雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

今年の日本シリーズ  雑感

2016-10-31 08:30:10 | スポーツ

 ★ 今年の日本シリーズは、日本ハムの10年振りの優勝に終わり、栗山監督が8回宙に舞った。

ツイッターに纏めた感想。

今年の日本シリーズ最高でした。野球のオモシロさを再発見。他球団にない『野球に対するひたむきな純粋さ』を感じました。  最後の栗山監督のインタビューも、それを見つめる広島ファン、最高でした。どちらにも勝たせてやりたかったシリーズでした。』

 

    

 

私は若い頃、野球をやっていたのだが、最近は『野球よりはサッカーのほうがオモシロい』と正直、野球よりもサッカーのテレビばかりを観ていたが、

今年の日本シリーズは全戦野球のオモシロさをふんだんに見せつけてくれたのである。

 

 

 ★ 広島・日ハム どちらを特に応援していたわけでもない。 沢山あるプロ野球球団の中でどちらも好意を寄せている球団である。

広島が2連勝した時は、日ハムを応援した。

日ハムが3連勝して、広島に戻った第6戦」4-4になった時は、広島がかって第7戦「黒田ー大谷」の一戦がみたいなと正直そう思った。

いずれにしても球史に残る日本シリーズであったような気がする。

 

★全く実力は拮抗していた両チームだったのに、結果としての得点は意外なほど開いている。

この辺りが野球の怖さ面白さなのかも知れない。

極めつけは昨日の日ハムの8回の攻撃である。 

その攻撃は2アウトから始まった。 そこから一挙6点が入るなど誰が予想できるだろう。不思議とも思える攻撃だった。

ホントは中田の押し出しが決勝点なのだが、そのあとの満塁ホームランで一挙6点となったのである。

 

★このシリーズ、両監督もよかったし、日ハムの栗山監督のインタビューが素晴らしかった。

その戦略・戦術もよかったが勝利監督としてのインタビューが素晴らしかった。

特に、シリーズを制しての日本一になった時のインタビューが印象的だった。もっと景気のいい言葉を引き出したい質問に対しても常に冷静に、広島球場での優勝ということに場内を埋めた『広島ファンの心情』を意識した発言に終始した。

広島ファン』も悔しさを抑えて、日ハムの優勝に拍手していたのは、非常によかったなと思った。

 

★広島と日ハムで対照的だったのは、両チームの1番から3番までのオーダーである。

広島がシーズン中から「不動のオーダー」で押し通したのに対し、日ハムは「日替わりオーダー」で対抗した。

いろんな野球があるのだということがよく解った。

打撃も守備も、昔に比べてそのレベルは各段に上がっていると思う。

その極め付けが『大谷翔平』だと思う。その165キロをバットに『当てる』選手がいることが驚きである。

 

★ 私自身がショートをしていたので、いつも内野の守備には関心があるのだが、内野の守備のレベルが素晴らしい。

かって名手と言われた吉田義男は実は私と同い年で昭和25年夏の甲子園に出場している。

確かに吉田義男は上手かったが、当時のレベルで上手かったので、今の内野手のレベルで言うと『どうかな?』と思ってみたりするのである。

何よりも選手個々の基礎的な身体能力が昔とは違うなと思っている。

水泳などでは記録があるのでそれがはっきりするのだが、野球の世界もトップを争った選手たちは、両チームとも素晴らしかったと思うのである。

栗山監督は言っていた『まだ若い選手で成長中だから・・』と来年はさらに進化した野球を見せてほしいものである。

唯一明確な記録の出るピッチャーの最速キロは、大谷に170キロを目指して、世界最速と言われることを期待したいのである。

 

 

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ハロウイン 雑感

2016-10-30 07:03:25 | 発想$感想

 ★ ハロウイン って何かな? と何年前までは そう思っていた。

私が住んでいるまち 三木の緑が丘では何時の頃からか『ハロウイン』で人が集まるようになって、昨年などもびっくりするような人出であった。

 

昨日撮ってきた動画だが、今年も始まったばかりだというのに店の前には長蛇の列である。

 

 

 Facebook にアップして、こんな感想を書いた。

三木緑が丘のハロウインだというので、ちょっと覗いてきた。
年々賑やかにはなるのだが・・・
年々、ほんわかとしたところが無くなって、日本のハロウインになっていくような気がする。

三木スタジオ・Naoe・栄太楼さんの息子さんたちが8年前に、ここは地蔵盆がないので・・・と始めたハロウインだったようだが・・・・しかしとにかく賑やかではある。』

 

自然発生的に、だんだんと賑やかになって『いいな』と思っていたのだが、昨年まではこのまちの若い人たちの何人かが『主宰者』でやっていたのだが、今年からは「実行委員会」も出来たし『主催者』もできて、いろんなところが協賛や協力などして、『日本の普通のイベント』になってしまったようである。

 

 

★もともと ハロウイン とは何なのか?

ちょっと調べてみたら、いろいろ詳しく出ていたし、こんな解説動画もあった。

 

 

 

★今年はたまたま9月からアメリカに行っていたのだが、まだ9月だというのにスーパーには大小のいろんなかぼちゃが売られていたし、

スタンフォードのまちの通りには、こんな綺麗な飾りのかぼちゃが置かれていた。

 

 

 

 

 ハロウインが、たった1日のイベントではなくて、日常の生活の中に溶け込んでいる感じなのである

 

日本と違って個人の家が参加して、町中がハロウインになるのかも知れぬが、決して実行委員会などの組織などはできずに自然に行われるのだと思う

 緑が丘のハロウインも、この日『1日だけ』どこからかやってくるのではなくて、人はもう少し少なくてもいいから、『ほんわか』としたものであるほうがよかったと私は思うのだが、果たして今後どんなことになっていくのだろう。

子供が何度も同じ店で、『お菓子を貰わないように』チラシに名前を書いて一度もらった店ではチラシに、印を入れて管理したりしているのである。

 

如何にも日本的だなと思うし、ここは子供だからかわいいのだが、渋谷では大人たちが警察が管理しないといけないほど大勢 集まるそうである。

日本のハロウイン雑感』だが、正直何と言っていいのか『よく解らないのである

 

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カワサキの二輪事業と私 そのー20 現役時代の私

2016-10-29 07:26:39 | 自分史

★『カワサキ二輪事業と私』も何となく書き始めて20回目を迎えた。

果たして、これから先どのように続いていくのか、自分でもよく解らない。

自分史』として書いているので、その内容は正確でなければならないし、間違いなく正確だと確信しているのである。

そのベースになっているのが63年続いている自分の日記と、会社での自分の資料なのである。

 

  

 

人の記憶は結構いい加減で、間違っていることも多いのでそのチェックには大いに役立っている。

 

  

 

 会社の資料は入社以来のものをこんな感じで纏められている。

 現役時代はまだ自筆で手書きの資料が多いので、それを誰が書いたのかがすぐわかる。

 私の自筆で書いているものが殆どで、稟議書など会社の正規の書類は殆どなくて、それに至る基礎段階の資料が多いので今後出来るだけ開示していこうと思っている。

ちなみに、私は結構整理はいい。整理とは『捨てること』で私の資料は机とその横に置いていた2段のファイリングキャビネットに収容できる範囲で余分なものは全部捨てていったのである。みんなすべての資料を残そうとするので資料はあってもどこにあるのか解らなくなってしまうのである。

いつこんな資料を纏めたのかというと、国内担当を辞めて北海道に行くまで、何もしなくてもいい時期が半年間ほどあったので、その時期に当時の理事室で独りで纏めたものである。いま思ってもよく纏めたと思っている。

 

昭和32年(1957)に川崎航空機に入社 財産課に配属された。

そして平成11年(1999)5月末に現役を終えた42年間の記録なのだが、その間二輪事業に携わった期間は、昭和36年(1961)から平成9年(1997)まで36年間だった。残り6年のうち最初の4年間が財産課、最後の2年間が北海道川重建機なのである。

入社当時の川崎航空機は戦後の中断があって再開されたのが昭和27年だから全く若い会社で、資料なども殆ど揃っていないという信じられないような未熟な会社であった。

財産物件の台帳も揃っていないし、社内の自転車には番号も付されていないような状態で、高校卒の女子が部下についてくれて、2年目からは高校男子も入って、入社早々から『管理者』のような立場にあった。工具器具備品と車輌運搬具を任されて、自分の思う通りに動けたのである。明石工場の各課にはそれぞれ財産物件の管理担当者がいて、机でも椅子でも自転車でも『みんな欲しがる』今では考えられないような貧しい時代で、財産課の新人は全工場と繋がって結構面白い仕事だったのである。

ただ工具器具部品などの償却計算を当時はタイガー計算機で年中計算をしていたのだが、どう考えても毎日毎日計算機を回しているのはバカらしくて、当時アメリカ空軍のジェットエンジンのオーバーホールをしていて、川崎航空機にはその時代にIBM室があったので、IBMでの減価償却の機械化を入社1年目の秋ぐらいからスタートさせたのである。

これは先輩方も誰も経験のない仕事だったから、2年ほど掛かったが初めての民需部門のIBM機械化で、同じやるならと神戸本社岐阜の財産課も巻き込んで全社統一のIBM化が完成したのである。日本にIBMが入ってくるのは東京オリンピック以降だから世の中より10年ほど進んでいたのである

これが完成したら財産課に計算をする人間など不要になって、私は新しくスタートした単車営業に昭和36年末に異動になり、二輪事業との出逢いとなるのだが、これも新しい事業で単車の営業部門が独立してできたと同時の異動だったのである。

 

★ 42年間の現役生活の中で数えてみたら14回異動しているので一つの部署は短かったが、その殆どが新しい仕事でややこしくムツカシイ話や、前例のない新しいことばかりで、『古谷にやらしておけば何とかする』とでも思っておられたのだと思う。自分自身もそれを楽しんでいた節がある

そんな会社生活の中で一貫して私がとってきた信条は、川崎航空機の社是正直・誠実・勤勉」であったし執務態度は「信頼・互譲・協力」なのである。

 

そして私自身の仕事の展開の基本はこんなことだったのかなと思っている。

 

● 差別化  

差別化』はマーケッテング用語だが、差別化できているから新鮮なのである。業界の常識などが一番ダメなのである。

● 実現

 物事『実現してなんぼ』なのである。やろうと思ったことは殆ど『実現』した。実現しなかったことと言えば、最後に手掛けた関東のサーキットプロジェクト『松井田プロジェクト』だけである。『定年時間切れ』でもう1年もあったら多分実現していたと思う。川崎重工業の経営会議の許可までは下りていたのである。

● 物事は半年単位で

仕事の一つの区切りは常に半年で考えてきた。半年で出来ないことが10年経ったらできる保証などないのである。42年間で14回も異動しているがすべて形をつけての異動だったと思う。3年計画5年計画などこの変化の速い世の中で3年経ったら、世の中が変わってしまっているのである。

● 基本コンセプト

 数値目標などいくら大きくても大したものではない。『基本コンセプト』は方針や戦略などよりは上位の概念なのである。しかるに行政や企業などでも目標や計画はあっても『基本コンセプト』が確りしていない。どうも日本人は『基本コンセプト』が苦手なようである。

● 仕組みの創造

私の40年間の会社での仕事は『仕組みの創造』の連続であったと言っていい。大体二輪事業は4輪と違ってセールスが売り歩くのではなくて販売網という『ネットワーク』という仕組みを創って自然に売れる「仕組み販売」なのである。

 

★90年代になって服部吉伸先生に出会って、それまで私が思っていたこと、やっていたことを正確に表現して頂いた文章に出会ったのである。

それは『これからの流通業』服部吉伸著 の中に書かれていた。

曰く

流通業とは自分の仮説の正当性を問うビジネスである
消費者の変化の本質を掴み、変化をどう自己の対策に置き換えるかと言うことが問われている。

仕組みを造るのは、非常に高度な仕事である。仕組みを造らずに放たらかしの形にして、創意工夫してやりなさいというのは酷である。損なやり方である。システムとは手続き通りに仕事を進めてゆけば、意図した目的が実現できる仕組みでなければならない。現在のシステムは単なるデーターのアウトプット体系に過ぎない。

何が企業を変革するのか。それは企業コンセプトである
企業コンセプトを見直し再提起しなければ第二次創業とはならない。
従って企業コンセプトは方針戦略より上位の概念である。

意識改革のできるのは、一部の極めて優秀な人に限られ指導者の能力の一つである。意識改革を行えと言うだけでは、マジョリテイに対する意識改革は出来ない。マジョリテイに対する意識改革、それは仕事のやり方を変化させることである
そして成功が意識改革の元である。

通用する発想とは正しく現状を捉え説得力があり、やがて多くの人の賛同を得られる考え方を指している
ここでやがてという言葉を使っているのは、正しい考え方が最初から多数派である筈がないからである。

リストラの基本の部分に人の尊重という考え方がなければそこに働く人の心を動かし大きな改革を成し遂げることは出来ないと断言しておこう。

世の中には原因のある問題と原因のない問題の二つがある。原因のある問題は、原因の追究、把握、対策と言う思考ステップで課題を解決する。原因のある問題の解決に必要な能力は創造力と呼ばない。
創造力の源泉はアイデアであり思考ステップの特徴は「絞り込んで考え続けるというところにある。』

流通業には常識のウソが多い。これからの小売業、如何に組織が大きくても如何に図体が大きくても、お店を幾つもっても、すべからく専門店でなければならない。既に小売店の変化の方向は明確になっているのだ。

顧客の組織化にはデーターベースを活用した新しいマーケッテングを展開することが重要である。データーベースを構築するにあたってはどのようなマーケッテングを展開したいのか、自分のしたいことを明確にする必要がある。

卸売業に物流とはシステムであるという認識が希薄である。物流問題は企業として解決すべきものであり、企業規模の大小ではなくトップの先見性と経営の熱意によってきまるのである。物流のシステム化の克服が多くの卸売業の将来を左右するだろう。

企業の文化が問われている。そしてどのような思想、考え方、価値観を持った企業なのかが問われている。『うちは慈善事業をやっているのではない』と言えば、そのような企業でしかないということだ。『利益に文化の香りがする』そんな企業になって貰いたい。

 

もう20年以上も前の言葉なのだが、現在のの流通業のTOP の方に贈りたい言葉の数々である。

 

★40年間のサラリマン生活で30代からはずっと『経営次元』でモノを考えねばならない立場が続いた。何をやりたい』とは常に思ったが、子供の頃から『何になりたい』と思ったことは一度もない。

すべて上手く行ったが、常に周囲には援けてくれる優秀なスタッフがいて、実務はみんな周囲がやってくれた。私はいろんなことを組み合わせて「ネットワーク」を創り「ヨコ展開」で、物事を考えただけである。

常に末端の社会を見て、物事を考えた。

バイクジェットスキーも、社会の中の公道・公海を走り、一般の世間の方の目に触れる商品なのである。

 

Kawasaki . Let the good times roll !

 Kawasaki に出会う人たち がハッピーになるような活動を Kawasaki は展開し続けます

それはカワサキの従業員も、販売店も、バイクや二輪のユーザーも、レースなどイベントの集まる人たち街ゆく 一般の方々もカワサキに出会う人たちが全てGood Time であるような活動を展開するという『コンセプト』なのである。

そんな『基本コンセプト』を追っかけ続けた40年だったのである。

現役のころ追っかけ続けたこんなを、現役を卒業したいまも、追っかけ続けているのである。

に出会う人たちが、Good Time になればいいな と思っているのである。

 

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新しい政治家たち ドウテルテ氏など

2016-10-28 06:23:20 | 発想$感想

★フィリッピンの ロドリゴ・ドウテルテ大統領が来日中で話題である。

 

      

どんな人なのか知らなかったので、Wikipedia で調べてみた。

その中から分かったこと、気になることなど・・・・

 

        

レイテ島のマアシンの出身。父親は法律家、母は学校教師という家庭に育ち幼少時にダバオに移った。大学時代の恩師はフィリピン共産党の創設者ジョマ・シソンであり、シソンからは大統領選での支持も受けている。また、共産党員を閣僚に起用する案を掲げるなど共産党との協力にも積極的である。大統領就任後は共産党のゲリラとの間で無期限の停戦合意にも成功している。大学卒業後はダバオの検察官として約10年働いた後、政界に進出した。

母方の祖父が華人で呂(Roa)という名字を名乗っており、母親の旧姓もRoaであった。ドゥテルテも中国語についても「聴いてて理解できる」と語っており、外祖父が中国人であると発言している

ドゥテルテは1988年にダバオ市長に選出され合計で市長職を6期務めた。2010年のダバオ市長の改選では憲法の多選禁止規定により、ドゥテルテ自身は立候補できず、娘のサラ・ドゥテルテを立候補させ当選、ドゥテルテは副市長に就いた。2013年の市長選挙で再び出馬し当選、7期目の市長を務めることとなった。

ドゥテルテの執政下では記録的な好況を実現し、ダバオは平和とタクシーのボッタクリが無くなるなど、治安の改善を実現した。ダバオ観光局はフィリピンでも最悪の犯罪発生率を劇的に軽減させることに成功し、「東南アジアで最も平和な都市」を標榜している。

大統領選挙戦中は過激な発言を行う人物として同時期に進行していた2016年アメリカ合衆国大統領予備選挙の共和党候補であるドナルド・トランプになぞらえ、「フィリピンのトランプ」とも揶揄された。しかし当選後の会見では「冗談であった」とするなど選挙期間中の過激な発言を修正し始めている。

ドゥテルテは大統領就任前から麻薬撲滅のために厳しい態度で臨むことを表明しており、就任後の施政方針演説では「麻薬王や資金源、密売人の最後の一人が自首するか、あるいは投獄されるまでやめない。彼らが望むならあの世に葬り去ってもよい」と公言した。実際に、麻薬犯罪に関わる容疑者を裁判にかけることなく逮捕の現場で射殺する事件がわずか1ヶ月余りで1800件が発生している。

こうした人権蹂躙について、アムネスティ・インターナショナルは繰り返し警鐘を鳴らしたが、こうした警告に強く反発し、一時国際連合の脱退をほのめかし、かつてのインドネシアで「第二国連」を掲げたスカルノのように中華人民共和国とともに国連に代わる新しい国際機関を設立することも示唆した。国際連合事務総長の潘基文との会談も拒否し、「馬鹿」と罵倒している。

また、人権侵害をやめるよう訴えたアメリカ合衆国大統領バラク・オバマを、タガログ語で「売春婦の息子」を意味する「プータン・イナ (Putang ina)」という表現で侮蔑するなどの行為を繰り返した。フィリピン南部、ミンダナオ島に駐留するアメリカ軍については「出て行かなくてはならない」とも発言している。

 

     

 

 型破りな政治家であることは間違いない。

 中国との問題も、中国人の血を引いているようだし、とにかくフィリッピンでは熱烈な支持であるようだ。

 

 橋下徹さんはツイッターで、このように云われているが、確かにその通りのような気がする。

 

 

 

★振り返って、今の世界の政治家たちがやっていることが、本当に正しいのか?

その辺が問題なのである

政治家が一番先にやらなけければならないことを、綺麗ごとばかりを言って放棄してしまっている

 

 そんな時代だから、 トランプさんを支持する人たちも出てくるし、

 東京都の小池百合子都知事の支持率が高いのも、『従来の政治のやり方の否定』があるので大衆は拍手するのだと思う。

 

フィリッピンには何度か行ったが、フィリッピン人は明るくて友好的でホントにいいのだが、貧富の差は激しいし、離島は治安が悪いというし、そんなフィリッピンのために『何を一番にすべきか?』というのが国内の治安の安定であったり、経済を立て直して貧富の差をなくすことが何よりも優先されるのは当然のことかも知れないのである。

確かに『人権』などはそんな時代を乗り越えた上で初めて言えることで、フィリッピンに今それを一番先に求めるのは違うのかも知れない。

 

兎に角、ちょっと差別化されたことをやると非難の対象になったりするのだが、ドウテルテさんも、トランプさんも、小池百合子さんも、『応援してあげたい』というのが正直な気持ちである。

 

 

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日本シリーズ 日ハム―広島

2016-10-27 07:32:11 | スポーツ

★ 秋、日本シリーズである。

毎年のことだが、今年の日本シリーズ 広島ー日ハム戦 はオモシロい。

昨日は、中田で勝ち越しを決めたのに、同点にされて9回裏、大谷のサヨナラ打で対戦成績は2勝1敗となったので、札幌の3戦は間違いなく行われることになった。

 

  

 

プロ野球の熱狂的なファンでもないし、特にどの球団を応援しているわけでもないのだが、強いて言えばセントラルは阪神広島パシフィックで言うなら日ハムか オリックスである。

なぜ?

と言われると困るが、阪神・オリックスは関西圏だし、広島は黒田・新井などの広島復帰組がいいと思っている。

札幌にいたことがあるのだが、その頃は北海道は巨人ファンばかりだった。

新しい札幌ドームが出来て、日ハムが関東からやってきたのだが

● まず歴代の監督のがなかなか魅力的で、現在の栗山監督は自分の考えが確りしていて特にいい

● 札幌ドームは私が札幌の最後の年1999年ごろに完成で、野球場ではなくて天然芝のサッカーのグランドにもなるのだが、その装置は川崎重工業製なのである。

● そんなこともあって『いいな』と思っていたら、ダルビッシュ斎藤や、何と言っても大谷が出てきてこれは素晴らしい。

 

若し、ソフトバンクが出てきていたら、間違いなくセントラルの広島を応援するのだが、日ハムー広島になったので、正直『5.5-4.5』ぐらいでいまは日ハムを応援してるのだと思う。

 

 

  

 

 現役時代の栗山選手は、記憶にないが。

Wikipedia にはこんな記述がある。

 日本のプロ野球の監督で、国立大学出身・大学教授の経歴を持つ人物は史上初めてである。

こんなことは知らなかったが、北海道の栗山町の話は知っていて、この辺りから注目するようになった。

北海道、栗山町から観光大使を依頼され、栗山町民との親交を深めたことがきっかけで、私財を投じて天然芝の野球場と練習場などを兼ね揃えた「栗の樹ファーム」を2002年に完成させている。「栗の樹ファーム」では少年野球教室や大会が開かれ、子どもたちの夢を育む舞台にもなっている。2009年にはこの功績が認められ、芝生学会より日本芝生文化大賞を受賞した。また、同所に本拠を移している関係もあり、日本ハムファイターズが本拠地を東京から移す直前の2003年からはHBCラジオをはじめとする道内放送局のファイターズ戦中継でも解説を行っていた。

 

大リーグに行くという大谷翔平を獲り、殆どのプロ関係者が疑問を呈した『二刀流』での使い方を押し通し、世界で初めての『野球選手』に育てた功績は大きい。

 

今夜もあるが、出来れば札幌で3連勝し広島に戻るようなことになれば、私としてはどちらが勝ってもいい というような日本シリーズになるのだが、

昨夜の勝負を掛けた 盗塁 とそのあとの大谷の決勝打は、栗山監督の勝利でもあるような気がする。

少なくとも、今夜は 『日ハム』を応援することになるだろう。

 

 

いい試合だった。

最後は日ハムが3-1で勝って対戦成績を2勝2敗の5分とした。

今日も、日ハムを応援して、もし日ハムが勝ったら、広島に戻ったら広島を応援することにしよう。

 

どちらも、いいチームだからどちらにも勝たせてあげたいのである。

いずれにしても4勝3敗の結果になって、日本シリーズが7戦見ることが出来たら最高である。

 

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カワサキ二輪事業と私 その-19 昭和42年のシンガポールGP優勝

2016-10-26 07:24:55 | 自分史

★『二輪文化を伝える会』http://2rin-tsutaeru.net/about/  松島裕さんは日本のレース界の色々な貴重な資料を集められている。

そんな松島裕さんから1967年のシンガポールGP 優勝の写真を頂いた。1967年と言えば昭和42年、桜が咲いているから4月頃だろう。

この写真の提供者は谷口尚己さんだという。

 

 

あのホンダの谷口尚己さんなのである。 

1966年まで私はファクトリーチームのマネージメントを担当していた。1966年のFISCO で初めて開催された日本GPには谷口尚己さんとカワサキは契約をしてそれを担当したのが私なのである。このGPには鈴鹿のデグナーカーブに名を残すデグナーとも契約をしたのだが、事前の練習中に転倒負傷してカワサキのデグナーは実現しなかったのである。

この66年のFISCOの大会に臨んだカワサキの布陣は、総監督中村治道GP監督大槻幸雄セ二アチーム監督安藤佶郎・マネージャーが私でこのプロジェクトの総責任者が山田熙明技術本部長だったのだが、このレースを最後にカワサキのレース関係の創世期とも言える第1期は終わって新しいメンバーにバトンタッチされたのである。

その新チームのロードレース緒戦とも云えるシンガポールGP 初優勝の記念写真なのである。

 

松島さんからは『この写真に写っている方の名前を』と言うご要請を受けたので、大槻幸雄さんにも手伝って頂いて、苗字だけは何とか、解ったような気がする。

左から、

中村治道・清水屋辰雄・黒河内肇・山田熙明技術本部長・八田・守田正直工場長・塚本・堀江・塚本碽春本部長・多賀井・岩城良三常務井手哲也糠谷省三監督・福田・青山・松本博・水町泰造・加藤・吉田忠・北条・大槻幸雄・加藤 ちょっと自信のない方もいるのだがまず間違いないだろう。

この時期レースには一番情熱を燃やしておられた中村治道さんの音頭で撮られた写真だと類推する。中村さんはあの青野ヶ原のモトクロスでも旗を振られた方である。

 

★この当時のカワサキはモトクロスでは F21M時代で連戦連勝の最盛期で業界トップを走っていたと言える時期ではあったのだが、ロードレースについては1965年5月にジュニアロードレースに山本隆が参戦したのが初めてで、GPレースに正規に参戦したのは1966年のFISCO日本GPシモンズ・谷口尚己・安良岡健のメンバーで出場したのが初めてだったのである。

このレースはMFJの運営委員会でいろいろ議論されたが、ホンダがFISCOの第1コーナー「須走落とし」が危険ということを理由に出場を見送ったりしたのである。当時私はMFJの運営委員をしていたのでその経緯はよく承知しているのだが、後、事故があってあの第1コーナーは改修されたのだが・・・

カワサキはGP125では入賞は果たせなかったが、セ二アロードレースでは A1・250 に乗った金谷秀夫がヤマハのギャリ―ニクソンと壮絶なトップ争いを展開し、惜しくも2位になったのだが、このレースのベストラップは珍しく金谷とニクソン同タイムで二人の名前が記録されているのである。

その翌年のシンガポールGP優勝は、モトクロスの青野ヶ原優勝に匹敵する快挙であったのだろうことは間違いないのである。

 

★この写真が当時はカワサキの契約ライダーであったとはいえ、谷口尚己さんの提供に依るものとは大いに感謝なのである。

シンガポールGP参戦に関係された方たちでの記念撮影には、創世期のカワサキのレースを支えたメンバーも多数おられるのだが、この機会にカワサキの創世期のレースがどのようなメンバーで、どのように運営されていたのか、その概略を纏めておきたい。

 

私の知る限りのカワサキのレースの歴史時系列に振り返ってみたい

● カワサキが最初にレースの世界に登場したのは125B7 の時代でこれはカワサキ自販の小野田滋郎さん(フィリッピンの小野田寛郎さんの実弟)や川崎航空機では井手哲也さんが個人的に関係されていた。MCFAJの全日本モトクロスにそんな記録が載っている。

● 昭和36年11月(1961)鈴鹿サーキットがスタートして第1回の日本ロードレースが開催されたのだが、このレースを川崎航空機の製造部門のメンバーたちがバスを仕立てて観戦したのである。中村治道・高橋鐵郎さんたちが参加されてレースに火がついたのである。

● そして、翌年5月青野ヶ原のモトクロス非公式な製造部門チームで出場し1位から6位までを独占する快挙となったのである。然しこのレースで勝ったのは雨のお蔭で、防水対策がよかったのでカワサキのチームだけがマシンが止まらずに他メーカーのマシンはみんな水で止まってしまったようである。山本隆くんなどもこのレースではヤマハで出場していたようである。

●鈴鹿のバスツアーも青野ヶ原のモトクロスも陰で支えたのは兵庫メグロの西海社長で、二輪のことが解っていないカワサキに子飼いの松尾勇さんを製造部に送り込んでモトクロスマシンの制作にあたらせたのである。事実F21までのカワサキのマシンはエンジンは技術部だがマシンに仕上げたのは製造部のレース職場の松尾勇さんだと言って間違いない。

●青野ヶ原のレースの圧勝でレース活動が会社の中で正式に認められ、営業部門でライダーなどの契約もスタートした。私のいた係の担当だったが、直接担当してくれたのは川合寿一さんである。カワサキの契約第1号は神戸木の実の歳森康師くんである。関東では小野田滋郎さんが三橋実くんにカワサキコンバットを創らせて三橋実とのグループ契約と言う形でスタートした。

●当時はまだMCFAJ のクラブマンレース全盛期で関西は片山義美の神戸木の実・三橋実の関東はカワサキコンバットに所属するライダーたちでのスタートだった。ちなみに第1回の鈴鹿のロードレースの250クラス優勝者が三橋実・350クラス優勝者が片山義美だったのである。

● 昭和38年(1963)当時には歳森・山本・三橋・梅津・岡部などのライダーで主として地方レースで優勝を重ね『赤タンクのカワサキ』と言われたりしたが全国レベルではまだまだだった。

● 昭和39年(1964)カワサキの二輪事業本格的進出が宣言され、広告宣伝課もできて私が担当、年間1億2000万円の予算が3年間本社の開発費で出されたのである。私の年間所得が40万円の時代であったから1億2000万円は使いきれないほどの予算だったのである。私がレースに直接かかわりだしたのもこの時期からで、レース予算もこの広告予算で支出され、ライダーたちは広告宣伝課の嘱託として契約されていた。ちなみに当時のライダー契約額はカワサキは非常に高く山本隆くんなどは私の年俸の3倍の120万円で契約していたのである。

この年の春のMCFAJ全日本山本隆がオープンクラスで優勝し、これが初めてのカワサキの全日本クラスの優勝となった。秋伊豆丸の山での全日本ではカワサキは4種目中3種目に優勝してモトクロスでは確固たるものとしたのである。ちなみに東京オリンピックの開会式の日だったのである。

●昭和40年5月(1965)には、鈴鹿サーキットで開催されたジュニアロードレース山本隆が出場し、ホンダ勢に続いて3位入賞を果たしてカワサキの中でも一気にロードレースに火がつくのである。このジュニアロードレースは会社には黙ってロードレーサーを創り上げモトクロスの予算で出場したのである。マシンの素材を提供してくれたのは田崎雅元さん、マシンを創り上げたのは松尾勇さん、運営費を出したのは私なのである。

●これで一気に火がついて翌月6月のアマチュア6時間耐久レースには会社から正規にカワサキコンバット・神戸木の実・川崎航空機のテストライダーチームの3チームで、初めてレース監督に大槻幸雄さん、副監督に田崎雅元さんで出場することになったのである。神戸木の実は山本隆が前月にジュニアロードレースに出場したためアマチュア資格がなく、歳森康師が相棒として連れてきたのが金谷秀夫なのである。

●昭和41年1月には藤井敏雄と契約してヨーロッパにGPレースを転戦するのだが、マン島で事故死することになり、デグナー藤井敏雄などで日本GPに臨む体制だったのだが、それは実現しなかったのである。

この年モトクロスではF21Mをヘリコプターのクロモリのパイプを使って創り上げその後、連戦連勝を重ねたのである。

 

★この時期のレースチームを支えた組織は、技術部がエンジン・車体は製造部のレース職場・ライダー契約や運営費は広告宣伝課と言う3つの部門の協働体制で、『レース運営委員会』が組織されその事務局を私が担当したのである。

 

技術部   山田熙明部長  GP関係渡辺・大槻幸雄・渡辺  国内レース関係 安藤佶郎

製造部門  中村治道課長   高橋鐵郎

営業部門  苧野豊秋部長   事務局 古谷

で運営され、製造部のレース職場の管理が田崎雅元さんで、そのメンバーは松尾勇・福田尚己・藤原良・吉田忠など、そして技術部の担当が水町泰造というメンバーで、現場のレース運営は広告宣伝課の川合寿一・大西健治くんなどが担当

契約ライダーは ロードレース 三橋実・安良岡健・金谷秀夫

        モトクロスは  山本隆・歳森康師・梅津次郎・岡部能夫・星野一義

ここまでが当時の正規のレース関係者だと言っていい。

当時のノービスライダーとしては、清原明彦・従野孝司・木村夏也・西信之・増田耕二・金子豊などのち日本のレース界を支えたメンバーのほか、数えきれないほどのメンバーを抱えての活動だったのである。

こういう贅沢な活動が出来たのもひとえに本社開発費のお蔭であり、新しく引き継いでくれた新チームは通常通り事業本部予算に戻ったのでその運営は苦しくなったのは当然なのである。

 

★創世期のメンバーたちは高橋鐵郎さんは製造部から国内のカワ販に、大槻幸雄さんは技術部の市販車開発に、安藤佶郎さんはアメリカに私はカワ販に新しく創った仙台事務所にそれぞれ異動して、引き継いでくれたレースチームは糠谷省三監督、岩崎茂樹マネージメント体制に代わったのである。

ただ従来のメンバーは、レースなど初めての経験者ばかりで、二輪車についても、そんなに解っていなかったのだが、糠谷さんはメグロ出身で、ノウハウにも詳しいだけでなく二輪に乗せてもライダー顔負けのテクニックの持ち主だったし、岩崎茂樹は川崎航空機が二輪を手掛けるずっと前からのハーレーのユーザーでその二輪理論はまさにプロのレベルだったのである。

そんな新チームのスタートを飾る優勝がシンガポールGP 優勝だったのである。

カワサキのレーシングチームはその後、モトクロスがKXと称される時期に完全に技術部門に移管され、百合草三佐雄監督の下、世界を含めた本格的なレース運営チームとなりGPレースなどでも全盛期のKR時代に移っていくのである。

 

 その歴史ーカワサキ二輪事業と私

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風凛香山 と 三木市乗馬クラブ

2016-10-25 05:57:15 | みっきぃふるさとふれあい公園

★ 昨日は『助けて♪よろずやさん』の穂積さんがひょっこりやってきて、『昼飯食いに行きませんか』と誘って頂いた。

 https://www.facebook.com/groups/922373347876009/?pnref=story

いま家内はまだアメリカの娘のところで独り身なので三木の街までご一緒しました。

穂積さんは三木高校の出身なので三木のことも、三木の人もいろいろご存じです。

 

 

 

 

『風凛香山』と言うこんなご主人のお店にお邪魔しました。

三木の旧いまちの 『玉置亭』のすぐ前です。

 『玉置亭』とは 正式名称は、『旧玉置家住宅』こんな有形文化財です。

 

  

 

 

こんな動画を撮ってきました。

 

こんな立派な昼食を、日替わり定食 1000円です

 

 

 穂積さんとは長いお付き合いでその会話がなかなかオモシロい

 

 

 

 夜のお客さんも常連さんいっぱいで賑やかなようです。

 

 

 

 

こんな庭が見える席が2席もあるので、『おばちゃん連中』が昼お越しになればいいのに ということなのでネットで紹介して『お勧めしておく』と約束してきたので、こんなブログをアップしておきます。

何時間喋って頂いてもダイジョブとか、コーヒーも用意しますとか言ってました。

 

 

 ホントに『玉置亭のすぐ前』ですから、三木観光にお越しになった方にも格好の立地です。

 

 

★ 昼飯を食った帰り道、 三木市乗馬クラブ に行ってきました。

三木の広い道に看板は出ているので『乗馬クラブ』があることは知ってましたが、こんなに本格的に10頭もウマがいるとは知りませんでした。

NPO法人スペシャルオリンピックス日本・兵庫の三木プログラム馬術ヘッドコーチ門清貴さんは穂積さんの三木高の柔道部の先輩だそうです。

 

娘さんの門美真理さんも日本でも有数の乗り手で、ここのお世話もされてるようです。

 

 

 

 

Facebook のトモダチに早速繋がりました。

 

動画を撮ってきています。

 

 

 こんなに大きな馬場があるとはビックリしました。

 

 

 

 10頭もいるので、毎日の世話はなかなか大変なようです。

 

 

 

三木には、『三木ホースランドパーク』もあります。

http://www.miki-hlp.or.jp/

 

秋の行楽に、是非三木にもいらしてください。

昨日は、穂積さんとのなかなか楽しい半日でした。

 

 

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ネットの世界の繋がり

2016-10-24 06:09:58 | 私の生き方、考え方&意見

★今どき ネットから逃げている 大企業や行政など、ちょっと間違っていると思っている。

その根底にあるのは『性悪説』だろう。

勤務時間中にネットを自由に観れるようにしたら、仕事をせずにネットばかりに集中してしまうとでも思っているのだろう。

ネットの中で得られる情報や、末端の貴重な情報をみんな逃がしてしまっていることに気づいていない。

それでいながら『アンケート』などツマラヌ末端情報をとって満足しているのである。

 

★現役を引退してもう何年にもなるのだが、いろんな新しい繋がりが出来て、楽しく生きておられるのはネットのお蔭である。

世の中の一般の消費行動などをみていても、ネットだとか通販だとか、その主流はシステム販売にどんどん移行しているのに、いまごろから新しい店舗を中心にした販売方法など考えてみても、40年以上の時代錯誤だと思うのだが・・・

一生懸命頑張ったら売れるという時代は、昔々の行商の時代の産物だと思う。確かに一生懸命頑張って売ることも大事だが、遊んでいても売れる方法『仕組み』を考えるほうが早道だと思う。

基本コンセプトの中心に末端の一般の方や、消費者の満足と言う一番大事なことが抜け落ちて、従来通りのタテ型の発想しかないので、40年前と基本的に同じ発想になるのだろう。

 

★世の中の人たちは、確かに悪い人もいっぱいいるが、『人間の性は善である』と私は思って生きてきた。

性善説』で生きるほうが楽しいし、信じてあげたら殆どの人はそれに報いてくれるものだと思っている。

この何年間か、ネットの世界で沢山の人と繋がった。別に組織でもなく上下の関係でもないし、金銭がそこに存在したりはしないのだが、善意で応援したり、応援してくれる人が自然に出てくるのが不思議である。

 

 

 Facebook の中に突然こんなサイトが現れた。

 https://www.facebook.com/%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-662464933798991/

 先日来このブログに纏めている『カワサキの二輪事業と私』と言うシリーズを纏めて下さっているのである。

こういう応援者が出てくることは、励みにもなる。

 

ネットの世界は、自然に繋がって、みんな自分で『やりたいこと』をやっているだけだが、何となく自然に協調体制みたいなものが出来上がるのが不思議である。

そのベースは私は『性善説』だと思っているのだが・・

なぜ、行政や大企業は、その従業員すら信用しないのだろうか?

別に勝手に入ってきた人でもないし、ちゃんと試験をして自ら選んだ人なのに、それが信用できないなどと言うシステムにするので『大きなこと』が出来ないのだと思う。

 

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三木ー羽田 日帰り

2016-10-23 07:01:33 | 発想$感想

★昨日は伊丹を朝一番のフライトに乗って、羽田まで出かけた。

インターナショナルトレーデイングムラシマ村島邦彦さんと、  http://www.int-murashima.co.jp/

『二輪文化を伝える会』松島裕さんと いろんな話をしてきた。 http://2rin-tsutaeru.net/

 

 

いつものことだが、東京に行っても羽田空港からは一歩も出ない。羽田の東急ホテルに来てもらってロビーのヨコのレストランで、みっちり話が出来る。何時間いても大丈夫な雰囲気なのである。

朝9時半からランチをとって2時過ぎまで約5時間の雑談だが、結構中味の濃い話は出来たように思う。

東京のどこかでというようなことになると動く時間が勿体ない。

 

 

 ANAの出発ロビーの一番奥にホテルはある。 

 

 

 

 

 この奥のレストランで、なかなか静かでいい。

 

★羽田―伊丹の空港の様子を動画に撮ってきたが、

週末の土曜日、朝6時過ぎだというのに、伊丹空港の混雑ぶりは異常である。

 

チケット売り場も

 

 

 

 搭乗口も、こんなに長い列である。

6時に空港に着いたのに、7時5分の便にぎりぎり間に合った

どこかに遊びに行く人たちだと思う。

 

そういう意味では、8時台の羽田は人は多いが、伊丹ほどではない。

 

 

 

9時半のお約束だが、1時間前に着いてしまった。 

7時半の便でちょうどよかったのだが、私の場合は大概予定よりは、早くなるのは習性かなと思ってしまう。

どうもギリギリは嫌なのである

 

 

動画を撮ってきた。

 

 

★海外からの観光客が今年も既に昨年実績を上回ったそうだが、 ホテルのロビーにいた中国人の団体、これはすさまじいというか、やかましいというか、ホテルの方がちょっと静かにとお願いはするのだが、一向に収まらない。

これが中国人の迫力かな と思ったりした。

動画をご覧になると解るが、これがホテルのロビーとは思えぬ騒々しさである

 

三木の田舎に暮らしていると、人に酔う感じである

でも、丁度3時の羽田発に乗ったら、三木の自宅には5時5分に着いた。

田舎だとは言うが、その地の利はなかなかいいと思ったりした。

 

アメリカに行く前からの、村島さんとのお約束、やっと果たせて、ホッとしている東京行きだった。

 

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野球部のコンペ

2016-10-22 04:53:16 | 発想$感想

 ★ 春と秋の年2回大学の野球部のコンペ播磨カントリークラブで開催される。

播磨カントリーは家から近いし、かっては日米対抗が開催された本格的なコースで、私のホームコースでもあったことなどから、毎年楽しみに参加しているのだが、春のコンペは突如、どうしても断れない予定が入ってしまってドタキャンをしてしまっていたのである。

そんなことで秋の開催は楽しみにしていたのだが、先週の日曜日に右ふくらはぎを痛めてしまって、金曜日までには治るだろうと思っていたのだが、もう一つ自信が持てないのでゴルフは不参加としたのだが、2回続いてのドタキャンでは何を言われるか解らないので兎に角現地までは出向いたのである。

 

 

 

 こんなメンバーである。

一番の年長者は85歳の太田武郎さん、84歳の多田和昭さんで、年次で言えば私は3番目だが、一番若いのでも還暦一歩手前ぐらいだから野球部と言ってもシニアクラスである。

最近は、ウイークデイということもあるのだろうが、会社の現役諸君は顔を出さない。私の現役時代は会社を休んででも参加していたのだが、時代が変わったものである。

 

 

 

ゴルフには参加できないので、写真と動画を撮ってきた

動画には私の言い訳のご挨拶も入っているので、ご覧になってみて下さい。

https://www.youtube.com/watch?v=Nu9Vx2kk62w

 

 

 一番右が太田さん、3番目が多田さんである。

 

    

 

  一番右がこのコンペの万年幹事 川口くんである。こんなコンペが長く続くのは『幹事』が確りしているからだと思う。

 毎回、マメに連絡やお世話をしてくれる貴重な存在である。

 

    

 

 

  その川口くん、ゴルフもなかなかの腕で、ここでは片手シングルのハンデイなのである。

 

    

 

 こちらは川重でも一緒だった花房くん、私の最後の務め、北海道川重建機の時には常務で支えてくれた。

 野球部でも後輩だが、川重の硬式野球部にも在籍した本格派である。

 北海道時代はゴルフは私のほうが上だったが、今でも年40回ぐらいはやってるとか言っていた。

 

    

 

  前から打った一組以外の若手は、すべて動画に収めてある。

元野球部と言うだけあって、何となくスイングは出来ているのだが、なかなか実際に球を打つのは上手く行かないものである。それでもまずまずというところだろうか?

 

 次回は来年の5月か6月だが、次回は是非参加したいと思っている。

 

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がしら カサゴ メバル

2016-10-21 06:48:38 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

 

メバルかなと思ったら『がしら』とあった。

 ガシラは地方によっては『カサゴ』と言うらしい。

 

  

 

兎に角、半額で調理済み 明石沖直送 とあったので、スーパーで買ってきた。

1000円ほどが半額で500円である。 500円なら安いと思った。

 

メバルや ガシラや カサゴなど どれがどれなのかよく解らないが、いずれも磯で釣れる魚で旨いはずである。

私の子供の頃の本籍は明石市細工町20だった。 細工町と言うのは今は有名になっている『明石魚ん棚』の町名である。そんなこともあって、子供の頃から魚はよく食った覚えがある。

昔はメバルやカレイなど高くはなくて、カレイなど明石の浜で所謂投げ釣りでいくらでも釣れた経験があるのだが、昨今は兎に角高いので食する機会も少なくなったが、現在、減量中で、独り暮らしだし、魚を煮つけるのもオモシロそうなので 買ってきたのである。

 

 

 

 こんな感じの魚である。

 魚の煮つけは何度かやったことがあるが、酒やみりんや砂糖や醤油を何となく混ぜ合わせて煮付けたらいいだけである。

 落し蓋などと難しそうに言うが煮つけている間、隙間のあるしゃもじみたいなもので抑えていれば大丈夫である。

 確か、みょうがか何かが要ったと思ったがないので、白ネギで間に合わせた。

 

 

 

 

 結構ウマくできたと思う。

 これを食うのが、骨があって大変である。

 2匹を食うのに30分は掛かって、ビールを飲んでたら、それで満腹になってしまった。

 上手に食えたと思うし『旨かった』と思うから『旨かった』のである。

 

私は何を食っても『旨い』と思うのである。

高い安いはその食品が沢山あるかないかで『値が決まっている』だけで『旨いから高い』のではないと思っている。

それが証拠にアメリカでは、はめちゃくちゃやすいのに、サバはめちゃくちゃ高いのである。

 

 

  

 

  調理前なら、こんな魚なのである。

  結構満足した、夕食だった。 一人で2匹も食えたのがよかった

 

 

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カワサキ二輪事業と私 その-18 従野孝司くんのことなど

2016-10-20 06:06:10 | 自分史

★ 二輪レースから4輪に転向したレーサーは特に創成期には多かったように思う。

私がマネージメントしていたカワサキの二輪のライダーたちもまず歳森康師が日産に移って、すぐあの星野一義がそれに続いたりした。

当時の神戸木の実クラブの総帥片山義美さんは二輪と4輪をともに現役として操るレーサーだったが、その弟の従野孝司もレースのスタートはカワサキのモトクロスであったことご存じだろうか?

Wikipediaにはこんな記述がある。

従野 孝司(よりの たかし、1950年10月19日- )は日本の元レーシングドライバー兵庫県出身。片山義美の実弟(異父弟のため名字が異なる)。千葉県在住最初は2輪モトクロスからレース活動を開始。実兄である片山義美が主宰した神戸木の実チーム(カワサキ系2輪チーム)で腕を磨く。同チームには後に4輪でもライバルになる星野一義歳森康師が在籍していた。4輪に転向し兄・片山が所属するマツダと契約。マツダのワークスドライバーとして活躍する。サバンナRX3などのツーリングカー、富士グランチャンピオンレース、グループ5仕様のRX7、グループCカーによるル・マン24時間レースなどで、常にロータリーエンジンのマシンで活躍する。ル・マン24時間レースには通算11回出場した。しかし1992年の秋、バブル崩壊でマツダがレース界から撤退したことをきっかけに引退。マシンの開発能力に優れたレーサで、マシン挙動を正確にエンジニアに伝えるとともに、自らのアイディアをマシン開発に反映させていた。特にマシンセッティングを変更した場合はその変更内容がタイムに確実に反映されるレーサーであった。

 

当時のカワサキのレース予算は本当に潤沢にあって、山本隆・歳森康師・金谷秀夫・三橋実・安良岡健・梅津次郎・岡部能夫・星野一義の契約ライダーのほかに特に関東のカワサキコンバットには月間20万円の運営費を渡して若手ライダーの育成などを目指したので若手のライダーたちは何人いたか解らぬほどいっぱいいたのである。

清原明彦・木村夏也・西信之・増田耕二・金子豊・など日本のレース界を支えた選手たちがいて、その中に従野孝司もいたのである。清原はずっとカワサキに残ったが、それ以外の選手たちは、他メーカーで名を成した人たちが多かったのである。

そんな従野孝司くんはモトクロスから4輪に転向し兄、片山義美と共にマツダで活躍したのは周知の通りだが、3年前全日本の当時のモトクロスライダーたちの会合に顔を出して、私は40年振りにお会いすることが出来たのである。

最近になってFacebook でも繋がっていたのだが、極く最近のことだが、YORINO GrandPrix というこんな4輪レースが従野孝司主宰で開催されたようである。

 

 

 レースの内容についてはこんな好意的な記述がされている。

 

 

 

 

★従野孝司くんは、カワサキのライダーたちの中でも、私にとっては特にこんな想い出のある懐かしいライダーなのである。

片山義美さんの弟さんだが、私は彼のお母さんとは何となく気が合ってお母さんと一緒にお話する機会なども多かったのだが、ある日『カワサキのレースチームに孝司を』と頼まれて、中学校を卒業したばかりだったので、即時に『Yes』と言うわけにはいかないが『1年間生産ラインに入ってくれたらそのあとはお引き受けする』ということでお引き受けしたのである。

従野孝司くんは、地味な生産ラインに1年間従事したあと当時の『レース職場に』参加したのだが、すぐモトクロスライダーとして頭角を現し、生来抜群の素質を持っていたのである。彼がレース職場に入ってからすぐ私は東北の営業部門に異動してしまったので、直接の関係は無くなったのだが、その後何回か東北でのレースに当時のノービスライダーとして出場してくれて、その度に優勝を重ねていたのである。

 

私は何よりも生産ラインと言う地味な作業に1年耐えた従野孝司に特別の印象を持っていたのだが、この写真は、前述の日本の創世期のモトクロスライダーたちの集まりでの、従野孝司・増田耕二くんとのスリーショットである。

増田耕二くんがカワサキにいたこともご存じだろうか?

 

 

 この会合は、『二輪文化を伝える会』が主宰して 往年の日本のモトクロス界を支えた、久保和夫・山本隆・吉村太一・鈴木忠男 が発起人で開催の運びとなったものだが、その時思いもしなかった従野孝司くんがいて、これも当時カワサキにいた増田耕二くんと一緒に写した写真なのである。

http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/42e8cd4511d6455a2f33abe0bbfb5d28

その時アップした私のブログで、その中からの写真なのである。

 

 

 

 その日は、山本隆くんが最初から最後までマイクを話さず、司会を務めて神戸木の実の弟分の従野孝司くんを紹介していたがバックにあるように従野は4輪のことを話していた。

 

 

 

 

 

 全日本MX Legend Riders 記念パーティ― と銘打ってこんな式次第で、懐かしい顔ぶれが揃って楽しい1日となったのである。

 

  

 

 

★私がレースに直接関係したのは4年間だけだったのだが、レースの世界にいたことで日本のレース界のトップライダーたちとも親しくお付き合いが出来たし、MFJの運営委員などもさせて頂いて、日本でただ1回しか開催されていない『鈴鹿24時間耐久レース』にも現場にいたりしたのである。普通の方では味わえない独特のレースの世界の雰囲気も味わえて人生が変わったような気もするのである。

ようやく1965年に鈴鹿サーキットで開催されたアマチュア・6時間耐久ロードレースにも、最初はモトクロスのライダーたち(菅谷・鈴木・岡部・歳森・梅津など)が多数出場するようなスタートの時代であったし、このレースに金谷秀夫は歳森康師と組んでレース界にデビューしたのである。

当時はまだMCFAJのクラブチームが各メーカーのファクトリーチームの中でもその核となっていて、各メーカーと言うよりもレース仲間として繋がっていたようなところがあった

カワサキは、関東はカワサキコンバット、関西は神戸木の実が中心であったが、この会の発起人になられた城北ライダーㇲ久保和夫さんは私がレース界に入った時は既に日本を代表する選手だったが、マウンテンライダーㇲの吉村太一さんも、ヤマハスポーツライダースの鈴木忠男さんも新人の時代からのお付き合いなのである。

星野一義にしてもカワサキに入ったころはまだ17歳の少年で、吉村太一さんは確か同い年である。そんな新人たちが日本を代表するスター選手になって、私自身も何十年間も昔のままの関係でお付き合いが出来るのは嬉しいことなのである。

 

この催しが『二輪文化を伝える会』としてのスタート時期のイベントだったのだが、こんなご縁から3年経って『二輪文化を伝える会』の活動も、レース関係中心に纏められているのである。

 http://2rin-tsutaeru.net/

 

 

この従野孝司くんのニュースを私に教えてくれたのは、ホンダに非常に関係の深い 五十嵐みゆきさん である。 https://www.facebook.com/miyuki.igarashi1 

Facebook で今年の7月に繋がったばかりなのだが、レースには非常にご関心があるようなので、そんなご縁で従野孝司くんの現状なども教えて頂いたのである。

お蔭様で、ずっと昔の新人たちのことを思いだしたりしたのである。

 

 

 

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オリンピック会場 雑感

2016-10-19 06:21:55 | 発想$感想

★ オリンピックのボート会場をどこにするのか?

今頃になってと思うが、『オリンピックに金が掛かり過ぎる』ということはIOC自体の問題でもあって、大体『東京は既にいろんな施設があるのでお金が掛からない』ということが、東京が手を上げたのではなかったのか?

それなのに小池知事になるまでの何年かの間に、どんどんと予算は膨大化してしまったのである。なぜこんなことになってしまうのか? 担当する都庁の職員も、これを検討する議会にも、議員個々にも、オリンピックを利用して自らの立場を有利にとか、もっと極端に具体的に儲けようかと言うようなことに動いてしまう結果なのだろう。

今まではそれがみんな闇の中で、一般の庶民には解らなかったのである。

そんな中で東京都知事に当選した小池百合子さんは徹底的な『情報公開』を公約したし、事実具体的に実行しているのである。

オリンピックのボート場の問題はその単なる具体例の一つであって、それ自体がどこに決まってもいいのだろうが、それを決める手順が公開されているところに意味があると思っている。

 

 

★そんな中でIOCのバッハ会長小池東京都知事の都庁での会談は、1時間以上に亘って実況中継された。

関西では4・8・10チャンネルが中継したが関西放送の8チャンネルは最後まで放映した。

この放送にはびっくりした。4チャンネルと10チャンネルは準備が出来ていなかったのだろう。途中で実況放送を降りて締まったが、関西放送は最後までフォローし独占放送のような形になって、その対応は素晴らしかった。

この放送も言われていたように当初は最初の10分間だけの公開予定だったようだが、小池さんの提案で直接バッハ会長にぶつけてフルオープンに変更になったようである。そんな経緯まで解るような会談後の記者との一問一答まで公開されたのである。

これは『情報公開』ということでもあるが、むしろ小池さんの『情報発信』であると思ったほうがいい。今後の都政がこのような方向で展開されると『都民の期待』はますます大きくなっていくのだろう。

 

★このような東京都の『情報公開=情報発信』戦略は、マスコミにもいろいろな影響を与えることだろう。

私は少なくとも『バッハ・小池会談』を最初から最後まで見せて頂いた。これは70社に近いマスコミが集まっていたというが、その記者さんと同じレベルでの取材が出来たということなのである。

どこも大きく報道するであろうが、どのような解説記事になるのだろうか?

既に、最後まで放映した関西テレビでは、解説者各位がそれぞれの感想をテレビで述べていたが、『解説者はそういう見方をするのか?』と私などはそう思った。少々読み過ぎだと思った。

バッハさんも、小池さんもそんな細かい思惑ではなくて、正直にご自身の想いを素直に述べただけだと私には思えたのだが・・

各社の記事がどんなことになるのか楽しみである。

 

 

 

いま、4時過ぎだが、『小池都政』については選挙当時から特に熱心だった産経はネット上にこんな記事を流している

 

小池都知事バッハ会長会談】
小池百合子氏「五輪会場の見直し、今月中に結論出す」と明言

 
2020年東京五輪・パラリンピックの開催コスト削減に向け、会場計画の見直しを検討している東京都の小池百合子知事と、国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長の会談が18日午後2時20分ごろ、都庁で始まり、小池氏は「五輪会場の見直しは今月中に結論を出し、さまざまな準備を進めていきたい」と述べた。

 これに対しバッハ氏は「すべての運営の中心にアスリートを置く必要がある」などと応じた。

会談はバッハ氏の到着が遅れるなどして、予定より20分遅れでスタート。当初、冒頭のみが報道陣に公開されることになっていたが同日午後になって、会談のすべてが取材可能となり、会場には多くの報道陣が詰めかけた。 

 

少なくとも今の段階では、私のブログのほうも、結構詳しい報道になっている。

オモシロい時代になってきた。

この段階でFacebookには、その一部をアップした。

 

 その後の産経の詳報では、

「ルールを変えないことが利益にかなう」と諭す国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長に、「都民の納得が必要」と切り返す東京都の小池百合子知事。公開の場で開かれた18日のトップ会談は、競技会場見直しを巡り互いの主張の応酬となり、知事が不満げな表情を見せる場面もあった。

 紺色スーツに青いスカーフ姿でバッハ会長を迎えた小池氏は、自ら席にエスコート。序盤はバッハ会長が「もったいない」と日本語を口にしてコスト削減の必要性を語るなど、笑顔を見せ、和やかに進んだ。

 だが小池氏が「復興五輪に資しているかがポイント」などとして競技会場見直しに触れたのに対し、バッハ会長は「開催都市として選ばれた後に、ルールを変えないことが利益にかなう」と牽制した。

 小池氏は時折こわばった様子も見せたが、会場のテレビカメラに「パブリックマネーを使う都民の納得が必要だ」と「都民目線」をアピールした。

 

その他各紙の報道を見ても、バッハさんと小池さんがやり合ったような印象の記事が多いが、私には単にご自身の意見をただ述べただけで、討論があったというような印象は持たなかったのだが、マスコミの記事は少しでもインパクトを持たすように『裏の裏まで』読むのだろうかと思った。

一言で云って『非常に和やかな友好的な会談』であったように思うのだが・・・・

 

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何となくホッとしている1日

2016-10-18 06:17:52 | 発想$感想

★今朝、今日中に NPO The Good Times のホームページへの訪問者は10万人を達成するだろうとブログにもFacebook にもアップしたが、3時半ごろ観てみたら 100001 と言う数字が並んでいた。

 

 

 

別に通過点でどうということはないのだが、何となくホッとしている。

それにしてもどのような方たちがホームページのどの部分に興味・関心があって訪問されるのか?

そのあたりのことは、さっぱり解っていないのである。

 

 

アメリカから戻って、いつの間にか10日にもなろうとしている。

帰国してから何となくいろいろとあって、今日が一番何もなくてのんびりと過ごしている。

時間がある証拠に、パンダ碁を久しぶりに何局か打った。

 

昨日の日曜日の朝、ランニングしていて右ふくらはぎに激痛が走った。こんな経験は初めてである。筋肉が切れたかなと思ったが、痛いだけで切れている感じでもない。肉離れと言うのかも知れない。

兎に角痛くてまともには歩けないのである。

昨日は、走る前のストレッチをサボったのがイケなかったのだと思う。

昨日は日曜日で整形外科が開いていなかったので、今朝診て貰ったが骨に異常はないから『大丈夫』と仰る。大体外科のお医者さんは、よほどのことでない限り『大丈夫』なのである。

今週末、金曜日はゴルフだがそれまでに、マトモニ歩けるようになるだろうか?それだけがちょっと心配である

 

 

帰国してから、独身生活だが毎日ちゃんと自炊しているのだが、普段は一切家事などやらないので、台所のどこに何があるのかがよく解らないのである。

先日はカレーのスプーンの入れてある場所が解らなくて、アメリカまでSkypeで電話して解った。今日は浄水ポットみたいなのがあったはずだがいくら探してもない。午後電話が掛かってきて『コーヒは飲まないと言ったので、どこかにシマってしまったという』 まあ大したことでもないので、どうでもいいのだが、そんなしょうもないことしか思いつかないのんびりした1日である。

ホントは1ヶ月放っておいた庭の手入れでもすればいいのだが今日はそれもせずにぼんやりとしている。

動くと右足が痛いのである。痛み止めを貰ってきているので、明日になったらどんなになってるか解るだろう。

そんなことで今日は何となくホッとしている1日にしておこう。

 

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NPO The Good Times のHP 10万人来場!

2016-10-17 07:33:59 | NPO The Good Times

★いま朝7時半、 NPO The Good Times のホームページの訪問者は99,972人

  http://www.thegoodtimes.jp/

後28人で待望の10万人が達成できる

今日のうちに達成することはまず間違いない。 7年と5か月の月日が流れた。

 

NPO The Good Times を立ち上げたのは2009年のことだから7年前のことである。

7年前と言うと私は76歳、結構な歳から思い切って始めたものだと今となってはそう思ったりするが、その時は全然そんなことは思わなかった。

思い立ったのは1月末で、三木市が開催したNPO関連の講習会に出席して講師の先生の話を聞いているうちに、『自分で立ち上げてみよう』と思ったのである。

先生の『日本のNPOはいまや小学校の数を抜いてコンビニに迫る勢いだが、小さいものばかりでトヨタ自動車や川崎重工のような確りしたところは少ない』と言う言葉に刺激を受けて、2月の初めには兵庫県のボランタリー活動プラザのある川崎重工の神戸本社ビルを訪ねたのである。

 

kawasaki . Let the good times roll!

は川崎重工の二輪事業部の事業展開の基本コンセプトなのである。

1970年代にアメリカのKMCでアメリカ人が創ったフレーズだから、正式な日本語訳は無いのだが、『Kawasaki に出会う人たちがハッピーになるような活動をKawasakiは転がし続けます』というようなことだと思っている。Kawasakiの作るバイクやジェットスキーは、販売店やユーザーたち、それを作るカワサキの従業員などカワサキに繋がる人たちにも勿論出会うのだが、バイクやジェットスキーは道や海辺でも乗られるので、バイクに乗らない一般の人たちとも出会うのである。

そんな一般の人たちにも迷惑を掛けないような社会と共存できる事業活動であるべきだとずっと思っていたのである。

 

そんなコンセプトをもっと広げて、ご縁があって繋がる人たちがみんな『Good Time になるような活動の仕組み』を創ろうと思ったのである。

当時既に、76才だったから自ら引っ張ることは難しいが、『仕組みの創造』なら50年間『仕組み』を創り続けてきたのでそのノウハウは十分だと思ったのである。

まず NPO The Good Times の基本コンセプトを

異種・異質・異地域をみんな繋いでいい時を過ごそう』 と決めて、このコンセプトを実現するために

● ネットの利用  (ネット自体が仕組みであり、幾ら上手に使っても無料)

● すでにあるネットの仕組みの利用  (ブログ・ツイッター・Facebookなどを横に繋ぐ)

● 共感ネットワーキング (こんなコンセプトに共感する団体会員・個人会員で構成し、その人たちの想いに実現)

などなどが出来上がる、NPO The Good Times に出会った人たちがハッピーになればいいなと思ってスタートしたのである。

 

★7年経って、いろんな評価はあるのだろうが、少なくとも小学校の数ほどあると言われる一般のNPO法人とはちょっと違った差別化された動きが出来ていると自負している。

 ●この間、行政などからの金銭的支援、補助金など一切受けていない

 ●世界で多分一つしかないと思う経常経費0円という、お金が要らない法人をネットベースで完成出来ている

 ●参加されている団体会員さんは結構ちゃんとした『活動』をされている・

 ●それを支援する『仕組み』は例えば『公式ツイッター』は55万人のフォロワーになったりしている。

       

 

★ このNPO The Good Times が一番最初に創ったのがそのホームページなのだが、そのスタートは2009年5月のことで、そのスタート時点から、ホームページを訪れる方を数えるカウンターを付けたのだが、

それが多分、今日中に『10万人』を迎えそうなのである。 

これは日曜日の午前中の数字なのだが・・今はこんな状況なのである。

     http://www.thegoodtimes.jp/

         

 

ホームページはよく創られるのだが、なかなかそこを訪れる人は少ないのが現実で、NPO The Good Times のホームページに10万人に人が訪れることになるとは思ってもみなかったのである。

このホームページそのモノにも結構動きはあるのだが、このページの右側に並んでいる団体会員さんのホームページもまた素晴らしいので、そんなページを訪れた方がつい訪れたりする相乗効果なのかも知れない。 と思ったりしているのである。

いずれにしても、日本の場合、ネットワークとは間違いなく『ヨコ展開の機能』であるはずなのに、全然その意識をお持ちでないのである。

極端に云うと『ヨコ展開のネットの世界』で日本独特の『タテ型』に篭もってしまって、ホームページに幾ら掛けたとか綺麗に出来たなどばかりに終始していて、トータルの仕組みが抜け落ちてしまっている。

 

NPO The Good Times の場合は、事務所もない、お金もない、従業員もいない、電話もない、毎日の活動もそんなにない紙の資料もないチラシなどは一切ないなどの『ナイナイ尽くし」なのだが、

7年経ってそのホームページに 10万人が訪れたということは、そこそこいい線行ってると思っていいのだろう。

 7年前はその会員さん、こんなことをしていたようだ。

  http://www.thegoodtimes.jp/date/2009/05/

そんなことが、振りかえって観れることがいいのかも知れない。

そういう意味では会員さんのブログもここに来れば見ることが出来るのである。

     http://npothegoodtimes.blogspot.jp/

 

こんなのを、お金を使わずアタマを使った『ヨコ展開の仕組み』と言うのである。

 

 

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