功に繋がった『カワサキ単車の昔話』である。
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カワサキ単車の昔話   26   7万台への挑戦 2

2023-11-07 05:35:17 | カワサキ単車の昔話

1988年10月、3度目の国内担当となった。
目標70000台」の販売達成をめざす、という難しい課題を与えられての担当であった。
私なりのユニークな対策の効果もあって、このムツカシイ目標の達成が見えてきたた91年3月に、
7万台への挑戦』についての話をするように当時の事業本部長高橋鐵郎さんからの指示だった。
そしてその講演を冊子にまとめてくれたのは当時の営業部の販売促進部長の岩崎茂樹くんである。

この冊子の冒頭のご案内で岩崎茂樹は大要このように述べている。
・・・皆様にお汲み取り頂きたいのは、そのユニークな手法ではなく、何故そうしたのか?何を狙っているのか?と言った
 一貫して中を貫いている"哲学”=基本的な考え方であります。
 ハードウエアだけでは最早競争相手との差別化が困難となったこの時代に、
 このソフトウエアを構築の柱としたダイナミックなマーケッテング活動をユーザーの意識の変化に即応して展開していく姿勢をも学んで頂きたいと思います。


  
  

 彼は若い時、私のレース活動を引き継いでくれたレースマネージャーで、2代目の広告宣伝課長なのである。
 そんなことで私自身をよく理解してくれているから言える言葉だと思う。
 

★ 私はこのような講演会でも大綱は纏めるが、原稿などは作ったりはしないのである。
 話は喋り手と聴き手で成り立っている。
 常に聴衆の反応を見ながら話さないと、一方的な講話になってしまうのである。
 そんなことで、高橋鐵郎さんが何を思ってこの講演会を考えられたのか?
 先ず、冒頭に高橋さんの考え方を私から聞いてみたのである。
 即席ではあったが、高橋さんはこのように語られている。


 


本来ですと、直ぐカワ販の講師に喋って貰ったらいいのですが、
ここに並んでいる講師の連中は見かけによらず心臓が弱そうで、
私にキックオフをしてもらわんと、
喋る訳にもいかぬという要請が只今ありましたので、
今日の会合の趣旨について若干私からお話したいと思います。
 いまよい製品を適正な価格で売るということは、必要ではあるけれども、十分条件ではない。
今後の販売は周辺のソフトを固めてグローバルに総合的にモノを顧客に提供していく時代が来た。
我々事業本部の方も今後の販売は総合的な力で最終的な結果が得られるということをよく認識して、
前線で戦っている販売面をよくバックアップしていかなければいけないと思い、
CP事業本部の幹部の方々に集まって頂いた訳です。どうか皆さんご清聴下さい。
 というご挨拶で、この講演会が始まったのである。
  
 
★高橋さんから『7万台への挑戦』の話をするようにと言われて、
 さて、どのように話すべきかと思ったのだが、
 これは私が指揮をとってはいるが、私が一人でやっている訳ではないので、
 部下というか「仲間と一緒に話すべき」だと思って
 喋り手はこんなメンバーにして、こんな構成にしたのである。

 その講師に選んだのは販売促進部などではなくて、
 ●ケイ・スポーツ・システムというソフト会社南常務
 ●レース担当重本部長
 ●広告宣伝小林課長とし、
 打ち合わせなどなしにスタートしたのである。

 打ち合わせなどしなくても、日ごろの業務の中で意思疎通はよくできているから、
 自由に喋らしてもおかしなことにはならないと思ったのと、
 若し、何かあればその場で私が修正すればいいと思ったので、
 先ず私が喋り、そのあと3人が話して
 最後に私が纏めるという方向としたのである。

 目次は綺麗に纏められているが最初にあったのではなく、
 話した内容をあとで岩崎茂樹が纏めてくれたのである。

 


★この講演会のテーマは『7万台への挑戦』なのだが、
 その副題にあるように『新しいカワサキのイメージ戦略』なのである。

 目標が5万台ならともかく『7万台』という途方もない台数は、
 「カワサキの新しいイメージ創造」がキーで、
 それなくして、単なる販売促進策では不可能だと思ったからである。

 1988年10月に国内販売を担当して、
 最初にやったのは『ケイ・スポーツ・システムというソフト会社』を創ることから始めたのである。 
 川崎重工業の中ではじめてのソフト会社は、翌年3月に設立され、
 私が社長を兼務して『7万台への挑戦』の中枢に据えたのである。

 端的に言えば『遊びの会社』なのである。
 二輪車は交通手段でもあるが、カワサキが主とするスポーツ車は
 『遊び道具』なのである。
 販売店などにはできない「本格的な遊び」を末端のユーザーとともに創って、
 『新しいカワサキイメージの創造』が出来ない限り、
7万台の販売達成はない」と思ったのである。

 その新会社の設立に利用したのが、
 当時日本で初めての一般ユーザーが走れるサーキット『SPA直入の管理』という名目で、
 新ソフト会社・ケイ・スポーツ・システムの創立の理由にしたのである。


 

 この時期は丁度SPA直入が建設中だったので、
 
 そんなことにでもしなければ、川崎重工業の役員さん方に『二輪の遊び会』などと言ったら、新会社の設立などは申請が通らないのである。
 この時の川重社長の大庭浩さん単車本部長時代に私が番頭役を務めてたので、
古谷が言うのなら』とあまり中身は解らずに通して頂いたのだと思っている。

 そんなことで出来た『ケイ・スポーツ・システム』だが、
 この会社での最初の仕事は、ユーザークラブKAZEの本格的な導入
だった。


 
 

 当時はホンダはHART ,ヤマハはYESS,スズキはじゃじゃ馬と4社ともあったユーザークラブだが、
 4社の中でKAZEだけが今も存在し、今年35周年を迎えるのである
 その理由は、他社は担当者ぐらいはいたのだろうが
 カワサキは、これを企画管理するソフト会社を創って本格的に対応したからだと思う。
 KAZEとは少々当てつけだが
 Kawasaki Amusing Zone for Everybody の頭文字をとったもので、
 風を切って走る二輪の楽しさを何となく連想させるものになっている。

 これらの話は、今となっては『カワサキ単車の昔話』ではあるのだが、
 この『新しいカワサキのイメージ創造』は私にとっては
 二輪のマーケット分野を担当した集大成 だと言っていい。

 いま思うと、岩崎茂樹がよくこんな冊子にまとめてくれたなと感謝・感謝なのである。
 因みに『SPA直入』は私と岩崎茂樹とで創ったサーキットで
 その『SPA直入』の名付け親は岩崎茂樹なのである。
 その名の由来は、直入町の温泉もあるのだが。
 世界的に有名なベルギーの『スパ・フランコルシャン』から来ているのである。

★こんなコンセプトでの講演会だったのだが、
 当時のCP事業本部の約200名の部課長を前に
 2時間以上に亘って話したのだが、非常に好評だったのである。

 どんな話の内容であったのかは、サワリの部分を次回にご紹介することにする。
 
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カワサキ単車の昔話   26   7万台への挑戦 1

2023-11-03 05:51:15 | カワサキ単車の昔話

1988年10月、3度目の国内担当となった。
目標70000台」の販売達成をめざす、という難しい課題を与えられての担当であった。

 この7万台の販売目標は1983年当時大庭浩本部長が国内のカワサキオートバイ販売社長を兼務されていた時に建てられた目標なのだが、
 あまりにも大きな台数目標であったために、
 当時のカワ販では目標ではあったが、本気でそれに向かおうとはしてなかったぐらい高い目標だったのである。

★今年はカワサキモータースジャパンの創立70周年である。
 これは昭和28年(1953)明発工業が創立されてからの年数で、
 同じ年に戦後中断されていた川崎航空機工業が再スタートし、
 その明石工場は戦前から飛行機のエンジン工場であったことから、
 バイクのエンジンを開発生産し、明発工業に供給していたのである。
 私は昭和32年(1957)の入社だから私が入社する4年前の話なのである。

 ただカワサキが単車工場を造って単車の一貫生産をスタートさせたのは、昭和35年(1960)のことだから、
 スタートとされる昭和28年からは7年もあとの話で、
 カワサキの単車事業の歴史としては、
 この年から数える方が妥当かも知れない。

  
 
 
 私はこの1960年のカワサキの単車事業一貫生産の時期から
 単車営業課に異動したので、カワサキの単車事業スタートの時期からずっと一貫して単車事業とともに歩き、
 国内担当とメーカーの主として企画部門を交互に担当し、
 1988年から1999年までは最後の国内市場担当だったのである。


★この1988年からの国内担当は『7万台の販売目標』を達成すべくいろいろ頑張った私のマーケッテンぐ分野の集大成の時期なのだが、
 このムツカシイ7万台の販売目標は1991年6月1日に年間移動値で達成するのだが、
 その達成直前の3月に当時の二輪事業本部の課長以上を集めて
 『7万台への挑戦』と題して、当時の部下たちとともに行った講演があったのだが、
 それを当時のCP事業本部の営業部販売促進課が1冊の本に纏めてくれたのが、これである。

 この冊子は単に二輪事業本部の中だけに配られたものではなくて、
 当時の大庭浩社長以下役員全員にも広く配布されたものなのである。

 

  
 

 
  当時のCP事業本部は高橋鐵郎本部長時代で、
  高橋さんはカワサキオートバイ販売の社長を兼務されていて
  私が専務として実務を担当していた時代なのである。

    CPとはConsumer Prodct の略で、
  川重の他製品と異なり、末端ユーザーに直接届ける商品の二輪ジェットスキーを扱う事業本部ということで、
  高橋鐵郎本部長の命名だった。

 



 高橋鐵郎さんとは旧く、カワサキが単車事業をスタートした頃は
 製造部におられて私はレースを担当していたのだが、
 そのレース職場は当時は製造部所属で、
 私はライダー契約など担当していたので、そんな旧い時代から
 いろいろと一緒に仕事をしたのだが、
 1951年のカワサキのCKDの市場開発プロジェクト室以降は、
 ずっとコンビのような形で仕事を進めたし、
 1982年の二輪事業の危機的な状況の時には、
 私は企画部を担当するのだが、その時は川重TOPにお願いして
 高橋鐵郎さんをアメリカから戻って頂いたりしたのである。


★ 私のこの最後の国内担当の10年間は、
  私のマーケット分野の集大成のような期間で
  この講演会にはその具体的な内容を語っているので、
  『カワサキ単車の昔話』としてその内容がどんなことであったのか、
  ここで語られた内容を少し詳しくお伝えしてみたい。
  大げさに言えば、それはカワサキの二輪事業のコンセプトと言えなくもないと思っている。
 約2時間、本のページにして60ページと長いのだが、
 どんなことになるのか、『カワサキ単車の昔話』として
 連続してご紹介してみたいと思っている。

   ある意味、私の人生の生き方そのものだと言えなくもない。


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カワサキ単車の昔話   25    X11に関わった人たち

2023-10-16 04:53:54 | カワサキ単車の昔話
★カワサキのサーキット走行のスポーツ4輪X-11については、何度か取り上げてはいるのだが、
カワサキ単車の昔話』としてこのスポーツ4輪に色々と関わった方たちの話も纏めてみたいと思ている。


  
  

 このプロジェクトは技術本部の提案で『015計画』としてスタートした。
 当時の技術本部長は私と同期の藤川哲三さんで1990年4月23日にその報告会が高橋鐵郎本部長以下当時の幹部全員が出席して開催されたのである。
 私は当時は国内販社を担当していたのだが、新しい4輪販売をどうするかということでメインメンバーとして出席しているのである。
 これがこのプロジェクトのスタートだと思う。

 エンジン開発は約1年の月日を経てほぼ完成し、
 翌年の91年2月には、高橋本部長、藤川技術本部長ほか技術部担当メンバーと私を含めたメンバーで開催され、
 技術本部のレース関連部門と、当時のカワ販の関係会社 株)ケイ・スポーツ・システム(KSS)のレース関連部門とで具体的に推進することが決定されたのである。
 マシンに『KAZE X11』と表示があるのはそんな経緯からである。

 なぜ、販売部門の私が関わったのかというと、
 このマシンを走らせるサーキットが必要でSPA直入もKSSの管理下だったので、
 そこでも走らせたこともあったのだが、いかにも小さすぎて、実験にならなかったのだが、
 その当時カワ販は岡山に完成したばかりの会員制TIサーキット会員権を2枚も所有していたのである。

 そんな4輪の会員制サーキットの会員券をなぜ持っていたのかというと、 
 TIサーキットの初代社長の千々岩さん元ホンダ技研の常務さんだったのだが、千々岩さんに会員権を買ってくれと頼まれたので、
 約1000万円もしたのだが、2枚も買って立ち上がりのご協力をしたのである。
 人に頼まれるとなかなか断り切れない性格なのだが、
 このサーキットは会員制という当時日本でも初めてのシステムだったので、そんなことにも興味があったのである。
 これが結果的には『015の開発』に役立つことになったのである。
 
★当時カワサキの契約ライダーだった多田喜代一くんがFacebook にこんな写真を載せている。
 岡山TIサーキットでの走行風景である。
 
 
 

Kiyokazu Tada
90年初めにカワサキワークス.フォーミュラーマシンX -11。
エンジンはZZ -R 1100のフルチューンエンジン搭載、開発ドライバーは元トヨタ.ワークスドライバーの見崎清志
岡山国際サーキットを36秒台で走ります。僕も試乗させて貰いましたが、シートポジションもそのまま、ペダル位地もそのまま、なかなか走り辛い感じでした。
なれた頃には最終コーナーで大スピン!あわやピットウォールにクラッシュ寸前でした。でも楽しい走行が出来ました。

★ 当時の国内市場はZEPHYR時代で、めちゃ調子もよかったし、
 藤川さんに頼まれて、サーキット走行などいろんな面倒を見ていたのである。
 特に当時は未だ技術部のぺいぺいだったが、このエンジンを担当していた山田浩平くんがオモシロくて、
 そんなことも応援する気になったのである。
 このプロジェクトはKAZEやレースやサーキットなどを担当していたソフト会社  KSSでは、
 その発売を目指して、カタログまで創ったのだが・・・
 何故か販売までには至らなったのである。

 星野インパルの金子豊くんに『星野一義に乗せられないか?』と言ったリもしたのだが、
 星野はブリジストンとの契約があって、ダンロップのタイヤだからちょっと無理と言うことだったのである。

★それにしても、なぜ発売を止めてしまったのか?
 その経緯は、全然聞いていないし、アレだけ熱心に応援していたのに、解らないのが不思議である。
 1台だけ東京の藤木さんが持っていたのだが、FISCOでクラッシュしたと聞いていたのだが・・・・

 その時代カワサキの広告代理店にいたという貴島さん
 退職してから三木のサーキットで会ったりしたのだが、
 彼はFBにこんなことを書いてくれた。

 「かくして古谷さと約15年ぶりの再会とあいなりました。
 古谷さんのイメージは当時、社長室でスーツ姿ビシッと決めておられた姿でしたので、
 ON ANY SANDA当日お会いしたラフな格好の古谷さんは、
 メジャーリーグのウエアに帽子で、ワタシの緊張を解きほぐしてくれました。

 いま私がFBに使っているのは、カワサキの想い出そして未来の時の写真だが、 
 その写真の一番右に小さく写っているのが、確か貴島さんなのである。

 


★ ずっと後のことだが
  カワサキワールドに、KAZE X-11が展示されてるというので、これはぜひ見ておきたいと、登山道夫さんと、青木隆さんとの3人で出かけた。 
 このプロジェクトを当時担当した山田浩平くんから、
 その日の朝、こんなメッセージを頂いたのである。

 「プロジェクトX-11では大変お世話になりました。
 マグネのヘッドカバー がKファンに向けた私のメッセージです。
 現在の世界中のカーマニアが見ても何か感じるものがあると思います。
 開発当時はコストアップだとか執拗に上司からネチネチいわれましたが・・・
 カウルを外して展示されているようですから、
 マグネのヘッドカバーが目立ってよく見えると思います。是非ご覧ください。

 こちらが、山田浩平くんの仰る マグネシュームのヘッドカバーである。
 
    
 


 こんな現物のマシンが展示されていた。


 
 

  山田浩平くんは、Ninja H2R開発者としても有名である。
  私とは今でも毎日Facebook で繋がっている。
  
    

  
 
 
★ こんなKAZE Xー11 の当時のカタログがあったのは、驚きだった。
 これは当時の 株)ケイ・スポーツ・システム が作ったものである。

 

 そして、この『カタログ製作の担当』をしたというのが
 前述の貴島久裕さんなのである。
 
★ FJ1600よりは限りなくF3に近いサーキット走行専用車で、  ZX1100ccのエンジンをベースに160PS/105000rpm、車重409kg, 
 エンジンは当然カワサキの開発陣が関わったのだが、
 サポートしてくれた人たちがまた、かっこよかったのである。

 シャシーは、FJ1600の創始者で鈴鹿のウエストレーシングカーズ社長の神谷さんが直接担当してくれた本格的なものだった。
 このマシンに興味を持ったのは、前述の「TIサーキット」の千々岩さん(元ホンダ技研常務)や国井さん。
 そのテストと評価は、元F3チャンピオンの佐々木さんで、その評価も上々だったのである。
 レース界では名を知らぬ人は居ないほど有名だった、ダンロップの京極さんなどもタッチしてくれている。

 特に、二輪エンジン10,000回転を上回る独特のノイズが何とも言えぬいいムードであった。
 TIをベースにテストは続けられ、川重社内の経営会議決済でも承認され、
 当時の雑誌、カーグラフィックにも記事が掲載され、その評価も至って良く、
 カタログも作って1台800万円ぐらいで売り出すべく準備をしていたのだが、
 何故本格的な発売にならなかったのか、それが解らないのである。
なぜ、発売されなかったのか?だけは解らないのだが、ここに記載したことは間違いない事実なのである。

 いろいろと関係のあった『015計画』Xー11だったのだが、
 何故か陽の目を見なかったのである。
 それにしても2017年だったと思うが、
 何故、カワサキワールドに展示する気になったのだろう?


 

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カワサキ単車の昔話  24     大庭浩本部長

2023-10-06 06:18:28 | カワサキ単車の昔話

★ カワサキが二輪事業をスタートさせた時から現役引退の時まで
 カワサキの二輪事業とともに歩いた人生だったと言っていい。
 
 そんなカワサキの二輪事業にも事業撤退をしなければならないと
 その当時のTOPが思ったほどの危機的な時代があったのである。

 当時の川崎重工の副社長山田熙明さんから
 1982年7月1日の朝、突然自宅に電話があって
 『本社に来るように』という指示なのである。
 何事かと思ったら、当時毎年100億円もの赤字が続いていた
 アメリカのKMCの赤字が止まると思うか?
 というのがご質問なのである。
 『そんなのは直ぐ止まります』と答えたら
 『それならお前が企画に戻ってやれ』ということになったのである。


 これが、そのあと直ぐ頂いた山田熙明さんからの手紙
 9月1日付で企画に戻すから、それまでは他言せぬようにと
 書かれている。


  
  


★ そんなことで私は10月1日から事業本部の企画に戻ることになったのだが、
 山田さんにお願いした条件が一つあって、
 「高橋鐵郎さんをアメリカの社長から戻して欲しい
 とお願いしたのである。

 世界の販社の販売計画や黒字化は、
 本部で全体を考えたバランスの取れた計画を組めば、即達成されるのは間違いないのだが、
 そんな指示を世界の全軍に指揮するには新米部長の私には荷が重くて、 
 高橋鐵郎さんのお力をお借りしたかったのである。

 この時期の単車事業部の赤字は川崎重工にとっても大問題で、
 『単車再建』は当時の川重の第一優先課題だったのでもある。
 そんなことで翌年春ごろからは『再建屋』と言われていた大庭浩常務を本部長に送り込むと言われたりしていた。

 それが7月1日に実現するのだが、
 大庭さんにとっても初めての経験だから、若し大庭さんが最初からおやりになるとすると大変だったと思うのだが、
 幸いにして大庭さんが来られた7月1日には既に新事業計画も完成していて、それに従って順調に推移していた時期なのである。


★ 人には『ツキ』があると思うが
 大庭浩さんはそんないい「ツキや運」を持っておられたと思う。
 現在の神戸にある立派な川重本社は大庭浩社長の時に建てられたもので、ちょうどそんな時期の社長だったし、
 1996年の川崎重工創立100周年時の社長で、
 その年の10月14日には英国のサッチャー元首相の記念講演会が実施されるのだが、

  

 サッチャー首相との結び付は、大庭さんが単車事業本部長時代に
 ヨーロッパ出張時に始まっているのである。
 


       


大庭浩さんは、川重の中でも『怖い・うるさい』などのイメージが強いのだが、
 単車のメンバーはみんな上に強くて、
 大庭さんに対しても自らの意見をはっきりという人ばかりなのである。
そんな単車事業部の雰囲気を大庭さんは大いに気に入って頂いて、
私の進言など一番聞いて頂いたのは『大庭浩』さんで、
私にとっては信頼して頂いた最高の上司だったのである。

大庭さんの単車事業本部長はそんなに長くはなかったが
結果的には『単車再建』を達成されて、川重副社長で本社に戻られたのである。
 それまでの川重の中における単車事業は造船などの受注産業の中での異色の事業だったのだが、
 大庭さんの社長時代に川重の中でも中枢の事業本部に位置付けられるようになったのである。
 そんな大庭さんの社長時代に川重の全役員を集めた席上で、
 『単車事業についての説明』を私にするように依頼があり、1時間ほどお話したのだが、
 非常に好評で『よく解かった』と多数の方からお褒めを頂いたのである。

★そんな大庭浩さんの単車本部長時代に大庭さんの番頭役を務めたのが私で、
絶大の信頼を頂いて特に目を掛けて頂いたのである。
 
 私の最後の職務は国内販社の担当だったが、
 それは大庭さんが打ち上げられた国内7万台販売というとてつもない目標達成なのである。
 ZEPHYRという商品にも恵まれて、
 高橋鐵郎さんとのコンビで、
 7万台目標が達成されたことは大満足なのである。

  
 
 
 この記録は多分今後も破られることはないのだろう。


★ところで、私の川崎重工での最後の職位は『技監』なのだが、
 これは文字通り技術屋さんの博士号などを取られた方や
 国からの来られる技術屋さんなどに与えられる取締役待遇の職位なのである。
 その『技監』という職位を事務屋ではじめて頂いたのが私で、 
 それは大庭浩社長自らのご指名だったのである。

 大庭さんは技術屋さんで何事もその根拠が必要なのだが、
 『お前はマーケッテング分野では博士号に値する』と言って頂いての『技監』だったので、大満足しているのである。
 
 大庭さんに一番づけづけとモノを言ったのは間違いなく私だと思う。
 そんな大好きな大庭浩さんだったのだが、早く逝ってしまわれたのである。

 

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カワサキ単車の昔話  23  日活映画 と 浜田光夫

2023-09-30 05:08:17 | カワサキ単車の昔話

★ 1965年(昭和40年)単車事業がスタートした頃の話だが、
 世の中はまだ映画が真っ盛りの時代で、
 カワサキの東京の広告宣伝課が日活といろいろと提携し、
 映画の中にカワサキを登場させていたので、
 日活映画の招待券なども沢山手に入っていたのである。

 そんな招待券で明石日活に『風と樹と空と』を観に行ったのは、
 この年の7月12日のことなのだが、
 7月14日にその明石日活に、この映画の主演俳優の浜田光夫舞台挨拶に来るという情報を課の女子社員が言うのである。

 全く突然の話で、何の約束もなかったのだが、
 私は『ダメ元で』と明石日活に出掛けて、
 浜田光夫のマネージャーに『カワサキの工場に見学に来ませんか』と言ったのだが、 
 何の問題もなく『伺います』というのである。


★『風と樹と空と』は、石坂洋次郎の小説で、
 1964年に映画化されたのである。

 その主演は、吉永小百合と浜田光夫の日活純愛路線で、
 多くのファンの支持を集め爆発的人気となっていたのである。


   



 そんな当代の大スターに突然「明石工場に来ませんか」と言ったら、
 びっくりするほど簡単に『伺います』ということになって
 浜田光夫と松原智恵子の二人がやって来たのである。
 そんな突然の話だったが、当時の塚本本部長に対応して頂いて、
 その録音を録ろうとしたのだが、録音器を持ち込むのがほんの少しだが遅れてしまって、既に始まっていたのだが、
 浜田光夫は、全く自然に『最初の挨拶』から『やり直して』くれたりしたのである。
 そんな対応が自然に出来るのは『流石だな』とその時そう思った。

 そんな話の後、『テストコースで単車に乗りませんか?』と言ったら、
乗ります』と言われて、テストコースにご案内したのだが、
浜田光夫が来るらしい』とは、いろんなところに伝わっていたらしく、
 テストコースはちょうど発動機工場の横だったのだが、
 発動機の女工さんたちがラインを離れて、群がって見に来たものだから、
 発動機のラインが止まってしまったのである。
 それくらいの人気スターだったのだが、
 当時の勤労部長に「突然、浜田光夫など連れてきて」と文句を言われたのだが、
 これは発動機の管理体制の問題で、私が文句を言われる筋合いはないと思ったりしたのである。


  
  

 然し、今思うと『よくやったな』と思うし
 浜田光夫も『よく単車に乗った』ものである。
 若し、怪我でもしていたら大変なことだったかも知れぬが、
 何の問題もなく上手くいって、
 浜田光夫もテストコースで単車に乘れて喜んでいたのである。

 どのように『お礼をしたらいいのか?』よく解らなかったが、
 3万円を謝礼に包んでいる。 
 当代のスターにこの金額が妥当だったかどうかはよく解らない。
 3万円か?と思われるかも知れぬが、
 その年の私のボーナスが6万円の時代なのである。

 そのあと、明石日活の劇場の壇上での本番では、
 浜田光夫は、カワサキのバイクの話を詳しく話してくれたし、
 広報担当の私としては大満足の出来事だったのである。


★ 私の行動は、このように突然、直感で動くことが多いのだが、
  その殆どの場合上手く行くのである。
  そんな中でも、この『浜田光夫の1件』は今思うとよくやったなと思う。 
  ただ突然のことだったし、何の約束事もない出来事だったので、
  この件の広報は一切やていない
  明石日活で浜田光夫が喋ってくれたのはよかったが、
  これをカワサキが広報に使うのはダメだなと判断したのである。

  外に広報したのは、このブログが初めてなのである。


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カワサキ単車の昔話  22     ナイジェリアの旅 

2023-09-25 05:09:28 | カワサキ単車の昔話

★世界のいろんな国に行ったが、
 一番ユニークな印象を持っている国と言えばナイジェリアかなと思う。

 人口は2億1000万人もいて、アフリカ州最大の規模である。
 19世紀以来の英国による植民地支配が続いていて、
 1960年に正式に独立したが、公用語は英語なのである。

 アフリカのほぼ中央部に位置している。

  


 1977年8月のことだが、
 カワサキが発展途上国へのCKDビジネスをスタートさせた頃で、
 ナイジェリアの現地調査に行くことになったのだが、
 ナイジェリアに行くにはマラニアの予防注射が必須事項な、
 そんな時代のことである。

 これが私の初めてのヨーロッパへの旅でもあったのだが、
 タイのバンコックからフランクフルト経由ロンドンに入ったのだが、
 日本ーバンコックーロンドン経由がおかしいと思われたのか、
 私の荷物検査はほぼ1時間ほどトランクの隅々までチェックされたのである。
 そして、先ずはマンチャスターにあるPZ本社を訪れ打ち合わせをしたのち、
 ナイジェリアの当時の首都ラゴスへ飛んだのである。

 とかっこよく言ってるが、ロンドン二つも空港があるとは解らなくて、
 1日目は、ヒースロー空港 に行ったが、ラゴス行の飛行機の便がないのである。
 アフリカにはもう一つの ガトウィック空港 から出ていて予定が1日遅れることから始まった。

★ 当時のナイジェリアは石油ブームで、その首都ラゴスは無茶苦茶な混雑ぶりで、
 街には車が溢れていて、それも1日ごとに奇数・偶数のナンバーしか走れないように規制をしているのだが、
 それでも車がいっぱいでなかなか思うように走れないというような状態だった。
 そんな現地にはカワサキから森田君が単身赴任していて、
 彼と一緒に行動したのだが、彼も奇数と偶数の2台の車番の車を持っていた。

  当時の首都ラゴスはこんな海岸に面した島の上にあり、

 


 こんなに立派なビルが立ち並んでいて、




  島の上に立派な街が出来ていて、ここではそこそこ走れたが、





  一般原住民の町はこんな混雑ぶりで
  どこに行っても人で埋まっているほど人もクルマも多いのである。





  
 原住民はこんな海の上に住んでいたり





 そのスラム街はこんな状態だから、
 ラゴス島との格差が大変なのである。
 
 




 ナイジェリアの人達は色は黒いが、
 常にニコニコ誰もみんなフレンドリーで
 流暢な英語を話すので良かったのだが、
 どこに行っても『子供がいっぱい』なのである。

 「子どもが多いな」と言うと『あなたは何人か?』と聞くので
 「二人だ」と答えたら『なぜ?』と不思議がるのである。
  どうやら『避妊』などは全く関係がないのだと思った。






★そんなナイジェリアのラゴスだったが、
 ちょっと郊外の販売店なども訪ねたりした。
 一歩ラゴスを出ると、人は殆どいないと言っていいほど
 閑散としていて、ホントに一局集中なのである。

 その時代、ラゴスにもすでにホンダさんは来ていたし、
 川崎重工の出先事務所もあった。
 このプロジェクトは結局陽の目をみなかったので、
 カワサキの二輪部門でナイジェリアを知ってるのは森田君と私だけかも知れない。

 日曜日に森田君がテニスをしようと言うので付き合ったのだが、
 私はテニスをしたのはこの時だけである。
 ミスってばかりだったのだが、ボールを拾う子供たちがいて、
 ボールボーイ付きの贅沢なテニスを楽しんだのである。

 8月16日(火)から8月25日(木)までの10日間のナイジェリアだったが、
 世界にはいろんな国があるのだと実感させて貰ったナイジェリアのだった。

 もう50年近くも前の話だが、
 いまはどうなっているのだろう?


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カワサキ単車の昔話  21  カワサキのデグナーのこと

2023-09-20 05:13:33 | カワサキ単車の昔話

 鈴鹿サーキットには幾つものカーブがあって
 それぞれいろんな名前が付けられているのだが、
 その8番目と9番目は『デグナーカーブ』と名付けられている。

 
 


 その命名の由来は、
 1962年11月に竣工したばかりの鈴鹿サーキットで行われた
 全日本選手権ロードレースで、
 トップを走っていたスズキの契約ライダー・エルンスト・デグナーが転倒したことから
 「デグナーカーブ」と名付けられたのである。

 1962年シーズンには、デグナーはこの年から始まった50ccクラスで、
 スズキにグランプリ初タイトルをもたらした名ライダーなのである。



  



カワサキが初めてGPレースに参入したのは1966年のことで、
 その年の日本GPには藤井敏雄・安良岡健・シモンズ等のライダーでの参加を目論んでいたのだが、
 マン島のプラクテイスで藤井敏雄が事故死したため、
 急遽、デグナーとの契約を行うことになったのである。

 契約交渉は当時の技術部長の山田熙明さんが行われたが、
 その契約書を私に作れという指示が出たのが9月の初めであった。

 日本人ライダーとの契約は何度も行ってきたのだが、
 外人契約は初めてで、具体的にどのような契約内容にするのかもう一つよく解らない。
 こんなレースライダーの契約などについて社内には聞く人もいないので、
 9月10日のことだが、ホンダのレース担当の前川さんに電話して『教えて欲しい』と頼んだのである。
 前川さんとはMFJのレース運営委員会でご一緒しているだけの関係だったのだが、
 電話をしたら快く引き受けて頂いたのである。
 
その日の2時に鈴鹿までお伺いして、具体的に教えてもらったのだが、 
契約書の最後の『疑義を生じた場合は甲乙円満に話し合い・・』という日本式はダメだよ、
疑義を生じた場合は甲の判断による』などと教えて貰ったのである。
 
契約書は当然英文なのだが、私が作ったのは日本文で、
その英訳は山田熙明さんに引き受けて頂いた。
山田熙明さんは神戸一中の私の先輩なのだが、
一中・一高・東大航空機の秀才は英訳などは至極簡単なようだった。
 

★そんなことで契約したエルンスト・デグナーだが、
 彼がサーキットでカワサキに乗って走る姿は見られなかったのである。
 
 9月29日のFISCOでの練習走行で転倒し頭部を打って、
 御殿場の中央病院に入院するのだが、すぐに意識は回復して、
 10月1日には明石市民病院に移して、完全回復することになったのだが、
 それが突然意識がおかしくなってしまうのである。

 それまでは英語を喋っていたのだが、そこからは突然ドイツ語になってしまって明石病院のお医者さんも困ってしまうのだが、
 その通訳をされたのが、ドイツ留学を終えたばかりの大槻幸雄さんで、
 明石病院のお医者さんもドイツ語を喋る大槻さんにビックリしてしまうのである。

 当時は『脳外科のお医者さん』は非常に少なくて明石病院でも専門医はいなかったので、
 急遽、神戸医大に移送したのが10月4日で、この1週間はデグナーのことで大変だったのだが、
 神戸医大に移ってからは順調に回復して10月21日に無事退院するのである。


★この年の日本GPは初めて10月14日FISUCOで開催され
 カワサキはまだグリーンではないこんな赤タンクの時代だが、
 GP125は安良岡健が7位に入るのである。
  

  
  


カワサキのデグナー』はこんなことで見ることは出来なかったのである。
 デグナーとは約2か月間いろいろとあったのだが、
 彼はサーキットで、赤タンクのGPマシンに乗ることはなかったのである。
 そんことでカワサキのデグナーは実現しなかったし、
 カワサキがデグナーと契約したことなど、
 殆どの方はご存じないのである。
 
 
★デグナーとの契約では、さらに後日談があって
契約金を日本円で渡したので、デグナーが海外に持ち出すことが出来ないというのである。
当時はまだそんな時代で、その後処理にも私は走り回ったのである。
 いずれにしてもこの2か月間は私にとっては忘れられない大変な2ヶ月だったのである。
 
 若し、カワサキのデグナーが実現していたら
 ひょとして、もう少しいい線まで行ってたかも知れない。
 
 そんなカワサキ単車の昔話である。



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